そのころ、私はなぜかミュウが誘拐された夢を見ており、夢の中でパニックしてわめきまくっていたら、いきなり隣の布団から伸びてきた、ひやっこい手に顔面を襲撃されて飛び起きたり……しておりました。
前からずっと頭にぼんやりあったことが、何度も繰り返される自分の夢のパターンを改めて思い、それが「障害のある子どもを持つ親の原罪意識」という言葉に収束してきた気がする。ブログにそのうち。
・・・
「私は私らしい障害児の親でいい」という本を書いて数年後に、ミュウが文字を読んで理解することができる子だったら、私はこの本は書けなかったのだ、ということに気付いた。そのことの中に考えるべき大事なことがあるような気がする。
親が子どもとの関係における自分の苦しさを語る言葉は、語られた瞬間から、すべて、あのイヤラシイ「積み木崩し」になるのだ、と思う。それに対して何も言えない立場に子どもを置きざりにしたままの、強い者の身勝手な自己正当化。
同時に、介護者が介護者支援を訴えることの難しさの一つが、そういうことの中にあるような気もする。弱い側にいる者を傷つけるのが分かっているなら、そし てその相手を愛しているなら、強い側にいる者は自分の苦しみを語る言葉を飲み込むことを選ぶ。だから同じ立場の「内輪」でしか語られなくなる?
・・・
いろいろあるというのは多少は承知しているのですが、ただ、だから子どもへの支援や介護者支援の必要が否定されるということではないと思うんですよ。すごく不用意なものの言い方なんだろうとは思うんですけど、(つづく)
私としては、介護者支援が充実することによって親や家族が代弁しなくてもすむ方向というのも探れるのでは、ということを考えてみたいです。
・・・
ここの話題(家族は「当事者」に含めるべきではない、か)、上野先生のニーズが一次だとか二次だとかいうこととも関わってくると感じていて、言いたいこといっぱいあるんですけど、微妙な部分が多いので、整理できてからまた絡ませてください。
ありがとうございます。私は「ケアの社会学」まで考えたこともなくて、今のところ「障害については家族は『当事者』ではないけど、介護に関しては『当事者』に含めてほしい」。とはいえ、そこに足を下ろしかねてグルグルも。みなさんの議論から学びつつ考えたいです。
介護故に受診できない難しさとか、独立した患者として見ることの必要を言ってくださっているの、ありがたいです。心理的にも自分のことは後回しになります。昨日の奈良の82歳の母親も車椅子だったとか。
介護者がうつ病になったら、その人は「うつ病の介護者」ではなく「うつ病患者」としてその人自身が上野先生の言う一次ニーズの持ち主とみなされるべきでは、と私は思うのですが、うまく言えないので出直します。
・・・
この点(精神障害者の介護者がうつ病になった場合の主治医は本人と別であるべきか)は、やっぱりケースごとの判断じゃないかと思うのですが、ただし、そこでも、医療と福祉の両方の関係者に、介護される人とする人の間には時に非常に深刻な利益と権利の相克があるんだということをきちんと認識してもらうことは大切か、と。
それから介護される本人のニーズがきちんと満たされることも、大事な介護者支援策だと思います。介護者が病気やけがで一時的に介護できなくなったような緊急時も含めて。
・・・
もうちょっと整理できたら言いたいのは、それぞれ自分のニーズとか権利の保障を求めるべき相手は、介護される・する関係内の相互ではないはずだ、ということなんですけど……もうちょっと考えます。
ニーズもなんだけど、権利に優先順位……というのがずっと引っかかっている。
【関連エントリー】
障害のある子どもの子育ては潜在的な家族の問題を顕在化させる(2008/10/20)
ACからEva Kittay そして「障害児の介護者でもある親」における問題の連環(2010/12/1)
上野千鶴子「ケアの社会学」から考えたこと 1(2011/12/27)
上野千鶴子「ケアの社会学」から考えたこと 2(2011/12/27)
前からずっと頭にぼんやりあったことが、何度も繰り返される自分の夢のパターンを改めて思い、それが「障害のある子どもを持つ親の原罪意識」という言葉に収束してきた気がする。ブログにそのうち。
・・・
「私は私らしい障害児の親でいい」という本を書いて数年後に、ミュウが文字を読んで理解することができる子だったら、私はこの本は書けなかったのだ、ということに気付いた。そのことの中に考えるべき大事なことがあるような気がする。
親が子どもとの関係における自分の苦しさを語る言葉は、語られた瞬間から、すべて、あのイヤラシイ「積み木崩し」になるのだ、と思う。それに対して何も言えない立場に子どもを置きざりにしたままの、強い者の身勝手な自己正当化。
同時に、介護者が介護者支援を訴えることの難しさの一つが、そういうことの中にあるような気もする。弱い側にいる者を傷つけるのが分かっているなら、そし てその相手を愛しているなら、強い側にいる者は自分の苦しみを語る言葉を飲み込むことを選ぶ。だから同じ立場の「内輪」でしか語られなくなる?
・・・
いろいろあるというのは多少は承知しているのですが、ただ、だから子どもへの支援や介護者支援の必要が否定されるということではないと思うんですよ。すごく不用意なものの言い方なんだろうとは思うんですけど、(つづく)
私としては、介護者支援が充実することによって親や家族が代弁しなくてもすむ方向というのも探れるのでは、ということを考えてみたいです。
・・・
ここの話題(家族は「当事者」に含めるべきではない、か)、上野先生のニーズが一次だとか二次だとかいうこととも関わってくると感じていて、言いたいこといっぱいあるんですけど、微妙な部分が多いので、整理できてからまた絡ませてください。
ありがとうございます。私は「ケアの社会学」まで考えたこともなくて、今のところ「障害については家族は『当事者』ではないけど、介護に関しては『当事者』に含めてほしい」。とはいえ、そこに足を下ろしかねてグルグルも。みなさんの議論から学びつつ考えたいです。
介護故に受診できない難しさとか、独立した患者として見ることの必要を言ってくださっているの、ありがたいです。心理的にも自分のことは後回しになります。昨日の奈良の82歳の母親も車椅子だったとか。
介護者がうつ病になったら、その人は「うつ病の介護者」ではなく「うつ病患者」としてその人自身が上野先生の言う一次ニーズの持ち主とみなされるべきでは、と私は思うのですが、うまく言えないので出直します。
・・・
この点(精神障害者の介護者がうつ病になった場合の主治医は本人と別であるべきか)は、やっぱりケースごとの判断じゃないかと思うのですが、ただし、そこでも、医療と福祉の両方の関係者に、介護される人とする人の間には時に非常に深刻な利益と権利の相克があるんだということをきちんと認識してもらうことは大切か、と。
それから介護される本人のニーズがきちんと満たされることも、大事な介護者支援策だと思います。介護者が病気やけがで一時的に介護できなくなったような緊急時も含めて。
・・・
もうちょっと整理できたら言いたいのは、それぞれ自分のニーズとか権利の保障を求めるべき相手は、介護される・する関係内の相互ではないはずだ、ということなんですけど……もうちょっと考えます。
ニーズもなんだけど、権利に優先順位……というのがずっと引っかかっている。
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2012.01.16 / Top↑
ブログでは、ちょっと書きづらかった親として介護者としてのナマの思いが
なぜかツイッターではさらさらと書けるのが不思議です。
たぶん、ブログでは一定の整理を経てまとまったことしかエントリーにできないけれど
ツイッターでは、未整理の断片をそのままつぶやけるからだろうと思います。
そうやって言葉になった断片が繋がって、
自分の中に一つの方向を作ってくれる感じもあって、
今のところ、とても興味深く使っています。
ブログを始めてずっと、私はモノを知らないので
どのエントリーも私自身がものを考えるプロセスの一点だと考えてきましたが、
一つのエントリーを書くためにも一定のプロセスを経ているわけで、
ツイッターはそちらのプロセスのさなかにある
思いや考えの断片を言葉にできるのだろうな、と。
そのままにしておくとツイートの川の中に沈んでしまうので、
主として、私自身のメモとして、折に触れてエントリーに流れごとに拾っておこう、と。
以下、ほとんどは複数の方とのやり取りの中でツイートしたことですが、
相手の方のツイートを無断でコピペするのははばかられるし
私自身が考えたことの繋がりはこちらの発言だけでも見えると思うので
私の側のツイートのみで。
やりとりについて興味がおありの方はツイッターでご確認ください。
アカウントはspitzibaraです。
―――――――――――――――――――――――
私自身は、自分の中に相反する強い慾望があって、どちらにも別の自責が予測され自分でダブルバインド状態になる時が一番苦しい気がします。一方がミュウ以外に関わっていると倍加しますね。
責めてくるのは自分が内在化させてしまっている誰かの「べき」の声だと思う。それから、純粋に「こうしてやりたい」という親としての思いと、してやれない悔しさがすぐに「私さえ頑張ればしてやれたはずだったんでは」と自責に転じる。そんなこんな。私も考えてみます。
そう、そう。ホンネはいつも支離滅裂で、自分の中でも相反していたり矛盾しているので、理路整然と説明するというのが無理なんでしょうね。それに、いい年こいた大人が自分の弱さや痛みを語るのはそれ自体が痛いことだから、ジョークにしたり怒りの力に乗せないと語れない。
本当は誰かを責めたいんだけどできない時に、ぐるっと一回りひねくれた形に転じて自分を責める、という心理ってありますよね。すごく苦しい時にはそれ。すごく消耗的で下降らせん状にグルグルと連鎖する。うつ病になる時の感じにとても近い感じも。自責にもある種の快感が。
・・・
おはようございます。昨日あれから湯船の中で気付き、PS書こうと思ったけど寝られなくなるので止めました。私はいわゆるACなので、それゆえという面があるんだろうとも思います。(起きても覚えていられたじゃないか。まだいけるぞ、自分)
「障害のある子どもの介護者でもある親」という位置に立っている人は同時に抑圧された者であり、抑圧された者の代弁者・保護者でもあり、抑圧する者でもありうる。(つづく)
そのことの内に、ACの問題にもつながり得る親子の関係性の問題や、社会が女性をどのように遇してきたかという問題や、社会が障害児・者をどのように遇してきたかという問題が連環して、巡り巡っているんじゃないのかなぁ……という気がしている。
↑すみません。どうしてもツイートしたくなって、みっともないんだけど自分のブログ・エントリーから引っ張ってきました。http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/62226979.html
・・・
信田氏のアダルトチルドレンの定義は「現在の自分の生きづらさが親との関係に起因すると認めたひと」(「愛しすぎる家族が壊れる時」p.73)。「認めた」というところがキモなんだと思う。(つづく)
ただ「そう思うひと」なのではなくて、自分にとって苦しくてたまらなくて、だからずっと否認してきた事実とついに正面から向き合って、事実を事実として受け止める勇気を持ち、その苦しい事実を「引き受け」て生きていこうとしている人、なのだろうと思う。(つづく)
だから「認める」までが長く苦しいのではあるけれど、そのように「認める」ことは到達点というよりもスタートであり、それならACは誤解されているように「すべてを親のせいにして甘えている人」ではなく、むしろ、
そこから抜け出すためのスタートラインに自覚的に立とうとする人なのだ――。そんなふうに考えて、自分の中でAC概念を整理することができた。。。。と、一応、カミングアウトしたからには確認しておきたかった。
・・・
ACとか共依存などの概念は、「自ら自覚的にそこに立つことを引き受けた」人にとってのみ有効で、当人の外側からそれらを押し付けることは被害者を責めることにしかならない……ということでは? 昨日からのぐるぐるで、一つこんなふうに考えてみた。
【関連エントリー】
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なぜかツイッターではさらさらと書けるのが不思議です。
たぶん、ブログでは一定の整理を経てまとまったことしかエントリーにできないけれど
ツイッターでは、未整理の断片をそのままつぶやけるからだろうと思います。
そうやって言葉になった断片が繋がって、
自分の中に一つの方向を作ってくれる感じもあって、
今のところ、とても興味深く使っています。
ブログを始めてずっと、私はモノを知らないので
どのエントリーも私自身がものを考えるプロセスの一点だと考えてきましたが、
一つのエントリーを書くためにも一定のプロセスを経ているわけで、
ツイッターはそちらのプロセスのさなかにある
思いや考えの断片を言葉にできるのだろうな、と。
そのままにしておくとツイートの川の中に沈んでしまうので、
主として、私自身のメモとして、折に触れてエントリーに流れごとに拾っておこう、と。
以下、ほとんどは複数の方とのやり取りの中でツイートしたことですが、
相手の方のツイートを無断でコピペするのははばかられるし
私自身が考えたことの繋がりはこちらの発言だけでも見えると思うので
私の側のツイートのみで。
やりとりについて興味がおありの方はツイッターでご確認ください。
アカウントはspitzibaraです。
―――――――――――――――――――――――
私自身は、自分の中に相反する強い慾望があって、どちらにも別の自責が予測され自分でダブルバインド状態になる時が一番苦しい気がします。一方がミュウ以外に関わっていると倍加しますね。
責めてくるのは自分が内在化させてしまっている誰かの「べき」の声だと思う。それから、純粋に「こうしてやりたい」という親としての思いと、してやれない悔しさがすぐに「私さえ頑張ればしてやれたはずだったんでは」と自責に転じる。そんなこんな。私も考えてみます。
そう、そう。ホンネはいつも支離滅裂で、自分の中でも相反していたり矛盾しているので、理路整然と説明するというのが無理なんでしょうね。それに、いい年こいた大人が自分の弱さや痛みを語るのはそれ自体が痛いことだから、ジョークにしたり怒りの力に乗せないと語れない。
本当は誰かを責めたいんだけどできない時に、ぐるっと一回りひねくれた形に転じて自分を責める、という心理ってありますよね。すごく苦しい時にはそれ。すごく消耗的で下降らせん状にグルグルと連鎖する。うつ病になる時の感じにとても近い感じも。自責にもある種の快感が。
・・・
おはようございます。昨日あれから湯船の中で気付き、PS書こうと思ったけど寝られなくなるので止めました。私はいわゆるACなので、それゆえという面があるんだろうとも思います。(起きても覚えていられたじゃないか。まだいけるぞ、自分)
「障害のある子どもの介護者でもある親」という位置に立っている人は同時に抑圧された者であり、抑圧された者の代弁者・保護者でもあり、抑圧する者でもありうる。(つづく)
そのことの内に、ACの問題にもつながり得る親子の関係性の問題や、社会が女性をどのように遇してきたかという問題や、社会が障害児・者をどのように遇してきたかという問題が連環して、巡り巡っているんじゃないのかなぁ……という気がしている。
↑すみません。どうしてもツイートしたくなって、みっともないんだけど自分のブログ・エントリーから引っ張ってきました。http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/62226979.html
・・・
信田氏のアダルトチルドレンの定義は「現在の自分の生きづらさが親との関係に起因すると認めたひと」(「愛しすぎる家族が壊れる時」p.73)。「認めた」というところがキモなんだと思う。(つづく)
ただ「そう思うひと」なのではなくて、自分にとって苦しくてたまらなくて、だからずっと否認してきた事実とついに正面から向き合って、事実を事実として受け止める勇気を持ち、その苦しい事実を「引き受け」て生きていこうとしている人、なのだろうと思う。(つづく)
だから「認める」までが長く苦しいのではあるけれど、そのように「認める」ことは到達点というよりもスタートであり、それならACは誤解されているように「すべてを親のせいにして甘えている人」ではなく、むしろ、
そこから抜け出すためのスタートラインに自覚的に立とうとする人なのだ――。そんなふうに考えて、自分の中でAC概念を整理することができた。。。。と、一応、カミングアウトしたからには確認しておきたかった。
・・・
ACとか共依存などの概念は、「自ら自覚的にそこに立つことを引き受けた」人にとってのみ有効で、当人の外側からそれらを押し付けることは被害者を責めることにしかならない……ということでは? 昨日からのぐるぐるで、一つこんなふうに考えてみた。
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ACからEva Kittay そして「障害児の介護者でもある親」における問題の連環(2010/12/1)
2012.01.16 / Top↑
1月9日
前に某シンポで、鷲田清一氏が「かつては町内で介護の支え合いがあった」みたいなことを言われ、春日キスヨ氏が「でも、その支え合いを負わされていたのは女だった」と突っ込んだら、鷲田氏が「でも介護は誰かがしなければならない」と言った。忘れられない。
介護を語り論じる多くの男性が内心、介護は自分以外の「誰か」がするものだと思って語り論じている。本当のところ、介護を論じさせてもらえるだけの「業 績」があるなら、それは子どもの主たる養育者であることも誰かの主たる介護者であることも免れてきた人である確率が高い。男性であれ女性であれ。
某シンポの開始前、パネラーの一人がもう一人に「母親が倒れてね。介護については専門家のつもりだったけど、自分のことになるとこんなに大変だとは思わなかったよ。家内がノイローゼ状態なんだ」と話していた。それでも、その人自身は飛行機でやって来てシンポで介護を論じる。その大変さについて。
・・・
ミュウのオムツ交換も着替えもトランスファーも歯磨きも寝がえりも、父と母の4つの手によって、まるで「2つの身体と4つの手を持った1人の人」のよう に、なめらかに流れていく。ミュウ自身の呼吸がその流れに沿って、3人の無言のリズムが刻まれていく。それが我が家の暮らしのリズム。
一人の人のように働く4本の手に身をゆだね呼吸を合わせつつ、ミュウも気が向くと腰を上げて協力したり(タイミングちゃんと計ってる)、シャツやオムツを 取って手わたしてくれる。気が向くと、渡すと見せて、あらぬ方に放り投げては喜ぶ。「こら、ミュウ」「ゲヒヒヒッ」日常のリズムが”ぴょん”。
3つの息と4つの手が一つに合わさって、我が家の日常が営まれていく。そうと意識されることもないほど、なめらかに。それに気付いたのは、そんなことを24年を超えて繰り返してきて、なぜか今日。
でもね。この上ないコーディネーションを見せてよく働く「2つの身体と4つの手」も、3つの身体のどこかに非日常が起こるとね……。それに、なぜだろう、 特にミュウの体調が良くない週末は、生活そのものも介護もいつも通りに流れたのに、4本の手を持つ人の身体の疲れがものすごく酷い。
・・・
私はそういうところに足を置き、そういうところからモノを見て、モノを考えようとする時、正直言って、「実践の倫理」がどっちに向いていようと知ったことじゃない、という思いはある。
・・・
介護を介したミュウと母親との密接なつながりの中には、ちょっと人目に触れるのを憚るようなやりとりの部分がある。ちょっと表現しづらくて誤解を招くとま ずいけど、たぶん夫婦のセックスのような何か、とてもプライベートで隠微なもの。性的なものがあるわけではなく、その親密さの性格が。
父親とミュウの間にもそれに似たものはあるような気がする。全面的に身をゆだねている者とゆだねられている者の親密さで起こることなのか、親子だからなの かは分からない。ただ全面的に身体をゆだねゆだねられることそのものに、なにか豊饒なものがある感じはある。危うさでもあるんだろうけど。
1月10日
昨夜、眠りに落ちる寸前に気になったんだけれど、ミュウの介護についての昨夜の一連のツイッター、ずっと在宅介護している人や一人で介護を担っている人には不快だったかもしれない。
介護に限らず、どの問題でもそうだと思うけど「いま現にそこで一番苦しんでいる人」の声は世の中には出回らない。そういう人には世の中に向かって声を上げ るだけの余裕なんかないから。そして世の中で一番大きな声を張り上げている人たちには、そういう人の存在への想像力も興味もない。
前に某シンポで、鷲田清一氏が「かつては町内で介護の支え合いがあった」みたいなことを言われ、春日キスヨ氏が「でも、その支え合いを負わされていたのは女だった」と突っ込んだら、鷲田氏が「でも介護は誰かがしなければならない」と言った。忘れられない。
介護を語り論じる多くの男性が内心、介護は自分以外の「誰か」がするものだと思って語り論じている。本当のところ、介護を論じさせてもらえるだけの「業 績」があるなら、それは子どもの主たる養育者であることも誰かの主たる介護者であることも免れてきた人である確率が高い。男性であれ女性であれ。
某シンポの開始前、パネラーの一人がもう一人に「母親が倒れてね。介護については専門家のつもりだったけど、自分のことになるとこんなに大変だとは思わなかったよ。家内がノイローゼ状態なんだ」と話していた。それでも、その人自身は飛行機でやって来てシンポで介護を論じる。その大変さについて。
・・・
ミュウのオムツ交換も着替えもトランスファーも歯磨きも寝がえりも、父と母の4つの手によって、まるで「2つの身体と4つの手を持った1人の人」のよう に、なめらかに流れていく。ミュウ自身の呼吸がその流れに沿って、3人の無言のリズムが刻まれていく。それが我が家の暮らしのリズム。
一人の人のように働く4本の手に身をゆだね呼吸を合わせつつ、ミュウも気が向くと腰を上げて協力したり(タイミングちゃんと計ってる)、シャツやオムツを 取って手わたしてくれる。気が向くと、渡すと見せて、あらぬ方に放り投げては喜ぶ。「こら、ミュウ」「ゲヒヒヒッ」日常のリズムが”ぴょん”。
3つの息と4つの手が一つに合わさって、我が家の日常が営まれていく。そうと意識されることもないほど、なめらかに。それに気付いたのは、そんなことを24年を超えて繰り返してきて、なぜか今日。
でもね。この上ないコーディネーションを見せてよく働く「2つの身体と4つの手」も、3つの身体のどこかに非日常が起こるとね……。それに、なぜだろう、 特にミュウの体調が良くない週末は、生活そのものも介護もいつも通りに流れたのに、4本の手を持つ人の身体の疲れがものすごく酷い。
・・・
私はそういうところに足を置き、そういうところからモノを見て、モノを考えようとする時、正直言って、「実践の倫理」がどっちに向いていようと知ったことじゃない、という思いはある。
・・・
介護を介したミュウと母親との密接なつながりの中には、ちょっと人目に触れるのを憚るようなやりとりの部分がある。ちょっと表現しづらくて誤解を招くとま ずいけど、たぶん夫婦のセックスのような何か、とてもプライベートで隠微なもの。性的なものがあるわけではなく、その親密さの性格が。
父親とミュウの間にもそれに似たものはあるような気がする。全面的に身をゆだねている者とゆだねられている者の親密さで起こることなのか、親子だからなの かは分からない。ただ全面的に身体をゆだねゆだねられることそのものに、なにか豊饒なものがある感じはある。危うさでもあるんだろうけど。
1月10日
昨夜、眠りに落ちる寸前に気になったんだけれど、ミュウの介護についての昨夜の一連のツイッター、ずっと在宅介護している人や一人で介護を担っている人には不快だったかもしれない。
介護に限らず、どの問題でもそうだと思うけど「いま現にそこで一番苦しんでいる人」の声は世の中には出回らない。そういう人には世の中に向かって声を上げ るだけの余裕なんかないから。そして世の中で一番大きな声を張り上げている人たちには、そういう人の存在への想像力も興味もない。
2012.01.16 / Top↑
シアトルの病院が人工透析の対象患者の選別のために設置した「死の委員会」から50年。Thadeus Popeはこれが現在の病院内倫理委のルーツだと言っている。
http://medicalfutility.blogspot.com/2012/01/50th-anniversary-of-death-panel-1962.html
【上記委員会への言及のあるエントリー】
「障害者は健常者の8掛け、6掛け」と生存年数割引を決めるQALY・DALY(2009/9/8)
「功利主義は取らない」……南アフリカの人工透析患者選別委員会の模索(2010/12/17)
日本。車いす拒否の帝産湖南交通 運輸局が文書警告へ。
http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20120113000065
日本。きょうだい支援を広める会。
http://hiromeru.kt.fc2.com/area.html
英国で3万人の子供(8-16歳)を調査したところ、10人に1人がハッピーでない。最も影響が大きいのは家族関係。それから物質的な問題。
http://www.guardian.co.uk/uk/2012/jan/12/unhappy-childhoods-childrens-society-low?CMP=EMCNEWEML1355
豪で今年導入されることになっている電子カルテ、13歳以上は親のアクセスを拒否することができるらしい。
http://www.canberratimes.com.au/news/national/national/general/teens-to-control-own-ehealth-records/2419838.aspx?src=enews
インドで1年間ポリオの発症ゼロだったとか。ゲイツ財団の誉れ、という扱いの記事がここしばらくあちこちから。
http://www.bloomberg.com/news/2012-01-12/bill-gates-push-to-reach-polio-free-world-gets-boost-as-india-foils-virus.html
ケアホームでの投薬ミス、日常茶飯、と英国の調査。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/240318.php
インターネット中毒と診断された若者と中毒になっていない若者の脳をスキャンで比べてみると、白質の密度と組成が異なっていた、と中国の研究者。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/240289.php
http://medicalfutility.blogspot.com/2012/01/50th-anniversary-of-death-panel-1962.html
【上記委員会への言及のあるエントリー】
「障害者は健常者の8掛け、6掛け」と生存年数割引を決めるQALY・DALY(2009/9/8)
「功利主義は取らない」……南アフリカの人工透析患者選別委員会の模索(2010/12/17)
日本。車いす拒否の帝産湖南交通 運輸局が文書警告へ。
http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20120113000065
日本。きょうだい支援を広める会。
http://hiromeru.kt.fc2.com/area.html
英国で3万人の子供(8-16歳)を調査したところ、10人に1人がハッピーでない。最も影響が大きいのは家族関係。それから物質的な問題。
http://www.guardian.co.uk/uk/2012/jan/12/unhappy-childhoods-childrens-society-low?CMP=EMCNEWEML1355
豪で今年導入されることになっている電子カルテ、13歳以上は親のアクセスを拒否することができるらしい。
http://www.canberratimes.com.au/news/national/national/general/teens-to-control-own-ehealth-records/2419838.aspx?src=enews
インドで1年間ポリオの発症ゼロだったとか。ゲイツ財団の誉れ、という扱いの記事がここしばらくあちこちから。
http://www.bloomberg.com/news/2012-01-12/bill-gates-push-to-reach-polio-free-world-gets-boost-as-india-foils-virus.html
ケアホームでの投薬ミス、日常茶飯、と英国の調査。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/240318.php
インターネット中毒と診断された若者と中毒になっていない若者の脳をスキャンで比べてみると、白質の密度と組成が異なっていた、と中国の研究者。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/240289.php
2012.01.16 / Top↑
いつか“無益な治療”論はここへ来るに違いないという予感があって、
私はずっと恐れていたんだけれど、
来た。ついに―――。
アイルランドの高等裁判所で重症の脳性まひ児に蘇生無用の判決が出ている。
判決文そのものを読まないと何とも言えないところもあるものの、
この記事から受ける印象では、これまでの“無益な治療”論からさらに踏み込んで
明らかに意識があり両親を認識し関わりに喜びを感じていると思える重症児に
救命する必要はない、との判断が下されているように思える。
当該の6歳男児の状態について書かれているのは、
4年前に溺れて重症の脳性まひとなった。目が見えず、排泄も非自立。
全介助で回復の見込みはない。経管栄養。
3年前から子どものための施設で専門的なケアを受けながら暮らしている。
(親権が裁判所にあるとされている事情は不明。もしかしたら施設入所だから?)
栄養チューブが詰まったり感染症などで、
2010年10月から7回、救急病院に入院した。
コミュニケーションはとれないが、苦痛は感じる。
両親と接すると安らぐように見える。
で、なぜか以下のように、病名が書かれていないのが一番気になるのだけれど、
The boy is now chronically ill and may deteriorate at any time, when a decision would have to be made whether to resuscitate him via invasive ventilation.
この先に書かれていることと共に顛末をまとめると、
慢性病にかかり、いつ悪化するか分からないが、
悪化した時には気管切開をして呼吸器をつけるかどうかの判断を迫られるので、
蘇生は本人の苦痛となり、救命できたとしても苦しみを引き延ばすだけだから
本人の利益にならない救命はしないでもよいとの許可を求めて病院側が提訴した。
親権はなくとも意向は尊重されるべき両親は、
ネットで調べて幹細胞治療に賭けてみたいと希望しているが
アイルランドでも米国でも(何で米国が出てくるのか私には?)違法だし、
ドミニカ共和国かメキシコで3万ドルでやってもいいという医師はいるが
本人が遠くまで行ける状態でもなく、担当医もやめた方がいいと言っているので、
これについては却下。
医師らのエビデンスは一致して
蘇生は本人の最善の利益にならない、としている。
この後「どういうこっちゃら?」と首をかしげたくなる不思議な文章が続いているので
ここからは、ざっとですが全訳してみます。
だから、蘇生はしなくてもいい、というのが結論。
Hospital allowed not to resuscitate disabled child
Irish Times, January 12, 2012
一体なに? このクネクネした論理は――?
すごく胡散臭い匂いが漂っている感じがある。
生理現象が「病気」にされ、ありもしない「健康リスク」がでっち上げられていた、
そして医師のいうことだけを根拠に障害のある子どもからの子宮摘出を認めた、
あの Angela事件の判決文と同じような匂いが。
Angela事件の判決文は、Ashley論文(06)と同じ戦略で書かれている 1(2010/3/7)
Angela事件の判決文は、Ashley論文(06)と同じ戦略で書かれている 2(2010/3/17)
パパパッと頭に浮かんだ疑問は、
① (それぞれは治療の無益性とは無関係なのに)障害の重さを強調する細部を並べながら
なぜ慢性病の病名や病状が具体的に提示されていないのか。
それは判決文がそういう書き方になっているのか、記事の書き方なのか。
② 「苦しみを引き延ばすだけ」とは慢性病の苦しみを言っているのか
それとも重症脳性マヒの状態を言っているのか?
しかし慢性病の苦しみを言うなら現在も患っているわけだから
ある程度は管理可能なことのような気がするので、
「苦しみを引き延ばす」は実は「重い脳性まひで生きるという苦しみを引き延ばす」なのでは?
③ 栄養チューブの詰まりくらい経管の子どもならあるし特別なことじゃないはず。
そういうのまでカウントして「7回も入院した」と強調する意図は?
④ 本人に判断力があったらどういう選択をしていたかを検討するべきだというなら
本人利益のみを代理する者を置き、敵対的審理を行うなど、
一定の手順を踏んで、その検討が行われなければならないはず。
(ILの不妊手術のケースの基準を参照 ⇒ IL不妊手術却下の上訴裁判所判決文(2008/5/1) )
⑤ その審理の手続きを経ずに
「どの状態が堪えがたいかは裁判所の勝手で決めるわけにはいかず、
最善の利益は”主観的に”(つまり裁判所ではなく本人視点で)決めるもの。
本人視点とは、ここでは医師らによる医学的エビデンスであり、
救命は本人の利益にはならないと医師が言うなら、
それが”主観的な”本人の最善の利益……
私にはそんなふうに言っているように読めるのだけど、
もしもそんな理屈が通るなら、最初から裁判所の判断はいらない。
「医師が判断する通りでいい」と言っているだけなのだから。
裁判所の審理は、医師のその判断を検証しなければならないのでは?
⑥ 特に最後の2段落分は
「本来はできないことだけど、これは重症児だから例外」と言っているように読める。
それって、アシュリー療法の正当化の論理そのもの――。
そして、私の最大の疑問は、
蘇生無用の判断の根拠は、いったい慢性病なのか脳性まひなのか?
だって、この男の子と同じような重症の脳性マヒの子どもたちは
世の中にゴロゴロしているんですけど??
この判決、もしかして
「重症脳性まひ児が病気で重篤な状態になった場合には救命しなくてもよい」
というところへの”無益な治療”論の「解釈拡大」への布石になるのでは―――?
私はずっと恐れていたんだけれど、
来た。ついに―――。
アイルランドの高等裁判所で重症の脳性まひ児に蘇生無用の判決が出ている。
判決文そのものを読まないと何とも言えないところもあるものの、
この記事から受ける印象では、これまでの“無益な治療”論からさらに踏み込んで
明らかに意識があり両親を認識し関わりに喜びを感じていると思える重症児に
救命する必要はない、との判断が下されているように思える。
当該の6歳男児の状態について書かれているのは、
4年前に溺れて重症の脳性まひとなった。目が見えず、排泄も非自立。
全介助で回復の見込みはない。経管栄養。
3年前から子どものための施設で専門的なケアを受けながら暮らしている。
(親権が裁判所にあるとされている事情は不明。もしかしたら施設入所だから?)
栄養チューブが詰まったり感染症などで、
2010年10月から7回、救急病院に入院した。
コミュニケーションはとれないが、苦痛は感じる。
両親と接すると安らぐように見える。
で、なぜか以下のように、病名が書かれていないのが一番気になるのだけれど、
The boy is now chronically ill and may deteriorate at any time, when a decision would have to be made whether to resuscitate him via invasive ventilation.
この先に書かれていることと共に顛末をまとめると、
慢性病にかかり、いつ悪化するか分からないが、
悪化した時には気管切開をして呼吸器をつけるかどうかの判断を迫られるので、
蘇生は本人の苦痛となり、救命できたとしても苦しみを引き延ばすだけだから
本人の利益にならない救命はしないでもよいとの許可を求めて病院側が提訴した。
親権はなくとも意向は尊重されるべき両親は、
ネットで調べて幹細胞治療に賭けてみたいと希望しているが
アイルランドでも米国でも(何で米国が出てくるのか私には?)違法だし、
ドミニカ共和国かメキシコで3万ドルでやってもいいという医師はいるが
本人が遠くまで行ける状態でもなく、担当医もやめた方がいいと言っているので、
これについては却下。
医師らのエビデンスは一致して
蘇生は本人の最善の利益にならない、としている。
この後「どういうこっちゃら?」と首をかしげたくなる不思議な文章が続いているので
ここからは、ざっとですが全訳してみます。
親権を持ち決定権を持つ者として、
救命の差し控えについて考えるべき最も大事な検討事項は本人の最善の利益ではあるが、
裁判所としてはあらゆることを考慮しなければならない。
ここで問うべき適切な問題とは、
本人が健全な判断力を有していたとしたら、どういう選択をするだろうか、である。
本人がどのようなQOLであれば耐え難いとするかについて
裁判所の考えを押し付けることはすべきではなく、
最善の利益は主観的に決めるべきである。
生命の神聖の重要性を考えると
救命治療は認めるものだとの強い前提がある。
しかし、その前提から外れ、延命手段を取らなくてもよいと
裁判所が認める例外的状況というものもある。
裁判所は「死を加速させたり生命を終わられる行為を許可することはできない」。
このケースでの医学的エビデンスでは、
挿管や呼吸器装着は本人のためにならず、苦痛と不快になり、無益で、
本人への長期的利益がないまま苦しみを引き延ばすこととなる。
だから、蘇生はしなくてもいい、というのが結論。
Hospital allowed not to resuscitate disabled child
Irish Times, January 12, 2012
一体なに? このクネクネした論理は――?
すごく胡散臭い匂いが漂っている感じがある。
生理現象が「病気」にされ、ありもしない「健康リスク」がでっち上げられていた、
そして医師のいうことだけを根拠に障害のある子どもからの子宮摘出を認めた、
あの Angela事件の判決文と同じような匂いが。
Angela事件の判決文は、Ashley論文(06)と同じ戦略で書かれている 1(2010/3/7)
Angela事件の判決文は、Ashley論文(06)と同じ戦略で書かれている 2(2010/3/17)
パパパッと頭に浮かんだ疑問は、
① (それぞれは治療の無益性とは無関係なのに)障害の重さを強調する細部を並べながら
なぜ慢性病の病名や病状が具体的に提示されていないのか。
それは判決文がそういう書き方になっているのか、記事の書き方なのか。
② 「苦しみを引き延ばすだけ」とは慢性病の苦しみを言っているのか
それとも重症脳性マヒの状態を言っているのか?
しかし慢性病の苦しみを言うなら現在も患っているわけだから
ある程度は管理可能なことのような気がするので、
「苦しみを引き延ばす」は実は「重い脳性まひで生きるという苦しみを引き延ばす」なのでは?
③ 栄養チューブの詰まりくらい経管の子どもならあるし特別なことじゃないはず。
そういうのまでカウントして「7回も入院した」と強調する意図は?
④ 本人に判断力があったらどういう選択をしていたかを検討するべきだというなら
本人利益のみを代理する者を置き、敵対的審理を行うなど、
一定の手順を踏んで、その検討が行われなければならないはず。
(ILの不妊手術のケースの基準を参照 ⇒ IL不妊手術却下の上訴裁判所判決文(2008/5/1) )
⑤ その審理の手続きを経ずに
「どの状態が堪えがたいかは裁判所の勝手で決めるわけにはいかず、
最善の利益は”主観的に”(つまり裁判所ではなく本人視点で)決めるもの。
本人視点とは、ここでは医師らによる医学的エビデンスであり、
救命は本人の利益にはならないと医師が言うなら、
それが”主観的な”本人の最善の利益……
私にはそんなふうに言っているように読めるのだけど、
もしもそんな理屈が通るなら、最初から裁判所の判断はいらない。
「医師が判断する通りでいい」と言っているだけなのだから。
裁判所の審理は、医師のその判断を検証しなければならないのでは?
⑥ 特に最後の2段落分は
「本来はできないことだけど、これは重症児だから例外」と言っているように読める。
それって、アシュリー療法の正当化の論理そのもの――。
そして、私の最大の疑問は、
蘇生無用の判断の根拠は、いったい慢性病なのか脳性まひなのか?
だって、この男の子と同じような重症の脳性マヒの子どもたちは
世の中にゴロゴロしているんですけど??
この判決、もしかして
「重症脳性まひ児が病気で重篤な状態になった場合には救命しなくてもよい」
というところへの”無益な治療”論の「解釈拡大」への布石になるのでは―――?
2012.01.16 / Top↑
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