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プライバシー保護のため詳細は明らかにされていないが
知的障害がある女性が明日、帝王切開で出産することになっており、

今日の保護裁判所の判決によっては、
切開の際に卵管結紮による不妊手術が行われるとのこと。

今後の妊娠を防ぐため。

通常、保護裁判所の審理は非公開で行われるが、
この事件を理解することは大きな「公益」になるとして公開に。

(このところ英国では保護裁判所の審理の非公開が問題視されているので、そのためかも?)

保護裁判所への申し立ては女性の地元のNHSトラストによるもので、
避妊に関する意思決定能力を女性が欠いているかどうか、
もしも欠いている場合には不妊手術が認められるかどうかの判断を仰いだ。

女性自身の利益はオフィシャル・ソリシタによって代理される。

障害者団体は
本人同意によらない強制不妊手術は人権侵害であり、
長期的な避妊という選択肢をとるべきだと猛反発。

Women with learning difficulties could be forcibly sterilised
The Telegraph, February 14, 2011


この記事で非常に気になるのは、事件の問題点が
「自分で同意できない患者の重大な医療について国に命令権があるか」と整理されていること。

保護裁判所の権限について、
記事の最後に以下のように解説されている。

Mental Capacity Act 2005によって、
精神科医が知的能力を欠いていると認定した人の医療については
保護裁判所に決定権が与えられており、

その中には永続的植物状態の患者からの
「人工的」栄養と水分の差し控えや中止も含まれる。

また、同意能力を欠いた女性の「妊娠の中絶」も
「実験的または革新的治療」また患者の拘束を要する治療を命じることもできる。


私は専門家ではないし、
MCA(2006年施行)についてもざっとしたことを読みかじっただけなのですが、

2007年当初に読みかじった印象では、この書き方のトーンとは逆で、
同意能力を欠いた人に関する代理決定の手順を定めたMCAの
むしろ例外として、より慎重に知的障害者を保護するために
これらについては裁判所の命令が必要と規定されているのであって、

同意能力を欠いた人へのこうした医療については
「保護裁判所が決めてもよい」とか「国が決めてもよい」というニュアンスで捉えることは
MCAの理念そのものにに反するんじゃないのか、という気がする一方で、

MCAについて読みかじった時に、そもそも、
これはある一定のところまで丁寧な代理決定により人権を重視しつつ、
一定のところでスパッと切り捨てるためのツールになっていくのでは……という
強い懸念を感じたことも同時に思い出す。


2008年のヒト受精・胚法改正議論で「障害児はnon-person」発言が出てきた時に
プロライフのアドボケイトが、MCAについて
障害児・者や弱者を殺すための法律として機能する懸念を言っているし、

その直後に哲学者Mary Warnockの認知症患者に「死ぬ義務」発言があった際にも、
延命治療拒否のための代理人任命ツールとしてMCAに言及する報道があった。


なお、MCAに関するエントリーは ↓

英医師会の後見法ガイダンス(2007/10/29)
英国の医療と法律 とりあえずの日本語情報(2007/10/20)


その他、MCAが関連するニュースについては ↓

リビング・ウィルを逆手にとった治療拒否で安楽ケア受けて自殺(英)82009/10/6)
2010年5月14日の補遺(障害のあるピアニストの代理人任命で、保護裁判所の非公開審理が問題に)
英国の保護裁判所、知的障害ある子宮がん患者への強制手術を認める(2010/5/30)


なお、類似の米イリノイ州での裁判に関するエントリーはこちら ↓

イリノイの上訴裁判所、知的障害女性の不妊術認めず(2008/4/19)
IL不妊手術却下の上訴裁判所意見書(2008/5/1)
2011.02.16 / Top↑
たまたま昨日、「これからの『正義』の話をしよう」
代理出産の契約は市場に馴染むか、という問題の下りを読んだばかりだった。

10月14日に標題の通りのニュースがあったらしい。

Abortion of surrogate fetus with DS sparks ethics debate
Disability News, October 14, 2010


カナダで、ある夫婦の精子と卵子を使って代理母が妊娠している胎児に
出生前診断でダウン症の可能性が高いことが分かった。

(こういう場合、本当は「代理母が妊娠している」という表現は、おかしいですね。
代理母は「妊娠している」というよりも「胎児をおなかの中で育てている」と言う方が、より正確。
まさにサンデル教授の言う「借り腹」。でも、それは行為全体を指す名詞だから
代理母のそういう行為を表わす動詞としては英語だったら carryingで済むのだろうけど、
日本語では……? 「育てている」というのも、やっぱり違うような気がする)

ダウン症の確率が高いなら、と、
夫婦は代理母に妊娠中絶を要求し、
代理母はそれに抵抗した。

しかし、3人が署名した契約では、
代理母が夫婦の意思に逆らって産むことを選んだ場合には
生まれてくる子どもの養育に関して夫婦には経済的な責任が全くないことになる。

やがて代理母は折れて、中絶を受け入れたという。

カナダの生殖補助医療カンファレンスでこのケースを報告した(ただし匿名)医師は
代理母契約が増えている中、このような倫理問題を考えると、
代理出産契約に法的な規制が必要なのではないかと問題提起。

生命倫理学者らから、
人間の生命は工場の物品じゃないのだから
ビジネスの契約法は代理母契約にそのまま当てはまらない、との声が出ている。

Calgary Herald紙も社説で
代理母とその他IVFの問題には決定的な議論が必要、と。


あー、でも、きっと、こういうこと、
表に出ないだけで、今までにも実際には結構あったのでしょうね……。



【追記1】
この記事をアップした際に、Yahoo!が自動的に拾ってきた記事に、
2007年の同じような話題があったので、その方のブログ記事を以下にTBしました。
「この中絶は、代理母のあなたが中絶するのではなく、
あくまで我々に代わって中絶する代理中絶」と
依頼者夫婦は主張したとか。


【追記2】
ついでに、今日の補遺に拾った気になる話題を2題、以下に。

オーストラリアで、出生前遺伝子診断でダウン症の可能性が出たことを理由にする妊娠中絶手術が、
2006年までの10年間で3倍に。
http://www.patriciaebauer.com/2010/07/29/australia-ds-related-abortions-29941/

聾の関連の全遺伝子をチェックするスクリーニングが可能に。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/208133.php
2010.11.18 / Top↑
Generations Aheadという団体が
今回のEdwards博士(体外受精技術の確立)のノーベル賞受賞その他を巡って
以下のステートメントを出し、

障害者の権利と生殖の権利(リプロダクティブ・ライツ)の関係を整理しつつ
優生思想的な生殖の意思決定を促す動きを批判している。

Edwards, Virginia Ironside, and the Unnecessary Opposition of Rights 

Generations Aheadは、
広範な社会正義関連の当事者の視点から、
遺伝子技術が社会的にまた倫理的にどういう意味を持つかを考え、
広く議論を呼びかけ、問題提起を行う米国で唯一の組織だとのこと。
詳細はこちら

ステートメントでは、
障害者の権利とリプロダクティブ・ライツは互いに否定しあうものではなく、
それぞれに互いへの注意を内包するものだ、との主張がまず述べられた後で、

とりあげられている最近の2つの出来事のうち、
1つは世界で初めて体外受精技術を確立したEdwards博士のノーベル賞受賞。

それについて書かれていることは、おおむね以下。

「遺伝病という重荷を負った子どもを産むのは親の罪。
子どもの質を考えなければならない世界に我々は突入しつつある」と語るなど
Edwards博士は生殖補助技術によって障害児が産まれるのを防ごうと主張してきた。

彼の医学上の功績とこうした政治的な発言を別ものとして切り離す立場こそが
リプロダクティブ・ライツと障害者の権利とを対立させているのであり、
彼の差別的な発言を問題にしないままEdwards博士を称賛すること一切に抗議する。

確かに彼の功績によって、
単身者や不妊に苦しむ人たち、同性愛者やトランスジェンダーの人たちが
生物学的に自分と繋がりのある子どもを持つことができるようになった。
しかし、女性と家族の選択肢を増やした彼の功績を
障害の廃絶を説くことによって正当化したり裏付ける必要はない。

また中絶に反対する立場の人たちがEdwards博士を批判するために
障害を持ち出すことにも我々は抗議する。
障害のある多くの人たちが生殖補助医療によって家族を持てるようになった。
確かに、中絶の決断をするにあたっては
女性も家族も障害について必要な情報がそろっていなかったり
障害のステレオタイプが根強いという懸念は我々にもあるが、
だからといって生殖補助技術に反対したり女性の権利を制限するべきではない。



もう1つは、英国のコラムニストVirginia Ironsideが中絶の権利に関して発言したさいに、
胎児に障害があると知りながら生むことは残酷で、中絶するのが“道徳的な無私の行為”、
自分に病気や障害のある子どもがいたら、愛情ある母親なら誰だってそうするように
自分は躊躇なく“枕を顔にかぶせる”と語ったもの。

これに関して書かれているのは、おおむね以下。

障害者の権利とリプロダクティブ・ライツ両方のアドボケイトとして
中絶の権利を説くためのレトリックとして障害を使うことに抗議する。

リプロダクティブ・ライツとは、中絶へのアクセスのみならず、
障害のある子どもも含めて子どもを持つ権利、子育てに関する情報へのアクセス、
そしてすべての子どもを尊厳を持って育てるための社会的・経済的支援へのアクセスを
要求するものである。



私はものを知らないので、見知った名前はWilliam Peaceだけだけど、
既に多くの人が、賛同の署名をしている。

私は、イマイチ、割り切れないものがある。

「産む・産まないは私が決める」は、私も支持する。
「私だけが決める」じゃないと思うけど、でも
「最終的に決めるのは私」でないと、やっぱり、とは思う。

私が引っかかるのは、
「障害のある子どもを産む・産まないも私が決める」なのか、というところ。

そこのところが、私には、まだどう考えたらいいのか、よく分からない。

もしかしたら
ステートメントが言っていることに賛同はしつつ、
その言い方にひっかかっているだけなのかもしれない。
どこが、とはっきり言えないのだけど、どこかにご都合主義な匂いがあるような……。

障害者も生物学的に繋がりのある子どもを持てるようになったのだから
障害を盾にとって生殖補助技術そのものを否定するな、というところも、
生殖補助医療が生殖子や女性の身体を資源化して、
貧困層の女性の搾取につながる可能性や現に起きている現実を無視して、
それだけで語っていいのか、という疑問も頭に浮かぶ。

とりあえず、今の私はこのステートメントに、すっきり乗り切れない。

女性の選択する権利と障害者の権利の相克を
自分の中でどう折り合いをつけるか、
私はまだ答えが出ないまま、ぐるぐるし続けていて、
今の段階で私が言葉にできることは以下のエントリーで書いたことがせいぜい。

山本有三の堕胎罪批判から考えたこと(2010/8/13)

このエントリーを書いた直後に、
日本で早くからリプロダクティブ・ライツを訴えてきたSOSHIRENの大橋由香子さんと、
ずっと障害者運動に関わってきた当事者で翻訳家の青海恵子さんの往復書簡、
「記憶のキャッチボール 子育て・介助・仕事をめぐって」を読んだ。
(帯は「共通点、女で子持ち。」)

長年、運動と関わり、運動の中で思考を鍛えられつつ
闘い続けてきた2人の問題意識は高く、たいそう勉強になった。

2人は「産む・産まない」を“一度目の選択”
「障害児を産む・産まない」を“二度目の選択”と呼んで、
区別する必要を感じつつ、やはり、それだけでは済まないものを感じて、
そこにこだわり、ぐるぐるしている。

2人の「ぐるぐる」は、私の「ぐるぐる」なんかよりも
そして、もしかしたら、このステートメントよりも、
はるかに深いところにまで掘り下げられて、密度が濃い。

特に、障害当事者らが作った障害者差別禁止法要綱案で
選択的中絶の禁止を含む「出生」項目を巡っての2人のやり取りは迫力があった。
これについてはエントリーを立てたいとずっと思いつつ
なかなか果たせていないので、興味のある方は2人の本を読んでください。

インパクトが大きかった言葉から1つだけ挙げておくと、青海さんの

女たちがどんな思いをして、どんな歴史を背負って、「産む・産まないは女(わたし)が決める」というスローガンにたどり着いたかが、男たちにはまだまだ伝わっていない
(p.124)



これ、Ashley事件を追いかけていると、障害者への強制不妊について
まった~く同じことを、ひしひしと感じるんだ。

法的・倫理的なセーフガードが、
障害者たちのどんな思いとどんな歴史を背負っていると思っているんだ、と――。


ちなみに、どこまで論旨を正確に読み取っているか自信がないので深入りしないけど、
Not Dead YetのStephen Drakeがこのステートメントについて
以下のポストを書いている。

Disabled Feminists Issue Statement: on Robert Edwards, Virginia Ironside and Unnecessary Opposition of Rights
NDY, October 22, 2010

NDYとしては生まれてきた後の障害者の問題で手いっぱいだから、として
中絶の問題にはコミットしないスタンスで一貫し、ちょっと距離を置いている。

それでも、こうしてブログでとりあげているところが、いいよね。

このポストにBill Peaceが
NDYがそういうスタンスをとっていることは分かるけど、
できれば参戦してくれれば、とコメントし、
Drakeが長いコメントを返している。そこに、
NDYの戦術上の悩ましさみたいなのがチラッとうかがえて興味深い。

この問題、誰にとっても、いろいろ悩ましいんだなぁ……。
2010.10.30 / Top↑
いずれも2月の記事ですが――。

遺伝子検査のコストが下がり、提供する会社も急増し
着床前、出生前遺伝子診断が普及するにつれ、
膵嚢胞繊維症(CF)、テイサック病、鎌状赤血球、筋ジスなど、
「人々に恐れられる病気 dreaded diseases」が減少、中には
ほとんど生まれなくなった病気もある、とのこと。

もちろん、出生前遺伝子診断で分かると中絶が選択され、

親自身の遺伝子診断で遺伝病の遺伝子変異が分かると、
そういう親は次世代にそれを引き継ぐまいとして
着床前遺伝子診断を受け、同じ変異をもたない胚を選別しているからだ。

特に民族など特定の属性が関係しているとされる遺伝病の場合には、
身近で死んでいく子どもたちを見てきた人も多く、
遺伝に関わる情報が伝わるにつれて
自分たちの遺伝子をチェックし、自分の代で終わらせようとする親が増えている。

そこには中絶、胚の廃棄、優生思想への懸念など
道徳上の深刻なジレンマがあるが、現実には遺伝子診断は広がる一方だ。

東ヨーロッパのユダヤ人の間で多いとされるテイ・サック病は、
この10年間に米国でわずか12症例程度しか認められておらず、
ほとんど撲滅状態だと医師らは喜ぶ。

CFの症例も、2000年の29例が、2003年には10例に減少、
しかし、06年にはまた15例に増加した。

米国以外にも、多くの国で遺伝子診断が始まって以来、
重病の発生が急速に減少している。

08年の遺伝学カンファでは半減したとの報告も。

一方、黒人に多いとされる鎌状赤血球は減っていない。
診断の結果、当該遺伝子のキャリアとして
鎌状赤血球になりやすい「傾向 trait」があると告げられても、
それが危険を感じさせないのではないかと、鎌状赤血球協会の医師は分析する。

新生児のスクリーニングでも
鎌状赤血球の遺伝子キャリアも実際の症例も見つかるケースが増えているにもかかわらず、
それが親の将来の家族計画には何ら影響しないようなのだ、と同医師。

(読み方によっては、
黒人の知識や判断力が白人よりも劣っていると
嘆いているように読めないこともない)

ハンチントン病も遺伝子診断の普及によってあまり変化していない。
ハンチントン病の人がいる家系であっても、検査に同意するのは15%以下なのだとか。
発症しないと考えて普通に生きていくという姿勢の人が多い、と専門医。

遺伝性の自律神経失調症やテイ・サック病など、
学齢期に至らずに死ぬことが多い病気では話も単純で(easier cases)
“遺伝子診断は命を救う努力”だと考える人も多いが、

例えばCF財団が指摘するように、
CFの寿命は今では37歳まで伸びており、
個々の症例によっても重篤さにばらつきが大きい。

病気を撲滅しようというのは崇高なゴールではあるが、
その一方で、ちょっと立ち止まるべきではないか、と
NEJMでコロンビア大学の歴史学者Lerner氏が書いている。

「社会がこれらの遺伝子にスクリーニングを積極的に行っては
そういう胎児を中絶していくのだとしたら、その社会は、
実際にその病気を抱えて生きている人たちの生の価値について、
一体どういうメッセージを送るのだろうか」

Dreaded diseases dwindle with gene testing
MSNBC, February 17, 2010


 
この記事を受け、
ペンシルバニア大学の生命倫理学者 Art Caplanが
翌日のMSNBCに論考を寄せている。

彼は、数年前にアイルランドに旅行した際に、
雑踏の中にダウン症と分かる人が多いことに衝撃を受けたという。

それはアイルランドに多いことに受けた衝撃ではなく、
逆に、米国ではダウン症の若者をめっきり見なくなったことに気付いた衝撃だった。

病気の負担を減ずることそのものは良いことなのだが、
親の遺伝子診断ばかりか胎児の診断までがこのように急増すると
倫理上のジレンマも生じてくる。

もちろん1つは明らかに、胚を壊すことの倫理性。
もう1つは、実際に遺伝の関わる障害を負っている人やその家族への影響だ。

ダウン症でも、子どもが減るにつれて、
行政によるダウン症プログラムも学校や住居への支援のための資源も減り、
支援しようとする政治的気運も薄れてきた。

遺伝子診断で数が減っていく病気や障害に対する支援を
社会は、これまでどおりに行うだろうか。

遺伝子診断を受けることを選択しなかった親が
無責任だと道徳性を疑われ非難を受けるようなことは起きないだろうか。

テイ・サックのように通常4歳までに苦しい死を遂げるような病気では
アグレッシブな遺伝子診断やその結果の中絶も道徳的に正当化され、
撲滅することにも広く合意があるかもしれないが、

それでは聾や小人症などの遺伝ではどうだろうか。

さらには親の遺伝子検査から
乳がんやウツ病、アルツハイマー病や依存症のリスクが高いことが分かった場合に、
発症するのは中年期以降かもしれないし、それまでに治療法も見つかっているかもしれないが、
そういう遺伝子変異についてはどう考えるのか。

もしも極端に走る企業が、
親になりたい人の遺伝子検査によって、
“ベターな子ども”が生まれるようなマッチ・メイキングを商売にするとしたら――?

Disability-free world may not be a better place
Arthur Caplan, February 18, 2010


この話、英国のカンファで
05年の自殺幇助合法化法案を検討した委員会の委員長さんが
オランダのすべり坂を例にとって言っていた
「不当に死なされる人が出る現実の“すべり坂”の他にも、
それによって社会の意識がそれを容認していく概念上の“すべり坂”も起きる」。

あれが、そっくりそのまま当てはまる話――。

子どもの病気や障害を知った上で、それでも生むことを選ぶなら、
それは親の自己選択だから、自己責任で育てなさいよ、という社会になるのでは、
という話は、こちらのエントリーで書きました。

ちなみに、Caplanの記事のタイトルは
「障害がなくなった世界は、今よりベターな場所ではないかも」
2010.09.10 / Top↑
8月12日付でbigthink.comというサイトにアップされた
Peter Singerのインタビュー・ビデオを
お馴染みBad Crippleさんが見つけてブログに取り上げてくれています。

Bad Crippleさんが特に批判しているのは

二分脊椎を例に挙げて、
救命しても、何度も手術を受けることになるし、
いろいろな重症障害を負うだけだから、
親が救命を望まないことを当然だとしてシンガーは語っているが

二分脊椎の子どもは実際にはそれほど重症化する子ばかりじゃない、
その障害像をSingerは本当に分かっているのか、という点。

(Singerもトランスヒューマニストも、障害について無知すぎる、と私もいつも思う)

自分は障害像として二分脊椎に近いが、
誰も「この子は死ぬべきだ」とも言わなかったし、
自分を「重症障害者」だと思ったこともない、と。

それから、シンガーが障害者運動をmilitant (戦闘的)と形容していることについて、
(これ、militantなのはアンタだよ、と、たいていの人は思うと思うよ)

1999年にプリンストン大学がSingerを雇った際に
Not Dead Yetの人たちが自分の身体や車いすを大学のドアに縛り付けてまでピケを張り
警察によって排除される騒ぎがあったエピソードを語っていて、
あの時のことが頭にあるからmilitantなんて言うんだろう、と。

で、結論として、
シンガーは単なる危険人物ではないか、と。

Peter Singer: Moral Iconoclast or Just Dangerous
BAD CRIPPLE, August 18, 2010


問題のビデオはこちら
(トランスクリプト全文がついています。)


で、私自身も聞いてみて、読んでみて、大声で笑い出してしまいそうだった。
だって、これ、ほとんどセコイ言い訳レベルなんだもの。

質問は「なぜ、あなたは、
病気の赤ん坊は安楽死させても許されると考えるのですか」

それに対してSingerの論理展開は、概ね、こんな感じ。

オーストラリアで生命倫理センターのディレクターをやっている時に、
医師からよく相談を受けた。

病気や障害のある子どもたちは、例えば二分脊椎だと、
救命されても何度も手術を受けることになるし、いろんな重い障害を負うことになるから、
それを説明されると、親も生き延びるのがいいことだと思わないわけで、
そこで基本的にこういう子どもたちには治療が行われていなかった。

しかし、その結果、子どもたちは死ぬまで延々と苦しむし、
治療をしないと決めた親にとっても医師や看護師にとっても、
そういう状態で子どもが苦しんでいるのを見ているのはとても消耗的である。

そこで悩む医師の相談を受け、Helga Kuhseと検討して、
こういう状態の子は生きない方が良かろうと医師と親とで決めるのはアリ、
それは親が決定することだろうということになった。

それなら、親がちゃんとしたインフォームドコンセントを受けて死なせると決定した以上、
その子どもは迅速かつ人間的に死なせてやるのが人道的なのではないか、と考え始めた。



まず、とても単純な問題として、バカな……と思うのは、
ここでシンガーが、いかにも存在するがごとくに見せかけているジレンマは、
実は存在していない、ということ。

医師らから相談を受けた時点で、
「では、緩和ケアをしっかり」と答えれば済むことなのだから。

これは、つい先頃、
彼の弟子のSavulescuが臓器提供案楽死の正当化に使っていた
「延命治療の停止で安楽死を選ぶ人は脱水死の苦しみを味わうことになるけど、
臓器提供という方法で安楽死するなら麻酔をかけてもらえるから苦しくない」という
子どもだましみたいなバカバカしい屁理屈と全く同じ。

しかし、本当のマヤカシは、
そのジレンマのもう一段前の、もう少し見えにくいところにあって、

大統領生命倫理評議会の報告書でSchulmanがやっていたのと同じく、
答えを先取りして、既に前提に織り込んだ問いが立てられている、ということ。

問いの中で、既に答えが是認されてしまっている、というか。

インタビューで問われたのは
「病気の乳児の安楽死がなぜ許されると考えるのか」であるにもかかわらず、

Singerは
「親が救命しないと決定した子どもを
死ぬまでの長い間苦しむままに放置しておくことは倫理的であるか否か」
という問いが立てられているかのように装い、

その実、「親が救命しないと決定した子ども」の部分には
ちゃっかりと「一定の状態の子どもは死なせても構わない」という答えが織り込み済み。

つまりSingerはここで、
「安楽死の是非」ではなく、「望ましい安楽死の方法」の議論にすり替え、
「安楽死させる際に苦しめることは倫理的かどうか」という後者の問いに答えることによって、
安楽死そのものが倫理的だという前者の問いの結論を導いてみせるという
盗人猛々しい大マヤカシを演じている。

そんなバカな話があるか、と思う。

そんなの「人の財布を盗ることは許されるか」と問われて、
「目的は中の金なのに財布まで盗ることは許されるか」という問いにすり替えて、
「どうせ盗ると意思決定した以上、財布ごともって行っても同じだから、
他人の財布を盗ってもよい」と答えるようなものでは?

問われているのは、
「なぜ、二分脊椎の子どもなら救命しない決断が許されるのか」なんだよッ。
そういうところだけ頭が悪いフリ、するなよ。それとも本当に悪いのかよッ。

いや、悪いのは、頭はともかく、やっぱり人間性なのかもしれない。

だって、よくよく読むと、この人、
救命治療をせず赤ん坊が苦しんで死ぬのを見ている親と医師が消耗するから
さっさと安楽死させるのがいいと言っているのであって、
別に苦しむ赤ん坊がかわいそうだから、と言っているわけでもないみたいな……。



ちなみに日本の厚労省の研究班のサイトはこちら。

二分脊椎って何?

この最後のところに以下のように書かれている。

従って、二分脊椎症の治療には脳神経外科、小児科、小児外科、泌尿器科、整形外科、リハビシテーション科などを中心に共同チーム医療が必要とされます。さらには適切な医療の他に教育、就職、結婚等の問題まで総合的なケアが必要です。



最後の2行、どうして次のように書けないかな。

適切な医療、教育その他の支援による総合的なケアがあれば、
人により就職も結婚も可能な障害です。




【当ブログのSinger関連エントリー】
P.Singerの「知的障害者」、中身は?(2007/9/3)
Singerの“アシュリー療法”論評1(2007/9/4)
Singerの“アシュリー療法”論評2(2007/9/5)
Singerへのある母親の反論(2007/9/13)
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認知障害カンファレンス巡り論評シリーズがスタート:初回はSinger批判(2008/12/17)
知的障害者における「尊厳」と「最善の利益」の違い議論(2008/12/18)
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Singerが障害当事者の活動家に追悼エッセイ(2008/12/29)
Sobsey氏、「知的障害者に道徳的地位ない」Singer説を批判(2009/1/3)
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2010.08.24 / Top↑