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ビル・ゲイツが中国の科学とテクノロジー相と薬、ワクチン、農業技術(seeds diagnostics)でのパートナーシップで合意。:これ、慈善家としての行動なのか、それとも投資家としての行動なのか。
http://www.businessweek.com/news/2011-12-10/gates-chinese-ministry-partnership-to-work-on-drugs-vaccines.html

11月10日のマサチューセッツ大学医学部の研修でのRobert Truogの講演ビデオ。“When Is Enough Enough?”:見ようと思いつつ、まだ果たせていない。
http://www.umassmed.edu/Content.aspx?id=142016

カナダの自殺幇助合法化訴訟をめぐっては毎日いくつもの記事が出ているけど、これは「合法化されれば医師に“殺す権利”を認めることになる」との異論。
http://www.ewtnnews.com/catholic-news/World.php?id=4528

Margaret Somervilがカナダ王立協会の自殺幇助合法化提言報告を批判したのを受けて、執筆者の一人から「報告書の提言は他にもあって、丁寧な緩和ケアも提言しているんだぞ」との反論。
http://www.montrealgazette.com/news/What+life+report+actually+said/5848364/story.html

英国リーズ大学から全国介護者戦略のモデル事業の介護者支援報告。:これは必読。
http://www.guardian.co.uk/society/joepublic/2011/dec/12/why-need-care-for-carers?newsfeed=true

来年の英国保健省のソーシャル・ケア白書で、ケア・ホームにホテルのような顧客評価方式の導入が盛り込まれるとか。
http://www.guardian.co.uk/society/2011/dec/11/care-homes-customer-ratings-system

日本。高齢者虐待 最悪580件 男性介護者増加も一因 静岡:いつも思うのだけど、男性介護者と言えば「家事に不慣れ」と決まり文句になるのだけど、それ自体を解消すべき問題と捉えるよりも、男性だから家事に不慣れであることを当たり前の前提とする意識が鼻につく。「家事の不慣れ」なんて、簡単に解消できることだと思うのだけど。やればいいんだから。私は介護費用のコスト削減策としては、「大人なら誰でも最低限の家事・育児・介護ができる社会」が有効なんじゃないかと前から思っているのだけど。⇒http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/52561890.html
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111210-00000014-san-l22

日本で新生児脳低体温療法が普及してきている。
http://blogs.yahoo.co.jp/nicu_sp25/11785738.html

これも日本。Kebichan55さんのブログに早期介入やACTに向かう精神科医療への懸念エントリーが続いているけど、共感。
http://blogs.yahoo.co.jp/kebichan55/52822240.html

ナラティブ・メディスンによる全人医療について医学書院の特集記事2本。:ナラティブ・メディスンについてはミュウの幼児期に本を読んで感動して、ものすごく期待もしたんだけど、医療の全体的な方向は逆に向かっていくばかりだとも感じてきた。ミュウの施設に「コミュニケーション」をテーマに医学生が実習に来る際に、セミナーでこういう方向の語りをさせてもらった時期もあったけど、何年かやるうちに指導教官から「一生懸命に勉強している医学生が、医療への批判ばかりを聞かされるのもどうか」「いつまでも患者からの医療批判を聞かされるのはウンザリ」みたいな反発が出るようになって、風向きが変わった感じがした。研修制度が変わって、その実習もなくなったし。同じことを患者が説くと反発される。同じことを「ナラティブ・メディスン」という名前で医療職が説くと受け入れる人もいる。
http://www.igaku-shoin.co.jp/paperDetail.do?id=PA02956_01
http://www.igaku-shoin.co.jp/paperDetail.do?id=PA02956_03

慢性疲労症候群の誤診で学校に行っていない子どもたちが増えている、との調査結果。
http://www.guardian.co.uk/society/2011/dec/12/chronic-fatigue-syndrome-schools

スタチンがアルツハイマー病の治療に有効?
http://www.medicalnewstoday.com/releases/238988.php

遺伝子と新たな薬で記憶力増強が可能、と神経学者。
http://www.medicalnewstoday.com/releases/238949.php
2011.12.13 / Top↑
中国でウイグル人など政治犯を殺したり生きたまま臓器を摘出する慣行が
90年代からあり、中国政府のイスラム教徒や政治犯の粛清策と噛み合って
システム化されている、との調査報道記事。

通常は自分と家族の身の安全を考えてしゃべる人が少ないが
ヨーロッパに亡命したり移住した医師や元警察官など
2年に渡って直接関与した人にインタビューを行い、
それら目撃証言を構成したもの。

背景には、ウイグル自治区への中国の弾圧と資源搾取の歴史があることも指摘されている。
当初はウイグルのナショナリストをCIAの手先呼ばわりしていたのが
9・11以降はアルカイダのテロリストという話に変わり、
中国の経済成長に伴って米国もそれに乗っかっていることなど。

北京オリンピックの前に日本でも報道されたことは印象にあったけれど、
今回この記事で日本での報道がずいぶん偏ったものだったらしいと気付いた。

私はほとんど何も知らないので、ちょっと検索してみたところ、
とりあえず、この記事とコメントやこちらの記事など。

で、本題の政治犯からの臓器摘出システムに関する証言内容を簡単にまとめると、

① あるウイグル人の匿名医師の証言。1991年。

広州の処刑場。建物前に何台もの簡易手術室バンが集結。
その日は36人の処刑で、都合72個の腎臓と角膜を採取の予定とのことだった。
それぞれのバンに待機した外科医が15分から30分で摘出し、
病院に持ち帰って6時間以内に移植する。

銃声が聞こえた直後、バンの後ろ扉が開き、白衣の職員2人によって
まだけいれんしている男性が運び込まれてくる。その人は漢族だった。
予想通り右胸を撃たれている。

3人目には、首にひもで絞めた跡があった。
裁判の時にはモノが言えないように首を絞めて出廷させるという。
政治犯だからしゃべらせたくなかったのでは、と医師は考えた。

② ウイグル人の元警察官で、新人時代に公安部局に勤務。1994年。

政治犯への拷問、処刑、レイプを多数目撃した。
処刑に派遣された同僚から聞いた話として、
役に立たない遺体は穴に棄てられるが、使える遺体は摘出用のバンに運び込む。
バンの中から生きたまま摘出されていると思われるすさまじい絶叫を聞いた、と。

数カ月後、彼自身が死刑囚の連行の役割に。
囚人に「なんで注射したんですか」と問われ、
とっさに「銃殺の苦痛を和らげるため」と答えたが
あとで医師に聞いたら抗凝固剤だとのこと。
医師は「できれば異動させてもらえ。ここの職員はみんな地獄に落ちるぞ」と。

③ 病院の外科医。1995年。

上司から、現場での手術を経験させてやると言われ、
詳しいことは聞くなと釘を刺された上で外科手術用のチームを段取り。
バンで指示された場所に出かける。

そこには20体ほどの遺体が並べられており、
「これです。手術するのはこの人」と指示された遺体を見て、
「まさか。この人はもう死んでいますよ」と確認しつつ抗議した瞬間、
首の動脈に拍動を感じた。「いや、この人は死んでない」と訂正すると
「それなら手術して。肝臓と腎臓をとって。早く。ほら早く!」と。

バンの中で通常の手順通りにやろうとすると主任外科医から
「麻酔はなし」「生命維持もなし」と怒鳴られた。
「どうせ意識はないんだから切っても痛みはないんだ」。
しかしメスを入れた瞬間、男性は大きくのけぞって暴れた。
血管をクランプする手間も惜しんで摘出すると、
引き取りに来ている家族のために一番外の腹壁だけを縫合。
自分は殺人者だと感じて、遺体の顔を見ることができなかったという。
翌日、主任外科医に呼ばれ「昨日は何もない平穏な一日だったな」と念押しされた。

処刑前になると、平服の職員が死刑囚を説得して
臓器を国に提供するとの書類にサインさせていたという。
豪華な最後の食事が提供され、抗凝固剤が打たれた。

④ ウイグル自治区のグルジャで起きた97年の中国による大規模弾圧の直後に 
グルジャの病院で働いていた看護師。

抗議デモに参加したウイグル人の負傷者の治療をすることは禁じられ、
腕に包帯を巻いただけで15年の禁固刑を受けた医師もいた。
病院内スタッフにも中国人とウイグル人の分断が起きた。
ウイグル人夫婦に子どもが生まれると抗生剤と偽って薬殺していた。

抗議行動で逮捕され暴行を受けて腎臓に損傷を負った青年の家族は
息子の釈放に多額の金銭を払い、さらに移植用腎臓に約4700ドルかかると言われた。
その代わり同い年のウイグル人男性の腎臓をやると言われたが、
それは抗議行動をしていたウイグル人男性のものだった。

⑤  ウイグル人の当時新米医師。ウイグルの病院にて。1997年。

上司から政府の高級官僚が5人、内臓疾患で入院すると聞かされ、
同地区の刑務所の政治犯棟へ行き、採血して血液型一覧を作成するよう命じられる。
その時にはワケが分からなかったが、同じウイグル人なので
採決の意図を疑われないためだったのでは、と今は振り返って推測する。

彼が作った血液型一覧から血液型が一致する囚人を選んで
さらに臓器の適合をチェック。合致した囚人は右胸を撃って殺し、5人の官僚に移植。

数カ月後に同じ指示が出た時に、
政治犯から臓器摘出をするのはいつものことで、
儲けが大きな輸出として伸びていると聞かされる。
主導しているのは軍の病院だとも。


この記事の著者は北京オリンピック前の法論功弾圧で
300万人の法論功学習者が矯正施設へ送られ、
ざっと65000人のウイグル人の臓器が
心臓がまだ打っている状態で摘出されたと推測している。

著者からインタビューを受けた一人は、
英国下院が主催した中国の人権問題セミナーで手を上げ、
自身が殺人に関与したことを告白したが、
英国政治家の誰もそれをとりあげなかったという。

……in a world eager not to offend China, no state wants his confession.
世界中が中国に迎合する時代、彼の告白など、どの国にとっても迷惑でしかない。

The Xinjiang Procedure
Beijing’s ‘New Frontier’ is ground zero for the organ harvesting of political prisoners.
Ethan Gutmann,
The weekly Standard, December 5, 2011


【関連エントリー】
A・Caplanが、死刑囚の臓器に依存する中国の移植医療ボイコットを呼びかけ(前)(2011/10/12)
A・Caplanが、死刑囚の臓器に依存する中国の移植医療ボイコットを呼びかけ(後)(2011/10/12)
「囚人を臓器ドナーに」は実施面からも倫理面からもダメ、とCaplan論文(2011/10/14)
2011.12.13 / Top↑
ある方から、この本のことを教えてもらった数日後、
そのことを全く失念したまま図書館へ行き、まったく別の本を探していたら、
棚のずいぶん下の方から誰かに呼ばれている感じがした。

で、なんとなく呼ばれるままに目をやったら、
そこにいたのが、この本だった。

「あらま、あんたってば、そんなところにいたの……」と驚き、
これはただの偶然ではあるまいと、さっそく借りて帰ったら、
やっぱり、なんとも素敵な本だった。

粘土でにゃにゅにょ 土が命のかたまりになった!
田中敬三著 岩波ジュニア新書


滋賀県の第二びわこ学園で
1979年から定年退職する2003年まで粘土室の主任を務めた田中敬三氏が、
びわこ学園の「園生さん」たち(と著者は当時の呼び方のまま書いている)が
粘土の世界で見せる素晴らしい笑顔や表情や変化をつづったもの。

それは例えば著者が以下のように総括する世界。

 園生さんが好む硬さに粘土を練っておくのが私の仕事、また私は園生さんが好む「おもちゃ」の提供者にすぎません。造形という点からすれば、指導できない指導です。
 園生さん一人ひとりに個性があって、表現方法にも個性があり、粘土でのあそび方や作品にもそれぞれの顔が出てくる。粘土は、その一人ひとりにうまく対処してくれたのです。
にゅるにゅる、ねちゃねちゃ、ぬるぬる、むにゅー。
「園生さんの粘土の世界は「な行」の世界やなぁ」
「だったら、「にゅにゅにょ」というのはどうや」
 粘土活動の初めての記録冊子をつくる際、タイトルを考えていたら職員からそんなアイデアが出されました。粘土の世界は、「にゃにゅにょ」の世界。一人ひとりにあわせ、自在に変化する何ともおもしろい世界です。
(p.141-142)



それぞれに重い障害を持つ「園生さん」たち一人ひとりが、
どのようにして粘土と出会っていったか、
粘土とどのようにやりとりしながら、どんな作品を作り、
どんな表情を見せたか、丁寧につづられる文章を読み進んでいくと、

著者は作業療法士ではないけれど、
それでも生まれついての作業療法士だったんじゃないかなぁ、という気がしてくる。

なにしろ、この人は粘土室の初期から、
こんなことをさらりとやってしまう人なのだ。

……自発的に粘土にふれられない重度の障がいがある人には、反発力のある固い粘土はやはり受け入れがたいものでした。そこで私はクリームのようなキメの細かい粘土を用意しました。職員がこのつるつるの粘土で園生さんの手をなでます。これだと、重度の障がいをもつ園生さんも、手をひっこめることなく、心なしかうっとりして見えます。
 次にこの粘土でお互いの手と手をくっつけ、引き離そうとしてみます。しかし、間に空気がなくすっかり密着してしまっていて、離そうにも離れません。このときの粘土は「接着剤」です。
 手と手をくっつける時に空気が入っていれば、これを押すと、お互いの手の間から「オナラ」が出ます。プッという音、振動、空気の動く感触。重い障がいを持っている人でも、この思わぬ刺激をしっかり受け止めているようです。
(p.63,67)




そのため、目の見えない人も音や感触で粘土遊びに熱中する。

自閉傾向があり、服を何枚も頭からかぶって中から自分で締め上げて、
脱がそうとすると自傷行為に至る泰代さんの場合には、著者はまず
ひも状に伸ばした粘土を一本、頭の上に置く。そして、また一本。

本人が次を期待し始めるのを見ながら、次々に頭の上に載せていく。
「重さが心の安定をもたらしてくれるのだろうか」という著者の観察に、
私はかつて訳したことのある感覚統合のテキストの一節を思い出した。(ちなみにこれ)

75ページに粘土のひもを何本も頭から垂らした泰代さんの写真がある。
服から出した顔はくつろぎ、うっすらと微笑んでいる。目には、そこはかとなくチャメまで漂う。

この本には、こうした素晴らしい表情や笑顔の写真が沢山おりこまれている。
一人ひとりの体臭まで立ち上ってきそうなほど生き生きした写真ばかりだ。
撮影者は著者自身。

田中氏はその後、粘土室にもみ殻や麦や大豆をもちこんで、
感覚遊びをさらに発展させていく。これもまた、まさに作業療法の世界――。

以前、OTさんの世界を仕事でちょっと覗かせてもらった時に感じたのだけれど、
作業療法というのは医療の中では最も患者にも患者の生活にも近いところにいて、
いわゆる「専門家」の世界に懐疑だらけの「重症障害児の母親」をやってきた私には
ずいぶん魅力的な領域に思えたものの、

作業療法の世界の人たちを見ていると、
もともとOT的な感性なのか資質なのかを持っている人が
教育や研修によって身につけた知識やノウハウや技術を通じて
自分の感性や資質を開花させた時にものすごい力を発揮するOTに化ける反面、

基本的なOT的感性なのか資質なのかを全く欠いた人が
教育や研修によって知識やノウハウや技術を身につけると、
知識やノウハウや技術に縛られてPTみたいなOTにしかならない……のかな、と思ったことがある。

それはどこかで、学校の先生とか医療職とか支援全般とか、
人と関わり人とかやり取りを通じて相手に働きかけていく仕事に就く人に
共通して言えることのような気がしないでもないのだけど、

そして、それはバイバイのエントリーのコメントで
yaguchiさんが書いてくださった「人と人とが相互作用するダイナミズム」に
通じていくとも思うのだけど、

そういうことも含めて、田中敬三という人は生まれながらの作業療法士、
それも感覚統合的な感性や資質をたっぷり持った人なんじゃないかなぁ……と思う。

ウンチを触って遊ぶ人と一緒に粘土でつくったウンチで遊んでみたり、
紙をちぎるのが好きな人には粘土の紙をいくつもちぎってもらって
その積み重ねが「作品」になったり、

著者は一人ひとりの「その人」をしっかり「見る」こと「感じる」ことから
その人と粘土のやりとりのヒントを見つけ、そこから、その人の感覚や遊びを広げていく。

あくまでも自分は媒体となって――。

中でも「わっ、すごいっ」と思わされた一人が
硬直型の寝たきりで、自由に動かせるのは左足だけ……といった英史さん。

彼は寝たまま左足裏の感覚だけで粘土を少しずつ長く伸ばすことを根気よく模索し、
ついに3メートルにも及ぶ粘土の巨大なヘビを作ることに成功する。

また田中氏が、いくつもできた彼の3メートルの作品を焼くために、
独自に窯を研究・工夫し、信楽まで出掛けて窯を解体する作業をしてはレンガを集めて
2年もかけて窯を作ってしまうと来る。

なかなか、ここまでできるものじゃない。
こんなことは研修や努力でできることでもない。

さらに、こういう人が職員にいたからといって、
重心施設の一角に「粘土室」を作って専従の職員に据える……などという
思い切った人の使い方ができる施設が、そもそも、なかなかあるものじゃない。

(さらにこの先は、そんな現場の裁量が許されない時代になっていくんだろうなぁ、悲しいなぁ……)


びわこ学園といえば、
「重い障害を生きるということ」の高谷清氏が園長を勤めた施設。

この本に描かれているびわこ学園は、高谷氏の前任者の時代のようだけれど、
高谷氏の新書で重症児・者について読む人たちに、ぜひこの本を合わせ読んでもらって、

この本にたくさん掲載されている写真で
「園生さん」たちが粘土と取り組む姿と表情を一人でも多くの人に見てもらって

こんなにも生き生きとした姿を見せる人たちのことを
初めて見た人の多くが恐らくは「何も分からない」「何もできない」人たちだと
何の疑いもなく思いこんでしまうのだという事実について、

そして「こういう人が生きていて幸せなのか」「生きているのはかわいそうではないか」と
勝手に思いを巡らせてしまうのだという事実について、

改めて考えてみてもらえたら、と思う。


【関連エントリー】         
高谷清著「重い障害を生きるということ」メモ 1

また、ミュウを始め、私が直接知っている重症児者の姿を
ありのままに描いてみようとする試みのエントリーは
「A事件・重症障害児を語る方に」の書庫にあります。

この書庫のエントリーを読んでくださる方の中には
ミュウの障害はそれほど重くないようにイメージされる方も、
ミュウよりもっと重症の人だっている、とそちらを問題にされる方もあるかもしれませんが、

ミュウは、
初めて見る人の多くが「何も分からない子」と思いこまれるであろう、
寝たきり全介助、言葉を持たない24歳です。

知らない人が見たら「何も分からない」「何もできない」と思われてしまう、
(もしかしたら医師の中にだってそう考えている人がいるかもしれない)ミュウが、
実際は、こういう人として日々を暮らしているのだということの意味を考えていただければ。
2011.12.13 / Top↑