★「ニーズ」と眼差さず、「当事者主権」とまとめず、シノゴノ言いつつ、ジタバタやろう。新雑誌創刊!
「支援」編集委員会 =
井口高志・岡部耕典・土屋葉・出口泰靖・星加良司・三井さよ・山下幸子
「支援」編集委員会【編】
支援 Vol.1
特集=「個別ニーズ」を超えて
________________________________________
四六判並製 180頁 本体1500円 ISBN978-4-903690-71-1
なんの因果か抜き差しならぬ関わり合いをもち、取り乱しつつ関わり続けることを〈支援〉と立てる。そのリアリティに魅入られた者たちが、それぞれの〈現場〉から受けた負債を返済することのその営みのひとつとして、この雑誌は創刊される。
「ニーズ」と眼差さず、「当事者主権」とまとめず、シノゴノ言いつつ、ジタバタやろう。
そのことも(少し気恥かしげに)宣言しておきたい。────編集委員一同(発刊の辞より)
支援者・当事者・研究者がともに考え・書き・読み、制度や学による分断に対して領域を超えゆくことを目指す。やり方・ハウツーを示すのではなく、支援における悩み・葛藤・迷いをそのものとして提示し、そこから見える未来をしつこく問いつづける新雑誌創刊!
【目次】
発刊の辞
特 集 「個別ニーズ」を超えて
かかわりのなかにある支援──「個別ニーズ」という視点を超えて 三井さよ
日々続いていく支援 末永弘
〈支援〉の根拠(エビデンス)? 岡部耕典
「待つ人」になる──身体障害者の介助と時間 前田拓也
「その人らしさ」と「ニーズ」──支援者としての体験を振り返る 伊藤智樹
「その人らしさ」はどこにある? 出口泰靖
支援の現場を訪ねて 1
み・らいず(大阪市) 山下幸子
支援の周辺(コラム) 1
現場への遠近法──〈メディア〉表象のなかの認知症の本人の「思い」 井口高志
座談会 資格は必要か?──ケア・介護・介助と専門性
土屋葉(司会)・山下幸子・星加良司・井口高志
支援の現場を訪ねて 2
井戸端げんき(木更津市) 出口泰靖
支援の周辺(コラム) 2
ティータイムにお茶を 土屋 葉
エッセイ
支援の条件 熊谷晋一郎
リハビリテーションとQOL──主観/客観の裂け目から見える地平 田島明子
健全者・介護者・介助者・支援者をめぐって 渡邉琢
白熱教室?──当事者を講義に呼ぶことについて 井口高志
支援の周辺(コラム) 3
「つなまよ」「つなとま」な人たちのケアや支援 出口泰靖
書 評
今、ここに足をつけて……『知的障害者が入所施設ではなく地域で生きていくための本』(ピープルファースト東久留米著)柳誠四郎
「関係的な問題」を解くということ……『関係の原像を描く』(篠原睦治編著)星加良司
ありそうでなかった、税をめぐる原始的論考……『税を直す』(立岩真也・村上慎司・橋口昌治著)堅田香
創刊までのいきさつは、生活書院代表Tさんのブログに↓
雑誌『支援』を創刊します
生活書院ブログ~今、大事なことを考えているんだ
2011年2月12日
準備が進んでいることは、ちょっと前からなんとなく知ってはいたけど、
詳細が出てきて、わぁ……! と、なにか弾ける感じと共に、ガッテン。
私自身、「海のいる風景」という本の中で
“ケアのココロ”というものがあるとしたら、
それは「気にかかること」「放っておけないこと」
「もちろん、職場の事情や自分の立場や諸々の事情はあるけれど、
にもかかわらず、気にかかって、どうにも放っておけない」ということ……と書いた。
このブログでも、支援サイドから「迎えにいく支援」をはじめ、
障害のある子どもの子育て、介護一般、支援について、これまで書いてきたこと は沢山ある。
「あたしは専門家だからここまでね。ハイさよなら」と言って済ませられないのは
「患者」や「対象者」や「利用者」や「入所者」ではない、「誰か」、「その人」と
関わり合ってしまったからで、そこには、それ以外の人との関わり合いと同じように
実際、「何の因果か」「抜き差しならぬ」としか言いようのないところがあり、
実際、私たち親子は、そういう支援に支えられて、ここまでやってくることができた。
もちろん、そんな関わり合いは互いに傷つけたり傷つけられたり、
支援する側される側、双方ともにくんずほぐれつ、惑乱したり「取り乱しつつ」でなければ
とうていやっていけないものでもあって、
この雑誌の理念の解説は、いちいち言い得て、絶妙だと唸る。……。
(そういえば、そんなふうに熱くコミットしてくれる人や、そういうことを許す余裕が
福祉の財源が細っていくにつれ、現場からどんどん失われていくような気もする……)
それに私もAshley事件や周辺のニュースを追いかけながら、
支援者と当事者との隔たりとか、
当事者と研究者との隔たりとか、
支援者と研究者との隔たりとか、
支援者でも福祉系の支援者と医療系の支援者との隔たりとか
医療系でも整形外科と小児科とか、発達小児と内分泌とか、
はたまた、そういうのとも別種ながら、
また格別の隔たりを感じる工学系とか。
もちろん、それらの背景にいる、いわゆる「ステークホルダー」といわれる人たちとの
さらに、また別格であろうと想像される隔たりとか、
当事者でも障害の特性による隔たりとか
親と本人の間の隔たりとか、家族の間の隔たりとか、
家族の中でも障害に対する捉え方による隔たりとか、
いろいろ溝も分断も大きく深いことを痛感しつつ、
その溝が絶望的に越えがたく思えることに歯がみする思いになることがある。
そうした「支援」の広がりの中に散在・混在する諸々に、
歯切れよく分かりやすく皮相的な議論ではなく、
シノゴノ、ジタバタやりながら、じっくりと腰を据えて取り組もうという……
――すごい雑誌ができる。
権利主張センター中野での池原毅和弁護士の講演。
国際人権と障害者権利条約
2009年9月15日
自由権と社会権について。
人権と尊厳について。
尊厳とオートノミ―について。
平等概念の変化について。
障害理解と平等について。
などなど、
Ashley事件との出会いから
ずっと、私にはよく分からないままに、ぐるぐるしてきた問題の周辺を
とても分かりやすく解説してあって、とても勉強になった。
私にとって、このブログは
資料のファイリング・ツールにもなっているので、
例によって自分自身のメモとして、
ほとんど言語道断なほどの雑駁さで、以下に。
抽象的な「人間」に権利がある……から、
具体的な人間をそれぞれにイメージしつつ、それら人間に権利がある……となり、
さらに
「自律している人間に尊厳がある」という考え方から
「自律している個人に尊厳がある」という考えに傾いてきたことへの反省として、
人間であればだれでも尊厳を持っているという視点に戻ろうというのが
障害者権利条約の理念ではないか、と。
その理由として、池原氏が挙げている
以下の3点が、私には特に印象的だった。
何でだかはよくわからないけど、うまく説明できないけど、人間という集団の中により尊重されるべき人間と尊重されなくてもいい人間とか、切り捨てられてもいい人間っていうグループわけをし始めると、おそらく人間の社会というのはだめになっちゃうんだというのが20 世紀の経験だったんだろうなというのが一つですね。経験的な説明として。
これと似たようなことを Peter Singer 批判の中で Dick Sobsey も書いている。
いつか、誰かに教えてもらった「法の歴史性」というのが、
こういうことなんだろうな、と思う。
平等主義と自己決定原理の前提には価値相対主義があるということですよね。価値相対主義に立つとすると、どういうことになるかというと同様に結局人間は区別できないわけだから、尊厳とそれを呼ぶかどうかはともかくとして、それぞれの人間は同じだけ尊重されなければいけない。どっちがより尊厳が少ないとか多いという議論は成り立たない、そこまでいくと平等性とほとんど同じ概念とですけれども、やはり人間の尊厳性の前提にも価値相対主義があるだろうということがある。というのが二つ目ですね。
自己決定原理の前提に価値相対主義があるというのは目からウロコだった。
じゃぁ、
Ashleyのような重症児には尊厳はないとの主張に基づいて
侵襲度の高い不可逆な医療介入を正当化する論理は
価値相対主義を否定していることになるのだから
自己決定権の延長である親の決定権も根拠が崩れる……?
一定のオートノミ―を失った状態には尊厳がないと感じることは個々の感じ方の違いだから、
そう感じる人には死の自己決定権を認めましょう……という主張は、
「どんな状態になっても生き続ける」との自己決定も同様に尊重されるのでなければ
価値相対主義とは言えないのだから、
現在のように「死ぬ」という一方向のみの自己決定権は喧伝されても、
逆方向からはQOLを基準に治療を拒絶する「無益な治療」論が押し出してきていて
「にもかかわらず生きる」という方向への自己決定は否定されていくのでは、やっぱりマヤカシ。
現に自律しているとか自己決定しなくてもね、少なくとも可能的な潜在的な、つまり命
というものが存在している限りにおいては、可変的であって、可能性を持った存在だとい
うのが人間
これと全く同じことを
成長抑制をずっと批判している重症児の親Clairさんが書いている。
ついでに、私もずっとそのことを娘の姿を通じて描き出したいと、
このブログの「A事件・重症障害児を語る方に」の書庫のエントリーで
拙い努力をしているつもり……。
ずっと書いているClaire Royさんのブログが、その合間に、
テクノロジーの進歩によって重症障害者の意識が証明されたり、
これまで意思疎通不能だと思われていた人たちとコミュニケーションがとれるようになる
可能性について書いた誰かの文章から、
そういうテクノロジーは、Ashley療法を提唱している人たちの
重症児ステレオタイプにどのように影響するのだろうか、という点について
考えを巡らせている。
Will Technology help us avoid more Ashley X’s?
No More Ashley X’s: Say NO to Growth Attenuation, November 18, 2010
私もちょうど先日、ひょんなことから、ある人との間で
重症児・者のコミュニケーションについてメールでやりとりすることがあったばかりで、
そのやりとりのおかげで、
私の中でこれまでイマイチちゃんと整理できずにいたことが、
ほんのちょっとだけ、これまでよりは整理できた気がする。
やりとりしながら最後に書いた自分のメールの文章の一部をメモ的に以下に。
(私信のため、一部に手を入れていますが、ほぼ原文のまま)
今の時代が恐ろしい方向に向かっていることや、
多くの問題が根っこのところで繋がっていることについての問題意識は、
確かに私も共有していますし、
重症障害児・者の認知能力を客観的に証明する必要も、そういう時代の方向性のなかでは、
多分かなり切迫してあるのだろうとも認識はしているのですが、
それを、何を通じて訴えようとするのか、という点で、
○○さんとは相いれないものがあるように感じます。
特にAshley事件を通じて私が考えている重症児のコミュニケーションの問題は、
拙ブログの「A事件・重症障害児を語る方に」という書庫の中の
エントリーを読んでいただければと思うのですが、
ごく普通の当たり前の生活の中で、ごく普通に「共にいる」こと、
その子どもを「障害児」としてではなく名前も顔も個性もある「○○ちゃん」として知ることから、
つまり普通に相手を人としてありのままに尊重し愛することから、
そこはかとなく、であれ、自然に生じてくるはずのコミュニケーションのことです。
それは、実は多くの通園・入所施設や養護学校、デイサービスなどで、
ごく自然にやり取りされていることであり、
そこには奇跡のような特定のメソッドや特別な技能をもった人は無用だ
というのが私の考えです。
意思伝達装置の可能性を私も否定しませんが、装置から始まるのではなく、
当たり前の非言語コミュニケーションが前提として、
また周囲の姿勢として、まず存在して、その中での補助ツールだろうと思います。
もちろん脳死者や植物状態、最少意識状態とされている人たちの意識状態についても
大いに問題は感じ、考える必要も感じていますが、
そこは十分に整理しておかないと非常に危うい議論になるように思うので、
私はとりあえず分けて考えたいです。
ただ、そこを自分としてどのように分けて整理するのかは、まだまだ混沌としているので、
私にとっては今のところ手をつける自信のない問題かなぁ、と思います。
この時には頭に浮かばなかったけれど、
これを書いたことをきっかけに、その後、考えたこととしては
① 脳死者、植物状態、最少意識状態の人のコミュニケーションの問題と
重症心身障害児・者のコミュニケーションの問題には違いがあることを確認しておきたい。
前者のテクノロジーによるコミュニケーションの可能性で問題になるのは、
まず第一に「意識の有無」であるのに対して、
後者では、明らかに「意識はある」ので、
その点の違いを確認しておく必要があること。
(Ashleyの意識についても alertと書かれています。
父親のブログの写真を見て「Ashleyには意識がない」と言える人はいないはず)
② 重症身体障害者のコミュニケーションの問題と、
重症心身障害者のコミュニケーションの問題には違いがあることを確認しておきたい。
例えばALSをはじめ重症身体障害者は、ツールと適切な支援があれば
文字を使った意思表示が可能になりますが、
日本でいわゆる重症心身障害児・者とされている人たちは
文字を使った意思表示ができない人たちです。
もしも、ひらがなが認識できて使えるなら、
その人は、たぶん重心児・者の範疇ではなく、
身体障害を伴う軽度の知的障害者が
重症心身障害者と誤診されていたということだと思う。
そのため、重症身体障害のある人たちに有効なコミュニケーション・テクノロジーの多くは
重症心身障害のある人たちには、有効ではない可能性があります。
ただ、前者の人たちに有効なテクノロジーが後者の人たちに有効でないからといって
それが直ちに、後者の人たちに意思も感情もないことを意味するわけでも、
後者の人たちにコミュニケーション能力が一切ないことを意味するわけでもありません。
ALSをはじめ重症身体障害の人たちのコミュニケーションの問題と
重症重複障害児・者のコミュニケーションの問題とでは、
そこに決定的な違いがあることは、事実として確認しておく必要があると思う。
③ 重症知的障害児・者の意識や意思や感情が「ある」と証明するために、
彼らを天才に祭り上げたり、彼らに高度な議論をさせてみせたりして
知的障害そのものを否定してみせる必要はないことと同時に、
重い知的障害がある事実は、精神活動そのものが乏しいことを意味するわけではないことも
2つ合わせて、きちんと確認しておきたい。
重症の知的障害があるのだから、
知能については私たちと同じではありません。
しかし、知能は
人間の精神活動や、人の心や人格の、わずかな一部に過ぎません。
平仮名さえ認識できず、数の概念すら持たず、
知能の働きが私たちと同じでないなら、じゃあ
「やっぱり幼児や赤ん坊と同じ」じゃないかと言われるなら、
それはやっぱり違うのです。
具体的にそれが「どう違う」のか、ということを
直接体験として重症児・者を知らない人に
どのように伝えていくことができるのか――。
それは、本来なら体験してもらう以外に、了解し得ないことなのかもしれません。
それなら、ミュウを含め、重症心身障害のある人たちが、
どのような人として、そこに生きてあるのか、ということを、
論じたり説明したりするのではなく、ありのままの姿として描くことによって
ある程度それを伝えることができないかという試みとして、今までに書いてみたものは
上記引用にあるように「A事件・重症障害児を語る人に」という書庫にあります。
よかったら、覗いてみてください。
重い知的障害があるのだから、そこはもちろん
私やあなたと全く同じではないかもしれないけど、
彼らは障害があるなりに、自分なりの分かり方で「分かっている」し、
私たちが思っているよりもはるかに多くのことを理解し、感じ、考え、それを
自分なりの方法で「表現している」し「伝えようとしている」のです。
私たちと同じような分かり方をしていないからといって、
何も分かっていないわけじゃない。
私たちと同じ方法でコミュニケーションが取れないからといって
全くコミュニケーションの能力がないわけじゃない。
ところが、現在、一番危ういのは、
これら実はそれぞれ別問題であるものたちが
ちっとも整理されないまま、ぐずぐずに混同されて
「私たちと同じ方法でコミュニケーションが取れないなら意識がない」という
事実無根の短絡が、まかり通ろうとしていること。
そして、それが身体障害、知的障害いずれも含めて
重症者の生死に関わる大問題になろうとしていること。
でも、その大問題の手前で、もっと整理されるべきことが、
意識の有無の問題
知的障害の有無や程度の問題
知能と知能以外の精神活動や情動との別という問題
文字による意思表示の可否の問題
非言語コミュニケーションの問題
……と、実は沢山あるはずなのだと思う。
(誤解を避けるために、追記しておくと、
脳死者、植物状態や最少意識状態の人の意識の有無については
「あると証明できない」とは、あくまでも「ない可能性もある可能性も依然として残っている」のであり、
それならば「ある」とする側に立つべきだと、私は考えています)
①Singerらの「大型類人猿の権利宣言」って、あんがい種差別的?
②Peter Singerの”ちゃぶ台返し”
(以下、本文です)
8日のエントリーPeter Singerの“ちゃぶ台返し”の最後のところで、
「見てみろ、知的障害があってチンパンジーほどの知能もない人間が、
人間だというだけで保護されているじゃないか、そんなのフェアじゃない」と書いた部分は、
「大型類人猿の権利宣言」の中の、特殊教育の専門家による
「重度の知的障害を持つ人間と大型類人猿」という文章の
以下の一節を、私の耳に聞こえたままに翻訳したものでした。
……もっとも知的なチンパンジーでさえ、直接であれ、自分たち自身の種から選ばれた代表を通してであれ、自由が剥奪されていることに、あるいは苦痛を加えられる医学実験に使われることに、食料として殺されることに、動物園とかサーカスで見世物にされていることに講義することが出来ないのである。他方で、「国連の宣言」にしたがって、重度の精神障害をもつ人間の方はいかなる種類の虐待と凌辱からも守られている。その根拠といえば、ただホモ・サピエンスという種の成員であるというだけである。
P.96
同時に、この文章のタイトル・ページにある短い「序」のような部分では
著者は、以下のようにも、その比較の意図を述べている。
……この比較を倫理の議論の中にもちこむ意図は、平等権を知的障害者へと拡大した卓越した進歩に傷をつけることではもちろんない。むしろ、この進歩の基本になる原理は、いやおうなくそれ以上の一歩を踏み出すようにさせるということにある。
(p.177)
「いやおうなしに」それ以上の一歩、つまり
大型類人猿への平等圏の拡大という一歩を「踏み出すようにさせる」……。
知的障害者が人間だというだけで保護されているじゃないか、
そんなのフェアじゃないじゃないか、といって障害者を引き合いにでも出さない限り
大型類人猿に平等な権利を拡大する「それ以上の一歩」を
踏み出すように「させる」ことができないから、
「いやおうなしに」それを「させる」ために、
本来は無関係な知的障害者を巻き込んで比較の対象とする、と――。
あたしたちは確かに私語をしていたから、それだけでは、どうせセンセイは
あたしたちの自尊心を傷つけた自分の行為の不当を認めないから
「否応なしに」それを認めるように「させる」ために
でもAさんだってしゃべっていたじゃないか、
Bさんなんか、こっそり漫画を読んでいたんだぞ、と
無関係な他人を引き合いに出して巻き込みます。
こういう人たちをセンセイは怒らずに放置しましたよね。
それなのに私たちだけが怒られたのだから、そんなのフェアじゃない。
それはセンセイの行為が不当だったということの証拠であり、つまり、
私たちを怒ったセンセイの行為は道徳的な誤りだったという証拠ですよね。
違いますか? 違うというなら、私たちの言うことを論破してみせてください。
論破できなかったら、あたしたちの言うことが正しいって証明されたんですからねっ。
学長室に訴えていきますよ、あたしたちっ。
行けよ、勝手に……。
ところで、
「ドルトムント大学の特殊教育の教授で、知的障害者のための教育法を教えている」とされる
この文章の著者のクリストフ・アンシュテッツ氏は、なんとも不可解な用語の使い方を見せます。
タイトルでもタイトル・ページの梗概でも「知的障害」が使われているのだけれど、
なぜか本文は「重度の精神障害者」で、ほぼ統一されているのです。
全体の論旨としては、
「重度の精神障害者の特殊教育の分野」では、
そういう子どもたちには教育を施しても何ら成果がないことが通説となっていて、一方、
これまでの研究から大型類人猿の方がよほど高い言語習得能力を持っていることが明らか。
「重度の精神障害」を持つ子どもは人間らしいところがほとんどないのに対して
大型類人猿の方が言語、情緒、精神能力のすべてにおいて、より人間らしい。……といったもの。
もちろん結論は、例の「だから、平等な者の共同体を拡大して大型類人猿を含めよう」。
それを特殊教育の専門家の立場で説くわけだから、
上記のような見解がただの偏見ではなく事実であると、専門家が実証する文章として、
このアンソロジーの中では位置づけられているわけですね。
しかし、「知的障害」と「精神障害」の区別もつけられない特殊教育の専門家って
いったい、それは、どういう専門家よ――?
呆れかえった瞬間に、
07年にNaamの障害観(2007/11/19)というエントリーで引用した、
以下のトランスヒューマニストの、おバカな言葉を思い出した。
……「頭のよくなる薬」「頭のよくなる遺伝子」だけでも、現在、精神障害と闘っている何千万という人々が救われることになるのだ。
「超人類へ! バイオとサイボーグ技術がひらく衝撃の近未来社会」(p.67)
Ashley事件に登場したTH二ストの親分、James Hughesも
その著書 “Citizen Cyborg”で提案しているサイボーグ社会の市民権の階層の中で
第2番目の「障害市民権:生命と、完全な自己決定を行うための補助の権利」の対象として
「人間の子ども」と「大型類人猿」と一緒に挙げているのは「認知症と精神障害のある人間の大人」。
知的障害者は、Hughesのリストのどこにもないので、
おそらく、この「精神障害」も、アンシュテッツ先生と同じく
Hughes本人は「知的障害」の意味で使っているつもりなのではないでしょうか。
また、大型類人猿と同じカテゴリーに「人間の子ども」が含められていることも興味深い点です。
上記リンクの07年のNaamのエントリーでも書いていますが、
要するに、「頭がいい」ことに至上価値を置く彼らにとって、
知的障害と精神障害の違いなんか、あってもなくても同じことで、
ただ単純に「頭がいい」の「対極」としてイメージされているだけ。
つまり、単に「頭が悪い」ことに過ぎないのでしょう。
知的障害者も精神障害者も、ただ「頭が悪い人たち」。
彼らにとっては、それ以上の区別は無用なのです。
大事なのは「頭が悪い」ことであって「どのように悪いか」ではないからね。
「子どもである」ということも、また彼らにとっては、
「まだ大人並の知能を身につけていない」状態。
それは、やっぱり「頭が悪い」状態なわけね。
チンパンジーに人間の言語を教えると、
個体によっては(また研究者の熱心さによっては)
「幼児並みに」使いこなすことがしきりに強調されていることから考えると、
人間の子どもと大型類人猿は「頭の悪さ」の程度が同等なのだから、
独特的な地位のレベルも同等でいいということになる。
しかし、まぁ、なんとも呆れるほどに単細胞的な人間観――。
口にすると大向こうの反発を買うことが分かっているから公言しないのだろうけど、
彼らの意識は、既にIQによってシンプルに人間を階層化していると思うな、私は。
―――――
ちなみに、この前、京都の閻魔堂で立岩真也氏が
江口聡氏の「なぜ人間は特別なのか」という問いに対して
「人間は人間から生まれるから」と答えていたことの意味が
私にはイマイチよく分からないまま、あの会話から触発されて
こちらの3つのエントリー・シリーズを書いたのだけれど、
アンシュテッツ先生の文章の中に、
シュトルクという人の同じような言葉が出てきていた。
シュトルクの提案とは
人間らしさについての問いに答えようとする場合、われわれは人間の間の差異から出発すべきではなくて、その能力と特質にかかわりなく、人間に共通のものは何かということから出発すべきである。
(p.195)
でも、「その共通のものが『重度の精神障害者』にはない」と
アンシュテッツもシンガーも言っているわけで……と、つい直感的に考えたところに、
さらなるシュトルクの言葉。
人間とは、人間から生まれたすべてのものである。
(P.195)
なるほど~。こういう文脈だったのかぁ……。
やっぱり勉強はしてみるものですねぇ。この本のさわりの部分を読んで
ここ2つばかりのエントリーで、あれこれ考えてみたおかげで、
立岩先生の「人間から生まれるから」が、ちょっとだけ分かった気がする。
「人間は人間から生まれるから、人間にとって特別」というのは、要するに、
「人間とは人間という同じ種に属しているものたちのことである」ということですね。
大型類人猿に人間という別の種の言語を無理やり教えこむという虐待を行って、
彼らにおける「人間で問題になる知能」を計測し、
彼らが「人間で問題になる意味で知的に」「人間に近い」から
彼らに「人間との平等」を認めようと主張するのは
優越者としての人間という種を基準にするところからして、彼らの種を否定し、
そもそも種差別ではないのか、ということをこちらのエントリーで考えてみましたが、
「人間から生まれるから」というのは、要するに、そういうことなのでは?
種差別をしない、ということは、
チンパンジーにとっては人間なんか特別でも何でもない、
チンパンジーにとってはチンパンジーが特別なのだとわきまえておくこと。
それが、つまり「人間は人間から生まれる」ということですよね……
――あれぇ? ……それって、結局、
”ちゃぶ台返し”の自己中心的な幼児性に繋がらないかなぁ……?
自分は頭がいいのだという自負が
議論において、自分の主張の正しさを相対化してとらえる視点を失わせていたように、
人間は知能が高いのだという自負があるために、
大型類人猿に対しても、人間は特別な種なのだという意識を相対化できない。
だから、彼らにとっては人間なんか特別でもなんでもなくて彼らの種が特別なのに
エラソーに「特別な人間の共同体を開放して、含めてやろう」と。
一番、人間を特別だと無意識に深く思いこんでいて、
一番、種差別意識が強いのは、実は、この人たちなのでは――?
種差別だけじゃなくて、自分ほど頭が良くないすべての生き物に対して、
この人たちには、ものすごい差別意識があるんだろうな……と思うよ、私は
間に別エントリーが挟まってしまいましたが、
Singerらの「大型類人猿の権利宣言」、あんがい種差別的?のエントリー(5日)の最後で書いた
「オレ様たちの言うことは正しいのだから、正しくないというなら論破してみろ。
論破できないならオレ様たちの正しさが証明されたのだから
負けを認めて、オレ様たちの言うことをきけぇ」という部分は、
以下の原文部分を、私の耳に聞こえるヴァージョンに翻訳したものでした。
・・・・・・これらの扱い(実験室などでの大型類人猿への扱い)を弁護したいと考える人たちは、「大型類人猿を平等なものの共同体の中に入れる」という本書の主張を論破するに当たって、今や自分のほうが論拠を示すという検証責任を負わなければならない。われわれの議論が論破できないとすれば、人間以外の大型類人猿に対する今の扱い方は恣意的で正当化できない形の差別であることが証明されたことになる。この差別に対しては、もはやいかなる弁解も通用しないだろう。
「大型類人猿の権利宣言」P.ⅺ
この箇所を読んだときに、真っ先に感じたのは、過剰な攻撃性。
なんで、こんなふうに全肯定か全否定かという極論にいきなり飛躍するかなぁ……と。
ここでの著者らのものの言い方は
「自分たちが全面的に正しく、相手が全面的に正しくない」か
「相手が全面的に正しく、自分たちが全面的に正しくない」かの、
どちらかしか認めない立場に立っている。
その、白か黒か、ゼロか100か、に飛躍する形で表現される過剰な攻撃性と、
反論や批判を受ける前から、それを予測して先に攻撃的になってしまう過剰に防衛的な姿勢――。
その過剰な防衛と攻撃性とには、同時に、強い既視感もあった。
“Ashley療法”論争の際、故Gunther医師が、
07年1月にTimes紙の取材に答えて、これと全く同じセリフを吐いている。
If you’re going to be against this, you have to argue why the benefits are not worth pursuing.
もしもこれに反対だという人がいるなら、その人は、なぜ、この療法の利益を追求してはならないかをきちんと論じて見せなければならない。
私は07年当初にこれを読んだ瞬間、どえぇぇっ……と、のけぞった。
笑わせちゃいけない。
前例のない医療介入を、怪しげな倫理委の検討でやっちまったのは、アンタだよ。
Ashleyへの子宮と乳房摘出とホルモン大量投与による成長抑制について
説得力のある議論を提示する説明責任を負っているのはアンタの方でしょーが。
批判されているのは、
アンタがそれだけの議論を出せていないからだ。
それを、盗人猛々しいことに、批判する側に証明責任を転化するのかよ……と
はなはだしく呆れつつ、
この人、もしかして、追い詰められていっぱいいっぱいになっている……?
だから、こんなに防衛的になっているのか……? とも思った。
だいたい、人が必要以上に攻撃的になるのは、
その人が過剰に防衛的になっている時だと相場が決まっている。
そうしたら、Guntherはこの直後からメディアに登場しなくなり、
5月に行われたWA大学のシンポにも、
本来なら一番出てきて説明すべき人物なのに顔を出さなかった。
そして9月末になって自宅の車の中で自殺した。
その後、DiekemaとFostも、去年書いたAshley論文で
上記のGunther発言と同じ論法を用いて証明責任を転嫁している。
そういうところでお馴染みだったからかもしれない。
「大型類人猿の権利宣言」で上記の一節を読んだ時、
その過剰な攻撃性(否定されることへの過剰な防衛)、短絡性、自己中心性などに
GuntherやDiekemaに通じるものを強く感じて、ふっと思った。
これは「ちゃぶ台返し」なのでは……?
家族の間で意見や利害の相違があった場合に、
家族と一緒に父親も自分の側の言い分を並べて話し合い、
冷静に説得を試みて問題解決を図ればよいのだけれど、
言葉できちんと話し合い、家族を説得するだけの力量が不足しているものだから
形勢が不利になってくると、どこかの時点から感情的になり、
追い詰められ、もはや他に劣勢を挽回する方法がないと悟るや、
「オマエら、わしの言うことが聞けんというのかぁ!」と、ちゃぶ台をひっくり返す。
あるいは家庭における自分の優越性を自分だけは信じこんでいるために
家族からの異議申し立てに、その優越性を脅かされる気がして、
それが単純に我慢ならない、または耐えられないのかもしれない。
ちゃぶ台をひっくり返す瞬間、父親は、その行動の攻撃性と短絡性によって
一気に優位に立とうとする幼児性を全開にすると同時に、
家族と自分の間で意見が食い違っている具体的な問題を
「わしの言うことが聞けるか聞けないか」という
全く別の問題にすり替えてしまう。
しかし、自尊感情が安定している成熟した大人なら、
意見の相違は相違として、冷静に議論し、話しあうことができる。
自分は優越者であるとの意識があればなおのこと、
自分よりも弱い立場の者の言うことを聞き、
その気持ちを慮った対応を考えようとするものだ。
意見の相違を超えて解決すべき問題を自分の問題にすり替える必要もないし、
そんな必要がなければ、激昂して自分の感情に相手を巻き込むこともない。
「自分たちの言うことに反対するなら、検証責任はそっちにある。
論破できるものならしてみろ」と、Singerらが必要以上の攻撃性で挑み、
「論破できないなら、我々の正しさが証明されたのだ」と、
わざわざ結論を先取りして言い置かなければ気が済まない時、
彼らもまた、対等な立場での丁寧な議論を拒否し、
自分たちの正しさは既定の事実とのスタンスにあらかじめ逃げこんでおいて、
大型類人猿への扱いを考え直すべきかどうかという問題を
自分たちの主張は正しいかどうか、という問題へと摩り替え、
それを問題にせよと相手にも強要しているのでは?
もともと、議論に参加する人が、それぞれに論拠を示しつつ、
誠実な論理展開でものを言わなければならないのは
いずれの立場をとる人にとっても、最初から当たり前のことだろう。
検証責任という言葉をどうしても使わなければ気が済まないなら、
自分の主張を十分な論拠を示しながら説明し、相手の主張もまた丁寧に論理的に批判していく……という
検証責任は、お互いが等しく背負っている。
(ただ、Singerらが偏重するような合理一辺倒の論理のパズルで
知的能力のパワーゲームを繰り広げることだけが論拠を示した議論だというわけではなく、
人間は必ずしも100%合理的な存在ではないのだから、そこには、もっと
「合理」だけでは計れない「洞察」というものがあるべきだと、私は思うけれど)
議論に参加するものは、互いに自分は正しいと考えているのであり、
(Ashley事件の議論には、自分が正しくないことを知っている人間がいるけどね)
「Singerらのいうことは正しいかどうか」の議論に
一方的に引きずり込まれなければならない、いわれは、誰にもない。
この前、Stephen Drakeが
障害者の権利擁護は動物の権利擁護と不可分だから手を結べという主張に対して
「自分たちにとって筋が通っているように思えるからといって、
誰にとっても筋が通っていると考えてはいけない」と指摘していたけれど、
それと全く同じ、自分の考えの「正しさ」を相対化して捉えることのできない
自己中心的な幼児性がここで露呈しているのでは?
ついでにいえば、
大型類人猿を解放してやろうという主張に
わざわざ知的障害者を巻き込まなければならない必然性がどこにあるのか
私にはちっともわからないのだけど、そこのところで私の頭に浮かぶのは、
ざっと30年、英語のセンセイをやってきて、
昔の学生さんなら考えられない最近の学生さん特有のヘリクツの一つ。
例えば、私語を注意された瞬間に、
注意したこちらの言葉や状況には不釣り合いなほどに逆上し、
ダレソレだってしゃべっていたぞと挙げつらい、
自分たちだけが怒られるのはフェアじゃない、と言い募っては
まるで命でもかかっているかのような切迫した激しさで、教師を糾弾しにかかる。
自分たちが怒られたことが不当だと主張したいなら、
自分たちについて説明すればいいようなものなのだけれど、
なぜか、ここ数年、大学生がいやに幼児化してきたなと感じるにつれて
自分たち怒られたことの不当を主張するために、他人を引き合いに出して
他人が叱責を免れていることを勝手に基準に設定し、そこから反転して
自分の主張を正当化しようとするヘリクツが急増した気がする。
動物が人間から受けている扱いが余りにも残虐だから
考え直さなければならない、まずは大型類人猿から解放してやろう、と主張したいなら、
動物虐待の実態とその不当さ、大型類人猿の解放について、きちんと論じればよいものを、
見てみろ、知的障害があってチンパンジーほどの知能もない人間が
人間だというだけで保護されているじゃないか、そんなのフェアじゃない、と
本来の主張とはまったく無関係な人たちを指差して見せるのは
私には、あの、
5歳児みたいな直線的な口調でジコチューのヘリクツを言いたてる大学生のように見える。