06年にDiekemaと共著でAshleyの症例について論文を書き、
その後07年の9月30日午後9時30分以来ずっと死んでいるはずのGunther医師が
(詳細は「Gunther医師の死」の書庫に)
なんと生き返って、
「今月」また、あの同じ小児科学会誌に、またDiekemaと共著で、
6歳の重症児への成長抑制療法(子宮摘出を含む)を報告する
論文を発表した……ってぇぇぇぇ???
親の要望を受けて「慎重な相談と倫理委員会の検討を経て始められた」もので、
両医師は成長抑制療法について「倫理的かつ実行可能で、
親への選択肢の一つとすべき」だと主張している……ってぇぇぇ????
で、その論文にBroscoとFeudtnerが、また、論説を書き、
その判断を「間違っている」とはいうものの、今後の検討には
「さらなる研究とパブリックな議論が必要」だと言っている……ってぇぇぇ????
……と考え、私は仰天しましたよ。
なぜか子ども服を売る地味なサイトに昨日アップされた
なんとも場違いな、この記事を読んだ時には――。
よくよく読んでみれば、どうやら
2007年の論争当時の文献から
Ashley父の立場で言いたいことだけを都合よく抜き出すと
たぶん、こういう書き方になるだろうなぁ……という内容の記事を
どこかから探してきてコピペしたのか、
はたまた
誰かが改めて書いたものを、いかにもコピペした別記事のように見せかけているのか、どちらか。
確かに最初の一行は
「この記事についての意見を好きなだけ詳しくコメントして」で、
そのすぐ後に上記の記事が続くという形。
しかし、その記事にはリンクもなければ、ソースも日付も一切ないばかりか、
明らかにAshley事件について書いているというのにAshleyの名前すらないので、
もしも予備知識のない人が読むと、現在進行形で起きている事件のことだと
思いこむのは間違いない。
これもまた、たぶんAshley事件で続いている例の怪現象の一つなのだろう。
これまでは、ずっと同じAP通信の記事のコピペだったのだけど、
新手を繰り出してきたってことなのかしら。
what is your reaction about this article as psychology?
Baby And Infant Clothing, April 9, 2011
それにしても、いくら世間から忘れられないように話題のエサを撒きたいとはいえ、
死んだ人を生き返らせて同じことをもう一度やらせるような失敬なマネ、するなよ。
“Ashley療法”論争の渦中で自殺したんだよ、その人は――。
米国のプロ・ライフ団体の支援により特別機でセントルイスの病院に転院がかなった
Joseph Maraachli君(1歳1カ月)の続報があり(事件詳細は文末にリンク)、
セントルイスの病院はJoseph君に気管切開を行ったうえで
ナーシング・ホームに送る、との見込み。
しかし、カナダで訴訟を起こしてまで彼の呼吸器をはずそうとした病院は
あくまでも自分たちの判断は正しかった、と。
Baby Joseph mored to U. S. after Canadian court rules docs can remove breathing tube
The Toronto Star, March 15, 2011
ところで、この記事には、とても気になる人物が登場して、
とても気になるコメントをしています。
Washington大学セント・ルイス校の
法学・医療倫理学の教授、Rebecca Dresserが
米国の裁判所はこのような訴訟では、たいていの場合、
明らかに救うことのできない症例であっても、
愛する者の治療を続けてほしいと望む家族の側に立つものだ、
これからは、こういう終末期医療を巡る類似の訴訟が増えていくだろう、
「コストを巡る懸念が大きくなっているので、
こういう訴訟は増えていくでしょうね」と。
なんとも Norman Fost 的な物言いの Rebecca Dresser、
シアトルこども病院が組織した成長抑制ワーキング・グループの
メンバーの一人でもありますが、
それ以上に当ブログで注目してきたのは、
以下のエントリーで読んだChristian Ryanの論文で何度も引用されていること。
憲法が保障する“基本的権利”をパーソン論で否定する“Ashley療法”論文(2009/10/8)
憲法が保障する“基本的権利”をパーソン論で否定する“Ashley療法”論文(後半)(2009/10/8)
Ryanの論文によれば、Rebecca Dresserは
重症障害児は我々とは別の世界に住んでいるのだとして、
重症障害児には通常の最善の利益の考え方とは別の
「改定最善の利益」基準を設けるべきだと主張している人物です。
【Maraachli事件関連エントリー】
1歳児の「無益な治療」で両親が敗訴(カナダ)(2011/2/24)
2011年3月1日の補遺(2011/3/1)
2011年3月5日の補遺(2011/3/5)
呼吸器取り外し命じられたカナダのJoseph君、セントルイスの病院へ(2011/3/15)
例のシアトルこども病院が組織したWGのHCR論文に関するコメンタリーが出ている。
無料で読める最初の20%だけからは、著者のスタンスは不明。
In 2006, Ashley, a 6-year-old child with severe developmental disabilities, received treatment at Seattle Children’s Hospital (SCH) with high-dose estrogen and surgical removal of the child’s uterus and breast buds, in order to attenuate her growth to facilitate parental care-giving and to improve her future quality of life. Subsequently, a 20-member working group comprised of ethicists, legal experts, and community representatives was assembled at SCH to discuss ethical and legal aspects of growth attenuation in children like Ashley. In this report the working group’s deliberations are summarized. The group could not establish a consensus, but the majority reached this position of moral compromise: growth attenuation in the nonambulatory profoundly developmentally delayed child is ethically acceptable because the benefits and risks are similar to those . . .
多様な人で構成された20人のWGが
「シアトルこども病院に集まって」協議した、という書き方が気になる。
シアトルこども病院は単に協議の場所だったのではなく、
いまだ多くのことが解明も説明も正当化もされていない第1例の当事者であり、
そのシアトルこども病院が自ら組織したWGだということが問題だというのに。
Growth Attenuation in Children in Profound Disabilities
By Felipe E. Vizcarrondo, MD, MA, FAAP
AAP Grand Rounds 25:36 (2011)
著者については、こちら。
このコメンタリーそのものがどういうものかは分かりませんが、
私は論争の初期からDiekemaやFostは
成長抑制を小児科学会に承認させようと働きかけているだろうと考えており、
あのHCRの論文をはじめ、
彼らがこれまでやってきたシンポや論文は、
そのための布石として周到に準備されてきたことなのかも……と
これを見て、チラっと頭によぎりました。
【関連エントリー】
米小児科学会に“A療法”承認の動き?(2008/3/13)
次は米小児科学会が成長抑制を承認するかも?(2009/2/1)
びっくりするなぁ、もう。
障害児に対する嫌悪感・差別意識を露骨にむき出しにして恥じない、
Ashley事件では親の決定権がすべてという論陣を張り続けている
あの Norman Fost が、Wisconsin大学の児童保護クリニックにも関わっているらしい。
で、この映像で語っているテーマは2つで、無益な治療と児童虐待防止。
まず前半の、無益な治療判断について語っていることの概要を以下にまとめてみると、
「重病の子ども、苦しんでいる子ども」に
命を引き延ばすためのアグレッシブな治療を続けるかどうかの判断は難しいし、
しばしば意見の対立が起こることあるが、
ほとんどの場合、それは事実関係の誤解があるからで、
その子どもの予後をきちんと説明し、
例えば、「その子どもがどのくらい延命されるのかとか、
果たして目覚めて機能し始めるのか」などについて
事実関係が正確に理解されれば、
たいていの人が
「なすべき正しいことが何かは明らかですね」と(治療停止に)同意する……と。
障害児に対する「無益な治療」論に対する批判の論点は
その子どもの延命期間の長短でも、「目覚めて機能し始める」可能性の大小でもなく、
障害を治療停止正当化の論点とする姿勢そのものなのだけれど、
意識的なのか無意識的なのか、Fost は、ゼッタイにその違いが分からない(分かろうとしない)。
ここに見られる、議論の成立そのものを阻む頑迷パターンは
あの成長抑制WG論文の頑迷にそっくり。
成長抑制批判の論点は
障害の重さによって正当化する姿勢そのものなのだけれど、
FostやDiekemaが主導したに違いないWGの論文は、
FostやDiekemaのこれまでの正当化を頑迷に繰り返している。
だって、重症児にしかやらないんだから、問題はないじゃないか、と。
この生命倫理学者が言葉を操作する狡猾さを思うと、ただの頑迷では、もちろん、ない。
Fost はここで「重病の子ども、苦しんでいる子ども」と言い、
「障害」という言葉を一切使っていない。
しかし、その後の「目が覚めて機能し始める」という表現で、
重症の意識障害を念頭に置いていることは明らかで、
その「意識障害」には、もちろん、
Fost の「どうせ重症児には何も分からない」パターンの重症児に対する偏見により、
植物状態から最少意識状態から意識障害を伴っていない可能性が高い知的障害まで含まれている。
「機能し始める」という曖昧な表現は、
聞く人それぞれが障害に対して持っている偏見に応じて、その具体像が変わるだろう。
しかし、そこで喚起される、それぞれのイメージには、Fost によって
「意識がない状態」とか「意識があっても障害がある状態」は「人として機能していない状態」との
価値判断が添加されている。
「どのくらい延命されるのか」と「目覚めて機能し始める」が並列されることによって
「機能していない状態で生きること」は自ずと「延命できない=死んでいること」と等価として提示されてもいる。
何よりも狡猾に仕組まれたイルージョンのタネは
ここで対象にされているのが 「目が覚めて」いない、本当に「意識のない」子どもなのであれば、
それは冒頭で Fost がいう「苦しんでいる子ども」ではないということだ。
ここで Fost が演じてみせている手品は、
「重病の子、苦しんでいる子ども」の、その苦しみを長引かせないために
効果が期待できないアグレッシブな治療はやめることが正しいという論理でスタートしながら、
さりげなく全然それとは別の文脈に持ちこんで、
最終的に意識障害がない重症障害児への治療停止まで正当する結論に落してみせるイルージョン。
(これは、「死の自己決定権」議論でしきりに使いまわされている手品でもある)
そして Fost は後半の児童虐待予防策について語る際にも
同じイルージョンを使う。
自分たちが講じた児童虐待の防止策で
保育所で虐待リスクが高い親を特定し、家庭訪問員を送ったところ虐待が予防できた。
このプログラムによって、虐待を2度と繰り返さないやり方で
子どもを安全な家庭に返すことが可能だと語っている。
彼のプログラムが保育所で選び出すのは「虐待リスク」の高い親なのに
そのプログラムの効果を語る際には「虐待が再発しないように」と既に虐待があった親に話がすり変わる手品。
もともと「ハイリスク」でしかないのだから、
「介入によって予防できた」という効果の証明はできないはずでは?
それになにより「彼ら(誰をさすかかは不明)にはリスクの高い親が分かりますからね」という程度の根拠で
「虐待リスクの高い親」を特定する……って、一体どういう予防プログラム……?
これは、もう 「マイノリティ・リポート」の世界では……?
(もっともビデオはつぎはぎなので、ここにない場面で詳細が語られている可能性はありますが、
「彼らは彼らがどういう人間かを知っていますからね」という Fost の言葉も、多くを語っているのでは?)
「虐待予防」の名のもとに「虐待リスクの高い親」を抽出し監視下に置く
過剰な管理を正当化するために、彼はこんなことを言っている。
小児科医である私のクライアントは子どもですから。
私にとって大事なのは子どもです。
かつて高名な小児科医が言ったことがあります。
小児科医には大事なクライアントが3人いる。
まず子ども。次に子ども。そして最後に子ども。
Ashley事件で親の決定権だけを代弁・擁護してきたNorman Fost がこれを言うのは、
私にはゼッタイに認められない。
Norman Fost が立っているのは、子どもの側でも親の側でも、ない。
彼が立っているのは、医療の側だ。
医療の独裁で子どもの権利を侵害しようとする時には親の決定権を隠れ蓑に使い、
親の権利を侵害しようとする時には子どもを守る小児科医の責任をまとって見せる。
彼にとって大事なクライアントがあるとしたら、それは「医療の権威」そのもの。
そう、きっと、Norman Fost が頭に描いているのは、
医療の論理と権威が支配する世界――。
メディカル・コントロールの時代――。
小児生命倫理カンファレンスを開催しています。
今年は7月22、23日で、第7回のテーマは
Who’s Responsible for the Children?
Exploring the Boundaries of Clinical Ethics and Public Policy
子どもたちの医療はだれの責任か?
臨床倫理と公共施策の限界を探る
カンファの情報ページはこちら。
そこに、このカンファで検討される具体的な問いがいくつか挙げられており、
• Under what circumstances should individual providers or healthcare institutions extend medical care to children whose families cannot pay?
• Do providers' responsibilities extend beyond the walls of the clinic? How do we balance obligations to provide better healthcare with obligations to improve other factors that influence health, such as diet, exercise, housing and education?
• Do providers have an obligation to tell families about healthcare options that are not “available” or will not be provided because of financial constraints?
• Should care to children be prioritized based on social, physical or mental health status?
o Children who have expensive technology-intensive care needs, such as ventilators, dialysis or transplants?
o Children with intellectual disabilities who require special resources, yet will remain dependant on society?
o Children who have mental healthcare needs?
o Children who are undocumented?
• How will healthcare reform affect the goal of providing for the basic healthcare needs of all children?
・家族に支払い能力のない子どもに個々の医療提供者または医療機関が医療を行うべきだとされる状況とは?
・医療提供者の責任はクリニックの外にまで及ぶのか? より良い医療を提供する義務と、食事、運動、住まいや教育など、健康に影響するその他のファクターを改善する義務とのバランスをどのようにとるのか?
・経済的な制約のために「対象外になる」または提供されない治療の選択肢について、家族に知らせる義務が提供者にはあるか?
・社会的、身体的または知的状態に応じて、子どもたちへの医療に優先順位をつけるべきか?
たとえば、
・人工呼吸器、人工透析や臓器移植など高度技術による高価な治療が必要な子どもは?
・特殊な資源を必要とする知的障害があり、社会に依存し続けるであろう子どもは?
・メンタル・ヘルスのニーズ(つまり精神障害?)のある子どもは?
・不法入国・不法滞在の子どもは?
・すべての子どもの基本的な医療ニーズに応えるというゴールに、医療制度改革はどのように影響するか?
もう、一読段階でわわわわっ……と頭の中が疑問だらけになるのですが、
まず漠然と思うのは、
さすがに、主催のTruman Katz小児生命倫理センターは
Ashley事件を正当化し続けるDiekema医師の牙城とあって、
いかにも“Ashley療法”論争の論点がそのままここにもあるなぁ……と。
例えば、
① 本来は社会で解決すべき問題が
最初から医療の中で解決されるべき問題として提起される傾向。
② 障害、特に知的障害に対する根深い偏見と差別。
③ その差別意識が功利主義的な切り捨て医療の正当化に使われる傾向。
最初の①の傾向でいえば、
例えば家族に支払い能力がない子どもへの対応は
最初の問いが前提しているように個々の医療提供者や医療機関の判断の問題ではなく、
米国社会または各州レベルでの社会や行政の課題として対処すべき問題であり、
それがなされていないために個々の医療者が判断を負わされている状況があるなら
それは医療が社会に問題を投げ返すべきなのであり、それをせずに医療の中で
どのような状況では治療をすべきで、どのような状況ならすべきでないかと
個々の判断の問題として提起され、そこに基準を模索する方向の議論が行われるとしたら
それは筋も違うし、不適切なのでは?
もっとも、メディケイドも
メディケイドの対象にはならないけど保険に入れない層の子どもには S-Chipプログラムもあるはずなので、
そこのところの事情は、よく分かりませんが。
(カンファ準備委員会の中にはWA州保健局からも人が出ています)
第2の予防医療の責任に関する問いについても同じことが言えて、
この問題を個々の医療提供者の責任範囲の問題として提起するのは筋が違うと思う。
②については一目瞭然。
あまりにも不快なので今たちまち云々する気になれませんが、
Ashley事件に関して言われてきたことの多くが
ここでも言えるような気がします。
③ についても同様ですが、
こうした問題提起がシアトルこども病院から出てきていることは
決してAshley事件やその背景と無関係なわけではないでしょう。
それについては、
今朝アップしたばかりの以下の2つのエントリーに詳細をとりまとめました。
シアトルこども病院・ワシントン大学とゲイツ財団の密接な関係:グローバルな功利主義・優生主義医療の動き(2011/2/9)
Ashley事件関連資料リンク集 12: 病院・大学とゲイツ財団との関係(2011/2/9)