やってくれました!!
2007年から「アシュリーは私だ」と言い続けている障害当事者のBill Peaceと
一貫してブログで成長抑制療法を批判し続けてきた重症児の母Claire Roy、
Armand H. Matheny Antommaria, Chris Feudtner, Anna Stubblefieldの6人が、
去年のHCR11―12月号掲載の成長抑制WGの論文
“Navigating Growth Attenuation in Children with Profound Disabilities”に反論する書簡を書き、
HCRの最新号に掲載されている模様。
シアトルこども病院のWilfond医師の返信つき。
Growth Attenuation: Health Outcomes and Social Services
Letters, The Hastings Center Report 41, no.5(2011): 4-8
With a replay from Benjamin S. Wilfond
Feudtnerは確か批判論文だったか、どこかに拾っているはずなのですが、
エントリーも書庫も増えすぎて、ざっとした検索では見つけられませんでした。
Ashley療法論争には、上記の論文以降、目立った動きがなく、
このまま尻すぼみに終わってしまうのだろうかと懸念していただけに、
本当に嬉しい。
まだまだ“Ashley療法”論争は終わっていません。
また、終わらせてはならない、と思います。
去年の成長抑制WGの論文については、以下の4本のエントリーに ↓
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/62625973.html
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/62626031.html
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/62636670.html
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/62650044.html
なんと、出たばかりの the Journal of Clinical Ethics誌の夏号に、
Diekemaが最新ヴァージョンの「最善の利益論より害原則」論文を発表しているとか。
これまた今朝のエントリーでとりあげたばかりの
「無益な治療ブログ」のThaddeus Mason Popeが反論を書いたとのこと。
お馴染みのブログに両者のアブストラクトが併記されています。
まず、Diekemaのアブストラクトから要旨をさらにまとめてみると、
子どもの医療に親が同意しない場合に最もよく用いられるのは
最善の利益スタンダードであるが、
私見では最善の利益スタンダードは
2つの異なった目的のために使われてきたもので、
実際にはそれらの目的には別のスタンダードが必要である。
最善の利益スタンダードがふさわしいのは
子どもの治療の選択肢の中からいずれかを選ぶ、
親に医療の選択に関するアドバイスをする、
法的意思決定権者に決定能力がなかったり意見の一致がない
の3つの場合で、
親の意思決定権限に州が介入を求める時期の判断には
最善の利益よりも害原則を用いるべきである。
Quellletteも害原則については
医療が行われない場合には機能するが過剰に行われる場合には合わないと言っていましたが
文末にリンクしたように、
彼は2007年段階ではいずれの場合にも害原則でと考えていた節があるので、
Ashley事件の文脈で考えると、ここへきて、ある意味、方向転換かも……。
なんとなれば、これは
医療職の思う通りに医療を行うべく親を誘導するには
子どもの害よりも利益を優先させることのできる最善の利益論で足りるけど、
医療職の思う通りの医療をやらせない親については
害を最優先する害原則で州に介入させて……って、
要するに、
親がどういう対応をしようと、
「医師の思う通りの医療」を「やる」方向に向かって
都合よく「最善の利益」と「害原則」とを使い分けよう……と
言っているに過ぎないのでは?????
Popeの反論は
Diekemaの主張していることは、
子どもの医療の意思決定で親にアドバイスする(guide)機能には最善の利益論がふさわしいが
親の決定を覆すための、すなわち制約する(limit) 機能にはふさわしくない、ので
特に州の介入時期を見極めるには、すなわち制約する場合には、害原則を使うよう提言している。
が、最善の利益論は、いずれの機能にも効果的に使えるし、
制約する機能にも、害原則は、健全な最善の利益論に勝るものではない。
The Best Interest Standard: Keep or Abandon?
Medical Futility Blog, June 22, 2011
私はAshley事件での「最善の利益」論による正当化に
ウンザリするほどえげつない欺瞞マジックの数々を見てきたので、
Fraderが言っていた「最善の利益論はポルノと同じ、どうにでも解釈は可能」という説に賛成。
(ただし「ポルノと同じ」エントリーの後半は、
私自身がこの段階では全く不勉強だったので理解不十分なまま書いています)
Popeがなんで最善の利益論を支持するのか、
「健全な」の中身を論文では詳述しているのかもしれないけど、
アブストラクトを読む限りでは、論拠がはっきりしない。
ただ、基準を使い分けることのいかがわしさを指摘しているのだとしたら、
その点には賛成。
どっちにしても、
最善の利益論にせよ、害原則にせよ、
「一定の条件を満たせばやってもよい」と最初から前提していることが私は気に入らない。
本当はその前に「条件を問わず、やってはならない」があって然りではないかと、
私はAshley事件の時からずっと考えているし、
Quelletteが08年と09年と2つの論文で説いていることも、
結局はそういうことだと思うのだけど。
【Diekemaの2007年プレゼン・エントリー】
「最善の利益」否定するDiekema医師(前)(2007/12/29)
「最善の利益」否定するDiekema医師(後)(2007/12/29)
ゲイツ財団の右腕シアトルこども病院所属のDiekema医師には、こういう姿勢もある ↓
「ワクチン拒否の親には他児に害をなす“不法行為責任”を問え」とDiekema医師(2010/1/20)
(追記:そういえば07年のプレゼンでも言っていたけど、
害原則論って、もともとは Miller という人の説なんだった。
で、それを小児科の意思決定に持ち込もうと提言するのがDiekemaということ?)
【Quelletteの論文エントリー】
「倫理委の検討は欠陥」とQuellette論文 1(2010/1/15)
Quellette論文 2:親の決定権とその制限
Quellette論文 3:Aケース倫理委検討の検証と批判
Quellette論文 4:Dr. Qの提言とSpitzibaraの所感
Quellette論文(09)「子どもの身体に及ぶ親の権限を造り替える」 1: 概要
Quellette論文(09) 2: Diekemaの「害原則」
Quellette論文(09) 3: 法の「非服従原則」
Quellett論文(09) 4:「所有しデザインする親」から「子の権利を信託された親」へ
Alicia Quellette がこうした論文による考察をさらに進めて、
生命倫理学と障害者コミュニティの歩み寄りを模索・提言する著書を上梓しています。
Bioethics and Disability: Toward a Disability-Conscious Bioethics (Cambridge Disability Law and Policy Series)
Alicia Quellette
Amazonの内容説明は
Bioethics and Disability provides tools for understanding the concerns, fears and biases that have convinced some people with disabilities that the health care setting is a dangerous place and some bioethicists that disability activists have nothing to offer bioethics. It wrestles with the charge that bioethics as a discipline devalues the lives of persons with disabilities, arguing that reconciling the competing concerns of the disability community and the autonomy-based approach of mainstream bioethics is not only possible, but essential for a bioethics committed to facilitating good medical decision making and promoting respect for all persons, regardless of ability. Through in-depth case studies involving newborns, children and adults with disabilities, it proposes a new model for medical decision making that is both sensitive to and sensible about the fact of disability in medical cases.
障害のある人の中には医療現場は危険なところだと信じ込んでいる人がいる一方、生命倫理学者の中には障害者運動の活動家から学ぶことなど何もないと考えている人がいる。そう考えさせてしまう背景にある懸念や不安や偏見を理解するためのツールを提供するのが本書である。
生命倫理学は原理的に障害者の生の価値を認めていないとの批判を考察し、障害者コミュニティの懸念と自己決定権アプローチを基本とするメインストリーム生命倫理学との競合関係を調整することは、可能であるだけでなく、生命倫理が良質な医療決定を支援し、障害の有無を問わずあらゆる人を尊重していくために、不可欠なことでもある、と説く。
本書は、障害のある新生児、子ども、成人に関わるケースを詳細に検証することを通じて、医療において障害という事実をきちんと踏まえ、その事実に即した意思決定ができるよう新たなモデルを提言する。
5月18日に出されて、あちこちのメディアに出ているリリースは以下 ↓
Professor Quellette’s New Book Seeks to Unite Disability Rights Advocates with Bioethicists to Improve Quality of Lilfe for People with Disabilities
この中で引用されているQuelletteの言葉で
私が強く惹かれるのは、
「交通事故で四肢まひになり、人工呼吸器をつけることになった男性が、
病院のICUとナーシング・ホームで何カ月も外とは孤絶したまま
生きる気力をなくしました。
彼は裁判所に訴えて、人工呼吸器のスイッチを切る権利を認められました。
生命倫理学者たちは、自分の命を終わらせる選択は彼本人のものだと主張しましたが
そこに障害を巡る専門家らが介入し、家で生活しながら働く手段を見つけ出しました。
彼の生活は改善し、彼はついに呼吸器のスイッチを切らない決断をしたのです」
「生命倫理学者、障害者の権利アドボケイト、医師と看護師が一緒に考えることによって、
障害の向こうに、このケースのように、もっと大きな絵を見ることが出来ます。
そうすれば、誰にとってもQOLがポジティブなものであるような
適切かつ包括的な治療・処遇を作り出していくことができます」
昨今は日本で大人気のMichael Sandel教授も
この論文でとりあげられた養女の目の整形手術について論じているらしく
Quelletteもサンデルを援用していますが、
子ども自身のニーズとは無関係に、親自身の目的によって
子どもの身体に手を加えて作り変えようとする親のことを
サンデルはこう呼びます。
the designing parents――。
(子をデザインする親)
そうした親を巡ってサンデルの言わんとすることは
さらにWilliam Mayという学者からの引用によって示されており、
親になるとは以下のことを教えられることだとして
「子どもを生まれたそのままに贈り物、ギフトとして尊重すること。
デザインする物体や、意思によって作り出すものや、我々の野心の道具としてではなく」
「親の愛とは、
子どもがたまたま持ち合せている性能や特性によるのではなく
ありのままの子どもを受け入れることによるもの」
その上で、子どもの発達を促し、健康に留意し、必要な治療を受けさせることと
「デザインする」こととの区別を説くサンデルの説を解説した上で、
Quelletteは、再びParham判決を引き、
医療における意思決定での親の決定権は
「子どものニーズを満たす親の義務」に基づくものであり、
「子どもの身体に対する所有権」に基づくものではない、と説いて
臨床現場の実態がそうなっていないことの問題を再確認します。
この後、では、どういうモデルがよいのかの検討に入っていくのですが、
親の権限を尊重しつつ、それがフリー・ハンドの権利ではないことを明確にするため、
Quelletteが提言するのは
「子どもの権利を信託された者」としての親と、その義務と権限。
Barbara Bennett Woodhouse、 Joel Feinberg, Elizabeth and Robert Scottによる
それぞれ3つの「信託者モデル」を解説した(煩雑なので、ここでは省略)上で、
3つのモデルに共通しているのは
親の権限ではなく、子どもの福祉を増進することに目的がおかれている点。
子を親の所有物としてではなく、権利を持ったひとりの人とみなしている点。
世話をされニーズを満たされることに対する子どもの基本的な権利を確認している点。
これらの原則によって子どもの権利と尊厳を守りつつ、
3つのモデルの利点を生かし、不備を補いながら、
同様の新たなモデルの構築を模索しているのがこの論文の最後の章で、
財産の信託者の義務と責務と、裁判所が関与すべき意思決定の範囲、
違法行為とされる範囲などを詳細に参照しながら、そのモデルを検討していくのですが
権限の範囲にしても、誰が第三者となるべきかという点にしても、
かなりぐらついているように思えて、この部分は私には良く分かりませんでした。
ちょっと未消化のまま書かれているという印象ですが、
Quelletteは、こうした考えをその後、著書にまとめたようですから、
そちらに期待して、読んでみたいと思います。
いずれにせよ、今の米国の医療において、
親子の関係を上下の所有関係と捉える旧来のヒエラルキー型家族モデルの中で
子の所有者としての親の権限をフリー・ハンドで認め、
それが「親の権利」と受け止められてしまうことへの疑義と、
親は子の所有者ではなく、
子どもが一人の人として持った権利を大人になって自分で行使するまでの間、
その権利を信託されているに過ぎないと捉えて、医療においても、
その範囲での意思決定の“権限”のみに制約する枠組みが必要……との提言は、
非常に大きな意味のあると思いました。
改めて、Ashley事件で Norman Fostやトランスヒューマ二ストらが
「親の決定権」を振りかざして批判を封じようと試みたこと、
07年の論争で、一般の世論の中にも、
「実際に介護していない者が口を出すな」と
介護をしている事実が全権白紙委任に結び付いてしまったことなどを振り返り、
これは必要な議論だ、と痛感します。
(シリーズ 完)
このシリーズは、以下の内容となっています ↓
Quellette論文(09)「子どもの身体に及ぶ親の権限を造り替える」 1: 概要
Quellette論文(09) 2: Diekemaの「害原則」
Quellette論文(09) 3: 法の「非服従原則」
Quellett論文(09) 4:「所有しデザインする親」から「子の権利を信託された親」へ
Quelletteによれば法の「非服従の原則」とは、
ある人の自己決定の権利は
他者の生命や身体を自分の目的に服従させる権利までを含むものではない、ということ。
クルーザン判決においても
意思決定能力の有無を問わず患者本人にしか決定できないことがあると確認されている。
(これ、日本語で言う一身専属事項ということですね)
したがって、子どもが成人して後に自分でするべき決定まで
子どもに代わって決定し、その身体に手を加える権利が
親の決定権に含まれると考えるのは、道徳的にも法的にも間違っている。
親の決定権を確認したものとして有名なParham判決でも、
親の決定権を認めつつ、子どもの最善の利益に従って行動しない親もいることが指摘され、
親の謝った決定権の行使が子どもを従属させ無用な医療や拘束に繋がる場合には
裁判所が介入すべき必要に言及されている。
さらに非服従原則を裏付けるものとして
ナチスの実験やNYの障害児施設での虐待事件などの反省、
施設での向精神薬による拘束禁止などにも触れられていますが、
病気の子どもの治療のために別の子どもの身体を利用する親の意思決定についても
一節が割かれています。
そこに書かれていることは、このシリーズの冒頭に述べたように
一昨日のエントリーや救済者兄弟の問題にも繋がって興味深いので拾っておくと、
(救済者兄弟については、一昨日エントリーにリンク一覧があります)
こうしたケースは現場で判断されることが多いが、
裁判所に持ち込まれる数少ないケースでは裁判所は進んで関与している。それは、
こうしたケースでの親の選択が、親とレシピエントの子どもの利益のために
ドナーの子どもの身体を犠牲とするものだからで、
レシピエントの子どもとの親密な関係を保てることで
ドナーの子どもの最善の利益となることが明らかな場合にのみ
臓器提供の意思決定を認めるのが裁判所の一貫した姿勢である。
裁判所は、誰かの目的にドナーになる子どもの身体を服従させることは認めない。
(この一節、Strunk判例などを考えると、かなり無理があると思う。
実際は、裁判所が容認に傾いていることを知りつつ、むしろ、その懸念から
敢えてQuelletteはそういう裁判所のあり方への抵抗として
この部分を書いているような印象を、私は受けました)
以上のように、成人の場合であっても
一人の権利は他者を服従させてまで行使を認められることはなく、
一定の基本的な意思決定は本人にのみ認められているのだから、
親だというだけで、または医療が関わっているというだけで、
子どもの人格を侵害する権利が認められるわけではない。
この点については、私も前に
アベコベというエントリーで書いたことがあります。
別の言葉で書いているだけで、これはQuelletteの主旨と全く同じだと思うので、
以下にコピペしておくと、
米国、カナダの医療において、子どもの場合は「親の決定権がすべて」という方向に推移しつつあると思われること。
もちろんワクチン接種など公共の利益を優先させようとする場合には、親の決定権を制限する方向に力が働いていこうとしているけれど、特に障害のある子どもたちの体に社会的理由で手を加えることについては親の決定権を尊重する方向性が明確になってきていて、
Ashley事件のあったシアトル子ども病院の医師らは、子どもの医療に関しては健康上の必要がないものであっても「親の決定権で」と主張している。
カナダのKayleeのケースを見ても、親の決定権は、もはや子どもの生死や臓器提供の判断にまで及んでいる。(もちろん、このケースでは医療サイドからの誘導があったのだけれども)
子どもは親の所有物なのか、と首をかしげてしまう。
しかし、気をつけておきたいと思うのは、ここでも「親の決定権」が声高に主張され意思決定の正当化に使われるのは「死なせる」「臓器を提供する」という方向の判断についてのみであって、「助けてほしい」「生きさせてほしい」という方向で親が意思決定を行おうとしても、病院や医師から「それは無益な治療だからできない」と拒まれるのだから、ずいぶんとご都合主義に1方向にのみの「親の決定権」。
医療における意思決定の議論が、例えば自殺幇助など、意思決定能力のある成人においても「自己決定がすべて」ではないというのに、子どもという弱者に関しては、その命を含めて「親という強者による決定」がすべて。
12歳~14歳になれば mature minor(成熟した未成年)として本人意思が尊重されるのに、それ以前の未成熟な未成年と知的障害のある子どもでは「親の決定権」にゆだねられる。
それ以下の年齢の子どもや知的障害のある子どもこそ、成熟した未成年よりも成人よりもセーフガードを強力にして保護すべき存在であるはずなのに、意思決定能力がないから保護する必要がないといわんばかりで、
これは絶対にアベコベだ、と私はいつも思う。
(次のエントリーに続く)