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Claire Royさんが、Walker論文に続いて、
同じく重症児の母親の立場で成長抑制に反対するSwenson論文を取り上げている。

こちらはClaireさんも私も同じスタンスなので、
ちょっとお気楽に、論点のみを。

① 冒頭、自分が重症児の親であり、
その介護が如何に大変なものかを直接体験として知っていることを述べて、
「反対する人たちは、重症児についても介護についても知らないから言えるのだ」
との批判が当たらないことを示す。

② ちょっと論旨が明瞭でない部分もあるようだけれど、
家族支援によって、重症児も欠けるところのない満足な生活を送ることができ、
地域に暮らす一人として人権を尊重されることは可能だと
Swenson論文は論証している、とClaireさんは考えている。

③ 「成長抑制がもともとの障害を治療するものでない限り、認められるべきではない。
子どもの人権が親の権利を制限すべきである。

我が子が望むこと、将来望むであろうことを私に分かるでしょうか? 
私の勝手な解釈を超えて意思決定ができる、
支援された意思決定プロセスというものがあるでしょうか?
私の子どもの権利を守ってくれる人は? 
親のプライバシーの縦に隠れて行われた決定は、
親の利益のための決定となりがちでしょう」という個所について、

DiekemaとFostが提案しているように、
3歳児に選択肢として主治医から提示される場合には、
親のプライバシーという盾だけではなく医療という盾もある、とClaireさんは指摘。
子どもの障害に動転している親は医師の発言に誘導されやすく、
とうてい医師のバイアスをきちんと検討できるはずもない、とも。

④ Swensonの、既に成人した息子Charlieが、
一軒の家に2人のルームメイトとスタッフと暮らし始めたこと、
そこでのケアが本人主体の素晴らしいものであること、
地域に資源とサービスがあれば、重症児・者でも
このような生活が可能だと書かれていることについて、
Claireさんは、それだけのサービスはどこでもあるものではないと指摘しつつ
しかし「やはりサービスよね」とも。

⑤ 「子どもに障害がなかったら、やるかどうか、考えてみて」と
Swenson論文が「やりたい」という親に呼び掛けている点について、
障害児への介入なのだから、論点が違うと指摘しつつ、
しかしここでSwensonが言いたいのは、やはり
障害児の人権が侵害されているということなのだろう、と。

⑥ 最後のSwensonの問いは、
「これは親である自分のプライドやエゴの問題なのだろうか」。

「社会から支援を受けていることに後ろめたい気持ちになることがあるのは事実だけれど、
弱者への支援はたいていの場合は政府の当たり前の行いとみなされるはず。
支援を受ける恥ずかしさを社会の側へ理解を示そうとすることによって、ごまかしていない?
でも、他の人たちが普通に生きて暮らしているのと同じように、
障害のある人たちだって、普通に生きて暮らしていけるのです」という結論部分で、

Claireさんは、この最後の
Disabled people, too, can live simply so that others may simply live.の個所が
イマイチ、真意を読みとれないと書いています。

私はすうっと抵抗なく読めたけどな……。



Another Hasting article addressed
No More Ashley X’s: Say NO to Growth Attenuation, November 17, 2010
2010.11.18 / Top↑
このエントリー、
前のHCRの重症児の親による成長抑制支持論文にClaireさんが見事な反撃の続きです。


私はもう長いこと、この人のブログを読んでいるけど、
Claireさんは、たぶんBill Peaceとの出会いあたりから、
ものすごい勢いで様々なものを吸収し、学んで、ぐんぐん変ったような気がする。

ここへきて、ついにPeaceを追い越しちゃったのかもしれない。

なにしろBill Peace氏の方は
Walker論文で「障害当事者から疎外された」と批判されたことに
かなりオタオタして、妙に中立的なところに逃げている。
障害児の権利が侵害されたと主張してきたくせに、それでは話の筋が通らない。

私自身は、
親と子の間、介護する者とされる者の間には
避けがたい利益の相克、権利の衝突があることをこそ、
Ashley事件・成長抑制の倫理問題は突きつけていると考えているので、

その相克や衝突を考える上では、障害者運動の人たちには、もちろん
親の置かれている立場や抱えているニーズや問題にも理解の目を向けてほしいけれど、
仮に、どちらかに自己同視して論じるしかない場面があるとしたら
私は障害当事者や運動には、親の側ではなく、断固として子どもの側に立ってほしい。

だから、Bill Peaceも、障害者運動のサイドも、
堂々と「自分たちは、もの言えぬ子どもの側に立つ」と言い切ればいいのだ、と思う。

そして、親の思いやニーズを考えても、
親が支援の手を借りつつ安心して子育てができ、
親が安心して子を託して死んでいける社会が作られることが必要なのだと、

それは、まったくClaireさんが言う通りなのだから、
そのことを一緒になって訴えていこうよ、と親に呼び掛けてくれれば、と思う。

私たち重症児の親も、障害者運動から学ぶ必要があるというのは
本当にClaireさんが言う通りだ。

子どもの障害を知った時から、
私も自分の主観では、ずいぶん頑張って闘い続けてきたつもりになっていたけれど、
そんなの、わずか20年程度のことだ。それに、本当は、ただ腹を立てていただけで、
私は何も知らず、知ろうともせず、何もしてこなかった。

Claireさんが言うように、目の前の我が子という一本の木、
我が子が通う施設、入所している施設、私たちの住んでいる町という木を眺めていただけのこと。

私が森の存在にやっと気付いたのは、Ashley事件と出会ってからだった。

そんな私でも、森が見えてくれば来るほど、
時々「なぜ、通じないのか!」と、やるせなく、歯がみする思いになることがある。

でも、このブログを始め、
いくつかのMLに参加させてもらって、いろんなことを知り、いろんな人と出会い、
最近、歯がみする思いになるたびに頭に浮かぶのは、

私などよりも、ずっとずっと前から、闘い続けてきた人たちがいる、ということ。

このやりきれない思いを抱えたまま、その思いにじっと耐えながら、
何十年も闘い続けてきた人たちがいる……ということ。

重症児の親として、私も障害者運動に対して思うことは様々にあるけれど、
その運動の長い歴史と、そこに参加した多くの人たちを思う時、

私よりもはるかに昔から、当事者として、私が想像もできないほど深く傷つき、
私よりももっとやり切れない思いを抱えて、それでも声を上げ、
闘い続けてきてくれた人たちに対して、深い敬意と感謝に包まれる。

長い年月の運動によって思考と心を鍛えられてきた人たちの声の強さ、明瞭さに打たれる。
その声が語る言葉に耳を傾け、私も学び、考えたいと思う。

私は私にしか語れない一本の“木”のことを語り続けながら
より大きな“森”を見る努力をし、森のことを一緒に考えていきたいと思う。

そのことを通じて、私も障害のある子をもつ親として、思考と心とを鍛えられ、
いつか、その時がきたら、託してゆく勇気を持てる親に成長していたい、と思う。

そして、その時には、
総じて信頼し、子を託していける人間社会だと、思える世の中であってほしい。



【関連エントリー】
成長抑制を巡って障害学や障害者運動の人たちに問うてみたいこと(2009/1/28)
重症心身障害児・者にはアドボケイトがいない、ということ(2009/1/29)
親と障害学の対立の構図で議論から締め出されている他の存在も見えなくなっている(2010/1/30)
親の立場から、障害学や障害者運動の人たちにお願いしてみたいこと(2010/3/12)
2010.11.17 / Top↑
Bill Peace氏と並んでAshley事件・成長抑制一般化に反対し続けている重症児の母親Claire Royさんが、
Hastings Center Reportに掲載された重症児の親2人の論文のうち、
成長抑制をやりたいとの立場で書かれたSandy Walkerさんの文章を取り上げ、

その問題点を指摘、見事に反駁しています。
この論文への反駁にとどまらず、見事な成長抑制批判になっています。

同じ町に住んでいたら、今すぐに駆けつけて
思いっきりハグしたいくらい。すばらしい!!

Friday, November 12, 2010
No More Ashley X’s: Say NO to Growth Attenuation


まず、Claireさんが指摘していることとして、Walker論文の主要なポイントは
娘Jesseicaさんの成長につれて、本人も家族もこれまで出来ていたことが、
あれもこれもできなくなった、介護もしにくくなった、という問題の羅列であること。

よく、まぁ、こんな甘っちょろいものがHCRの査読を通ったものだと呆れている。
(それを言えば、06年のG&D論文をはじめ擁護側の論文はみんなそうなんだけど)

以下、Claireさんの指摘。

① 介護がしにくくなった要因として、
膝の拘縮と不随意運動が出てきたことが挙げられている点について、
ちょっと待ってよ、それらの問題に成長抑制が対応するわけではないでしょ、と。

成長抑制の効果は成長を抑制することだけのはず、
成長抑制にあれもこれもの効果があるように言わず、
ちゃんと問題を整理しましょうね、と。

(私は厳密には「身長抑制」と言った方がいいと思うし、
その「身長抑制」の効果すら疑問視する医師や学者もいる)

② 次にClaireさんが疑問を投げかけるのは
Jessicaさんが前はできたのにできなくなったことの中に、
「立ったりテレビの前で踊ったり」が含まれていること。
Jessicaさんがそういう障害像なのだとしたら、
彼女はもともと成長抑制の対象にならないはずでは?

そういう障害像の娘をもつ母親がこういう論文を書いていることそのものが
“すべり坂”ではないのか、と。(鋭いぞ、Claireさん!)

③ Walker論文が「社会支援の必要が問題なのだと言って反対する人がいるが、
こういう状態の重症児と家族にとっては、どれほどの社会支援があったとしても助けにはならない。
そういう立場で反対する人たちは、ウチの娘のニーズも、Jessicaの安楽・健康を守り、
“退屈と孤絶”から救ってやりたい親の望みも分かっていない」と主張することに対して、

自分が以前住んだ町と現在住んでいる町にどれほど利用可能な施設があるかを
Claireさんは具体的にあげてみせる。

人口40万以下の町に、障害者にも利用可能なプールが最低1つ、
スヌーズレンの部屋が最低一つ、障害児を特に意識した子どもセンターもある、
利用可能なグランドに、こども美術館、良質な学校プログラム、
利用可能なバスも小型バスもある……などなど。

確かに障害児と家族が利用できる社会資源はまだ十分ではないかもしれないけれど、
いくらあってもJessicaを退屈と孤絶から救うことができないというのは全くの事実無根だ、と。

身体が大きくなって、かつてできたことができなくなるのは事実だけれど、
だからといって、それが即「退屈と孤絶」になるわけではないし、
逆に、成長抑制がそれら全ての問題を解決してくれるわけでもない。

(この次、本当にアッパレだから、拍手の準備してね)

そもそも、どの家庭にだって変化はやってくるものなのよ。
だいたい、障害がある子どもだからといって、
一生涯、同じことばっか、やって生きていきたいかしら?

④ Walkerが親の老いを介護が困難になる要因として挙げている点について

夫婦のどちらかが障害を負うことだってあるし、
離婚や経済的な破綻や、死ぬことだってあるのよ、と。
成長抑制を提唱する人たちは短期的な視野しかないし、
実際、障害児の将来については何も見ないふりをしているけれど
長期的に見れば、80歳の親にはどんなサイズの我が子だってケアできないでしょーが。

子どもを小さなサイズにフリーズしたからといって、時を止められるわけでもなければ
人生の想定外の出来事を阻止できるわけでもない。
私がケアできなくなった時に、誰がこの子の面倒を見てくれるのか、
その将来の問題は、変らずにそこにある。

だからこそ、やはり必要なのは社会サービスであり、
親は子どもの将来のために、そういうサービスの整った社会を作ろうとすべきでしょう。
どんな子どもであれ、成長抑制がその子に特定の将来を保証することなどありえません。

(そーだ、そーだ! このブログでも、その点をずうううううっと言ってきたんだ)

⑤ Walker論文が結論において、成長抑制を批判する障害者運動の人たちの発言は
自分たちのような考え方をする親や当事者は仲間として認められていないのだ、
重症児とその親は疎外されているのだと感じた、傷ついた、と書いていることについて、

Claireさんは、障害者運動の当事者については、
一方で、自分も同じ感想を抱いていることを認めつつも、

また他方では、
これまで社会で障害者に行われてきたことの大きな歴史的な流れや
障害者の処遇に対する考え方の変遷などを振り返ると、
自分たち親には木しか見えないところで、
彼らには森が見えているのだと捉えるのです。

だから、重症児の人権が成長抑制で侵害されているとの彼らの声に、
今、耳を傾けないでいたら、親が自分でそれに気づくには、これから50年かかるわよ、と。

(なんて、ブラボーな発言だろう。なんて賢い人なんだろう)

⑥ Walkerには、成長抑制を社会という幅広い背景の中で眺める視点が欠けていて、
医療の範疇でしか見ることができていない、との指摘。

それは上記⑤での指摘と重なって、
Claireさん自身はそういう言葉を使っていないけれど、
「アンタは医学モデルでしか成長抑制を捉えていないけど、
そこは社会モデルで考えるべきでしょ」と言っているのだと思う。

最後に、これも、そういう言葉は使っていないけど、
「医学モデルしか見えていないアンタは、だからこそ
障害者アドボケイトから学ばないとダメなのよ」と
説教して終わっているのが、チョーおかしい。

Claire Royさんに、スタンディング・オベーションを――。


(次いで「Claireさんの文章から、親と障害者運動について考えた」を書きました)

【Claireさん関連エントリー】
「一筆ずつ描かれていく絵のように子は成長する」成長抑制批判(2009/7/23)
重症児の親Claire Royさんによる成長抑制批判(2010/4/28)
重症児の親による成長抑制批判の落とし穴(2010/4/28)
2010.11.17 / Top↑
多いときには1日に150回もけいれん発作を起こす
いわゆる超重症児にあたる息子Segevくんについて、
また重症児の意識や尊厳や、それから成長抑制療法について

イスラエル在住のカナダ人で指圧と生体人間工学の専門家Erikさんが
ブログで興味深いエントリーを書いている。

500.000 seizures have not killed my son
Erik
I am a broken man/You can’t break me, November 14, 2010


毎日けいれん発作を起こしては呼吸が止まったり、ぐったりして
これまでに、もうざっと50万回もの発作を繰り返しているSegev、
何度も手術台の上で死んだと思われた息子は、しかし、
それでも死なずに生き延びてきた。

A person like that is quite special and deserving of respect. Deserving of having someone nurture him and thus give him a dignified existence. For me nurturing is a complex issue that encompasses this idea of dignity while maximizing his ability to experience positive things in life. Maximizing may mean treatments and therapies but, having tried and seen Segev's potential does not lie with trying to make him stand or turn over since he cannot control his body, the maximizing lies with physical contact, the holding but also with using that moment to apply techniques of pressure to steady, change and encourage not only his bodily functioning but his knowledge that there is this love where one person takes care of another.

こういう人は特別な存在で、敬意に値する。
誰かにケアして(nurturing)もらい、尊厳のある生を生きさせてもらうに値する。

私にとって、ケアすることとは、
人生における良いものを経験できる能力を最大限に生かしながら
尊厳という考えも広くカバーする複雑な問題だ。

もちろん、その人の能力を最大限に生かすとは治療やセラピーのことでもあるけれど、
立たせたり寝返りさせたり身体を自分で動かせるようにするということだけが
Segevの潜在能力を捉えて伸ばそうとすることなのではなく、

身体に触れたり抱いて身体を支えてやったり着替えさせたりするケアの瞬間にも、
彼の身体機能を伸ばそうとすると同時に、彼の知識をも伸ばそうと働き掛けることなのだ。

人が人をケアするところには愛があることを、
Segevが知ることができるように――。

(Nurturingには適当な訳語が思いつかなかったので、
とりあえずケアとしておきました)



施設の職員さんが「忙しいから“関わりの時間”が持てない」というのを聞くたびに、
この人は、無言で着替えさせ、無言でトンラスファーをし、
無言で食事介助をするのだろうか……と、私は考えてしまう。

その人を人として尊重し、尊厳ある存在として遇しているならば
黙って着替えさせたり、オムツを交換したり、食事を食べせたりしておいて
「さぁ、関わりの時間だから、お話ししましょう」なんてことは、
ありえないはずなのに……と。


もっともErikも、
あまりにも依存度の高い人の場合には、ケアする側がだんだんと
その人自身よりも障害や病気の方に気を取られて、
まるでその人が障害そのものであるかのような意識になってしまう、と指摘する。

しかし、Segevの頭の中で何が進行しているのかについては
たぶん、こちらの目に見える以上のことが進行しているのだろうと
Erikは考えているし(私もそう思う)、

実際、これほど重度のSegevは、50万回もけいれんを起こしつつも、
今なお、新しいことを身につけ続けている。

舌を突きだすことが新たにできるようになったと思うや、
立て続けに突きだして見せることまでできるようになった。

思いがけない時に、おや、やっぱりこの子は分かっている、と
かすかな信号を出して、こちらを驚かせてくれる。
だから、たぶん、こちらの目に見える以上に、
この子は分かっているのだと思う。

そういう子どもの父親として、Erikは
全介助の重症児の身体が小さいことのメリットを考えないではないけれど、
しかし、成長抑制には大いに疑問があるという。

第一に、Ashleyに行われた乳房摘出。
あれが一体どうしたら正当化できるというのか。

健康上の必要のない、本来、治療ですらないものを
成長抑制と称して医師らは提唱している。

人類の歴史を振り返れば、
自分で選択できないAshleyに違法な手続きでの前例ができると、
ただ話題になり騒ぎになって、無意味な議論でガイドラインなどが作られ、
後先を考えずに、ひたすら、まろび進んでいくのだろう。
人類は、そうして進歩を生んできたというわけなのだから。

この後でErikが書いていることが私には非常に興味深かった。

It may seem tempting to view her parents as either brave or heroic for putting Ashley under this treatment since they apparently acted upon information that she would never develop mentally, never have any body control. This may accurately describe her condition even, I know that such a description fit my boy perfectly. But they were wrong about my son's chance of development because we are in need of better assessments. Assessments which can be written by medical professionals who are guided by the parent.

Ashleyは生涯に渡って、知的発達を見ることも身体的な自立を見ることもないと
言われたことに基づいてAshleyの親があのような医療介入を受けさせたことをもって
勇気ある親だとか英雄的な所業だと思いたい気分にもなるかもしれないし、
確かに、そういうふうに言われればAshleyはそういう子どもなのかもしれないし、
うちの息子にもぴたりと当てはまる。

しかし、ウチの息子の発達の可能性を考えれば、
そういう言い方はやはり間違っている。

本当は、もっとマシなアセスメントがあって然りなのだ。

ただ医療職が書いたアセスメントだというのではなく、
親の言うことを指針にした医療職のアセスメントが。



Erikは、この後、息子の頭の中で起こっていることについて
最後の最後まであきらめない、と書いて締めくくっている。



Assessments which can be written by medical professionals who are guided by the parent.

医師と障害児の親との、あるべきパートナーシップの1側面が
このフレーズよって提言されている……と、私は思う。

障害一般について知識があるからといって
医師が特定の障害児その子についてすべてを知っているわけではない。
2010.11.16 / Top↑
インパクションという雑誌の第176号

アシュリー事件から考える
障害、医療、介護、人権そして「愛」


というタイトルの、8ページの文章を書きました。

Ashley事件については、
07年の論争当時にリアルタイムで「介護保険情報」誌の連載で何度か取り上げましたが
その後、このブログを通じて事件の詳細を追いかけ始めてから
事件に関して、まとまった形で書いた初めてのものになります。

Ashley事件には非常に多くの複雑な問題が絡まっていますが、
ここでは特に、ステレオタイプの問題と、重症児・家族支援における医療のあり方、
親と子どもの間の権利の衝突、”愛と献身”神話について
重症児の母親としての立場から書いてみました。

良かったら、読んでいただけると幸いです。

(他に、堀田義太郎氏の
「脳死臓器移植は殺人である:臓器移植法改正にあたり再確認しておくべき論点について」や
インドの男女産み分けの実態や、富士見産婦人科病院事件、出生全診断に関する記事など、
刺激的で、とても勉強になる記事が満載でした)

             ――――――


「介護保険情報誌」の連載で07年からこちら同事件について書いたものは
今から振り返ると不十分だし、誤った捉え方をしている部分もあるのですが、
現在、立命館大学「生存学」のサイトに全文掲載していただいています。

「“アシュリー療法”論争」
「介護保険情報」2007年3月号

「“アシュリー療法”論争 続報」
「介護保険情報」2007年7月号

“アシュリー療法”続報としてのKatie Thorpe事件
「介護保険情報」2007年12月号

Katie Thorpe 事件続報
「介護保険情報」2008年3月号

Angela事件
「介護保険情報」2010年5月号
2010.11.14 / Top↑