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東日本の被災地にストーブを届けようというプロジェクトがあります。
http://www.humanlink.jpn.org/index.html

英国のthe General Medical Councilから、自殺を幇助したとの医師への苦情があった場合を想定し、医師の行為の何が自殺幇助に当たるかを明確化するガイダンスが出るらしい。その点が今の法律は曖昧だから、と。:公訴局長のガイドラインが事実上、自殺幇助を合法化したのに次いで、医療職の自殺幇助が一定の範囲で事実上合法化されることにならないことを祈る。
http://www.bbc.co.uk/news/health-16210769
http://www.dailymail.co.uk/news/article-2074823/Could-doctors-punished-talking-Dignitas-patients.html?ito=feeds-newsxml
http://www.guardian.co.uk/society/2011/dec/15/assisted-suicide-new-advice?newsfeed=true

CA州の自殺幇助合法化議論についてLATimesに。
http://www.latimes.com/health/la-me-1218-lopez-bucketlist-20111218,0,4685249.column

「植物状態」という呼び方を変えよう、との提言。
http://www.stltoday.com/news/opinion/columns/colleen-carroll-campbell/colleen-carroll-campbell-don-t-call-them-vegetables/article_71df4bcd-a11c-5141-8094-9b9197e443c8.html

豪NSW州政府が、本人が臓器提供意思を表明していれば家族は反対できないことにしようと提案していることが論議に。
http://news.smh.com.au/breaking-news-national/organ-donation-overhaul-gets-mixed-reviews-20111206-1ogjv.html

英国で生まれる子ども50人に1人に先天的欠損があるとの報告書が出て、モニタリングの地域間格差が問題に。以前のデータでは80人に1人とされていた。:英国では出産のどの過程であっても先天的欠損を理由に「中絶」が認められている。その「欠損」が内反足や口蓋裂であったとしても。
http://www.medicalnewstoday.com/releases/239163.php

介護者への何よりのクリスマス・プレゼントはレスパイト。
http://www.medicalnewstoday.com/releases/239302.php

ナーシング・ホームにおける不適切な薬の使用問題。
http://www.brookings.edu/opinions/2011/1215_medicare_pharmacies_kocot.aspx

病院での認知症患者のケアについて、基本的なケアすら提供できていない、とBBCに読者らの声。:こういう問題をないことにして、自殺幇助合法化が論じられることは、やっぱり本末転倒のような気がする。
http://www.bbc.co.uk/news/uk-scotland-edinburgh-east-fife-16213148

米国で解剖件数が減って、それが医療過誤の隠ぺいに。ProPublica.
http://www.propublica.org/article/without-autopsies-hospitals-bury-their-mistakes

【論説】新自由主義国家における知識の変容:STSと批判主義 木原英逸。「科学技術批判であるはずの科学技術論(Science and Technology Studies,STS)では進んでいない。むしろ,少なからず,STSは新自由主義的に変質した技術や科学を正当化するイデオロギー・規範となってきたと思われる2)。それはなぜか」。:STSを「生命倫理学」と置き換えても?
http://www.kokushikan.ac.jp/faculty/PSE/anniversary/CollectedPapers/pdf/kihara.pdf

「なぜBill Gatesは原発を中国に売り込んでいるのか」。WP。第4世代の未来型原発技術を持っているのはゲイツがテコ入れして立ち上げられたTerra Powerというベンチャー。これをゲイツが米国ではなく中国に売り込んでいることの意味は、米国にとって重大な警告だ、と。グローバル世界で最先端技術は経済ポテンシャルのあるところにしか流れないんだぞ、うかうかすんなよ、と。
http://www.washingtonpost.com/blogs/innovations/post/why-is-bill-gates-selling-nukes-to-china/2010/12/20/gIQA3FPmuO_blog.html

Netscape 創設者の妻が、ITの大企業はすべからく慈善で名を馳せよ、と。:1%が富を占有し過ぎるとの批判をかわすため?
Rebooting Philanthropy in Silicon Valley:Laur Arrillaga-Andreessen, wife of the Netscape co-founder Marc Andreessen, wants all tech titans to be famous for their charitable work, too.

Institute of Medicine and National Research Councilから「チンパンジーの研究利用を許すな」との報告書。
http://www.bioedge.org/index.php/bioethics/bioethics_article/9888

子どものうつ病予防に心理学グループ療法介入が有効。:子どものうつ病が so common だから……というんだけど、その原因は、そんなふうに過剰に子どもを操作的にいじくりまわす社会とか大人の姿勢なんでは?
http://www.medicalnewstoday.com/releases/239386.php

アーカンソー大学の医療ヒューマニティ学部から Guidance for Healthcare Ethics Committees。
http://www.cambridge.org/aus/catalogue/catalogue.asp?isbn=9780521279871#contributors

イラク、アフガニスタンからの難民を乗せたボートがインドネシア沖で転覆、300人以上が死亡か。
http://www.canberratimes.com.au/news/world/world/general/boat-sinks-up-to-300-dead/2396621.aspx?src=enews

性犯罪前歴者の住所届け出…大阪府が条例提案へ:そのうち米国のように足首にGPSとか?
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20111213-OYT1T01376.htm
2011.12.18 / Top↑
(前のエントリーの続きです)

「考察」の冒頭、ウ―レットが引いてくるのは
Philip Ferguson と Adrienne Asch の以下の言葉。

障害のある子どもが生まれるときに起こる最も重大なことは、子どもが生まれるということ。
ある夫婦が障害のある子どもの親になる時に起こる最も重大なことは、ある夫婦が親になるということ。

これを引きながら、ウ―レットは
MillerやGonzalesやその他の重病の乳児のケースで一番切実に感じるのは
親にとって、これは単に言論や議論の問題ではなく
リアルな経験であり痛みなのだということだ、と語る。

そして、リアルな体験に「これだけが正解」などないのだ、と。

ことほどさように、障害者らは個々のケースのリアリティの中で、
原理ではなく文脈でものを考えているのであり、
そのために時に矛盾しているように見えるだけなのだ、

親の決定権を事件によって認めなかったり支持したり、
立場を都合よく使い分けているから議論にならないと倫理学者は言うが、
彼らの立場は命の尊重という点で一致しているのだ、と。

そして、

……The central claim of disability experts is that misperceptions about life with disability have a detrimental effect on people with disabilities, particularly in the medical setting, where people with disabilities―especially babies with disabilities―have been isolated, victimized, and left to die based on incorrect assumptions about the potential for quality of life. The claim is historically accurate, and its currency is supported by empirical data and compelling theoretical analysis.

障害者問題の専門家が言っていることの核心とは、障害のある生についての誤った認識は、特に医療の場では障害者に悪影響を及ぼす、ということ。医療においては障害のある新生児が、将来のQOLについての不正確な予測に基づいて阻害され、ひどい扱いを受け、死ぬに任せて放置されているのだから。彼らのこの主張は歴史から見て正しいし、データや理論的分析によっても証明されている。

だから、医療の文化の中に根深い障害バイアスのエビデンスをきっちり出していく研究を
医療の意思決定について考えようとする人はやるべきだし、

特に、良い倫理には良い事実が必要だと主張している生命倫理学者こそ、やったらどうか。
(Norman Fostはその一人です。詭弁としての「良い倫理には(都合の)良い事実」)

John Lantos が指摘しているように、
理論的に医療判断を考えることと
苦しんでいる生身の乳児を目の前に考えることの間には距離があり、
現実には一方的な決定はほとんど行われていないし、
たいていの意思決定は粘り強い話し合いを経てコンセンサスによって行われている。

それならば、障害者問題の専門家を病院での意思決定や議論に含めることによって
無茶な一方的決定はそれほど行われないことや、実際に苦しむ子どもの姿や
現場の医療職が判断をめぐって苦悩する姿を見て、
治療停止の全てが障害者差別ではないことを彼らも理解するだろう、と
ウ―レットは提言する。

大きな“ブラボー” はこの後。133ページ。

Tom Kochのパーソン論(とは書いてないけど)批判を引用した後、
ウ―レットは、ばんっ、と書くんですね。

そもそも「生命倫理はピーター・シンガー問題を抱えている」のがいけない、と。
特に哲学者を中心に生命倫理学者はきちんとシンガーを糾弾せよ、と。

キミたちの親だってキミたちが死んでいた方が幸せだったんだよ、みたいなことを言われて、
そういう相手に面と向かって反撃を挑むのは障害者にとっては難儀なことなのだから

「生命倫理学者が繰り返し、大声で、力を込めて」シンガーを批判し、
「生命倫理学者の中の哲学者はシンガーの議論を取り上げて、
どこが間違っているかをきちんと説くべきだ」

そうした努力によって生命倫理が
シンガーが展開するアカデミックな思考実験から距離をとらなければ
障害当事者らとの生産的な議論は始まらない、のだから、と。

で、ここからの次なる大きな“ブラボー”は

医療制度改革と公平な医療資源の分配の必要に直面している時だけに、
この際“無益な治療”をめぐる哲学論議は凍結しよう、との提言。

そして障害当事者との会話を始めよう、と。

会話は信頼がなければ始まらない。
和解とコンセンサスを通じて医療争議を解決できるよう、
不安を抱えた弱者である障害者と医療の文化との間に
互いの信頼関係を構築しなければ。

全ての利益関係者がその会話に加わり、
全てのエビデンスが検討されるように。

この章の最後は

……But even where this is conflict, it should be apparent that disability experts have something to teach parents and medical professionals about the potential for quality of life of many people with many kinds of disabilities. If nothing else, there would be value in considering how to make those conversations a regular part of care in the NICU.

衝突があるにせよ、親と医療職は、障害者問題の専門家から様々な障害を持つ様々な人々のQOLの可能性について学べるものがあるはずだ。なによりも、NICUにおける通常のケアの中に、こうした会話を組みこんでいく方策を考えることに価値があるのではなかろうか。


すなわちウ―レットは、
生命倫理学者に届く学者の言葉で、
繰り返し、これを言っているんじゃないか、と思う。

Nothing about us without us――。
2011.12.18 / Top↑
(前のエントリーの続きです)

Gonzales事件の概要は非常に詳しくまとめられているので、
いずれ事実関係の整理をしたいとは思いますが、
これまでに以下のエントリーを書いているので
ここでは事件の詳細は省略します。

テキサスの“無益なケア”法 Emilio Gonzales事件(2007/8/28)
ゴンザレス事件の裏話
生命倫理カンファレンス(Fost講演2)
TruogのGonzales事件批判


まずG事件に関する「障害者コミュニティの見解」

障害者がG事件で問題にした点として挙げられているのは

・親の決定権を侵害し医師に「神のような地位」を与えた。
・無益性概念に一貫性がない。
・法的検討が行われていない。

“無益な治療”論について問題にされているのは主として以下の3つ。

・医師の偏見
・カネが判断要因となっていること
・法の下で保障された平等な保護に違反する

医療の中に障害者に対するバイアスがあるという点は
障害学者のJames Werth , Carol Gill, ハーバード大法学者のMartha Fieldsなどが指摘している。

バイアスとカネの両方にまつわる典型例として
オレゴン州が1990年代初めに導入を試みて
保健省の障害者差別に当たりADA違反との指摘を受けて見送られた
メディケイドの配給制度Oregon Planがある。
(これについては別途エントリーでまとめてみたいと思います)

特にテキサスの無益な治療法TADAについては、
TADAが「不可逆」とする条件が以下の3つであることが問題視される。
(訳語はさほど吟味したものではありませんのでご了承ください)

a condition, injury, or illness:
(A) that may be treated but is never cured or eliminated.
(B) that leaves a person unable to care for or make decisions for the person’s own self; and
(C) that, without life-sustaining treatment provided in accordance with the prevailing standard of medical care, is fatal.

以下の状態、怪我、または病気
(A) 治療は可能かもしれないが、治癒することも取り除くこともできない。
(B) 身辺自立できない、または自己決定できない状態のままになり、かつ
(C) 一般的医療のスタンダードの範囲で提供される生命維持治療がなければ死ぬことになる。


視覚障害や知的障害などAには当てはまってもBとCには当てはまらない障害もあるが
一方で人工呼吸器依存の四肢まひ者や、経管栄養の障害者は全てに当てはまる可能性があり、
QOL尺度そのものが医療のバイアスだという主張。

しかし、この部分の最後にOulletteが指摘しているのは
仮にMiller事件に適用されたとすればともかくも
障害ではなくターミナルであることが問題だったGonzales事件では
TADAへのこうした批判は当たらない、という点。

最後には、
死にゆく乳児の治療がどうあるべきか、その問題でカネをどう考えるかについては
生命倫理学者も悩みながら最善の答えを見つけようと鋭意議論しているところだ、と。
(ね。「ちょっと、アンタどういうつもりよ」と思いますよね、こういう書き方をされると)

次にG事件に関する「生命倫理学の見解」

こちらは、無益性概念をめぐる議論から解説が始まる。

医師には無益な治療を提供しなければならない義務はないが
“無益な治療”概念の有効性については生命倫理学者の間でも議論されている。

これまでに試みられた定義は3つで、

① 狭義の無益性の定義

A proposed treatment is futile only when “incapable of producing the desired physiologic effect in a patient.
狙った通りの効果を患者に生理的に生じされることができなければ、その治療は無益。

ニューヨークのTask Force on Life and Lawなどが
QOL指標などの主観が交じることを避けるために採用した。

②質的無益性

生理学的な効果のみでなく、
一人の人としての患者が利益を得て、それを享受できなければ無益、とするもの。

この個所で、すーんごく興味深い、まさにショーチョ―的だぁ……と思ったことは、

その例として挙げられている、Crossleyという人の論文からの引用で、

a gastrostomy tube for an elderly and severely demented woman.
高齢で重度の認知症の女性への胃ろう。

「女性」???????????????
じいさんとばあさんじゃ同じ状態でも無益性が異なるのね。無意識に????????

③量的無益性

治療すれば利益はあるんだけれども、その可能性が小さすぎて無益と考えられるもの。
例えば骨髄移植以外に助かる道がないがん患者がいたとして、
移植が成功して助かる確率が1000分の1だという場合。

Truogが11月10日の講演で引用していたSchneiderman(とJecker)の
「過去100例で効果がなかったら無益」という基準にOulletteも
質的無益性定義の試みとして言及している。

しかし、いずれの定義も病院間、医師間で無益性が一貫するには寄与せず、
議論の流れは、生命倫理委員会など権力の乱用を防ぎ患者を守る手続き重視へと移る。
G事件で使われたTADAも、このセーフガード精神による多層手続きモデルである。
(ね。こんなの言われたら「おい……」と思いますよね)

ただTADAは何が「医学的に不適切」かを定義していないし、
倫理委の検討に基準を定めているわけでもない。

Art Caplanが言っているように、
無益性概念の有用性議論は結局のところ
「医療職のインテグリティ」と「患者の自己決定権」の対立であり、

TADAは「患者の自己決定権」よりも「医療職のインテグリティ」を採用し

Lainie RossはEmilioの母親の決定権を支持する。
(この人は救済者兄弟でもAshley事件でも親の決定権論・家族の利益勘案論者です
それぞれエントリーはありますが、リンクはあしからず省略)

Truogは、無益な治療論そのものは正当化できるとしても
G事件での倫理委の判断は間違いだったと批判。

その内容は当ブログで批判論文を読んだ通りなので、こちらを↓
TruogのGonzales事件批判(2008/7/30)省略。

           -------

ここまで読んで、私が一番不満だったのは、
生命倫理学者の言い分や議論にだけウ―レットが
「背景」や「経過」や「状況」をカウントしていて
障害者コミュニティの言い分にはそれらがカウントされていないこと。

これは誰かと誰かの言い合いになったら、よくあることで、
自分のしたことについては「状況や経緯から止むを得なかった」と状況判断が伴うけど、
相手のすることについては「そういう人だから」と相手の人格に帰してしまいがち……
ということと重ねると、やっぱウ―レットって生命倫理学者の方に自己同視してるじゃん?

……と思うわけです。どうしても。

でも、これ、振り返って考えるに、たぶん作戦。だとしたら、成功しているんじゃないだろうか。

生命倫理学のサイド寄りの視点で書かれることで生命倫理側にこの本が読まれやすくなるだろうし、
同時に、障害者運動の主張がどのように眺められているかが描かれているとも言える。

そして「考察」でウ―レットが主張するのは、このシリーズの最初のエントリーで引用したように
生命倫理学はこうした皮相的な捉え方をやめて「障害者の言葉ヅラの背景にあるものに思いを致せ」。

それだけじゃない。
ウ―レットは「考察」で、さらに、ばしっと実にブラボーな提言を次々と繰り出していく。

大きく要点だけ挙げると、

・医療の中に障害者に対する倍あるがあることは歴史的事実である
・生命倫理はその事実を研究し、エビデンスをきちんと出せ。
・障害者と会話を始め、和解に向けて信頼構築の努力を背よ。
・そのためにも机上の思考実験でトンデモな主張をするシンガーとの間に、距離とれ。
・医療改革と資源の平等が問題になっている時だけに“無益な治療”概念を棚上げせよ。
・医療の意思決定をめぐる議論に障害者を参加させよ。

次のエントリーで「考察」を。
2011.12.18 / Top↑
米国の法学者、アリシア・ウ―レット(Alicia Oullette)が6月に出した
“BIOETHICS AND DISABILITY  Toward a Disability-Conscious Bioethics”について
これまで以下の4つのエントリーを書いてきました。

(いったんQと思いこんだら何度見てもQとしか見えず、まだ訂正できていないので
大半のエントリーがQuelletteのままになっていますが、正しくはOulletteです)

Alicia Quelletteの新刊「生命倫理と障害: 障害者に配慮ある生命倫理を目指して」(2011/6/22)
エリザベス・ブーヴィア事件:Quellette「生命倫理と障害」から(2011/8/9)
Sidney Miller事件: 障害新生児の救命と親の選択権(2011/8/16)
Ouellette「生命倫理と障害」概要(2011/8/17)


8月に概要を書いたところで、馴染みがあることだし、次は
「乳幼児期」のGonzales事件と「児童期」のAshley事件を一気に、と意気込んだのですが、
前者のG事件の個所を途中まで読んだところで中断し、そのままになっていました。

Oulletteの書き方は成長段階ごとに2つ程度の事件を取り上げ、
それぞれについて「概要」「障害者コミュニティの見解」「生命倫理学の見解」を取りまとめた上で
「考察」する、という構成を繰り返しています。

「乳幼児期」は既に読んだMiller事件とGonzales事件の2つ。
私は後者のG事件の2つ目のセクション「障害者コミュニティの見解」を
ほぼ読み終わったところで中断した格好でした。

理由は主に2つあって、1つには
ちょうど拙著「アシュリー事件」が最終ゲラの段階に差し掛かり、
ここにきて2つの事件について加筆訂正したいことが出てくると時間的に苦しいし、
十分な吟味もできないジレンマが出てくるので、
拙著が出た後に読む方がいいのでは、と考えたこと。

でも、それは、まぁ後付けの言い訳みたいな理由で、本当は、

Gonzales事件への障害者運動からの抗議について、
倫理学者らが『過激で敵意に満ちている』とか『手がつけられない out of control』と
表現するほど激烈なものだった、と感情的な批判でしかないかのように書き、

Miller事件では救命を拒んだ親の決定権を否定していながら
Gonzales事件では治療を求める母親の決定権を尊重しろと訴えるのは
親の決定権について障害者らの立場には一貫性がないと指摘し、

障害者が命の神聖を原理的に主張しているとでも言いたそうなトーンがある、などに

ほとんど「あいた口がふさがらない」ほど呆れ、大いに失望し、
おいおい……と途中で止まって、先に「生命倫理学の見解」の方をチラ見してみると、
そちらは倫理学者らがいかに誠心誠意、患者の利益を追求してきたか、
テキサスの「無益な治療」法(テキサス事前指示法TADA)にどのような効能があるか
などなどが強調されているものだから、いよいよ不愉快が募って、

Ashley事件での格調高い批判論文の感激から期待が高かっただけに、
はたまた、その期待と喜びでピョンピョンする思いで刊行からすぐさまオーダーし
Spitzibara的には1冊の本にあり得ないカネ払って買っちまっただけに、

なんだよ。ウ―レットも所詮はアカデミックな世界の住民でしかなかったのかよ……と
「手ひどく裏切られたもんだなぁ」の敗残感が大きかったんであります。

それで、読む気力をそがれたまま机の横に放り投げてあった。

で、いつのまにやら数カ月が経ち――
一昨日、Truogの「治療の無益性」講演を聞いて、
ああ、ここでもGonzales事件は出てくるな、やっぱりこの事件は
テキサス「無益な治療」法の代名詞みたいな事件だなぁ、と再認識したところで、
G事件と言えば、そういえばウ―レット……と、思い出した。

まぁ、もう一度だけ、もうちょっとだけ読んでみるべ……と
昨日 BIOETHICS AND DISABILITYを手に取った。そして、
ゴンザレス事件のパートの最初に戻り、31ページ分を一気に読んだ。

ウ―レットさん、ごめんなさいっ。
spitzibaraが浅はかでした。
あなたはやっぱり素晴らしい。
今からニューヨークに出掛けて、
いっそ飛びついてしまいたいくらい大好きだい。

spitzibaraは泣きましたね。

129ページのあたりから赤線つぎつぎ引きながら
spitzibaraは文字通り、涙を流しておりました。
134、135と、ページもspitzbaraの目鼻もまっかっかになりました。

ありがとう。この本を書いてくれて、本当にありがとう。

……と、こんな芝居がかかって長ったらしく、読む方にはさぞ迷惑な前置きを、
どうしても書かないでいられない気分になったのは、

例えば、129ページの以下の数行――。

The problem is, except in the courts, they are not heard or taken seriously. So they shout and protest to get attention in the press. I would hope that even my philosophy-trained colleague could look beyond the form of the message to ask why in the world are the people so angry. In fact, I would argue that it is incumbent upon bioethicists to ask that question and then to act to address it. The fact that members of a historically disenfranchised and abused population must shout to be heard is reason for alarm, not disdain. Respectful debate is possible only when all sides are heard and all concerns acknowledged.

(障害者が敵対的だ攻撃的だと見下し、あんなの相手に議論なんかできるかとばかりに生命倫理学者は切って捨てるけれど)、法廷でもなければ、障害者の言うことには誰も耳を傾けないし、真面目に取り上げもしない。だから障害者はメディアで取り上げてもらうために抗議の大声をはりあげるんじゃないの。私の身近にいる同僚にしたところで仮にも哲学をかじってきたというならよ、言っていることの上っ面だけを見て終わるんじゃなくて、そもそもこの人たちがどうしてこんなに怒っているのかを考えてみたらどうなのよ。
実際、生命倫理学者にはそう問うてみる義務があるはずだし、問えばその問題に対処すべく行動する義務だって出てくるはずだ、と私は言いたい。歴史的にもずっと阻害され虐待されてきた人たちが社会に届く声を上げようと思えば、大声で叫ぶ以外になにができるというの。
それで、なんで、障害者があんたら生命倫理学者に見下され侮蔑されなければいけないわけ? そこにこそ問題を感じるのがまっとうな生命倫理学者というものでしょう。
誠実な議論が可能になるのは、参加するみんなの声がお互いに届き、関係者みんなが十分に尊重されて後のことですよ。


上記の日本語訳は英文のままではもちろんなく、
いわば攻撃的かつ下品なspitzibaraに乗り移られたウ―レット。
原文はもっと格調高く上品です。

最後には、この本の主題とも思える、このような主張へと展開していく
(実は133ページからは、さらなる“ブラボー”があと2つもある!)
Gonzales事件に関するセクションについて、

次のエントリーに続きます。


【OulletteのAshley事件関連論文】
「倫理委の検討は欠陥」とQuellette論文 1(2010/1/15)
Quellette論文(09)「子どもの身体に及ぶ親の権限を造り替える」 1: 概要
(論文については、それぞれ、ここから4つエントリーのシリーズで)
2011.12.18 / Top↑
今朝の朝日新聞の声欄のトップに
京都の医師の方の「人工栄養 国民的議論が必要」というタイトルの投稿があった。

5日に報じられた厚労省研究班の人工栄養の指針案をめぐって、
出てくるだろうと予想された通りの内容なのだけれど、
こういう話になるとイヤになるほど繰り返されるように、
やっぱり最後が、こういう言葉で締めくくられている。

「欧米では重度認知症患者に胃ろうを造設することはほとんどないという」

「ないという」んだから、あくまでも伝聞。
でも、伝聞のままに、そこには「欧米で起こっていることは日本がお手本とすべきモデル」という意識が
読者との間に共有されているとの前提があって、著者はこれを書いている。

こういうのを読むと、そこにこだわってしまうのも
いつものことなんだけれど、

昨日エントリーにしたTruogの講演で
70年代、80年代に議論されたのは「望まない治療を拒否する患者の権利」だったが、
その後90年代以降、今度は「治療を求める患者の権利」にシフトした、との指摘を
この耳で聞いた直後だけに、

今朝はなおのこと、そのことにこだわってしまった。

米国では、
「尊厳を損なう過剰医療はいらない」と患者が自己決定を求めて闘った時代は終わり、
今は「死ぬ」という一方にしか自己決定権が認められない時代、むしろ
「一方的に治療を引き上げるな」「医療を受けさせろ」と闘わなければならない時代に入っている――。

テキサスには病院内倫理委の判断だけで
一方的に生命維持停止の権限を病院や医師に認める法律ができていたり、

障害児・者に対する治療に限って「医療資源の公平な分配」の観点から疑問視する声や、
障害児保護の必要を否定し「大人と同じ基準にしないのは年齢差別」とまで言って
子どもの意識状態を基準に栄養と水分停止を正当化する学会ガイドラインが出ていたり、

医療費を支払えない移民に対する一方的な医療中止事件が多発していたり、

英国では
「さっさと脱水・死ぬまで鎮静」と終末期プロトコルが機械的に運用されたり、
本人にも家族にも知らせずに一方的にDNR指定にするケースが問題化していたり、
「認知症患者には家族や社会の負担にならないよう死ぬ義務がある」という声が
議会や医学・医療倫理学論文で出ていたり、

それらと並行して、欧米では、
自殺幇助や積極的安楽死の容認へと流れが急速に向かっていたり、
そこでは「街角の高齢者向け安楽死ブース」や「臓器移植安楽死」までが提言され始めて、

「死の自己決定権」や「無益な治療」概念は
どんどん臓器不足解消という問題に接近し繋がろうとしている。

(ここに書いたことには全てリンク可能なエントリーがありますが、
一か所の記述にリンク候補が複数ある場合も多く、
イチイチ貼るのは手間が大きいので省略しました)

それに、これらは、この京都の医師が書いているような患者の尊厳の問題としてではなく
露骨なコスト削減と高齢者・障害者・重病者・貧者の切り捨て策として、
そして、恐らくはその背景に弱者の人体資源化の可能性をも含みながら論じられている。

そういう大きな流れの中に、
「欧米では重度認知症患者に胃ろうを造設することはほとんどない」を置いてみるのと、

そういうことを埒外に置いたまま、
なんとなく「我が国よりも進んでいる欧米では」という雰囲気の中で
「欧米では重度認知症患者に胃ろうを造設することはほとんどない」を置いてみるのとでは、

その意味は全然違ってくるんじゃないだろうか。

(あ、でも、よく読み返してみたら、
この医師が言っている「判断」は家族と医療職の判断のことであって、
患者の自己決定はまるで問題にしていないと思われるところが
「欧米」の議論と土台の筋が違って、また興味深い……とも言える?

それに、ちゃんと脳死概念の定着に時間がかかったことが引き合いに出されているのも、
考えてみれば印象的というか象徴的というか……)


それにしても、これもいつも思うことだけど、メジャーなところで
「欧米では」と世論の「我々後進国」コンプレックスを煽る人が説いているのは、
以下に見るように、臓器移植、生殖補助医療、ワクチン、終末期医療……

「米国では」を印籠に代理出産解禁を説く学者(2008/5/26)
朝日のワクチン記事にも「米国では」の“印籠”(2009/8/8)
日本生命倫理学会の会長が説明する「米国の事前指示書署名と倫理相談制度」の不思議(2010/8/25)

つまりは「科学とテクノで簡単解決」文化とそこに繋がる利権や、
その背景にある能力至上主義、操作主義に沿った方向で――。


欧米で子育て支援や介護者支援がどれだけ重要視され、制度化されているかが
同じようなメジャーな場所で同じように「追いつけ」ニュアンスで語られることは少ないし、

認知症患者をはじめ高齢者への向精神薬の過剰投与が
欧米では問題化されているのに何故か日本では問題視されないことを指摘する人も
最近少しずつ増えては来ているけど、やっぱり主流ではないし、

ビッグ・ファーマと研究者・医師・専門雑誌の金銭関係のディスクロージャーが
米国では多くの呆れるほど酷いスキャンダルの挙句に法制化されたから
日本でも透明性を保障する法整備が必要だという議論も出ないし、

よもや「米国では、パラトランジット制度まで法的に整備して
障害者の交通アクセスを保障している」という話が
「我々後進国としては、それをモデルに追いつかなければ」というニュアンスで
語られることは、まず、ない。

私たち、煽られる側が気付かないといけない本当の問題は、
その不均衡にこそ、あるんじゃないのかなぁ。

           ―――――――

そういえば昨日聞いた講演でTruogが面白いことを言っていた。

彼が無益だと分かっていながら決断した心肺蘇生の実施をめぐって、
患者本人に無益な苦しみを与えたという批判があるが、それは当たらない、
なぜなら患者本人は既に意識も感覚もなく、苦痛を感じることができない状態だった、と
反論した際に、

患者の苦しみについて医師の言うことには一貫性がないことを
Truogはジョークにして見せた(と思う)。

治療を停止したければ医師は平気で心痛を装って、
「ご本人が苦しんでおられますから、ラクにして差し上げましょう」などと
患者が感じてもいない苦痛をダシに使うのだ、と(いう意味のジョークだったと思う)。
2011.12.18 / Top↑
人口問題には気をつけろ、とWhat Sorts of Peopleに興味深い記事。人口問題が騒がれるのは今に始まったことじゃない、問題は確かにあるが、気をつけなければならないのは「人口が問題かどうか」ではなく「人口抑制で誰がターゲットにされるか」だ、と。:うっかり見落としていたけど、これは重要。人口抑制と関連して、慈善で集められた資金でワクチンが途上国に持ち込まれ、製薬会社の人体実験場と化している懸念……については、ここに書かれているわけではないけど、問題としてはダイレクトに繋がっている。たぶん。
http://whatsortsofpeople.wordpress.com/2011/11/22/here-we-go-again-population-panic-and-the-blame-game/

カナダのRasouli事件のHassan Rasouli氏の治療継続に向けて支援を呼び掛けるサイトやFBがあるらしくて、無益な治療ブログのThaddeus Popeがそのいずれかに対して「治療継続にこだわる理由は?」などいくつか質問したらしい。答えの中に、家族から見れば本人には反応があり、顔の表情や動作で意思を表現しているし回復もしているのに、それを医師が認めないだけ、という部分がある。この事件についてはどう考えたらいいのか本人を知らないから何とも言えないけど、「家族にしか反応が分からない」は気になる。Chris Coxさんのケースなどを思う。
http://medicalfutility.blogspot.com/2011/12/why-hassan-rasoulis-family-continues.html

レイプを警察に訴えていったら「姦淫」の罪で有罪となり、12年間の禁固刑を受けたアフガン女性がいる。刑期満了でやっと出てくることができた、というニュース。:なに、これは。こんなの、ありか? 世界は想像をはるかに超えた人権侵害に満ちている。たぶん私が世間知らずで知らなかっただけで、前からずっと満ちていたんだろう。でも加速・拡大・深刻化しているのも事実だろうとも思うのだけど。
http://www.guardian.co.uk/world/2011/dec/14/afghan-woman-raped-freed-prison

米国で子どもの肥満が深刻化する中、子どもへの胃の手術が有効だというのに保険の対象外にしている会社がまだ多いのは何事か、と。
http://www.washingtonpost.com/national/health-science/bariatric-surgery-may-help-teens-but-insurers-often-exclude-them/2011/12/07/gIQAKGeYpO_story.html?wpisrc=nl_cuzheads

NYT。昨日のOp-Edで、FDAを保健省から独立させろ、との提言。:読んでいないので、意図は不明。
Free the F.D.A.: Take the agency out of the Department of Health and Human Services and make it an independent agency, like the Federal Reserve.

NYT. PCやスマートフォンやその他あれこれを使う医師が医療に集中できない問題で、病院によっては重大局面でそれらの機器の使用を制限したり、医学生には「患者に集中するように」とのご指導も始まっているとか。
As Doctors Use More Devices, Potential for Distraction Grows: In response to “distracted doctoring,” some hospitals have begun limiting the use of computers, smartphones and other devices in critical settings, while schools have started reminding medical students to focus on patients.

もろもろの重病に効くとの謳い文句で怪しげな液体を売っている米国の組織と、英国の少年がブログで一人闘っている。
http://www.guardian.co.uk/science/2011/dec/14/schoolboy-querying-miracle-cure-claims

子どもの幼児期に仕事を辞めずに働いている母親の方が、家にいて子育てをしている母親よりも幸福度も健康度も高い。:これ、一概に言えないとは思うけど、なんとなく分かるような気がする。「そうしかできない」ではなく「選択できる」ということが大事なんでは?
http://www.medicalnewstoday.com/articles/239140.php

米国の大企業のCEOの年俸、去年なんと40%も上昇。:えーかげんにせーよ。
http://www.guardian.co.uk/business/2011/dec/14/executive-pay-increase-america-ceos

これ、この前も別のデータが出ていたけど、豪でもトップ1%の収入が全国民の収入に占める割合が30年前の倍に。
http://www.canberratimes.com.au/news/national/national/general/rich-keep-getting-richer/2392165.aspx?src=enews

去年、豪で行われた養子縁組は384件。史上最低だとか。
http://www.canberratimes.com.au/news/national/national/general/adoptions-in-australia-hit-historic-low/2392166.aspx?src=enews
2011.12.18 / Top↑
(前のエントリーの続きです)


Truogは講演の後半、
自らが所属するボストン子ども病院の無益な治療をめぐる方針と、
テキサスの一方的な無益な治療法(正確には事前指示法)とを比較検討していきます。

例として言及されているのは
当ブログでも取り上げたテキサスのGonzales事件と、
ボストン子ども病院で彼自身が心肺蘇生実施を決断し去年NEJM誌に報告したJanvierのケース。

いずれも当ブログでリアルタイムに拾っていますので、詳細はこちらを ↓
(文末にも関連をリンクしました)

TruogのGonzales事件批判(2008/7/30)
Truogの「無益な医療」批判への批判(2008/7/31)

「無益な心肺蘇生は常に間違いなのか?」とTruog医師(2010/3/4)


ボストン子ども病院の方針のポイントは

① 倫理委員会の検討を求めている。
② 治療を継続可能にする転院の努力が払われること
③ 家族に法的手段について説明すること
④ 家族に法的手段に訴える費用がない場合には病院が支払うこと
⑤ 一方的な意思決定が認められていること
(実際には一方的な決定が行われたことはない)

それに対して、テキサスの無益な治療法の問題点としてTruogが指摘するのは

① 倫理委員会に全権限を認めてしまっているのは、
そこでの判断が医療の論理に偏る危険性がある。
地域住民を含んでも、そういう人たちは病院と近い関係にあるので
やはり偏りのない判断ができるとは思えない。
② 家族に法的手段をとるための資源が保障されていない。

テキサス方式は紛争解決の手段としては効果的だが、
あまりにも簡単に病院側有利にカタがつくことにならないか、

ボストン方式の方が、倫理委の関与だけでなく、
解決までの道筋まで明確にされているのではないか、

一方的意思決定はすべからく shared-decision makingではない点が最重要、
法的プロセスの保障は必要、などを指摘。

医師からも病院からも独立した外部の法的委員会(extra-judicial committee)を含めた
意思決定手続きを推奨する。これは大筋として、上にリンクした08年当時の主張と同じ。

彼自身は去年JanvierのケースをNEJMに発表して以来
多くの批判を浴びたし、直接関わった病院内のスタッフからの異論もあり、
ずっと考え続けているという。

去年のエントリーから漏れている情報も含め、事件の概要は以下。

Janvierは重症の脳ヘルニアで生まれた。両親はホームレス。
生まれた時から、蘇生も延命も無益だと重ねて説明したが両親は受け付けず、
あらゆる手を尽くしてほしいと望み続けた。
心臓が止まった時に両親の望みに沿って心肺蘇生を命じた。
諦めるまで15分。家族を呼ぶように指示した。

親と病院の関係は悪く、
病院に来るや「まさか殺しちゃいないよな」と言われたりしていたので、
どんなにか親が腹を立てるのではないかと覚悟をして会ったが、
説明すると、静かに「お礼を言います。本当に一生懸命にやってくださったんですね」と。


無益な治療を実施することのコストvsベネフィットで言えば
常に「親の心理的な利益」に、社会的コスト、患者と家族の苦しみ、医療職の苦悩が対置されて
秤はコストの側に大きく傾くが、

時として、家族の心理的な利益を重視することがあってもいいのではないか、

もちろん医療職には無益な治療も無益な心肺蘇生も申し出なければならない義務はないが、
時には、そうしてもよいケースというものが、あるのではないか、と

なんとも曖昧な講演の締めくくり方をしている。

              ――――――――

まだ聞いたばかりで、考えがウロウロしているのだけれど、

まず思うのは、
「時には」というのがどういう時なのかを
Truogは明確にすることを求められるだろうし、
また彼にはそれを明確にする責任がある、ということ。

でも同時に、それを明確にすることは非常に難しいだろう、ということ。

たぶんTruogが感じていて、まだ意識できていない、だから言語化できていないことは、一つには、
親の心理もまた、病院や医師や医療スタッフとの関係性の中にある、ということ
なんじゃないだろうか。

このケースで両親がホームレスだったということを考えると
親と病院や医療スタッフとの関係性もまた、それ以前に
親と社会とのより大きな関係によって影響されている、とも言えるのかもしれない。

そこにあるのは
簡単に数値化したり、何かの尺度を当てはめて計ったり、
別の何かとの比較によって答えが割り切れるような類のことではなく、
もう本当に「時には、そういうことだってある」としか言いようのないことだと
感じているからこそ、

DCDドナーによる臓器移植に関しては09年に
「どうせ死ぬ子どもが一人いて、一方にその子の臓器で助かる子どもが3人いるなら
倫理の勘定の答えは既に出ている」と平気で言い放った(詳細は文末のリンクに)Truogが、
無益なことが明らかな心肺蘇生について、こんなにも煮え切らない語り方になるのではなかろうか。

でも、それなら、
その煮え切らなさ、はっきり説明できないけど主治医として
「やってあげた方がいいんじゃないか」と特定の親子に感じる気持ち、
その相手との関係の中で生じてくる数値化も差引勘定もできない気持ちというものは、
「どうせ死ぬ命は1つ。それで助かる命は3つ」という倫理の勘定をも
同じく否定するはずのものではないか、ということに、
なぜTruogは思い至らないのだろう?

Janvierのケースで心肺蘇生を命じた自分の判断について、
ずっと考え続けている、とTruogはこの講演で言っている。

それなら、この先もずっと考え続けてほしい。

恐らく社会からenoughを得たと感じたことがなかっただろうホームレスの両親にとって
なぜ一切どんな治療の制限も認めないと主張することが重要だったのか、

そんなふうに生きて来て、
「まさか息子を殺したんじゃないだろうな」と猜疑に満ちていた親が
「手を尽くしてくれてありがとう」と、初めて心から率直に感謝してくれた驚きに
なぜ自分はこんなにも心を揺り動かされたのか。

なぜ、このケースが頭から離れないのか。

多くの批判を浴びながら、それでも
「時には無益でもやってもよいのでは」と今なお主張したいと感じるのは、
一体なぜなのか。

そういうことを、考え続けてほしい。



【TX州のGonzales事件関連エントリー】
テキサスの“無益なケア”法 Emilio Gonzales事件(2007/8/28)
ゴンザレス事件の裏話
生命倫理カンファレンス(Fost講演2)
TruogのGonzales事件批判

【TX州の無益な治療法関連エントリー】
生命維持の中止まで免罪する「無益な治療法」はTXのみ(2011/1/21)
テキサス州議会に「無益な治療法」の廃止を求める法案(2011/5/12)
TX州の「無益な治療」法改正法案、“死す”(2011/5/25)

テキサス州で14歳の脳腫瘍患者めぐり、新たな“無益な治療”事件(2011/7/3)

【TruogのDCDに関する主張関連エントリー】
Robert Truog「心臓死後臓器提供DCDの倫理問題」講演ビデオ(2009)(2010/12/20)

2011.12.18 / Top↑
マサチューセッツ大学医学部のGrand Rounds(学内研修?)で
11月10日にRobert Truogが行った“治療の無益性”をめぐる講演。

タイトルは “Medical Futility: When is Enough Enough?”

私なりの勝手な解釈で和訳すると、
治療の無益性:どこまでいけば「もうそこでやめていい」になるのか?

講演では、冒頭のタイトルの紹介時に
一枚の絵が提示されて会場が爆笑する。

情けない顔で墓石に聴診器を当て(させられ)ている医師が
背後に立っている黒衣の未亡人に向かって
「私にできることはほとんどないように思われますが」と言っている図。

こちらのアーカイブから ⇒ http://www.umassmed.edu/Content.aspx?id=142016

約1時間ですが、冒頭7分間は開始前の雑音が無駄に続きます。
また最初に女性医師による症例報告がありますが、
一応この症例報告を受けてTruogがしゃべる形式になってはいるらしいものの
実際の彼の講演にはほとんど無関係。

これまで、この手のビデオはスピーカーとスライドを交互に映すので
メモをとるのも聞きとるのもおぼつかない私にとっては不自由だったのだけれど、
これは映像はずっとスライド。その上に音声をかぶせてくれる。
ただ、それはそれで、つい読むことに集中してしまう。
私レベルだと、相変わらず両方とも不自由なのに変わりはなかった。

(なので、例によって、以下の内容には
細部の誤りが含まれている可能性があります)


Truogの講演は大きく分けて前後半の2つのパートで、
前半は無益性概念をめぐる議論の概観。

その中で特に興味深いと思ったのは、

70年代、80年代に議論されたのは望まない治療を拒否する患者の権利だったが
90年代から2000年代にかけては治療を要求する患者の権利にシフトしてきた、との指摘。

それからJohn Lantosがいずれかの論文で提示した図で
無益性判断に関与している5ファクターとして、
真ん中に Money(費用)、左上に Power (権力)、右上に Trust (信頼)
左下に Hope (希望) 、右下に Integrity(ここではケアする側の道徳的苦悩のこと)。

Truogはこれら5つの要素ごとに無益性概念で問題となる問いを検討していく。

例えば moneyでは
「費用だけの問題なのか」
「無益性概念に費用削減効果があるのか」など。
ちなみに「削減効果は大したことはない」という話もあるらしい。

権力で言えば
権力のある医師の側が、権力のない患者側に対して圧倒的に優位だという問題。などなど。

そうした点から、これまでに試みられた無益性の定義をいくつかの論文で紹介。
Truogがまずまずだと評価するのは、無益性を以下の2つと定義した93年のMurphy論文。

① 過去100例で効果がなければ、その治療は無益。
② 永続的に意識不明状態またはICU依存を長引かせるだけなら無益。

ただ、実際にはそうすっきりと定義できるものではなく、
「無益性はポルノと同じ。定義はできないが見ればそれだと分かる」というものだとして、

定義によるアプローチではなく、
AMAのガイドラインなど手続き重視のアプローチを提唱する。

そこからが、いよいよ後半の、この講演の核心部分。

(次のエントリーに続く)
2011.12.18 / Top↑