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② 上野先生は高齢者の「家族介護者」だけをイメージして話を進めていきながら、
障害者運動の当事者主権の考え方から学べと説いているように思え、
ここでもまた、障害児・者の家族介護者、つまり主として親(特に母親)は
置き去りにされているんじゃなかろうか。

この本の著者が見ているのは
育児と、高齢者介護と、自立した障害者だけなのでは……という気がする。

「育児ロボットを考えつく人はいないけど介護ロボットは考えつく人がいる」と
何度か繰り返されていたり(これについてはこちらのエントリーの後半で書いた)
「動物の世界に育児行動はあっても、高齢者介護はない」(P.105)など、

上野先生もまた、障害児・者の母親によるケアを
どちらかと言えば介護よりも育児寄りにイメージしている……?

そのためなのか、
子どもが何歳までが「育児」で、何歳から「介護」なのか、
または障害児の親によるケアは、どの部分が育児で、どの部分が介護なのか、と
私たち重症児の親が考え続けてきた問いは、ここには見あたらないし、

高齢者の「家族介護」以上に「ジェンダーまみれ」になっているはずの
障害児・者の家族介護者、例えば以下の記事で取り上げられているような母親たちは、
この本の中の、どこにも、いない……という気がした。

「介護の代わりいない」2割 重症心身障害者の家族に不安。岐阜県の調査(12月21日)


やっぱり「ケアの社会学」って、
“名誉男”として生きてくることのできたフェミニストの学者さんが
自らの高齢期を前に、もっぱら「介護される人」の側に自己同視して
団塊の世代が要介護者となる時代にあるべき介護保険の形を考えている本……?

もともとフェミニズムに怨念を抱える私が何より気に入らなかったのは、
介護は出来れば引き受けたくない負担だと書いたのは最首悟だけだ、と書かれていること。
父親だから書けても、母親には言えなくされていることがあるんじゃないだろうか。

岐阜の調査の記事に出てくるような母親は、
言えなくされている自分に気付くことすらできなくされているんじゃないのだろうか。

私の母親仲間の一人は「口が裂けても言えない」と言った。
「自分が寝たきりにでもならない限り許してもらえない」と言った人もいる。

私たち障害のある子どもを持つ母親は、
一体だれに”許して”もらわなければならないというの?

その”だれか”をこそ、
フェミニズムは糾弾してきたのではなかったの?

私たち母親は、ここでもまた置き去りにされている――。

そして、
今なお得られない”だれか”の”許し”に縛られた母親の”愛”に絡めとられてしまっている
重症心身障害のある私たちの子どもたちも「当事者主権」から置き去りにされている――。

             ――――――

私自身は、
障害・障害者に関わる問題を云々する時の「当事者」は
あくまでも障害のある本人だけだと考えているし、

つい「当事者」としての意識でモノを言いそうになる自分は
自分は親でしかないことを何度でも繰り返し自覚しなければならないとも思っている。

障害のある子どもの親は、
特に赤ん坊の頃から障害のある子どもとして育ててきた親は、
子育ての最初から何年もの長い間、「当事者」として専門家に対応することを迫られ、
世間に対しても、我が子を背中にかばい自分が向かっていく姿勢になることが多く、
どうしても「当事者」としての意識を持って生きざるを得ないだけに、
そうか、自分は「当事者」ではないのだ……と自ら気付くことは難しい。

それだけに、ある段階から後は、それに何らかの形で気付かせてもらい、
自覚しておく意識的な努力をすることが必要なのだと思う。

だから、障害や障害者の問題については「当事者」は本人だけだし
親は「当事者」ではなく、あくまでも「障害のある子どもを持つ親」として
何事かを語ろうとする際には、その違いを意識しておかなければならないと思うのだけれど、

こと、ケアの問題については
ケアされる人もケアする人も両方が等しく「当事者」ではないのか、と思う。

両者の間に力の不均衡と、利益の相克・支配―被支配の関係の危うさを孕みつつも、
両者はともに等しく、ケアの「当事者」ではないのだろうか。



【関連エントリー】
“溜め”から家族介護を考えてみる(2008/6/5)
子どものケア、何歳から「子育て」ではなく「介護」?(2008/10/18)
障害のある子の子育ては潜在的な家族の問題を顕在化させる(2008/10/20)
介護を巡るダブルスタンダード・美意識(2008/10/27)
障害のある子どもの子育て、介護一般、支援について、これまで書いてきたこと(2010/3/15)
日本のケアラー実態調査(2011/6/14)

成長抑制を巡って障害学や障害者運動の人たちに問うてみたいこと(2009/1/28)
親の立場から、障害学や障害者運動の人たちにお願いしてみたいこと(2010/3/12)


これもまた、知識不足から全然理解できていないと思うけど、この本でも
著者が子育てと高齢者介護だけを念頭に論を展開しているように思えることが不満だった ↓

「ケアの絆―自立神話を超えて」を読む(2010/1/12)
2011.12.29 / Top↑
まず、前置きとして、
某日某所で聞いた介護者支援関連のシンポジウムで印象的だった場面を3つ。

① 何年か前には介護者支援の必要を訴えると
「要介護の本人が一番の弱者なんだから、介護する方がそんなことを言うべきではない」
と批判され聞いてもらえないのが常だったが、ようやく日本でも
介護者支援の必要が認識されてきた、という発言があった。

これは現在でも、
障害のある子をもつ親である私が介護者支援とか介護者の権利について語ると、
そういう反応を受けることはあるもんなぁ……と思いつつ聞いた。
「まず本人、介護者はその後」「親のくせに」などの感覚は、たぶん今だに根強い。

② あるパネリストが「“介護する権利”と同様に
“介護しない権利”も認められなければ」と発言したところ
即座に隣のパネリストが「そんなことを言ったら家族の愛はどうなる?」と反論する、
という場面があった。どちらも女性。

これって「夫婦別姓を認めろ」「そんなことをしたら家族が崩壊する」と
同じなんじゃないのかなぁ……と思いながら聞いた。

パネリストの女性では「介護しない権利」支持派が4人 vs 反対派が2人だった。

③ その後、男性介護者の問題に議論が移った際に、
男性は女性とは本来的に違っているので男性介護者に特化した支援が必要と考える人と
違うのは育てられ方や働き方によって社会的に作られてきたのだから
働き方を見直して男女同じ育て方をしようと主張する人とに
くっきりと分かれた。その分かれ方はちょうど上の4対2の逆転になっていたのも、
「2」の方々がそこで急にパワフルに発言し始めたのも、
2人とも「男女が違うことは科学的に証明されている」と主張するのも
なかなか興味深かった。

ちなみに、この問題について私の考えはこちら ↓
「大人なら誰でも基本的な家事・育児・介護ができる社会」というコスト削減策(2009/5/25)


――そういう体験をした直後に読み始めたので、

上野千鶴子先生の「ケアの社会学-当事者主権の福祉社会へ」の冒頭、6ページ目にして
ケアの人権アプローチを採用するとして以下の4つの権利が挙げられているのを見た時には
あー、なるほど「強制されない権利」ね、と納得すると同時に、
「ほらー、やっぱりー、これを見てみろ―」という気分だった。

(1) ケアする権利
(2) ケアされる権利
(3) ケアすることを強制されない権利
(4) (不適切な)ケアされることを強制されない権利


その後の本文によると、これは誰かしら外国の学者さんが提唱した3つに
上野先生が4を追加し、修正版に改良したものだとか。

とはいえ、私はこんな本を読みこなせるほどの教養はないので
正直なところ、ほとんどの部分ちゃんと理解できたとは思わないし、

後半はほとんどつまみ読みだったし、
(鷹巣町の“その後”と、外山義ユニットケア研究批判は面白かった)

加えて私にはミュウの幼児期からの
「フェミニズムは障害児の母親を置き去りにしてきたじゃないか」という
根深い怨念があるから、最初からナナメに読んでいるのかもしれない。

なので、ここでは一つだけ、
介護する者の立場で考えてきた、介護する者とされる者の関係についてのみ
読みながら、ずっと漠然と引きずっていた疑問のいくつかを、
これから私自身が考えるための整理・メモとして、書いてみる。

① 上野先生は、ケアされる側のニーズを一次的ニーズ、
ケアする側のニーズを二次的・派生的ニーズとし、それに基づいて
ケアされる側を一義的なニーズの帰属先、
従って「当事者」とはケアされる者のこと、とする。

その理由としては、
ケアされる側のニーズはケア関係から離れてもなくならないが、
ケアする側のニーズは、ケア関係に留まることによって初めて生じる二次的ニーズ。

ケアする側とケアされる側には圧倒的な力の不均衡があり、
ケアする側のニーズはケア関係から退出すればなくなる性格のものであるのに対して
ケアされる側は命にかかわるのでケア関係から退出することはできないという
不平等が存在する。

一応、上野先生は、家族介護が事実上の強制労働となっている場合には
家族は例外として「当事者」としての正当化ができないわけではないと書きつつ、
しかしそれであっても一次ニーズと二次ニーズとは区別すべきだ、と説く。

その根拠は
現状では本人と家族の利益の相反の中で家族の利益やニーズの方が優先されているから
「家族は愛の名において、障害当事者の自立生活に立ちはだかった」から。
家族は「おまえのために」を装いつつ自分自身の利害をニーズとして優先してきたから。

ここで上野先生は
家族介護者を例外的に「当事者」に一旦は含めつつ、
両者の間の不平等、家族介護では介護する者のニーズが優先されてきたことを理由に、
介護される者のニーズの方が優先だと説いて、
再び家族介護者を「当事者」から締め出しているように、私には見える。

一次的ニーズと二次的・派生的ニーズの違いを区別することは理解できるし、
介護する者と介護される者との間には利益の相克と支配・被支配の関係リスクがあることは
Ashley事件から当ブログでずっと考えてきたことそのものだから了解している。

私に分からないのは、上野先生が
それら2つを両者のニーズの「優先順位」の問題に横滑りさせているように思えること。

ニーズの生じ方・性格が違うこと、両者の利益や権利に相克があることは
常に意識されているべきだと私も思うし、
介護する側のニーズが優先されてきた問題も重大だと思うけれど、
だからといって、それは、そのまま「だから介護される人のニーズが
介護する人のニーズよりも優先」と直線的に言えることではないと思う。

介護される人と介護する人のニーズは「優先順位」や「後先」で考えるようなものではなく、
あくまでも個々のケースごとに固有の状況の中で
両者ともに合わせ考えられるべきものなんじゃないのだろうか。

長年、寝たきりの我が子をずっと在宅でケアしてきて、
介護負担を含む諸々の事情からウツ病になった親や、
ヘルニアになって日常生活にも不自由している親が
病院受診さえままならず介護を続けているとしたら、
その親のニーズはどこまでが二次的ニーズで、どこからが一次的ニーズなんだろう?

うつ病になった時点で、
その人にはうつ病患者としての一次的ニーズが発生していると思うのだけど、
介護負担が発症に関わっていたら、その人のうつ病患者としてのニーズは二次的なものでしかないのか。

逆に、障害のある親の子どもはヤング・ケアラーになる可能性があり、
親への支援と同時にヤング・ケアラーとして子への支援も必要だという問題が
日本ではあまり意識されていないことが私はちょっと気になっているのだけれど、
「ヤング・ケアラーとしての子への支援」の必要を認識し、それを訴えることは
「障害のある親への子育て支援」の必要を否定することになるのだろうか。
それらを共に必要なものとして説くことはできないのだろうか。

私としては、それらは「まずこちらが満たされて後に、次にこっちね」とか
「こちらの方が重要性が上で、その次にこっち」といった優先順位の問題ではなく、

両者のニーズの性格の違いや、両者の間にある力の不均衡や
これまで介護する者のニーズが優先されがちだったことは十分に意識しつつ、
あくまでも個々のケースごとに固有の状況や事情の中で、
両者のニーズ共にすべてが同時に平らに並べられ、
共に十分に考慮されて問題解決の方策が探られるべきもの、では、と思うのだけど……。
2011.12.29 / Top↑
英国 Shrewbury在住の Sara Thomasさん(17)が
ロンドンオリンピックの聖火リレー・ランナーの一人に決まった。

Saraさんは両親の介護をしている。
特にMSの母親の介護が中心。

12歳の時にYouTubeに動画を投稿してヤング・ケアラーの問題を訴えて以来
そうした発言を続けてきており、

首相とヤング・ケアラーの面談にも招かれ、施策提言を行ったことがある。

Saraさんが走るのは5月24日。

Olympic torch to be carried by Shrewbury carer
BBC, December 8, 2011


英国内17万5000人とも言われる(70万人というデータも)ヤング・ケアラーですが
昨今の社会保障費削減のあおりで彼らへの支援もカットされつつあります。

この話題を機に、問題意識が高まりますように。


なお、Saraさんがキャメロン首相と面談したのは
去年11月にBBCが行った若年介護者キャンペーンの一環。

それについては、以下の連載で簡単にまとめました。Saraさんにも言及あり ↓

英国BBCが若年介護者特集
「介護保険情報」2011年1月号 連載「世界の介護と医療の情報を読む」

この時に読んだ記事によると、
Saraさんは7歳の時からMSの母親の介護と家事をになっており、
4年前からは関節炎の父親にも介護が必要となったとのこと。

「私のような子どもはどうしたら大学に進学できるのですか」と
キャメロン首相に率直な質問をぶつけています。

この記事の最後に、私は以下のように書きました。

 

連立政権が社会保障全体の予算削減方針を打ち出している中、こうした介護者支援施策が今後どのように展開されていくのか気になるところだ。医療や福祉が 患者や高齢者や障害者のところで切り捨てられていけば、必然的に、その周辺にいる子どもたちに負担がのしかかっていくだろう。
 それを思う時、同じような経済苦境下の日本で若年・子ども介護者の存在が今なお可視化されていないことが案じられる。



なお、話がさかのぼりますが
spitzibaraが07年に初めて若年介護者について知って書いた連載記事はこちら ↓

英国介護者週間
「介護保険情報」2007年8月号 連載「世界の介護と医療の情報を読む」

この記事の最後に私は以下のように書きました。

若年介護者については、近年の英国の動きを受けて米国でも米国介護連合NACが 2003年に初の若年介護者全国調査を実施。05年にまとめられた詳細な報告によると、米国でも8歳から18歳の若年介護者が130万人程度おり、未支援 のまま重い介護負担に苦しんでいると見られる。NACの報告書は、英・豪・NZなど若年介護者支援先進国の施策に学び、早急に支援を整備すべきだと締めく くっている。

日本で「若年介護者」という言葉すら聞かないのは、わが国には介護者役割を担う子どもが存在しないからなのだろうか……?



07年に書いた最後の2行、
今もう一度ここで声を大に繰り返したいので、ゴチックにしてみました。


また、その他、これまでに同誌の連載で介護者支援関連で書いたものは
去年、介護者支援シリーズにとりまとめました ↓
英国の介護者支援
英国のNHS検証草案と新・全国介護者戦略
米国 家族介護者月間
障害のある子どもを殺す母たち
NHSの介護者支援サイト Carers Direct

【その他、最近の関連エントリー】
「障害児とその親」支援と「障害者と介護者」支援がシームレスでない、という指摘(英)(2011/9/9)
英国のチャリティが介護者実態調査、「往診で介護者の健康チェック、介護ノウハウ研究と支援用具、それからレスパイトを(2011/9/16)
2011.12.11 / Top↑
平等と人権コミッションは今年すでに
施設での高齢者ケアのお粗末について指摘したらしいのだけど、

今度は1200人の高齢者と友人、家族に在宅ケア体験について調査するなどしたところ、
半数は現在の在宅ケアに満足していると答えたものの、
地方自治体からの委託事業者から派遣されるヘルパーによる
身体的、精神的、経済的虐待など人権侵害の実態が明らかに。

食事も水分も十分に与えられなかったり、
排泄に失敗して汚した衣類や寝具のままで翌日まで放置されていたり、
素っ裸にしたまま清拭する、酷い言葉を投げつける、金銭を盗む、など。

例えば、飲食の介助が十分に行われていないことの内には

① 自治体によって15分とか30分しかヘルパー派遣を認めないために
食事を作っても介助する時間がなく、
自分で食べられない人の目の前に食事を置いたまま去っていく。

② 「健康と安全のため」のルールの機械的運用で、
a. 不自由な高齢者がキッチンまで移動して自分でレンジで温めるのを
ヘルパーは立って見ている。
b. 認知症の高齢者に「食事は冷蔵庫に入れておきました」と言って
帰っていくので、言われた方は忘れて食べられないでいる。

③ できた食事を、わざと手の届かないところに置いたり、
視覚障害にある人に食事ある場所を教えないなどのイジメをする、など悪質なものも。


要因としては、

政府の緊縮方針で各自治体ともソーシャル・ケア予算をカットしているため
ケア支給時間が減っていること、

もともとヘルパーは最低賃金程度で雇われており
十分な研修も行われていない、

地方自治体による事業所の監督が不十分、

英国社会全体に高齢者に対する差別意識がある、など。

(「座ってて」と言う代わりに乱暴に身体を突いて椅子に押し戻す、
トイレに行きたいと訴えると「うるさい。今新聞を読んでるのに」と返す、など)

コミッションの報告書は「制度的欠陥がある」とし、改善を求めている。

報告書を受け、
政府は早速に在宅ケアの事業所への監査を命じたとのこと。

ただ問題として指摘されていることとして、
高齢者虐待防止法の対象となる介護職員による虐待は
入所施設でのものに限定されており、
在宅ケアにおける介護職員の虐待は対象になっていない、とも。

http://www.guardian.co.uk/society/2011/nov/23/elderly-care-failures-human-rights?CMP=EMCNEWEML1355
http://www.guardian.co.uk/society/2011/nov/23/plight-older-people-home-care
http://www.telegraph.co.uk/health/elderhealth/8910296/A-catalogue-of-neglect.html
http://www.independent.co.uk/life-style/health-and-families/health-news/scandal-of-elderly-facing-abuse-and-neglect-in-own-homes-6266363.html
2011.11.30 / Top↑
The National Family Caregivers Association (NFCA全国家族介護者協会)と
Forest Laboratories, Inc.とがGfK Roper Public Affairs & Corporate Communications に委託して
今年3月28日から4月25日の間にアルツハイマー病の人の介護者674人に調査を実施。

その結果、
家族介護者が最も大きな不安(ほとんど恐怖といってもいいほどの)を感じているのは
本人とコミュニケーションが取れなくなること。

それに次いで介護者にとって大きな不安は
本人の健康状態が衰えていくことだった。

ちゃんとしたコミュニケーションが「まったく取れない」「あまりうまく取れない」と
答えた家族介護者は半数以上。

そのため双方向のコミュニケーションを諦めてしまったという人が多いが、

コミュニケーションが介護ストレスになっていると答えた人が71%に上る一方で、
新たなコミュニケーションの方法を模索し見つける人も多く、
76%の人が前よりもコミュニケーションがうまくなったと回答している。

代替コミュニケーションの工夫としては
84%が顔の表情を見る、
79&がボディ・ランゲージ、
66%は絵や写真を使う、と答えた。

介護者の性別による違いはほとんどないが、
アフリカ系の方が白人よりも介護に費やす時間が長く、
代替えコミュニケーションを使っている割合も
ヒスパニック系で80%、アフリカ系で81%が使っているのに対して
白人は69%にとどまっていた。

またほとんどの介護者が何らかの支援を受けており、
自分だけで介護を担っているという人は12%だった。

その他、この調査が指摘しているのは
家族介護者はアルツハイマー病の人の変化を目の当たりにしているので
家族介護者の観察を記録して、医師に伝えることが重要。
それらの情報が生かされるためにも、介護者と医師の信頼関係が大事。

アルツハイマー病の家族介護者は
自分自身のリスクについても不安に感じていることが多く、
10人中9人が少しでも兆候を感じたらすぐに受診する、と答えた。

Alzheimer’s Disease Impact On Caregivers, New Survey
MNT, October 28, 2011


ちょっと記事の本筋とはズレるのですが、

私が外国語の教師を長いことしてきたからか、
言葉というコミュニケーションの手段を持たない重症障害のある娘の親だからか、

私にとっては
音声、顔や目の表情、ジェスチャーやボディ・ランゲージ……などなどは
「コミュニケーション」の一部として、その中に当たり前に含まれているものだと
ずっと自然にそう捉えてきたので、

そういうものを「コミュニケーション」の外に置いて、
それとは別の「代替コミュニケーション」だのこの調査と記事の捉え方には、
かなり違和感がありました。

米国の生命倫理の周辺の情報を読みかじっていると、
「言葉によるコミュニケーションが取れないなら意思疎通そのものが不能」
という短絡的な考えや、さらにそこから大きく飛躍して、
「言葉でコミュニケーションが取れないなら、その人は何も分かっていない」
という恐ろしい決めつけまでがじわじわと広がりつつあるのではないかと
懸念は漠然とあったけど……。

でも、この調査が意味するところも、
言葉で意思や気持ちを表現することができなくても
働きかける側の姿勢や工夫次第でコミュニケーションはとれる、という可能性であり希望だと思う。



認知症や高齢・障害のために言葉を持たない人の痛みに気付くノウハウについては、
以下のエントリーに ↓
「認知症の人の痛みに気付く」ワークショップ(2009/9/9)
高齢者入所施設における痛みマネジメント戦略(2009/9/9)
「認知症患者の緩和ケア向上させ、痛みと不快に対応を」と老年医学専門医(2009/10/9)

また、言葉を持たない障害者への医療サイドの無理解が患者の死を招いたことを
医療オンブズマンが認定した英国のケースについてはこちらに。
オンブズマンは家族介護者の観察や情報を医療職が尊重することの大切さを訴えました ↓
Markのケース:知的障害者への偏見による医療過失(2009/4/1)
Martinのケース:知的障害者への偏見による医療過失(2009/4/1)

娘と私自身の体験は上のMark, Martinのエントリーにも書いていますが、
その他、障害児・者のコミュニケーションについては多数のエントリーを書いており、その一部がこちら ↓
「意思疎通できない」という医療基準のコワさ(2009/2/9)
「コミュニケーションの廃用性」について(2009/9/10)
重症障害児・者のコミュニケーションについて・整理すべきだと思うこと(2010/11/21)
2011.10.31 / Top↑