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牛肉から人に感染しないように、肉牛に打つE coliバクテリア・ワクチンの実験が始まったんだとか。:人はワクチンを打たなくても、こうやって肉を通じて知らない間に摂取させられる化学物質が増えていく……。去年、E coliで人がたくさん死んだのは、たしかホウレンソウだったんだけど、そうすると、野菜にはワクチンではなく、それなりの薬品が使われるんだろうし。そういうものの総合的な人体への影響については、一体、誰が確認・調査してくれるのか? ……というか、ここまで来て、そんなものを調べることが、そもそも可能なのか?
http://www.nytimes.com/2009/12/04/business/04vaccine.html?_r=1&th&emc=th

ちゃんと記事を読んでいないから、何とも言えないといえば言えないのだけど、「IQの低い殺人犯、処刑される」というニュースのタイトルと、11歳の少女をレイプし殺害した犯人のIQが68から89の間だと書いた冒頭部分に、ちょっとびっくりした。アメリカ社会、知能がどんどんオブセッションになっていく?
http://www.nytimes.com/2009/12/04/us/04execute.html?th&emc=th

英国の国営銀行がこんな時なのに堂々と高額のボーナスをもらっている、との批判。
http://business.timesonline.co.uk/tol/business/industry_sectors/banking_and_finance/article6943583.ece?&EMC-Bltn=PNYEH1F

銀行に限らず、民間セクターでもエライサンたちのサラリーがうなぎ上りしている。ついでに金持ち番付で、NHSのエライサン80人のサラリーが首相より高いことまで判明してしまった。
http://timesonline-emails.co.uk/go.asp?/bTNL001/mPNYEH1F/qZWP5H1F/uM9ZZ6/xNRMQH1F

NY州上院議会が同性婚の合法化法案を否決。
http://www.nytimes.com/2009/12/03/nyregion/03marriage.html?_r=1&th&emc=th
2009.12.04 / Top↑
「国際的水準の移植医療」ですでに起こっていること

7月の国会で脳死・臓器移植法の改正が決まった。最も大きな改正となるA案を支持してきた移植医療の専門家や患者団体からは「これで日本でも国際水準の移植医療が実現される」と喜ぶ声がしきりだった。

しかし、ここ数年、海外の医療ニュースを追いかけてきた私は「本当に実現させるの……?」と、むしろ背筋が冷える思いがした。それまでの議論でも「国際水準に追いつくために」との掛け声を聞くたびに首をかしげたのだけれど、その「国際水準の移植医療」で実際に起こっている諸々が、なぜ日本では、ちっとも報道されないのだろう。いくつかの事件と議論を簡単にまとめて、「国際水準の移植医療」ですでに起こっていることの一端を提示してみたい。

◎ナヴァロ事件
2006年、米国カリフォルニア州で起きた事件。重症の心身障害があり施設で暮らしていたルーベン・ナヴァロさん(25)の呼吸が止まり、病院に搬送された。脳死には至っていなかったにもかかわらず、母親から臓器提供の同意を取り付けた医師らは、臓器移植ネットワークから臓器保存チームを呼び、ナヴァロさんの呼吸器を外した。ところが予想に反して彼は死なない。臓器が使えなくなると焦った医師らは救命治療よりも臓器の保存処置を優先し、患者本人には有害となる薬剤を多量に投与する。結局ナヴァロさんは翌日まで生き、臓器は摘出されなかった。

一部始終を目撃した看護師が警察に通報。しかし逮捕された医師は、裁判で“心臓死後提供(DCD)”という新方式を用いたのだと主張し、無罪となった。

DCDとは、脳死に至っていない患者の呼吸器を外して心臓死を起こさせ、数分だけ待って摘出するプロトコルである。臓器不足解消の方途として米国で広がり始めている。通常、最後の拍動から2~5分で、もはや蘇生がありえない“ポイント・オブ・ノーリターン”とされるが、去年、デンバー子ども病院の医師らは論文を発表し、心臓の機能不全による死亡宣告がされた乳幼児から75秒だけ待って心臓摘出するプロトコルを報告。「両親が蘇生を望まない以上、その子どもの心臓は死んだのだ」と書いた。

◎ケイリー事件
今年4月、カナダのトロント子ども病院で、ジュベール症候群のケイリー・ウォレスちゃん(生後2ヶ月)の心臓が、同じ病院に入院中の心臓病の女児に移植されることが決まった。父親同士が病院で知り合って合意したという。メディアや世論がケイリーちゃんの父親をヒーローに祭り上げる中、家族がベッドサイドに集まってお別れをし、呼吸器が取り外された。しかしケイリーちゃんは自力で呼吸し続けた。

父親は「助かっても障害のためQOLが低いと、医師がそればかりを強調するので、それなら人のためになる死に方をさせてやりたかった。でも心臓を採れないとなると、医師は当初の診断が間違いだったと言い、今になって治療の選択肢を並べてみせる……」と困惑した。公表された写真では、ケイリーちゃんは開眼し、意識も清明であるように見える。

◎死亡者提供ルール見直しの声
これらの事件に見られるように米国・カナダでは脳死提供ルールが揺らいでいる。脳死概念は間違いで、脳死者は死んでいないと明言する生命倫理学者もいる。しかし、彼らは「だから脳死者からの臓器提供はやめよう」というわけではない。「我々は既に人為的に死を操作しているのだから、本人の提供意思さえあれば、生きている人間からも心臓などの臓器提供を認めよう」と主張するのだ。“深刻な臓器不足”解消のために──。

欧米で認められている“救済者兄弟”

着床前遺伝子診断と生殖補助技術を用いて、病気の子どもの治療ために臓器ドナーとして適合する胚を選別し、弟や妹を生むことが、英・米・仏・スウェーデンなどで認められている。英語ではsavior sibling“救済者兄弟”と呼ばれる。

生まれてくる子どもが、その生い立ちのために自分は兄や姉ほど愛されていないとの思いに苦しむ弊害も指摘されているが、米国では概ね生命倫理学者らが説く「家族全体の利益は、その子どもの利益でもある」との論理で正当化される。英国医師会は“救済者兄弟”の心理的負担を「仮想的な害」とし、病気の子どもの苦しみや死の可能性を「リアルな害」として対置させて、正当化している。

「介護保険情報」2009年11月号
「世界の介護と医療の情報を読む 41」
児玉真美 p.81


書ききれなかった情報や上記事件の詳細はこちらのエントリーにまとめてあります。
2009.12.04 / Top↑
「私の中のあなた」を見る・読む

ニック・カサヴェテス監督、キャメロン・ディアス主演のハリウッド映画「私の中のあなた」が日本でも10月9日に公開された。主人公の11歳の少女アナは、白血病の姉ケイトの治療に必要な臓器のドナーとして遺伝子診断と体外受精によって作られたデザイナー・ベビー。すなわち、左ページで簡単に紹介した“救済者兄弟”である。

アナは出生時の臍帯血に始まり、姉の治療に必要な血液や骨髄を提供し続けてきた。が、病状は悪化し、ついに腎臓移植が必要となる。両親は、これまで通りアナがドナーとなることを信じて疑わない。しかしアナは弁護士を雇い「自分の体のことは自分で決めたい」と訴訟を起こす。アナが訪ねていく冒頭の場面で「この国では提供意思のない人間から臓器がとられることなどありえない」と原則論を述べる弁護士。それに対して「でも誰も私に(意思を)尋ねてくれたことはない」というアナの答えは、ドナーとしての生を背負わされた“救済者兄弟”の倫理問題の核心をずばりと突いて、衝撃的である。

物語は、訴訟の展開と、ケイトが急速に終末期に陥る過程とを平行して描いていく。その合間に織り込まれるのは、これまでの経緯と、娘の看病と介護に全身全霊を注ぎ込んできた母親サラの献身的な姿である。しかし、訴訟をきっかけに、ケイトのために一丸となって闘ってきたと見えた家族の間には、いくつもの亀裂が生じていたことが明らかになっていく。それでもサラは諦めない。「私が細胞2つになっても、ママは電気ショックをかけるわ」とケイトに言わせるほどに深い母親の愛情と、その愛情ゆえの偏狭さとを、キャメロン・ディアスが見事に演じてみせる。

病気を美化せずリアルに描こうとする監督の姿勢も清しい。ケイトの短く切ない恋のエピソードは、問題なのは彼女の“生”なのだと感じさせて光った。子どもたち3人が親にはできなかった深さで互いを理解しあう姿が徐々に浮かび上がってくる展開にも妙味があった。サラはアナの意思だけでなく、自分が最も懸命に守ろうとしたケイトの意思をこそ、最も手ひどく踏みつけていたのだ。そのことに気づいてくず折れたサラを、幼子を抱く母親のようにケイトが抱いて横たわるシーンが印象的だった。

話題作とあって、封切り前からこの映画を取り上げたメディアは多かった。しかし、なぜか、アナのようなドナー・ベビーが既に生まれている現実を語る記事はほとんどない。そのため、日本ではアナの生い立ち部分がSF的想像や映画的創作と捉えられ、「難病もの」、「美しい家族愛の物語」と理解して終わる人が多いようだ。しかし、この映画はやはり、生命の操作が可能になった時代性の中で「親と子の関係性」、「親であるということ」、「子の権利」を問う作品ではないだろうか。

原作であるジョディ・ピコーの小説“My Sister’s Keeper”(邦訳は「わたしのなかのあなた」)の刊行は2004年。世界で初めての”救済者兄弟“は、その4年前にコロラド州で生まれている。ファンコニ病の姉の幹細胞移植ドナーとして30個の胚の中から選別された。

ピコーの長編小説は、”姉の臓器庫“として生きてきたアナの肉体的、精神的な痛みや、親子、夫婦の間の亀裂や溝を、多くのエピソードを重ねつつ丁寧に描いている。弁護士や法定後見人など周辺的な人物設定に込められたメッセージも多彩だ。原作がアナの年齢を13歳(医療決定において”成熟した未成年“と見なされ本人意思が尊重される)に設定し、移植医療における子どもの自己決定権の問題として描こうとしたのに対して、映画ではアナの年齢を11歳に引き下げ、親権の問題に一般化したように思われる。その違いを象徴するように、映画は小説とはまったく逆の結末を用意する。ある意味、テーマをより一般化したことによって、映画は親と子の関係性の問題に、より深く迫ることに成功しているとも言えるのかもしれない。

小説と映画の両方を通じて最も印象的だったのは、let go という表現だった。映画ではサラの妹がサラに向かって言う。「最後まで諦めまいと必死で、それ以外のことが見えなくなっているけど、今のあなたに必要なのは let go することよ」。ゆこうとするものを無理にも手元にとどめようとせず、しがみついていく手を緩め、放してやること。戸田奈津子さんは「受け入れること」と訳していた。科学とテクノロジーの力で生命のコントロールが可能となり、欲望を果てしなく満たせるかのような夢が描かれる時代において、この小説と映画が投げかける問いは重い。

アナの訴訟が家族の亀裂を明らかにしたように、科学とテクノロジーの発展は、親と子の間に潜む「支配―被支配」の関係を浮き彫りにする。欧米の生命倫理学者たちは、愛の名のもとに、テクノロジーによる親の支配を擁護するが、それでは、アナの弁護士が言ったように、いったい誰が被支配の子どもの側に立つというのか──。

「介護保険情報」2009年11月号
「世界の介護と医療の情報を読む」
児玉真美  p. 80


また、これを機に、本来の連載部分では
「国際水準の医療」ですでに起こっていること、と題して
当ブログで追いかけてきた移植医療に関連する情報をいくつかまとめました。

上記文中の「左ページ」がそれに当たります。こちらのエントリーに。


また、この小説と映画に関連するエントリーは以下に。




2009.12.04 / Top↑