6日(明日ですね)のMA州のPAS合法化に関する住民投票を前に
10月27日に生命倫理学者のEzekiel J. EmanuelがNYTに
「医師による自殺幇助に関する4つの神話」と題した論考を寄稿。
Four Myths About Doctor-Assisted Suicide
NYT, October 27, 2012
Emanuel医師は1997年にOR州の合法化に際しても批判論を展開した人物。
その際に挙げた理由とは、
① いったん合法化されれば
医師らは患者を死なせる注射をすることに徐々に抵抗感を失いルーティーンとなる。
② 抵抗感がなくなれば、その選択肢は、ターミナルな患者だけでなく、
社会から見て苦しそうで目的のない人生を送っているように見える人に広げたくなる。
③ そこに財政的な問題が加われば、
安楽死はあっという間に例外ではなくルールとなる。
特に2010年にはベビー・ブーマーが定年を迎え始め、
その人口動態が社会保障とメディケア財政を逼迫させる状況があるだけに。
その他、Dr. Emanuel関連エントリーはこちら ↓
「障害者は健常者の8掛け、6掛け」と生存年数割引率を決めるQALY・DALY(2009/9/8)
自己決定と選択の自由は米国の国民性DNA?(2009/9/8)
米国内科学会の倫理マニュアル“しみったれ医療”を推奨(2012/1/5)
で、今回のNYTで指摘されている4つの神話とは;
① 「耐え難い痛みから死を望む人たち」というのは神話。
数々の調査研究で明らかになっているところとして、例えば、
1998年から2009年の間にOR州で自殺幇助で死んだ人のうち
苦痛があったり、苦痛を恐れていた人は22%にすぎない。
90年代に1年間だけ安楽死が合法化されたオーストラリアで安楽死した7人のうち、
3人については痛みが報告されていないし、
他の4人でも痛みのコントロールは適切にできていた。
オランダで2005年に出た報告では
138人のターミナルながん患者を追跡したところ、
安楽死またはPASを求めた人はウツ状態の患者でそうでない患者の4倍だった。
安楽死を希望した患者の約半数がウツ状態だった。
つまり、一般に耐え難い苦痛がある人がPASを望むと思われているのは神話で、
実際は一般の自殺と同じくウツ状態の人が希望するケースが多い。
ウツ状態で自殺を希望する人への対応ならカウンセリングとケアが常識。
② 「医療がハイテクになったために機械に繋がれて無駄に延命される時代になったから
それを避けるためにPASが必要」というのは神話。
ギリシャ・ローマ時代から安楽死は説かれてきたし、
英国でも19世紀から、米国でも20世紀初頭から、
つまり抗生物質や透析がない時代から議論になってきた。
ハイテク医療の時代とは無関係。
③ 「死の自己決定権が保障されることで終末期に良いケアを受けられる」は神話。
合法化された国や州でこれまでに自殺幇助を受けてきたのは限られた一部にすぎず、
死にゆく患者の大多数は幇助を求めることなく死んでいる。
合法化で利益を得るのは、
教育レベルが高く何でも思い通りにしたい富裕層の癌患者で
社会のトップ0.2%の人々。
一方、合法化で最も濫用被害を受けやすいのは
貧しくて教育レベルが低く、家族にとって負担となる末期の患者。
④ 「幇助自殺なら苦しまないで死ねる」は神話。
自殺幇助でも予定通りにいかないことは沢山ある。
オランダの調査では17%のケースで患者が毒物を吐いていたし、
15%ですぐに死なず何時間、時には何日もかかって、最後には
医師が介入して、自殺幇助が安楽死に転じたケースも、
(これはOR,WAを始め、MAで提案されている法案でも違法行為)
で、Emanuel医師の結論は以下。
PASを合法化するのではなく、もっと本当に大事なことにエネルギーを使うべきである。それは、死にゆく人へのケアをもっとよいものにすること。具体的には、すべての患者が自分の望みを医師や家族とオープンに話し合えるように、またすべての患者が無用な医療に苦しむ前に質の高い緩和ケア、ホスピスケアを受けられるようにすること。
エントリーが膨大な量になって、すぐにはリンクできないのですが、
だいたいここに挙げられている類似のデータは当ブログでも拾ってきた通り。
ただ、②の点では、私は、
やはり科学とテクノが発達してきた時代ならではの
安楽死・自殺幇助の議論への影響というのはあるような気がする。
一つには、「科学とテクノで簡単解決文化」が社会全体に
「身体も生命もいかようにも操作可能なものになってきた」感覚を根付かせて、それが
社会全体に身体や生命に対して操作的な向かい合い方を促しているところがあるんでは?
次に、医療が高度化して、端的に医療費が増大してきたことが
高齢化に比べるとあまり言われないけれど、事実としてあると思うし、
医療経済の問題として「死の自己決定権」が語られる背景にはこの問題もあるんでは?
それからベルギーの「安楽死後臓器提供」の実例や
その他、当ブログが拾ってきた諸々の情報からしても
安楽死・自殺幇助の問題は臓器移植医療の臓器不足解消の要請と繋がっているのでは?
それらの点で、科学とテクノロジーが発達した時代ならではの
安楽死・自殺幇助合法化に向けた動き加速化の背景というものがあるような気がする。
10月27日に生命倫理学者のEzekiel J. EmanuelがNYTに
「医師による自殺幇助に関する4つの神話」と題した論考を寄稿。
Four Myths About Doctor-Assisted Suicide
NYT, October 27, 2012
Emanuel医師は1997年にOR州の合法化に際しても批判論を展開した人物。
その際に挙げた理由とは、
① いったん合法化されれば
医師らは患者を死なせる注射をすることに徐々に抵抗感を失いルーティーンとなる。
② 抵抗感がなくなれば、その選択肢は、ターミナルな患者だけでなく、
社会から見て苦しそうで目的のない人生を送っているように見える人に広げたくなる。
③ そこに財政的な問題が加われば、
安楽死はあっという間に例外ではなくルールとなる。
特に2010年にはベビー・ブーマーが定年を迎え始め、
その人口動態が社会保障とメディケア財政を逼迫させる状況があるだけに。
その他、Dr. Emanuel関連エントリーはこちら ↓
「障害者は健常者の8掛け、6掛け」と生存年数割引率を決めるQALY・DALY(2009/9/8)
自己決定と選択の自由は米国の国民性DNA?(2009/9/8)
米国内科学会の倫理マニュアル“しみったれ医療”を推奨(2012/1/5)
で、今回のNYTで指摘されている4つの神話とは;
① 「耐え難い痛みから死を望む人たち」というのは神話。
数々の調査研究で明らかになっているところとして、例えば、
1998年から2009年の間にOR州で自殺幇助で死んだ人のうち
苦痛があったり、苦痛を恐れていた人は22%にすぎない。
90年代に1年間だけ安楽死が合法化されたオーストラリアで安楽死した7人のうち、
3人については痛みが報告されていないし、
他の4人でも痛みのコントロールは適切にできていた。
オランダで2005年に出た報告では
138人のターミナルながん患者を追跡したところ、
安楽死またはPASを求めた人はウツ状態の患者でそうでない患者の4倍だった。
安楽死を希望した患者の約半数がウツ状態だった。
つまり、一般に耐え難い苦痛がある人がPASを望むと思われているのは神話で、
実際は一般の自殺と同じくウツ状態の人が希望するケースが多い。
ウツ状態で自殺を希望する人への対応ならカウンセリングとケアが常識。
② 「医療がハイテクになったために機械に繋がれて無駄に延命される時代になったから
それを避けるためにPASが必要」というのは神話。
ギリシャ・ローマ時代から安楽死は説かれてきたし、
英国でも19世紀から、米国でも20世紀初頭から、
つまり抗生物質や透析がない時代から議論になってきた。
ハイテク医療の時代とは無関係。
③ 「死の自己決定権が保障されることで終末期に良いケアを受けられる」は神話。
合法化された国や州でこれまでに自殺幇助を受けてきたのは限られた一部にすぎず、
死にゆく患者の大多数は幇助を求めることなく死んでいる。
合法化で利益を得るのは、
教育レベルが高く何でも思い通りにしたい富裕層の癌患者で
社会のトップ0.2%の人々。
一方、合法化で最も濫用被害を受けやすいのは
貧しくて教育レベルが低く、家族にとって負担となる末期の患者。
④ 「幇助自殺なら苦しまないで死ねる」は神話。
自殺幇助でも予定通りにいかないことは沢山ある。
オランダの調査では17%のケースで患者が毒物を吐いていたし、
15%ですぐに死なず何時間、時には何日もかかって、最後には
医師が介入して、自殺幇助が安楽死に転じたケースも、
(これはOR,WAを始め、MAで提案されている法案でも違法行為)
で、Emanuel医師の結論は以下。
PASを合法化するのではなく、もっと本当に大事なことにエネルギーを使うべきである。それは、死にゆく人へのケアをもっとよいものにすること。具体的には、すべての患者が自分の望みを医師や家族とオープンに話し合えるように、またすべての患者が無用な医療に苦しむ前に質の高い緩和ケア、ホスピスケアを受けられるようにすること。
エントリーが膨大な量になって、すぐにはリンクできないのですが、
だいたいここに挙げられている類似のデータは当ブログでも拾ってきた通り。
ただ、②の点では、私は、
やはり科学とテクノが発達してきた時代ならではの
安楽死・自殺幇助の議論への影響というのはあるような気がする。
一つには、「科学とテクノで簡単解決文化」が社会全体に
「身体も生命もいかようにも操作可能なものになってきた」感覚を根付かせて、それが
社会全体に身体や生命に対して操作的な向かい合い方を促しているところがあるんでは?
次に、医療が高度化して、端的に医療費が増大してきたことが
高齢化に比べるとあまり言われないけれど、事実としてあると思うし、
医療経済の問題として「死の自己決定権」が語られる背景にはこの問題もあるんでは?
それからベルギーの「安楽死後臓器提供」の実例や
その他、当ブログが拾ってきた諸々の情報からしても
安楽死・自殺幇助の問題は臓器移植医療の臓器不足解消の要請と繋がっているのでは?
それらの点で、科学とテクノロジーが発達した時代ならではの
安楽死・自殺幇助合法化に向けた動き加速化の背景というものがあるような気がする。
2012.11.05 / Top↑
「ケアの倫理からはじめる正義論 支えあう平等」を読んで、
これまで、同じ重症障害のある娘をもつ親の立場で、
エヴァ・キテイの個人的な事情や思いについて知りたかったことが
いくらかはっきりしたので、整理してみる。
まず、キテイも私と同様に障害者運動について、
両義的な感情の間で引き裂かれているように見える。例えば、
……これまで、合衆国で障碍者コミュニティが獲得してきたことについて、わたしは本当に素晴らしいと思っています。……
……けれども、障碍者コミュニティで語られる多くのことは、自分たちの声で語ることのできる障碍者に合わせた語られ方をしてきました。たとえば、障碍者運動の有名な標語の一つに、「自分のことは、自分で語る!」があります。だけど、セーシャは、話せないのです。……セーシャは自分の声をもたないのです。
そうしたこともあり、わたしは、障碍者コミュニティのなかでは、こんなことを発言して、まるで批判的にふるまわざるを得ないのです。「あなた方は、障碍者一般について発言をしておられますが、私の娘のような障碍者もいることを、ぜひとも忘れないでください」と。……私は、障碍者の人々が時々、私は愛情に満ちているが、理解力のない親、つまり、過剰に防衛的だったり、受容力に欠ける、そうした親とみなしているように感じます。障碍者たちは、そうした親に対抗する形で、自分たちのアイデンティティを確立してきたのです。……わたしは、時間をかけてかれらの視点から物事を見ようと努力してきました。とくにかれらは、わたしの娘からは学べないことを教えてくれたからです。しかしながら、かれらもまた時には、理解力に欠けるような親の視点から物事を見ることを学ぶ必要があったのだと思います。というのも、そうした親であっても、自分自身のこと以上に、子どもの世話をしてきたのですから。
(p.94-95)
最後の数行については、障害者運動の側がどのように読むか、
ちょっと聞いてみたい気もするし、中には、そういう親の意識こそが
子どもへの抑圧に向かうのだと反発する人もいるのでは、という気がするけれど、
その辺りも含めて、
障害者運動が築いてきたものに感謝し、またそこから多くを学びつつも、
特に重症障害者の親の立場からは障害者運動に言いたいことが多くありもして、
悩ましく引き裂かれているところが、キテイと私はそっくりだなぁ……と思う。
ところで、
セーシャが生まれたのは著者が「大学院に行く前」のことで、1960年代。
大学院で何を専攻するかに迷っていた著者は、
セーシャが障碍を抱えていることがわかり始めると、科学の入門的な科目は、セーシャの状況についての苦悩から自分を解放するほど、刺激的ではないように思い始めました。わたしは、セーシャの問題を頭から取り除いてくれるような、なにか強烈なものが必要だったのです。……哲学とは、セーシャについて語らなくてもいい方法、セーシャの抱える困難を考えないでよい道の一つだったのです。
(p.102-103)
この段階でまだ住み込みの介護者ペギーはいないと思うのだけれど、
キテイはセーシャを産んでも、セーシャに障害があると分かっても、なお、
大学院に進み、セーシャから頭を離すために哲学に没頭できるだけの
物理的な環境があった、ということなんだろうか。
セーシャの子育ては一体だれが担っていたんだろう……?
たぶんとても近い障害像のミュウの乳幼児期を考えると、
とてもじゃないけれど子育てをしながら学問ができるような状況ではなく、
私たち夫婦は一日一日をかろうじて生き延びるだけで精いっぱいで、
ひーひー疲労困憊の極地だったのだけれど……。
同じように重症障害のある子どもの子育てでも
子どもが健康でさえあったら、研究生活と両立できるものなんだろうか。
確かに祖父母の協力を得て、
フルタイムで働きながら重症重複障害児を育てている女性は
私の身近にもいないわけではない。
私にはそれを可能とするだけの状況がなったのだと頭では分かっているけれど、
この点では、私の中にはずっと「私の頑張りが足りなかったのか」という
自問、自責がどうしようもなく根深く巣食っている。
それは、もしかしたら子育てや介護を理由に仕事をあきらめざるを得なかった女性に
共通の思いなのかもしれないのだけれど。
それから、2009年のカンファの際に
P・シンガーたちに障害者の生活そのものを見てほしいとキテイが企画したことについて
What Sorts of Peopleブログでキテイがコメントした際に、
「セーシャ達の住むコミュニティ」という表現を使っていて、
その時からセーシャが住んでいるのは施設なのか、そうではないのか、
もしかしたらグループホームのようなところなのか、ということが
私にはずっと気にかかっていたのだけど、
この本でもキテイは「コミュニティ」と「センター」という表現を使い、
「施設」という言葉は使っていない。
けれど、以下のような語りからも、
その他の個所で語られていることからも、
セーシャさんが暮らしているのは「○○センター」という名前の
施設に類する場所であるように想像される。
……セーシャを、いってみれば『隔絶したコミュニティ』に住まわせることについては、正当化が必要だとよく思います。それは、障碍者たちのコミュニティが求め闘ってきたこと、わたしもまた一般的に言えば信じていること、つまり地域での生活に反しています。
(p.116-117)
この個所に続けて、キテイはセーシャのような重症者のニーズに応えるには
いかにGHの小規模な資源では十分でないか、
そのセンターが「逆インクルージョン」を含めて、
いかにすばらしい取り組みをしているかを
熱を込めて語っている。
ミュウのような重症心身障害者のGHでの「自立生活」ビジョンについては
私もまったく同じような懸念を持っているから
語られていることそのものはカンペキに同意なのだけれど
(さらに言葉をもたず無抵抗な重症者のケア空間としては
GHの閉鎖性も私には気にかかっている)
それが一切「施設」という言葉を使わずに語られているところ、
なにか急いで埋めなければならないすきまでもあるかのように
ちょっとリキんで彼女が語っているように感じられるところに、
私は、キテイの
未だ乗り越えられていない罪悪感と痛みを見るような気がする。
それから、同じ重症障害のある子どもをもつ母親でありながら、
キテイのように生きることができなかった私には
彼女への嫉妬がどうしても胸に渦巻いてしまうので、
そのセンターがいかにすばらしいところであるかが力説されればされるだけ、
そのセンターはもしかしたら住み込みの介護者を雇えるような
富裕層の家族しか入ることのできない施設なのでは? と
我ながら醜いことを考えてしまう。
でも、そういう互いの間にある
諸々の前提条件のギャップを別にすれば、大筋、ああ、同じなんだなぁ……と。
特に、キテイが障害者運動に向けて
「ウチの子のような重症重複障害者のことが見えていない」と訴えていること、
同時に「親は敵かもしれないけど、それだけじゃないことを
あなた達も考えて」とも訴えているように見えることは、
私が『アシュリー事件』の12章で書いたこととまったく同じ――。
そのことに慰められる。
それに、インタビューの間の写真が何枚かあるのだけれど、
セーシャのことを語っているキテイの表情が
そこだけはなんとも言えず軟らかい笑顔で、すっごく、いい顔。
どんな生き方をして「今ここ」に至ったのであろうと、
私たち、こんなにも愛する娘がいる「おかあさん」なんですよね、キテイさん。
そう――。
自分自身の人生を生きたい思いをこんなにも捨てがたい私たちだけど、
だからといって私たちが娘を愛していないわけじゃない。
そう――。
もしも苦しみながらも自分なりに誠実に生きようとしてきた一人の人間の中で
「重い障害のある子どもの親であること」と
「自分自身の人生を生きようとする私」とが両立されず、
その人が両者の間で引き裂かれたまま生きるしかないなら、
それはその人自身の責任や問題ではないんじゃないだろうか。
それは、本当は一人ひとりの親の問題ではなく、
その責が親に負わされてしまう社会の側の問題なんじゃないんだろうか。
そのことをエヴァ・キテイは「愛の労働」あるいは依存とケアの正義論で書いたのだと思う。
そして、私も私なりに、そのことを、
「私は私らしい障害児の親でいい」や「海のいる風景」で書いてきたのだと思う。
これまで、同じ重症障害のある娘をもつ親の立場で、
エヴァ・キテイの個人的な事情や思いについて知りたかったことが
いくらかはっきりしたので、整理してみる。
まず、キテイも私と同様に障害者運動について、
両義的な感情の間で引き裂かれているように見える。例えば、
……これまで、合衆国で障碍者コミュニティが獲得してきたことについて、わたしは本当に素晴らしいと思っています。……
……けれども、障碍者コミュニティで語られる多くのことは、自分たちの声で語ることのできる障碍者に合わせた語られ方をしてきました。たとえば、障碍者運動の有名な標語の一つに、「自分のことは、自分で語る!」があります。だけど、セーシャは、話せないのです。……セーシャは自分の声をもたないのです。
そうしたこともあり、わたしは、障碍者コミュニティのなかでは、こんなことを発言して、まるで批判的にふるまわざるを得ないのです。「あなた方は、障碍者一般について発言をしておられますが、私の娘のような障碍者もいることを、ぜひとも忘れないでください」と。……私は、障碍者の人々が時々、私は愛情に満ちているが、理解力のない親、つまり、過剰に防衛的だったり、受容力に欠ける、そうした親とみなしているように感じます。障碍者たちは、そうした親に対抗する形で、自分たちのアイデンティティを確立してきたのです。……わたしは、時間をかけてかれらの視点から物事を見ようと努力してきました。とくにかれらは、わたしの娘からは学べないことを教えてくれたからです。しかしながら、かれらもまた時には、理解力に欠けるような親の視点から物事を見ることを学ぶ必要があったのだと思います。というのも、そうした親であっても、自分自身のこと以上に、子どもの世話をしてきたのですから。
(p.94-95)
最後の数行については、障害者運動の側がどのように読むか、
ちょっと聞いてみたい気もするし、中には、そういう親の意識こそが
子どもへの抑圧に向かうのだと反発する人もいるのでは、という気がするけれど、
その辺りも含めて、
障害者運動が築いてきたものに感謝し、またそこから多くを学びつつも、
特に重症障害者の親の立場からは障害者運動に言いたいことが多くありもして、
悩ましく引き裂かれているところが、キテイと私はそっくりだなぁ……と思う。
ところで、
セーシャが生まれたのは著者が「大学院に行く前」のことで、1960年代。
大学院で何を専攻するかに迷っていた著者は、
セーシャが障碍を抱えていることがわかり始めると、科学の入門的な科目は、セーシャの状況についての苦悩から自分を解放するほど、刺激的ではないように思い始めました。わたしは、セーシャの問題を頭から取り除いてくれるような、なにか強烈なものが必要だったのです。……哲学とは、セーシャについて語らなくてもいい方法、セーシャの抱える困難を考えないでよい道の一つだったのです。
(p.102-103)
この段階でまだ住み込みの介護者ペギーはいないと思うのだけれど、
キテイはセーシャを産んでも、セーシャに障害があると分かっても、なお、
大学院に進み、セーシャから頭を離すために哲学に没頭できるだけの
物理的な環境があった、ということなんだろうか。
セーシャの子育ては一体だれが担っていたんだろう……?
たぶんとても近い障害像のミュウの乳幼児期を考えると、
とてもじゃないけれど子育てをしながら学問ができるような状況ではなく、
私たち夫婦は一日一日をかろうじて生き延びるだけで精いっぱいで、
ひーひー疲労困憊の極地だったのだけれど……。
同じように重症障害のある子どもの子育てでも
子どもが健康でさえあったら、研究生活と両立できるものなんだろうか。
確かに祖父母の協力を得て、
フルタイムで働きながら重症重複障害児を育てている女性は
私の身近にもいないわけではない。
私にはそれを可能とするだけの状況がなったのだと頭では分かっているけれど、
この点では、私の中にはずっと「私の頑張りが足りなかったのか」という
自問、自責がどうしようもなく根深く巣食っている。
それは、もしかしたら子育てや介護を理由に仕事をあきらめざるを得なかった女性に
共通の思いなのかもしれないのだけれど。
それから、2009年のカンファの際に
P・シンガーたちに障害者の生活そのものを見てほしいとキテイが企画したことについて
What Sorts of Peopleブログでキテイがコメントした際に、
「セーシャ達の住むコミュニティ」という表現を使っていて、
その時からセーシャが住んでいるのは施設なのか、そうではないのか、
もしかしたらグループホームのようなところなのか、ということが
私にはずっと気にかかっていたのだけど、
この本でもキテイは「コミュニティ」と「センター」という表現を使い、
「施設」という言葉は使っていない。
けれど、以下のような語りからも、
その他の個所で語られていることからも、
セーシャさんが暮らしているのは「○○センター」という名前の
施設に類する場所であるように想像される。
……セーシャを、いってみれば『隔絶したコミュニティ』に住まわせることについては、正当化が必要だとよく思います。それは、障碍者たちのコミュニティが求め闘ってきたこと、わたしもまた一般的に言えば信じていること、つまり地域での生活に反しています。
(p.116-117)
この個所に続けて、キテイはセーシャのような重症者のニーズに応えるには
いかにGHの小規模な資源では十分でないか、
そのセンターが「逆インクルージョン」を含めて、
いかにすばらしい取り組みをしているかを
熱を込めて語っている。
ミュウのような重症心身障害者のGHでの「自立生活」ビジョンについては
私もまったく同じような懸念を持っているから
語られていることそのものはカンペキに同意なのだけれど
(さらに言葉をもたず無抵抗な重症者のケア空間としては
GHの閉鎖性も私には気にかかっている)
それが一切「施設」という言葉を使わずに語られているところ、
なにか急いで埋めなければならないすきまでもあるかのように
ちょっとリキんで彼女が語っているように感じられるところに、
私は、キテイの
未だ乗り越えられていない罪悪感と痛みを見るような気がする。
それから、同じ重症障害のある子どもをもつ母親でありながら、
キテイのように生きることができなかった私には
彼女への嫉妬がどうしても胸に渦巻いてしまうので、
そのセンターがいかにすばらしいところであるかが力説されればされるだけ、
そのセンターはもしかしたら住み込みの介護者を雇えるような
富裕層の家族しか入ることのできない施設なのでは? と
我ながら醜いことを考えてしまう。
でも、そういう互いの間にある
諸々の前提条件のギャップを別にすれば、大筋、ああ、同じなんだなぁ……と。
特に、キテイが障害者運動に向けて
「ウチの子のような重症重複障害者のことが見えていない」と訴えていること、
同時に「親は敵かもしれないけど、それだけじゃないことを
あなた達も考えて」とも訴えているように見えることは、
私が『アシュリー事件』の12章で書いたこととまったく同じ――。
そのことに慰められる。
それに、インタビューの間の写真が何枚かあるのだけれど、
セーシャのことを語っているキテイの表情が
そこだけはなんとも言えず軟らかい笑顔で、すっごく、いい顔。
どんな生き方をして「今ここ」に至ったのであろうと、
私たち、こんなにも愛する娘がいる「おかあさん」なんですよね、キテイさん。
そう――。
自分自身の人生を生きたい思いをこんなにも捨てがたい私たちだけど、
だからといって私たちが娘を愛していないわけじゃない。
そう――。
もしも苦しみながらも自分なりに誠実に生きようとしてきた一人の人間の中で
「重い障害のある子どもの親であること」と
「自分自身の人生を生きようとする私」とが両立されず、
その人が両者の間で引き裂かれたまま生きるしかないなら、
それはその人自身の責任や問題ではないんじゃないだろうか。
それは、本当は一人ひとりの親の問題ではなく、
その責が親に負わされてしまう社会の側の問題なんじゃないんだろうか。
そのことをエヴァ・キテイは「愛の労働」あるいは依存とケアの正義論で書いたのだと思う。
そして、私も私なりに、そのことを、
「私は私らしい障害児の親でいい」や「海のいる風景」で書いてきたのだと思う。
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