この辺でいったん論文そのものの検証から離れます。そこで、論文にこだわってきたエントリーのオマケとして、私にはとても興味深いと思える表現を論文中から2つ、ご紹介します。
まず1つは、「症例報告」の中、アシュリーが内分泌医の診察を受けた段階で、すでに早熟な思春期の発達を見せていたという下りに続く部分。思春期の兆しで娘の将来への両親の不安に火がついたのだと分かった、という内容の箇所に、After some probing, it was clear that the onset of puberty had awakened……という表現があります。私があれ?と思ったのは、probing という言葉。Probeとは、よく分からないことがあるときに、本当のことを確かめようとか真相を突き止めようと、あれこれと探りを入れてみることを言います。
ここは内分泌科に紹介されてきた初診時のことを言っているので、前のエントリー「まだある論文の”不思議” その3」で検証したGunther 医師の初診時になります。その時に医師の側がprobeした。両親から「私たちのオプション」を相談された医師のほうが、よくわからないから、あれこれと両親に探りを入れてみたというのです。
この言葉から見えてくるのは、両親が持ち出した話に一体これはどういうことかと面食らっている医師の姿ではないでしょうか。オプション(複数形)というからには、両親には既にいくつか「こうしたらどうだろう」、「こういう方法もどうだろう」という案があったのだろうと思われます。それらをいきなり突きつけられて面食らった医師が、そんな突飛なことを言い出す親の真意を図りかねて、あれこれ聞いてみている。そんな場面が私の頭には浮かびます。
1月3日付のLATimes の記事では、Gunther 医師が「この件を聞いた人の最初の反応が拒絶的になるのは当たり前だが、本当に内容を検討し子どもへのメリットを並べてみたら、ここにはthe possible wisdom が見え始める」と述べています。The possible wisdomとは、「ああ、これも知恵かな」、「案外かしこいかも」と思えてくるということでしょう。最初は拒絶反応を起こしたけれど、親の言うことを聞いてみたら、なるほど、確かにこれもひとつの知恵か、案外いいのかも、と考えるようになった、というのこそ、もしかしたらGunther 医師自身がたどったプロセスだったのかもしれません。
もう1つ、論文の面白い表現。
「倫理の議論」で、障害者に対する優生手術の歴史についてざっと書いた直後の一文です。このような虐待の教訓は忘れてはならないと書いたのに続いて、but past abuses should not dissuade us from exploring novel therapies that offer the potential for benefit. この中には面白い単語の選択が3つもあります。Explore と novelと potential 。
初めて読んだ時に目に留まり、読むたびに気にかかるセンテンスです。もちろん内容は、「過去に優生思想による虐待があっても、そんなの関係ない」といっているのに等しいものです。が、これら3つの言葉の選択をじっくり眺めてみると、他の箇所で何をどう言いつくろおうと、ちゃんとホンネはこの1文で語るに堕ちていると言えないでしょうか。メリットがあると本当は確信してなんかいない。この療法がほとんど実験的なものに等しいことも、実はちゃんと分かっている。こうした単語の選択に、またも語るに堕ちたホンネを聞いてしまうのは、私の気のせいでしょうか。
ワシントン大学のシンポで、子ども病院の医師らが「これまでも行われてきた治療法なのだから、別に大騒ぎするほどのことでもない」といったニュアンスで、この一連の処置をconventionalと形容した場面が何度かあったように思います。novel と形容するほかにも、論文ではこの療法について「unconventinal でcontroversial になりそうだから倫理委にかけた」とも書いているのですが……。
⑤論文発表の時期の不思議
アシュリーの手術は2004年7月のことでした。論文発表までに2年以上経過しています。論文発表時、ホルモン療法は開始から1年ちょっと。まだ継続中です。(追記:事実はこの段階で「2年とちょっと」だったようです。その後 ここで論文のいう「開始から1年ちょっと」はウソと判明しました。http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/9980853.html 「論文のウソ 追加」のエントリーを参照してください。)
なぜ、この時期まで発表しなかったのでしょうか。
なぜ、この時期になって発表したのでしょうか。
これまで見てきたように、この論文には、磐石の自信がある症例を「どうだ」と報告するといったトーンはありません。障害児福祉の難題を解決する新たなアプローチを発見したと、胸を張って堂々と提唱するというふうでもありません。むしろその逆に、隠蔽したり誤魔化したり姑息なトリックを忍ばせたり、自分で論文発表していながら「バレてほしくない」という本音がコソコソと聞こえてきます。内容に関連するその他の発言でも、隋所に責任転嫁の無意識が作用しているようです。これらを総合して考えると、はっきり言って、この論文は「うさん臭い」し、そこから匂ってくるのは執筆者の後ろめたさではないでしょうか。
しかし不思議なのは、論文が発表されたこの段階で、アシュリーの手術は当事者以外には漏れていなかったことです。(アシュリーに行われたことの一切が、それまでの2年間、世の中にはまったく知られないままだったという事実は、もっと重視して考えなければならないのではないか、と私は思っています。)2年間もバレずにきていたのだから、そんなに隠したいことや誤魔化したいことばかりだったのであれば、わざわざ論文など書かず、そのままにしておけばいい。そうすれば、直接関与した病院関係者とアシュリーの両親以外、世の中には知られないまま、すべてが隠蔽されて終わっていたはずなのです。
それなのに、なぜ、わざわざ論文を書いたのでしょうか。しかも、こんな中途半端な時期に。こんな中途半端な内容の論文を。
ちょっと荒唐無稽にも思えるかもしれませんが、彼らは本当は自分たちがやったことがマズイと知っていたし、できれば隠しておきたかった、論文だって書きたくなどなかった、でもどうしても書かなければならない事情があった、と仮定してみたら……?
④倫理カウンセラーであった医師が論文執筆者であることの不思議
このような医学論文で、倫理カウンセラーという立場でそのケースにかかわった医師が執筆するということが、どの程度当たり前のことなのか、私はまったく無知なので分かりません。が、倫理委員会での審議過程とその判断に彼らがなんら後ろめたさを感じる必要がなく、この療法のメリットにも本当に心からの自信を持っていたのだとしたら、今回の一連の処置の責任者である内分泌医のGunther医師が一人で論文を書けばよかったことなのではないでしょうか。
WPASは調査で、アシュリーへの処置の担当医として内分泌医と外科医の2人に聞き取りを行っています。内分泌医はもちろんGunther 医師でしょう。おそらく調査報告書Exhibit Lにおいて、倫理委で意見陳述したとされるO'Neil医師がこの外科医と思われます。この聞き取りで、外科医は手術前に、アシュリーの弁護士の手紙のコピーと倫理委の勧告文書の両方を手に、診療ディレクターのところに確認に行ったと語っています。そして、そこでアシュリーの弁護士の見解でもって法律的な問題がクリアされたとの判断から、診療ディレクターが手術の実施に最終的な承認を与えたとのこと。(WPASの調査報告書添付のExhibit J によると、その後、診療部長は別人に代わっているようです。)この外科医の行動は、執刀医・主治医として自分が責任を問われることへの懸念から出たものでしょう。論文を書いて症例報告を行うのであれば、直接的に医療行為に携わっていない倫理カウンセラーよりも、この外科医のほうが本来ふさわしいのではないのでしょうか。
けれど、もちろん、この不思議は、Diekema医師がその後も一貫して、いわば病院サイドの広報担当者のような役回りを演じてきたことと無関係でもないのでしょう。
それにしても、Gunther医師はシンポにも出てきませんでした。WPASが聞き取りを行ったという外科医も出てきていません。アシュリーの個別のケースをテーマにした午前の部のシンポに、病院側からのパネリストは倫理の検討にかかわった2人で、直接的にこのたび問題になっている医療行為を担当した医師は加わっていなかったということになります。(Cowen医師はアシュリーの昔からの主治医ですが、モデレーターでありパネりストではありませんでした。)
③親のアイディアが具体的な計画となった場面に居合わせたのがGunther 医師である事実を伏せていることの不思議。
両親のブログに書かれている事実関係を整理してみると、いわゆる“アシュリー療法”のアイディアが生まれ、それが具体的な計画となるまでの経緯は以下のようになります。
2004年初頭、6歳6ヶ月のアシュリーに思春期初期の兆候が見られる。
↓
アシュリーの母親が「アシュリーの医師」との会話の中で、思春期を加速させて最終身長を抑制するというアイディアを思いつく。(この時医師に会ったのは母親のみ。この「アシュリーの医師」は特定できません。)
↓
シアトル子ども病院の内分泌医Gunther 医師の予約を取り、両親そろって「私たちのオプション」を相談。エストロゲン大量投与で成長抑制が可能と分かる。60・70年代に背の高い少女に行われたホルモン療法では副作用がなかったことも分かる。(この時は両親がそろっていた。)
この経緯に重なる部分を論文から探すと、「医師らの論文にはマヤカシがある その3」で引用した、あの長くややこしいセンテンスに行き当たります。
「両親と医師(なぜか無冠詞単数形)が長い間相談した末に、大量エストロゲンを使って成長を抑制し、治療前に子宮摘出術を行って思春期の一般的な長期的な問題と、とりわけ治療の反作用を軽減するという計画が作られた」。
受動態になっているため、誰がその計画を作ったのかは不明です。如何に長く、構造上ややこしいセンテンスになろうとも、受動態で書かなければならなかった理由は、恐らくこのあたりなのでしょう。
両親のブログの描写と突き合わせてみると、この場面では両親がそろっていることから、論文のこのセンテンスの「医師」はGunther 医師のことと思われます。Gunther医師自身が、このケースで行った療法をアメリカの障害児福祉施策に貢献するnew approach だとまで言って論文発表しているというのに、なぜその計画を具体化したのが自分自身であることを隠すのでしょうか。
ちなみに、1月12日に「ラリー・キング・ライブ」に出演した際にDiekema医師は、自分が倫理カウンセラーとしてこのケースにかかわるようになった経緯について、両親がシアトル子ども病院で「われわれの医師の一人と、彼らが娘にメリットがあると考えていることを行うことについて話をした後で関与を求められた」と説明しています。「両親が娘にとってメリットがあると考えていること」はもちろん成長抑制、両親のブログの言葉で言えば「われわれのオプション」に当たるのは明らかですから、両親がそろってGunther医師に「われわれのオプションを相談」した場面でしょう。ここでもまたDiekema医師の言う「われわれの医師の一人」とはGunther医師のことになります。
1月12日といえば、両親のブログはすでに世界中の人に読まれています。今年に入って最初に報道したロサンジェルスタイムズの1月3日の記事をはじめ、多くの記事でGunther医師はアシュリーに行われた一連の処置の考案者だとか監督者と書かれてもいます。いまさら「われわれの医師の一人」などと隠したところで無意味だと思うのですが、これもまた何らかの無意識のなせる業だったのでしょうか。
無意識といえば、この「両親が娘にとってメリットがあると考えていることを行うことについて話をした」というのも面白い表現です。(Ashley’s parents )had a conversation with one of our physicians about doing the things they thought would benefit their daughter. ここには「彼らが勝手にそう思っているところの」というニュアンスが、ありはしないでしょうか。