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2008年にワシントンDCで
障害者ケアの事業所の資金繰りが悪化して
閉鎖に追い込まれるグループホームが相次ぎ、問題になった。

ところが、調べてみたら、
トップが法外な給料を取っていることが判明した……というお粗末があった ↓

DCで障害者入所施設の事業者が相次いで撤退(2008/7/7)
障害者ケア事業所「トップが給料取り過ぎ」(2008/7/11)


今回、NY州でも
障害児・者ケア事業所トップによる
メディケイドからのぼったくりの実態が明らかに。

障害児・者のケアに今年度100億ドルを投入しているNY州で
多くのグループ・ホーム、障害児学校、デイケア、移動サービスを運営する最大の事業所、
the Young Adult Institute Networkの経営者Levys 兄弟がとっていた給料は、
それぞれ年間100万ドル以上と916,647ドル。
他の幹部2人も、それぞれ551,682ドルと578,938ドル。

ちなみに、NYの同規模のNPOのトップの平均給与は
493,000ドルだとか(それもすごいけど)。

Levys兄弟は、それ以外にも、
グループの提携事業所からも年間5万ドルに及ぶ顧問料を受け取っていたほか、
それぞれYoung Adult Institute Networkの費用で高級車を乗り回し、
兄弟の片方の娘がNY大学の大学院在学中の学費ばかりか、
在学中に住むためのマンションの購入費用まで
メディケイドにツケ回していた。

他にも幹部の子ども3人の学費が事業所にツケ回されていた。
総額は132,611ドル。

こうしたNPOの運営資金の95%はメディケイドを含む公費から出ているが、
もともとNPO事業所からメディケイドへの追加請求は審査が緩く、
損失が出たことを訴えれば支払いが受けられる。
例えばYAINが去年、1つのGH(入所者28名)について
メディケイドに追加請求したのは100万ドルで
入所者1人に1日700ドルが追加支給されたことになる。

このLevys兄弟、1970年代にはパッとしないソーシャル・ワーカーだった。

転機が訪れたのは、1972年のWillowbrook州立学校のスキャンダル。
同校はStaten島にあった収容型の障害児学校。
4000人定員のところに6000人詰め込み、その酷いネグレクトの惨状を
ジャーナリストが潜入報道で暴いて社会に大きな衝撃を与えた。

(このスキャンダルについては前に調べたことがあるので、
どこかのエントリーにあるはずなのだけど探しきれない。
英語のWikipediaはこちら)

親たちが起こした訴訟で、裁判所が州に対して、
子どもたちを地域のグループ・ホームに住まわせるように命じたことから、
NY州は資金を投入して76年から79年にかけて100以上のGHを作る。
その運営の担い手として俄かに浮上してきたのが民間のNPOだった。

Levys兄弟はこの社会的なGH急増の波に乗った、というわけ。

とはいえ、当初のYoung Adult Institute Networkの理事会には保護者が多く、
小規模にとどまって丁寧なケアを、との方針だったという。
徐々に、理事会から保護者が減らされ業界の専門家が多数を占めていくにつれ
大規模化、多角化に方針が変わっていく。

そこで政治力を駆使したロビー活動や
医療職を巻き込んで専門的ノウハウをウリにする戦略、
資金集め専門のスタッフの常設など、
経営者として手腕をふるったのがLevys兄弟だった。

大規模事業所として急成長すると同時に、
YAINは業界でも大きな影響力を持つようになり、
州の障害児施策や助成金獲得などにも
強力な発言権を握っていく。

上記以外にも、現場担当者の資格を偽るわ、
資金集めスタッフを“俄か経営陣”として申請するわ、の
YAINの不適切なメディケイド請求の実態は当局も把握しながら
これまでほとんど形式的な指導に終わってきた背景には
業界最大手の持つ強大な影響力があるものと思われ、

2009年にやっと不正請求で訴追したものの
単なる手続き上のミスとして1800万ドルで和解。

今回の報道を受けてやっと重い腰を挙げた州当局がYAINに送った手紙も、
「高級幹部の報酬について一貫性のある合理的なモデル作成」に“協力を求める”ものだとか。

NYTがこの実態を報じた後、Levys兄弟は突然に「引退」。
これまでため込んだ資金で次の事業に打って出ようとしているらしい。

が、YAINでは、
高報酬は優秀なスタッフに働き続けてもらうための手段だと説明。
保護者らの中からも、いいスタッフでいいケアが行われている、満足だとの声も。

Reaping Millions in Nonprofit Care for Disabled
NYT, August 2, 2011


いくつかのことを頭に浮かべながら長い記事を読んだ。

まず、日本でも、障害者支援に限らず介護保険でも、
小規模な事業所は経営が成り立たなくて、
大規模なところしか生き残れないようになりつつあるみたいなので、
規模は違うにしても、似たような構図になっていく懸念はあるんじゃないか、というのと、

(三好春樹さんが「こんにちはぁ、コムスンです」とは何事か、
ヘルパーは人として人と向き合うんだ、「こんにちはぁ、佐藤です」と
名を名乗れ、と怒っていたけど、あれは本当に象徴的な指摘だったと思う)

「民間にできることは民間に」と言われ、
競争原理で民間の活力を注入することがサービスの質を上げるのだと
散々言われたけれど、そこで必然的に起こってくるのは
やっぱり、こういう大手の一人勝ち状態と、
その不正の温床化、行政との馴れ合いなのでは、ということと、

それでも、こうした不正の実態があぶり出される時には
その議論が向かう先は、不正をただして子どもたちを守る方向に行くのではなく、
こういう不正があって血税が無駄にされている、けしからんから
予算をカットしようという方向に話が向かうのでは、との懸念と、

それにしても、やっぱり
米国の障害者福祉はひどい、ひどいと言われつつも
それでも日本よりはベースラインははるかに高いんだなぁ、という感想と、
(詳細は文末にリンク)

最後に、
立場の弱い者のアドボケイトを表看板に、
「弱いものを守るために」使われたり集まったりするカネによって肥え太った人が、
いつのまにか官が気をかねるほどの大きな権力を身につけていく……という構図は、
誰かの周りで起きているグローバルな現象のミニチュア版みたいだ、ということと。



【英国のベースラインについて具体的な情報を含んでいるエントリー】
レスパイト増を断れた重症児の母の嘆きの書き込みがネット世論動かす(英)(2011/1/21)
介護者の10の心得 by the Royal Princess Trust for Cares(2011/5/12)
英国の障害者らが介護サービス削減に抗議して訴訟、大規模デモ(2011/5/11)

【米国のベースラインについて具体的な情報を含んでいるエントリー】
Ashleyケース、やはり支援不足とは無関係かも(2008/12/8)
Obama大統領、在宅生活支援でスタンスを微調整?(2009/6/25)
米国IDEAが保障する重症重複障害児の教育、ベースラインはこんなに高い(2010/6/22)
2011.08.04 / Top↑
この本を読みながら、総体に
待ってました、よくぞ書いてくださいました、と
盛大な拍手を送りつつ、

著者が主として身体障害が中心症状である妻を介護している男性であるために、
やむをえないことなのではあるけれど、どうしても
配偶者を介護するケアラー、特に妻を介護する男性の立場で
書かれている限界は否めない。

私が唯一、「なんだよ、それは……」と不満を覚えたこととして、
障害児の親なら子どもの介護は苦痛ではないはずだとのステレオタイプな思い込みが、
著者の言葉から時に匂ってくること。

まぁ、確かに親や配偶者に比べれば
我が子の身体というのは、はるかに“異物”感はありませんが、
だからといって介護の負担を感じることなどないだろうと前提されるのは、飛躍が過ぎる。

同様に、親を介護している人とか
認知症の人、知的障害・精神障害のある人を介護している人とか、
夫を介護している女性の立場の読者にも、それぞれに
ちょっと食い足りない感じはあるかもしれない。

それが一番如実に表れているのがセックスに関する章。

セックスが介護者の悩みになるパターンは多様だとして、
著者はいくつかのパターンを挙げている。

例えば、男性介護者の場合、仕事をやめて家事やお世話仕事ばかりやっていると、
自分の男性性に対する自信が低下して、それがセックスに影響する。
このパターンは妻以外の介護にも当てはまるかもしれない。

次に、自分は性的には現役続行なんだけれども、
“子豚”の方がそういう身体状態ではなかったり、そういう気になれないパターン。

逆に、“子豚”の方は現役続行なんだけれども、
自分が愛した“子豚”がかつての姿でなくなったことや疲れ、その他の理由で
ケアラーの方がどうしてもそういう気になれないパターン。

一番悩ましいのは、このパターンで、
ケアラーとしては“子豚”のためを考えるのが自分の役割だと思うから
“子豚”が望めば、それに応えてあげるべきだと考えてしまうかもしれないけれども、
セックスは非常に微妙で繊細な営みなので、
いずれの側であれ、無理をしていると必ず相手にも伝わるし
ただでも介護を通じてややこしくなりがちな夫婦関係に
うまくいかなかったセックスが及ぼす精神的な影響は決して小さくない。

だから著者は、介護が必要となった生活でどちらかがセックスに抵抗を感じるなら
無理して「付き合う」ことは止めた方がいいのでは、とアドバイスする。

例えば、セックス・レスパイトというのを行政が用意してくれるとか
夫婦でやって来て「夫が奥さんの介護を引き受けるから、その間に
二人で別室にこもらない?」とささやいてくれる女友達が現れないものか……
なんて夢に見るけど、そんなことが起こった試しはない、とボヤいては
ああ、この辺りはモロ、男性介護者だなぁ……と微笑ませてくれつつ、

ケアラーの方が現役続行である場合の解決策として
例えば、風俗を利用するとか、誰かと恋愛する、恋愛抜きのセックス・フレンドを作る、などを
順次、検討していく。そして結局は、以下のようなメッセージに落ち着いていく。

ずっと昔の若い頃、セックスしたくてもできない時代ってあったよね。
それでもボクたち誰も、死ななかったよね。なら、今だって同じなんじゃないのかな。

介護生活だけでも複雑で大変なものをたくさん背負っているのに、そこに
たかだか性欲の処理のためだけに、夫婦以外とのややこしい人間関係のストレスまで
追加するのって、とんでもない冒険だと思わない? と。


私はこの章を読んで、いつか取材先で聞いた話を思い出さないでいられなかった。

若年性痴ほう症の男性を介護する妻から
「夫の性的暴力が高校生の娘に向けられそうになりました。
娘を守るために、その暴力は私が受けました」

もちろん、これはセックスの問題というよりも
「“身勝手な豚”の介護ガイド」 4のエントリーで触れた
“子豚”によるケアラーへの虐待の問題だと思う。

同じ取材先で聞いたもう1つのケース。
若年性痴ほう症にかかった女性の夫に介護能力が欠けていて、虐待が案じられたために
これでは無理だと考えた支援者が施設入所を提案した時に、夫から返ってきた言葉が
「じゃぁ、俺のこと(セックス)はどうしてくれるんだ?」

これも上のケースと同じく、セックスに留まらない虐待の問題だろうと思う。
(ただ、そういうことがあった翌日は妻の表情が和らいでもいたりするので
一概に外部の人間が「虐待」と決めつけることもできにくい微妙なものがある、とも
支援者の方は話されていました)

やはり夫婦介護におけるセックスの問題はそれだけ大きいのだと痛感するし、

この春に聞いた講演で、春日キスヨ氏が
「男性介護者の会に出てくるような夫は少なくとも妻を愛している。
妻を愛し、自覚的に介護を担おうとしている。
でも世の中には、愛しあっている夫婦だけではない。
本当に深刻な問題は、愛のない夫婦の介護生活で起きている」と
言われていたことも、つくづくと思い返された。

それだけに、この本の全体を通じて感じられ、
セックスの章に至って、ひたひたと、しみじみと感じられるのは、
著者は本当に妻を愛しているんだなぁ……ということ。

まぁ、そういう人だからこそ書ける本なわけで。

だから、この本のセックスの章には、
“子豚”をレイプするような介護者はぜんぜん想定もされていない。

それは本当にこの本の冒頭で著者が言った通りで、
自分のことを“身勝手な豚”だと感じて、そのことに苦しみ、
その苦しみゆえにこんな本を手に取ってみるようなケアラーは
もともと“身勝手な豚”になりきれるような人じゃない。

ホンモノの身勝手なブタは、
最初からこんな本を手に取ろうなどとは考えつきもしない。

だから、もちろん、この本では対処も解決もできない
もっともっと深刻な問題が介護にはいっぱい潜んではいるんだけれども、
それでも、やっぱり、

いや、それならば、なおさらに、
愛のある介護をしているからこそ自分を“身勝手な豚”だと感じて
苦しんでいるケアラーに、エールを送りたいじゃないか。

男性介護者の会に出てくるような
妻を愛していて、自覚的に介護を担おうとしている愛すべき男性たちにこそ
この本のメッセージをエールとして送りたいじゃないか。

そんな気がした。


そういう表現はこの本のどこにもないけれど、
セックスの章に並んで、おカネに関する章にも強く表れていて、
ある意味、この本全体を通じて描かれているのは、いわば「ケアラーの哲学」なのだと思う。

それは、私自身の解釈と言葉でまとめると、
「思い通りにならない人生と、思うに任せぬことの多い日々の生活の中で、
前向きな工夫をしつつ、与えられた人生を精いっぱい楽しく豊かに生きていくための哲学」。

自分の努力で変えられることは変える努力と工夫をし、社会からも可能な限りの助けを得ながら、
どうしても変えられないことは受け入れて、それなりに幸福に生きていくための哲学――。

そのための具体的なアドバイスも盛り込みつつ、全体としては、
自分の心の枠組みを組み替えて、心のあり方を整えよう、と著者は説いているんだと思う。

そうすれば、思い通りにならない人生と思われたものだって、そんなに悪いものじゃない。
案外、今の生活ならではの豊かさ、楽しさだってあるじゃないか、と。

どこか仏教の教えに通じていくものも感じるし、
「思い通りにならない人生、能力を失った生は生きるに値しない」という価値観を隠し持った
「科学とテクノの簡単解決文化」や功利主義へのデトックスにもなりそうな、

「ケアラーの哲学」は「生きることの哲学」にも、通じていくのかもしれない。


あー、でも、そこは、もちろん、
心の持ち方一つで過酷な介護生活が乗り来られる、なんて
お気楽なことを著者は説いているわけでは、ない。

男性介護者だけじゃなく、配偶者のケアラーだけでもなく、
様々な立場で様々な“子豚”を頑張っている介護しているケアラーが
自分を大切にしながら、燃え尽きないための、

日本ではまだまだ届けられることの少ない、大切なメッセージ――。

「“身勝手な豚”の介護ガイド」は、そんな本でした。
2011.07.24 / Top↑
誰もあからさまに口にしないけど、
これから誰かの介護を担わなければならないと予想あるいは覚悟している人が
たぶん一様に不安と怖れを感じている最たるものはウンコの始末の問題で、

まだ排泄は自立しているけど先は分からないという”子豚”を介護している人も、
これから排泄のケアまで担うのかぁ、ヤだなぁ……と
実は相当リアルに恐れているのでは?

いま実際にやっている人の中にも、
これだけはちょっと……と感じている人もいるかもしれない。

それはまったく無理のないことで、
ボクだって、男だからDNAが向いていないのか、はたまた
これまで自分が他人のウンコの始末をすることなんて想像の外で生きてきたからか、
妻がそういう段階に至った時には、ものすごい抵抗感があった。

でも、結論を先に言うと、
ウンコの問題は、恐れるに足りません。
みんな、安心して。ぜんぜん大丈夫だから。

介護者としての経験を積むにつれ、
ウンコには慣れます。ゴム手袋だってある。

介護者の一番の敵は、実は「時間」なんだけど、
(例えば、“子豚”のペースで進む時間はのろのろ・とろとろでストレスになる、
昼夜の区別がつきにくくて、一日一日が平たく際限ない時間になってしまう、
誰にも助けを求められない時間に限ってトラブルは発生する、
介護はいつまで続くか先が見えない、この「果てしなさ」が一番キツイ)

こと、ウンコに限って言うと、「時間」こそケアラーの最大の味方。

人間、日常の一部となれば、たいていのことには慣れることが出来るから不思議。
介護生活が長くなるにつれ、ウンコは日常の一部でしかなくなる。ぜ~んぜん大丈夫。

ただ、ウンコまみれになった“子豚”を発見してパニックする夜だけは、本当に辛い。

これは、助けを呼べない時間帯に大きな“子豚”に転倒された時と並ぶ、
ケアラーにとっての2大難事態の1。

ウンコまみれの“子豚”と、ウンコまみれのベッドや床の、
いったいどっちから先に手をつけたらいいのか……。

それなのに“子豚”はちっとも協力してくれないから、
“子豚”を先にきれいにしようとすればベッドや床の惨状が広がるし、
ベッドや床から先に片付けようとしても“子豚”が勝手に動いて惨状を広げてくれる。

介護者が夜中に“子豚”をドヤしつける悪行で名高いのには、
たいていは、こういうわけがある。

で、この種の惨劇を避けるためのアドバイスをいくつか。

まず、“子豚”の主治医に相談して、
“子豚”のウンコ関連の身体状態を正しく把握しましょう。
ウンコのリズムを作って惨状回避できる方法があればアドバイスを受けましょう。

次に、ボク自身がやっていることとしては、
夜中に目覚まし時計をセットして2時間おきに妻をトイレに座らせています。

一緒に寝ていて、気が付いたら自分の身体にまでべっとり……なんて事態は
夫婦どちらにとっても悲惨なので、何度か体験した後で、その悲惨に比べれば
2時間おきに起きる面倒と苦痛の方が耐えやすいと判断しました。

ウンコの他にも、介護生活には
食事介助の際の食べこぼしの惨状や、
入浴拒否する“子豚”の身体をどうやって拭くかとか身体が匂うとか、
洗濯や掃除なんかでもキタナイものは沢山あるけど、ウンコほどの問題じゃないし、
実際、そういうのは工夫次第でなんとかなることばかり。

あ、その“工夫”だけど、
あんまり「こうすべき」だとか「これが正しい」にこだわらない方がいいよ。

“子豚”と暮らしているのはあなたなんだから、
あなたたちの暮らしに一番合ったやり方を見つけられるのも、あなたに決まってる。

一つだけアドバイス。

昨夜ほとんど眠れなかった、だるい、という時に、
玄関の掃除が出来ていないことが気になったら
迷わず、玄関の掃除を捨てて、寝るように――。

ケアラーにとっては、30分ずつ、つまみ食いのように眠りを補うことも大事。
また、そういう技術も身についてくるから不思議。


「大事なのは、心をオープンに、いろんなことをやってみること。」
それから、あまり気にしないことだね。

本当にキタナイのはベッドやトイレやお風呂にあるものじゃない。
本当にキタナクて厄介なことが生じてくるのは
あなたの心や“子豚”の心の中なのだから」

自分がウンコで失敗したことを理解できる“子豚”は
あれこれの感情に苦しんでしまうだろうし、

あなたが時に「階段から突き落としてやりたい」という気持ちになっていることを
敏感に感じ取れば、“子豚”だって辛い。

あなたの心にあるものが、介助の手つきをつい乱暴にしてしまったり、
つい隠微なイジワルで「おしおき」して「思い知らせて」みたりするように、
“子豚”の心にあるものが、ウンコの問題を大きくしている……という可能性だって……?

2人の心にあるものがそういうふうに問題になってきた時は
2人で孤立してしまうのが一番良くない。

もちろん抵抗感はあると思うけど、
ここはそれを振り切って、誰かに相談してみよう。
2011.07.24 / Top↑
ものすごく感謝されてもいいだろ……と思うほどのことを
こっちとしては引き受けているつもりなのに、“
子豚”はそれほど感謝してくれるわけじゃない。

それどころか、平気でワガママを言う。
言い出したらガンとして聞かないし。

着替えを手伝おうとすれば、
「5年前のクリスマスに○○ちゃんがくれたブラウスと
それに合うスカートがいい」なんて、涼しい顔で言ってのけてくださる。

クリスマスだろうとハロウィーンだろうと還暦祝いだろうと、
ボクは○○ちゃんがどのブラウスをくれたかなんて、知らんっ!

もし知ってたとしても、
そのブラウスに、どのスカートが合うかなんて、分かるかっ!

……けど、
面と向かってそうも言えない苦しいやり取りの最中に、
思わずブチ切れる寸前で部屋を飛び出し、
別室で壁に頭をゴンゴンぶつけながら
頭を冷やしたことなんか、もう数えきれない。

着るものについては、こんなことを繰り返しているうちに
ボクの方が妻の衣類に関する情報を頭に入れる方が結局はストレスが小さいと判断したけれど、

ワケの分からないことを何度も何度も何度も何度も訊かれ続けて
アタマが爆発しそうになったりとか、きっとボクだけじゃないよね。

殺意に近いものがこみ上げてくる瞬間って、
たぶん介護者ならみんな経験しているんじゃないかな。

ケアラーは
時にそういう気持ちになるのも無理がないような仕事を引き受けて
時にそういう気持ちになるのも無理ない生活を送っているんだと思う。
基本的に、体も心も疲れているのを押して、やっている介護なんだし。

自分は頭がおかしくなってきたんじゃないかって、不安に感じること、ある?

統計的に言うと、英国の半数以上のケアラーは
ウツ病など精神的な問題を抱えている。

だから、もしもあなたが「自分は頭がちょっと……?」と思うなら
それは、あなたは当たり前のケアラーだということで、
つまりケアラーとしては至って正常だということになる。

自分は虐待だけはしていない、って思う?

虐待って、殴ったり蹴ったりすることだけじゃないんだよ。

着替えや移動を手伝う手つきが、つい乱暴になってしまうとか、
つい相手に自分の優位を思い知らせるような言葉を吐いてしまうとか、
“子豚”が必要なものを、わざと持って行ってやらない小さなイジワルとか、

圧倒的な力の差がある関係性の中で、
自分の方が強い側で相手をいくらでもターゲットにできるってことになると
どうしても、そういうことが起こってしまう。

それ、神ならぬ人間の弱さだよね。

言いたいことが正直に言えない状況や
気持ちをうまく言葉にできないもどかしさなんかも、
つい手が出てしまう時の定番の起爆剤だ。

だから、そういうことをちゃんと意識していることは、まず大きな違いを生む。

階段から突き落としてしまいたい、という気持ちが繰り返されたり、
上で書いたような、ちょっとしたイジワルをし始めた自分に気づいたら、
あ、自分、疲れてきたな、燃え尽きかけているのかな、と考えてみて。

そういう時、まず、やってみてほしいのは、
自分が一番ストレスを感じている仕事は何かを考えて、その仕事で、ちょっとだけ手を抜いてみること。

そして、手を抜いた結果どうなるか、観察してみて。
ね。案外に、大した影響はないはずだよ。だいたい、そういうものなんだ。

そんなふうに、抜けるところの手を抜いていく。

そして前にも言ったように、レスパイトはゼッタイに必要条件。
ブレイク(休息)するか、あなたがブレイクする(壊れる)か。それを忘れないで。

そうそう、“子豚”がレスパイトに行っている間に
ゼッタイにしてはいけないことを、挙げておこう。

家の掃除――。“子豚”の身の回りの物の片づけ――。

例えば、ブッ通しで9時間、10時間寝続ける……なんてのが大正解。
“子豚”のための○○とか、介護に役立つ○○みたいなヤボ用は、
この際、やらないでおこう。

大事なのは、あなた自身をいたわること。甘やかすこと。
レスパイトはそのための時間なのだから、
介護に関係したことからは、ちゃんと離れようね。

最初の頃は、レスパイトの後で“子豚”が調子を崩して余計に手がかかったり、
こんなんなら、もうやらない方がマシと考えるかもしれない。
でも、繰り返しているうちに、あなたも子豚もレスパイトのスタッフも慣れる。馴染む。
だから大丈夫。なにしろ、ここは Break or you breakだ。

あと、完璧主義は捨ててしまおう。
どうせ完璧にできる介護なんて、ありえない。

だから、ケアラーたるもの、時には、後で悔やまないといけないようなことも
つい、してしまうし、言ってしまう。それは、どうしたって、してしまうよ。

大事なのは「時には」で止まって、そういうのを習慣化させないこと。

時に階段から突き落としてしまいたい気持ちになることと、
それが頭から離れなくなることとは違う。

燃え尽きて後者の状態にならないために、どうしたらいいかを
ケアラーの立場で一緒に考えてみようというのがこの本の主旨だから、
セックスのこととかお金のこととか、人に話せないけど大事な問題や
心の持ち方とか、自分の身体のケアとか、いろいろ書いてきたけど、

もしも階段から突き落としたい気持ちが常に頭から離れなくなってしまったら、
それは、ついに燃え尽きた症状。

そしたら、ちょっとの間、介護から離れてみることも、
状況によっては、介護を全面的に諦めることだって、選択肢なのかもしれない。

それができる方策が簡単に見つかるわけじゃないかもしれないけど、
前にも言ったように諦めずに求めて続けて。必要なことは必要なんだから。

もしかしたら、あなたの方が“子豚”の虐待を受けていることだって、ある。

どっちからどっちに向かうにせよ、
ちょっとした暴力や虐待は放っておくとゼッタイに悪化する。そういう性格のものなんだ。

ここでもコワいのは二人だけで孤立してしまうこと。
抵抗感を何とか乗り越えて、とにかく誰かに相談して。
2011.07.24 / Top↑
直前の「“身勝手な豚”の介護ガイド」 3でまとめた辺りで、
私が特に個人的に思わずニンマリしたのは

個人的な印象に過ぎないかも、と断りながら、
ろくに役に立ってもくれないのに冷たくてエラソーで無神経なことばかり言う
「お役所」や「専門家」の中で、なぜかOT(作業療法士)だけはフレンドリーで
実際に役立つノウハウを繰り出してくれる人たちのような気がする、と。

これ、かつて、ほんのわずかだけど仕事でOTさんの世界を覗き見した、
また娘を通じてもOTを含め一通りの「専門家」と付き合って来た私の
個人的な印象とも重なる。

この印象が重なったのは、ちょっと面白かった。
これについては興味があるので、これからも考えてみたい。


それから、諦めずに言い続けること、というアドバイスは、私も
後輩の「障害児の親」になったばかりの人たちに必ず伝えたいことの一つ。

どこに行って誰に聞いたらいいか分からないことって、
最初の内は本当に沢山ある。途方に暮れる。

そんな時は、誰でもいい。
出会う人、出会う人、手当たりしだいに、それをしゃべってみるといいと思う。

「こんなことに困っている」「こんなものはないだろうか」
何にもならなくてもいいから、解決するまで、とにかく
誰彼となく、そのことを言い続けてみる。

いきなり、答えを持っている人に会えることは少ないけど(でも、ないわけではない)、
もしかしたら知っているかもしれない人を知っている人くらいには、そのうちに当たる。
ここへ行ってみたら? この人に聞いてみたら? という情報をたどっているうちに
ふいに解決に至ること、って、結構、ほんと、あったりする。

そんなふうに、あちこちしていると、それ自体が
世の中にどういう機関があって、そこにどういう人がいて……と、
自分の中の専門家情報を増強して、情報マップが充実していくし、
なにより顔見知りの専門家が増えていく。

そのうちに、どういうことは誰のところへ行けばいいかが
経験則からだんだんと掴めてくる。

ここで経験則というのが結構、大事なのは、
「この人はその分野の専門家じゃないけど、でも専門家よりもアテになる」てことは結構あるし、
専門家との付き合いで大事なことの一つに、たぶん、タイトルに惑わされないこと、というのも?
「ものすごくエライということになっている」タイトルの保持者が必ずしも実力者だとは限らない。

そういえば Marriottさんも、
断定的にものを言う専門家は、案外アテにならないことが多いと心得よ……と書いていたな。


私は「障害児の親」を含めた介護者がなるべく早く身につけたい一番大事なノウハウは
直接的な介護技術や介護のノウハウもだけれど、
なによりも「専門家をうまく使いこなす」術であり、
自分が頼ることのできる専門家という「手持ちのコマ」を
いかに多様に増やしていくかということじゃないかと思っている。

よく、専門家の中には
専門家並みの高度な知識を身につけている親を高く評価する人があるけど、
あれは、ちょっと違うんじゃないかなぁ。

(我が子の養育・療育に必要な知識まで身につける必要はないと言っているわけではありません)

専門家が持っている高度な専門知識というものは、私に言わせると、
広く大きな部屋の、ある特定のスポットを照らす懐中電灯なんだと思う。

専門家が専門家たるゆえんは、狭い領域のことを深く知っていること。
スポットであって、狭いことにこそ、意味がある。

一方、親と子が日々を暮らしている生活という「部屋」は、
専門分野の懐中電灯1本や2本でカバーできるはずもないほど大きく広い。

だからこそ、いくつもの専門領域に渡って何人もの専門家が関わってくれないといけないんだけど、
でも、それぞれの専門家が持っているのは1本の懐中電灯でしかないし、
何人集まったとしても、部屋の全体を照らし尽くせるわけでもない。

人が暮らしている「部屋」には、ちょっとやそっとでは明りに照らし出せない
入り組んだ隅っこや、隙間や、闇の部分だって、あるしね。

だから、必要な時に必要な懐中電灯で必要なところを照らしてもらえるよう、
多様な懐中電灯という手持ちのコマをなるべく増やしておくことが
障害児の親としては大事かな、と思うわけで、

そのためには、親がものすごい労力と時間を割いて
自分が何本かの懐中電灯になってしまおうとするよりも、
親こそが「うちの子」とか「我が家の生活」という部屋全体を知り尽くしている
しっかりした蛍光灯であることの方が大事なんじゃないのかな。

ま、言ってみれば「ウチの子」の専門家は親しかいない、ってことなんだけど。

これについては、もうちょっと頭の中でこなれてから
もう一度、ちゃんと整理して書いてみたいと思うけど。


あと、“身勝手な豚”さんも終わりのあたりで力説しているけど、
情報がほしい時、まっさきに聞いてみるべき相手は、実は専門家よりも、
自分と同じような“子豚”を介護している人たち。

ケアラーの最大の味方は、同じような人を介護しているケアラー。

これは、まったく私も同感。
ただ、私は情報源と支えてくれる人については全く同感でケアラーだけど、
現実に支援の方策を持っているのは、やはり専門家だと思う。

もちろん、どの専門家が役に立ってくれて、
どの専門家はただのトウヘンボクか、
どの専門家にはどんなクセや要注意点があるか、
といった情報を教えてもらえるのは、
やっぱり同じケアラー仲間。

それは間違いない。


             ――――――

しつこくて申し訳ありませんが、
数日中に、あと2つか3つ続きます。

ウンコと、殺意と、気が向いたらセックスと。
2011.07.24 / Top↑