2ntブログ
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- / Top↑
デンバー子ども病院が2004年から2007年に行った
小児のDCD(心臓死後臓器提供)のうち2例で
心停止から75秒だけ待って心臓を摘出したと報告した問題について
2008年に以下のエントリーで紹介しました ↓
心臓を停止から75秒で摘出・移植しているデンバー子ども病院(2008/10/14)

なお、Truogの以下の講演によると、
デンバー子ども病院は批判を浴びて、その後2分待つプロトコルに戻したとのこと ↓
Robert Truog「心臓死後臓器提供DCDの倫理問題」講演ビデオ(2009)(2010/12/20)


この件の周辺の情報を改めて取りまとめておく為のエントリーです。


① The New England Journal of Medicine における
デンバー子ども病院の「75秒で心臓摘出」プロトコル報告論文。

Pediatric Heart Transplantation after Declaration of Cardiocirculatory Death
Mark M. Boucek, M.D., et. all,
N Eng J Med 2008; 359:709-714 August 14, 2008

この論文は
2004年から2007年の間に3例行われた小児のDCDのうち、後の2例では、
倫理委の提言を受けて心停止からの観察時間を「1.25分に短縮した」と書いている。
つまり観察時間は75秒。


② 上記論文に対する反響の論文(いずれも同年8月14日のNEJM)

Gregory D. Curfmanらの論説
http://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMe0805480

James L. Bernatの批判論文
http://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMp0804161

Robert M. Veatchの批判論文。(レシピエントの体内で機能するなら不可逆的停止ではないと指摘)
http://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMp0805451

Truog とMillerの論文:デッド・ドナー・ルールの見直しを提言。
http://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMp0804474


③ 関連の報道など。

・2007年3月18日のWPの記事。この記事は上記のNEJMの論文の前年に「75秒」を報道している。
New Trend in Organ Donation Raises Questions
Rob Stein
WP, March 18, 2007

・WPのnational correspondence であるWilliam Saletanが書いた、興味深い記事。
(SaletanはA事件でも辛辣な批判記事を書いた人物)
http://articles.washingtonpost.com/2008-10-05/news/36849515_1_brain-death-organs-cardiac-death

・NYT 2009年12月20日
http://www.nytimes.com/2009/12/20/magazine/20organ-t.html?pagewanted=all&_r=0

・米国医学会新聞 2009年1月19日
http://business.highbeam.com/137033/article-1G1-192397885/jan-19-2009-redefining-death-new-ethical-dilemma


・その後、UNOSによるDCDの名称変更提言に関して、上と同じWP記者が書いたもの
Changes in controversial organ donation method stir fears
Rob Stein,
September 19, 2011

この記事については、↓
UNOSが「心臓は動いていても“循環死後提供”で」「脊損やALSの人は特定ドナー候補に」(2011/9/26)



【DCD関連エントリー】
心臓を停止から75秒で摘出・移植しているDenver子ども病院(2008/10/14)
森岡正博氏の「臓器移植法A案可決 先進国に見る荒廃」(2009/6/27)
「脳死でなくても心停止から2分で摘出準備開始」のDCDを、ERで試験的に解禁(米)(2010/3/17)
臓器提供は安楽死の次には“無益な治療”論と繋がる……?(2010/5/9)
ベルギーの「安楽死後臓器提供」、やっぱり「無益な治療」論がチラついている?(2011/2/7)
Savulescuらが、今度はICUにおける一方的な「無益な治療」停止の正当化(2011/2/9)
「1つの流れに繋がっていく移植医療、死の自己決定と“無益な治療”」を書きました(2011/5/14)
WHOが「人為的DCDによる臓器提供を検討しよう」と(2011/7/19)


【William Saletan関連記事】
SaletanのAshley療法批判(1月 WP)(2007/12/13)
受胎前遺伝子診断:巧妙な言葉の操作が優生思想を隠ぺいする(2009/1/16)
2013.04.16 / Top↑
Yale大学のInterdisciplinary Center of Bioethicsが
今年12月に開く予定のカンファ。

テーマは “Personhood Beyond the Human”
共催は the Institute for Ethics and Emerging Technologies (IEET).

基調講演は Peter Singer と Steven M. Wise。

Yale to host conference on non-human personhood
BioEdge, April 13, 2013


で、このカンファで議論される問題を
BioEdgeにリンクされたビデオで熱く語っているのが
Ashley事件の際にCNNに登場していち早く擁護論をぶったIEETの創設者で
Trinity College in Hartford, Connecticutの生命倫理学者のJames Hughes.

当時、彼らのメディア発言で初めてトランスヒューマニストの存在を知り、
その主張について知ってぶったまげた私は、

とりあえずHughesが2004年に出した
Citizen Cyborgという本をゲットして読んでみた。

……というか、読む努力をしてみた。
で、あまりの議論の粗雑さに、すぐにメゲた。

読んだ範囲で一番あぜんとしたのは、
彼が主張する民主的なトランスヒューマンな市民社会の権利4段階説。

その個所を2007年の当該エントリーからコピペしてみると、


彼の分類では生命のタイプは4つ。

まず、最も上のランク。
①完全な市民権(自己決定、投票と契約を結ぶ権利)を与えられるのは、

「理性ある成熟した人格」という意識状態にある
「強化されている・いないを問わず大人の人間と、認知能力がそれに匹敵するもの」。

②障害市民権(生命と、完全な自己決定を行うための補助への権利)が与えられるのが、

人間の子ども
認知症と精神(知的の意?)障害のある人間の大人
Great Apes

彼らの意識状態は「人格(自己意識)」。

③「感覚のある財産」というステイタスで
(不要な苦しみを味わわない権利)を与えられるのが、

ほとんどの動物
胎児
植物状態の人間

意識状態は「Sentience感覚がある(快と痛)」

④権利を持たない「財産」と規定されるのは、

脳死の人間

植物
物品

彼らの意識状態は「Not Sentient 感覚がない」。

その他の詳細は、文末にリンクのエントリーに。


なんだか、なぁ……。
2007年のA療法論争の時には、
ただのトンデモ・ヒューマニストに見えていた人たちが
いつのまにやら生命倫理学者として大きな声でものを言い始めている……。


【James Hughesの“Citizen Cyborg”関連エントリー】
Hughesの「サイボーグ市民」
he とshe の新たな文法?
サイボーグ社会の“市民権”

【Singerらの「大型類人猿の権利宣言」関連エントリー】
Singerらの「大型類人猿の権利宣言」って、あんがい種差別的?
Peter Singerの”ちゃぶ台返し”
SingerやTH二ストにとっては、知的障害者も精神障害者も子どもも、み~んな「頭が悪い人たち」?
2013.04.16 / Top↑
2008年に米国小児科学会誌に発表された
重要な論文を発見。

Loma Linda大学の研究者らが
脳死は定義も適用も難しい概念であるため
小児の脳死判定と記録には大きなバラつきがあるとの仮説を立てて検証した、というもの。

2000年から2004年にカリフォルニア州南部で
臨床的神経基準を用いて脳死と診断されて地元の臓器バンクに連絡が行った子どもたち277人のうち、
臓器ドナーとなったのは142人(51.2%)。

これら142人には死亡時までの完全なカルテがあるため、
それらを1987年の小児の脳死判定14項目について調査したところ、


年齢は
生後1週間       1患者
生後1週間から2カ月  6患者
生後2カ月から1年   22患者
1歳が        113患者

年齢に応じて一定の間隔をあけ2回の脳死判定検査が推奨されているが、判定回数は
0回        4患者
2回       122患者
3回        14患者
4回        2患者

年齢に応じて少なくとも48時間、24時間、12時間とされる判定の間の推奨間隔については、
1987年基準が守られていたのは1歳以上の18.5%のみで、
1歳未満では推奨の間隔が守られていたケースはゼロだった。
最短10分間隔・中央値1.6時間で2回目検査。

14項目のすべてを満たす判定が行われていたのは1人のみ。

14項目のうち神経科医と小児集中医療専門医が満たしていた中間値は5.5項目。
神経外科医が満たしていた中間値は5.8項目に留まった。

60%で無呼吸テストが記録されておらず、
半数以上で動脈血二酸化炭素分圧(PaCO2)の上昇が不十分だった。
(日本の基準では自発呼吸の不可逆的停止が確認されるためには60mmHg以上であることの確認が必要)

第一回の判定では57人(40%)で行われた記録があるが、そのうち
最終的な動脈血二酸化炭素分圧(PaCO2)が60mmHgを上回ったと記録されていたのは65%のみ。

第2回目の判定では61人(43%)に行われて、
そのうち57%で最終的な動脈血二酸化炭素分圧が60mmHgを上回った。
全体的に、無呼吸テストが最善の形で行われなかったケースでの最終PaCOは
40mmHgから58mmHgの間だった。

確認テストとして脳血流検査が行われたのが112人のうち83人(74%)で、
脳波測定のみのケースは112人のうち29人(26%)。
(いずれも行われた患者が6人いるので、この個所ちょっとデータの整合性が?)

著者らの結論は以下。

Children suffering brain death are cared for in various locations by a diverse group of specialists. Clinical practice varies greatly from established guidelines, and documentation is incomplete for most patients. Physicians rely on cerebral blood flow measurements more than electroencephalography for confirmatory testing. Codifying clinical and testing criteria into a checklist could lend uniformity and enhance the quality and rigor of this crucial determination.


臨床で行われている脳死判定はガイドラインと大きくかけ離れており、
ほとんどの患者で記録も不完全なものにとどまっている……。

Variability in Pediatric Brain Death Determination and Documentation in Southern California
Mudit Mathur, MD, et. al.
Pediatrics, May 1, 2008


ちなみに、私がこの論文について知って、探してみようと思ったきっかけは
以下のNYTの記事なのですが、

When Does Death Start?
NYT, December 20, 2009


書いたのはマサチューセッツ医科大学の小児心臓科長、Darshak Sanghavi医師。

Amandaという少女が事故で脳に重大な損傷を負い、
もう助からないなら、と両親が生命維持の停止と臓器提供を決心し
心臓死後臓器提供DCDのプロトコルによって手術室で人工呼吸器を外したところ、
Amandaはなかなか死ななかったために、臓器が提供できなかっただけでなく、
両親が非常につらい思いをして「いっそ、このまま採ってくれ」と言った
というエピソードを紹介して、

臓器不足のために死んでいく患者を救うためにも、
臓器提供の希望がある人が苦しまないためにも、
こういうケースでは全身麻酔をかけて摘出してもよいことに、と
暗に主張する文章。

Savulescuらが10年に論文を書いて
「臓器提供安楽死」と称して提案したことは、
それ以前から既にこうして言われていたわけですね……。

ちょっと愕然……。

で、Sanghavi医師は、
上記のLoma Linda大の論文を簡単に紹介し、
さらに「脳スキャンのやり方が適切ではなかった」ことによる脳死の誤診事例として
有名なザック・ダンラップのケースにも触れて、

その後で以下のように書いています。

Such sloppiness is potentially tragic, but it is also exceedingly rare. Whether or not a checklist is followed, by the time a neurologist is consulted to assess a critically ill patient for brain death, the odds of recovery are already minuscule. Doctors see that these patients have begun dying and the uncertainty is not about whether it will happen but when.

このようないいかげんな判定には悲劇を招く可能性があるが、しかし極めて稀でもある。チェックリストがきちんと守られようと守られまいと、重症患者の脳死判定が神経内科医に依頼される段階では、回復の可能性はすでに極めて小さい。医師にはこれらの患者は既に死のプロセスが始まっていることが分かるし、そこで不確実なのは死ぬかどうかではなく、いつ死ぬかでしかない。


いや、でも、
上記論文の結果を前に「極めて稀」と言われても……。

それに、この数行で書かれていることって
「どうせ死ぬんだからチェックリストも基準も要らない」
「どうせ回復の見込みなんかないんだから脳死になっていようといまいと関係ない」
「稀に悲劇が起こるかもしれないけど、そんなの構わない」と
「どうせ」が手放しで全開にされているだけでは?

そして、それは
「科学的な姿勢」でも「科学的な思考」でも全然ない……んでは――?


【12日追記】
詳しい方からご教示いただいたので。

無呼吸テストのPaCO2値に関しては
119.6mmHgで呼吸をした患者も報告されており
閾値の設定については論争があるそうです。↓

http://www6.plala.or.jp/brainx/trick_determination.htm#B
2013.04.16 / Top↑
以下のYouTubeビデオを見たので、要点をメモ。

2013/03/28 参議院 厚生労働委員会 生活の党 はたともこの質疑


●今回の法改正で、「子宮頸がん予防ワクチン」が「HPVワクチン」に名称変更になった。
これは「子宮頸がん予防ワクチン」という名称が必ずしも適切ではないということ、と
はた氏は指摘。

この点については、当ブログが拾った情報でも、すでに2011年段階で専門家から
子宮がん予防効果についてはデータが不十分であるにもかかわらず、
こうした名称を用いることに対する疑問として提示されていた ↓

日本でもガーダシル導入へ、厚労省当該部会の議論の怪 1(2011/8/5)
日本でもガーダシル導入へ、厚労省当該部会の議論の怪 2(2011/8/5)



●国立感染症研究所のファクトシート(平成22年7月7日版)によれば、
・性的活動を行う女性の50%以上が生涯に1度はHPVに感染すると推定されている。

●厚労省の説明によれば、Lancetに日本人研究者が報告した論文で、
・日本の一般女性がHPVに感染する割合について、16型が0.5%。
・同、18型が0.2%。

●米国のデータによれば、
・HPVに感染しても、90%以上は自然排出され、90%以上は2年以内に消失する。

●HPV感染から異形成を経て子宮頸がんになる人の割合は、0.1~0.5%。
(厚労省は様々なデータがあるため「確立した数値は得られていない」と理解)

・持続感染して軽度または中等度異形成になったとしても、
その90%は自然治癒し、残り10%も適切な治療を施すことができれば治癒率は概ね100%である。

これらから「日本人女性の99.9%以上には効果がないか、必要性がないワクチン」と同議員。

一方、

●3月11日に開催された副反応検討会議資料によれば、

・メディアではHPVワクチンの副反応の発生率はインフルエンザ・ワクチンの10倍とされているが、
それは事実ではなく、実際は、

副反応はインフルエンザ・ワクチンの
サーバリスクが38倍
ガーダシルが26倍。

そのうち重篤な副反応では、
インフルエンザ・ワクチンの
サーバリスクが52倍
ガーダシルが24倍。
2013.04.16 / Top↑
先週火曜日に以下のエントリーを書きました。

生きたいのにICなしのモルヒネ投与で死んでしまったALSの元外科医(MT州)(2013/3/26)


この事例をめぐって、某MLで
ALS患者の支援の専門家と緩和ケアの専門医の方の間で
興味深いやり取りがありました。

私はALSのことには全く疎いので
細かいことまでは分かりませんが、大筋としては、

日本でもモルヒネが保険適用となり、
ALS患者に使われるようになってきているが、
そこにはいくつかの疑問がある、という話。

門外漢の私がとりあえず、
そのやり取りから読み取ったのは以下の3点。

① がん患者の呼吸困難にモルヒネを使うことにはエビデンスがあるが、
鎮静のために、睡眠薬ではなく鎮痛剤であるモルヒネを使うことは疑問。

② 本人の苦痛緩和のためという名目で
実際は病棟の看護師の負担軽減のために使われている場合も?

③ ALS患者の緩和ケアとしてモルヒネの使用が広がるにつれて、
ALSの呼吸不全を終末期と捉える勘違いが起こり始め、
緩和ケア=終末期ケアという短絡的な構図ができていくのではないか。


私はすべての問題意識がアシュリー事件に端を発する門外漢なので
① と②はともかく、③の疑問がアシュリー事件での胃ろうをめぐる疑問に繋がった。
以下、それについて。


アシュリーには、
まだ口から食べられる状態だったにもかかわらず、
よく病気をして熱を出しては食べられなくなるので、
そのくらいだったら、いっそ普段から経管栄養にしておけばよい、との判断で
胃ろうが作られたと思われる節がある ↓

ヘンだよ、Ashleyの胃ろう(2008/12/20)
(私が当事メールをやり取りしていたのは、A療法論争にも登場する英語圏の学者の一人)

そして、実際、
アシュリーの手術を行ったシアトルこども病院の小児科医の一人、Wilfondは
重症児への健康以外の理由による侵襲をめぐる親の決定権を論じた論文で、
胃ろうについて、食事介助の時間を短縮するための技術としてのみ捉え説明している ↓

食事介助の時間短縮策としてのみ語られる胃ろう(Wilfond論文)4(2009/4/27)


ところが、
仮にアシュリーの胃ろうが、5歳の時に、
まだ口から食べられるにもかかわらず緊急時への対応のために導入されたのだとしても、

6歳時に実施された“アシュリー療法”が9歳で論争になった際には、
胃ろうであることが「飲み込みもできないほどの重症児である」ことの根拠に使われた。

上記の「ヘンだよ、アシュリーの胃ろう」エントリーに引用しているように、
08年のストーニー・ブルック大学の認知障害カンファ(Eva Kittayが企画したもの)で
ピーター・シンガーもアシュリー事件を論じた際に、アシュリーの状態について
「アシュリーには飲み込みすらできない」と発言している。

本来なら飲み込みに困難がある人だけが本人の利益判断で適用となるはずの技術が、
介護上の利便性によって、飲み込み可能な人にまで使われてしまう現実は存在している。
にもかかわらず、いったんその技術が使われてしまうと、
「利便性のために使われている現実がある」ことはカウント外となり、

「胃ろうになっている」
      ↓
「飲み込みができない」
      ↓
「飲み込みができないほど重症である」
      ↓
「したがって、他の障害児とは別基準を適用しても構わない」

と、みなされてしまう。

高齢者の場合だと、
「口から食べられなくなったら、もういい」と言われてしまう。

それは、ちょうどアリシア・ウ―レットが
アシュリー療法の正当化論について指摘した問題点の1つ、
「道徳上の害につながる社会的リスクが無視されている」に当たるような気がする。

ウ―レットが言っていることを私自身の言葉でまとめると、

本人の最善の利益というタテマエを装った「どうせ重症児だから」という論理で
本人以外の便宜のためにアシュリー療法が正当化されると
今度はアシュリー療法を実施された個々の子どもが周囲の人から
「どうせアシュリー療法をしてもかまわないような存在だから」とみなされ、
人としての敬意を値引きされることになる。

人が、人としての敬意を減じた扱いをされる時には
その扱いをされる存在であることがその扱いをさらに正当化することにつながり
その人は「道徳的な害」を被ることになる。

Ouellette論文 3:Aケース倫理委検討の検証と批判(2010/1/15)
(QuelletteはOuelletteの間違いです。あまりに多数なので、訂正できずにいます)


個々の技術や薬それ自体は、
一定の状態の患者さんへの利益がある優れた医療介入である反面、
本人の利益を装いつつ本人以外への利便性のために
本来なら適用対象にならない患者さんにまで行われていくと、
どこかで周囲の捉え方に因果関係の逆転が起こり、
その技術や薬を適用されている人であることが
「生きるに値しない命を生きている人」であることの証と捉えられてしまう。

ALSの人へのモルヒネ投与にしても、高齢者への胃ろうにしても、そして新型遺伝子診断でも、
それと同じところがあるような気がする。

            ――――――

それから、もう一つ、
オピオイド鎮痛剤については、
以下のエントリーで紹介した「ファーマゲドン」スキャンダルが出てきており、
かつてのSSRIをめぐるスキャンダルとその構図がとても似ていることと
あながち無関係でもないのかも……?

“オピオイド鎮痛剤問題”の裏側(米)(2012/10/20)
ファーマゲドン: オピオイド鎮痛剤問題のさらなる裏側(2013/1/4)


……と、実はここまでは先週書いて、寝かせたままになっていたのですが、

昨日たまたま読んだ
九州大学大学院医学研究院麻酔・蘇生学教授の外須美夫さんのインタビューで
(『談』2013 no.96 特集「痛みの声を聴く」)

この問題が ズバ―――ンと語られていて、
うおおおっ、日本の医師にもここまで見えていて
それをここまではっきりと言い切る人がいるんだ……と。

……現代の消費社会では「痛み」さえもが市場経済の道具となって、それで世界をコントロールしようとしたり、金もうけをしようとしたりする人たちもたくさんいます。
 鎮痛剤は何億円、何千億円という市場を形成し、製薬会社にとっても大きな利益が期待できる分野です。どんどん薬を使ってもらいたいし、そのために患者さんにも宣伝もするし、医師にも使用を奨励する。それに歩調を合わせるように、政治家も国民の健康と幸福を謳い、「痛みのない社会」をスローガンに掲げるといったように、痛みを忌避する流れは、より大きく、早くなっています。
(p. 46)


外氏は
米国での2001年からの「痛みの10年」で
鎮痛以外の目的での麻薬性鎮痛剤の利用者が3倍くらいに膨れ上がったと、
上記リンクのエントリーで拾った記事などが報告している実態を明かす。

そうした動きに抗うためにも、
「私たち医者は、薬だけで痛みを治そうとしてはいけないのです」(p.47)と述べて、
痛みを4つに分断しれそれぞれに向かうのではなく、
「身体と精神と同じように生と死もやはり繋がっていて、」
そこにも境界はないと考えたい」(p.43)といった境目のない捉え方で
「全人的痛み」と向かい合う必要と、そうした医師としての対応という話に向かう。

それはたぶん、以下の部分に象徴される姿勢。

 その人にはその人の人生があり、家族があり、子どもの頃からの経験があり、そうしたものを全部背負って今その人があるわけですから、その人の「痛み」には、そのすべてが含まれていると考えなければいけません。つまり、その人の幼児期の体験や育った場所や環境、親兄弟や友人との関係など、すべてがその人の痛みに投影されている。そういう「痛み」にこそ、向かい合っていかなければならないわけです。
(p. 42)


その一方で、外氏には現代社会について、
「「痛み」を排除して、快楽や便利さ、快適さの方へどんどん向かって」(p.45)いるとし、

さらに、

……痛み恐怖症になり過ぎて、痛みを避けるあまり、現に痛みをもつ人たちに手を差し伸べることができにくくなっている。痛みに対する配慮というものが欠けている。それは現代社会の病ではないかと思います。
(p.46)
2013.04.07 / Top↑