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21日のエントリーで触れた「いのちの選択」の中に、
当ブログでも考えてきた科学とテクノと法、倫理との関係について考察した部分があって、
とても興味深かった。

この部分を執筆しているのは田中智彦氏。

田中氏が書いておられることを、簡単に私自身の言葉でまとめてみると、

科学技術の領域は「できる/できない」という論理で動き、
「できない」ことを減らして「できる」ことを増やそうとする。
「できる」ことが増えるのが科学技術の進歩なのであり、したがって
「できるとしても、してよいのか」という問いへの答えは
この領域からは出てこない。

例えば、この領域が答えられるのは「原子爆弾は作れるか」という問いにであって
原子爆弾を「使ってよいか」という問いに応えることはできない。
つまり、科学技術の領域は「してはいけない」と判断するブレーキを欠いたまま
「できない」よりも「できる」ことへと向かうものなので、

そこで、そのブレーキとして必要となるのが法律。
こちらは「合法/違法」という論理で動いている。
「したら罰せられる」という方法で「ブレーキをかける」ことができるが、
問題が2つあって、

① 法律を守る人でなし
例えば他人をさげすみ自分の利益のために利用するなど、
違法でない範囲での不道徳な行為に対しては無効であり、
法律はブレーキとしては存外に効きが甘い。

② 多数決の専制
多数者の賛同によって法律となってしまえば
合法的な人権侵害も行われてしまう。
民主主義には民主主義そのものの暴走へのブレーキは付いていない。

したがって、科学技術によって「できる」ことが
法律によって「違法ではない」ことにしたとしても、
それで倫理問題が解決されたことにはならない。

「違法でない」とても「してはならない」こと
法律的には定めがないとしても倫理的には「しなければならない」ことがある。

「善い/悪い」「義務/禁止」という論理で動いている
倫理の意義と役割がここに出てくる。


この本は、脳死・臓器移植改正法に異議申し立てをするべく書かれたものであり、
同改正法を念頭に読むと、「多数決で違法ではないとされたからといって、
倫理的であることにはならない」という主張の意味するところは分かりやすい。

(ちなみに、昨日、別ソースから知ったところでは、
去年の夏にA案に賛成票を投じた自民党議員140名がその後、落選したとか)


ところで、
2007年論争当初には見逃していた、
Kansas大学の障害者の権利擁護と支援センターBeach Centerの専門家による
“Ashley療法”批判を数日前に見つけて、大変面白く読んだのだけれど、
そこで展開されている批判が、上記の指摘と重なっていて興味深かった。

KU experts examine issues in surgery to halt girl’s growth
LJWorld.com, January 14, 2007

この論考は、Ashleyに行われたことがAshley自身の基本的人権を侵していること、
中でも「然るべきプロセス」が保障されるべき権利を侵していることを重視し、
それこそが、歴史において専門家が障害者に繰り返してきた傲慢なのだと警告する。

そして、おおむね、次のような指摘をしている。

ケース・バイ・ケースの意思決定とか
利益とリスクの比較検討による最善の利益判断、さらに
正当化に持ち出されるQOLという概念は、ことごとく曖昧であるにもかかわらず、
それらが巧妙に使いまわされることによって

そのアプローチは、
基本的には倫理や理論、施策に関する問題を科学の問題にしてしまう。

歴史は我々に、
問題の偽装には気をつけよと告げている。





私にはこの問題は最近、領域の大きさの問題としてイメージされていて、
科学とテクノロジーという領域は、社会や文化の一部であって、本来
社会や文化という大きな円の中に、科学とテクノの小さな円が内容されているのだけれど、

その急速な発展によって科学とテクノの領域が急速にクローズアップされてきたことで、
もともと「できる/できない」の論理で動いている科学とテクノの領域の人たちが、
そこの大小をカン違いして、

「できることは全て正しい」という自分たちの狭い専門領域の論理が
もっと広く世の中全体の論理として通用して当たり前だと考え始めているのでは?

もちろん、それは、そう簡単にまかり通ることではないから
そこで正当化・合理化の理論武装を担う学問がひねり出されて、
英語圏の生命倫理では「利益対リスク」だの「QOL」だの
「パーソン論」だの「自己決定権」だのが持ち出されてきた。

でも、そのマヤカシは多くの人が既に指摘していて、
当ブログでもA療法論争の最初から「最善の利益」論については
倫理的検討という第一段階を飛ばした前提
コンフリクトなければ(ケースバイケース原則で)不問などを指摘しているし、

科学とテクノの御用学問としての生命倫理という学問のいかがわしさについても、
治外法権的な聖域なき議論の土壌づくり法の束縛からの解放などを
役割として担っているらしいことを考えてきた。

そういう、一見もっともらしく、一見とても高尚に見える、
でも詳細に検討すれば論理の手品みたいなマヤカシだらけの理屈づけと並行して

科学とテクノの領域が、
「あれもできるようになる、これももうすぐ可能!」という先取り誇大広告によって
次々に華々しい夢の未来予測を提示しては一般人の期待を掻き立てつつ
人間についての諸々は個体自体によって決定づけられて不変で
環境や社会や、なにしろ科学以外の領域によっては変えられないかのように言いなすために、

我々一般人の頭の中でも、科学とテクノのと、社会や文化の大きさとが
いつのまにか逆転してイメージされて、あたかも科学とテクノという大きな円の中に、
社会や文化という小さな円が内包されているかのように
勘違いさせられているんじゃないのだろうか。

そして、どんどん「問題の偽装」に気付きにくいように、されているんじゃないだろうか。
2010.05.24 / Top↑
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