乙武洋匡クンの「障害のある子どもの親はおおらかに」説が、
どうやら論争になっているらしい ↓
http://togetter.com/li/198030
こちらのlessorの日記さんのエントリーで知った ↓
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20111008/1318099122
概ね、lessorさんが言っておられることに同意。
私は親だから、もうちょっと直截にイラッとする。
「五体不満足」の後この人はすごく苦しんで何枚か皮が剥けたのかと思っていたけど、
やっぱり、どうしてもどこか「優等生障害者」を演じることから
抜けきれないのかな、というのが最初の印象。
私は、本人も親も、障害の受容は一生らせん状に続けていくものなのでは、と思う。
「五体不満足」を読んだ時、
生まれた姿を見てお母さんが「かわいい」と言ったというエピソードは、
息子に自分の障害をネガティブに捉えずに成長してほしいとの願いから
乙武クンのためにお母さんが作った創作だと私は受け止めた。
「かわいい」という言葉がその時に出たことは事実かもしれないけど、
それが大人になるまで息子とその周辺で繰り返し語られ、
本にまで書かれ、世間から広く称賛されていくなかで、
その時の「かわいい」が彼の母親の育児のすべてであるかのように象徴されていった点で、
あのエピソードは、やはり、ある意味の「創作」だと今でも思う。
その後のお母さんの育児の過程がずっと「かわいい」だけであったはずはないし、
そこでもいろんな葛藤や苦しみがあり、らせん状の受容が何度も繰り返されていたはずで、
その中には、障害があろうとなかろうと親として子が可愛いというのだって事実だし、
障害があろうとなかろうと子育ての喜びはもちろん沢山あるけれど、
悲観的になったり、逃げ出したいという思いが頭をよぎる瞬間だって、
なかったはずはない。
また、そういう瞬間があったからといって、
その人が暗いわけでも不幸なわけでも、愛情がないわけでも、もちろんないし
それは、そういう思いや瞬間や時期もある、ということに過ぎない。
人の思いというものは乙武クンが書いているほど、きれいに澄みきった単色じゃない。
彼の母親は「おおらか」だったのではなく、
息子のために「おおらかを装う賢さ」を持っていた、ということなんじゃないだろうか。
でも、その賢さは、ものすごく苦しい受容のらせんを、
何回転も経なければ維持できないものなんだよ。乙武クン。
障害当事者にとっても、
いろんな苦しい思いを巡り揺らぎ経て、らせん状の受容を何周も繰り返しながら
どうにか前向きになれたり、ありのままで生きることに腹をくくれたり、
喜びを見いだせるようになったり、生きる目的を見いだしていくように。
そして、人生の様々な展開や身辺に降りかかる出来事によっては、
そこからまた何度も苦しい受容の葛藤の中に投げ込まれて、もがき、またそこから、
受容のらせんをぐるりと這い上って……を繰り返すしかないように。
本人も親も、その繰り返しの中で、
それでも苦しみや悲しみを抱えたままでも人は日々を幸せに生きていくことができるんだと、
たぶん障害者と家族だけに限らず、誰にとっても生きるというのはそういうことだという
一つの真実みたいなものに、多くの人は辿り着いていくんだと思う。
自分たちの力ではどうすることもできない
環境や諸々の条件や出会いに一定量めぐまれている人はね。
たまたま、そこまで恵まれていない人というのだって、世の中にはいる。
その中には、それなりに幸せと感じられる日常にたどり着けない人もいるんだろうと思う。
親にしろ障害のある人本人にしろ。障害のない人にしろ。
だから、乙武クンのお母さんは
生まれたのを見た瞬間に「かわいい」と言い、その後もずっと
「かわいい」だけで子育てをすることができたお気楽な親でも「おおらかな親」でもなくて、
息子のために「おおらかなフリをしようと努める賢い」親だったのであり、
そして、その母親の賢さがうまく生かされるだけの環境や出会いに、親子が恵まれたから、
息子が母親の創作を現実と信じて成長することができた、ということじゃないのかな。
でも、「五体不満足」の後であれだけ苦しんで、
世間に期待される優等生障害者像から脱皮しようとしたはずなのに、
その歳になって、まだ自分の母親の創作の裏にあるものを見抜けず、
自分の母親は本当におおらかだったと信じているとしたら、
乙武クン、それはちょっとナイーブ過ぎないか?
「……な社会にしていくことも、僕が果たすべき役割のひとつ」
「一人じゃどうすることもできない」と過剰な役割を背負いこんで
「メディアに登場」しているなら、この辺りでもう一度
メディアから距離を置いてみるのも一つでは?
どうやら論争になっているらしい ↓
http://togetter.com/li/198030
こちらのlessorの日記さんのエントリーで知った ↓
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20111008/1318099122
概ね、lessorさんが言っておられることに同意。
私は親だから、もうちょっと直截にイラッとする。
「五体不満足」の後この人はすごく苦しんで何枚か皮が剥けたのかと思っていたけど、
やっぱり、どうしてもどこか「優等生障害者」を演じることから
抜けきれないのかな、というのが最初の印象。
私は、本人も親も、障害の受容は一生らせん状に続けていくものなのでは、と思う。
「五体不満足」を読んだ時、
生まれた姿を見てお母さんが「かわいい」と言ったというエピソードは、
息子に自分の障害をネガティブに捉えずに成長してほしいとの願いから
乙武クンのためにお母さんが作った創作だと私は受け止めた。
「かわいい」という言葉がその時に出たことは事実かもしれないけど、
それが大人になるまで息子とその周辺で繰り返し語られ、
本にまで書かれ、世間から広く称賛されていくなかで、
その時の「かわいい」が彼の母親の育児のすべてであるかのように象徴されていった点で、
あのエピソードは、やはり、ある意味の「創作」だと今でも思う。
その後のお母さんの育児の過程がずっと「かわいい」だけであったはずはないし、
そこでもいろんな葛藤や苦しみがあり、らせん状の受容が何度も繰り返されていたはずで、
その中には、障害があろうとなかろうと親として子が可愛いというのだって事実だし、
障害があろうとなかろうと子育ての喜びはもちろん沢山あるけれど、
悲観的になったり、逃げ出したいという思いが頭をよぎる瞬間だって、
なかったはずはない。
また、そういう瞬間があったからといって、
その人が暗いわけでも不幸なわけでも、愛情がないわけでも、もちろんないし
それは、そういう思いや瞬間や時期もある、ということに過ぎない。
人の思いというものは乙武クンが書いているほど、きれいに澄みきった単色じゃない。
彼の母親は「おおらか」だったのではなく、
息子のために「おおらかを装う賢さ」を持っていた、ということなんじゃないだろうか。
でも、その賢さは、ものすごく苦しい受容のらせんを、
何回転も経なければ維持できないものなんだよ。乙武クン。
障害当事者にとっても、
いろんな苦しい思いを巡り揺らぎ経て、らせん状の受容を何周も繰り返しながら
どうにか前向きになれたり、ありのままで生きることに腹をくくれたり、
喜びを見いだせるようになったり、生きる目的を見いだしていくように。
そして、人生の様々な展開や身辺に降りかかる出来事によっては、
そこからまた何度も苦しい受容の葛藤の中に投げ込まれて、もがき、またそこから、
受容のらせんをぐるりと這い上って……を繰り返すしかないように。
本人も親も、その繰り返しの中で、
それでも苦しみや悲しみを抱えたままでも人は日々を幸せに生きていくことができるんだと、
たぶん障害者と家族だけに限らず、誰にとっても生きるというのはそういうことだという
一つの真実みたいなものに、多くの人は辿り着いていくんだと思う。
自分たちの力ではどうすることもできない
環境や諸々の条件や出会いに一定量めぐまれている人はね。
たまたま、そこまで恵まれていない人というのだって、世の中にはいる。
その中には、それなりに幸せと感じられる日常にたどり着けない人もいるんだろうと思う。
親にしろ障害のある人本人にしろ。障害のない人にしろ。
だから、乙武クンのお母さんは
生まれたのを見た瞬間に「かわいい」と言い、その後もずっと
「かわいい」だけで子育てをすることができたお気楽な親でも「おおらかな親」でもなくて、
息子のために「おおらかなフリをしようと努める賢い」親だったのであり、
そして、その母親の賢さがうまく生かされるだけの環境や出会いに、親子が恵まれたから、
息子が母親の創作を現実と信じて成長することができた、ということじゃないのかな。
でも、「五体不満足」の後であれだけ苦しんで、
世間に期待される優等生障害者像から脱皮しようとしたはずなのに、
その歳になって、まだ自分の母親の創作の裏にあるものを見抜けず、
自分の母親は本当におおらかだったと信じているとしたら、
乙武クン、それはちょっとナイーブ過ぎないか?
「……な社会にしていくことも、僕が果たすべき役割のひとつ」
「一人じゃどうすることもできない」と過剰な役割を背負いこんで
「メディアに登場」しているなら、この辺りでもう一度
メディアから距離を置いてみるのも一つでは?
2011.10.21 / Top↑
その大半を非常勤講師としてであったにせよ、
大学を卒業して以来、2年前の春にリタイアするまで
30年以上「英語の先生」をやっていた間には、
「忘れ難い学生さん」や「学生さんの忘れ難いセリフ」との出会いがあれこれとあった。
その1つが
「ボクの全身の細胞が先生に謝れ、と言い続けて……」。
福祉学部の男子学生さんだった。
福祉を志す人たちならば、と勝手な思い入れで
教養の英語のテキストに障害児・者に関連したものを選んで使っていた頃で、
その日は脳性マヒの兄弟を持つ子どもたちの作文みたいなものを読んでいた。
その学生さんが指名された時にすぐに答えられないのを見た時に、
周りに座っていた仲間内の誰かがそのことをからかって
「わ~い、答えられないんでやんの」的な子どもっぽいチャチャを入れた。
彼がいつも一緒にいるグループはもともとそういう雰囲気の人たちの集まりで、
その日は授業の始まりから特にグループ全体のテンションが高い感じもあった。
で、そのテンションに煽られるように、
からかわれた彼は「だって、ボク、脳性マヒだから」とふざけ、
グループのみんなは、それに他愛なく、あははは、とウケた。
彼が指名された直前の個所の訳文に「脳性マヒ」という言葉があったのが
何の考えもなく、ただ連想ゲームのように口から転がり出た、という感じだった。
机の間の通路を彼らグループの席の間近まで行き、
目の前でその場面に直面した私は、一瞬、激しく当惑してしまった。
たぶん私自身が障害のある子どもの親ではなかったら、
即座に強い口調で反応し“指導”しただろうと思う。
「これは、教師として、きちんと指導しなければならない発言だ」と
その瞬間に、くっきりと意識したことは覚えている。
でも、私は、たぶん自分自身が障害のある子どもの親であるという理由で
その時、きっぱりとした強い態度に出ることができず、
我ながら情けないほどに弱々しい口調で
「そういうのはやめたほうがいいよ。自分の人格を貶めるよ」と
つぶやくように言ってみただけだった。
日ごろは「口でこの私に勝とうなんて10年早いわ」とばかりに
強い口調と態度でセンセイを張っているくせに、なぜあの時だけ、くじけたんだろう……と
その後ずっと、あの瞬間の自分の心理をあれこれと分析してみるのだけど、
イマイチ自信を持って「こうだった」と言えるところまで掴めていない。
福祉の分野に進もうとする学生さんだから、
少しでも意識を持ってもらいたいと思って選んだテキストが、
却って、こういう軽はずみなジョークを招いてしまうという
全く予想外の展開に、ショックもあった。でも、それだけではなかった。
そんな他愛ない学生さんのジョークに、
まさか「傷ついた」わけではなかったと思うのだけど、
どこかにそれに非常に近い感覚があったんだろうか……。
小学校の先生をしている私の友人は
特に障害児・者について個人的な思い入れがあるわけでも何でもないけれど、
クラスの子ども達が「ガイジ」という言葉を使っているのを聞き、
その意味を知った時、体が震えるほどの憤りに捉えられて、
思わず、自分でもびっくりするほど激しい口調で怒鳴りつけてしまったという。
彼女のようにまっすぐに憤り、強く指導することができなかったのは、
そうした発言が私の中に呼び起すのが「許せないこと」に対する義憤ではなく、
それまでに「障害のある子どもの母親」として味わってきた個人的な感情だったからなんだろうか。
そんな自分の当事者性といきなり思いがけない形で直面して、
そのことに当惑し「停止」してしまっただけなのかもしれない。
ただ、どう対処していいか分からなかっただけなのかもしれないし、
その日、ただ単に疲れ気味で気力が低下していたのかもしれない。
その辺りの自分の心理は今もって判然としないのだけれど、
なにしろ、その時も、
机の間の通路を黒板まで戻りながら友人の話を思い出し、
今しがたの自分の言動に、たいそう割り切れない思いになった。
これは寝る時まで引きずってしまうかもしれないな……とも予感した。
とはいえ、
その後も授業を続けていると頭の中はあれこれとせわしない。
いつまでも拘泥している余裕などなくて、そのうちには意識から消えてしまった。
なので、授業を終えて、学生さんたちがわらわらと教室から出て行きはじめ、
私は私で黒板(実は白板)の上の方からびっしり書いたのを
背伸びして腕を振り、黒板消しでサクサク消している時に、
(この時の「あー、今日も終わったぞー」気分はとても良い。つい浸るのです)
教卓の向こうに誰かが寄ってきて背後から「先生」と声をかけられた時も、
いつもの出席日数の確認やら「単位ください」のお願いだろうと、
サクサクしながら「はいよ。なに~?」と、背中で軽く受けた。
「僕の出席日数どーなってますぅ?」とか
「あのねぇー、単位どーしても欲しいんっすよねー」とか
実際はわざわざ問うほどでもお願いするほどでもない、ダルい口調のしょーもない話で
なんとなく寄ってきては、しばしジャれていく人たちというのが何人かいて、
そういう人たちとは黒板(実は白板)を消しながら、また教卓の上を片づけながら、
相手から返ってくるのがダルい口調だけにテンポよくぽんぽん受けては返すのが常なので、
そのつもりでいたら、
「先生、こっちを向いてください。話があるんです」
かつてないパターンに驚いて手を止め、なにごとかと振り向いたら、
あの「だってボク、脳性まひだから」の学生さんが立っていた。
グループのみんなが出て行ったあとで一人残ったらしく、
日ごろヒャラヒャラした感じの子が、ついぞ見たことのないマジな顔で、
うつむきながら押し出すように、言ったのは、
「授業の間中、ボクの全身の細胞が『先生に謝れ』って、ずっと言い続けていて……」
それから、ちょっと固まった後で
「さっきは、すみませんでしたっ」と、ぴょこんと頭を下げた。
あ……、その間あたしったら、コロッと忘れて授業してたんだ……。
それに気付くと、俄かに可哀そうになって、
「いや、悪気じゃないのは分かっているから」とかなんとか言い始めてみるのだけれど、
こっちの言葉は何も彼の耳には届いていかない様子。
それは彼にとっては、
私が彼の謝罪をどう受けるかという問題ではなく、まるで
自分で納得できる落とし前をつけられるかどうかを彼自身の問題として
全身の細胞に背負わされてしまったかのようで。
何を言っても、全身をこわばらせて頭を振っていたかと思うと、
もう一度、勢いよく頭を下げて「ほんと、すみませんでした」。
そう言うと、そそくさと部屋を出て行った。
車を運転して家に帰りながら、
すっかり忘れていたから慌てたとはいえ、
まるで何かを取りつくろうみたいに、あんなにあれこれ言おうとするんじゃなくて、
私も「ありがとう」と一言だけ、心をこめて言えばよかったのに……と悔やまれた。
次の週に教室に行ってみると、彼は
「えーっ。宿題なんか、なかったっすよー。それ先生の錯覚ぅ!」と
軽佻浮薄をウリにしているみたいなグループにカンペキ同化して
いつものようにオチャラけていた。
それを見たら、
「健全」という言葉がデカデカと頭に浮かび、
ま、いっか……と、それきりにしたので、
言いそびれてしまった「ありがとう」を、
ここで、あの時の学生さんに――。
あなたのおかげで、
ピーター・シンガーみたいな頭がいいだけの卑怯者や、
いつか、酒の席とはいえ、私が重症児の親であると知りつつ正面きって
「障害児は殺したっていい」と挑むように断言してみせ、
「どうしてですか?」と問うと、
「生きたって幸せになれないから」
「でも幸せって主観的なものじゃないですか」
「少なくとも俺(大学教授)のような仕事をして、
こうして酒を飲み議論するようなシアワセな生活はできない」
と言い放ってくださった、自称シンガー論者の倫理学者の方のことなどを思う時に、
頭の良さや知識の多さや社会的地位や肩書と
人としての品(しな、と読んでください)の上下はまるきり別物だ、と
私は自信を持って信じることができる。
だから、本当に、ありがとう――。
大学を卒業して以来、2年前の春にリタイアするまで
30年以上「英語の先生」をやっていた間には、
「忘れ難い学生さん」や「学生さんの忘れ難いセリフ」との出会いがあれこれとあった。
その1つが
「ボクの全身の細胞が先生に謝れ、と言い続けて……」。
福祉学部の男子学生さんだった。
福祉を志す人たちならば、と勝手な思い入れで
教養の英語のテキストに障害児・者に関連したものを選んで使っていた頃で、
その日は脳性マヒの兄弟を持つ子どもたちの作文みたいなものを読んでいた。
その学生さんが指名された時にすぐに答えられないのを見た時に、
周りに座っていた仲間内の誰かがそのことをからかって
「わ~い、答えられないんでやんの」的な子どもっぽいチャチャを入れた。
彼がいつも一緒にいるグループはもともとそういう雰囲気の人たちの集まりで、
その日は授業の始まりから特にグループ全体のテンションが高い感じもあった。
で、そのテンションに煽られるように、
からかわれた彼は「だって、ボク、脳性マヒだから」とふざけ、
グループのみんなは、それに他愛なく、あははは、とウケた。
彼が指名された直前の個所の訳文に「脳性マヒ」という言葉があったのが
何の考えもなく、ただ連想ゲームのように口から転がり出た、という感じだった。
机の間の通路を彼らグループの席の間近まで行き、
目の前でその場面に直面した私は、一瞬、激しく当惑してしまった。
たぶん私自身が障害のある子どもの親ではなかったら、
即座に強い口調で反応し“指導”しただろうと思う。
「これは、教師として、きちんと指導しなければならない発言だ」と
その瞬間に、くっきりと意識したことは覚えている。
でも、私は、たぶん自分自身が障害のある子どもの親であるという理由で
その時、きっぱりとした強い態度に出ることができず、
我ながら情けないほどに弱々しい口調で
「そういうのはやめたほうがいいよ。自分の人格を貶めるよ」と
つぶやくように言ってみただけだった。
日ごろは「口でこの私に勝とうなんて10年早いわ」とばかりに
強い口調と態度でセンセイを張っているくせに、なぜあの時だけ、くじけたんだろう……と
その後ずっと、あの瞬間の自分の心理をあれこれと分析してみるのだけど、
イマイチ自信を持って「こうだった」と言えるところまで掴めていない。
福祉の分野に進もうとする学生さんだから、
少しでも意識を持ってもらいたいと思って選んだテキストが、
却って、こういう軽はずみなジョークを招いてしまうという
全く予想外の展開に、ショックもあった。でも、それだけではなかった。
そんな他愛ない学生さんのジョークに、
まさか「傷ついた」わけではなかったと思うのだけど、
どこかにそれに非常に近い感覚があったんだろうか……。
小学校の先生をしている私の友人は
特に障害児・者について個人的な思い入れがあるわけでも何でもないけれど、
クラスの子ども達が「ガイジ」という言葉を使っているのを聞き、
その意味を知った時、体が震えるほどの憤りに捉えられて、
思わず、自分でもびっくりするほど激しい口調で怒鳴りつけてしまったという。
彼女のようにまっすぐに憤り、強く指導することができなかったのは、
そうした発言が私の中に呼び起すのが「許せないこと」に対する義憤ではなく、
それまでに「障害のある子どもの母親」として味わってきた個人的な感情だったからなんだろうか。
そんな自分の当事者性といきなり思いがけない形で直面して、
そのことに当惑し「停止」してしまっただけなのかもしれない。
ただ、どう対処していいか分からなかっただけなのかもしれないし、
その日、ただ単に疲れ気味で気力が低下していたのかもしれない。
その辺りの自分の心理は今もって判然としないのだけれど、
なにしろ、その時も、
机の間の通路を黒板まで戻りながら友人の話を思い出し、
今しがたの自分の言動に、たいそう割り切れない思いになった。
これは寝る時まで引きずってしまうかもしれないな……とも予感した。
とはいえ、
その後も授業を続けていると頭の中はあれこれとせわしない。
いつまでも拘泥している余裕などなくて、そのうちには意識から消えてしまった。
なので、授業を終えて、学生さんたちがわらわらと教室から出て行きはじめ、
私は私で黒板(実は白板)の上の方からびっしり書いたのを
背伸びして腕を振り、黒板消しでサクサク消している時に、
(この時の「あー、今日も終わったぞー」気分はとても良い。つい浸るのです)
教卓の向こうに誰かが寄ってきて背後から「先生」と声をかけられた時も、
いつもの出席日数の確認やら「単位ください」のお願いだろうと、
サクサクしながら「はいよ。なに~?」と、背中で軽く受けた。
「僕の出席日数どーなってますぅ?」とか
「あのねぇー、単位どーしても欲しいんっすよねー」とか
実際はわざわざ問うほどでもお願いするほどでもない、ダルい口調のしょーもない話で
なんとなく寄ってきては、しばしジャれていく人たちというのが何人かいて、
そういう人たちとは黒板(実は白板)を消しながら、また教卓の上を片づけながら、
相手から返ってくるのがダルい口調だけにテンポよくぽんぽん受けては返すのが常なので、
そのつもりでいたら、
「先生、こっちを向いてください。話があるんです」
かつてないパターンに驚いて手を止め、なにごとかと振り向いたら、
あの「だってボク、脳性まひだから」の学生さんが立っていた。
グループのみんなが出て行ったあとで一人残ったらしく、
日ごろヒャラヒャラした感じの子が、ついぞ見たことのないマジな顔で、
うつむきながら押し出すように、言ったのは、
「授業の間中、ボクの全身の細胞が『先生に謝れ』って、ずっと言い続けていて……」
それから、ちょっと固まった後で
「さっきは、すみませんでしたっ」と、ぴょこんと頭を下げた。
あ……、その間あたしったら、コロッと忘れて授業してたんだ……。
それに気付くと、俄かに可哀そうになって、
「いや、悪気じゃないのは分かっているから」とかなんとか言い始めてみるのだけれど、
こっちの言葉は何も彼の耳には届いていかない様子。
それは彼にとっては、
私が彼の謝罪をどう受けるかという問題ではなく、まるで
自分で納得できる落とし前をつけられるかどうかを彼自身の問題として
全身の細胞に背負わされてしまったかのようで。
何を言っても、全身をこわばらせて頭を振っていたかと思うと、
もう一度、勢いよく頭を下げて「ほんと、すみませんでした」。
そう言うと、そそくさと部屋を出て行った。
車を運転して家に帰りながら、
すっかり忘れていたから慌てたとはいえ、
まるで何かを取りつくろうみたいに、あんなにあれこれ言おうとするんじゃなくて、
私も「ありがとう」と一言だけ、心をこめて言えばよかったのに……と悔やまれた。
次の週に教室に行ってみると、彼は
「えーっ。宿題なんか、なかったっすよー。それ先生の錯覚ぅ!」と
軽佻浮薄をウリにしているみたいなグループにカンペキ同化して
いつものようにオチャラけていた。
それを見たら、
「健全」という言葉がデカデカと頭に浮かび、
ま、いっか……と、それきりにしたので、
言いそびれてしまった「ありがとう」を、
ここで、あの時の学生さんに――。
あなたのおかげで、
ピーター・シンガーみたいな頭がいいだけの卑怯者や、
いつか、酒の席とはいえ、私が重症児の親であると知りつつ正面きって
「障害児は殺したっていい」と挑むように断言してみせ、
「どうしてですか?」と問うと、
「生きたって幸せになれないから」
「でも幸せって主観的なものじゃないですか」
「少なくとも俺(大学教授)のような仕事をして、
こうして酒を飲み議論するようなシアワセな生活はできない」
と言い放ってくださった、自称シンガー論者の倫理学者の方のことなどを思う時に、
頭の良さや知識の多さや社会的地位や肩書と
人としての品(しな、と読んでください)の上下はまるきり別物だ、と
私は自信を持って信じることができる。
だから、本当に、ありがとう――。
2011.09.14 / Top↑
英国の地方紙で、
双極性障害の息子を持つ母親が
障害のある子どもと介護者への支援が、子どもが成人すると切れてしまうことについて
子ども・青年期から成人期への切れ目のない支援の必要を訴えている。
息子のJoe Paraskevaさんは現在21歳で、
病院の入り口に火をつけようとしたとして放火の罪で服役中。
メンタル・ヘルス法で指定されたその病院には
事件の2日前から自発的に入院していた。
母親のLinda Morganさん(56)は4月の判決以来息子には会っておらず
ちゃんと治療を受けられていないのではないかと案じている。
息子の介護者でありながら、
息子が成人しているというだけで母親には何の権利もないことになるのは
まるで地元の精神科医療には裏切られたような気がする、と語る。
2007年から利用してきた児童・青少年メンタル・ヘルス・サービスは
家族を対象としたもので、素晴らしかったという。
その後、本人を対象にしたメンタル・ヘルス・サービスを2010年6月まで受け、
その間は母親も介護者支援団体の支援を受けることが出来たが、
その後(おそらくはJoeが20歳になったのを境に?)は何もなくなった、という。
Joeには、もうケア・ワーカーもつかないし、母親への介護者支援もなくなった。
現在LindaさんはHackneyのケアラー・センターを利用しているが、
精神障害のある成人の介護者にはもっとNHSから支援が行われるべきだ、と語り、
Joeの釈放を求めるキャンペーンを始めることに。
そのキャンペーンを支援している
精神障害者チャリティSANEのトップ、Marjorie Wallaceさんによれば、
SANEには「孤立感」を感じる介護者から相談が相次いでおり、
「精神疾患のある人を介護している何千人もの人が心配です。
地方自治体の緊縮財政でサービスがカットされている時だけに」
Joeのケースを担当する当該NHSトラストでは
すでに広範な支援を提供しており、
母親とも連絡をとっているので、
息子さんへの対応を巡る不満や懸念の解消に努めていく、と。
Mother of imprisoned bipolar suffer from Stoke Newington calls for support for carers
Hackney Gazette, September 8, 2011
記事の書き方なのか、英国の制度についてのこちらの無知の故か、
問題になっている論点がイマイチはっきりしない。
精神障害者の介護者への支援の話として書かれているようなのだけれど、
Lindaさんが現在求めている介護者支援というのが具体的に何なのか、
息子が20歳になった途端に介護者である自分への支援も打ち切りになって
成人した途端に本人への直接サービスだけになったけど、
障害児の介護者への支援制度との継続性を保障し
精神障害のある成人を介護する人にも支援を、と
精神障害者の介護者支援の継続性の話なのか。
成人した息子の医療や処遇について
親であり介護者である自分には発言権がないことを
どうにかして考え直してほしいという
障害児の成人後の親または介護者の発言権保障の話なのか。
(その発言権の無さというのは、このケースの事件性を背景にした話なのか、
それとも一般のケースでも一定の程度まで当てはまる話なのか、も?)
精神障害者と介護者の問題である部分と、
その他の障害者とその介護者の問題である部分もあまりはっきりしないし、
一方、記事全体を読んで勝手に受ける印象では
介護者支援よりも当人の支援の継続性の問題では、というふうに思えるし。
個人的には、当人への支援でも介護者への支援でも
「児」を対象にする制度と「者」を対象とする制度の間が
シームレスに繋がられていない、との指摘と受け止めた。
たしか米国のIDEAも21歳までを教育保障年限としていたと思うし
その後の支援の継続性が保障されない問題は以下の記事でも触れられていた。
米国IDEAが保障する重症重複障害児の教育、ベースラインはこんなに高い(2010/6/22)
私も、ミュウが養護学校高等部を卒業する時の、
突然QOLの低い生活に突き落される我が子を目の前に
不安で胸がふさがれ途方に暮れるような思いは忘れられない。
今はとりあえず、こんな感じ ↓
「夏にプールに入れる」というQOL(2011/8/12)
もちろん、夏にプールに入れればそれでいいという話ではなく
制度に望みたいところはいっぱいあるわけで、
日本の支援教育制度も
米国のIDEAを(都合の悪いところは端折りつつ)モデルにしているような気がするし、
支援の現場にいる人から常に聞く「制度の谷間」の一つにはこの問題があるのだろうし、
よく分からない内容ながら、いろいろ考えさせられる記事。
双極性障害の息子を持つ母親が
障害のある子どもと介護者への支援が、子どもが成人すると切れてしまうことについて
子ども・青年期から成人期への切れ目のない支援の必要を訴えている。
息子のJoe Paraskevaさんは現在21歳で、
病院の入り口に火をつけようとしたとして放火の罪で服役中。
メンタル・ヘルス法で指定されたその病院には
事件の2日前から自発的に入院していた。
母親のLinda Morganさん(56)は4月の判決以来息子には会っておらず
ちゃんと治療を受けられていないのではないかと案じている。
息子の介護者でありながら、
息子が成人しているというだけで母親には何の権利もないことになるのは
まるで地元の精神科医療には裏切られたような気がする、と語る。
2007年から利用してきた児童・青少年メンタル・ヘルス・サービスは
家族を対象としたもので、素晴らしかったという。
その後、本人を対象にしたメンタル・ヘルス・サービスを2010年6月まで受け、
その間は母親も介護者支援団体の支援を受けることが出来たが、
その後(おそらくはJoeが20歳になったのを境に?)は何もなくなった、という。
Joeには、もうケア・ワーカーもつかないし、母親への介護者支援もなくなった。
現在LindaさんはHackneyのケアラー・センターを利用しているが、
精神障害のある成人の介護者にはもっとNHSから支援が行われるべきだ、と語り、
Joeの釈放を求めるキャンペーンを始めることに。
そのキャンペーンを支援している
精神障害者チャリティSANEのトップ、Marjorie Wallaceさんによれば、
SANEには「孤立感」を感じる介護者から相談が相次いでおり、
「精神疾患のある人を介護している何千人もの人が心配です。
地方自治体の緊縮財政でサービスがカットされている時だけに」
Joeのケースを担当する当該NHSトラストでは
すでに広範な支援を提供しており、
母親とも連絡をとっているので、
息子さんへの対応を巡る不満や懸念の解消に努めていく、と。
Mother of imprisoned bipolar suffer from Stoke Newington calls for support for carers
Hackney Gazette, September 8, 2011
記事の書き方なのか、英国の制度についてのこちらの無知の故か、
問題になっている論点がイマイチはっきりしない。
精神障害者の介護者への支援の話として書かれているようなのだけれど、
Lindaさんが現在求めている介護者支援というのが具体的に何なのか、
息子が20歳になった途端に介護者である自分への支援も打ち切りになって
成人した途端に本人への直接サービスだけになったけど、
障害児の介護者への支援制度との継続性を保障し
精神障害のある成人を介護する人にも支援を、と
精神障害者の介護者支援の継続性の話なのか。
成人した息子の医療や処遇について
親であり介護者である自分には発言権がないことを
どうにかして考え直してほしいという
障害児の成人後の親または介護者の発言権保障の話なのか。
(その発言権の無さというのは、このケースの事件性を背景にした話なのか、
それとも一般のケースでも一定の程度まで当てはまる話なのか、も?)
精神障害者と介護者の問題である部分と、
その他の障害者とその介護者の問題である部分もあまりはっきりしないし、
一方、記事全体を読んで勝手に受ける印象では
介護者支援よりも当人の支援の継続性の問題では、というふうに思えるし。
個人的には、当人への支援でも介護者への支援でも
「児」を対象にする制度と「者」を対象とする制度の間が
シームレスに繋がられていない、との指摘と受け止めた。
たしか米国のIDEAも21歳までを教育保障年限としていたと思うし
その後の支援の継続性が保障されない問題は以下の記事でも触れられていた。
米国IDEAが保障する重症重複障害児の教育、ベースラインはこんなに高い(2010/6/22)
私も、ミュウが養護学校高等部を卒業する時の、
突然QOLの低い生活に突き落される我が子を目の前に
不安で胸がふさがれ途方に暮れるような思いは忘れられない。
今はとりあえず、こんな感じ ↓
「夏にプールに入れる」というQOL(2011/8/12)
もちろん、夏にプールに入れればそれでいいという話ではなく
制度に望みたいところはいっぱいあるわけで、
日本の支援教育制度も
米国のIDEAを(都合の悪いところは端折りつつ)モデルにしているような気がするし、
支援の現場にいる人から常に聞く「制度の谷間」の一つにはこの問題があるのだろうし、
よく分からない内容ながら、いろいろ考えさせられる記事。
2011.09.12 / Top↑
8月8日に
メトロやバスに乗れない障害者には個別シャトルで平等なアクセスを保障(ワシントンD.C.)の
エントリーで紹介したパラ・トランジットの、ちょっと気になる続報。
運転手らが13時間ものシフトを強いられて
利用者、運転手、双方の安全が脅かされていると訴え、
約800人のパラ・トランジットの運転手の労働組合が
Metroからパラ・トランジット事業を請け負っているMV Transportationオフィス前でデモ。
米国での商業交通機関の運転手の勤務時間の規制は、
乗り物の重さや座席数によって決まっているため、
MVはミニバスなどから座席を外すことで規制を逃れ
長時間勤務を強いている、と組合側は主張。
MV側は、座席を外したのは大きな車いすの利用者を乗せるためだ、と主張。
MV TransportationはMetroと5億4000万ドル相当の7年半契約を結んでおり、
10社の下請けを使ってパラ・トランジットを運行、
ワシントン地区で一日7000人以上の利用者にサービスを提供している。
Drivers for disabled protest over work shifts
WP, August 30, 2011
この規制逃れのための座席外し問題は組合側は6月から問題にしており、
その際にWashington Examiner紙が取り上げた記事はこちら。
8日の記事を某MLに投稿した際に、
いろいろ教えてくださった方の情報の中に、
パラ・トランジットの運転手の中に性犯罪者が紛れ込んでいて
利用者が被害に遭ったケースが出て問題視され、
その後、問題解決の対応が行われたことが含まれていたのだけれど、
(ワシントンD.C.の“ドアからドアへ”型パラ・トランジット利用条件の中に、
「車から建物の入り口までの経路を遮るものがなく、ずっと見通せること」
「運転手は個人の住まいの中には足を踏み入れない」などがあった。
車から建物の入り口までの経路に植え込みなどがあり視界が遮られるような場合には
“ドアからドア”サービスは利用できず、最寄りの町角まで出て
“コーナーからコーナーまで”サービスを利用することになるらしい)
なにかしら、ここにも「孫請けのまた孫請け」とか中間搾取とか、
食い詰めそうな層をターゲットに過酷な労働条件を無理強いするような仕組みとか
そんな酷薄な社会の階層化のようなものが見え隠れしているような……?
もちろん、平等なアクセスを人権として保障する感覚と
「可能な限り」でよかろうとする感覚との違いは
7年半で5億4000万ドルもの費用をかけていることに
くっきりと際立っていることとは、また別の問題として。
メトロやバスに乗れない障害者には個別シャトルで平等なアクセスを保障(ワシントンD.C.)の
エントリーで紹介したパラ・トランジットの、ちょっと気になる続報。
運転手らが13時間ものシフトを強いられて
利用者、運転手、双方の安全が脅かされていると訴え、
約800人のパラ・トランジットの運転手の労働組合が
Metroからパラ・トランジット事業を請け負っているMV Transportationオフィス前でデモ。
米国での商業交通機関の運転手の勤務時間の規制は、
乗り物の重さや座席数によって決まっているため、
MVはミニバスなどから座席を外すことで規制を逃れ
長時間勤務を強いている、と組合側は主張。
MV側は、座席を外したのは大きな車いすの利用者を乗せるためだ、と主張。
MV TransportationはMetroと5億4000万ドル相当の7年半契約を結んでおり、
10社の下請けを使ってパラ・トランジットを運行、
ワシントン地区で一日7000人以上の利用者にサービスを提供している。
Drivers for disabled protest over work shifts
WP, August 30, 2011
この規制逃れのための座席外し問題は組合側は6月から問題にしており、
その際にWashington Examiner紙が取り上げた記事はこちら。
8日の記事を某MLに投稿した際に、
いろいろ教えてくださった方の情報の中に、
パラ・トランジットの運転手の中に性犯罪者が紛れ込んでいて
利用者が被害に遭ったケースが出て問題視され、
その後、問題解決の対応が行われたことが含まれていたのだけれど、
(ワシントンD.C.の“ドアからドアへ”型パラ・トランジット利用条件の中に、
「車から建物の入り口までの経路を遮るものがなく、ずっと見通せること」
「運転手は個人の住まいの中には足を踏み入れない」などがあった。
車から建物の入り口までの経路に植え込みなどがあり視界が遮られるような場合には
“ドアからドア”サービスは利用できず、最寄りの町角まで出て
“コーナーからコーナーまで”サービスを利用することになるらしい)
なにかしら、ここにも「孫請けのまた孫請け」とか中間搾取とか、
食い詰めそうな層をターゲットに過酷な労働条件を無理強いするような仕組みとか
そんな酷薄な社会の階層化のようなものが見え隠れしているような……?
もちろん、平等なアクセスを人権として保障する感覚と
「可能な限り」でよかろうとする感覚との違いは
7年半で5億4000万ドルもの費用をかけていることに
くっきりと際立っていることとは、また別の問題として。
2011.09.01 / Top↑
だいぶ前からカタツムリの速度で読んでいる
Quelletteの“BIOETHICS AND DISABILITY Toward a Disability-Conscious Bioethics”の
大まかな構成が見えてきたので、それについて。
① イントロダクション
冒頭で、Quelletteが本書を書く契機となった出来事が紹介されていて、
これがなかなか興味深い。その部分の概要は ↓
で、この10年間に自分が考えてきたことの総括として本書を書き、
障害者に配慮ある生命倫理学というものに向かって
双方が歩み寄ろうと提言するというのが著者の意図。
② 生命倫理学と障害学のこれまでの概要
イントロダクションに続く章で
生命倫理学と障害学・障害者運動それぞれの議論や主張の変遷を概観。
同時に、どういう点で両者が際立って異なっているのか、
どこに対立点があるのかを簡単に眺めていく。
③ ケース・スタディ
3章から7章がいよいよ中心部分のケース・スタディ。
ここでは、
人の生涯を「乳児期」「児童期」「生殖期」「成人期」「終末期」に分け、
それぞれの時期の障害者の医療判断を巡って両者が対立した事件をとりあげ、
生命倫理学と障害学・障害者運動から出た議論を振り返り、考察する。
幼児期では Miller事件と Gonzalez事件。
児童期では Lee Larson’s Boys事件とAshley事件。
生殖期では Valevie N.事件と、Bob and Julie Egan事件。
成人期では Mary 事件、Larry McAfee事件、Scott Matthews事件。
終末期では Schiavo事件、Sheila Pouliot事件。
私が知っているのは4つだけで、
Miller事件はどこかで何度か読みかじった程度。
Schiavo事件については「知っている」という程度だけど
エントリーだけは結構あるかもしれない。(以下のエントリーの最後に関連をリンク)
Terry Shiavoさんの命日の寄せて(2010/3/3)
Gonzalez事件は私が初めて遭遇した「無益な治療」事件だったので、
ものすごく印象が強く、いくつかのエントリーで触れている。
テキサスの“無益なケア”法 Emilio Gonzales事件(2007/8/28)
ゴンザレス事件の裏話
生命倫理カンファレンス(Fost講演2)
TruogのGonzales事件批判
Ashley事件はご存知のように、当ブログのテーマそのもの。
Shiavo事件とAshley事件くらいしか日本語インターネットで見かけた記憶がないので
日本ではまだあまり広く知られていない事件が多いのかもしれない。
④ 和解に向けての提言
これらのケース・スタディを踏まえて、
最終第8章では、まず「和解に向けて」
互いの言い分に耳を傾け、共通のグラウンドを模索することの必要を説き、
実際に障害者に配慮した生命倫理学の構築に向けて何ができるか、
原理原則の点からの考察に続いて
濫用に対するセーフガードとしてプロセス重視を提言。
この「プロセス重視」というのは
Ashley事件を教訓にしてデュー・プロセスを構築せよという
Quelletteの成長抑制批判論文の主張を思い起こさせる。
その上で、ケース・スタディで取り上げた事件を
「障害者に配慮ある生命倫理」で考えるとどうなるか、
再考察の試みが展開されている。
――――――
私は系統立てて勉強していないので
②の概要は入門的な内容で、とても勉強になったけど、
「生命倫理学は、個別のケースでの判断を巡って
患者の利益と自己決定とを重視・考察する姿勢であるのに対して
障害学は、社会の出来事や在り方が障害者全般に及ぼす影響を中心的な問題とする」
という、括り方を始めとして、
いくつか、著者は生命倫理学の方にずいぶん甘いのではないかという印象を受ける個所も。
甘い、というよりも、ナイーブという方が正しいのか……。
Ashley事件の成長抑制批判論文にも強く感じたことなのだけど、
私はQuelletteの「学者的世間知らずの純情」に時々イラッとさせられることがある。
まるで
アカデミズムが政治的配慮や意図とは無縁なものであるかのように、
学問や学者が権力や利権からの要請でチョーチンを振ったことなど皆無であるかのように……。
2010年1月の成長抑制シンポでWilfondが使い、
その後のHCRの成長抑制WGの論文でも使われている
「共通のグラウンド」という言葉がどれだけ胡散臭いものかを考えると
もともと一部倫理学者は“承知”でやっていることではないか……と、
私はとてもQuelletteのように素直になれないし、
「無益な治療」論や臓器不足解消を巡る、
一部の非常にラディカルな生命倫理学者の発言に触れ、
その学問的な誠実を全く感じさせない強引な論理に呆れると、
医療コスト削減の社会的要請と「科学とテクノの簡単解決文化」の利権という
社会権力の御用学問としての生命倫理学の徒でしかない人たちの存在を疑わないではいられない。
私には
生命倫理学という学問の、学問的な誠実というものを
Quelletteが素直に本気で信じているように見えることが不思議でもあるのだけれど、
Quelletteが Miller事件の節で Peter Singer に言及した際のトーンから推測すると、
そうしたラディカルな生命倫理学者の主張はほとんどの学者には相手にされていない、
今なお異端に過ぎないと考えているのかもしれないし、
Quelletteは「和解への道 a path toward reconciliation」などという表現も、
もしかしたら、本気で信じて使っているのかもしれないし、
あるいは、生命倫理学という学問に対して、
障害への捉え方への再考を正面から求めるとしたら、
こういう姿勢が最も有効だということなのかも。
この辺りは、最後の章での
Quellette版「障害者に配慮ある生命倫理」による具体的な考察を読んでみたら
著者の意図がもう少しはっきりと見えてくるのだろうと思う。
いずれにせよ、
当ブログ周知のゴンザレス事件やアシュリー事件が
どのように考察されているのか非常に興味深いので、
まずはこれらの事件について楽しみに読んでみようと思います。
【Quellette“Bioethics and Disability”関連エントリー】
Alicia Quelletteの新刊「生命倫理と障害: 障害者に配慮ある生命倫理を目指して」(2011/6/22)
エリザベス・ブーヴィア事件: Quellette「生命倫理と障害」から(2011/8/9)
Sidney Miller事件: 障害新生児の救命と親の選択権(2011/8/16)
【Quelletteの論文関連エントリー】
09年のAshley事件批判論文については以下から4本。
「倫理委の検討は欠陥」とQuellette論文 1(2010/1/15)
10年の、子の身体改造をめぐる親の決定権批判論文については以下から4本。
Quellette論文(09)「子どもの身体に及ぶ親の権限を造り替える」 1: 概要
Quelletteの“BIOETHICS AND DISABILITY Toward a Disability-Conscious Bioethics”の
大まかな構成が見えてきたので、それについて。
① イントロダクション
冒頭で、Quelletteが本書を書く契機となった出来事が紹介されていて、
これがなかなか興味深い。その部分の概要は ↓
10年ほど前、QuelletteはNY州の上訴検察官として、重症障害がある女性患者の延命治療停止の決定を巡る訴訟を担当した。
当時のNY州では、その生涯に一度も自己決定能力を有したことのない患者の場合、延命治療の中止または差し控えの決定を医師にも家族にも認めていなかったが、その女性は既に明らかに末期で、栄養も水分も身体がもはや受け付けない状態だったので、経管栄養が患者の負担でしかないことは誰にとっても自明なことであり、誰が考えても中止が本人の最善の利益だと判断されるだろうと思い込んでいた。
ところが公判の当日、裁判所の前にやってきて、まるで日本の右翼の街宣車のような物々しい抗議行動を繰り広げたNot Dead Yetに心底たまげたのだという。(その時に自分が受けた攻撃や非難に比べれば、シャイボ事件の際の障害者運動の抵抗だって霞むほどだ……と書いているのは、ちょっと微笑ましい。よほど青天の霹靂で、理解の外だったのだろう)
Quelletteは、それを機に、障害学や障害者運動の主張するところに、とりあえず耳を傾ける努力を始める。(ここがQuelletteという人が並ではない、すごいところだと思う。)
そして10年――。
今なおQuelletteは、あのNYのケースの女性にとっては栄養と水分の停止が本人の最善の利益だったとする考えそのものは変わっていないが、障害学や障害者運動の歴史や理論を学び、またその後に起きた事件をそちらの視点からも検討するうちに、生命倫理学には障害学や障害者運動から学ぶべきことがある、と感じるようになった。(そういうあからさまな表現は避けて、あくまで中立的に書かれてはいるけれど)
で、この10年間に自分が考えてきたことの総括として本書を書き、
障害者に配慮ある生命倫理学というものに向かって
双方が歩み寄ろうと提言するというのが著者の意図。
② 生命倫理学と障害学のこれまでの概要
イントロダクションに続く章で
生命倫理学と障害学・障害者運動それぞれの議論や主張の変遷を概観。
同時に、どういう点で両者が際立って異なっているのか、
どこに対立点があるのかを簡単に眺めていく。
③ ケース・スタディ
3章から7章がいよいよ中心部分のケース・スタディ。
ここでは、
人の生涯を「乳児期」「児童期」「生殖期」「成人期」「終末期」に分け、
それぞれの時期の障害者の医療判断を巡って両者が対立した事件をとりあげ、
生命倫理学と障害学・障害者運動から出た議論を振り返り、考察する。
幼児期では Miller事件と Gonzalez事件。
児童期では Lee Larson’s Boys事件とAshley事件。
生殖期では Valevie N.事件と、Bob and Julie Egan事件。
成人期では Mary 事件、Larry McAfee事件、Scott Matthews事件。
終末期では Schiavo事件、Sheila Pouliot事件。
私が知っているのは4つだけで、
Miller事件はどこかで何度か読みかじった程度。
Schiavo事件については「知っている」という程度だけど
エントリーだけは結構あるかもしれない。(以下のエントリーの最後に関連をリンク)
Terry Shiavoさんの命日の寄せて(2010/3/3)
Gonzalez事件は私が初めて遭遇した「無益な治療」事件だったので、
ものすごく印象が強く、いくつかのエントリーで触れている。
テキサスの“無益なケア”法 Emilio Gonzales事件(2007/8/28)
ゴンザレス事件の裏話
生命倫理カンファレンス(Fost講演2)
TruogのGonzales事件批判
Ashley事件はご存知のように、当ブログのテーマそのもの。
Shiavo事件とAshley事件くらいしか日本語インターネットで見かけた記憶がないので
日本ではまだあまり広く知られていない事件が多いのかもしれない。
④ 和解に向けての提言
これらのケース・スタディを踏まえて、
最終第8章では、まず「和解に向けて」
互いの言い分に耳を傾け、共通のグラウンドを模索することの必要を説き、
実際に障害者に配慮した生命倫理学の構築に向けて何ができるか、
原理原則の点からの考察に続いて
濫用に対するセーフガードとしてプロセス重視を提言。
この「プロセス重視」というのは
Ashley事件を教訓にしてデュー・プロセスを構築せよという
Quelletteの成長抑制批判論文の主張を思い起こさせる。
その上で、ケース・スタディで取り上げた事件を
「障害者に配慮ある生命倫理」で考えるとどうなるか、
再考察の試みが展開されている。
――――――
私は系統立てて勉強していないので
②の概要は入門的な内容で、とても勉強になったけど、
「生命倫理学は、個別のケースでの判断を巡って
患者の利益と自己決定とを重視・考察する姿勢であるのに対して
障害学は、社会の出来事や在り方が障害者全般に及ぼす影響を中心的な問題とする」
という、括り方を始めとして、
いくつか、著者は生命倫理学の方にずいぶん甘いのではないかという印象を受ける個所も。
甘い、というよりも、ナイーブという方が正しいのか……。
Ashley事件の成長抑制批判論文にも強く感じたことなのだけど、
私はQuelletteの「学者的世間知らずの純情」に時々イラッとさせられることがある。
まるで
アカデミズムが政治的配慮や意図とは無縁なものであるかのように、
学問や学者が権力や利権からの要請でチョーチンを振ったことなど皆無であるかのように……。
2010年1月の成長抑制シンポでWilfondが使い、
その後のHCRの成長抑制WGの論文でも使われている
「共通のグラウンド」という言葉がどれだけ胡散臭いものかを考えると
もともと一部倫理学者は“承知”でやっていることではないか……と、
私はとてもQuelletteのように素直になれないし、
「無益な治療」論や臓器不足解消を巡る、
一部の非常にラディカルな生命倫理学者の発言に触れ、
その学問的な誠実を全く感じさせない強引な論理に呆れると、
医療コスト削減の社会的要請と「科学とテクノの簡単解決文化」の利権という
社会権力の御用学問としての生命倫理学の徒でしかない人たちの存在を疑わないではいられない。
私には
生命倫理学という学問の、学問的な誠実というものを
Quelletteが素直に本気で信じているように見えることが不思議でもあるのだけれど、
Quelletteが Miller事件の節で Peter Singer に言及した際のトーンから推測すると、
そうしたラディカルな生命倫理学者の主張はほとんどの学者には相手にされていない、
今なお異端に過ぎないと考えているのかもしれないし、
Quelletteは「和解への道 a path toward reconciliation」などという表現も、
もしかしたら、本気で信じて使っているのかもしれないし、
あるいは、生命倫理学という学問に対して、
障害への捉え方への再考を正面から求めるとしたら、
こういう姿勢が最も有効だということなのかも。
この辺りは、最後の章での
Quellette版「障害者に配慮ある生命倫理」による具体的な考察を読んでみたら
著者の意図がもう少しはっきりと見えてくるのだろうと思う。
いずれにせよ、
当ブログ周知のゴンザレス事件やアシュリー事件が
どのように考察されているのか非常に興味深いので、
まずはこれらの事件について楽しみに読んでみようと思います。
【Quellette“Bioethics and Disability”関連エントリー】
Alicia Quelletteの新刊「生命倫理と障害: 障害者に配慮ある生命倫理を目指して」(2011/6/22)
エリザベス・ブーヴィア事件: Quellette「生命倫理と障害」から(2011/8/9)
Sidney Miller事件: 障害新生児の救命と親の選択権(2011/8/16)
【Quelletteの論文関連エントリー】
09年のAshley事件批判論文については以下から4本。
「倫理委の検討は欠陥」とQuellette論文 1(2010/1/15)
10年の、子の身体改造をめぐる親の決定権批判論文については以下から4本。
Quellette論文(09)「子どもの身体に及ぶ親の権限を造り替える」 1: 概要
2011.08.17 / Top↑