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11月1日のエントリーを書いた後で
借りていた本を返しに図書館に行ったら、「大型類人猿の権利宣言」があったので、

これだけブログでボロカスに書いていることだし、
目についた以上は読むのが仁義かと思って借りてきた。

で、最初に編者のパオラ・カヴァリエリとピーター・シンガーが書いている「序」と
それに続く「大型類人猿についての宣言」合わせて8ページ分を読んだ。
(その他の部分は、まだペラペラしてみただけ)

「序」によると、著者らの実践的なレヴェルでの目的とは
「監禁されているチンパンジー、ゴリラ、オランウータンをすべて解放し、
彼らの生理的、知的、社会的必要に一致する環境に帰してやること」となっている。

私はこれには賛同する。

08年にこちらのエントリーでとりあげた
脳とコンピューターのインターフェイスの実験のニュースにあった映像で
サルのあまりにも痛々しい姿が、その後もずっと忘れられない。
(上記エントリーの記事リンクから見れます)

また、07年にシンガー関連で読んだ本の何冊かにも
あまりにも残虐な動物実験の実態は描かれていてショックだった。

こういう実験のことを考えると、
Singerらの目的を達成しようと主張することは、同時に、
科学とテクノロジー研究の進歩が止まるも同然になっても
やむを得ないと主張することでもあろうけれど、

こういう主張をする以上は、この本の著者らだって、
それくらいは覚悟の上で言っていることなのだろうし
私個人的には、今の科学とテクノの簡単解決文化の暴走こそ危うい感じがするから
まぁ、この辺でペースダウンして、その分いろいろ考えるべきことを考えながら、
ゆっくり前に進んだっていいんじゃないかと思っている。

(科学とテクノの進歩がユートピアをもたらすと信じるTH二ストが
どうして同時に大型類人猿の解放を唱えていられるのか、私には謎だけど)

だから、ここのところには、賛成。賛同。拍手。

ところが、それが最終目的だという前提を共有したつもりで、その他の部分を読むと、
著者らのいう「理論的なレヴェルの目的」は、
あまりにも上記の目的と矛盾しているように思えて、
にわかに頭が混乱してくる。

「理論的なレヴェルの目的」とは、何度も繰り返されているのだけど、
「平等なものの共同体」を拡張してチンパンジー、ゴリラ、オランウータンを含めること。

で、その根拠とは、これら大型類人猿は
例えば人間の言語を理解できるなど、知能のレベルが高く人間に非常に近いから。

でも私には、この論理そのものが種差別ではないのか、という気がするんだけど……。


特に「人間の共同体」と書かれているわけではないのだけど、
「われわれの住んでいる世界では」とか「われわれの国の中で」とも書かれているので、
この「平等なものの共同体」とは「現在は人間だけを平等なものとして含むことになっている
我々人間の共同体」のことを意味しているのだろうと推測される。

それを大型類人猿にも「拡張」して、
その人間の共同体に彼らを「含める」ことが提案されているわけです。

でも、「彼らの生理的、知的、社会的必要に一致する環境」とは
彼らが人間とは関わりを持たずに暮らせる環境のことのはずであり、

それならば理念のレヴェルにおいても、
「彼らの生理的、知的、社会的必要に一致する環境」は
「人間の生理的、知的、社会的必要に一致する環境」とは重ならず、
したがって「われわれの共同体」とも重ねるべきではないはずで、

我々の共同体の門戸を開いて彼らをそこに受け入れてやろうと言うのは、
先の目的と矛盾しているだけでなく、それを言う人間の
大型類人猿に対する不遜であり傲慢なのでは?

大型類人猿たちにとって人間は特別な存在でもなんでもなく、
自分たちこそが特別な存在なのであり、
それを尊重することが彼らの尊厳を守ることになるはずなのだから、

大型類人猿にとっては、人間の共同体に含めてもらったり
「人間と平等」にしてもらったり
「人間の道徳的地位」を与えてもらうことは
種としての尊厳を守られることにはならない。

シンガーらの「理論的なレヴェル」の目的には
大型類人猿よりも優位な存在である人間サマが
自分たちよりも劣等・下位な大型類人猿を「人間に近い」存在だと「認定」し、
自分たち優位な者と同等なものとして「承認」してやろうという傲慢が潜んでいるのでは?

でもって、それって「種差別」意識なのでは?


「我々の共同体に、我々と同じように平等な道徳的地位を持った存在として
彼らを受け入れよう」と主張する根拠とされる彼らの「知能」の高さにしても、
そこで基準とされているのは、あくまでも「人間で問題になる意味での知能」だ。

ゴリラの生理的、知的、社会的必要に一致する環境で
「ゴリラにとって問題になる知能」ではない。

人間の知能の基準と計測ツールを用いて
彼らにおける「人間で問題になる知能」をあれやこれやと計測し、
その結果、彼らは「人間で問題になる意味で知的」に「人間に近い」から、
彼らには人間と同じ共同体に入る資格がある、と主張することは、

人間の能力を基準にして彼らの能力を測り評価することの妥当性に
全く疑いを持たない意識のありかたそのものが、
チンパンジー、ゴリラ、オランウータンに対する
人間の傲慢であり、種差別ではないのか?

人間の言語を教えて、
その習得の程度によって彼らの知能の高い・低いを云々するのも、
人間の言語を教えこもうと試みることそのものが、一種の虐待なのでは?

それは、人間の世界で問題になる形での知能を測りたいという
人間の側のニーズによって行われることであって、
人間の言語を獲得して人間とコミュニケーションをとるニーズが
ゴリラやチンパンジーにあるわけではない。

彼らを彼ら本来の生理的、知的、社会的環境に戻してやることが
彼らの尊厳を守ることなのだという考え方に同意するならば
人間の言語を覚えさせたり、人間のようにふるまうことを求めることは
彼らにとっては何の利益にもならないばかりか、
種としての彼らの本来のあり方を捻じ曲げようとする行為に他ならない。

(「志村動物園」でパンくんを人間のように飼育することが動物虐待だという
指摘が出ていたのは、要するにそういうことですよね?)

Peter Singerが本当に種差別を禁じるならば、
彼ら自身にニーズもなければ利益にもならない人間の言語を
彼らに無理強いすることも批判し否定しなければならないはずだ。

もしも、彼らと本当に対等なコミュニケーションをとって
彼らについて何事かを知らなければならないニーズが
こういうことを主張したい Singerらにあるのだとしたら
そのニーズのあるSingerの方が、ゴリラ同士のコミュニケーションの方法から
彼らの言語を学んで、身につけ、彼らの言語でアプローチするべきだろう。


「理念レヴェル」で、あれこれのヘリクツを並べ、なまじな理論武装をして
自分たち以外の人間の種差別をひどく高いところから攻撃・糾弾しているうちに
自分たちの中にある種差別意識までうっかり露呈させてしまうくらいなら、

ヘンに手の込んだ合理一辺倒の傲慢な攻撃姿勢を棄てて、
現在の動物実験でどれほど惨いことが行われているかの詳細を根気よく提示し、
その他の動物虐待の実態を多くの人に伝える丁寧な努力を重ねることによって
「人間の都合で動物を虐待するのは止めましょう。
まずは大型類人猿から本来の生息場所に帰してやりましょう」と
素直にまっすぐ主張したらどうなんだろう?

彼らの知能がどのくらい人間に近いとか近くないとかいうヘリクツがなくたって
その方がよほど、それらの実態に心を痛める人が多く、
解放してやろうとの主張に素直に共感できる人も多いのではないかと
私は思うのだけど。――違います?


少なくとも、
オレ様たちはオマエらよりもはるかに頭がいいのだから
オレ様たちの言うことが正しいに決まっているのだ。
もしもその正しさを否定するなら、オレ様たちの理屈を論破してみろ。
論破できないなら、オレ様たちの正しさは証明されたのだ。
負けを認めて、オレ様たちの言うことを聞けぇ。分かったかぁぁぁ、と

まるで赤ヘルかぶって拡声器持った70年代のニイチャンたちみたいに
いい歳の(しかも一応、学者だよ)大人に
高~いところから、おめきたてられるよりも、

そういう素直なメッセージの方が、
はるかに多くの人の心に届くと思うよ。心に――。
2010.11.05 / Top↑
カナダのKaylee事件を知ってショックを受け
腹立たしくてならないわ、むやみに危機感は募るわで
フライパンで煎られるような気分だった去年の春の終わりのこと――。

友人と食事をした際に、
頭に噛み付いて離れなくなっていたKaylee事件のことを私は夢中で話した。

カナダでね、
重い障害があるというだけでターミナルでもなんでもない生後2ヶ月の赤ちゃんを、
心臓のドナーにしようって、親や医師が寄ってたかって相談して、決めたんだよ。

どうせ助からないなら人のためになる死に方をさせてやりたいって
メディアに語った父親は、世間からさんざっぱら英雄扱いされてさ。

ところが、よ。
ベッドサイドに身内が集まってお別れ会をやって、
もちろん、すぐに心臓を摘出する準備も万端整えられて、
いざ呼吸器を外したらね、Kayleeちゃんは自力で呼吸を続けたんだ。

もちろん、それで心臓は摘出されずに終わったんだけど、
でも、こんなの、言語道断だと思わない?

ターミナルでもなんでもないし、
写真を見るかぎり意識だってはっきりしてるよ、あの子は。

そういう子どもを、どうせ助かってもQOLが低いからといって、
移植用の心臓ほしさに殺そうって・・・・・・

カナダって、もうそこまで行っちゃってるんだよ。

――と、私が一気にまくし立てるのを、ふむ、ふむ、と聞いていた友人は、
「ったく、怖い話だよね」と私が話を締めくくると、
デザートのプリンをスプーンですくいながら、
とても無邪気に首をかしげて、言った。

「でも、その子、どうせ治らないんでしょ?」

絶句した。いきなり横っ面を張られたみたいだった。

彼女はミュウが生まれる前からの古い友人で、
私たち親子のことをいつも心配してくれている、心の優しい人だ。

その彼女にして、
まだ生きていて、別に死にそうになっているわけでもない子どもを
ただ重い障害があるからというだけで臓器のために殺そうとすることに対して、
「でも、どうせ治らないんでしょ?」と反射的に口走ってしまう――。

あまりのショックに、私は自分の頭に反射的に浮かんだ言葉を口にすることが出来なかった。

どうせ治らないなら、殺してもいいの?
じゃぁ、ウチのミュウもどうせ治らないから、殺してもいいというの――?

もちろん、彼女は、別にそこまで考えて言ったわけじゃない。そのくらいは私にも分かる。
もともと彼女にはたいして興味のない問題を、私が勝手に持ち出し、
私が無理やり聞かせた話に過ぎない。ただ友人だからというだけで、
ずっとこういうことを考え続けてきた私と同じ問題意識で受け止め、
同じように憤ってくれると期待したこと自体が、そもそもの私の間違いだ。

当事者性というものが、もともとそういうものなのだろうけれど、
その時の私は、彼女と自分の間にある、絶望的なほどの「分からなさ」「通じなさ」に
ただ呆然としてしまった。

その場でいくら言葉を尽くして説明しようとしたところで、それはきっと、
同じものを我が身の中に「知らない」人との間では
決して越えることのできない種類の「分からなさ」……。
そんな徒労感があった。

そして、彼女と私の間にある、この絶望的に超えがたい「分からなさ」の溝は、たぶん、
世の中の、彼女以外の、重症児のことなど知らないし考えたこともない多くの人との間に
無数に、もっと救いのない深さで、存在する溝なのだ・・・・・・。
そのことを、痛切に思い知らされる気分だった。



その友人の家族が、最近、癌だと診断された。
彼女はたいへんなショックを受けているし、何かとしんどい生活を送っている。
私には愚痴を聞いてあげることくらいしかできないけど、
出来る限りの力になりたいと思っている。

そんな彼女の患者の家族としての生活を思う時、
ふと、聞いてみたい気がすることがある。

もう一度、カナダのKayleeちゃんのことを。
今でもまだ「でも、その子、どうせ治らないんでしょ」と言えるかどうかを。

治るかどうか分からない病人の家族の立場に自分が置かれた時に初めて、
Kaylee事件の恐ろしさが実感されるようになる――。
当事者性というのは結局そういうものなのかどうかを。

もちろん、実際にそんなことは口にしない。
だって、それがどんなに残酷なことか、そのくらいは私にだってわかる。
それくらいは誰にだってわかる。それが当たり前の分別というものだろう。

・・・・・・でも、それなら、
と、ここで私は、いつも同じ問いにつまずいてしまう。

闘病中のがん患者の家族に向かって
「どうせ治らないのなら」という言葉を投げつけることが
誰にだって分かる残酷なのだとしたら、

重症障害児の親に向かって同じ事を言う残酷には
なぜ人はこんなにも鈍感なのだろう?

例えばPeter Singerは、
自分の友人に重症障害のある子どもがあるとしても、
その友人に面と向かい、その子どもを指差して
「障害児は生きたって幸せにはなれないよ。
犬や猫やネズミにさえ知能の劣る、殺したっていい存在だ」と
平然と言える、とでもいうのか――。


【関連エントリー】
心臓病の子の父に「ウチの子の心臓をあげる」と約束してヒーローになった父、呼吸器を外しても生きる我が子に困惑(再掲)(2009/6/19)
2010.11.03 / Top↑
障害者と動物は、社会の神経学的ノームから外れているという全く同じ理由によって
社会から差別され、価値を貶められて、様々に抑圧されているのだから、
障害者の権利と動物の権利とは繋がっていて、相互依存の関係にある、と
主張する人たちが出てきているらしい。

NDYのStephen Drakeが批判のポストを書いている。

Connecting Disability Rights and Animal Rights – A Really Bad Idea
Not Dead Yet, October 11, 2010


Drakeの基本姿勢としては、まず
障害者の権利と動物の権利を一緒にすることに何のメリットがあるのか
特に障害者に何のメリットがあるのか、というもの。

彼が具体的に取り上げているのは
アスペルガーで、動物の権利アドボケイトであるDaniel Salomonが書いた
「動物の権利と自閉症のプライド:対立を癒そう」という以下の文章。

Animal rights and autism pride: Let’s heal the rift
The Scavenger, October 10, 2010


Salomonが冒頭、動物倫理の社会的認知におけるPeter Singerの功績から
話を起こしている点について、Drakeはまず、

「一見、障害者の権利アドボケイト寄りに見える記事が
Singerへの称賛から始まっていたら、ろくなことにはならない」

(私は「そーだ、そーだ!!」と、この個所で盛大に拍手した)

Salomonはこの文章で、自閉症も動物も、
神経学的典型をスタンダードにする社会に適応できないことを理由に
差別され、同じタイプの抑圧を受けているのだから、
両者の権利は相互に対立するのではなく、
相互に結び付き、相互に依存する関係にある、と説いている。

Drakeの具体的な批判の論点としては2点で、
その内容はおおむね、以下のような感じ。

Salomonは自閉症のみについて語りながら障害者一般の権利へと話を広げているが、
動物の権利はアドボケイトが一方的に定義し提唱しているもので
それに対して動物の側から異議申し立てが起こることはあり得ない。
自閉症のアドボカシーにおいては活動に対して当事者から異議申し立てが起こってきた。

それからしても、
動物の権利アドボケイトが話を結び付ける障害者の権利における障害者とは
実際には重症の認知障害のある人たちになる。

シンガー以外にも、我々の社会には
高齢者、病者、障害者、特に重症の認知障害のある人たちを
殺すことに賛成する人たちは、現在、恐ろしいほどの数になっている。
そういう人たちは自分たちの主張を正当化する際に、
ペットなら苦しまないように殺しているじゃないか、と
ペットの安楽死を引き合いに出してくる。

しかし、ペットが死に瀕して苦しんでいるから安楽死させるというのは
単なる神話に過ぎない。

実際、動物擁護組織PETAの施設内では殺処分の件数が非常に多く、
その理由に挙げられているのは、長年の虐待でペットと呼べない状態の動物の他、

They were aged, sick, injured, dying, too aggressive to place, and the like
「殺処分されたのは高齢だったり、病んだり、怪我をしていたり、死に瀕していたり、
置いておくには余りに攻撃的であったり、そういうペットたちで」

こういうペットだから死なせてやったのだという論理を
そのまま重症知的障害のある人間に当てはめたら一体どういうことになる?

人間の無責任な行動が、そうしたペットの増え過ぎを招いて
限られた資源の中では殺処分するしかなくなるのだから
人間の動物に対する扱いを変えなければならないという主張には一理あるが、
増え過ぎて資源を食うから殺すと言われるなら
その問題が最も深刻なのは動物よりも人間だろう。
抑圧され、スティグマを貼り付けられ、虐待やネグレクトに遭い続けてきた知的障害者が、
動物と従妹同士みたいに扱われると一体どうなる?

被虐待的な処分施設を設計したアスペルガーの動物学者
Temple GrandinをPETAは表彰したが、
私がもしも動物を食べることそのものに反対しているとしたら
私はそんな筋の通らないことはしない。そんなのは、
人道的な殺戮方法を選んだといって、アムネスティが
戦争を起こした人間を表象するようなものじゃないか。
全然、筋が通っていない。

障害者の権利と動物解放が相互に繋がっていると言うのも、
それと全く同じだ。全然、筋が通っていない。



このポストには、いくつものコメントが付いていて、
動物の権利擁護の立場の人が数人、長いコメントを立て続けに入れている。

面倒くさいのでまともに読んでいないけど、
Drakeの返事コメントの中でだいたい次のようなことを書いてある個所に
私は個人的に拍手した。

動物の権利擁護運動の内部でもシンガー批判はあると言うが、それは
部分的に動物を殺さざるを得ない場合があると
彼が認めていることに対しての批判に過ぎない。

シンガーに対して行われるべき批判とは、
障害と障害者を殺すことについて書く際に彼が露呈する
知的誠実の欠落(lack of intellectual honesty)に向かうべきである。
不正直でないなら、Singerは単に不注意でいいかげんなのだ。



Drakeは動物の権利擁護運動そのものを否定することはしない。
したがって、Wesley Smithが自殺幇助合法化を批判する本を書いて、
その中で動物の権利擁護運動そのものを批判したことは
Smithの死の自己決定権に対する批判が有意義なものであるだけに
残念だった、と述べている。

しかし、だからといって、
動物の権利擁護運動が障害者と動物とを繋げて考えようとすることは認められない。
その理由を、Drakeはおおむね以下のように説明している。

15年間、NDYの活動をやってきて、なお
知的障害のある人を人間よりも劣った存在だと考える専門職や一般人は後を絶たないし、
今だに多くの人が、そういう見方をしている。

動物の権利擁護運動のメッセージに賛同することが
そうした状況にある障害者の現状をさらに後退させるものではないとは
自分には確信できない。

彼ら/我々/私は、障害者が人類の十全な一員であると認められ、
それが揺るがないものとなるよう求めていくことで、今なお忙しい。
我々はいまだにそこに至っていないのだ。

障害者は歴史の中で、不妊、搾取、廃絶(安楽死)のターゲットとされてきた。
不妊と安楽死はいずれも、少なくとも、ある状況下では
動物には認められるものとされている。

重症認知障害があるとみなされている人たちを医療の現場で
まだ死ななくてもいい時期から死なせてしまわないように支援するという目的においては
あなたたちの提案の通りにすることは、後退にしかならない。



彼は、実際問題として、自分は種差別の問題にはそれほど興味を持てないとも語り、
自分の時間とエネルギーにも限りがあるのだから
自分としては時間とエネルギーは障害のある人間に注いでいくとして、
この問題については、これ以上は知らん、と突っぱねている。

         ―――――

ちょっと前に、“シンガー論者”の“功利主義者”を自称される学者の方と話をした際、

シンガーを批判する前に、彼が何故こんなことを言っているのか、
その背景にある彼の思いを理解してあげなければいけない、と言われ、
それ以来、そのことをずっと考えていた。

1ケ月考え続けて、
その人が言うことは逆だと思う、という結論に達した。

なぜなら、私ごときが批判したからといって
それでSingerが脅されるわけでは全然ないけれど、

Singerがロクに障害について知りもしないだけでなく
誠実に知ろうとする努力を払うことすらせず、
無責任に障害者から尊厳をはく奪し貶めるような発言をすることによって
私の娘をはじめ、世の中の多くの障害児・者の命や諸々の権利は
リアルに脅かされているから。

「なぜ、そんなことをいうのかを分かってあげよう」と努力する必要があるのは、
障害者運動の側ではなく、シンガーの方のはずだ。

「障害者が好戦的なことには驚いている。
障害児を殺しているのは医師であって私ではないのに彼らは私を攻撃するんだよ~」と、
まるで5歳児のような被害者意識を振りかざすのはやめて、
ちゃんと大人の学者として自分の発言には責任を取り、
なぜ障害者運動から自分が批判されているのか、その批判の背景に何があるのかを
誠実に知ろうとする努力を始めたらどうなのか、と思う。

私はシンガーの著書をロクに読んでいるわけではないから
批判する資格はないのかもしれないし、本当のところ、
私も種差別がどうのこうのという議論には興味ないです。

どんなに崇高な理想をかかげていようと、
どんなに世の中を良くしようとの善意からであろうと、Singerの障害児・者に関する
lack of intellectual dishonesty(Drake)と willful ignorance(Kittay)は
学者の姿勢として許されるべきではないと思う。それだけ。


Peter Singerにも、
彼の言説を借りて、それに乗っかることによって
自分自身の差別意識や偏見を正当化し、解き放つ学者さんたちにも
私が言いたいのは、一言。

学者なら、自分がきちんと知らないことについて、無責任にしゃべらないでください。
2010.11.01 / Top↑
以下の「作業療法研究室」というブログによると、
10月27日は「世界作業療法の日」なんだそうだ。

http://blogs.yahoo.co.jp/editorasiajot/32495371.html

娘を通じて様々な医療の職種の人たちと出会ってきた中で、
OTさんは医療の中で患者の“生活”に最も近い職種の1つだと私は感じていて、

娘の施設でも、もちろん個々人のキャラはあるとしても、
リハ職の人たちが活躍できて存在感が大きくなっている時というのが
そこで暮らしている入所者の生活が最も生き生きと営まれていて、
そこで働いている多職種の人たちの連携も関係も一番上手くいっている状態という気がする。

(もうここ数年、それを制度が一番邪魔していることにムカついてならない)

昔、ほんのちょっとの間
各領域で活躍しているOTさんを取材して紹介するシリーズを
「OTジャーナル」でやらせてもらったことがあって、その仕事でも、
やはりOTさんの視点が医療の中にあるということは大きいと感じたし、
地域と医療を繋げるポテンシャルの大きさも毎回、痛感した。

そんなこんなで、OTさんをはじめセラピストの役割が
もっと認知・活用されてほしいと常々願っている。

早い時期からちゃんとポジショニングしてもらえるかどうかで、
その後の身体の変形はずいぶん違うと思うのだけど、
小規模のディだとOTさんの関わりがないまま、
重症者がただバギーに座らされていたりする。

次の介護保険の改定で訪問リハの推進が論点になっているらしいので、
もっと地域に出ていけるように制度整備がどんどんされていくといいと思う。

「介護保険情報」10月号の特集「訪問リハを推進するために」の
日本作業療法士協会会長、中村春基氏のインタビュー
「地域に5割の作業療法士を配置し訪問リハなどを推進」によると、
訪問リハに従事しているOT協会の会員は1838人。
全会員数から休業者を引くと訪問リハに従事しているのは5%。

日本作業療法士協会は08年から「作業療法5カ年計画」を展開し
拠点整備と人材育成を通じて地域に作業療法士を配置する計画を進めているとのこと。

中村氏は、病院に5割、地域に5割という配置を目指すとして、以下のように語っている。

地域にはいろいろな方がいます。難病、うつ、発達障害、高齢者など。そうした中にあって、リハを行う作業療法士が介護保険と医療保険にとどまらず、障害を持っているすべての方にサービスを提供することを考えています。

……(中略)……

作業療法士は日常生活上の様々な障害に対してアプローチしますので、訪問リハのように身近なところにいることはとても重要です。

「介護保険情報」2010年10月号 p.13




また同じ特集の中のインタビュー
「地域での暮らしを支えるために言語聴覚士の活用を」で
日本言語聴覚士協会・副会長の長谷川賢一氏と理事の山口勝也氏が
失語症などコミュニケーションや嚥下障害の問題を抱える人への支援に
STが関わることのポテンシャルについて語っている。

例えば

摂食・嚥下障害については、終末期の方へのアプローチも大切であると痛感しています。状態が悪化していく中でも、安全で楽しみとなる食事ができるように、食事の形態や解除方法などの工夫を具体的にアドバイスできるのがSTです。

「介護保険情報」2010年10月号 P.17



この前のシンポでもそうだったのだけど、
安楽死や終末期医療の問題を議論する人の多くは、
なぜか在宅医療・訪問看護やリハ、介護にあまり興味を示さないように感じるのは
私の気のせいなんだろうか。

病院死と、医師にできること・できないことだけを念頭に
「苦痛がある」とか「ない」とかが議論され「安楽死の是非」が語られていくような気がする。
「口から食べられなくなったら死」についても同じ。

安楽死の是非を語る前に、
もっと興味を持つべきこと、知るべきこと、考えてみるべきこと、
まだまだいっぱいあると思うのだけど――。


関連エントリーとして、
以下のワークショップも、カナダ・アルベルタ大学の作業療法学科から。

「認知症の人の痛みに気付く」ワークショップ(2009/9/9)

こういう視点すらないまま痛みがあるなしを語り安楽死を語るより、
まずは謙虚に、こういう視点や姿勢から学ぶことを始めるべきでは? と私は思うのですが。
2010.10.25 / Top↑
(前のエントリーからの続きです)

② 食べ物として誰かのために誰も死ななくても良い世界は

これも、誰も動物を食べないことにしましょう、と決めることで実現できる。
人間がいっさい動物を食べてはいけない世界を作って種差別を解消しようと
主張することは可能なはず。

皆で合意して、種差別をしないために
世界中みんな納豆や豆腐を食べましょう、というなら、
私は、まぁ、それでもいいよ。

でも、それはできんわ、ということで
食べ物として誰かのために誰かが死ななければならない世界を前提に
その世界において、人間は特別ではないとしたら、どうなるのだろう?

上の実験動物での論理を、この問いにそっくり当てはめて、
予測されているように人類の将来に深刻な食糧不足が訪れた時には、
人間と動物が生きるために、一部の人間は人間にも動物にも食べられてもよい、と
主張しなければならないことになるのでは?

じゃぁ、シンガーは
「中絶胎児や障害新生児や脳死者を食べましょう」と
その場合には言うのだろうか? 

「ゴリラにも食べてもらいましょう」って?

そう言わないと一貫性がないことになると思うんだけど
ただ、そうすると、イワシはイワシを食べない、
ライオンはライオンを食べない、けど、
人間は人間を食べることになって、やっぱり人間が特別になってしまう?

……てなことを考えて

「われわれはこうして豚を殺して食べているが、
なぜ人間にはそれが許されているのか、なぜ人間は特別なのか」という問いに対して、
「特別でないとすると、人間の角煮を食べなければならないことになるから。
それは、私は嫌だから」と答えるのは?  ダメダメ?

まぁ、誰も私に問うたわけではないし、
立岩先生が「よい読み手ではないから」というなら
私は「もともと何も知らない、ただの素人だから」と言うしかないから、
最初から無知なオバサンのザレ言なんだけど。


ザレ言ついでに、もう1つ、ここまで書きながら考えたこと。

我々が素ッ裸の未開の人間として、動物と一緒にサバンナのど真ん中で(関東平野でもいいけど)
これから何らかのシステムを1から作り上げようとしているのならともかく、

既に複雑・高度に出来上がってしまった社会システムの中に、
人間も動物も囚われてしまっていて、我々がその中で生きている現実は変えられないのに、

我々を取り囲むそういう世界とか社会システムとは無縁に、その問いが
ただ抽象的な種としての人間と抽象的な種としての動物について問えるものなんだろうか。

種差別を解消するために我々にできることがあるとしたら、それは、せいぜい
我々の社会システムが人間だけに都合のよいように出来上がっているのは事実だから、
人間だけに都合よくできているそのシステムを、
動物にも都合のよいシステムへと修正することくらいじゃないんだろうか。

人間を特別だとする前提で出来上がっている社会システムから
誰も逃れることなどできないのに、あたかも、そこから逃れ出ることができたり、
人間と動物がそういう環境とは無縁に存在できるかのようなフリをして
人間は特別ではないと主張することで、

そこから導き出される結論が、
だからシステムを見直して、動物にも生きやすい社会システムに、という方向に向かうのではなく
だから一部の人間だけをそのシステムから(特にその一部である医療から)弾き出そうという方向に
向かっていくというのは、やっぱり、どこかが、おかしくない?

それ、ゲイツ財団の私設WHOと言われるIHMEが
「健康で5年生きる」のと「重症障害を負って15年生きる」のとどっちがいい?って、
本当は誰にも選べないことを、あたかも選べるかのようなフリをして問うて、
その答えを何らかの施策を正当化する論拠に使おうとするのと
どこか似通ったマヤカシがあるような気がする。

ちがうかなぁ。
これ、けっこう、健全なフツー人の感覚だと思うんだけどなぁ。
2010.10.07 / Top↑