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(前のエントリーから続く)

この論文でとりあげられる4つのケースのうち、

最後のAshleyケースについてはともかくとして、
私がいちばん興味深く読んだのは③の脂肪吸引のケース。

Brooke Batesという12歳の女の子。Quelletteによればこの段階での最年少。
親の要望で整形外科医が35ポンド分の死亡と水分を吸引。
その結果を親子は奇跡だと称して喜んだが、効果は続かず
Brookeは1年もしないうちに元の体重になる。
すると今度は、両親は胃のバンディング手術を希望。
米国の医師らが断ると、メキシコに連れて行った。

興味深いと思った点は、
こうした“簡単解決”技術の利用には、
目的志向型の思考回路にどんどんはまり込んでいって
技術によって得られる効果に意識が焦点化され、
それが自己目的的化してしまう危険性があるのかもしれない、と
前から漠然と感じていたことをはっきり意識させてくれたこと。

例えば本来の希望は「きれいになりたい」とか「そのために痩せたい」であり、
そこには運動するとか食生活を見直すなど他の選択肢だって沢山あるはずだし、
そうした希望そのものの設定の仕方を疑問視してみる考え方もあるはずなのに、
いったん“簡単解決”技術を頼ることによって、技術を通じて解決する方向へと
直線的に突き進む隘路にハマりこんでいく……。

それは、希望や本来の目的に応じて適切な解決策を考えるというよりも、
むしろ技術のポテンシャルの方が目的やニーズを規定していくような……。

(例えば、「ロボット技術が育児に応用可能になりそうだ」という段階から
「オムツは親よりもロボットが替えた方が衛生的で、サンプルからデータもとれれば理想的」と
ロボットの機能の方から育児行動の目的を規定し直していく児童精神科医のように)

ちなみに、米国整形外科学会の報告によると、
2007年に13歳から19歳の子どもの脂肪吸引は4960例とのこと。


Quelletteが問題視するのは
これら4つのケースのいずれも裁判所に判断がもちこまれていないこと。

現行法では、憲法と判例法により、
親の決定権が法によって保護されているかのようにも思え、
こうした4つのケースにおける親の意思決定は
子どもが通う学校や教会を親が選び決めるのと同じような扱いになっている。

昨今の家族法分野の議論では
親と子の関係を伝統的なヒエラルキー・モデルから
自己決定できる存在として子どもを尊重する他のモデルへのシフトが起こりつつあるのに、

医療法は、ある種の医療を除いて基本的にヒエラルキー・モデルをとっている。
しかし、医療においても議論がないわけではない。

そこで、Quelletteが実にさりげなく持ちだしてくるのが、
私にはもうウハウハしてしまうほど面白かったことに、
Ashley事件の担当倫理学者、Diekemaの「害原則」論なのですね。

彼の「害原則」は文末にリンクしたように
当ブログも2007年段階で拾っているのですが、
Diekema医師はAshley事件が論争になるまでは、むしろ慎重な姿勢の倫理学者です。

彼が03年に書いた障害者の強制不妊に関する論文は実に理にかなったものだし、

子どもの医療を巡る意思決定についても、
利益対リスクや害を比較考量する「本人の最善の利益」論では
子どもを十分に守ることができないとして、
まず子どもに及ぼされ得る「害」だけを検討し、
「害を及ぼさないこと」を最優先する意思決定モデルを用いるべきだと
2007年のシアトルこども病院の生命倫理カンファで説いています。
これが彼の説く「害原則」harm principle。

(この原則によれば、
Ashleyの両親の要望を彼は認めてはならなかったはずなのですが)

Quelletteの論文で初めて知ったのだけど、
彼は害原則について2004年に論文も書いているようです。

しかし害原則だけでこれら Shaping ケースを制限することには限界があると
Quelletteは言います。

その理由は以下の3点。

①害原則判断は必然的に個別の介入またはケースごとに行われるものである。

②医療が行われない場合には有効だけれど、過剰に行われるケースでは機能しにくい。

(Diekemaの上記プレゼンも、確かに、親の医療拒否ケースが前提でした。
でも、その中で彼は親が医療を要望してきた場合を想定して、
親の希望に沿ってあげるとしたら「通常の臨床の範囲内で」と一定の基準を示しています。
これもまた、AshleyケースでDiekema本人が逸脱した基準なのですが)

③害原則は、害さえ及ばなければ親の決定権の範囲との前提に立っており、
問題の本質に対応していない。


この最後の点をQuelletteは最も重視しているのですが、これは私もAshley事件で、
正当化の根拠とされた「利益対リスク」論の盲点だと考えました。
確かに「害原則」にもQuelletteの指摘の通り、同じ盲点があります。

Quelletteは、これらの考察から
子どもの身体に手を加えることを親の「権利」と捉えることそのものが
法や道徳の議論の根底にある原理に沿わない、と主張するのです。

彼女の言う、その法や道徳の原理とは、
「人は所有財産ではない、それゆえ、人は尊敬と尊厳に値するのであり、」
誰であれ他者の身体に完全な支配を行使する権利を有する者はいない」。

それを裏付けるものとして Quellette が次に引っ張ってくるのは
法における「非服従(nonsubordination)の原則」。

それに関する議論は次のエントリーで。


【関連エントリー】
「最善の利益」否定するDiekema医師(前)(2007/12/29)
「最善の利益」否定するDiekema医師(後)(2007/12/29)
2011.06.22 / Top↑
Alicia Quelletteという人は、Ashley事件で08年に
あの傲慢なDiekemaに反論の隙を与えない、実に見事な批判論文を書いた法学者です。

また、去年4月28日にMaryland大学法学部が開催した
障害者の権利に対する医療と倫理委の無理解を考えるカンファレンスにおいて、
「障害と医療資源の分配」をテーマに講演を行っています。

Albany Law Schoolの準教授で
Union Graduate College/Mt. Sinal School of Medicine Program in Bioethicsの生命倫理の教授。

2008年のその論文については以下のエントリーにまとめています。

「倫理委の検討は欠陥」とQuellette論文 1(2010/1/15)
Quellette論文 2:親の決定権とその制限
Quellette論文 3:Aケース倫理委検討の検証と批判
Quellette論文 4:Dr. Qの提言とSpitzibaraの所感


Quelletteはこの翌年に、射程をもう少し広くとり、
Shaping Parental Authority Over Children’s Bodies
「子どもの身体に及ぶ親の権限を造り替える」というタイトルの論文を書き
ネットで公開した後、2010年にIndiana Law Journal Vol. 85に発表しています。

(10年にジャーナルに発表された際に内容が変わっている可能性がありますが、
私が読んだのは同じタイトルで2009年にネット上で公開されたものです)

たぶん、上記08年の見事な論文を書いた時に、
こういうことを急いで言わなければならない必要を痛感して、
それで本当に急いで書いたんだろうなぁ……という感じ。

あの08年論文と同じ人の手に寄るとは思えないほど
思いが先走って、ちょっと粗雑な印象の議論が続く。

そういう長大な論文を読み通すのはすごく苦しかったのだけど、
それでも、相当な日数をかけて最後まで読まずにいられなかったのは、
こういうものを急ぎ書かないでいられなかったQuelletteの危惧を
私自身が全く同じように共有しているから。

Ashley事件を追いかける過程で、
私が最も重大な問題として受け止めてきたのは、
親と子の関係性の中にはそれぞれの利益と権利の相反があり、
そこには支配―被支配の関係が潜んでいる、ということでした。

でも米国社会は、その事実と向き合うよりも
むしろ積極的にそこから目をそむけ、むしろ親の権限を「愛」で飾り立てては
「親の決定権」を増強していく方向に突き進み、
社会をそちらの方向へと煽りたてているように見える。

それは、米国を中心に広がっていく「科学とテクノで簡単解決バンザイ文化」と
そこに利権構造が絡みついたグローバル金融ひとでなし慈善資本主義にとっては
「親の権利」と「親の美しい愛と献身」とが、
たいそう都合よく利用できる隠れ蓑だから……。

そういうのが、07年からAshley事件を追いかけてきた4年半で
私におぼろげながら見えてきた「大きな絵」――。

そこでQuelletteの09年論文は「マスト論文」として、
かなり前から少しずつ読み進めていたところ、
19日にエントリーにした「姉のドナーとして生まれた妹がテレビに」という話題で
俄かに懸念がまた膨れ上がり、その懸念に背中を押されて、
やっと残りを一気に読み終えました。

アブストラクトはこちら

U.S. law treats parental decisions to size, shape, sculpt, and mine children’s bodies
through the use of non-therapeutic medical and surgical interventions like decisions to send a
child to a particular church or school. They are a matter of parental choice except in
extraordinary cases involving grievous harm. This Article questions the assumption of parental
rights that frames the current paradigm for medical decisionmaking for children. Focusing on
cases involving eye surgery, human growth hormone, liposuction, and growth stunting, I argue
that by allowing parents to subordinate their children’s interests to their own, the current
paradigm distorts the parent-child relationship and objectifies children. I propose an alternative.

Pushing analogies developed in family law and moral philosophy to respect children as complete but vulnerable human beings, I develop a trustee-based construct of the parent-child relationship, in which the parents are assigned trustee-like powers and responsibilities over a child’s welfare and future interests, and charged with fiduciary-like duties to the child. Application of the trustee-based construct separates medical decisions that belong to parents, from decisions that belong to children and those that should be made by a neutral third party.




内容について、これを含め4つのエントリーで取りまとめてみます。


Quelletteがこの論文でとりあげている「親が子の身体を造り替えた」事例は4つで

① 整形外科医が自分のアジア系の養女の目を二重瞼にする手術をしたケース
② スポーツ選手にとの期待から正常な背丈の子どもに成長ホルモンが使われるケース
③ 12歳の女児に脂肪吸引術、効果がなくなるとバインディング手術が行われたケース
④ Ashley Xのケース

(今だったら、イジメ防止のための耳の整形ケースも加えたいところ)

これらを「典型的な身体改造( shaping )ケース」とQuelletteが挙げているのは、
4つのケースに共通している以下の点が
shaping ケースでの親の権限を問題とするから。

・外見や社会的文化的理由で非治療的な造り替えが行われた。
・それらの介入は侵襲的、不可逆的で危険を伴うものである。
・親の意思決定によって行われた。
・いずれも判例法に報告されていない。

Quelletteは、これら4つのケースで用いられた医療介入の内容とリスクを詳細に検証し、
現在の医療決定における親の権限の危うさを指摘する。

そして、
親と子の関係を上下のヒエラルキーとして捉え、子を親の「所有物」とみなして
親の「権限」をいつのまにか「権利」にすり替えてしまっている
現在の医療法における親の権限の捉え方を分析、批判し、

権利を持った一人の人として子どもを尊重し、
その福祉と将来の利益を「信託された者」として親を捉えなおすと同時に、
これまで提起された親を信託者とする3つのモデルを参照し、
次に財産管理の信託を巡る法の理念を参照しつつ、
信託者としての親の医療における意思決定権限の論理的な枠組みの構築を試みる。

結論としては、医療における一定の範囲を超えた意思決定には
第三者の検討を加え制約をかける仕組みを作るよう提言している。

いずれの個所もツッコミどころは沢山あって、
特に重症児の成長抑制はこれでは肯定されてしまうではないか……と
個人的にも不満でもあるのだけど

それでも急ぎこういうことを書かなければ……と
切迫したQuelletteの危機感には大いに共感するし、
よくぞ書いてくださったことよ……と感謝の気持ちにもなる。

科学とテクノの発達で
親が子どもの身体を造り替えるためのツールがどんどん増えてくるにつれ、
「科学とテクノの簡単解決バンザイ文化」の背後にいる利権は、
「親の決定権」や「親の愛」を批判をかわすための“印籠”として振りかざしては
同時に“打ち出の小槌”にしていこうとしている。

そんな時代の空気の中で
親の決定権がフリー・ハンドになってしまっている状態を
このまま放置してはいけないとの問題提起として、
とても重要な論文だと思う。

(次のエントリーに続く)
2011.06.22 / Top↑
Ashley事件におけるDiekemaらの正当化の中で私がずっと不思議だったことの一つに、
開腹手術のリスクが一切言われないことがありました。

これもまた偶然拾った“お宝”なのですが、

外科手術のリスクについて
Diekema医師が法廷での証言で語っている資料を見つけました。

http://www.circumstitions.com/ethics-diekema.html

時は2006年1月。
Ashleyの手術から約1年半後、
あのGuntherとの共著論文を書く数ヶ月前……とでもいったタイミングでしょうか。

ワシントン州で、男児の包皮切除が失敗したケースが裁判となり(死亡例も結構あるようです)、
そこに専門家として呼ばれて証言を求められたもののようです。そのポイントは
「外科手術のリスク」と「医師が適切な利益対リスク検討を行う責任」について。

まさにAshley事件に、そのまま当てはまるポイントです。
当てはまる個所の発言を抜いてみると、

Non-therapeutic procedures that involve excessive risk should be avoided. An appendectomy on a healthy child, who has no history or symptoms of an appendicitis and who is not undergoing an abdominal surgery for other therapeutic reasons, for instance, would not be ethically justifiable because the absence of benefit to the child would not justify the surgical risks.

過度なリスクを伴うなら治療目的ではない医療は避けるべきである。例えば、盲腸炎の病歴も症状もなく、その他の治療上の理由による開腹手術を受ける予定もない健康な子どもの盲腸切除術は倫理的に正当化できない。なぜなら、その手術のリスクを正当化する利益が子どもにはないからだ。



Ashleyの盲腸は確かに開腹手術の“ついでに”切除されたものですが
その開腹手術は「治療上の理由」によるものではありませんでした。

で、彼が考える「手術のリスク」の具体的な内容はというと、

…a surgical procedure can only be justified when the benefits likely to accrue to the patient outweigh the harms that might arise from surgery – pain, possibility of death or complications.

患者にとっての利益がその手術から起こるリスク―痛み、死と合併症の可能性―を上回る場合にのみ、外科手術は正当化される。



痛みと、死と合併症の可能性――。
それが生命倫理学者Douglas Diekemaの考える「外科手術のリスク」なのです。

外科手術は、死の可能性を賭してでも得るべき患者への利益がある場合のみ正当化される。
Diekema医師は、そう言っているわけですね。

そういう「外科手術のリスク」観を持ち、
盲腸切除術で上記のようなことを言う倫理学者ならば、
健康な子どもに行う子宮摘出術や乳房摘出術での「手術のリスク」については
さらに重要視し、慎重に手術の是非を判断するはずです。

ところが、

06年のGunther & Diekema論文が
「予防的子宮摘出」の「利点」をずらずらと挙げた後で、
そのリスクについて書いているのは

The risks of this surgical procedure in prepubertal girls, and the risks of long-term complications, are minimal- certainly they do not excess risk of similar procedures many of these children will experience as part of their medical care.

思春期前の少女での子宮摘出術のリスク(複数形)と長期的合併症のリスクはミニマルなものである。それらのリスクは、こうした子どもたちの多くが受ける医療の中の、同様の治療のリスクを超えるものでは決してない。



また、2010年のFostとの共著論文では、

any risk-benefit analysis of hysterectomy and breast bud removal cannot ignore the potential benefits of ameliorating or avoiding breast discomfort, menstrual cramps, pelvic exams, and Pap smears, and any consideration of harms of the alternative treatments that would have been necessary (e.g., 30 years of birth control measures, anesthesia for gynecological exams and mammograms, breast biopsies, etc.)

子宮摘出と乳房芽摘出のリスク対利益検討では、乳房の不快感、生理痛、性器診察、子宮癌検査を和らげたり避けたりする利益の可能性を無視することはできない。さらに、子宮があれば必要になるであろう代替え療法(30年も避妊薬を続けること、婦人科の検査のために欠ける麻酔や、マンモグラフ、乳房の生検査など)の害も無視できない。



一見、後半部分で「害」について検討しているように見えますが、
これは摘出手術によって「取り除かれる害」のことを言っているのであって
あくまでも「利益」を云々しているにすぎません。

一方、著者は「手術のリスク」については、またも過小に書きます。

Hysterectomy is a common procedure with a low incident of serious harm performed for many reasons, including those cited in Ashley’s case. Breast bud removal is also an accepted procedure, …..

子宮摘出は、重大な害が起こることの少ない、ありふれた治療で、Ashleyの症例で挙げられたものを含めて多くの理由で行われている。



利益を数える際には、
あるかどうかも分からない生理痛や
将来Ashleyが受けることになるかどうかも分からない検査や、そのための麻酔までが
「取り除かれてよかった害」としてほじくり出されて「無視できない」と力みつつ、

「死と合併症の可能性」というリスクは丸無視する。

それは、いったい、どういう生命倫理学者の
いったい、どういう「リスク対利益」検討なのか?


さらに治療の侵襲度や親の意向についても、
06年の法廷での証言でDiekema医師は興味深い発言をしています。

A parent or proxy decision-maker would not be offered surgery as an option until the less harmful therapy had been attempted and demonstrated to be unsuccessful.

外科手術が選択肢として親や代理決定者に提示されるのは、より害の少ない療法を試みて、その効果がなかったことがはっきりした後のことである。



また、彼は米国小児科学会の声明の以下の部分に同感だとも言います。

…Providers have legal and ethical duties to their child patients to render competent medical care based on what the patient needs, not what someone else expresses….The pediatrician’s responsibilities to his or her patient exists independent of parental desires or proxy consent.

医療提供者には小児患者に対して、誰か他の人の言い分ではなく、患者のニーズに基づいて、有効な医療を行う法的また倫理的な義務がある。……患者に対する小児科医の責任は、親の望みや代理決定者の同意とは独立して存在するものである。



ふ~む……。

2004年のシアトルこども病院の特別倫理委が
父親のブログによると当初は「乳房切除をしぶっていた」にも関わらず
父親のプレゼンの後で(つまり「誰か他の人の言い分」を聞いた後で)納得し、
「親に決めさせてあげよう」という結論に至った(Diekemaの08年の講演での証言)……
……というのは、上記の声明に照らせば、まったく不可解な話です。

また、成長抑制ワーキング・グループの論文が
「親の望みとは独立した医師の患者に対する責任」を言わず、
ひたすら「医療に関する親の意思決定の尊重」を言い、
「親と共に行う意思決定(shared decision-making)」を説いているのも妙な話。

WGの論文といえば、
「女児の場合には成長抑制と子宮摘出は分かち難い」と認めつつ
「ここでは子宮摘出については論じないこととする」と断っているのも言語道断。

それは「女児の成長抑制には外科手術のリスクがあり得ます」と認めつつ、
「でも、痛みや死と合併症の可能性は問題にしない」と言っているわけで
(しかも「治療上の理由なしに課せられる外科手術のリスク」なわけですが)

そうしておいて、この論文は
「成長抑制療法のリスク対利益」は通常の重症児医療での親の意思決定の場合と同じだから
条件によっては道徳的に正当化される……と「妥協点」と称して「結論」づける。

それもまた、いったい、どういう「成長抑制のリスク対利益」検討なのか?

Diekema医師が、実はちゃんと認識している手術リスクを
”Ashley療法”論争で意図的に無視してきたことは、この法廷での証言から明らか。

要するに、アンタらがやってきたことは、
06年の論文から今回のWGのHCR論文に至るまで、
ただの「利益と利益の検討」じゃないか――。
2011.05.20 / Top↑
シアトルこども病院が去年11月にHastings Center Reportに発表した
成長抑制ワーキング・グループの論文については
以下のエントリー他、いくつも書いていますが、

成長抑制WGの論文を読む 1(2011/1/27)


その論文の内容について
同レポートの3月―4月号に掲載された編集者への書簡で、
シアトルこども病院の弁護士が一か所訂正をしていることが
ずっと気になっていました。

最近、手に入れてくださる方があり、読むことが出来ました。

Kudos, and a Correction
Jeffrey M. Sconyers, Seattle Children’s Hospital and Regional Medical Center,
Letters, the Hastings Center Report, 2011 March-April


Sconyers弁護士の書簡はタイトルが「賞賛と訂正」とあるごとく、冒頭で
成長抑制WGの論文著者が「謙虚でオープンなことは
この論争の(私は議論と呼ぶつもりさえない)多くを特徴づけていた
ドグマに満ちた悪意とは、際立って対照的だ」と

当ブログの検証を踏まえて読めば
あざといことこの上ない称賛を贈った上で、
論文の事実関係を一つだけ訂正したい、と。

シアトルこども病院がWPASとの間で
「将来、障害のある子どもの成長抑制を行う前には
裁判所の命令をとる」と合意したと論文が書いていることは事実ではなく、

「裁判所からの有効な命令を受け取った後でなければ」
やらないと合意したのである、とは、つまりは

裁判所から命令をとる責任者は病院ではなく親だということを
Sconyers弁護士は明確にしたいわけです。

なぜなら、彼が言うには
病院は成長抑制療法が承認されることによって利益を得るわけだから
病院が裁判所の命令を得ようとする行為には利益の相反が生じることとなり、
それは病院がやるべきことではないと2004年に判断したのだ、と。

したがって病院として合意しているのは、
成長抑制療法を求められた際にちゃんと裁判所の命令があるかどうか、
それが最終的なものであり、有効なものであり、また法的拘束力のあるものであることを
確認することだけだ、と。


しかし、2008年にこちらのエントリーで指摘したように、
米国小児科学会指針においても、2004年当時のワシントン大のICマニュアルにおいても
「裁判所の命令による許可を得なければならない」などと書かれており、
命令をとることの責任が医師には全くないとは言えないはず。

また2007年の子ども病院生命倫理カンファでのプレゼンで
親と医師の間で意見の相違があった場合について、Diekema医師も

問題は「医師がある医療介入を子どもの最善の利益だと考えるかどうか」ではなく、
むしろ「その介入はどの程度正当化できるのか」。

つまり、「その医師は裁判所の命令をとってでも介入しなければならないとまで
考えているか」という点である。



と語っており、
「裁判所の命令をとる」の主体者を医師との前提でものを言っているし、

実際、米国の医師は親がイヤだと拒否した治療をやりたければ、
裁判所に訴え出て命令を出してもらっていますよ。

Diekema医師がこのプレゼンの中で言及している以下の事件は
いずれも親や本人が拒否した治療をやりたい医師らが裁判所に命令を求めた事件です。

子どもを守る行政の義務・介入権 1 (Cherrix事件)(2007/7/20)
親と医師の意見の対立(Mueller事件)(2007/12/29)
親と医師の意見の対立(Riley Rogers事件)(2007/12/31)
13歳の息子の抗がん剤治療を拒否し母親が息子を連れて逃亡(2009/5/2)


したがって、当該治療をすることで利益が生じる病院サイドが
裁判所に命令を求める行為には利益の相反がある、というSconyers弁護士の言い分は
米国の医療現場で一般に受け入れられている論理とはとうてい思えません。


気になることとして、最後に、Sconyers弁護士は
自分の知る限り、裁判所にこうした命令を求めた親はいないが、
仮に出てきた場合に、裁判所がどういう判断をするかは分からないぞ、と書いています。

これが私にはものすごく不気味に感じられます。

なにしろAngela事件がありましたから。

Angelaの生理が始まった時と
彼女に全身麻酔で埋め込み型避妊薬が入れられた時との時間経過を分かりにくくするために、
判事が西暦とAngelaの年齢とを使い分けてみせるという、
世にも不思議な判決文を書き、

とっくの昔におさまっている大量出血と貧血を理由に
子宮摘出を認めてしまったのです。

Angela事件があったオーストラリアのクイーンズランドといえば、
シアトルとはゲイツ財団繋がりのあるところ……。

まさかSconyers弁護士の最後の
「裁判所だって、どういう判断をするかは誰にもわからんぞ」とは
シアトルこども病院の背景にある政治的影響力を意識しての発言だ……なんてことは?


なお、この書簡について、おなじみBill Peaceさんが以下のエントリーでとりあげ、
読み方によっては、まるでWPASに対して「ちゃんと合意を守らせてよね」と念押しするかのような
文章を書いています。

彼もまた、WPASと病院との合意が来年5月で切れることを意識しているのでしょうか。

Growth Attenuation and the law
BAD CRIPPLE、April 21, 2011
2011.04.27 / Top↑
いただきものの情報で、4月27日に、
ニューヨーク市立大学のGraduate Center主催のクィア関連のセミナーで
NY大学の博士号候補者 Lezlie Fryeさんが
Ashley事件についてプレゼンを行うとのこと。

QUNY, The LGBTQ Student Organization of the CUNY Graduate Center Presents
Session 3 of its Queer Embodiments Seminar Series of 2010-2011:
Queerness, Disability, Performance, and Critical Resistance

"Ashley Xed: Private Matters, Public Life"
Lezlie Frye
Doctoral Candidate, American Studies, NYU
Wednesday, April 27, 2011
6:30p-8:30p

Room 6304.01
CUNY Graduate Center, 365 5th Avenue btw 34th & 35th
ASL interpretation provided


In July of 2004, a six-year old physically and cognitively dis/abled girl known publicly only as “Ashley X” underwent combined surgery for a hysterectomy, an appendectomy and “breast bud removal” as well as being administered vast doses of estrogen over an extended period. Seattle Children’s hospital oversaw these alterations of Ashley’s body―functionally miniaturizing and de-sexing her―after a forty-person ethics committee granted what was subsequently revealed to be illegal permission. Coined “The Ashley Treatment,” this course of action was designed as an international precedent, aimed explicitly at extending the capacity of able-bodied parents to maintain care in the privatized space of their home. In "Ashley Xed: Private Matters, Public Life,” Frye examines the case of this white dis/abled child icon and the neoliberal arrangements of power that led to her medicalized maiming. In contrast to representations of Ashley’s case that consolidate the white, heterosexual, able-bodied and middle-class nuclear family home as the proper site for privatized care of dis/ability, she troubles the emergence of the caregiver subject, historiographies of (de)institutionalization, and the uneven distribution of human rights. Frye argues that Ashley X’s body―and the broader circulation of her case―marks out the flexible borders between states of social death and life, categories of human and sub-human existence, legitimate and illegitimate citizenship, and the overlapping ontologies of sexuality, race, and capacity.




まず事実誤認を3点指摘しておくと、
① 「40人のメンバーからなる倫理委員会が承認した」。
② Ashley Xのケースでの目的を在宅ケアの維持、と。
③ Ashleyの親をミドル・クラス、と。

しかし、これまでの批判言説からすると非常に新鮮な点がいくつもあって、

① Ashley事件を「国際的な前例として意図された」としている点。
ただし、その根拠はここからは不明。

② 「アシュリーXする」と、事件名を動詞化していること。

③ Ashley事件について
「ネオリベ型の力の行使による医療的不具化」が行われたケースと表現。
(the neoliberal arrangements of power that led to her medicalized maiming)

④ 「白人、異性愛、健常者でミドル・クラスの核家族家庭を、障害者の個人的な介護に適切な場所と思わせた事件」と表現している。
(the white, heterosexual, able-bodied and middle-class nuclear family home as the proper site for privatized care of dis/ability)

⑤ 上記の③や④に見られるように、A事件を
セクシュアリティ、人種、人権、能力などの観点から捉え返そうとしている点。



私はこの人のような背景知識を欠いているので
問題意識ははるかに浅かったと思うけれど、
Ashleyが白人・中流家庭の、しかも美しい少女であるという
3つの条件が揃っていなかったら、
これほど世論の支持を集めただろうか、と
2007年に考えてみたことがあった ↓

Ashleyが美しいということ(2007/9/13)
2011.04.24 / Top↑