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昨年7月に英国政府が
公正で持続可能な成人介護制度の財政システムを検討すべく立ち上げた独立の委員会
Commission on Funding of Care and Support(とりあえず「介護と支援の財政委員会」?)から
昨日7月4日、詳細なデータ分析を含んだ報告書が発表されました。

報告書で特に注目される提言内容は

・現在は個々人が支払う介護費用は
状況によってはどこまでもかさんでいく可能性があるが
個人が一生の内に介護に費やす費用には上限を設けて、
それ以上は国が全額を支援するべきである。

上限の金額は25000ポンドから50000ポンドの間が相当で、
委員会としては35000ポンドに設定するのが最も適切と考える。

・資産審査による介護費用全額支給資格の上限額を
現在の23.250ポンドから10万ポンドに引き上げるべきである。

・一貫性を保障するために受給資格基準を全国的に統一し、
どこでも使えるアセスメントを導入すること。

・成人した時点でケアと支援のニーズのある者については全員に
資産審査なしに即座に国から無料支援を受ける資格を認めること。

委員会の試算では、個人支払額35000ドルの上限を前提に
この勧告の実行に国が要する費用は17億ポンド。

Commission Report Published
Commission on Funding of Care and Support, July 4, 2011


委員長が経済学者のAndrew Dilnot氏であることから、通称 Dilnot委員会。Dilnot報告。

そのDilnot氏の発言には、
政府の社会保障カットが続いているだけに、ちょっと胸を打たれます。

成人の介護資金の問題はあまりにも長く無視され続けてきた。
高齢者の寿命が延びたことも障害のある若者が以前より自立した生活を送っていることも
どちらも慶賀すべき事実だというのに、

我々は「歳をとることの負担(burden)」を云々しては
人々は不安を抱えケア費用を賄えるのかと心配しながら暮らしている。

現在の制度は紛らわしく、不公平で制度維持性にも欠ける。
国民は非常に高額になる介護費用のリスクに晒されて
家など全財産を失いかねない。

この問題は放置されると悪化するのみで、
そうすれば社会の最も弱い立場の者が苦しむこととなる。

この委員会が提言する制度では
現在国から無料支援を受けている人は全員がそのまま受け続けることができ、
国民全員が今よりも豊かに暮らせることになる。
一生の内に支払う介護費用に上限があれば、
費用をどのように用意するか予め予定もできるし、
資産の多くが保護されれば全財産を失う恐れもなくなる。




上記リンクの委員会のページに、
報告書 Fairer Care Funding 本体などへのリンクがあります。

また、この委員会報告を受け、Guardianのデータ・ブログが
詳細に委員会のデータを解説・整理・検証しています ↓

Elderly care:the key data from the Dilnot report
The Guardian, July 4, 2011

上記の記事の解説によると、Dilnot報告の試算は
以下の予測に基づいているとのこと。

今後20年間で
英国の65歳以上人口は50%増加。
90歳以上人口は3倍近くに膨らむ。
知的障害のある就労年齢の成人人口は30%増加。

2009-2010年の地方自治体の総予算額に占める
社会ケア費用の割合は31%と高く、教育と警察の予算をしのぐ。
2010-2011年に提言が完全に実行されれば
その割合は35%に増加し、追加支出は地方自治体を経由することになるが
提言では支出は増え、依然として自治体経由ではあるものの
資金は中央政府から出る。

現行制度では
試算が23.250ポンド以上ある人が入所介護を要する場合には
資産審査によって、まったく支援が受けられない状態に等しいが
65歳以上で持ち家のある人の住宅資産の中間値は16万ポンドなので
家を所有している人が受給資格を得るためには
ほとんどの人が家を手放さなければならないことになる。

つまり現行制度では中間層が最も厳しい状況に置かれているので
委員会勧告の上限設定と資産審査基準の見直しによって
現行制度よりも公平な制度となる、と、このブログは分析しています。

また、以下のGuardianの昨日の記事によると、委員会の提言の中には、
いわば自治体が貸しつける“リバース・モ―ゲッジ”が含まれている模様。

持家のある人が入所施設に入る場合に
その家の資産価値に対して有利なレートで自治体がローンを組ませ、
死亡時に家を売って償還するという仕組み。

55歳から64歳の英国人は、通常、総額20万ポンドの資産を有しており、
それら資産から介護費用をねん出する方策として提言されたもの。

3日には26のチャリティが連名で委員会提言の改革を実行するよう求めた他、
労働党の党首Ed Miliband氏もこれまでの労働党の介護方針はさておき、
Dilnot提言について与党と開襟して議論しようと呼びかけているが、

Guardianの取材やBBCのインタビューでの財務相も保健相も、
イマイチ反応が歯切れが悪いらしい。

Councils could offer loans to homeowners in Dilnot report proposal
The Guardian, July 4, 2011


それから、こちらの記事はざっと最初のあたりを読んだだけですが、
委員の一人 Jo Williams (Dameという敬称がついているのでナイト爵をお持ちの女性)が

長い間、みんなの苦しみを放置してきたんだから、
上限35000ポンドも含め、政府が委員会提言の改革をやらなかったら
それはもう“失望”なんて言葉じゃ表現できないわ。
“不快極まりない”わね。

Dilnot commission warns government not to kill off care funding proposals
The Guardian, July 4, 2011


さてさて、このところ社会保障費カット・カットさらにカット……と
飛ばしている英国の連立政権、この報告書をどう受け止めるものでしょうか?


……と、ここまで朝の内に書いて寝かせていた間に続報があり、

費用の大きさに、政府は報告をもろ手を挙げて歓迎はせず、
「これだけのコストをかけるなら、さらなる意見募集が必要だ」とか
この報告書はあくまでも議論のたたき台だ、みたいなことを、
うだらうだらとゴネているようです。

Government questions Andrew Dilnot’s £1.7bn long-term care plan
The Guardian, July 4, 2011


まぁ、予想通りの反応というか……。
2011.07.08 / Top↑
ケアラー連盟については、
これまで以下のエントリーでとりあげてきました ↓

介護者の権利を守るための「ケアラーズ連盟」、6月7日に発足へ(2010/5/18)(その後、名称変更)
「ケアラー連盟結成宣言」(2010/7/6)
日本のケアラー実態調査(2011/6/14)


このほどケアラー連盟は設立1周年を迎え、
6月28日、記念フォーラムが開催されました。

詳細はこちら

私自身も最後に15分ばかり、
ケアラーの立場から発言の機会をいただきました。

このブログで書いてきたことのごく一部を繰り返しているに過ぎませんが、
その内容を以下に。

私たち夫婦には、もうすぐ24歳になる一人娘があります。名前を海と言い、重症心身障害があります。24年前に娘が生まれた時、私は地元の小さな短大の専任講師をしていました。英語の先生が天職だと思って、この仕事をずっと続けて生きていくものだと考えていました。私たち夫婦は中学高校6年間ずっと同級生だった同級生夫婦なのものですから、結婚してからも女役割も男役割もなく暮らしていました。だから子どもが生まれても、保育所を利用し母の力もちょっと借りれば、2人で子育てをしながらそれぞれ働いていけるものとばかり思っていました。

ところが出産時のアクシデントで娘が障害を負うこととなると、そんな目論見は一瞬でふっとんでしまいます。障害のない子どもを育てながら働くための支援は当時でも整備されていましたが、子どもに障害があるということになると、ありとあらゆることが障害児の母親は働いていないものという前提で成り立っていました。とりあえず毎月の小児科受診。2カ月ごとの整形外科受診。2週間に1度のリハビリ、2カ月に1度の言語訓練。これがすべて平日の昼間です。1歳の時に参加した母子入園は2カ月の合宿生活でした。2歳を前に知的障害児の通園施設に通うようになりましたが、ここも午前10時から午後3時まで。それでも娘の施設は母子分離でしたが、当時は通園といっても母子通園が当たり前の時代でした。

勤務先が大学なので私の方は多少は時間が自由になる面もあって、何とか綱渡りの生活をしていましたが、なにしろ娘が言語道断な虚弱さで、3日と続けて元気だということがないんです。何か助けてもらえる方法はないかと市役所の福祉課に電話で相談してみたことがありました。ざっと事情を説明すると、「その子どもさんのお母さんはどうされているんですか?」「私が母親ですけど」「子どもに障害があったら、みんなお母さんが面倒をみておられますよ」

ものすごい勇気を振り絞ってSOSを出したのに、なんのことはない、叱られて終わってしまった、という。でも、このパターンは実は介護を我が身の体験として知っておられる方には案外お馴染みの体験ではないでしょうか。

行政の方に限らず、世の中には、なぜか励ますっちゃぁ叱ることだとカン違いしている人が多いので、障害のある子どもの親になった途端に、私はどこへ行って誰に会っても頻繁に叱られるようになりました。「お母さんが弱音を吐いてどうするの」「お母さんが頑張らないとダメよ」「お母さんが頑張ってこの子を歩かせるのよ」

もう1つ、当時の私に精神的にきつかったのは、娘はしょっちゅう入院していたのですが、そうすると私は病院に泊まり込んでそこから職場に通うわけです。朝、職場に行くと、何かと融通してもらっていたりもするので、会う人会う人に頭を下げ、ご迷惑をおかけします、申し訳ありません、と謝っている。仕事から病院に帰ると、今度は母に謝り、娘に謝り、医師や看護師に謝り、一日中誰かれに頭を下げ、謝っているんです。オマエは子どもの責任者でありながら、その責を全うできていないではないかと、いつも誰かに問われているような、そして、それに対して謝り続けているみたいな、そんな気分でした。疲れているので、私の方も高い熱を出していたりするのですけど、私の体調を気にかけてくれる人はどこにもいなくなってしまって。私を心配してくれる人や、私をいたわってくれる人は、もうどこにもいなくなってしまった……みたいな。それはまるで、私は「娘の療育担当者」だとか「介護者」という「役割」とか「機能」そのものになってしまって、もう一人の人ではなくなってしまったみたいな、うらさびしさでした。

結局、働いていられなくなって子どもが2歳の時に離職したのですが、なぜ?という思いを、それからずっと抱えてきました。なぜ私は天職だと思い決めていた仕事をやめなければならなかったのだろう? それまでは男とも女とも意識せずに暮らしてきたのに、子どもに障害があるということになったら、なぜ「母親だから」と言われてしまうのだろう? なぜ子どもに障害があるというだけで、母親は自分の人生を生きることを許されないのだろう?

こうした思いをこういう言葉で当時の私がちゃんと意識していたかというと、もちろんそういうわけではなくて、これは今だから言えることだろうと思います。ものを考える余裕などほとんどない過酷な介護のさなかでは、むしろ世間さまからの叱咤をどこかで真に受け、自分の中に内在化させて「母親なんだから私が頑張らなくちゃ」とひたすら自分を追い詰めていたような気がします。

肉体的にも精神的にも限界を超えた生活が続くと、もうこれ以上耐えられないッ、と気持ちが切迫する時がありました。毎晩すさまじい号泣を続ける娘を夫婦で交代で抱きあやしながら、それが何時間も何日も続くと、ふと窓から放り投げてしまいたい衝動にかられることもありました。でも、そういう危うい一瞬は過ぎていけば、今度は強烈な罪悪感をつれてきます。私はなんてひどい親なんだろう、母親のくせに、と自分を責めると、本当はもう逃げだしたいと思っていたり、今にも「助けて」と叫びだしそうな声を自分で封じ込めて、「いや、でも私は母親なんだから」とさらに頑張るしかないところへと自分を追い詰めていきます。時代は変わり、サービスや支援も増えてきましたが、負担の大きな子育てや介護をしているケアラーの中には、今もそんな思いを繰り返しておられる方がおられるのではないでしょうか。

2008年の秋に、福岡で繊維筋痛症を患う母親が発達障害のある小学生の息子を殺す事件がありました。あの時、ネットには母親に対する非難の言葉がわっと沸いて出たのですが、その中に私は忘れられないものがあります。「いやしくも母親なら、我が子の介護くらい、血反吐を吐いてでもやり遂げてみろ」。我が身の直接体験として介護を知らない多くの人は、人は心に思うことは全て行動で形にすることができるものだと、とても幸福な錯覚をしておられます。何日眠れない日が続こうが、自分が病気で血反吐を吐くほどの状態になっていようが、愛さえあれば明るく笑顔で介護し続けることができるはずだ、と。まるで、不可能を可能にすることだけが介護者の愛の証しであるかのように言われたりもします。

またあの事件の際、一方の支援の専門家からも母親への批判の声がありました。「支援が必要なら自分から声を上げ、行動を起こさなければならない」。でも、そんなダブル・スタンダードこそが、ケアラーから助けを求める声を奪っているんではないか、と私は思うんです。「もう耐えられない」という思いや「助けて」という声を自分で封じ込めて背負いこみ、頑張ることが出来ている間は、世間はそこに美しい母性愛や家族愛を見て手を叩き称賛し、その称賛で悲鳴を上げそうになる口にさるぐつわをかませます。でも、そうして抱え込んだ挙句に、万が一にも虐待や殺害に至ってしまった時には、今度は一転、なぜ助けを求めなかったのかと、ケアラーは介護を抱えて込んだことを責められるのです。社会がこのようにダブル・スタンダードを使い分けることによって介護者は二重に縛られ、ダブル・バインドの状態に置かれています。

そのダブル・バインドを解くためには、今日もお話に出ている「アウトリーチ型の支援」が大事ではないかと思います。私自身はそれを「支援する側から迎えに行く支援」という言葉で呼びたいのですが、ダブル・バインドに縛られて身動きできなくなっている人に向かって「助けが必要なら自己責任で行動しろ」と言って待っているのではなく、こちらから迎えに行ってダブル・バインドを解いてあげることも時に必要ではないでしょうか。

英国では毎年6月にケアラーズ・ウイークという介護者支援の啓発週間が行われており、今年も13日から19日に行われました。インターネットで関連記事をあれこれ読んでいたら、とても面白い表現と出会いました。「隠れたケアラーを見つけ出す」「ケアラーの本当の顔を見つけ出す」。こういうことが「アウトリーチ型の支援」「支援する側から迎えに行く支援」かな、と思います。

ケアラーだって生身の人間です。どんな深い愛情を持ってしても、どんなに壮絶な自己犠牲や努力を持ってしても、生身の人間に出来ることには限りがある。それが誰にとっても介護というものの現実なのだということを認め、受け入れることから、介護を語り始めたい、と思います。この度のケアラー連盟の実態調査が、その現実を誰の目にも見える形にしてくださいました。この現実から目をそらさず、認めることから介護を語り始めたいと思うのです。ケアラーが育児や介護の機能としてではなく、一人の人として認められ、尊重され、介護をしながらもケアラー自身の生活と人生を諦めることなく生きていけるように、ケアラーその人への支援がほしい、と思います。

障害を負っても、歳をとっても、その人自身も介護者も両方が、それぞれに自分の人生を自分らしく生き続けることができる社会を、と願っています。




フォーラムの前に他のパネラーの方々と興味深いお話しをあれこれさせていただいたり、
多くの人が集まってくださった会場でお話しさせていただいていると、
娘が小さかったころの、あのやり場のない思いの数々が改めて振り返られました。

1998年に「私は私らしい障害者の親でいい」という手記を出版した時、私はその中で
私たち障害のある子どもの母親は「こんなにもしんどい。でもこんなにもかわいい」という順番でしか
ものを言うことを許されていないけれども、そろそろ逆の順番で
「こんなにもかわいい。でも、こんなにもしんどい」と
発言し始めるべきなのではないか、その順番でものを言ったからといって
それは愛情がないことと同じではないはずだ、という意味のことを書きました。

今、まさにその順番で、私は発言する機会をいただいているのだ……と感じ
あれから長い時が経ったこと、世の中を着実に変えてきてくださった方々があったことを思って、
お話しさせていただきながら、心から深い感慨を覚えていました。

多くの方々と出会い、思いを共有しながら語り合える体験をいただき
とても幸福な数時間でした。

関係者の皆さま、ご来場くださった皆様、声をかけてくださった方々、
本当にありがとうございました。

私にできることは、ごくごく小さいけれど、
やっぱり自分なりの思いを言葉にし続けていこうと
大きな励みをいただいて帰ってきました。


これまで介護者としての思いや介護者支援について書いてきたエントリーは
「子育て・介護・医療」の書庫に多数あります。
2011.07.01 / Top↑
去年のケアラー連盟の創設については
以下の2つのエントリーで紹介してきました。

介護者の権利を守るための「ケアラーズ連盟」、6月7日に発足へ(2010/5/18)(その後、名称変更)
「ケアラー連盟結成宣言」(2010/7/6)

そのケアラー連盟が、NPO法人介護者サポートネットワークセンター・アラジンと共同で
厚労省老人健康推進等事業として、都市部、都市近郊、農村部の全国5地域を対象に行った
「ケアラー(家族など無償の介護者)を支えるための実態調査」の結果がまとめられました。

「ケアラーを支えるために
 家族(世帯)を中心とした多様な介護者の実態と必要な支援に関する調査研究事業報告書」

調査方法は、2万世帯を対象とした質問紙調査と、200人のケアラーを対象としたインタビュー調査。

この調査におけるケアラーの定義は
「介護、看病、療育、世話、心や身体に不調のある人への気遣いなど
ケアの必要な家族や近親者・友人・知人などを無償でケアする人」とされ、
こうした広範囲な定義によるケアラーの実態調査は日本で初めてとのこと。

いくつか、結果の中からデータを拾ってみると、

・ケアラーの3分の2が女性。ただし年齢が上がるにつれ男性も増える。
・ケアラーの13人に1人は育児と介護の両方を担っている。
・12人に1人は20年以上ケアをしている。
・4~5人に1人は睡眠が中断されている。
・9人に1人は自由時間が1時間未満。
・8人に1人は協力してくれる人が誰もいない。
・身体の不調を感じている人は2人に1人。そのうち20人に1人は受診したくてもしていない。
・こころの不調を感じている人は4人に1人以上。そのうち20人強に一人は受診したくても出来ていない。
・7人に1人がかなりの負担、12人に1人は非常に大きな負担と感じている。
・5人に1人が孤立感を感じている。



結果のポイントとしては、

(1) 地域には様々な年代やケアを担うケアラーが高い割合で存在していること。
(2) ケアラーの精神的拘束感が強く、心身とも健康管理ができにくいこと。
(3) 仕事や社会活動の機会が減り、経済的負担も大きいこと。
(4) ケアラーの望む支援は、
   ① ケアラーの緊急時などにも柔軟に対応できる
    ケアをしている相手への十分なサービス。
   ② ケアラー自身への経済的支援策
   ③ 行政や専門職の理解
   ④ ケアと仕事の両立
   ⑤ ケアラーへの直接的なサービスなど。

この結果を受けてまとめられた提言を要約すると、

① 地域に、きめ細かくケアラーを支援するため
 10万人に1か所程度、地域のすべての住民に開かれ24時間対応の
 「包括的地域生活支援センター(仮称)」を

 また、3万人に1か所程度、ケアラー支援の拠点として
 「ケアラー支援センター」を作る。

② ケアを必要としている人への包括的で総合的な
 アウトリーチ型の地域生活支援サービス体制を構築する。

③ ケアラーとケアが必要な人が、ともに尊厳や健康を守り、社会生活を送れるようにする。
 ヤング・ケアラーの支援のためには学校と連携する。

④ 各種調査や施策によってケアラー支援体制を整備構築し、
 ケアラ―支援推進法(仮称)など、国と自治体の取り組みを進める。

⑤ 施策の立案、実施、評価のすべての場面にケアラーの参加を保障する。



私が個人的に最も印象的だったのは、
報告書で何度も繰り返されている「アウトリーチ型」という言葉。

これは私が当ブログの中で「支援する側から迎えに行く支援」と呼んできた考え方とも重なり、
とても共感しました。

「支援が必要なら自分から声を上げて行動を起こせ」と自己責任を問う声もありますが、
美意識で介護を語る世間のダブルスタンダードに縛られている介護者の多くは
介護を苦しいと感じれば感じるほどに自分を責め、
さらに頑張り続けるしかないところへと自分を追い詰めてしまいます ↓

介護を巡るダブルスタンダード・美意識(2008/10/27)

介護者だって生身の人間なのだから
時にギブアップしたくなるのは誰にでもある自然なことなのだよ、
というメッセージが社会から送られ、

頑張りすぎて限界が来そうな時には
「小さなギブ・アップ」を許容する懐の深い社会と、
それを可能にするきめ細かいサービスが必要なのではないかと思うし、

本当は限界が来ているのに、既に抱え込んでしまって
支援を利用する最初の第一歩が踏み出せないケアラーを
「サービスが必要なら自己責任で声を上げろ」と待っているのではなく、
支援する側が出掛けて行ったり、調査を通して発見し、
支援する側から迎えに行って最初の一歩を踏み出すべく
背中を押してあげることも時には必要なんじゃないだろうか。

つまり、それがアウトリーチ型ということではないか、と思うのだけど。


【関連エントリー】
上手に「小さなギブアップ」ができる支援 1(2008/10/1)
上手に「小さなギブアップ」ができる支援 2(2008/10/1)

You are only human: 介護者だって生身の人間なのだから(2008/10/30)
介護者も自分を大切にしましょう(2008/10/31)
自分の気持ちを理解して受け入れる(介護者のために)(2008/10/31)
自己主張をしましょう(介護者のために)(2008/11/1)

障害のある子の子育ては潜在的な家族の問題を顕在化させる(2008/10/20)
障害のある子どもの子育て、介護一般、支援について、これまで書いてきたこと(2010/3/15)
2011.06.14 / Top↑
何度か補遺でも拾っているけど、
OECDから先日、介護に関する報告書が出された。

予想に反して「高齢者への介護の提供」度で第3位だったことを寿ぐ
ノルウェイの英語ニュースがあり、短いものでもあり、興味もあるので、

一応メモとして、内容を以下に。


ノルウェイは高齢者介護にGDPの3.5%を使っており、
スウェーデンとオランダに次いで3位。

GDPの2.2%が介護費用に充てられる予算編成と
介護関連施策とで高齢者介護制度が維持されている。

高齢者の3.9%が介護サービスを利用しており、
その4分の3は在宅ケアを受け、残り4分の1がナーシング・ホームに入所。

労働人口の2.9%が高齢者介護分野で働いており、
その比率はスウェーデンに次いでOECD諸国の中では2位。

ノルウェイの統計局(?)の試算では
2050年までにその割合を5.6%に挙げる必要がある、とのこと。

Norway is the world’s third best country in the world in providing care for the elderly, according to a study by the Organization for Economic Co-operation and Development(OECD)
The Foreigner, May 26, 2011


オランダが2位……。ふむ。

北欧もたしか、優生思想が根強いんでしたっけね……。



なお、補遺で拾ったのは、以下の2つ ↓

http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/63316841.html
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/63321412.html
2011.05.27 / Top↑
月刊「介護保険情報」誌3月号の連載で
「ヘルシー・ホームズ事業:英国リヴァプール」を書いた。

英国では「燃料貧困」「燃料プア」が社会問題化していて、
特に労働者が多いリヴァプール市がNHSトラストと手を組んで
健康で温かい住宅の実現を通じて健康格差解消を目指すプログラムを実施している。

まさに「福祉と医療の連携」にはこういう形もあるのか……と目からウロコの話を、
これは自前で見つけたのではなく、編集の方から教えていただいて調べてみたもの。

この問題に関する調査が最近あったようで、
その結果を受けてBMJに社説が出ていた。

The health impacts of cold homes and fuel poverty
Editorial, BMJ, May 11, 2011


調査は Friends of the Earthというチャリティによるもの。
5月12日に “The health impacts of cold homes and fuel poverty”として報告された。

「調査から分かったのは誰だって知っていて知らないフリをしてきたことばかりで
寒い家はエネルギーを無駄に使い、住民の健康を害する、ということ」。

英国の家を熱効率の良い温かいものにすれば
二酸化炭素の排出量も減るし、健康への影響も減って健康格差が緩和される。

そのために報告書が提言しているのは3つで、

① 住宅のエネルギー効率を上げて、「温かい家」はバカ高いという事態をなくすことで
家計も楽になり健康度が上がる。

② 家が寒いために燃料貧困から健康格差が起きている状況は正すべきである。

③ 家の熱効率が良くなれば使用燃料が少なくなり
二酸化炭素の排出量が減って長期的には地球温暖化の緩和に役立つ。

ちょっと意外なのは、南半球のオーストラリアにも同じ問題がある、と。


病気予防といえば、やれ、この薬やサプリでこの病気が予防できるとか、
遺伝子検査を受けて病気になる前から健康な臓器をとっちゃえとか、
個体に対して操作を及ぼすことばかり煽る人が多いけれど、
(まぁ、それはお金を生んで誰かを儲けさせるからね)

人は環境から影響を受け、環境に影響を及ぼしながら
「社会」の中で「暮らし」ているんだよねって、
この事業のことを調べていたら、つくづく思ったんだった……。

それを、また思い出した。

このヘルシー・ホームズ事業、
いま流行りの「アウトリーチ」をもう一つ拡大し柔軟にして
さらに、リーチの先にいる人たちのためになるものにするヒントが
隠れているような気がするんだけど。

とはいえ、
英国の連立政権は社会福祉予算の大幅カットを自治体に厳命しているので
リヴァプールの事業もどうなるか心配。
2011.05.20 / Top↑