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米国の障害者への支援サービスは、ひどい、ひどいと言われるけれども、
それでもそのベースラインは日本よりもはるかに高いのでは、という具体的な情報に触れると、
それを記録として拾っておく……といったエントリーは
これまでに何度か書いてきたけれど(文末にリンク)

でも。
今回ほど、
びっくりしたことは、なかった。

ワシントンD.C.で地下鉄とバスを運行しているMetroには、
障害のために公共の交通機関を利用できない人のために
一人一人または乗用車や小型バスを乗り合わせる形で
目的地まで送迎するMetro Access Paratransitというサービスがある。

最初に読んだ時には、「え? そんなサービスが本当に?」と
すぐには信じられなかった。

まぁ、実際には予約しても来てくれなかったり、
目的地とぜんぜん違う場所で下ろされたり、
あんまり信頼できるサービスでもないらしいけれど、
実際に1日に7000人以上が利用しているとのこと。

2011年度は2400万人へのサービスが見込まれ、予算は1億370万ドル。

地下鉄やバスだと3ドルとか4ドルで済むところに
一人あたり40ドルもかかる移動サービスを行っている。

すべては、米国障害者法によって
Metroには障害者に対して平等なアクセスを保証することが求められているため。

今までは私は、あまり突き詰めて考えていなかったこともあって、
国連障害者人権条約の求める「合理的配慮」について
今いち具体的なイメージに乏しいままだったのですが、
ああ、なるほど、こういうことなんだぁ……と、

現実にやっている場所があるとなると、
俄かに「実現可能な配慮」の形としてくっきりとイメージされてくる感じがする。

もちろん、このご時世に記事になっているのは、
高齢化と障害人口の増加に加えて、
メディケアの給付抑制で移動サービスがカットされた影響などで、
今後のMetro Accessの費用負担増加が見込まれるため、
Metroが様々な対策を講じて、障害者にメトロやバスの利用を促している、という内容。

MetroがMetro Accessの持続可能性を模索する中で
収入増加策として、まず試みたのが利用料金の値上げ。

前は一律で片道3ドルだったのを
距離と時間性を導入した。ただし上限7ドルまで。
(分かりにくい、フェアじゃないと、評判は悪い)

次に、利用抑制策として、資格審査を加え、
地下鉄やバスを利用できる人には利用してもらうように
安全な乗り方の講習会などを開催。去年は5800人に指導した。

資格審査では「条件付きで利用OK」も。

記事に出てくる車イス利用者の「条件」は
股関節の痛みが来ている時とか吹雪や炎天下での
この人の最長時間の移動の場合にはMetro Accessを利用することができる、というもの。

ただ、この人は高校時代に親が電車に乗る練習をさせてくれて慣れているし、
Metro Accessは前もって予約が必要、あまりアテにならない、
ラッシュ時には乗り合う人のルートによっては10分の距離に2時間かかることもある、
など不便なので、地下鉄やバスを乗り継いで通勤している。

困るのは、駅のエレベーターがしょっちゅう故障していることだという。

この辺り、いかにもアメリカだなぁ……と思いながら読んでいたら、
しかし、ここでもまた目を見張ってしまうのは、

Metroがエレベーター故障やバスの故障に備えて、
障害のある人たち向けに代替え輸送専用のバスを用意していること。

この女性も故障したエレベーターの前で困っていると、
専用バスの運転手に職場まで運んであげると言われて
「こんなの初めて」と驚く。

これもMetroが
障害のある人にバスや地下鉄を利用しようという気になってもらうために
導入した新制度だという。

また利用者に、Metro Accessのサービス・カーの運行状況や
駅のエレベーターやエスカレーターの故障状況をメールで通知するサービスも始めた。

もちろん障害当事者に言わせれば、
まだ駅の照明が暗いとか、エレベーターの修理、見えやすいサインの工夫、
Metro Accessの連絡不足や不確実性など、まだ改善の余地は沢山ある。

実際、視覚障害者や車イス利用者の転落事故や死亡事故も起きており、
ラッシュ時の混雑が怖くて地下鉄もバスも利用できないという人も多い。
車内放送は聴覚障害者には聞こえないし、
エレベーターやエスカレーターは2回に1回は止まっている、とも。

でも、記事を読んでいて、一番「すごいっ」と思ったのは
agency officialなのか、そうだとしてどういうagencyなのか、はたまた障害当事者なのか、
この人の立場がちょっと判然としないんだけど、
Silver Spring在住だという人が言った以下の言葉。

「私たちはMetroと話し合いながら、
利用者の助けになるものを導入してもらってきました」

もちろん、そういう努力を求めてきた「私たち」もだけれど、
その話し合いに応じて、それなりに努力してきたMetroの姿勢も――。

だって、そういう姿勢って、
日本じゃ「どう考えても、あり得ない」範疇のような――?

Frustrating, dangerous Metro problems for the disabled
WP, August 7, 2011


Metro Accessのリンクは上記本文中に張ったものの、
まだトップページをちょっと眺めただけなので、
いずれ、ちゃんと読んでみたいと思っています。


【英国のベースラインについて具体的な情報を含んでいるエントリー】
レスパイト増を断れた重症児の母の嘆きの書き込みがネット世論動かす(英)(2011/1/21)
介護者の10の心得 by the Royal Princess Trust for Cares(2011/5/12)
英国の障害者らが介護サービス削減に抗議して訴訟、大規模デモ(2011/5/11)

【米国のベースラインについて具体的な情報を含んでいるエントリー】
Ashleyケース、やはり支援不足とは無関係かも(2008/12/8)
Obama大統領、在宅生活支援でスタンスを微調整?(2009/6/25)
米国IDEAが保障する重症重複障害児の教育、ベースラインはこんなに高い(2010/6/22)
2011.08.10 / Top↑
kebichan55さんの今日のエントリー
「精神病院をなくした国 イタリア」で初めて知った。

23日(土)公開のイタリア映画「人生、ここにあり」。

公式サイトはこちら ↓
http://jinsei-koko.com/


去年だったか、一度ACTについてざっと調べてみたことがあって、その時に
イタリアの精神医療改革とかバザーリアという人について、
どこかでちょっと読みかじった。

もしかしてエントリーにしているかと思ってブログ内検索してみたけど
ありませんでした。

で、さっき検索してみたら、すぐに出てきたのは以下 ↓
http://homepage3.nifty.com/kyouseisha/newpage34.html

ここで触れられている大熊一夫氏の本は、こちら ↓
「精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本」(岩波 2009)。

たぶん、その、ACTについて調べた時に、
読んでみようかなと思ったおぼろな記憶があるけど、読んでいない。


この映画については、
予告編や公式サイトの雰囲気、寄せられた著名人のコメントなどからは
「べてるの家のイタリア版」といった作りの映画?……という感触で、

個人的には、あれこれ、ちょっと棚上げにして、
とりあえず距離をおいておきたい感じ。

なぜ、ということもないんだけど。



【追記】
べてるの家、たしかコメントで話題になったことがあったぞ、と思って
探してみたら、こちらのエントリーでした。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/62799283.html

私自身は、べてるの家については
話題になり始めた頃に本は何冊か読んだものの、
ブレイクしまくってからは、逆に読む気にならなくなった。

で、去年だったか、
こちらのブログに書かれていることを読んだ時に、なんとなく共感した。↓
http://www.seikatsushoin.com/weblog/2010/10/post_94.html
2011.07.21 / Top↑
9日、WHOと世界銀行が
障害児・者に関するグローバルな報告書the World Report on Disabilityをまとめた。

1970年代には世界の人口の約10%だと試算されていた障害者は
高齢化と慢性病の増加によって増え、今では10億人。総人口の15%に。

障害者の権利運動が行われインクルージョンに向けた変化もあるものの
総じて障害者は差別される地位(second-class citizen)に留まっており、
5人に1人は多大な困難を経験している。

途上国では医療を拒否される確率が健常者よりも3倍も高く、
障害児が学校に通ったり卒業まで在学する率も低い。

OECD諸国の健常者の就業率が75%であるのに比べて
障害者の就業率は44%にとどまる。

バリアとしては、スティグマ、差別、
適切な医療とリハビリを受けられないこと、
交通手段、建物、情報へのアクセスが十分でないこと。
途上国では事情はより深刻である。

著者の一人、Tom Shakespeareは、
問題のない国はない、というのが報告書のメッセージだ、と述べて

特に報告書から見える最もショッキングで大きな問題は
医療における差別だ、と。

WHO事務局長のMargaret Chan医師は
障害は人であれば経験すること(disability is part of the human condition)だと指摘し、
「私たちのほとんどが人生のどこかの段階で永続的な障害や一時的な障害を負います。
障害者を差別し、多くの場合社会の周辺に追いやってしまう原因となっているバリアを
取り除くために我々はもっと努力しなければなりません」

Lancaster大学の障害研究センターのEric Emerson教授は
「英国の障害者、とりわけ知的障害者が受ける制度的な差別は
これまでも多くの独立系の調査報告で指摘されてきた。

障害者の健康と福祉は
彼らの障害から直接的に引き起こされる結果ではなく、
社会が障害者をどのように遇するかによって引き起こされた結果なのである」

報告書は特に各国の状況を比較してはいないが
最も優秀な実践例として特に英国の障害者差別(禁止)法2005を挙げた。
公共機関に平等とダイレクト・ペイメントの推進を義務付けたことを評価したもの。

しかし英国人であるShakespeareは
「ダイレクト・ペイメントの仕組みと、
自立生活給付などの支援や仕事へのアクセスでは英国は優秀だが
これまでに整えられてきたものが今は脅かされている。
自立生活給付金のカットやその他の支援も変更が行われており
昔はよかったが、ということになりそうだ」


One billion people disabled, first global report finds
The Guardian, June 9, 2011

同レポートに関するLancetの論説はこちら。


英国の社会保障費カットはこのところ毎日のようにニュースになるほど
大きな影響を及ぼして障害者・高齢者を脅かしているので、
Shakespeareの最後の発言は非常にリアルに聞こえた。

英国の障害者らが介護サービス削減に抗議して訴訟、大規模デモ(2011/5/11)


ただ、ものすごく素朴に疑問に思うのは

WHOと世銀って、ゲイツ財団・IHMEと大の仲良しで、
DALYでもって世界中の医療保健施策の効率化を計ろうとしていたり、
遺伝子診断や早産・死産撲滅など、優生思想が匂う運動を推進していたりしながら
その一方で、こういうことを言うのって……?


それはShakespeareの発言にも通じていく疑問で、

医療における障害者差別が一番の問題だというけど、
そんなのは、この報告書が出てくる前からみんなが経験し言っていることで、
その現実を知らないわけでもなかろうに、

また医療で差別されているからこそ、
英国障害者の7割がPAS合法化に懸念してもいるのだろうし、
その懸念の背景にある不信を理解できないわけでもなかろうに、

自殺幇助合法化議論では医療における障害者への差別は言わず、
障害者にも自殺幇助を認めろ、と主張するのって……?


【関連エントリー】
Tom Shakespeareが「自殺幇助合法化せよ」(2009/3/15)
Campbell/Shakespeare・Drake:障害当事者による自殺幇助論争 1(2009/7/9)
Campbell/Shakespeare・Drake:障害当事者による自殺幇助論争 2(2009/7/9)
2011.06.13 / Top↑
2008年にオーストラリアで同様の事件がありましたが、↓
「ダウン症の息子が社会の重荷」とドイツ人医師に永住権を拒否

今度はカナダ政府が、子どもの障害を理由に2家族に永住権を拒否しています。


Immigrant family with disabled child to stay in Canada
Ottawa Citizen, April 20, 2011

David Barlagnesさん一家は2005年にフランスからカナダに移住。

今年7月、
8歳の娘の障害(脳性まひ)が社会保障への「過剰な負担」になるという理由で
「医学的に許容できない」としてカナダ移民局から永住権の申請を拒否され、
国外退去を言い渡されたが

その後、移民大臣Katheleen Wellの介入によって
連邦政府と地方自治体の移民担当部局の間で協議・合意が行われて
決定取り消しとなった。

永久権の拒否は
特別教育コストが年間5259ドルかかるため、
社会サービスへの「過剰な負担」となることが理由。

Barlagne氏はカナダに移住する際、パリのカナダ大使館からは
娘の障害を理由に永住できないということはないとの説明を受けたというが
大使館側は否定している。

またカナダ入国前後にRatchelさんの障害についての詳細情報の提出を求めたが
出さなかったと移民局は主張。この点も一家の主張と食い違っている。

一家は4月中旬に
人道的見地から居住を認めるように移民大臣に求めて記者会見を行い、
連邦政府、地方自治体の政治家らも支持。大臣が介入することに。

記者会見に同席したカナダ障害者会議(CCD)も
プレス・リリースを出している。

CCD Dismayed Family with a Disabled Child Ordered Deported


社会に貢献したカナダの脳性まひ者の名前を挙げて
脳性まひを理由に永住を拒否することの理不尽を問うと同時に、

カナダが2010年3月に国連障害者人権条約を批准したことに触れ、
今回の決定は明らかに条約の精神に違反している、と指摘。


Canada bars autistic teen from immigrating his father, stepmother also ruled inadmissible
The Ottawa Citizen, April 26, 2011

おそらくは上記の事件の報道を受けて、表面化したと思われる
こちらの事件はもっと不可思議。というか、露骨。

カナダのCornwall在住で、
ここ10年間Cornwallと英国を行ったり来たりして暮らしている英国人
Robert and Pauline Crowe夫妻は4年前に永住権を申請していたが、
2か月前に17歳の息子の自閉症を理由に拒否された。

といっても不可解なのは
息子のLewisはRobertさんの前の妻との間に生まれた子供で、
現在は姉とともに母親と英国に住んでおり、親権も前妻にある。
カナダに永住を希望しているのはCrowe夫妻のみだ。

Crowe夫妻が永住権の申請を行った際に、
22歳以下であることからLewisは自動的に夫妻の子どもとして
永住権申請の対象者とみなされたという。

そこでCrowe氏らには
万が一Lewesがカナダで暮らすことになった場合には
Cornwallでどういうサービスを利用することになるかの計画と、
それらのサービスを利用する費用の試算、
その額を自力で支払うことができるとの証明が求められた。

Crowe氏が試算したところ費用は年間2万ドルで、
支払いは可能だった。

それでも移民局からは
仮にLewisがカナダで暮らすことになっても彼の医療費については
カナダ政府に一切負担をかけないとの文書に署名を求められた。

去年Cornwallで仕事のオファーがあり、
永住権が取れると考えていたCrowe夫妻は家まで購入したのだが、
オファーは永住権が前提であったため、いつまでも取れずにいるうちに
取り下げられてしまった。

そして2か月前に、
Lewisの永住権は「医学的に許可できない」、
夫妻の永住権も認められないとの通知が届いた。

また、今後、
Lewisの姉と母親は自由にカナダのCrowe夫妻を訪問することができるが、
Lewisの入国には許可が必要となる。

Crowe氏はカナダ政府の決定が
「障害のみを理由に自閉症者の人権と自由を侵害している」と憤慨。

10年前にカナダ在住の姉を訪ねて初めて訪れて以来
カナダに魅せられ自分の国と考えてきたのに失望したといい、
家を売って英国に変えることを考えている。

こちらの件についても、CCDが
国連障害者人権条約違反だとコメントしている。
2011.05.03 / Top↑
2月にこちらのエントリーで予告を紹介した
生活書院の雑誌「支援」が、大震災があったにもかかわらず予定通りに創刊された。

さっそく手に入れて読み始めたら、
これまで味わったことのない感じを受けた。

なんというか、軽く頭ごと、ひっ捕まえられて揺さぶられる感じ。
でも不快な感じではなくて、ゆさぶられて、ほぐされる感じ。

脳みそにゆらっ、とか、くらっ、と刺激がきて、ゆるっとほぐされて、
そこから自分が何をどう考えようとするのかは、まだ捉えようもないのだけど、
とりあえず、ゆるっという感触は面白いし、
おっ、いいんとちがう、これは……?
なんか開けていく感じ……? みたいな。

ちょっと夢中になり、2日かけて書評から編集後記まで読んだ。

やっぱり一番面白かったのは「『個別ニーズ』を超えて」という特集で、
その中でも、やっぱり目玉の、三井さよ氏の「かかわりのなかにある支援」(p.6-43)
(恥ずかしながら私は三井さよさんについて今まで何も知らなかった)

多摩地域の知的障害者への支援活動との関わりを通じて、
個別ニーズに応えることを前提とする「個別ニーズ視点」を批判的に捉えかえして
「知的障害は当時者に属するのではなく、関係の中に存在する」と考え
個別ニーズの判断よりも先にかかわりを置く「かかわりの視点」を考えてみるもの。

個別ニーズ視点が、当時者を「ニーズのある人」と規定することから始まり、
それによって支援の必要を障害のある人の側にのみ帰することによって、
「その人を自らのかかわる他者として捉えていないのではないか」
また、そのニーズに適切な対応ができる人以外のかかわりを排除する姿勢にも
繋がっていくのではないか、と問題提起し、

「当時者のふるまいや思いを、自らの関与や多様な人たちとのかかわりのなかから探り、
そのつどいま何が起きているのか、誰が何をどのように必要としているのかを
問いなおそうとする支援のあり方」を「かかわりの視点」として提言する。

これ、“Ashley療法”論争の核心にズバリと迫っていく問題だと思う。

「知的障害は当時者に属するのではなく、
関係の中に存在する」というのは著者によると

その人は伝えているにもかかわらず、こちらが理解できていない。その人がわからないだけでなく、こちらが説明できていない。知的障害というのは、そうした現象なのではないだろうか。


本当は問題の質が違うのかもしれないのだけれど、
私がここで頭に浮かべたことを率直に書いてみると、
それは自分が英語の教師として、毎年、最初の授業で
英語でのコミュニケーションについて学生さんたちに語ってきたことだった。

私たちの多くは「英語をしゃべれるようになりたい」と思う時に、
自分が英語でしゃべる相手としてネイティブ・スピーカーを想定していて、
自分さえ「正しい英語」をしゃべれば相手に通じる、だから努力して
「正しい英語」をしゃべれるようになろう……と考えるのだけど、

現実には、このグローバル化した世界で、
私たちと同じように外国語として英語を身につけた人と会話をすることも多い。

表現する力と理解する力ともに「そこそこ」の人間同士の会話では
そこで「どの程度コミュニケーションが成り立つか」というのは
どちらか一方だけの英語力のレベルの問題や責任ではなくて
双方が不十分なところをいかに補い合えるかという共同作業の問題になる。

そういう場での「コミュニケーション能力」とは
「どれだけ正しい英語をしゃべるか」でも「どれだけ正しく聞き取れるか」でもなく
いかにその時、その場で、という一回性の中で
その人とのコミュニケーションという共同作業を担うか。
それは実はもう言語能力の問題ではなくなっていたりする。

本当は英米加豪だけが英語ネイティブじゃないし、
もともと英米加豪のネイティブが相手だとしても、
「伝わる・伝わらない」の責任はノン・ネイティブの側にだけあるわけじゃない。

だって、誰かが手持ちの英語で必死に話しかけているのに
「あんたの言ってること、さっぱり分からんわ」とネイティブに
ハエでも払うような手つきで追い払われてしまったら、
そこでコミュニケーションが成立しなかった責任は
話しかけた方の英語力にあるわけじゃないよね。

私たちは、知的障害のある人とのコミュニケーションにおいて、
または言葉という表現手段を持たない人とのコミュニケーションにおいて、
そんなネイティブと同じこと、近いことをやっているんじゃないか……と
三井氏は問うているような気がした。

そういうことを無自覚的にやりながら
コミュニケーションが成立しないことの責を、その人の障害だけに負わせて、
その責を負わせられた個人のニーズにエラソーに「支援」を入れようとしているけど、

その前に、
その場で誰かに話しかけられてしまった者として
私たちもその時その場でのコミュニケーションの共同責任者であることを
自覚しないといけないこと、ない? 

そうでなければ、本当の意味でその人を支援することなんかできないこと、ない? と。

問題は、関係のなかにある障害そのものではなく、そこから生じる弊害や痛みを、当時者に一方的に押し付けることにある。修正されなくてはならないのは、関係の存する障壁そのものでは必ずしもなく、そこから生じる不利益を当時者だけに集中させる社会構造の方である。


私はAshley事件と重ねて共感するところが多かったので
ここではコミュニケーションに焦点を当てましたが、
三井氏の論文はもっと広くて深いです。


次に面白かったのは「資格は必要か? ケア・介護・介助と専門性」という座談会。
土屋葉(司会)×山下幸子×星加良司×井口高志。

この座談会で私が一番面白かったのは、
自立生活モデルだけでは知的障害者の支援には限界があるということを巡っての
あれこれだったのだけど、そこのところは、自分の言いたいことを
まだうまく説明する自信がないので、またの機会に。

ただ、私自身、娘を通じて出会ったいわゆる「専門家」には
いろんなことを感じ、考えさせられてきたので、

そういうことを諸々、頭に思い返しながら座談会を読んでいて、
ふいに焦点を結んだ考えがあった。

「専門性」は「問題解決能力」とイクオールみたいに通常はなんとなく想定されているけど、
現実には両者はイクオールだとは限らない……という考え。

というか、

「専門性」を「問題解決」のために有効に生かせる専門家よりも
むしろ「専門性」を「問題解決」の足を引っ張る方向に働かせてしまう専門家の方が
多いように思えてしまうのは、いったい何故だろう……という問い。

これは、この座談会のおかげで発見させてもらった私にとっては貴重な問いなので、
この後ていねいに大切に考えてみたいと思っている。

それから、Ashley事件にも、DALYや無益な治療論にも直結していくので
のめり込むように読んで赤だらけにしてしまった記事として、
田島明子氏の「リハビリテーションとQOL - 主観・客観の裂け目から見える地平」。


全体として、
障害学にも障害者運動にも疎い私がこういうことを言っては失礼かもしれないけど、
障害学とか障害者運動というものが持っているように(無知だからか私には)感じられる
ある種の「かたくなさ」みたいなものが
ここでは解きほぐされようとしているんじゃないか、

解きほぐしてみようとしている人たちが
ここに集まっているんじゃないか……。

そんな手触りの創刊号だった。
2011.04.17 / Top↑