昨夜、介護者支援についてツイッターであれこれ書いていたところ、
ある方のツイッターで以下のニュースが流れました。
重度障害の62歳長女を絞殺容疑 85歳母「介護に疲れ…」産経新聞 1月11日
タイトルを見た瞬間に胸が詰まりました。
それまでのツイートの流れがどこかへ霧散してしまい、
茫然とこのタイトルと向き合って、このタイトルに手を合わせるような気持のまま
しばらく何も言葉にならず、言葉にならない思いばかりが次々に
涙になってあふれてくるように思えました。
それから、ぼんやりと頭に浮かんだままをツイート画面に打ちました。
「62年間の介護生活って、どんな人生だったんだろう」
そう書いた瞬間に、ある有名な言葉が頭にゆっくりと浮かびあがってきて、
けれど、はっきりと意識に浮かびあがる寸前に、
後ろから別の言葉がその言葉を追い抜いて
私のところへやってきました。
母に殺させるな――。
そう書いたとたん、
涙だけでなく言葉もあふれて止まらなくなりました。
それ以前に書いていた部分で既にしてちょっと感傷・自責的になっていたところだったので、
いくぶん自己陶酔的で申し訳ないのですが、まんま、以下に――。
62年間の介護生活って、どんな人生だったんだろう。。。母に殺させるな。
障害のある子どもの親(特に母親)は自分の苦しさを語る言葉を奪われてきた。「しんどいけど可愛い」しか言わせてもらえず、結局「可愛いんだからしんどく はない」ことにされてきた。だから「可愛いから」「この子のために」を武器に、子どもの権利をいろんな形で踏みにじってきたのだろうと思う。
私も施設に入れる決断をすることでミュウの権利を侵害し続けているのだと思う。少なくともそれを「この子のために」とごまかすことはしたくない。私自身がそうでしか生き伸びられなかったから、私はミュウを施設に入れました。
そろそろ「可愛いけどしんどい」という順番でモノを言い始めたいと「私は私らしい障害児の親でいい」に書いて、何年も経った。それでも親が自分のしんどさ を語ることは難しい。もしも「介護者支援」とか「介護者の権利」という言葉が輸入されることによって、誰かがそれを言えるようになるのなら、と
私自身がその言葉や周辺の情報を流し、自分自身の痛みを語ることで、誰かが「可愛いけどしんどい」と言えるようになり、世の中の人が「しんどい」は決して「可愛くない」と同じじゃないと、分かってくれるなら。私の「介護者支援」の思いは、それだけ。
ちなみに拙著「私は私らしい障害児の親でいい」(1998)の当該個所は以下です。
……日本の社会は、私たちに『美しい姿』を求めていると思うのね。聖母のような母。子どもの障害がどんなに重くても、どんなに負担が大きかろうと、常に笑顔で明るく強く、弱音を吐かずに頑張るお母さん。父親だろうと母親だろうと、生身で、そんな絵にかいたような聖母ができる人間なんて、本当はいないのに。私たち、『しんどいけど、可愛い」という順番だけでものを言い、世間の人たちに媚びるのを、もうそろそろ返上してもいいんじゃないかと思うんだ。『可愛いけど、しんどい』という順番でものを言いはじめてもいいんじゃないか。だって私たちは、世の中の人たちに、美しい姿だね、感動したよ、勇気をもらいましたよ、と誉めてもらうために生きているんじゃない。誉めてもらうんじゃなくて、世の中の方に変わってもらわなくちゃ困る。
(p.130-131)
介護者支援に関連するエントリーは「子育て・介護・医療」の書庫に多数ありますが、
特に去年1年間に紹介した介護者支援情報は、以下のエントリーに取りまとめております ↓
2011年のまとめ:Spitzibaraの1年
ある方のツイッターで以下のニュースが流れました。
重度障害の62歳長女を絞殺容疑 85歳母「介護に疲れ…」産経新聞 1月11日
タイトルを見た瞬間に胸が詰まりました。
それまでのツイートの流れがどこかへ霧散してしまい、
茫然とこのタイトルと向き合って、このタイトルに手を合わせるような気持のまま
しばらく何も言葉にならず、言葉にならない思いばかりが次々に
涙になってあふれてくるように思えました。
それから、ぼんやりと頭に浮かんだままをツイート画面に打ちました。
「62年間の介護生活って、どんな人生だったんだろう」
そう書いた瞬間に、ある有名な言葉が頭にゆっくりと浮かびあがってきて、
けれど、はっきりと意識に浮かびあがる寸前に、
後ろから別の言葉がその言葉を追い抜いて
私のところへやってきました。
母に殺させるな――。
そう書いたとたん、
涙だけでなく言葉もあふれて止まらなくなりました。
それ以前に書いていた部分で既にしてちょっと感傷・自責的になっていたところだったので、
いくぶん自己陶酔的で申し訳ないのですが、まんま、以下に――。
62年間の介護生活って、どんな人生だったんだろう。。。母に殺させるな。
障害のある子どもの親(特に母親)は自分の苦しさを語る言葉を奪われてきた。「しんどいけど可愛い」しか言わせてもらえず、結局「可愛いんだからしんどく はない」ことにされてきた。だから「可愛いから」「この子のために」を武器に、子どもの権利をいろんな形で踏みにじってきたのだろうと思う。
私も施設に入れる決断をすることでミュウの権利を侵害し続けているのだと思う。少なくともそれを「この子のために」とごまかすことはしたくない。私自身がそうでしか生き伸びられなかったから、私はミュウを施設に入れました。
そろそろ「可愛いけどしんどい」という順番でモノを言い始めたいと「私は私らしい障害児の親でいい」に書いて、何年も経った。それでも親が自分のしんどさ を語ることは難しい。もしも「介護者支援」とか「介護者の権利」という言葉が輸入されることによって、誰かがそれを言えるようになるのなら、と
私自身がその言葉や周辺の情報を流し、自分自身の痛みを語ることで、誰かが「可愛いけどしんどい」と言えるようになり、世の中の人が「しんどい」は決して「可愛くない」と同じじゃないと、分かってくれるなら。私の「介護者支援」の思いは、それだけ。
ちなみに拙著「私は私らしい障害児の親でいい」(1998)の当該個所は以下です。
……日本の社会は、私たちに『美しい姿』を求めていると思うのね。聖母のような母。子どもの障害がどんなに重くても、どんなに負担が大きかろうと、常に笑顔で明るく強く、弱音を吐かずに頑張るお母さん。父親だろうと母親だろうと、生身で、そんな絵にかいたような聖母ができる人間なんて、本当はいないのに。私たち、『しんどいけど、可愛い」という順番だけでものを言い、世間の人たちに媚びるのを、もうそろそろ返上してもいいんじゃないかと思うんだ。『可愛いけど、しんどい』という順番でものを言いはじめてもいいんじゃないか。だって私たちは、世の中の人たちに、美しい姿だね、感動したよ、勇気をもらいましたよ、と誉めてもらうために生きているんじゃない。誉めてもらうんじゃなくて、世の中の方に変わってもらわなくちゃ困る。
(p.130-131)
介護者支援に関連するエントリーは「子育て・介護・医療」の書庫に多数ありますが、
特に去年1年間に紹介した介護者支援情報は、以下のエントリーに取りまとめております ↓
2011年のまとめ:Spitzibaraの1年
2012.01.13 / Top↑
学校の教室で、運動場で、食堂で、通学バスの中で、子どもというものは、
ふざける、ケンカする、先生にしょーもない反抗もする。大声でさわぐ。
タバコは持ちこむ。別れる別れないで牛乳ぶっかけあう。
授業中に紙飛行機も飛ばす。ヘ―ンな恰好で来るヤツもいる。
遅刻なんかザラのはず。
でも、これみんな、
この記事に書いてあった「逮捕」の対象となった行為――。
米国テキサス州などの子どもたちが、こうした学校や学校の敷地周辺での
子どもなら当たり前にやるだろう行為を「授業妨害」などの“罪”に問われ
逮捕されている、という。
逮捕するのは、銃とスタンガンを携行し学校に常駐している警察官。
テキサス州やその他多くの州で
何百もの学校が“スクール・ポリス”を常駐させ、
警察には“スクール・ポリス”の部署がある。
任務は keep order。秩序を守ること。
ここ20年くらいで急増したという。
誰が呼んだか「学校―刑務所パイプライン」。
「クラスC軽犯罪」は立派に犯罪なので
その切符を切られた子どもたちは裁判所に出頭しなければならない。
そこで罰金や地域での奉仕活動を科せられたり、収監される場合もある。
もちろん記録にも残り、後々の進学や就職にも影響する。
時には500ドルにも上ることがある罰金は、貧困層の親には払えない。
だから払わずに放っておくことが多いけれど、すると
子どもが17歳になった時に召喚状が届く。
なにしろ立派に犯罪なのだから。
米国の軒並み学費がバカ高い大学に行くために
みんながそうするように奨学金を申請すると
そんなささやかな逮捕歴が見つかって却下される。
テキサス州で2010年にこの切符を切られて上記の処罰を受けた子どもは
のべ30万人に迫り、中には6歳の子も。こんなもんじゃないという説も。
約30%はドラッグまたは飲酒がらみのチケットだというが
「武器の使用」理由が20%というスクール・ディストリクトもある。
その多くで「武器」とは「げんこつ」の意。
それに何より、一度逮捕されると、「問題児」として目をつけられ、
その影響から、昔なら教師が叱ったり親に電話すれば終わっていた程度のことが
将来監獄で過ごす人生へと子どもを方向づけてしまうこともある。
記事によると、1980年代にドラッグ絡みの犯罪が急増し、
その対策として「ゼロ・トラレンス」が言われるようになった。
90年代に入って青少年の犯罪の急増が社会問題化したところに
例のコロンバイン高校の乱射事件が起き、学校の安全を求める声の高まりなどで
ドラッグ取り締まりの「ゼロ・トラレンス」姿勢が学校に広がっていった、という背景。
しかし、切符を切られた子ども達と日々向かい合う判事その人まで
「こんなのは大人がやったら違反にもならない行為なのに、問題視され始めている。
学校が少しずつ構内のことで警察やセキュリティに頼り始めている感じはしていたけれど、
それがいきなり過剰になって、警察によって子どもの日常行動をコントロールさせている」。
こうした法律のあり方を懸念する声はもちろんあって、
連邦政府も、やめるべきだと言っている。
10歳から犯罪責任があるテキサス州では去年、
10歳と11歳には教室内での行為によって切符を切らないよう条例を改正した。
それ以上の改正を望んだ議員らもあったが、抵抗に会って実現しなかった。
教師の中にも、スクール・ポリスの存在を歓迎する声は意外に多い。
昔の学校とは違って、ふてぶてしく、やりたい放題の子どもばかり。
親にも子どもがコントロールできない。授業中だって学ぶ気はなく妨害したいだけ。
そういう子どもの管理にエネルギーを使わせられて教えることに集中できないから
教えることに集中できるようにポリスがいる。
いかつい生徒が反抗的な態度で迫ってきたら教師だって身の危険を感じる。
実際、教室で撃たれて死んだ教師もいる。
身の心配をせずに教師が授業に集中できるにもポリスは必要。
そりゃ、やり過ぎの面もあるから、
警官にはもうちょっと常識的に、と望みたいところはあるけど、
警官はそういうのが仕事だからね。ある程度はやむを得ないというか……などなど。
ここまで、全部、現役または引退後の教師の声だから驚く。
さらに警察のスクール・ポリス部局の責任者の言うことがすごくて、
「逮捕の基準は、まぁ、それぞれの警官次第。
人のすることだから、たまには間違いも起こる
裁判官だって5人が同じ事件を審判すれば5通りの判決を出す。
医者だって一人の患者を5人が診断すれば5通りになる」
(判決も診断も5通りあるようじゃいかんと思うんですけど)
一番気になるのは、知的障害・発達障害のある子ども達も
同じゼロ・トラレンス姿勢で逮捕されているのでは、との懸念。
具体的な事件を記事から拾ってみると、
Sara Bustamantsさん(12)
ADHDと双極性障害を診断されており、肥満を気にしている。
「私って変だから、みんなに嫌われている」。
みんなに酷いことを言われ苛められるから自分の身体に香水をかけてみた。
すると臭いと言って周りが騒いだため、教師がポリスを呼び、逮捕。
その後、障害者団体の支援で訴訟を起こし、起訴は取り下げられたが
まず自分で叱ろうとせずポリスを呼んで逮捕させた教師に、母親は
教師が子どもたちへの指導責任を放棄していると憤っている。
匿名の18歳の青年。
ADHDと診断されている。
12歳の時に授業中にかっとなり机をひっくり返した。
攻撃的行為で有罪となり、若年者の監獄に送られる。
出るためには一定の教育目標と行動目標をクリアしなければならず、
障害のために彼にとっては、それは無理。
こんなふうに障害のある子どもたちの多くが
ムショ送りにされ、そのまま出てくることができなくなっている。
IQが70を下回る匿名の少年。事件当時16歳。
廊下で警官の言うことを理解しなかったため、催涙ガスをかけられた。
目の痛みのために振り回した腕が警官に当たり、公務執行妨害で逮捕され、
裁判がこれから行われることになっている。懲役刑の可能性も。
障害とは無関係ながら、フロリダ州の学校では
ジョン・ケリー上院議員に失礼な質問をし、制止されても止めなかった生徒が
ポリスにスタンガンを使われている。
The US schools with their own police
The Guardian, January 9, 2012
絶句したけれど、考えてみれば、
警察権力による子どものコントロールよりも以前に
薬による子どものコントロールは始まっていた。
「年齢相応の子どもの行動が病気扱いされている」との指摘と関連エントリーのリンク一覧こちら ↓
「製薬会社に踊らされて子どもの問題行動に薬飲ませ過ぎ」と英国の教育心理学者(2011/1/18)
テキサスにはそういうことが起きやすい文化的な土壌もあるような気も。真っ先に思い出したのが、これ ↓
米国には体罰を禁止していない州が20もある(2009/8/11)
次に頭に浮かんだのが、テキサスといえば米国で最もラディカルな“無益な治療”法 ↓
生命維持の中止まで免罪する「無益な治療法」はTXのみ(2011/1/21)
その最も有名な訴訟がゴンザレス事件 ↓
テキサスの“無益なケア”法 Emilio Gonzales事件(2007/8/28)
ゴンザレス事件の裏話
生命倫理カンファレンス(Fost講演2)
TruogのGonzales事件批判
こういう現象の根っこにあるものに関して考がえてみたエントリーは、これ ↓
「子どもがひとりで遊べない国、アメリカ」から「メディカル・コントロールの世界」へ(2011/12/20)
「子どもがひとりで遊べない」世界から、人が「能力」と「機能」の集合体でしかない未来へ?(2011/12/21)
それから「子どもがひとりで遊べない」の著者の谷口さんと
10日の補遺のコメント欄でやりとりしたことも関係があると思われ、↓
2012年1月10日の補遺(2
ふざける、ケンカする、先生にしょーもない反抗もする。大声でさわぐ。
タバコは持ちこむ。別れる別れないで牛乳ぶっかけあう。
授業中に紙飛行機も飛ばす。ヘ―ンな恰好で来るヤツもいる。
遅刻なんかザラのはず。
でも、これみんな、
この記事に書いてあった「逮捕」の対象となった行為――。
米国テキサス州などの子どもたちが、こうした学校や学校の敷地周辺での
子どもなら当たり前にやるだろう行為を「授業妨害」などの“罪”に問われ
逮捕されている、という。
逮捕するのは、銃とスタンガンを携行し学校に常駐している警察官。
テキサス州やその他多くの州で
何百もの学校が“スクール・ポリス”を常駐させ、
警察には“スクール・ポリス”の部署がある。
任務は keep order。秩序を守ること。
ここ20年くらいで急増したという。
誰が呼んだか「学校―刑務所パイプライン」。
「クラスC軽犯罪」は立派に犯罪なので
その切符を切られた子どもたちは裁判所に出頭しなければならない。
そこで罰金や地域での奉仕活動を科せられたり、収監される場合もある。
もちろん記録にも残り、後々の進学や就職にも影響する。
時には500ドルにも上ることがある罰金は、貧困層の親には払えない。
だから払わずに放っておくことが多いけれど、すると
子どもが17歳になった時に召喚状が届く。
なにしろ立派に犯罪なのだから。
米国の軒並み学費がバカ高い大学に行くために
みんながそうするように奨学金を申請すると
そんなささやかな逮捕歴が見つかって却下される。
テキサス州で2010年にこの切符を切られて上記の処罰を受けた子どもは
のべ30万人に迫り、中には6歳の子も。こんなもんじゃないという説も。
約30%はドラッグまたは飲酒がらみのチケットだというが
「武器の使用」理由が20%というスクール・ディストリクトもある。
その多くで「武器」とは「げんこつ」の意。
それに何より、一度逮捕されると、「問題児」として目をつけられ、
その影響から、昔なら教師が叱ったり親に電話すれば終わっていた程度のことが
将来監獄で過ごす人生へと子どもを方向づけてしまうこともある。
記事によると、1980年代にドラッグ絡みの犯罪が急増し、
その対策として「ゼロ・トラレンス」が言われるようになった。
90年代に入って青少年の犯罪の急増が社会問題化したところに
例のコロンバイン高校の乱射事件が起き、学校の安全を求める声の高まりなどで
ドラッグ取り締まりの「ゼロ・トラレンス」姿勢が学校に広がっていった、という背景。
しかし、切符を切られた子ども達と日々向かい合う判事その人まで
「こんなのは大人がやったら違反にもならない行為なのに、問題視され始めている。
学校が少しずつ構内のことで警察やセキュリティに頼り始めている感じはしていたけれど、
それがいきなり過剰になって、警察によって子どもの日常行動をコントロールさせている」。
こうした法律のあり方を懸念する声はもちろんあって、
連邦政府も、やめるべきだと言っている。
10歳から犯罪責任があるテキサス州では去年、
10歳と11歳には教室内での行為によって切符を切らないよう条例を改正した。
それ以上の改正を望んだ議員らもあったが、抵抗に会って実現しなかった。
教師の中にも、スクール・ポリスの存在を歓迎する声は意外に多い。
昔の学校とは違って、ふてぶてしく、やりたい放題の子どもばかり。
親にも子どもがコントロールできない。授業中だって学ぶ気はなく妨害したいだけ。
そういう子どもの管理にエネルギーを使わせられて教えることに集中できないから
教えることに集中できるようにポリスがいる。
いかつい生徒が反抗的な態度で迫ってきたら教師だって身の危険を感じる。
実際、教室で撃たれて死んだ教師もいる。
身の心配をせずに教師が授業に集中できるにもポリスは必要。
そりゃ、やり過ぎの面もあるから、
警官にはもうちょっと常識的に、と望みたいところはあるけど、
警官はそういうのが仕事だからね。ある程度はやむを得ないというか……などなど。
ここまで、全部、現役または引退後の教師の声だから驚く。
さらに警察のスクール・ポリス部局の責任者の言うことがすごくて、
「逮捕の基準は、まぁ、それぞれの警官次第。
人のすることだから、たまには間違いも起こる
裁判官だって5人が同じ事件を審判すれば5通りの判決を出す。
医者だって一人の患者を5人が診断すれば5通りになる」
(判決も診断も5通りあるようじゃいかんと思うんですけど)
一番気になるのは、知的障害・発達障害のある子ども達も
同じゼロ・トラレンス姿勢で逮捕されているのでは、との懸念。
具体的な事件を記事から拾ってみると、
Sara Bustamantsさん(12)
ADHDと双極性障害を診断されており、肥満を気にしている。
「私って変だから、みんなに嫌われている」。
みんなに酷いことを言われ苛められるから自分の身体に香水をかけてみた。
すると臭いと言って周りが騒いだため、教師がポリスを呼び、逮捕。
その後、障害者団体の支援で訴訟を起こし、起訴は取り下げられたが
まず自分で叱ろうとせずポリスを呼んで逮捕させた教師に、母親は
教師が子どもたちへの指導責任を放棄していると憤っている。
匿名の18歳の青年。
ADHDと診断されている。
12歳の時に授業中にかっとなり机をひっくり返した。
攻撃的行為で有罪となり、若年者の監獄に送られる。
出るためには一定の教育目標と行動目標をクリアしなければならず、
障害のために彼にとっては、それは無理。
こんなふうに障害のある子どもたちの多くが
ムショ送りにされ、そのまま出てくることができなくなっている。
IQが70を下回る匿名の少年。事件当時16歳。
廊下で警官の言うことを理解しなかったため、催涙ガスをかけられた。
目の痛みのために振り回した腕が警官に当たり、公務執行妨害で逮捕され、
裁判がこれから行われることになっている。懲役刑の可能性も。
障害とは無関係ながら、フロリダ州の学校では
ジョン・ケリー上院議員に失礼な質問をし、制止されても止めなかった生徒が
ポリスにスタンガンを使われている。
The US schools with their own police
The Guardian, January 9, 2012
絶句したけれど、考えてみれば、
警察権力による子どものコントロールよりも以前に
薬による子どものコントロールは始まっていた。
「年齢相応の子どもの行動が病気扱いされている」との指摘と関連エントリーのリンク一覧こちら ↓
「製薬会社に踊らされて子どもの問題行動に薬飲ませ過ぎ」と英国の教育心理学者(2011/1/18)
テキサスにはそういうことが起きやすい文化的な土壌もあるような気も。真っ先に思い出したのが、これ ↓
米国には体罰を禁止していない州が20もある(2009/8/11)
次に頭に浮かんだのが、テキサスといえば米国で最もラディカルな“無益な治療”法 ↓
生命維持の中止まで免罪する「無益な治療法」はTXのみ(2011/1/21)
その最も有名な訴訟がゴンザレス事件 ↓
テキサスの“無益なケア”法 Emilio Gonzales事件(2007/8/28)
ゴンザレス事件の裏話
生命倫理カンファレンス(Fost講演2)
TruogのGonzales事件批判
こういう現象の根っこにあるものに関して考がえてみたエントリーは、これ ↓
「子どもがひとりで遊べない国、アメリカ」から「メディカル・コントロールの世界」へ(2011/12/20)
「子どもがひとりで遊べない」世界から、人が「能力」と「機能」の集合体でしかない未来へ?(2011/12/21)
それから「子どもがひとりで遊べない」の著者の谷口さんと
10日の補遺のコメント欄でやりとりしたことも関係があると思われ、↓
2012年1月10日の補遺(2
2012.01.13 / Top↑
もういい加減、拾いたくもなくなってほとんどスル―しているけど、相変わらず英国のPAS合法化論議わんさ。
http://www.nationalrighttolifenews.org/news/2012/01/one-sided-assisted-suicide-report-released-in-the-uk/
http://www.bbc.co.uk/news/uk-england-lancashire-16473822
英国保健相は近く介護と支援の白書を刊行予定。そのためのご意見募集(既に終了)などCaring for our future キャンペーンが進行していた。
http://caringforourfuture.dh.gov.uk/
去年6月の日本精神保健看護学会学術集会/市民公開講座「こころの病を持つ親と生活する子どもたち」。シンポジストの一人、三重大学の上田幸子さんが12日(木)の「おはよう日本」で精神障害のある親と生活する子どもへの支援について。
http://www.oyakono-support.com/siminkoukaianke-to.pdf
複数の受精卵を一つに合体させたキメラ猿が3匹、米国で誕生。:「キメラ」というから人間との混成胚かと思ったら、下の日本語記事(ツイッターで拾わせていただいた)によると「異なる遺伝情報の細胞が混ざった生物がキメラ」なんだそうな。知識が乏しいので、「受精卵を合体させる」というのが一体どういうことなのか、さっぱり分からない。
http://www.guardian.co.uk/science/2012/jan/05/chimera-monkeys-combining-several-embryos?CMP=EMCNEWEML1355
http://sankei.jp.msn.com/science/news/120106/scn12010620320001-n1.htm
最近ずっと米国の法医学の機能不全を追及しているProPublicaで、ゆさぶり症候群の科学的エビデンスが問題になっている。
http://www.propublica.org/article/a-far-cry-from-csi
NYT。子どもの肥満対策として増えている胃のバンディング手術に、医師らから成長期の子どもにはいかがなものか、との声。
Young, Obese and Drawn to Surgery: The push toward operations like Lap-Band surgery on the young has brought some resistance from doctors who say it is too drastic on patients whose bodies might still be developing.
英国で美容整形手術の過誤を巡る訴訟は半数が患者側の勝訴に。一般では30%。
http://www.guardian.co.uk/society/2012/jan/08/patients-sue-plastic-surgeons-faulty?CMP=EMCNEWEML1355
ニコチン・パッチが軽度の認知障害に効くって。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/240082.php
運動と学校の成績の間に相関があると、米国の小児科学会誌に。:前からずっと書いているけど、子どもの「学校の成績」と何かの相関を調べる医学研究が最近すごく増えて来ていて、どうして「学校の成績」がそれほど後生大事なのか分からない。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/239914.php
ヨガが身体を痛める可能性について。:ヨガって、基本的には自分の身体の声を素直に聞くことができるようになる術の一つだろうと思うだけど、決まったメニューをこなすエクササイズのような硬直的な捉え方でやるからそうなるんじゃないのかなぁ。読んでいないから決めつけられないけど。
How Yoga Can Wreck Your Body: Popped ribs, brain injuries, blinding pain. Are the healing rewards worth the risks?
Maryland大学が豪華な学長官舎を建築中とて、非難の的に。
http://www.washingtonpost.com/local/education/university-of-maryland-plans-72-million-presidents-house-amid-budget-cuts/2012/01/06/gIQAoffCkP_story.html?wpisrc=nl_cuzheads
日本。ヒロインは全員障がい者。海外有志による同人美少女ゲーム『かたわ少女』がついに完成:ものすごく不快。
http://www.kotaku.jp/2012/01/katawa_shoujo_released.html
魔術を使っていると言って、姉とその恋人から殴るけるの暴行を受けた挙句に溺死させられた15歳の少年。英国。:世の中がだんだんともっと「虐待的な親のような場所」になっていくと、こういう事件は増えていくような嫌な予感がある。
http://www.guardian.co.uk/uk/2012/jan/05/boy-tortured-drowned-sorcery-claims?CMP=EMCNEWEML1355
【関連エントリー】
“魔女狩り”で大人に虐待される子どもたち(アフリカ)(2008/11/27)
【「虐待的な親のような場所」になっていく世界について書いたエントリー】
「現代思想2月号 特集 「うつ病新論」を読む 1:社会の病理と精神医療の変容(2011/2/23)
グローバル化が進む“代理母ツーリズム”(2011/1/29)
http://www.nationalrighttolifenews.org/news/2012/01/one-sided-assisted-suicide-report-released-in-the-uk/
http://www.bbc.co.uk/news/uk-england-lancashire-16473822
英国保健相は近く介護と支援の白書を刊行予定。そのためのご意見募集(既に終了)などCaring for our future キャンペーンが進行していた。
http://caringforourfuture.dh.gov.uk/
去年6月の日本精神保健看護学会学術集会/市民公開講座「こころの病を持つ親と生活する子どもたち」。シンポジストの一人、三重大学の上田幸子さんが12日(木)の「おはよう日本」で精神障害のある親と生活する子どもへの支援について。
http://www.oyakono-support.com/siminkoukaianke-to.pdf
複数の受精卵を一つに合体させたキメラ猿が3匹、米国で誕生。:「キメラ」というから人間との混成胚かと思ったら、下の日本語記事(ツイッターで拾わせていただいた)によると「異なる遺伝情報の細胞が混ざった生物がキメラ」なんだそうな。知識が乏しいので、「受精卵を合体させる」というのが一体どういうことなのか、さっぱり分からない。
http://www.guardian.co.uk/science/2012/jan/05/chimera-monkeys-combining-several-embryos?CMP=EMCNEWEML1355
http://sankei.jp.msn.com/science/news/120106/scn12010620320001-n1.htm
最近ずっと米国の法医学の機能不全を追及しているProPublicaで、ゆさぶり症候群の科学的エビデンスが問題になっている。
http://www.propublica.org/article/a-far-cry-from-csi
NYT。子どもの肥満対策として増えている胃のバンディング手術に、医師らから成長期の子どもにはいかがなものか、との声。
Young, Obese and Drawn to Surgery: The push toward operations like Lap-Band surgery on the young has brought some resistance from doctors who say it is too drastic on patients whose bodies might still be developing.
英国で美容整形手術の過誤を巡る訴訟は半数が患者側の勝訴に。一般では30%。
http://www.guardian.co.uk/society/2012/jan/08/patients-sue-plastic-surgeons-faulty?CMP=EMCNEWEML1355
ニコチン・パッチが軽度の認知障害に効くって。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/240082.php
運動と学校の成績の間に相関があると、米国の小児科学会誌に。:前からずっと書いているけど、子どもの「学校の成績」と何かの相関を調べる医学研究が最近すごく増えて来ていて、どうして「学校の成績」がそれほど後生大事なのか分からない。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/239914.php
ヨガが身体を痛める可能性について。:ヨガって、基本的には自分の身体の声を素直に聞くことができるようになる術の一つだろうと思うだけど、決まったメニューをこなすエクササイズのような硬直的な捉え方でやるからそうなるんじゃないのかなぁ。読んでいないから決めつけられないけど。
How Yoga Can Wreck Your Body: Popped ribs, brain injuries, blinding pain. Are the healing rewards worth the risks?
Maryland大学が豪華な学長官舎を建築中とて、非難の的に。
http://www.washingtonpost.com/local/education/university-of-maryland-plans-72-million-presidents-house-amid-budget-cuts/2012/01/06/gIQAoffCkP_story.html?wpisrc=nl_cuzheads
日本。ヒロインは全員障がい者。海外有志による同人美少女ゲーム『かたわ少女』がついに完成:ものすごく不快。
http://www.kotaku.jp/2012/01/katawa_shoujo_released.html
魔術を使っていると言って、姉とその恋人から殴るけるの暴行を受けた挙句に溺死させられた15歳の少年。英国。:世の中がだんだんともっと「虐待的な親のような場所」になっていくと、こういう事件は増えていくような嫌な予感がある。
http://www.guardian.co.uk/uk/2012/jan/05/boy-tortured-drowned-sorcery-claims?CMP=EMCNEWEML1355
【関連エントリー】
“魔女狩り”で大人に虐待される子どもたち(アフリカ)(2008/11/27)
【「虐待的な親のような場所」になっていく世界について書いたエントリー】
「現代思想2月号 特集 「うつ病新論」を読む 1:社会の病理と精神医療の変容(2011/2/23)
グローバル化が進む“代理母ツーリズム”(2011/1/29)
2012.01.13 / Top↑
昨年12月21日にツイッターを始めました。
アカウントはspitzibaraです。
よかったら覗いていただけると嬉しいです。
こんなことになるのでは、と懸念して
ツイッターには手を出しかねていたのですが、
やっぱり予想通りに見事にハマってしまい、
今日の午後5時までに238ツイートもつぶやいてしまいました。
自分で「アホか」とは思いつつ
「あまりに面白くて、もうダメ」ジャンキー状態です。
ブログではなかなか書きづらかった「ミュウの親」としての思いが
なぜかツイッターではするすると書けるのが不思議で、
溜まり溜まった怨念のマグマが噴火するかのごとき勢いが
もうしばらく収まりそうにありません。
ある程度吐きだしてしまったら、
ブログとツイッターを自分でどのようにやっていくのか、ペースが探せると思うのですが、
しばし「情報」よりも「自分語り」にハマりそうです。
(こう書くと、なんかイヤラシイことをやってる感じもしてきたなぁ)
とりあえず、この間につぶやいてみた
「障害のある子(今は成人)の親になってムカつくのは」シリーズを取りまとめてみました。
(書いた後で気に入らなくなった個所など、ちょっと訂正した部分もあります)
「障害のある子どもの親」になってムカつくのは、常に「評価」の対象にされること。いろんな職種や立場や考えの人がそれぞれ勝手な「障害児の親はこうあるべき」物差しを頼みもしないのに当ててくる。なんで私がアンタらの間尺に合う生き方をせにゃならん? いちいちバラバラの物差し当てよってからに。
でも、本当は一番ムカつくのは、勝手に当てられるバラバラの物差しにいちいち応えて「全方位型優等生障害児の母」をどこかで目指そうとする自分。
初めて膝を痛めて病院通いしたのは、確かミュウが中学生の時。その話をしたら、子どもの個性を重んじるナントカ教育理論の信奉者だった当時の知人に「今からそんなことを言っていてどーするの!」と頭ごなしに叱られた。痛いものは痛いんじゃわい。障害のある子がいようといまいと。
ミュウが幼い頃には「美しく生きよ」と言われ続けることに「美しく生きなければならない人なんかどこにもいない」と反発した。最近は「正しく生きよ」と言われているような気がすることに当惑している。
「障害のある子の親」になってムカつくのは、やたらと「ミュウちゃんのために長生きしてあげないといけませんよ」と説教されること。私自身が「長生きしてやりたい」と願うこととそのことの責任を背負わされることとは違う。言われるたびに「早死にしたら、それは愛情不足」と脅されている気がする。
どうして世間の人は「障害児の親」に対して上から目線でものを言い、やたらと説教したがるんだろう。
どんなに深い愛情があっても、どんなに壮絶な努力をしても、どうにもならないことって、ある。そういうことに「愛情」を塗りたくってどーこー言うの、やめよーよ。
癌になった友人Aは、人の顔さえ見れば世の中がいかにがん患者で満ちているかを語る。息子が糖尿病になった友人Bは、会うたびに食事の準備の大変さを語る。聞くたびにイラついてしまうのは、私もこの24年間に類似体験をしてきたという事実に気付くだけの想像力を、2人ともまるきり欠いていること。
「障害のある子(今は成人)の親」になってムカつくのは「神様はね、あなたが試練に耐えられる人だと思うから障害のある子どもを授けられたのよ」「子どもは親を選んで生まれてくるのだから」「あなたはミュウちゃんに選ばれたのよ」などと押しつけがましい説教食らうこと。
アカウントはspitzibaraです。
よかったら覗いていただけると嬉しいです。
こんなことになるのでは、と懸念して
ツイッターには手を出しかねていたのですが、
やっぱり予想通りに見事にハマってしまい、
今日の午後5時までに238ツイートもつぶやいてしまいました。
自分で「アホか」とは思いつつ
「あまりに面白くて、もうダメ」ジャンキー状態です。
ブログではなかなか書きづらかった「ミュウの親」としての思いが
なぜかツイッターではするすると書けるのが不思議で、
溜まり溜まった怨念のマグマが噴火するかのごとき勢いが
もうしばらく収まりそうにありません。
ある程度吐きだしてしまったら、
ブログとツイッターを自分でどのようにやっていくのか、ペースが探せると思うのですが、
しばし「情報」よりも「自分語り」にハマりそうです。
(こう書くと、なんかイヤラシイことをやってる感じもしてきたなぁ)
とりあえず、この間につぶやいてみた
「障害のある子(今は成人)の親になってムカつくのは」シリーズを取りまとめてみました。
(書いた後で気に入らなくなった個所など、ちょっと訂正した部分もあります)
「障害のある子どもの親」になってムカつくのは、常に「評価」の対象にされること。いろんな職種や立場や考えの人がそれぞれ勝手な「障害児の親はこうあるべき」物差しを頼みもしないのに当ててくる。なんで私がアンタらの間尺に合う生き方をせにゃならん? いちいちバラバラの物差し当てよってからに。
でも、本当は一番ムカつくのは、勝手に当てられるバラバラの物差しにいちいち応えて「全方位型優等生障害児の母」をどこかで目指そうとする自分。
初めて膝を痛めて病院通いしたのは、確かミュウが中学生の時。その話をしたら、子どもの個性を重んじるナントカ教育理論の信奉者だった当時の知人に「今からそんなことを言っていてどーするの!」と頭ごなしに叱られた。痛いものは痛いんじゃわい。障害のある子がいようといまいと。
ミュウが幼い頃には「美しく生きよ」と言われ続けることに「美しく生きなければならない人なんかどこにもいない」と反発した。最近は「正しく生きよ」と言われているような気がすることに当惑している。
「障害のある子の親」になってムカつくのは、やたらと「ミュウちゃんのために長生きしてあげないといけませんよ」と説教されること。私自身が「長生きしてやりたい」と願うこととそのことの責任を背負わされることとは違う。言われるたびに「早死にしたら、それは愛情不足」と脅されている気がする。
どうして世間の人は「障害児の親」に対して上から目線でものを言い、やたらと説教したがるんだろう。
どんなに深い愛情があっても、どんなに壮絶な努力をしても、どうにもならないことって、ある。そういうことに「愛情」を塗りたくってどーこー言うの、やめよーよ。
癌になった友人Aは、人の顔さえ見れば世の中がいかにがん患者で満ちているかを語る。息子が糖尿病になった友人Bは、会うたびに食事の準備の大変さを語る。聞くたびにイラついてしまうのは、私もこの24年間に類似体験をしてきたという事実に気付くだけの想像力を、2人ともまるきり欠いていること。
「障害のある子(今は成人)の親」になってムカつくのは「神様はね、あなたが試練に耐えられる人だと思うから障害のある子どもを授けられたのよ」「子どもは親を選んで生まれてくるのだから」「あなたはミュウちゃんに選ばれたのよ」などと押しつけがましい説教食らうこと。
2012.01.13 / Top↑
これまでの2回は福祉職の担当職員の方のノートへの書き込み。
今回は看護科の担当職員の方の書き込みから。
-------
お昼ごはんの介助に入らせてもらいました。
ほうとう(? 太いウドン)とかサラダは完食なのに、
牛乳は「イヤ!!」 水分だからなー・・・
お茶にする? 「は――い」
お茶を一口出すと、「イ―――ヤッ!!」
えぇ~ お茶にするって言ったじゃん
散々からかわれた挙げく、
Tさんに変わるとパクパク飲まれました。(結局200ml)
ごはんは、すぐにあきらめるけど、水分はダメ!!と、戦ったんですけど……。
今回は看護科の担当職員の方の書き込みから。
-------
お昼ごはんの介助に入らせてもらいました。
ほうとう(? 太いウドン)とかサラダは完食なのに、
牛乳は「イヤ!!」 水分だからなー・・・
お茶にする? 「は――い」
お茶を一口出すと、「イ―――ヤッ!!」
えぇ~ お茶にするって言ったじゃん
散々からかわれた挙げく、
Tさんに変わるとパクパク飲まれました。(結局200ml)
ごはんは、すぐにあきらめるけど、水分はダメ!!と、戦ったんですけど……。
2012.01.13 / Top↑
私がツイッターを覗き始めたのは、ほんの数ヶ月前のことで、
それまでは読み方すら知らず、従って自分が始めるつもりもさらさらなかったのですが、
万が一にも始めるとしたら、一つ
これだけはオトシマエをつけておかなければ……ということがあり、
その、よもやのツイッターをついに始めてしまったので、
これは、そのオトシマエのエントリーです。
―――――
E先生へ。
9月に「先生、ボクの全身の細胞が……」というエントリーを書き、
英語の授業の際、私の前でつい「脳性マヒ」をジョークにしてしまった学生さんを
障害のある子の親としての痛み故か、教師としてバシッと叱れなかった忸怩たる思いと、
その学生さんが私の痛みに気付きオトシマエをつけに来てくれたエピソードを書いた際、
先生のことをボロカスに書きました。
書いたことについての言い訳は、一応、以下です。
・お目にかかった直後はともかく、先生のような偉い学者さんが
まさかその後も私のブログを覗きにきてくださっているとは、
まったく想像できませんでした。だから、正直なところ、
先生の目に触れることはないだろうとタカをくくっていました。
・ライターとしての仕事先で見聞きしたことを批判的に書きたい場合には、
時間を置き、なるべく場所と人物が特定されないような書き方で、という
自分なりの線を引いています。ここでも1年近く経っていて、
人物が特定されないように書いているので、まぁ、いいだろうと考えました。
・全面的に真に受けたわけではもちろんないですが、当日、帰る際にご挨拶をしたら
「ブログに僕の悪口、書いていいから」と先生がおっしゃったので、
書かれる可能性をある程度了解いただいている感じで受け止めてもいました。
・アップした直後に、ここは人物を特定しかねないと思って削除した部分があるのですが、
まさか先生が削除前のわずかな間にご訪問くださるとは思いもよらないことでした。
・なにより、私が匿名にしたご本人がツイッターで
「これは自分だ」と名乗られていた……なんて全くの想定外で、ほとんど驚愕でした。
私が先生のツイッターに気付いたのがいつだったか、はっきり記憶していないのですが、
拙著「アシュリー事件」が出た後、出版社の方のツイッターからあちこちしている間に
たまたま行き当たってしまいました。
で、先生が衝撃を受けられて延々とツイートしておられるのを読みながら
大変申し訳ない気持ちになりました。
安易に人間の品性の問題にして
「人格攻撃」と取られる書き方をしてしまったことについて
深くおわび申し上げます。
いかに個人のブログとは言え不特定多数に向けて発言するのに、
あまりにも安直、不用意、怠慢だったと思います。
あそこで私が書きたかったのは先生への人格攻撃ではなく、
アカデミックな世界の人の議論や、その議論をしている人たちの意識と、
そこで議論されている対象を現に生きている者の痛みとの距離について、でした。
先生が私のエントリーを読まれて受け止められたような
議論の進め方とか、その内容の正当性の話ではなく、
当事者の痛みに対する感受性の話のつもりでした。
例えば、以下のエントリーでPeter Singerについて、ちょっと書いてみたようなこと ↓
「Kaylee事件」と「当事者性」それから「Peter Singer」(2010/11/3)
アカデミックな世界の人たちの意識への
「”議論”でしかない」という疑問というか不満は
(一部の方には「”業績作り”でしかない」という疑問も)
あの晩よりはるか以前から私の中にはずっとあったものなので、
あのエントリーでは、
たまたま新鮮な印象が残っていた先生の発言に、
アカデミックな世界の人の意識を代表させてしまいました。
その点が、何より、いけなかったと思います。
この疑問については、今もまだうまく書ける自信がないので、
また改めて書ける時が来れば、少しずつ書いてみるということにしたいと思います。
このエントリーは
ツイッターを始めた日に書き始めて、
なかなか書き終えることができないままになっていたのですが、
昨日、思いがけず先生が私のツイッターをフォローしてくださったことから、
なにはともあれオトシマエをつけなければ、と急いで締めくくりました。
まだまだ言葉足らずと思いますが、まずはお詫びいたします。
本当に申し訳ありませんでした。
あの晩、まるきり場違いなところに出てきてしまった……と臍を噛んでいた時に
私のような何も知らない素人を先生がバカにもせずに相手をしてくださったことや
「アシュリー事件について書かれたらどうですか」と言っていただいたことは
私にはとても嬉しい出来事でした。
今だから言えることですが、実はあの頃、
「学者でもないオマエに何が書けるものか」と
あちこちから言われているような出来事が続いて、萎えそうになりながら、
陽の目を見るかどうかもわからない「アシュリー事件」の原稿を
シコシコと書いている状態だったのです。
だから、あの晩の先生の言葉は大きな励みでした。
あの節には、ありがとうございました。
そういう人のことを、あんな書き方をしてはいけませんでした。
冒頭に言い訳したような事情で、ついやってしまいました。ごめんなさい。
これに懲りず、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
Spitzibara
【PS 1】
当該エントリーで私がPeter Singerを「卑怯者」だと書いているのは
主として、その個所にリンクした特定の発言についての感想です。
障害当事者らからの批判に対して、
「実際に障害のある新生児を殺しているのは医師であって自分ではない」という言い逃れは
障害のある新生児の安楽死を説く最先鋒で、大きな影響力をもつ学者の発言として
私はやっぱり卑怯なヤツだと思います。
【PS 1】
それにしてもE先生、「まぁ自分のサイトで若い女の子と揉めるよりマシか」は
やっぱり、あまり品性よくはないっすよ。
ふん。オバサンでどこが悪いか。(9割方、ジョーダンです)
それまでは読み方すら知らず、従って自分が始めるつもりもさらさらなかったのですが、
万が一にも始めるとしたら、一つ
これだけはオトシマエをつけておかなければ……ということがあり、
その、よもやのツイッターをついに始めてしまったので、
これは、そのオトシマエのエントリーです。
―――――
E先生へ。
9月に「先生、ボクの全身の細胞が……」というエントリーを書き、
英語の授業の際、私の前でつい「脳性マヒ」をジョークにしてしまった学生さんを
障害のある子の親としての痛み故か、教師としてバシッと叱れなかった忸怩たる思いと、
その学生さんが私の痛みに気付きオトシマエをつけに来てくれたエピソードを書いた際、
先生のことをボロカスに書きました。
書いたことについての言い訳は、一応、以下です。
・お目にかかった直後はともかく、先生のような偉い学者さんが
まさかその後も私のブログを覗きにきてくださっているとは、
まったく想像できませんでした。だから、正直なところ、
先生の目に触れることはないだろうとタカをくくっていました。
・ライターとしての仕事先で見聞きしたことを批判的に書きたい場合には、
時間を置き、なるべく場所と人物が特定されないような書き方で、という
自分なりの線を引いています。ここでも1年近く経っていて、
人物が特定されないように書いているので、まぁ、いいだろうと考えました。
・全面的に真に受けたわけではもちろんないですが、当日、帰る際にご挨拶をしたら
「ブログに僕の悪口、書いていいから」と先生がおっしゃったので、
書かれる可能性をある程度了解いただいている感じで受け止めてもいました。
・アップした直後に、ここは人物を特定しかねないと思って削除した部分があるのですが、
まさか先生が削除前のわずかな間にご訪問くださるとは思いもよらないことでした。
・なにより、私が匿名にしたご本人がツイッターで
「これは自分だ」と名乗られていた……なんて全くの想定外で、ほとんど驚愕でした。
私が先生のツイッターに気付いたのがいつだったか、はっきり記憶していないのですが、
拙著「アシュリー事件」が出た後、出版社の方のツイッターからあちこちしている間に
たまたま行き当たってしまいました。
で、先生が衝撃を受けられて延々とツイートしておられるのを読みながら
大変申し訳ない気持ちになりました。
安易に人間の品性の問題にして
「人格攻撃」と取られる書き方をしてしまったことについて
深くおわび申し上げます。
いかに個人のブログとは言え不特定多数に向けて発言するのに、
あまりにも安直、不用意、怠慢だったと思います。
あそこで私が書きたかったのは先生への人格攻撃ではなく、
アカデミックな世界の人の議論や、その議論をしている人たちの意識と、
そこで議論されている対象を現に生きている者の痛みとの距離について、でした。
先生が私のエントリーを読まれて受け止められたような
議論の進め方とか、その内容の正当性の話ではなく、
当事者の痛みに対する感受性の話のつもりでした。
例えば、以下のエントリーでPeter Singerについて、ちょっと書いてみたようなこと ↓
「Kaylee事件」と「当事者性」それから「Peter Singer」(2010/11/3)
アカデミックな世界の人たちの意識への
「”議論”でしかない」という疑問というか不満は
(一部の方には「”業績作り”でしかない」という疑問も)
あの晩よりはるか以前から私の中にはずっとあったものなので、
あのエントリーでは、
たまたま新鮮な印象が残っていた先生の発言に、
アカデミックな世界の人の意識を代表させてしまいました。
その点が、何より、いけなかったと思います。
この疑問については、今もまだうまく書ける自信がないので、
また改めて書ける時が来れば、少しずつ書いてみるということにしたいと思います。
このエントリーは
ツイッターを始めた日に書き始めて、
なかなか書き終えることができないままになっていたのですが、
昨日、思いがけず先生が私のツイッターをフォローしてくださったことから、
なにはともあれオトシマエをつけなければ、と急いで締めくくりました。
まだまだ言葉足らずと思いますが、まずはお詫びいたします。
本当に申し訳ありませんでした。
あの晩、まるきり場違いなところに出てきてしまった……と臍を噛んでいた時に
私のような何も知らない素人を先生がバカにもせずに相手をしてくださったことや
「アシュリー事件について書かれたらどうですか」と言っていただいたことは
私にはとても嬉しい出来事でした。
今だから言えることですが、実はあの頃、
「学者でもないオマエに何が書けるものか」と
あちこちから言われているような出来事が続いて、萎えそうになりながら、
陽の目を見るかどうかもわからない「アシュリー事件」の原稿を
シコシコと書いている状態だったのです。
だから、あの晩の先生の言葉は大きな励みでした。
あの節には、ありがとうございました。
そういう人のことを、あんな書き方をしてはいけませんでした。
冒頭に言い訳したような事情で、ついやってしまいました。ごめんなさい。
これに懲りず、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
Spitzibara
【PS 1】
当該エントリーで私がPeter Singerを「卑怯者」だと書いているのは
主として、その個所にリンクした特定の発言についての感想です。
障害当事者らからの批判に対して、
「実際に障害のある新生児を殺しているのは医師であって自分ではない」という言い逃れは
障害のある新生児の安楽死を説く最先鋒で、大きな影響力をもつ学者の発言として
私はやっぱり卑怯なヤツだと思います。
【PS 1】
それにしてもE先生、「まぁ自分のサイトで若い女の子と揉めるよりマシか」は
やっぱり、あまり品性よくはないっすよ。
ふん。オバサンでどこが悪いか。(9割方、ジョーダンです)
2012.01.13 / Top↑
米国内科学会誌1月3日号の補足として出された倫理マニュアル第6版。
わざわざ「倹約しつつ(parsimonious)」という文言を使用して
コスト・パフォーマンスを意識した“しみったれ医療”を説いているらしい。
医師の第一の義務は患者に対するものであると断りつつも以下のように書く。
Physicians have a responsibility to practice effective and efficient health care, and to use health care resources responsibly. Parsimonious care that utilizes the most efficient means to effectively diagnose a condition and treat a patient respects the need to use resources wisely and to help ensure that resources are equitably available.
医師には効果的で効率的な医療を行う責務と共に、医療資源の利用に責任をもつ必要がある。効果的な診断を最も効率的な方法を用いて行う倹約医療によって、医療資源を賢明に利用する必要と医療資源への公平なアクセス保証が尊重されることとなる。
論説を書いているペンシルバニア大のEzekiel Emanuel医師は
「堂々とコスト効率原理を提唱する医学会が現れた。
効率、倹約、コスト効率重視の立場は、倫理面ではともかく
何が強調されるかという点では重要なシフトだ」
「ちょっとした診断の違いにこだわり
できる限りの手を尽くしてはコストを膨らませていくのは良い医師ではないという方向に、
臨床医の世界の哲学を変えられるかどうかが難しい」
また、米国内科学会(ACP)のスポークス・ウ―マンは
「自分の患者とそのニーズに集中しつつも、
我々医師はもっと大きなレベルに立って、
患者の利益と地域のためについても考えなければ」
もちろん批判の声も出ており、
保守系シンクタンクの医師は
「医療資源の利用は倹約でと言えば、それだけでは済まず、
実際には治療を差し控えろと言っていることになる」
その他にマニュアルの要点の中から
個人的に印象的なものを3点。
① 遺伝子情報が誤って公開されてしまった場合には害を受けるので、
生体組織を保存したり分与したりする計画は研究の被験者に知らせなければならない。
これについてはEmanuel医師は
患者が望むのは研究に人体組織を提供するかどうかの判断のみで
それ以上を望んでいるわけではない、と論説で反論している。
これは、ちょうど年末年始で中断して、やっと読み終えたばかりの
「不死細胞ヒーラ ヘンリエッタ・ラックスの永遠なる人生」のテーマそのものだったので
大変印象的だった。
Emanuelの反論に、
「患者にいちいち同意を求めたり患者の権利を尊重していたら
科学の進歩が止まってしまう」という科学者らの言い分を思い出した。
② 研究結果については、まず論文にしたり、ちゃんとした場所で発表した後に
世間に向かって公表しなさい。
研究途上の成果をメディアが「ブレークスルーだ」と発表していると、
結局は科学界全体に対する信頼が揺らぐだろーが、と。
これはアッパレ。よくぞ言ってくださいました。
③ 自殺幇助合法化については支持しない立場とのこと。
理由は
合法化すると患者の信頼を損ない、終末期医療の立て直しが遅れ、
貧困層や障害者、自分で声をあげられない人やマイノリティなど
これまで差別されてきた弱者のケースで使われるから。
でも、すごく矛盾してない? という気がするのは
「本人利益」や「コスト効率」や「公平な医療資源の活用」という謳い文句で
“無益な治療”論による治療の差し控えのターゲットになっているのも
ここで懸念してもらっている貧困層や障害者、移民などマイノリティだという現実がある。
例えばこちらのケースではトリソミー13の新生児の心臓手術に
「同じ資源で多くの命が救える、公平性の点でどうか」と疑問が呈されている。
そうした現実を前に、
一方でコスト削減の社会的要請を念頭に“しみったれ医療”を説いて
そういう人たちからの治療の差し控えを暗に奨励しておきながら、
一方で自殺幇助はこういう人の治療を脅かすからダメ、と言っているような???
それは、つまり、オミッションはダメだけど、
コミッションは奨励しますよ、という立場なのかしら?????
ACP Makes Close Watch on Costs an Ethical Issue
Medpage today, January 3, 2012
【Dr. Emanuel関連エントリー】
「障害者は健常者の8掛け、6掛け」と生存年数割引率を決めるQALY・DALY(2009/9/8)
自己決定と選択の自由は米国の国民性DNA?(2009/9/8)
――――――
上記の疑問を考えても、
いつもお世話になっているPopeのブログが引っ張ってくれている
マニュアルの中の“無益な治療”に関する個所が気になるところ。
それによると、概要は
患者に医学的利益をもたらさない治療を行う義務は医師にはない。血流も呼吸も回復しないと思われる蘇生を行う義務もない。ただし、そのことを患者や家族に理解させる努力は必要。
最も難しいのは、利益がまったくないわけではないが苦しみの方がはるかに大きいと思われるケース(または金銭面のコストが大きすぎる場合)で患者や家族が治療を望む場合。こうしたケースでは簡単な解決はあり得ないので、知識のある同僚や倫理相談を頼って、リスク・ベネフィットの比較検討を再確認するか、引き受けてもよいという医師がいるなら転院させるのも一手。まれには裁判所の判断が必要となる場合もある。司法が一方的な治療拒否の判断を認めるプロセスやスタンダードを有している地域もある。
医療機関によっては、延命効果がごく小さい場合に本人や家族の反対によらず一方的なDRN(蘇生無用)指定を医師に認めていることもあるが、共感と配慮をもって患者や代理決定者と治療の選択肢を検討するなら、一方的なDNR指定にまで至ることは滅多にないはず。心肺蘇生でどうなるか、患者への身体的影響、医師への影響、DNR指定でその他の治療がどうなるか、法的にはどういうことか、また患者の代弁者としての医師の役割など、あらゆることがきちんと話し合われるべきである。一方的DNR指定を書くなら、医師はその旨を患者または代理決定者に説明しなければならない。
こんなにも既成事実が先行している時に、
あくまでも性善説の努力義務ですかぁ……。
American College of Physicians on Medical Futility
MEDICAL FUTILITY BLOG, January 3, 2012
わざわざ「倹約しつつ(parsimonious)」という文言を使用して
コスト・パフォーマンスを意識した“しみったれ医療”を説いているらしい。
医師の第一の義務は患者に対するものであると断りつつも以下のように書く。
Physicians have a responsibility to practice effective and efficient health care, and to use health care resources responsibly. Parsimonious care that utilizes the most efficient means to effectively diagnose a condition and treat a patient respects the need to use resources wisely and to help ensure that resources are equitably available.
医師には効果的で効率的な医療を行う責務と共に、医療資源の利用に責任をもつ必要がある。効果的な診断を最も効率的な方法を用いて行う倹約医療によって、医療資源を賢明に利用する必要と医療資源への公平なアクセス保証が尊重されることとなる。
論説を書いているペンシルバニア大のEzekiel Emanuel医師は
「堂々とコスト効率原理を提唱する医学会が現れた。
効率、倹約、コスト効率重視の立場は、倫理面ではともかく
何が強調されるかという点では重要なシフトだ」
「ちょっとした診断の違いにこだわり
できる限りの手を尽くしてはコストを膨らませていくのは良い医師ではないという方向に、
臨床医の世界の哲学を変えられるかどうかが難しい」
また、米国内科学会(ACP)のスポークス・ウ―マンは
「自分の患者とそのニーズに集中しつつも、
我々医師はもっと大きなレベルに立って、
患者の利益と地域のためについても考えなければ」
もちろん批判の声も出ており、
保守系シンクタンクの医師は
「医療資源の利用は倹約でと言えば、それだけでは済まず、
実際には治療を差し控えろと言っていることになる」
その他にマニュアルの要点の中から
個人的に印象的なものを3点。
① 遺伝子情報が誤って公開されてしまった場合には害を受けるので、
生体組織を保存したり分与したりする計画は研究の被験者に知らせなければならない。
これについてはEmanuel医師は
患者が望むのは研究に人体組織を提供するかどうかの判断のみで
それ以上を望んでいるわけではない、と論説で反論している。
これは、ちょうど年末年始で中断して、やっと読み終えたばかりの
「不死細胞ヒーラ ヘンリエッタ・ラックスの永遠なる人生」のテーマそのものだったので
大変印象的だった。
Emanuelの反論に、
「患者にいちいち同意を求めたり患者の権利を尊重していたら
科学の進歩が止まってしまう」という科学者らの言い分を思い出した。
② 研究結果については、まず論文にしたり、ちゃんとした場所で発表した後に
世間に向かって公表しなさい。
研究途上の成果をメディアが「ブレークスルーだ」と発表していると、
結局は科学界全体に対する信頼が揺らぐだろーが、と。
これはアッパレ。よくぞ言ってくださいました。
③ 自殺幇助合法化については支持しない立場とのこと。
理由は
合法化すると患者の信頼を損ない、終末期医療の立て直しが遅れ、
貧困層や障害者、自分で声をあげられない人やマイノリティなど
これまで差別されてきた弱者のケースで使われるから。
でも、すごく矛盾してない? という気がするのは
「本人利益」や「コスト効率」や「公平な医療資源の活用」という謳い文句で
“無益な治療”論による治療の差し控えのターゲットになっているのも
ここで懸念してもらっている貧困層や障害者、移民などマイノリティだという現実がある。
例えばこちらのケースではトリソミー13の新生児の心臓手術に
「同じ資源で多くの命が救える、公平性の点でどうか」と疑問が呈されている。
そうした現実を前に、
一方でコスト削減の社会的要請を念頭に“しみったれ医療”を説いて
そういう人たちからの治療の差し控えを暗に奨励しておきながら、
一方で自殺幇助はこういう人の治療を脅かすからダメ、と言っているような???
それは、つまり、オミッションはダメだけど、
コミッションは奨励しますよ、という立場なのかしら?????
ACP Makes Close Watch on Costs an Ethical Issue
Medpage today, January 3, 2012
【Dr. Emanuel関連エントリー】
「障害者は健常者の8掛け、6掛け」と生存年数割引率を決めるQALY・DALY(2009/9/8)
自己決定と選択の自由は米国の国民性DNA?(2009/9/8)
――――――
上記の疑問を考えても、
いつもお世話になっているPopeのブログが引っ張ってくれている
マニュアルの中の“無益な治療”に関する個所が気になるところ。
それによると、概要は
患者に医学的利益をもたらさない治療を行う義務は医師にはない。血流も呼吸も回復しないと思われる蘇生を行う義務もない。ただし、そのことを患者や家族に理解させる努力は必要。
最も難しいのは、利益がまったくないわけではないが苦しみの方がはるかに大きいと思われるケース(または金銭面のコストが大きすぎる場合)で患者や家族が治療を望む場合。こうしたケースでは簡単な解決はあり得ないので、知識のある同僚や倫理相談を頼って、リスク・ベネフィットの比較検討を再確認するか、引き受けてもよいという医師がいるなら転院させるのも一手。まれには裁判所の判断が必要となる場合もある。司法が一方的な治療拒否の判断を認めるプロセスやスタンダードを有している地域もある。
医療機関によっては、延命効果がごく小さい場合に本人や家族の反対によらず一方的なDRN(蘇生無用)指定を医師に認めていることもあるが、共感と配慮をもって患者や代理決定者と治療の選択肢を検討するなら、一方的なDNR指定にまで至ることは滅多にないはず。心肺蘇生でどうなるか、患者への身体的影響、医師への影響、DNR指定でその他の治療がどうなるか、法的にはどういうことか、また患者の代弁者としての医師の役割など、あらゆることがきちんと話し合われるべきである。一方的DNR指定を書くなら、医師はその旨を患者または代理決定者に説明しなければならない。
こんなにも既成事実が先行している時に、
あくまでも性善説の努力義務ですかぁ……。
American College of Physicians on Medical Futility
MEDICAL FUTILITY BLOG, January 3, 2012
2012.01.13 / Top↑
米国内科学会から倫理マニュアルの第6版。Medical Futility Blogが無益な治療に関する項目を引用してくれている。:ざっと見、テキサス・ヴァージョンではない、その他の州の“無益な治療”法路線?
http://medicalfutility.blogspot.com/2012/01/american-college-of-physicians-on.html
上記マニュアル、医師の責務は何よりも患者に対するものであるとしつつも、限られた医療資源を効率的に公平に用いる責務、についても言及しているらしい。つまりコスト効率も倫理問題である、と。また医師による自殺幇助については、反対のスタンス。:うぇぇ。資源が公平に効率的に使われるように、というあたり、具体的にはどういう判断に使われていくのか。今でも”無益な治療”論は障害児・者の治療を「限られた資源の公平な分配という観点からいかがなものか」という疑問にさらしているのだけれど。
http://www.medpagetoday.com/PublicHealthPolicy/Ethics/30475
自殺幇助合法化を提言した英国のFalconer委員会報告に関する報道。
http://www.telegraph.co.uk/news/uknews/law-and-order/8987017/Lord-Falconer-assisted-suicide-law-fails-to-protect-or-punish.html
http://www.telegraph.co.uk/news/politics/8987593/A-duty-of-care-to-our-last-days-on-Earth.html
http://www.dailymail.co.uk/news/article-2080927/Cameron-faces-new-pressure-end-ban-assisted-suicide.html?ito=feeds-newsxml
Falconer委員会報告に先んじて前警察署長が自殺幇助に関する法の明確化を呼び掛けていた。
http://news2.onlinenigeria.com/world/uk/131384-law-on-assisted-suicide-confusing-and-unsafe-says-former-met-chief-blair.html
カナダの世論調査で67%が自殺幇助合法化を支持。
http://news.nationalpost.com/2011/12/29/67-of-canadians-support-legalizing-assisted-suicide-poll/
http://www.680news.com/news/national/article/314863--poll-finds-more-than-two-thirds-of-canadians-support-assisted-suicide
米国で婚約者をパントリーに閉じ込めて放火して殺した女性が自殺幇助を主張していた裁判で、裁判官が「オスカーをあげてもいいくらいの演技」と殺人罪で懲役23年の有罪判決。:自殺幇助合法化の議論がかまびすしい国では殺人で逮捕された人が自殺幇助だと言い逃れようとするケースが増えている事実は、もっと注目されるべきでは、と思う。
http://www.dailymail.co.uk/news/article-2081716/Julie-Dixon-jailed-23-years-lying-burning-fiance-death-cupboad.html
日本。脳死の臓器提供者 過去最高
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120103/t10015018441000.html
英国政府、17000万ポンド投じてNHSの病院から高齢者を退院させるための基金を設立。
http://www.guardian.co.uk/society/2012/jan/02/fund-old-patients-leave-nhs-hospitals?CMP=EMCNEWEML1355
英国で3年間に抗ウツ薬の処方が4分の1も増加。うつ病患者の医療費に年間110億ポンドも。経済の不安定が要因と。:経済状況の悪化なのかなぁ……? それよりも経済の動力の方が要因ということは?
http://www.guardian.co.uk/society/2011/dec/30/antidepressant-use-england-soars?CMP=EMCNEWEML1355
米、ナーシング・ホームで認知症患者への精神科薬の使い過ぎ問題。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/239843.php
【関連エントリー】
認知症患者への不適切な抗精神病薬投与、教育・意識改革が必要(2009/4/17)
10年間で精神科薬の処方が倍増(米)(2009/5/7)
英国のアルツ患者ケアは薬の過剰投与で「まるでビクトリア時代」(2009/6/5)
ナーシング・ホーム入所者に症状もICもなく精神病薬投与(2009/10/31)
不適切な抗精神病薬の投与、15万人の認知症患者に(英)(2009/11/15)
1人でTX州の総量をはるかに超える統合失調症治療薬を処方する精神科医が野放し……の不思議(2009/11/30)
英国連立政権の税と社会保障改革で最も影響が大きいのは子どものいる夫婦。
http://www.guardian.co.uk/politics/2012/jan/04/couples-children-coalition-tax-benefit?CMP=EMCNEWEML1355
日本。京都に子どもシェルターができます (ブログ「キリンが逆立ちしたピアス」)
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20111231/1325321402
日本。原発ゼロをめざす湖西ネット、発足。
http://www.nionoumi.net/gz/homu.html
http://medicalfutility.blogspot.com/2012/01/american-college-of-physicians-on.html
上記マニュアル、医師の責務は何よりも患者に対するものであるとしつつも、限られた医療資源を効率的に公平に用いる責務、についても言及しているらしい。つまりコスト効率も倫理問題である、と。また医師による自殺幇助については、反対のスタンス。:うぇぇ。資源が公平に効率的に使われるように、というあたり、具体的にはどういう判断に使われていくのか。今でも”無益な治療”論は障害児・者の治療を「限られた資源の公平な分配という観点からいかがなものか」という疑問にさらしているのだけれど。
http://www.medpagetoday.com/PublicHealthPolicy/Ethics/30475
自殺幇助合法化を提言した英国のFalconer委員会報告に関する報道。
http://www.telegraph.co.uk/news/uknews/law-and-order/8987017/Lord-Falconer-assisted-suicide-law-fails-to-protect-or-punish.html
http://www.telegraph.co.uk/news/politics/8987593/A-duty-of-care-to-our-last-days-on-Earth.html
http://www.dailymail.co.uk/news/article-2080927/Cameron-faces-new-pressure-end-ban-assisted-suicide.html?ito=feeds-newsxml
Falconer委員会報告に先んじて前警察署長が自殺幇助に関する法の明確化を呼び掛けていた。
http://news2.onlinenigeria.com/world/uk/131384-law-on-assisted-suicide-confusing-and-unsafe-says-former-met-chief-blair.html
カナダの世論調査で67%が自殺幇助合法化を支持。
http://news.nationalpost.com/2011/12/29/67-of-canadians-support-legalizing-assisted-suicide-poll/
http://www.680news.com/news/national/article/314863--poll-finds-more-than-two-thirds-of-canadians-support-assisted-suicide
米国で婚約者をパントリーに閉じ込めて放火して殺した女性が自殺幇助を主張していた裁判で、裁判官が「オスカーをあげてもいいくらいの演技」と殺人罪で懲役23年の有罪判決。:自殺幇助合法化の議論がかまびすしい国では殺人で逮捕された人が自殺幇助だと言い逃れようとするケースが増えている事実は、もっと注目されるべきでは、と思う。
http://www.dailymail.co.uk/news/article-2081716/Julie-Dixon-jailed-23-years-lying-burning-fiance-death-cupboad.html
日本。脳死の臓器提供者 過去最高
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120103/t10015018441000.html
英国政府、17000万ポンド投じてNHSの病院から高齢者を退院させるための基金を設立。
http://www.guardian.co.uk/society/2012/jan/02/fund-old-patients-leave-nhs-hospitals?CMP=EMCNEWEML1355
英国で3年間に抗ウツ薬の処方が4分の1も増加。うつ病患者の医療費に年間110億ポンドも。経済の不安定が要因と。:経済状況の悪化なのかなぁ……? それよりも経済の動力の方が要因ということは?
http://www.guardian.co.uk/society/2011/dec/30/antidepressant-use-england-soars?CMP=EMCNEWEML1355
米、ナーシング・ホームで認知症患者への精神科薬の使い過ぎ問題。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/239843.php
【関連エントリー】
認知症患者への不適切な抗精神病薬投与、教育・意識改革が必要(2009/4/17)
10年間で精神科薬の処方が倍増(米)(2009/5/7)
英国のアルツ患者ケアは薬の過剰投与で「まるでビクトリア時代」(2009/6/5)
ナーシング・ホーム入所者に症状もICもなく精神病薬投与(2009/10/31)
不適切な抗精神病薬の投与、15万人の認知症患者に(英)(2009/11/15)
1人でTX州の総量をはるかに超える統合失調症治療薬を処方する精神科医が野放し……の不思議(2009/11/30)
英国連立政権の税と社会保障改革で最も影響が大きいのは子どものいる夫婦。
http://www.guardian.co.uk/politics/2012/jan/04/couples-children-coalition-tax-benefit?CMP=EMCNEWEML1355
日本。京都に子どもシェルターができます (ブログ「キリンが逆立ちしたピアス」)
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20111231/1325321402
日本。原発ゼロをめざす湖西ネット、発足。
http://www.nionoumi.net/gz/homu.html
2012.01.13 / Top↑
英国の知的障害者チャリティMencapが2007年に
医療職の知的障害に対する無知と無関心によって知的障害者が死んでいる、として
Death by Indifferenceという報告書を取りまとめ、
それが医療オンブズマンの調査と処罰に結び付いたことは、
以下のエントリーでまとめました。
「医療の無関心が助かる知的障害者を死なせている」報告受け調査へ(英)(2009/1/27)
「医療における障害への偏見が死につながった」オンブズマンが改善を勧告(2009/3/31)
オンブズマン報告書を読んでみた:知的障害者に対する医療ネグレクト
Markのケース:知的障害者への偏見による医療過失
Martinのケース:知的障害者への偏見による医療過失
Mencapはその後も
医療現場での知的・精神障害者に対する偏見と差別をなくすキャンペーンを続けながら、
知的障害のある患者への理解を進め、コミュニケーションを改善すべく
NHSスタッフに十分な研修を行うよう求めている。
Mencapはこのたび、新たに
過去10年間にNHSの病院で亡くなった知的障害者74人のケースについて
病院側の過誤や患者の苦痛に対する無知・無関心によるものと指摘し、
NHSには障害のある患者に対する組織的差別がある、と糾弾。
Mencapの幹部は
「74人のケースから、
NHSはまだまだ知的障害者の治療の仕方を分かっていないことは明らかで、
驚くべきネグレクトと尊厳無視のオンパレード。
NHSの組織的差別の結果、救命可能な知的障害者が死んでいるのだ」
指摘を受け、保健省のPaul Burstowケア・サービス大臣は懸念はもっともだとして、
知的障害者の避けることのできた死や時期尚早だった死について極秘調査を行うと同時に、
知的障害者への医療改善に焦点化した監督機関に予算をつける、とも。
極秘調査はイングランド南西部の5つのプライマリー・トラストで
知的障害のある患者の死亡事例を全て調査し、
NHSで治療流に死を避けるために他にできることがあったかどうかを調べた上で
2013年に大臣らに答申する予定。
調査を率いるDr. Pauline Heslopは
「知的障害者にはその他の患者と同じように
タイムリーで適切かつ個々のニーズに合わせたケアを受ける権利があり、
その権利が疑われたりネグレクトされるのは許しがたいことです」
NHSの幹部らもMencapの報告書を詳細に検討する、と。
NHS accused over deaths of disabled patients
The Guardian, January 2, 2011
【関連エントリー】
医療職の無知が障害者を殺す?(2008/4/23)
知的障害者の腎臓がんを1年もほったらかし、でもメディアが騒ぐと即、手術(豪)(2010/7/1)
「心の病は、誰が診る?」を読む(2011/10/7)
ウチの娘が腸ねん転で手術を受けた時の医療側の差別的対応について
冒頭のMarkのケースのエントリーを始め、いくつかのエントリーで書いているのですが、
上記去年10月7日の「心の病は、誰が診る?」のエントリーでは以下のように書きました。
「腸ねん転の重症重複障害児」を巡って入所施設と総合病院の外科・小児科との連携は
「送りました」「引き受けました」でしかなく、
あとは全てが医療機関間と診療科間の力・上下関係と、
各機関、各診療科、各医師のメンツとプライドの問題となってしまう。
患者は障害について無知な医療スタッフによって無用な苦しみを強いられているのに、
家族の言うことは「素人が何をエラソーに」とバカにして聞く耳を持たないし
分からないくせにメンツとプライドが邪魔をして知っている側に聞くこともしない、
知っている側も送ってしまえば口を出せない垣根が張り巡らされて、それはつまり
「患者本人のために何がよいかを正しく見つけ出そう」という姿勢が誰にもない、ということ。
あれでは本当に命にかかわる。
死ななければいいという問題でもないし。
宮岡氏が「精神疾患に関して一番偏見が強いのは、実は一般の方ではなくて
精神科医以外の医療スタッフ」(P.87)と指摘しているのは、
重症児を巡っても全く同じだった、というのが私の切実な体験。
「重症児なんか、いつ何が起きるか分からないから、
とにかく余計なことは一切やりたくない」外科医は、
腸ねん転の手術直後に痛み止めの座薬すら入れてくれない。
重症児の細い血管に点滴を入れるだけの技術を持たない医師は、
中心静脈にラインを取る決断も経管栄養の決断すらせず放置。
「これでは、なぶり殺しにされる」と私は本気で恐怖した。
ああいう垣根だけは、早急に何とかしてほしい。
医療職の知的障害に対する無知と無関心によって知的障害者が死んでいる、として
Death by Indifferenceという報告書を取りまとめ、
それが医療オンブズマンの調査と処罰に結び付いたことは、
以下のエントリーでまとめました。
「医療の無関心が助かる知的障害者を死なせている」報告受け調査へ(英)(2009/1/27)
「医療における障害への偏見が死につながった」オンブズマンが改善を勧告(2009/3/31)
オンブズマン報告書を読んでみた:知的障害者に対する医療ネグレクト
Markのケース:知的障害者への偏見による医療過失
Martinのケース:知的障害者への偏見による医療過失
Mencapはその後も
医療現場での知的・精神障害者に対する偏見と差別をなくすキャンペーンを続けながら、
知的障害のある患者への理解を進め、コミュニケーションを改善すべく
NHSスタッフに十分な研修を行うよう求めている。
Mencapはこのたび、新たに
過去10年間にNHSの病院で亡くなった知的障害者74人のケースについて
病院側の過誤や患者の苦痛に対する無知・無関心によるものと指摘し、
NHSには障害のある患者に対する組織的差別がある、と糾弾。
Mencapの幹部は
「74人のケースから、
NHSはまだまだ知的障害者の治療の仕方を分かっていないことは明らかで、
驚くべきネグレクトと尊厳無視のオンパレード。
NHSの組織的差別の結果、救命可能な知的障害者が死んでいるのだ」
指摘を受け、保健省のPaul Burstowケア・サービス大臣は懸念はもっともだとして、
知的障害者の避けることのできた死や時期尚早だった死について極秘調査を行うと同時に、
知的障害者への医療改善に焦点化した監督機関に予算をつける、とも。
極秘調査はイングランド南西部の5つのプライマリー・トラストで
知的障害のある患者の死亡事例を全て調査し、
NHSで治療流に死を避けるために他にできることがあったかどうかを調べた上で
2013年に大臣らに答申する予定。
調査を率いるDr. Pauline Heslopは
「知的障害者にはその他の患者と同じように
タイムリーで適切かつ個々のニーズに合わせたケアを受ける権利があり、
その権利が疑われたりネグレクトされるのは許しがたいことです」
NHSの幹部らもMencapの報告書を詳細に検討する、と。
NHS accused over deaths of disabled patients
The Guardian, January 2, 2011
【関連エントリー】
医療職の無知が障害者を殺す?(2008/4/23)
知的障害者の腎臓がんを1年もほったらかし、でもメディアが騒ぐと即、手術(豪)(2010/7/1)
「心の病は、誰が診る?」を読む(2011/10/7)
ウチの娘が腸ねん転で手術を受けた時の医療側の差別的対応について
冒頭のMarkのケースのエントリーを始め、いくつかのエントリーで書いているのですが、
上記去年10月7日の「心の病は、誰が診る?」のエントリーでは以下のように書きました。
「腸ねん転の重症重複障害児」を巡って入所施設と総合病院の外科・小児科との連携は
「送りました」「引き受けました」でしかなく、
あとは全てが医療機関間と診療科間の力・上下関係と、
各機関、各診療科、各医師のメンツとプライドの問題となってしまう。
患者は障害について無知な医療スタッフによって無用な苦しみを強いられているのに、
家族の言うことは「素人が何をエラソーに」とバカにして聞く耳を持たないし
分からないくせにメンツとプライドが邪魔をして知っている側に聞くこともしない、
知っている側も送ってしまえば口を出せない垣根が張り巡らされて、それはつまり
「患者本人のために何がよいかを正しく見つけ出そう」という姿勢が誰にもない、ということ。
あれでは本当に命にかかわる。
死ななければいいという問題でもないし。
宮岡氏が「精神疾患に関して一番偏見が強いのは、実は一般の方ではなくて
精神科医以外の医療スタッフ」(P.87)と指摘しているのは、
重症児を巡っても全く同じだった、というのが私の切実な体験。
「重症児なんか、いつ何が起きるか分からないから、
とにかく余計なことは一切やりたくない」外科医は、
腸ねん転の手術直後に痛み止めの座薬すら入れてくれない。
重症児の細い血管に点滴を入れるだけの技術を持たない医師は、
中心静脈にラインを取る決断も経管栄養の決断すらせず放置。
「これでは、なぶり殺しにされる」と私は本気で恐怖した。
ああいう垣根だけは、早急に何とかしてほしい。
2012.01.13 / Top↑
新年あけまして、おめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
とはいえ、新年早々、なんとも気分の悪いニュースです。
去年はカナダの王立協会から同様の提言が出たばかり。
------
英国上院の前議長Falconer議員といえば、
09年に改正法案を提出するなど、もともと合法化論者として有名な方。
そのFalconer議員が委員長となり
こちらも合法化運動の広告塔、作家のTerry Pratchettの資金提供で
去年立ち上げられたのがthe Commission on Assisted Dying。
Falconer議員とFalconer委員会関連エントリーはこちら ↓
自殺法改正案提出 Falconer議員 Timesに(2009/6/3)
英国上院、自殺幇助に関する改正法案を否決(2009/7/8)
英国上院に自殺幇助に関する検討委員会(2010/11/30)
上記エントリーにも書いている通り、
当初から合法化支持に立場の委員に偏っているとの指摘がありましたが、
予想通り、対象者を限定しセーフガードを十分に用意した上で
自殺幇助を合法化するよう法改正を求める報告書を今週中に出てくる模様。
この情報を受け、
哲学者のMary Warnockが
一番悲惨なのは自殺に失敗することだから、
ノウハウを知っている医師や看護師が自殺幇助するのが望ましいといった趣旨の
論考をObseverに寄せているらしい。
ざっとした検索ではヒットしなかったし、
さして読みたい気分でもないので、このエントリーではパス
法務大臣のスポークスマンは
自殺幇助合法化問題は政府ではなく議会で議論すべきこと、とコメント。
End the ban on assisted suicide, report will urge the government
The Guardian, January 1, 2011
【1月4日追記】
英国のFalconer委員会報告に関する記事。
http://www.telegraph.co.uk/news/uknews/law-and-order/8987017/Lord-Falconer-assisted-suicide-law-fails-to-protect-or-punish.html
http://www.telegraph.co.uk/news/politics/8987593/A-duty-of-care-to-our-last-days-on-Earth.html
http://www.dailymail.co.uk/news/article-2080927/Cameron-faces-new-pressure-end-ban-assisted-suicide.html?ito=feeds-newsxml
Falconer委員会報告に先んじて前警察署長が自殺幇助に関する法の明確化を呼び掛けていた。
http://news2.onlinenigeria.com/world/uk/131384-law-on-assisted-suicide-confusing-and-unsafe-says-former-met-chief-blair.html
【Pratchette氏の発言に関するエントリー】
作家 Terry Partchett “自殺幇助法案”を支持(2009/7/1)
自殺幇助ガイドラインに、MSの科学者とアルツハイマーの作家それぞれの反応(2009/9/23)
作家 Pratchette氏「自殺幇助を個別に検討・承認する委員会を」(2010/2/2)
Pratchett氏の「自殺幇助委員会」提言にアルツハイマー病協会からコメント(2010/2/3)
BBC、人気作家がALS患者のDignitas死に寄り沿うドキュメンタリーを作成(2011/4/15)
【Mary Warnock氏の発言に関するエントリー】
英国著名哲学者、認知症患者に「死ぬ義務」(2008/9/29)
BMJの副編が「生きたい障害者が死にたい病人のジャマするな」(2009/9/6)
Warnock, Finlay, Purdy他が自殺幇助で円卓会議(2010/1/31)
今年もよろしくお願いいたします。
とはいえ、新年早々、なんとも気分の悪いニュースです。
去年はカナダの王立協会から同様の提言が出たばかり。
------
英国上院の前議長Falconer議員といえば、
09年に改正法案を提出するなど、もともと合法化論者として有名な方。
そのFalconer議員が委員長となり
こちらも合法化運動の広告塔、作家のTerry Pratchettの資金提供で
去年立ち上げられたのがthe Commission on Assisted Dying。
Falconer議員とFalconer委員会関連エントリーはこちら ↓
自殺法改正案提出 Falconer議員 Timesに(2009/6/3)
英国上院、自殺幇助に関する改正法案を否決(2009/7/8)
英国上院に自殺幇助に関する検討委員会(2010/11/30)
上記エントリーにも書いている通り、
当初から合法化支持に立場の委員に偏っているとの指摘がありましたが、
予想通り、対象者を限定しセーフガードを十分に用意した上で
自殺幇助を合法化するよう法改正を求める報告書を今週中に出てくる模様。
この情報を受け、
哲学者のMary Warnockが
一番悲惨なのは自殺に失敗することだから、
ノウハウを知っている医師や看護師が自殺幇助するのが望ましいといった趣旨の
論考をObseverに寄せているらしい。
ざっとした検索ではヒットしなかったし、
さして読みたい気分でもないので、このエントリーではパス
法務大臣のスポークスマンは
自殺幇助合法化問題は政府ではなく議会で議論すべきこと、とコメント。
End the ban on assisted suicide, report will urge the government
The Guardian, January 1, 2011
【1月4日追記】
英国のFalconer委員会報告に関する記事。
http://www.telegraph.co.uk/news/uknews/law-and-order/8987017/Lord-Falconer-assisted-suicide-law-fails-to-protect-or-punish.html
http://www.telegraph.co.uk/news/politics/8987593/A-duty-of-care-to-our-last-days-on-Earth.html
http://www.dailymail.co.uk/news/article-2080927/Cameron-faces-new-pressure-end-ban-assisted-suicide.html?ito=feeds-newsxml
Falconer委員会報告に先んじて前警察署長が自殺幇助に関する法の明確化を呼び掛けていた。
http://news2.onlinenigeria.com/world/uk/131384-law-on-assisted-suicide-confusing-and-unsafe-says-former-met-chief-blair.html
【Pratchette氏の発言に関するエントリー】
作家 Terry Partchett “自殺幇助法案”を支持(2009/7/1)
自殺幇助ガイドラインに、MSの科学者とアルツハイマーの作家それぞれの反応(2009/9/23)
作家 Pratchette氏「自殺幇助を個別に検討・承認する委員会を」(2010/2/2)
Pratchett氏の「自殺幇助委員会」提言にアルツハイマー病協会からコメント(2010/2/3)
BBC、人気作家がALS患者のDignitas死に寄り沿うドキュメンタリーを作成(2011/4/15)
【Mary Warnock氏の発言に関するエントリー】
英国著名哲学者、認知症患者に「死ぬ義務」(2008/9/29)
BMJの副編が「生きたい障害者が死にたい病人のジャマするな」(2009/9/6)
Warnock, Finlay, Purdy他が自殺幇助で円卓会議(2010/1/31)
2012.01.13 / Top↑
「『いのちの思想』を掘り起こす-生命倫理の再生に向けて」
安藤泰至編著 岩波書店
読んだ時に、
アカデミックな議論の内容については
正直まったくついていくことができなかったので、
こんなド素人が書評を書いていいんだろうか……と迷った。
でも、読みながら、言いたいことだけは喉元に群がり起こっていたので、
思い切って、そのこと(だけ?)を書かせてもらった。
生命倫理を問い直すのはアカデミックな世界の住民の特権じゃないはずだ……という思いを
そうか、私はAshley事件と出会ってからのリサーチと物思いの中でずっと抱えていたんだ……と、
この本を読んで気付かせてもらった。
生命倫理が脅かしているのが、私たちや私たちの家族の身体や命なのであれば、
生命倫理は、学者でも思想家でもない私たちによってこそ、問い直されるべきではないか。
この書評を書くことで、これまで言葉になっていなかった問題意識を
くっきりと言葉で捉えることができた。
振り返ってみたら、
拙著「アシュリー事件」でもOuelletteの新刊の紹介エントリーでも、
私が言いたかったことの1つは、このことだったような気がする。
気づいてみれば、学者でも思想家でもない私が厚かましくも
生命倫理をタイトルに謳ったブログをやり続けていることそのものが
最初からそういう問題意識だったことを物語っている。
はっきりと言葉で捉えることができた以上、
来年は、このことをしっかり考えてみよう、と念じつつ、
この書評を2011年の締めくくりのエントリーに――。
本書は5章構成で、「狭い意味での『生命倫理学者』ではない」が生命倫理のあたりで(も)仕事をしている学者が1章ずつ担当している。最初の4章では「いのちの思想」として、上原專祿(戦後の歴史学者)、田中美津(70年代ウーマン・リブの牽引者)、中川米造(医学哲学者)、岡村昭彦(報道写真家)という4人の人生の軌跡と思想とを紹介・考察し、最後の章は、生命倫理が日本にどのようにもたらされてきたか、開拓者たちの思想や背景を歴史的に概観する。
その問題意識とは、副題にあるように「生命倫理は再生されなければならない」というものだ。編著者の安藤泰至は「序にかえて」で早々に「生命倫理(学)は、医学や医療あるいは生命科学研究をめぐるシステムの一部として、それに付随するある種の『手続き』のようなものになり下がりつつ」あると指摘する。1章の終りでも、具体的な事例を挙げて生命倫理学や生命倫理学者の欺瞞性に鋭く切り込んでいる。それなら何故、生命倫理と直接の繋がりのない思想家をわざわざ引っ張り出して論じるといった迂遠なことをやらなければならないのだろう……? そんな怪訝な思いにかられる。
しかも2章では、幼時の性的虐待という原体験をもつ田中美津が、一歩も逃げずにその痛みを自分のものとして引き受け、女である「私という真実」をまるごと生きようとする生きざまに息を飲むうち、生命倫理そのものがいつか念頭から消え去ってしまう。
その後、常に弱者の側に立って近代医療を批判した「中川医療慨論」、世界を舞台に仕事をしながら差別と人権の問題にこだわり続けてバイオエシックスと出会った岡村へと、人物の生きた軌跡はまた生命倫理へと接近していく。読者には少しずつ、なぜ彼らを引っ張り出さなければならなかったのか、なぜそれらが平仮名で「いのちの思想」と呼ばれるのかが、おそらくは体感として腑に落ちていくだろう。そこに著者らの見事な仕掛けがある。
5章で印象的なのは、“輸入”された生命倫理を日本の文化風土から問い直そうとした森岡正博が、ウーマン・リブと障害者運動と出会い、日本では70年代から独自に生命倫理の議論が開始されていたことを発見する下りだ。日本の生命倫理はそこでぐるりと田中美津に繋がり戻され、その“原点”から現在のあり方を照らし返す。
読了後、4章から1章へと逆方向に読み返してみたいと思った。4人を逆にたどった、その先には、学者でも思想家でもない「私たち」がいるのではないか、という気がしたのだ。普遍的で大きな「いのち」と繋がりそこに包まれつつ、この抜き差しならない小さな「いのち」を生きる私の痛みと怒りと悲しみと、そこから生まれる祈り――。そんな私たち一人一人によってこそ、生命倫理は問い直され、再生を求められるべきではないのだろうか。
なぜならば編著者が書いているように、家族の「脳死」臓器提供をするか否かの「選択」を迫られる時に、その「『選択肢』が既に医療とそれをめぐるシステムによって制限され、狭められた形で提供されているにすぎないこと」が見えなくされているのは、他ならぬ私たちなのだから。
「介護保険情報」2011年12月号 P. 17
安藤泰至編著 岩波書店
読んだ時に、
アカデミックな議論の内容については
正直まったくついていくことができなかったので、
こんなド素人が書評を書いていいんだろうか……と迷った。
でも、読みながら、言いたいことだけは喉元に群がり起こっていたので、
思い切って、そのこと(だけ?)を書かせてもらった。
生命倫理を問い直すのはアカデミックな世界の住民の特権じゃないはずだ……という思いを
そうか、私はAshley事件と出会ってからのリサーチと物思いの中でずっと抱えていたんだ……と、
この本を読んで気付かせてもらった。
生命倫理が脅かしているのが、私たちや私たちの家族の身体や命なのであれば、
生命倫理は、学者でも思想家でもない私たちによってこそ、問い直されるべきではないか。
この書評を書くことで、これまで言葉になっていなかった問題意識を
くっきりと言葉で捉えることができた。
振り返ってみたら、
拙著「アシュリー事件」でもOuelletteの新刊の紹介エントリーでも、
私が言いたかったことの1つは、このことだったような気がする。
気づいてみれば、学者でも思想家でもない私が厚かましくも
生命倫理をタイトルに謳ったブログをやり続けていることそのものが
最初からそういう問題意識だったことを物語っている。
はっきりと言葉で捉えることができた以上、
来年は、このことをしっかり考えてみよう、と念じつつ、
この書評を2011年の締めくくりのエントリーに――。
本書は5章構成で、「狭い意味での『生命倫理学者』ではない」が生命倫理のあたりで(も)仕事をしている学者が1章ずつ担当している。最初の4章では「いのちの思想」として、上原專祿(戦後の歴史学者)、田中美津(70年代ウーマン・リブの牽引者)、中川米造(医学哲学者)、岡村昭彦(報道写真家)という4人の人生の軌跡と思想とを紹介・考察し、最後の章は、生命倫理が日本にどのようにもたらされてきたか、開拓者たちの思想や背景を歴史的に概観する。
その問題意識とは、副題にあるように「生命倫理は再生されなければならない」というものだ。編著者の安藤泰至は「序にかえて」で早々に「生命倫理(学)は、医学や医療あるいは生命科学研究をめぐるシステムの一部として、それに付随するある種の『手続き』のようなものになり下がりつつ」あると指摘する。1章の終りでも、具体的な事例を挙げて生命倫理学や生命倫理学者の欺瞞性に鋭く切り込んでいる。それなら何故、生命倫理と直接の繋がりのない思想家をわざわざ引っ張り出して論じるといった迂遠なことをやらなければならないのだろう……? そんな怪訝な思いにかられる。
しかも2章では、幼時の性的虐待という原体験をもつ田中美津が、一歩も逃げずにその痛みを自分のものとして引き受け、女である「私という真実」をまるごと生きようとする生きざまに息を飲むうち、生命倫理そのものがいつか念頭から消え去ってしまう。
その後、常に弱者の側に立って近代医療を批判した「中川医療慨論」、世界を舞台に仕事をしながら差別と人権の問題にこだわり続けてバイオエシックスと出会った岡村へと、人物の生きた軌跡はまた生命倫理へと接近していく。読者には少しずつ、なぜ彼らを引っ張り出さなければならなかったのか、なぜそれらが平仮名で「いのちの思想」と呼ばれるのかが、おそらくは体感として腑に落ちていくだろう。そこに著者らの見事な仕掛けがある。
5章で印象的なのは、“輸入”された生命倫理を日本の文化風土から問い直そうとした森岡正博が、ウーマン・リブと障害者運動と出会い、日本では70年代から独自に生命倫理の議論が開始されていたことを発見する下りだ。日本の生命倫理はそこでぐるりと田中美津に繋がり戻され、その“原点”から現在のあり方を照らし返す。
読了後、4章から1章へと逆方向に読み返してみたいと思った。4人を逆にたどった、その先には、学者でも思想家でもない「私たち」がいるのではないか、という気がしたのだ。普遍的で大きな「いのち」と繋がりそこに包まれつつ、この抜き差しならない小さな「いのち」を生きる私の痛みと怒りと悲しみと、そこから生まれる祈り――。そんな私たち一人一人によってこそ、生命倫理は問い直され、再生を求められるべきではないのだろうか。
なぜならば編著者が書いているように、家族の「脳死」臓器提供をするか否かの「選択」を迫られる時に、その「『選択肢』が既に医療とそれをめぐるシステムによって制限され、狭められた形で提供されているにすぎないこと」が見えなくされているのは、他ならぬ私たちなのだから。
「介護保険情報」2011年12月号 P. 17
2012.01.13 / Top↑
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