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PruPublica。ナーシング・ホームを中心に、高齢者が死亡した際に医師が遺体を見ることすらなしに自然死として死亡診断書を書き、虐待や劣悪な介護によるネグレクト、時には殺人までが闇に葬られている米国の実態。調査によると死亡診断書の半数で死因が間違っていたり、アーカンソー州で自然死とされた6遺体を掘り起こしてみたら、4人が窒息死、2人は医療過誤だった、ということも。葬儀屋が痣だらけで肋骨が何本も折れた遺体に気づいて通報したケースでは死因が「アルツハイマー病で衰弱」となっていたり(このケースでは施設職員に足蹴にされて折れた肋骨が肺に刺さって死亡していた)。診断書を書く医師にも「まぁ、どうせ施設入所の高齢者」意識があり、検死官側にも「ただでさえ忙しいのに、これ以上高齢者の解剖を持って来られたくない」意識があり、総じて社会全体に高齢者差別がある。:私たちが向かっていこうとしていのも、こういう空気の中で「それはそれ」「これはこれ」で「死の自己決定権」が喧伝される社会。そのうち「施設に入ったら職員に殴り殺されて、闇に葬られるから、それよりも自殺幇助を」という理屈になっていくのかしら。Ashley療法の子宮摘出の正当化の1つは「施設入所することになったらレイプされるから、妊娠しないように」だった。
http://www.propublica.org/article/gone-without-a-case-suspicious-elder-deaths-rarely-investigated

昨日の補遺で拾った、フランスのPolyl Implant Prothesesの欠陥豊胸インプラントの問題で、英国の患者25人が使用した英国の6クリニックを訴える、と。少なくとも6カ国で多数の女性に使用されており、懸念が世界に広がっている。
http://www.guardian.co.uk/society/2011/dec/21/british-women-sue-breast-implants?CMP=EMCNEWEML1355
http://www.nytimes.com/2011/12/22/health/health-fears-over-suspect-french-breast-implants-spread-abroad.html?_r=1&nl=todaysheadlines&emc=tha22

日本語。大手マクドナルド社が南米最貧国ボリビアで破産したワケ。これ、これと関係していると思う。 ⇒ ゲイツ財団がコークとマックに投資することの怪、そこから見えてくるもの(2011/3/9)
http://www.latina.co.jp/topics/topics_disp.php?code=Topics-20111222114246

「子どもがひとりで遊べない国、アメリカ」の谷口輝世子さんが、ブログにちょっとガハハな記事を。なににつけ、子どもの頭越しに大人同士で話や段取りが決まってくところ、まるで飼い主が犬の管理をするかのごとし。犬と同じように子どもを監視・管理させられる親。:それぞれが書いたものを読みながら触発し合って、谷口さんは子育ての視点から、私は科学とテクノの簡単解決文化の視点から、お互いに米国の管理社会に考えを深めていける体験がここ数日、面白く楽しかった。今回の谷口さんの記事から私が頭に浮かべたのは、子どもへの体罰を禁じていない州が20もあるということと、こういう感覚は「女・子どもは……」という意識にも繋がりやすいような気がするので谷口さんが書いておられる「私の管理をするのは誰なのかしら」に「夫」と答える人もいそうだろうなぁ、というのと、でもこれはやっぱり夫も含めて国家なんだろうなぁ、ということ。それからP・シンガーやTH二ストたちの動物と人間を知的能力に応じて直線状に並べてみる感覚。そういえばJames Hughesのサイボーグ社会の“市民権”では「人間の子ども」と「大型類人猿」は同じカテゴリーに入れられていたなー。07年にはTH二ストの言うことは日本人の大半にとってトンデモだったと思うのだけど、今の日本では共感する人が案外に増えているような不気味な感じがある。
http://d.hatena.ne.jp/kiyoko26/20111221

日本語。米国人女性5人に1人が強姦被害、4人に1人がDV被害 全米調査:日本でも「レイプくらい」のような感覚はじわじわと広がっている。これも上で触れた「子どもの体罰は親の権限の内」感覚と繋がっていそうな「女房子供の躾は家長たる男の責任」意識の広がりを思わせられる。社会の保守化で? それとも経済状況の悪化で? というか、何もかもが絡まり合って、そちらに向かってなだれ込んでいくみたいな世の中の急速な変化。
http://www.afpbb.com/article/life-culture/health/2845994/8202281

英国、養子縁組の手続きを見直し、手続きに時間がかかるために海外からの縁組が増えている問題の解消へ。
http://www.guardian.co.uk/uk/2011/dec/22/adoption-system-overhaul-planned?CMP=EMCNEWEML1355

介護者たちの共感の場が家族の力を育てる:日本の介護者支援もあちこちで始まり、根付き始めているんだなぁ、と改めて。ただ、この記事を読むと、介護者の集まりが終末期医療差し控えへの誘導の場になる可能性について考えさせられた。とはいえ、私は口だけで何もしてないから、何も言う資格はないのかも。
http://lohasmedical.jp/news/2011/05/23162622.php

日本。親亡き後の障害者の生活、弁護士らが支援組織。:いい話なんだけど、ただ、これみんな、介護・介助があって、その先の話のような気はする。
http://ubenippo.co.jp/2011/12/post-2481.html
2011.12.22 / Top↑
ターミナルな患者に余命を聞かれても、医師は答えるのに窮するんだとか。http://www.washingtonpost.com/national/health-science/when-terminally-ill-patients-ask-how-long-they-have-doctors-find-it-hard-to-say/2011/09/23/gIQALTzm4O_story.html?wpisrc=nl_cuzheads

日本で議連が尊厳死法制化へ向けて法案提出の準備を進めている。:ある方から法案そのものをいただいたけど、それを読んでも「死が間近な状態」が定義されていない。上のWPの記事(タイトルとリードしか読んでいないけど)を考えても、定義なしにこんな文言で2人の医師でOK……はないんでは?
http://www.tax-hoken.com/news_To9jjapUu.html

2007年から追いかけている米国女性によるNZ女性Wallisさんの出張自殺幇助ビジネス事件の続報。Wallisさんが自殺した場に居合わせたことが去年1月のFBIの聴取で確認され、今後NZに入国すれば逮捕される。これは目立たない小さな事件みたいだけど、07年段階で早くもこんな事件があったことは重大。死の牧師Exooの弟子だった女性が、独り立ちしてビジネスにしていたもの。
http://www.stuff.co.nz/auckland/local-news/6163605/American-woman-assisted-Kiwi-suicide

【関連エントリー】
闇の安楽死つかさどる牧師 George Exoo(2008/5/29)
“闇の安楽死”でNZの女性が自殺(2008/5/29)
NZのうつ病女性の自殺幇助で米女性を起訴か(2009/7/26)
ウツ病女性の“闇の商業安楽死”でNZ警察が米国人女性を起訴(2010/3/27)


「介護の代わりいない」2割 重症心身障害者の家族に不安。岐阜県の調査。:ちょっと前にもどこかの県で同様の調査があった。やっとこういう実態把握が行われ始めた段階なのか、と改めて愕然。上野千鶴子さんの「ケアの社会学」を読み始めたところなのだけど、こういう母親をフェミニズムは置き去りにしてきたじゃないか……という、ミュウの幼児期からの根深い怨念がまたぞろ刺激されてしまう。介護はできれば担いたくない負担だと書いたのは最首悟だけだと上野先生は書いているけれど、父親だから言えても母親は言えなくされていることがあるんでは? 母親は、言えなくされている自分に気付くことすらできなくされているんでは?
http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20111218/201112180947_15741.shtml

オハイオ州、12月24日から31日に「ナーシング・ホームへ行こう」週間。:ちょうどクリスマス・イブから大みそか。このタイミングが、またいいですね。
http://www.wtrf.com/story/16356416/ohio-declares-6th-annual-visit-a-nursing-home-week-december-24-31

フランス政府、豊胸手術で入れたシリコンを摘出するよう3万人の女性に通知へ。英国政府は「発がんとの関連エビデンスない」と。
http://www.guardian.co.uk/world/2011/dec/20/french-remove-breast-implants-silicone?CMP=EMCNEWEML1355

MS患者が、最初は治療しなくてよいと言ったのに次の診察時に治験への参加を勧めた前の主治医に対して抱く疑問。私じゃなくて製薬会社によかれと? 
http://www.washingtonpost.com/national/health-science/was-my-doctor-loyal-to-me-or-to-the-drug-companies/2011/11/15/gIQAZG4j4O_story.html?wpisrc=nl_cuzheads

昨日と今日のエントリ―の、というか谷口輝世子さんの「子どもがひとりで遊べない国、アメリカ」で紹介されているオバマ夫人の「レッツ・ムーブ」運動について、日本語情報を探してくださった方があった。(sakichocoさん、ありがとうございます)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20100215/212768/

谷口さんが最近、海外在住のライターさんたちのサイトに寄稿された文章がこちら ↓
http://chikyumaru.net/?p=2267

ヤンキーズの(?)Ryan Braun選手のドーピング疑惑論争に、Norman Fostが出てきている。怪我の治療に使われた薬で、エンハンスメント利用が疑われてしまう可能性はある、と言って。
http://www.isthmus.com/daily/article.php?article=35434

NYT. 電子カルテが普及する一方、違反行為が去年に比べて32%も増加。
Dignital Data on Patients Raises Risk of Breaches: As more doctors and hospitals have digitized patient record, the number of reported breaches has increased 32 percent this year from last year at cost of $6.5 billion to the industry.

たぶん人工内耳の関係でご訪問いただいた難聴の方のブログ・エントリー「泣きたくなったら本屋さんに行く」。:読んで、じわ~っと泣きたくなった。いいエントリーだなぁ、これ。ちなみに私は泣きたくなったら、その日は「年休」と決め、藤沢周平作品を持ってベッドに引きこもる。次に泣きたくなったら、ベッドではなく本屋さんに向かってみよう。
http://blogs.yahoo.co.jp/immortal_venus0259

英国のホームレスの平均寿命、47歳。短命の最大の原因はドラッグと酒。
http://www.guardian.co.uk/society/2011/dec/21/homeless-people-life-expectancy-47?CMP=EMCNEWEML1355

ギリシャ危機を受け、ヨーロッパでの自殺率が去年から40%もアップ。:そのうち「経済的理由で死にたい人にも自殺幇助を認めましょう」という流れも出てくるのかも?
http://www.guardian.co.uk/world/2011/dec/18/greek-woes-suicide-rate-highest?CMP=EMCNEWEML1355


2011.12.22 / Top↑
昨日のエントリーに著者の谷口さんからいただいたコメントに刺激されて、
昨日アップしてから後に考えたことを書きたくなり、
どうにもコメントに収まらないほど長くなったので、
シリーズの2としてエントリーに――。


谷口さんが「子どもを一人にしたら育児放棄に問われる」社会に感じる違和感と

私が障害児医療の体験を通じて感じてきた違和感、
またこのブログから覗き見る「科学とテクノの簡単解決」文化と、
それが向かっていく“メディカル・コントロール”の世界に感じる懸念とに

共通しているのは何なのだろう……と考えてみて、
今の段階で思いついたのは以下の3つ。

まだそれほど考えを煮詰めたわけではないですが。

① 「安全と健康」は他の何よりも優先する価値――。

「医療」と「子育て」の関係をめぐって、
前からずっと疑問に思っていることの一つは
「小児科医は『子どもの病気』の専門家であって『育児』の専門家ではないのに、
なぜ小児科師が育児講演会の講師となって、健康管理についてはともかく
育児のハウツーまで指導するんだろう。小児科医って『育児』の専門家なの?」。

それはそのまま
「子育ては健康管理よりもはるかに広く深いはずなのに」という疑問なのだけれど、

前のエントリーの最後に追記した児童精神科医の方のコメントを改めて読み返してみたら、
「親よりも育児ロボットの方がいい」は、やはり
子どもの「安全と健康管理」の文脈で言われている。

そういえば10数年前に、療育園の子ども達から機械的な思考で「生活」が奪われた時にも、
そのスローガンは「安全と健康のため」だった。

そこで行われたのは、無言の食事介助と無言の着替え、
「どうせ分からないんだからベッドに入れっぱなしで構わない」
「(ベッドに入れっぱなしたら)職員は業務がはかどるようになり喜んでいます」
「風邪をひくといけないから外出は不許可」
「定期採血あるから学校からの外出は不許可」。

これは高谷氏が「重い障害を生きるということ」で
「健康管理」の名目で生活を制限し、その結果「健康増進」が妨げられるということがおこっている。
と書かれている通りで、

あの頃の療育園では「子ども達の安全と健康のために」
医療による「管理」ばかりが強化されていき、
子ども達からは「生活」と笑顔が消えていったのだった。

そうして子どもたちはモノ扱いされる暮らしの中で
胃潰瘍になったり、部分ハゲができたりした。

ハゲができれば「皮膚科へ」と当時の師長はいったそうな。

(療育園の名誉のために追記しておくと、
ちょっとした騒動の末、生活重視の深い理念のある師長に変わり
当時の園長もセンター上層部もに改善の努力をしてくださいました。
一保護者の訴えを受け止め、そこまで生かしてくれる施設は他にはないのでは、と
私はそういう療育園を保護者として誇らしく思っています。
これについては「所長室の灰皿」に)


② 親を「安全と健康管理」の「機能」として捉え、
その「機能」を絶対視して評価する目線。

くだんの児童精神科医さんの
「オムツ交換と安全管理はロボットがいい」発言の前後を読んでいると、そこには、
「育児」の中でも特に「安全と健康」管理の単なる「機能」として親を捉え、
その「安全と健康」管理の「機能」によって親を上から目線で評価してかかる意識が
感じられるような気がする。

これもまた、私が娘の幼児期に専門家のご指導に感じた違和感に通じていく。

それまでいっぱし“一人の社会人”として生きてきたはずなのに、
障害のある子どもの親になった途端に、
私は一人の人間として尊重してもらえない身分を与えられた、かのように感じた。

障害のある子どもの親になった途端に、いきなり周囲から勝手に
“無知で無能なお母さん”ポジションに一方的に置かれて、
上から目線で評価とご指導とお説教の対象にされ、
娘の療育と介護の「機能」や「役割」そのものとして扱われるようになった、と感じた。

娘に関しても私は、
「ウチの子は“ウチの障害児”じゃない。“ウチのミュウ”なんです。
障害そのものが服を着てここに座っているわけじゃない。
この子の異常をどうするかという視点と同時に、
この子がまず“一人の子ども”として育てられなければならないことを
忘れないでほしい。身体だけじゃない、心はどうなる?」と反発を感じ、
(それは上記の事件の際に職員研修でお話ししました)

その後の年月の間には
「親である私はこの子の療育や介護の機能でしかないのか、
私は一人の人としては認められず、それまでの人生の継続を生きることは許されないのか」
という疑問を抱えてきた。

それは現在「介護者の権利」「介護者支援」という問題意識に繋がっている。

谷口さんの本を読んで、
「子どもの安全と健康」の管理で親をガチガチに縛りつけている米国社会や、
ミッシェル・オバマの「レッツ・ムーブ」運動の押しつけがましさから、
私の頭に浮かび続けているのは、そういう諸々。

これについては、まだまだ考えたいことも
考えないといけないこともあると思う。


③ 「科学とテクノで簡単解決文化」は
人を「能力」と「機能」の総合としか捉えない?

トランスヒューマ二ストの誰かが言っていた。

科学とテクノがこのまま発展すれば
「24時間戦える兵士」や「24時間働ける看護師」を作ることができるんだぞ……と。

これを未来のユートピア像として説くTH二ストには
24時間働かされる兵士や看護師の人権という視点はないけど、
でも、人権をはく奪され、24時間「機能」を果たし続けろと強要されるなら、
それは「兵士」や「看護師」という「職業人」ではなく「奴隷」だと思う。

しかも、
これを「みんながハッピーになれる世界」の話として語るTH二ストの口調には、
自分はそうした管理と支配を受ける側には回らないとの想定だか幻想だかがある。
どういう根拠によるのかは私にはわからないけれど。

そこのところのTH二ストの、ある種のおめでたさが、私には
かつてコイズミ劇場に熱狂した人たちを思い起こさせる。

そういう大きな時代のダイナミズムみたいなものによって、

人は、こうして、
いくらでもかけがえのある能力や機能の総合体としてしか捉えられず、
能力と機能の総合体としてのみ価値を計られて、
その評価で強引に振り分けられ管理されていく……んだろうか。

あ、そうだった、
「利用可能な人体組織の集合体」としての価値……というのも、あるんだった。


              ――――――

ちなみに上野千鶴子さんの「ケアの社会学」の一節(p.139)に
コミュニケーション行為としてのケアをロボットでは省力化できないし、
介護ロボットを考えつく人はいても育児ロボットを考えつく人はいないことを考えると、
「コミュニケーション行為であるケアの性格を無視した、高齢者差別のあらわれであろう」と
書かれていて、激しく共感しつつも、

いや、上野先生、育児ロボットもすでに開発されているんですよ~、と ↓

NECが開発するチャイルドケアロボットPaPeRo(2009/2/23)

上野先生が、
いくらなんでも「育児ロボットまでは考えつく人はいないだろう」と考えるのは
「育児がコミュニケーション行為だということを理解しない人はいない」という
前提があるんだと思うけど、

でも、それがぁぁぁ、
もう日本にだって沢山そういう人が出現しているから、
私はコワいんですよぉぉぉ……。


【追記】
上のPaPeRoのエントリーで以下のように書いていた。

トランスヒューマニストらを筆頭に”科学とテクノロジー万歳”文化の人たちはなんで物事をすべからく差し引き計算でしか捉えられないのだろう、と、いつも思う。
人間もまた能力の総和としてのみ捉える彼らの感覚で行けば、子どもがロボットに飽きるのも人間とロボットの能力差のためということになるのかもしれないけど、
子どもがロボットに飽きるのは所詮ロボットはプログラムに過ぎないからであり、「人の能力に敵わない」からではなく、人のように「かけがえがない」存在になれないからでしょう。
ロボットが物語を読むのは「読み上げる」のに過ぎないのであって、物語を「読み聞かせる」ことができるのは人間だけだと私は思う。
「かけがえのない」存在だからこそ、人にはそれぞれの「持ち味」や「芸」がある。
だ~れがロボットの落語を聞いて愉快なものか。
ロボットが弾くピアノやバイオリンに、だ~れが感動するものか。
2011.12.22 / Top↑
谷口輝世子さんの「子どもがひとりで遊べない国、アメリカ」を読んでいたら、
おや、これは……と、強いデジャ・ヴがやってきた個所があった。

それが、まず個人的に、ちょっと可笑しかったので抜き出してみる。

アメリカの子ども達の肥満対策としてオバマ夫人が旗を振って始めた
「レッツ・ムーブ」キャンペーンで、親に向けて繰り出される啓発情報について、
著者は以下のように書いている。

 これを読んでいると、私は「親のみなさん、がんばれ」と言われている気分になる。学校への登下校につき添い、栄養バランスを考えてスナック菓子や砂糖漬けのお菓子を避けて、健康的な食事を用意し、子どもが最低一日六○分間、体を動かすのに付き合う。学校からは宿題をやり終えたかどうか確認して、サインをするように言われているし、低学年は親が付き添って一日二○分程度、本を読むようにとも言われている。他のしっかりした親なら出来ることなのかもしれないが、これらを全部やろうと努力すると、私などは子どもの健康を守るまえに、自分の健康と精神的な安定が損なわれるのではないかと心配になってくる。
(p.178)


これが何にデジャ・ヴしたかというと、
ずっと前にspitzibara自身が母子入園での専門家からのご指導について書いた、これ ↓

 日々、三食とも栄養に万全に気を配った食事を申し分ない調理法で用意し、それを子どもの嚥下能力や手の機能に万全の注意を払った介助法で食べさせ、けいれんを誘発しないために「空腹」にも「食べ過ぎ」にもせず、便秘予防のマッサージと体操にも怠りなく、子どもに触れるたびに身体の各部分の機能を念頭に置いた扱いをし、子どものありとあらゆる姿勢にも同様に気を配り、欠かさず毎日数回の訓練を施し、子どもが飲み食いをするたびに正しく磨き残しのない歯磨きを励行し、しょっちゅう子どもの国の中を覗き込んで虫歯を点検し、また知能の発達を促すための工夫を生活のあらゆるところに組みこんで、常に為になる遊びを心がけ、なおかつ子供にストレスを与えず……うわぁあああああああああ、息がつまるぅ、そんなこと、できるかぁ!
「海のいる風景」 P.72


なんといっても、最後のところ

全く同じことを書きながら、
それぞれの書き方のあまりに歴然とした違い方が
いかにもキャラの違いと思えて、ぶっと吹いてしまった。

それから、
このデジャ・ヴで考えた、もう1つは、ちっとも愉快ではないけれど、

私がこの本を読む前から何となく感じていた、
ここに描かれている「子どもがひとりで遊べな」くしている米国のガチガチの空気は
科学とテクノの簡単解決で子どもへの操作・管理を強めていく、
“メディカル・コントロール”の傾向に根っこで繋がってるんじゃないのかなぁ、と
漠然とした予感が、確認されたような気がしたこと。

子どもの安全と健康だけを優先目標とする狭く硬直した価値意識で
これだけが正しい、と親を高いところから指導し、
一方的にそれに従わせようとしてかかるのは、

子どもの機能改善だけを念頭に
親をその目的達成に邁進する良き療育者とするべく
高圧的なパターナリズムで親を教育・指導してかかっていた、
かつての日本の障害児医療の姿勢を思わせる。

それはそのまま
患者にとって「生活」は「医療」より大きくて「医療は生活の中にある」んだというのに、
医療の世界の人の意識では、どうしても、そこのところが倒錯していて、
「医療」は「生活」よりも大きく「患者の生活は医療の中にある」と思いこんでいることを
私には思わせるのだけれど、

その「医療」と「生活」を
昨今の世の中では「科学」と「文化」に置き換えてもいいような気がする。

私はこのブログをやりながら、
科学とテクノの急速な発達と、その可能性にどんどん高まっていく期待によって、
(科学とテクノの背景にある利権が先取り期待でさらに煽ることによっても)
医学など本来なら狭い専門領域に限定された価値意識であったものが
広く世の中一般に浸透し、共有され、むしろ優位になりつつあるんじゃないか、

本来は科学とテクノは、より大きな文化の一部であったはずなのに、そこが逆転して、
科学とテクノの価値意識が文化全体を飲みこもうとしているのではないか、という
なんだか不気味な感じを持っている。

例えば、こういうエントリーで書いたことなど ↓
「科学とテクノ」と「法」と「倫理」そして「問題の偽装」(2010/5/24)
「現代思想2月号 特集 うつ病新論」を読む 3: 社会と医療の変容と「バイオ化」(2011/2/23)


米国の子どもの肥満では、
いくら指導しても子どもの肥満に十分な対応をしない(と判断された)親から
親権を取り上げて子どもを施設に入れるケースがこのところ論争になっていて、

Ashley事件でも無益な治療論でもエンハンスメントでも
臓器移植の死亡提供者ルール撤廃でも「司法は医療に口出すな」でも
あらゆる問題でトンデモ・ラディカルな主張を展開しているNorman Fostが
肥満児の親からの引き離し問題でも「目的は肥満解消」「命を救う」とまで言って
「子どもの利益」によって擁護論に立っている。
(詳細は8月29日の補遺からの抜粋を含めて12月6日の補遺に)

子どもへの肥満防止目的での胃のバンディング手術が急増していて、
私が英文ニュースを読み始めた06年、07年ころにはまだ見かけた
こういう傾向に懐疑的なトーンの報道は最近はあまり見かけなくなって、
むしろ効果があるのだから保険適用を徹底せよという専門家の提言まで出てきているし、

Ashley事件での彼の擁護論からしても、Fostなら、
親権をはく奪されて親子が引き離されたくなければ
子どもに胃の手術を受けさて肥満を解消できるのだから
親の決定権でやればいいと、しゃらりとして言うだろう。

矛盾してないか? と思うのは
科学とテクノで子どもを非治療的侵襲のリスクに晒すことや
子ども自身には利益のない医学実験の被験者とする決断については
「親の決定権」を絶対視して見せるFostが
肥満の子どもの親から親権をはく奪することにはためらいを見せないことだ。

さらに、
以下のエントリーで紹介したように、Fostは、
保育所で「虐待ハイリスクの親」を特定し家庭訪問員を送って指導・予防(監視も?)するプログラムを
既にウィスコンシン州で推進している。「小児科医の責務は子どもを守ること」と言って。

「ハイリスクの親」を特定することから始まる児童虐待防止プログラム:Norman Fostが語る「メディカル・コントロールの時代」:YouTube(2011/2/21)


これらは、この本で描かれている
「小学生の子どもを一人で遊ばせると親が育児放棄に問われる」世界の
すぐ先に待っている未来の米国なのでは……?

そして、
感染予防のためには赤ん坊のオムツは親よりもロボットが替える方が良い、
ついでにサンプルを採取してデータが取れればさらに理想的、と
本気で考える児童精神科医が日本にも出現していることを思うと、
(詳細はこちらのエントリーのコメント欄)

その未来型社会の空気は、
日本でもじわじわと広がりつつあるのかも……?


2011.12.22 / Top↑
Oulletteの”BIOETHICS AND DISABILITY”(p.114)から
1990年代初頭にOregon州で提唱されたが
連邦政府保健省から米国障害者法(ADA)違反を指摘されてボツになった
配給医療の「オレゴン・プラン」について。

医療には障害バイアスがあるとの障害者コミュニティからの指摘は歴史的事実だ、と
敢然と書いてくれるOulletteが、“無益な治療”論をめぐる3章で
障害当事者に医療に対する不安につながるトラウマを残した事件として挙げているのが
Baby Doe事件と、この「オレゴン・プラン」。

Oulletteの解説によると、
メディケアの給付対象とする治療に優先順位をつけ、
それによって対象者の拡大を図ろうとの計画。

その優先順位を決める方策の一つが電話によるアンケート調査で、
6種の機能障害と23の症状についてどう感じるかを問い、
これらの障害と症状の「満足(訳?)の質 Quality of Well-Being」をランクづける、
というものだった。

そのランキングに基づいてオレゴン・プランが実施されると、
それまで給付対象とされていた709の医療サービスの内
122が対象外となる見込みだった。

しかし、そのランキングは
症状のない状態に患者を戻す医療サービスが優先されるもので、
慢性疾患や障害のある患者への医療の切り捨てにつながる。

オレゴン州は実施に向け合衆国保健省の承認を求めたが
保健省は障害者差別に当たるとして1992年に却下。

その理由として、

Quality of Well-Beingデータは
それらの障害や症状を経験したことのない人の回答に重きを置いており、
障害者に関するステレオタイプが数値化されたもの。

Quality of Well-Beingのランキングで下位にあることが
必ずしもアセスメントそのものが低いことを意味するわけではないが、

そのランキングによって医療が制約されることになると、
オレゴン・プランには障害のある生は障害のない生ほどの価値がないとの
前提に立っていることとなり、医療における差別を禁じたADAの精神に反する。

ついでに書いておくと、
障害者は「治療するにはカネがかかり過ぎる」という前提に立つ“無益な治療”論にも
同じことが言えADA違反だとの障害者コミュニティの主張を
Oulletteはこの後、紹介していく。


で、私はこのくだりを読んで、ものすごく不思議だったのだけれど、
じゃぁ、どうしてDALYやQALYは障害者差別でないの???????

それに、ゲイツ財団の私設WHOであるワシントン大学のIHMEは
Global Burden of Diseaseのプロジェクトとして一昨年から
世界規模でこのオレゴンと全く同じ調査をやっているんだけど?

「健康で5年しか生きられない」のと「重症障害者として15年生きる」のでは、どっちがいい?(2010/8/20)

どうして、この調査には障害者差別だという批判が出ないの?
WHOは何を平然とHIMEとパートナー組んでDALYを採用したりしているの?


【関連エントリー】
死亡率に障害も加えて医療データ見直す新基準DALY(2008/4/22)
Peter SingerがQOL指標に配給医療を導入せよ、と(2009/7/18)
「障害者は健常者の8掛け、6掛け」と生存年数割引率を決めるQALY・DALY(2009/9/8)
QALYが「患者立脚型アウトカム」と称して製薬会社のセミナーに(日本)(2010/2/12)
DALY・QALYと製薬会社の利権の距離についてぐるぐるしてみる Part1(2010/2/16)
DALY・QALYと製薬会社の利権の距離についてぐるぐるしてみる Part 2(2010/2/16)


           ――――――

なお、日本語で検索してみたら、

1992年にTruogがオレゴン・プランに言及しつつ
「無益性が客観的概念ではない、最善の利益検討と分配の問題とを切り離せ」と説く
論文の和訳がありました。(オレゴン・プランについては客観的な指標として評価?)↓
無益を超えて(解説)


根拠に基づく健康政策へのアプローチ
林 謙治 国立公衆衛生院 保健統計人口学部
J. Natl. Inst. Public Health, 49(4):2000

350ページ右上に、連邦政府よりも熱心に政策評価をした州の例として
「その中でも住民の満足度を測定したオレゴン・ベンチマーク(1989)が有名である」。

それから読めませんが ↓
オレゴンヘルスプランの展望と日本の医療への適用性の検討
鎌江伊三夫、前川宗隆
神戸大学都市安全研究センター研究報告


日本では国民が目にするような表立ったところでは議論にならず、
かといって専門家の間でこういう議論が行われていることをメディアも伝えず、
いつのまにかコトが起こり行われていくみたいだと、常々感じていることからすると、

多田富雄氏の果敢な闘いが記憶に鮮やかな
コイズミ時代のあの言語道断なリハビリ切り捨ても、もしかして要は
オレゴン・プランの方向性が粛々と取り入れられていたってことだったの……?

米国保健省が障害者差別だと判断したからボツになった事実はどこへやら、
「住民の満足度を測定した」「客観的な指標」とやらに化けたうえで――?
2011.12.22 / Top↑
(前のエントリーの続きです)

「考察」の冒頭、
Oulletteがまず整理するのは、

子どもの医療における親の決定権そのものは
障害者コミュニティも生命倫理学も同じく認めており、両者の見解が異なるのは
「親の決定権を制約すべきか」「制約するとしたらいつ、どのようにして」の点であること。

この2点について両者がコンセンサスに達するためには
親の判断力が信頼される必要があり、障害児の親に対する情報提供や教育も必要となるが、
コンセンサス以前に和解がなければならず、和解するためにはまず信頼が必要。

In my view, trust can be achieved only if all concerned acknowledge and understand the alliances, fears, and values at play in conflict. When it comes to acknowledging their own alliances, fears, and values with respect to disability issues in children, it seems to me that bioethics experts have some work to do.

信頼は、争議で問題になっている関係者すべての身内意識(?)、不安、価値観が認識・尊重された後にしか得られない。子どもにおける障害の問題でそのために努力すべきは、生命倫理学者の方だと私には思われる。
(p.184)


なぜならば、
Larson事件でもAshley事件でも、問題となっているのは、
障害者コミュニティが長年訴え続けてきた医療への不安と不信なのだから。

障害者は技術そのものを悪いと言っているわけではない。

技術を利用する意思決定が倫理的に間違っているから
その議論に障害者問題の専門家を含めることによって
障害のある子ども達のニーズについて親の理解を深めていこう、と主張しているのだ。

一方、生命倫理学者はもはや医療のインサイダーとなり、
医療の主流となっている価値意識を問うという本来の役割を果たすのではなく
むしろ医療判断を医療の専門家に委任する権威づけの役割を担っている。

そのため、人工内耳でもアシュリー療法でも、
子どもを「医療技術で簡単に修正する fixing」利益が
介入の医学的リスクを明らかに上回っているというのに、それを容認してしまう。

Concerns that the use of the intervention would be deemed abusive but for the disabled status of the child are dismissed with a medical justification: In medicine, physical difference justifies differential treatment. No ethical issues here.

当該介入の利用は虐待・濫用になるのでは、との懸念はあっても、障害があるということをもって正当化されてしまう。すなわち、医療においては、身体上の差異がその人への扱いの差異を正当化するのだ、したがって、ここには倫理問題は存在しない。というふうに。
(p.187)


そして、こうした正当化論が、成長抑制をめぐる議論で見られたように
法と法律家の存在を医療の専門性(integrity)への脅威とみなす一部の風潮とも繋がって、
(その司法忌避の代表は、当ブログがしつこく書き続けているように、かのNorman Fost)

In my view, the deference given the medical perspective in bioethics leaves gaps in bioethical analysis.

生命倫理学が医療の視点を偏重している限り、生命倫理分析には欠落した部分があり続けるだろう。

(中略)

So long as bioethicists continue to see disabilities as medical problems, “the medical remedy will likely make most sense.” The trouble is that medical remedies don not always make sense.

生命倫理が障害を医療で解決すべき問題と捉えている限り、「医療による解決策が最も理にかなったものと見えるだろう」。問題は、医療による解決策が必ずしも理にかなっていないことだ。
(p. 188 )

引用はSara Goering, 2010.
Goeringは07年5月の成長抑制シンポにも参加。

この章の最後には
人工内耳に関する聾者の組織からのポジション・ステートメントが追記されています。

ウ―レットさんに、spitzibaraから大きな大きな拍手喝采を――。
2011.12.22 / Top↑
Oulletteの“Bioethics and Disability”の第4章「児童期」で取り上げられているのは
「Lee Larsonの息子たちの事件」と「アシュリー事件」の2つ。

前者は、
聴覚障害の子ども達が自己決定できない内からの、
親の判断による人工内耳埋め込み手術のケース。

09年か10年に、ある研究者の方と話をした時に、
アシュリー事件の議論は人工内耳の問題と通ずるものがある、というお話しで
その方が簡潔に解説してくださった人工内耳をめぐる議論が大変興味深かったので、

親の判断での障害児への侵襲的医療介入のケースとして
この2つの“療法”がここで取り上げられていることには、
なるほど~……と深く納得するものがあった。

とはいえ、私はまだこの問題については何も知らなくて、ちょっと荷が重いので
Lee Larsonの息子たちのケースについて書かれているパートは、今回はパス。
まだ読んでいません。

人工内耳の問題については ⇒ http://www.arsvi.com/d/ci.htm


Ashley事件については、まず事件の概要説明のパートで
前に論文を読んだ時と同じく、Oulletteの事実認識の甘さに、ちょっとイラつく。

検討したのが外部の人間を含めた常設の倫理委だと思い込んでいるし
ホルモン療法の期間を1年半だと書いているし、
Diekemaの詐術に、まるっきりたぶらかされている。

(いつも思うのだけど、学者さんは、ある事件について云々するなら、
基本的な事実関係を把握する作業を、まずしっかりやってほしい。
事実関係を正しく把握するために、資料をもっと丁寧にちゃんと読んでほしい。
学者さんたちは論文を書くことが仕事で、それを主目的にして資料を読むので
つい資料の読み方が、自分が言いたいことを論証するための材料探しに終わる
……ということはないんだろうか。

そうしてDiekemaやFostのように学問的誠実を投げ捨てたワケあり学者の術中にハマり
操作された情報を事実と信じて、まんまと鼻づら引き回されてしまったら、
いくら批判・反論しているつもりでも、その的は微妙に外れて矛先が鈍る)

なので、事件の概要でOulletteが書いていることは、ここでは省略。

「障害者コミュニティの見解」つまり批判についても、
当ブログでリアルタイムに拾ってきた通りなので、省略。

「生命倫理学の見解」でも、
内容的には大筋で当ブログが拾って来たのと同じだけれど、
議論の流れの整理の仕方が、とても興味深い。

Oulletteは大筋として
以下のように生命倫理学者間の議論の流れを捉えている。

真っ先に声を上げたのはお馴染みArt Caplanで、
当初はCaplanに続く学者の批判が多かったが、
「時が経ち、このケースが更に深く分析されるにつれて」
両親と医師や倫理委の判断を支持する声が広がり始めた。

特に大きく流れを変えたのは
影響力の大きなHastings Center Reportに
LiaoとSavulescuらが書いた成長抑制容認論文が掲載されたことだった。

不思議な“アシュリー療法”エッセイと、その著者たち 1(2007/9/27)
不思議な“アシュリー療法”エッセイと、その著者たち 2(2007/9/28)

(Liaoらが権威ある雑誌で外科的介入との間に線引きをしたことが
“アシュリー療法”から特に成長抑制だけを取り出して容認する流れを作った……
というのが、Oulletteの捉え方なのですね。
DiekemaとFostなど関係者らが事件の真相の隠ぺいのために
意図的にそういう議論の流れを誘導した、というのではなく)

もっとも、06年の当初論文に既に潜んでいる隠ぺい工作の胡散臭さに
多少なりとも気づいてくれた唯一の学者さんだと私が推測しているJohn Lantosが、
乳房芽切除の隠ぺいや、具体的データの欠落、エビデンスを書いた論理展開などを
鋭く指摘したことはOulletteも書いたうえで、

Lantosの疑問には容認論者の誰も応えられなかったにも拘らず、生命倫理学者の間には
成長抑制療法については倫理的に容認可能とのコンセンサスができていった、
その根拠は「親の決定権」と「価値観の中立性」だった、と整理。


親の決定権と価値観の中立をめぐる議論の引用は
Lanie Friedman Ross, Merle Spriggs, Peter Singer, Hilde Lindermann 。

こうした概観を経て、この章の「考察」でもOulletteは、

生命倫理学は医療のバイアスにとりこまれてしまって
医療の在り方や考え方を問い直す学問としての役割を果たしていない、とズバリと指摘。

A事件での障害者らの批判に沿った主張を展開し、
3章と同じく、両者の和解に向けた会話を前提に
まず生命倫理学は医療の主流的な価値観を問いなおせと説いている。

詳細は次のエントリーで。
2011.12.22 / Top↑