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昨夜、介護者支援についてツイッターであれこれ書いていたところ、
ある方のツイッターで以下のニュースが流れました。

重度障害の62歳長女を絞殺容疑 85歳母「介護に疲れ…」産経新聞 1月11日


タイトルを見た瞬間に胸が詰まりました。

それまでのツイートの流れがどこかへ霧散してしまい、
茫然とこのタイトルと向き合って、このタイトルに手を合わせるような気持のまま
しばらく何も言葉にならず、言葉にならない思いばかりが次々に
涙になってあふれてくるように思えました。

それから、ぼんやりと頭に浮かんだままをツイート画面に打ちました。
「62年間の介護生活って、どんな人生だったんだろう」

そう書いた瞬間に、ある有名な言葉が頭にゆっくりと浮かびあがってきて、
けれど、はっきりと意識に浮かびあがる寸前に、
後ろから別の言葉がその言葉を追い抜いて
私のところへやってきました。

母に殺させるな――。

そう書いたとたん、
涙だけでなく言葉もあふれて止まらなくなりました。

それ以前に書いていた部分で既にしてちょっと感傷・自責的になっていたところだったので、
いくぶん自己陶酔的で申し訳ないのですが、まんま、以下に――。

62年間の介護生活って、どんな人生だったんだろう。。。母に殺させるな。

障害のある子どもの親(特に母親)は自分の苦しさを語る言葉を奪われてきた。「しんどいけど可愛い」しか言わせてもらえず、結局「可愛いんだからしんどく はない」ことにされてきた。だから「可愛いから」「この子のために」を武器に、子どもの権利をいろんな形で踏みにじってきたのだろうと思う。

私も施設に入れる決断をすることでミュウの権利を侵害し続けているのだと思う。少なくともそれを「この子のために」とごまかすことはしたくない。私自身がそうでしか生き伸びられなかったから、私はミュウを施設に入れました。

そろそろ「可愛いけどしんどい」という順番でモノを言い始めたいと「私は私らしい障害児の親でいい」に書いて、何年も経った。それでも親が自分のしんどさ を語ることは難しい。もしも「介護者支援」とか「介護者の権利」という言葉が輸入されることによって、誰かがそれを言えるようになるのなら、と

私自身がその言葉や周辺の情報を流し、自分自身の痛みを語ることで、誰かが「可愛いけどしんどい」と言えるようになり、世の中の人が「しんどい」は決して「可愛くない」と同じじゃないと、分かってくれるなら。私の「介護者支援」の思いは、それだけ。


ちなみに拙著「私は私らしい障害児の親でいい」(1998)の当該個所は以下です。

……日本の社会は、私たちに『美しい姿』を求めていると思うのね。聖母のような母。子どもの障害がどんなに重くても、どんなに負担が大きかろうと、常に笑顔で明るく強く、弱音を吐かずに頑張るお母さん。父親だろうと母親だろうと、生身で、そんな絵にかいたような聖母ができる人間なんて、本当はいないのに。私たち、『しんどいけど、可愛い」という順番だけでものを言い、世間の人たちに媚びるのを、もうそろそろ返上してもいいんじゃないかと思うんだ。『可愛いけど、しんどい』という順番でものを言いはじめてもいいんじゃないか。だって私たちは、世の中の人たちに、美しい姿だね、感動したよ、勇気をもらいましたよ、と誉めてもらうために生きているんじゃない。誉めてもらうんじゃなくて、世の中の方に変わってもらわなくちゃ困る。
(p.130-131)



介護者支援に関連するエントリーは「子育て・介護・医療」の書庫に多数ありますが、
特に去年1年間に紹介した介護者支援情報は、以下のエントリーに取りまとめております ↓

2011年のまとめ:Spitzibaraの1年
2012.01.13 / Top↑
昨年12月21日にツイッターを始めました。
アカウントはspitzibaraです。
よかったら覗いていただけると嬉しいです。

こんなことになるのでは、と懸念して
ツイッターには手を出しかねていたのですが、
やっぱり予想通りに見事にハマってしまい、
今日の午後5時までに238ツイートもつぶやいてしまいました。

自分で「アホか」とは思いつつ
「あまりに面白くて、もうダメ」ジャンキー状態です。

ブログではなかなか書きづらかった「ミュウの親」としての思いが
なぜかツイッターではするすると書けるのが不思議で、

溜まり溜まった怨念のマグマが噴火するかのごとき勢いが
もうしばらく収まりそうにありません。

ある程度吐きだしてしまったら、
ブログとツイッターを自分でどのようにやっていくのか、ペースが探せると思うのですが、
しばし「情報」よりも「自分語り」にハマりそうです。

(こう書くと、なんかイヤラシイことをやってる感じもしてきたなぁ)

とりあえず、この間につぶやいてみた
「障害のある子(今は成人)の親になってムカつくのは」シリーズを取りまとめてみました。
(書いた後で気に入らなくなった個所など、ちょっと訂正した部分もあります)


「障害のある子どもの親」になってムカつくのは、常に「評価」の対象にされること。いろんな職種や立場や考えの人がそれぞれ勝手な「障害児の親はこうあるべき」物差しを頼みもしないのに当ててくる。なんで私がアンタらの間尺に合う生き方をせにゃならん? いちいちバラバラの物差し当てよってからに。

でも、本当は一番ムカつくのは、勝手に当てられるバラバラの物差しにいちいち応えて「全方位型優等生障害児の母」をどこかで目指そうとする自分。

初めて膝を痛めて病院通いしたのは、確かミュウが中学生の時。その話をしたら、子どもの個性を重んじるナントカ教育理論の信奉者だった当時の知人に「今からそんなことを言っていてどーするの!」と頭ごなしに叱られた。痛いものは痛いんじゃわい。障害のある子がいようといまいと。

ミュウが幼い頃には「美しく生きよ」と言われ続けることに「美しく生きなければならない人なんかどこにもいない」と反発した。最近は「正しく生きよ」と言われているような気がすることに当惑している。

「障害のある子の親」になってムカつくのは、やたらと「ミュウちゃんのために長生きしてあげないといけませんよ」と説教されること。私自身が「長生きしてやりたい」と願うこととそのことの責任を背負わされることとは違う。言われるたびに「早死にしたら、それは愛情不足」と脅されている気がする。

どうして世間の人は「障害児の親」に対して上から目線でものを言い、やたらと説教したがるんだろう。

どんなに深い愛情があっても、どんなに壮絶な努力をしても、どうにもならないことって、ある。そういうことに「愛情」を塗りたくってどーこー言うの、やめよーよ。

癌になった友人Aは、人の顔さえ見れば世の中がいかにがん患者で満ちているかを語る。息子が糖尿病になった友人Bは、会うたびに食事の準備の大変さを語る。聞くたびにイラついてしまうのは、私もこの24年間に類似体験をしてきたという事実に気付くだけの想像力を、2人ともまるきり欠いていること。

「障害のある子(今は成人)の親」になってムカつくのは「神様はね、あなたが試練に耐えられる人だと思うから障害のある子どもを授けられたのよ」「子どもは親を選んで生まれてくるのだから」「あなたはミュウちゃんに選ばれたのよ」などと押しつけがましい説教食らうこと。
2012.01.13 / Top↑
米国内科学会誌1月3日号の補足として出された倫理マニュアル第6版。

わざわざ「倹約しつつ(parsimonious)」という文言を使用して
コスト・パフォーマンスを意識した“しみったれ医療”を説いているらしい。

医師の第一の義務は患者に対するものであると断りつつも以下のように書く。

Physicians have a responsibility to practice effective and efficient health care, and to use health care resources responsibly. Parsimonious care that utilizes the most efficient means to effectively diagnose a condition and treat a patient respects the need to use resources wisely and to help ensure that resources are equitably available.

医師には効果的で効率的な医療を行う責務と共に、医療資源の利用に責任をもつ必要がある。効果的な診断を最も効率的な方法を用いて行う倹約医療によって、医療資源を賢明に利用する必要と医療資源への公平なアクセス保証が尊重されることとなる。

論説を書いているペンシルバニア大のEzekiel Emanuel医師は

「堂々とコスト効率原理を提唱する医学会が現れた。
効率、倹約、コスト効率重視の立場は、倫理面ではともかく
何が強調されるかという点では重要なシフトだ」

「ちょっとした診断の違いにこだわり
できる限りの手を尽くしてはコストを膨らませていくのは良い医師ではないという方向に、
臨床医の世界の哲学を変えられるかどうかが難しい」

また、米国内科学会(ACP)のスポークス・ウ―マンは
「自分の患者とそのニーズに集中しつつも、
我々医師はもっと大きなレベルに立って、
患者の利益と地域のためについても考えなければ」

もちろん批判の声も出ており、
保守系シンクタンクの医師は
「医療資源の利用は倹約でと言えば、それだけでは済まず、
実際には治療を差し控えろと言っていることになる」

その他にマニュアルの要点の中から
個人的に印象的なものを3点。

① 遺伝子情報が誤って公開されてしまった場合には害を受けるので、
生体組織を保存したり分与したりする計画は研究の被験者に知らせなければならない。

これについてはEmanuel医師は
患者が望むのは研究に人体組織を提供するかどうかの判断のみで
それ以上を望んでいるわけではない、と論説で反論している。

これは、ちょうど年末年始で中断して、やっと読み終えたばかりの
「不死細胞ヒーラ ヘンリエッタ・ラックスの永遠なる人生」のテーマそのものだったので
大変印象的だった。

Emanuelの反論に、
「患者にいちいち同意を求めたり患者の権利を尊重していたら
科学の進歩が止まってしまう」という科学者らの言い分を思い出した。

② 研究結果については、まず論文にしたり、ちゃんとした場所で発表した後に
世間に向かって公表しなさい。

研究途上の成果をメディアが「ブレークスルーだ」と発表していると、
結局は科学界全体に対する信頼が揺らぐだろーが、と。

これはアッパレ。よくぞ言ってくださいました。

③ 自殺幇助合法化については支持しない立場とのこと。

理由は
合法化すると患者の信頼を損ない、終末期医療の立て直しが遅れ、
貧困層や障害者、自分で声をあげられない人やマイノリティなど
これまで差別されてきた弱者のケースで使われるから。

でも、すごく矛盾してない? という気がするのは

「本人利益」や「コスト効率」や「公平な医療資源の活用」という謳い文句で
“無益な治療”論による治療の差し控えのターゲットになっているのも
ここで懸念してもらっている貧困層や障害者、移民などマイノリティだという現実がある。

例えばこちらのケースではトリソミー13の新生児の心臓手術に
「同じ資源で多くの命が救える、公平性の点でどうか」と疑問が呈されている。

そうした現実を前に、
一方でコスト削減の社会的要請を念頭に“しみったれ医療”を説いて
そういう人たちからの治療の差し控えを暗に奨励しておきながら、

一方で自殺幇助はこういう人の治療を脅かすからダメ、と言っているような???

それは、つまり、オミッションはダメだけど、
コミッションは奨励しますよ、という立場なのかしら?????

ACP Makes Close Watch on Costs an Ethical Issue
Medpage today, January 3, 2012

【Dr. Emanuel関連エントリー】
「障害者は健常者の8掛け、6掛け」と生存年数割引率を決めるQALY・DALY(2009/9/8)
自己決定と選択の自由は米国の国民性DNA?(2009/9/8)

                ――――――

上記の疑問を考えても、
いつもお世話になっているPopeのブログが引っ張ってくれている
マニュアルの中の“無益な治療”に関する個所が気になるところ。

それによると、概要は

患者に医学的利益をもたらさない治療を行う義務は医師にはない。血流も呼吸も回復しないと思われる蘇生を行う義務もない。ただし、そのことを患者や家族に理解させる努力は必要。
最も難しいのは、利益がまったくないわけではないが苦しみの方がはるかに大きいと思われるケース(または金銭面のコストが大きすぎる場合)で患者や家族が治療を望む場合。こうしたケースでは簡単な解決はあり得ないので、知識のある同僚や倫理相談を頼って、リスク・ベネフィットの比較検討を再確認するか、引き受けてもよいという医師がいるなら転院させるのも一手。まれには裁判所の判断が必要となる場合もある。司法が一方的な治療拒否の判断を認めるプロセスやスタンダードを有している地域もある。
医療機関によっては、延命効果がごく小さい場合に本人や家族の反対によらず一方的なDRN(蘇生無用)指定を医師に認めていることもあるが、共感と配慮をもって患者や代理決定者と治療の選択肢を検討するなら、一方的なDNR指定にまで至ることは滅多にないはず。心肺蘇生でどうなるか、患者への身体的影響、医師への影響、DNR指定でその他の治療がどうなるか、法的にはどういうことか、また患者の代弁者としての医師の役割など、あらゆることがきちんと話し合われるべきである。一方的DNR指定を書くなら、医師はその旨を患者または代理決定者に説明しなければならない。


こんなにも既成事実が先行している時に、
あくまでも性善説の努力義務ですかぁ……。

American College of Physicians on Medical Futility
MEDICAL FUTILITY BLOG, January 3, 2012
2012.01.13 / Top↑
英国の知的障害者チャリティMencapが2007年に
医療職の知的障害に対する無知と無関心によって知的障害者が死んでいる、として
Death by Indifferenceという報告書を取りまとめ、
それが医療オンブズマンの調査と処罰に結び付いたことは、
以下のエントリーでまとめました。

「医療の無関心が助かる知的障害者を死なせている」報告受け調査へ(英)(2009/1/27)
「医療における障害への偏見が死につながった」オンブズマンが改善を勧告(2009/3/31)
オンブズマン報告書を読んでみた:知的障害者に対する医療ネグレクト
Markのケース:知的障害者への偏見による医療過失
Martinのケース:知的障害者への偏見による医療過失


Mencapはその後も
医療現場での知的・精神障害者に対する偏見と差別をなくすキャンペーンを続けながら、
知的障害のある患者への理解を進め、コミュニケーションを改善すべく
NHSスタッフに十分な研修を行うよう求めている。

Mencapはこのたび、新たに
過去10年間にNHSの病院で亡くなった知的障害者74人のケースについて
病院側の過誤や患者の苦痛に対する無知・無関心によるものと指摘し、
NHSには障害のある患者に対する組織的差別がある、と糾弾。

Mencapの幹部は
「74人のケースから、
NHSはまだまだ知的障害者の治療の仕方を分かっていないことは明らかで、
驚くべきネグレクトと尊厳無視のオンパレード。

NHSの組織的差別の結果、救命可能な知的障害者が死んでいるのだ」

指摘を受け、保健省のPaul Burstowケア・サービス大臣は懸念はもっともだとして、
知的障害者の避けることのできた死や時期尚早だった死について極秘調査を行うと同時に、
知的障害者への医療改善に焦点化した監督機関に予算をつける、とも。

極秘調査はイングランド南西部の5つのプライマリー・トラストで
知的障害のある患者の死亡事例を全て調査し、
NHSで治療流に死を避けるために他にできることがあったかどうかを調べた上で
2013年に大臣らに答申する予定。

調査を率いるDr. Pauline Heslopは
「知的障害者にはその他の患者と同じように
タイムリーで適切かつ個々のニーズに合わせたケアを受ける権利があり、
その権利が疑われたりネグレクトされるのは許しがたいことです」

NHSの幹部らもMencapの報告書を詳細に検討する、と。

NHS accused over deaths of disabled patients
The Guardian, January 2, 2011


【関連エントリー】
医療職の無知が障害者を殺す?(2008/4/23)
知的障害者の腎臓がんを1年もほったらかし、でもメディアが騒ぐと即、手術(豪)(2010/7/1)
「心の病は、誰が診る?」を読む(2011/10/7)


ウチの娘が腸ねん転で手術を受けた時の医療側の差別的対応について
冒頭のMarkのケースのエントリーを始め、いくつかのエントリーで書いているのですが、
上記去年10月7日の「心の病は、誰が診る?」のエントリーでは以下のように書きました。

「腸ねん転の重症重複障害児」を巡って入所施設と総合病院の外科・小児科との連携は
「送りました」「引き受けました」でしかなく、

あとは全てが医療機関間と診療科間の力・上下関係と、
各機関、各診療科、各医師のメンツとプライドの問題となってしまう。

患者は障害について無知な医療スタッフによって無用な苦しみを強いられているのに、
家族の言うことは「素人が何をエラソーに」とバカにして聞く耳を持たないし
分からないくせにメンツとプライドが邪魔をして知っている側に聞くこともしない、
知っている側も送ってしまえば口を出せない垣根が張り巡らされて、それはつまり
「患者本人のために何がよいかを正しく見つけ出そう」という姿勢が誰にもない、ということ。

あれでは本当に命にかかわる。
死ななければいいという問題でもないし。

宮岡氏が「精神疾患に関して一番偏見が強いのは、実は一般の方ではなくて
精神科医以外の医療スタッフ」(P.87)と指摘しているのは、
重症児を巡っても全く同じだった、というのが私の切実な体験。

「重症児なんか、いつ何が起きるか分からないから、
とにかく余計なことは一切やりたくない」外科医は、
腸ねん転の手術直後に痛み止めの座薬すら入れてくれない。
重症児の細い血管に点滴を入れるだけの技術を持たない医師は、
中心静脈にラインを取る決断も経管栄養の決断すらせず放置。
「これでは、なぶり殺しにされる」と私は本気で恐怖した。

ああいう垣根だけは、早急に何とかしてほしい。
2012.01.13 / Top↑
「『いのちの思想』を掘り起こす-生命倫理の再生に向けて」
安藤泰至編著 岩波書店


読んだ時に、
アカデミックな議論の内容については
正直まったくついていくことができなかったので、
こんなド素人が書評を書いていいんだろうか……と迷った。

でも、読みながら、言いたいことだけは喉元に群がり起こっていたので、
思い切って、そのこと(だけ?)を書かせてもらった。

生命倫理を問い直すのはアカデミックな世界の住民の特権じゃないはずだ……という思いを
そうか、私はAshley事件と出会ってからのリサーチと物思いの中でずっと抱えていたんだ……と、
この本を読んで気付かせてもらった。

生命倫理が脅かしているのが、私たちや私たちの家族の身体や命なのであれば、
生命倫理は、学者でも思想家でもない私たちによってこそ、問い直されるべきではないか。

この書評を書くことで、これまで言葉になっていなかった問題意識を
くっきりと言葉で捉えることができた。

振り返ってみたら、
拙著「アシュリー事件」でもOuelletteの新刊の紹介エントリーでも、
私が言いたかったことの1つは、このことだったような気がする。

気づいてみれば、学者でも思想家でもない私が厚かましくも
生命倫理をタイトルに謳ったブログをやり続けていることそのものが
最初からそういう問題意識だったことを物語っている。

はっきりと言葉で捉えることができた以上、
来年は、このことをしっかり考えてみよう、と念じつつ、

この書評を2011年の締めくくりのエントリーに――。


本書は5章構成で、「狭い意味での『生命倫理学者』ではない」が生命倫理のあたりで(も)仕事をしている学者が1章ずつ担当している。最初の4章では「いのちの思想」として、上原專祿(戦後の歴史学者)、田中美津(70年代ウーマン・リブの牽引者)、中川米造(医学哲学者)、岡村昭彦(報道写真家)という4人の人生の軌跡と思想とを紹介・考察し、最後の章は、生命倫理が日本にどのようにもたらされてきたか、開拓者たちの思想や背景を歴史的に概観する。
その問題意識とは、副題にあるように「生命倫理は再生されなければならない」というものだ。編著者の安藤泰至は「序にかえて」で早々に「生命倫理(学)は、医学や医療あるいは生命科学研究をめぐるシステムの一部として、それに付随するある種の『手続き』のようなものになり下がりつつ」あると指摘する。1章の終りでも、具体的な事例を挙げて生命倫理学や生命倫理学者の欺瞞性に鋭く切り込んでいる。それなら何故、生命倫理と直接の繋がりのない思想家をわざわざ引っ張り出して論じるといった迂遠なことをやらなければならないのだろう……? そんな怪訝な思いにかられる。
しかも2章では、幼時の性的虐待という原体験をもつ田中美津が、一歩も逃げずにその痛みを自分のものとして引き受け、女である「私という真実」をまるごと生きようとする生きざまに息を飲むうち、生命倫理そのものがいつか念頭から消え去ってしまう。
その後、常に弱者の側に立って近代医療を批判した「中川医療慨論」、世界を舞台に仕事をしながら差別と人権の問題にこだわり続けてバイオエシックスと出会った岡村へと、人物の生きた軌跡はまた生命倫理へと接近していく。読者には少しずつ、なぜ彼らを引っ張り出さなければならなかったのか、なぜそれらが平仮名で「いのちの思想」と呼ばれるのかが、おそらくは体感として腑に落ちていくだろう。そこに著者らの見事な仕掛けがある。
5章で印象的なのは、“輸入”された生命倫理を日本の文化風土から問い直そうとした森岡正博が、ウーマン・リブと障害者運動と出会い、日本では70年代から独自に生命倫理の議論が開始されていたことを発見する下りだ。日本の生命倫理はそこでぐるりと田中美津に繋がり戻され、その“原点”から現在のあり方を照らし返す。
読了後、4章から1章へと逆方向に読み返してみたいと思った。4人を逆にたどった、その先には、学者でも思想家でもない「私たち」がいるのではないか、という気がしたのだ。普遍的で大きな「いのち」と繋がりそこに包まれつつ、この抜き差しならない小さな「いのち」を生きる私の痛みと怒りと悲しみと、そこから生まれる祈り――。そんな私たち一人一人によってこそ、生命倫理は問い直され、再生を求められるべきではないのだろうか。
なぜならば編著者が書いているように、家族の「脳死」臓器提供をするか否かの「選択」を迫られる時に、その「『選択肢』が既に医療とそれをめぐるシステムによって制限され、狭められた形で提供されているにすぎないこと」が見えなくされているのは、他ならぬ私たちなのだから。

「介護保険情報」2011年12月号 P. 17
2012.01.13 / Top↑