前のBMAの提言エントリーを書いて、
脳死者が減って脳死者からの臓器提供(DBD)件数が減少している都の下りで、「あれだ!」と
お正月にある方にいただいたままになっている情報を思い出したので。
Transplantation誌の2011年6月号に
オランダの医師3人が書いた論文。
“Is Organ Donation From Brain Dead Donors Reaching an Inescapable and Desirable Nadir?”
Erwin J.O.Kompanije, Yorick J. deGroot, and Jan Bakker
Transplantation 2011;91:1177-1180
アブストラクトは
The brain dead patient is the ideal multiorgan donor. Conversely, brain death (BD) is an undesirable outcome of critical care medicine. Conditions that can lead to the state of BD are limited. An analysis showed that a (aneurismal) subarachnoid hemorrhage, traumatic brain injury, or intracerebral hemorrhage in 83% precede the state of BD. Because of better prevention and treatment options, we should anticipate on an inescapable decline of BD. In this article, we offer arguments for this statement and discuss alternatives to maintain a necessary level of donor organs for transplantation.
脳死(BD)患者は理想的な多臓器ドナーであるが、救急医療の側から見れば望ましくないアウトカムでもある。もともとBDに至る病状も動脈瘤破裂、頭部外傷、脳内出血で83%と限られている上に、最近では予防や治療内容が改善されていることから、今後BDの減少は避けられない。そこで、この論文において、必要レベルのドナー臓器を確保するためのBDに代わる選択肢について論じる。
ただ、この論文が何らかの具体的な方策を提言しているというわけではなく、
論文は、DBDが減少してきた現状と、
予防と治療の改善によりさらに減少する見込みをデータにより解説し、
「現在のところ、心臓提供は“死亡提供者ルール”を尊重すれば、
脳死者からのみ可能である」と述べた後で
その解決策としてこれまでに提案されてきたラディカルな方法について概観する。
まず紹介されるのは
新生児、乳児からの心停止から2分以外のDCD提供など
(デンバー子ども病院の「75秒プロトコル」も含まれていると思われます)
米国での乳児からの心臓提供の報告はあるが、
「これらの実践には倫理的にも概念的も深刻な疑問がある」と書き、
さらにWilkinson とSavulescuは
「神経安楽死neuro-euthanasia」と心臓摘出による「臓器提供安楽死」という
「極端な解決策」を提案したが、多くの批判を浴びた、と書いて、
もう1つの難問としては家族の拒否率の高さを挙げて、
これはコミュニケーション・スキルを磨くことが有効だ、と。
心臓以外についてはDCDと生体肝移植をさらに進めるべく研究すべきだが、
生体ドナーへのインセンティブを高める様々な方策の提言には
WHOからも臓器・人体売買や貧困層、弱者への搾取の警告が出ている、とも。
で、著者らがこの論文で具体的に提案しているのは
生体ドナーからの腎臓と肝臓の提供を増やすために
地域限定でのキャンペーン、患者による啓発活動、ドナーの追跡調査など。
結論は、
移植医療界はBDに至る病気の予防と治療の改善によってBD患者が減少することを念頭に置いておかなければならない。この減少そのものは望ましく、また避けがたいものである。それにつれて移植可能な心臓数も減少するが、死亡者提供ルールを侵害せずに対処できる選択肢は存在しない。肺、腎臓、肝臓については、改善の余地がまだある。当面、ドナーとなる可能性がある人をタイムリーに特定する方法を改善し、生体提供の障壁を取り除く努力を払いつつ、道徳や倫理の境界線の引き直しを迫るような難しい選択肢については、その間に時間をかけてさらに検討してはどうか。
脳死者の発生が減り、脳死者からの臓器の減少が不可避となれば、
なるほど昨日のエントリーで拾ったBMAの提言のような
倫理も道徳も、実際にはセーフガードもどうでもいいから、とにかく臓器を、
と言わんばかりの“臓器不足”解消に向けた規制緩和が叫ばれていくのでしょう。
英国に限らず、どこの国でも――。
――――――
神経安楽死 neuro-euthanasiaについては、うっかりしていたので
SavulescuとWilkinsonの論文に当たってみました。
(全文が読めるようになっています。こちらから)
なんと、
生命維持装置依存の患者からの臓器提供数とクオリティ向上策として
提案されている選択肢7つのうちの4番目がこれでした。
前に読んだ時には臓器提供安楽死が頭にかみついていたので
この辺りは全然ピンと来ていなかったのだろうと思います。
以下のように書かれています。
Option 4 – Neuro-Euthanasia followed by organ donation: Euthanasia by occlusion of blood vessels to the brain. Removal of organs after brain death certified.
脳への血流を疎外する方法で安楽死させるとは、
人為的に脳死にさせる、ということ、ですね。
「臓器提供を前提に人為的に脳死状態に陥らせたうえで
臓器を摘出する安楽死」ではないか、というspitzibaraの推理は当たってしまいました。
ぐぇぇ。
もう1つ、この論文で目を引かれたのは
オランダの著者による論文であることと、
文中で臓器確保率の高い優秀な国としてベルギーとスペインが挙げられていること。
オランダとベルギーは共に安楽死の先進国。
特にベルギーでは
「安楽死後臓器提供」がすでに実施されたことが報告されています。
「臓器提供安楽死」「安楽死後臓器提供」を含め、その他
これまでに提案されてきて“臓器不足”解消案についても、こちらに ↓
これまでの臓器移植関連エントリーのまとめ(2011/11/1)
また、スペインの安楽死については私は詳しくないけど、
動物の権利については奇妙にトランスヒューマニスティックな文化が気になる国。
チンパンジーに法的権利認める(スペイン)(2008/9/3)
脳死者が減って脳死者からの臓器提供(DBD)件数が減少している都の下りで、「あれだ!」と
お正月にある方にいただいたままになっている情報を思い出したので。
Transplantation誌の2011年6月号に
オランダの医師3人が書いた論文。
“Is Organ Donation From Brain Dead Donors Reaching an Inescapable and Desirable Nadir?”
Erwin J.O.Kompanije, Yorick J. deGroot, and Jan Bakker
Transplantation 2011;91:1177-1180
アブストラクトは
The brain dead patient is the ideal multiorgan donor. Conversely, brain death (BD) is an undesirable outcome of critical care medicine. Conditions that can lead to the state of BD are limited. An analysis showed that a (aneurismal) subarachnoid hemorrhage, traumatic brain injury, or intracerebral hemorrhage in 83% precede the state of BD. Because of better prevention and treatment options, we should anticipate on an inescapable decline of BD. In this article, we offer arguments for this statement and discuss alternatives to maintain a necessary level of donor organs for transplantation.
脳死(BD)患者は理想的な多臓器ドナーであるが、救急医療の側から見れば望ましくないアウトカムでもある。もともとBDに至る病状も動脈瘤破裂、頭部外傷、脳内出血で83%と限られている上に、最近では予防や治療内容が改善されていることから、今後BDの減少は避けられない。そこで、この論文において、必要レベルのドナー臓器を確保するためのBDに代わる選択肢について論じる。
ただ、この論文が何らかの具体的な方策を提言しているというわけではなく、
論文は、DBDが減少してきた現状と、
予防と治療の改善によりさらに減少する見込みをデータにより解説し、
「現在のところ、心臓提供は“死亡提供者ルール”を尊重すれば、
脳死者からのみ可能である」と述べた後で
その解決策としてこれまでに提案されてきたラディカルな方法について概観する。
まず紹介されるのは
新生児、乳児からの心停止から2分以外のDCD提供など
(デンバー子ども病院の「75秒プロトコル」も含まれていると思われます)
米国での乳児からの心臓提供の報告はあるが、
「これらの実践には倫理的にも概念的も深刻な疑問がある」と書き、
さらにWilkinson とSavulescuは
「神経安楽死neuro-euthanasia」と心臓摘出による「臓器提供安楽死」という
「極端な解決策」を提案したが、多くの批判を浴びた、と書いて、
もう1つの難問としては家族の拒否率の高さを挙げて、
これはコミュニケーション・スキルを磨くことが有効だ、と。
心臓以外についてはDCDと生体肝移植をさらに進めるべく研究すべきだが、
生体ドナーへのインセンティブを高める様々な方策の提言には
WHOからも臓器・人体売買や貧困層、弱者への搾取の警告が出ている、とも。
で、著者らがこの論文で具体的に提案しているのは
生体ドナーからの腎臓と肝臓の提供を増やすために
地域限定でのキャンペーン、患者による啓発活動、ドナーの追跡調査など。
結論は、
移植医療界はBDに至る病気の予防と治療の改善によってBD患者が減少することを念頭に置いておかなければならない。この減少そのものは望ましく、また避けがたいものである。それにつれて移植可能な心臓数も減少するが、死亡者提供ルールを侵害せずに対処できる選択肢は存在しない。肺、腎臓、肝臓については、改善の余地がまだある。当面、ドナーとなる可能性がある人をタイムリーに特定する方法を改善し、生体提供の障壁を取り除く努力を払いつつ、道徳や倫理の境界線の引き直しを迫るような難しい選択肢については、その間に時間をかけてさらに検討してはどうか。
脳死者の発生が減り、脳死者からの臓器の減少が不可避となれば、
なるほど昨日のエントリーで拾ったBMAの提言のような
倫理も道徳も、実際にはセーフガードもどうでもいいから、とにかく臓器を、
と言わんばかりの“臓器不足”解消に向けた規制緩和が叫ばれていくのでしょう。
英国に限らず、どこの国でも――。
――――――
神経安楽死 neuro-euthanasiaについては、うっかりしていたので
SavulescuとWilkinsonの論文に当たってみました。
(全文が読めるようになっています。こちらから)
なんと、
生命維持装置依存の患者からの臓器提供数とクオリティ向上策として
提案されている選択肢7つのうちの4番目がこれでした。
前に読んだ時には臓器提供安楽死が頭にかみついていたので
この辺りは全然ピンと来ていなかったのだろうと思います。
以下のように書かれています。
Option 4 – Neuro-Euthanasia followed by organ donation: Euthanasia by occlusion of blood vessels to the brain. Removal of organs after brain death certified.
脳への血流を疎外する方法で安楽死させるとは、
人為的に脳死にさせる、ということ、ですね。
「臓器提供を前提に人為的に脳死状態に陥らせたうえで
臓器を摘出する安楽死」ではないか、というspitzibaraの推理は当たってしまいました。
ぐぇぇ。
もう1つ、この論文で目を引かれたのは
オランダの著者による論文であることと、
文中で臓器確保率の高い優秀な国としてベルギーとスペインが挙げられていること。
オランダとベルギーは共に安楽死の先進国。
特にベルギーでは
「安楽死後臓器提供」がすでに実施されたことが報告されています。
「臓器提供安楽死」「安楽死後臓器提供」を含め、その他
これまでに提案されてきて“臓器不足”解消案についても、こちらに ↓
これまでの臓器移植関連エントリーのまとめ(2011/11/1)
また、スペインの安楽死については私は詳しくないけど、
動物の権利については奇妙にトランスヒューマニスティックな文化が気になる国。
チンパンジーに法的権利認める(スペイン)(2008/9/3)
2012.02.14 / Top↑
英国医師会(BMA)が
“慢性的な臓器不足”により年間1000人が死んでいる事態の解消のため、
臓器摘出に関して、思い切った提言を出した。
ざっと、以下のことを認めるよう提言している。
① 臓器ドナーにする目的でのみの延命。
② 生後3か月以内の新生児にも脳幹テストを行い、死亡宣告して心臓を摘出。
③ 高齢や有病などハイ・リスクのドナーからの摘出。
④ 死んで間もない患者から心臓を摘出し、
血液と酸素を送って機能を維持しつつ、
移植して拍動を再開させる方法。
⑤ ERのスタッフに提供可能性のある患者を特定し、
家族に働き替えるよう要請。
⑥ 臓器を提供するよう求められた家族の拒否率35%の改善に向けたキャンペーン。
⑦ 必要になったら臓器はほしいけど自分は提供しないという人の
「道徳的不均衡」についてのキャンペーン。
⑧ 運転免許の申請や更新手続きの際に提供への意思表示が去年義務付けられたが
それをパスポートや確定申告、GP登録、選挙登録などにも拡大。
臓器目的での延命は、提言では「選択的人工呼吸(elective ventilation)」と呼ばれており、
脳卒中などで脳幹検査で死亡宣告された患者を
単に臓器の鮮度を保つ目的で生かしておこう、というもの。
現在はこうした患者からは
肝臓、腎臓、肺しか提供されていないが、
1988年にこうした方法で心臓移植をやった病院があり、
その際には50%も移植に使える臓器が増えた実績があるが、
その後、1994年に保健省が違法行為と定めた。
それにより永続的植物状態が生じる恐れがあるとか、
他者の利益のための治療を患者に施すのは非倫理的だ、などの批判があるが、
BMAの倫理部門のトップ、Nathanson医師は、
ドナー登録している患者なら問題はないのでは、と。
このテクニックはスペインと米国ではすでに行われているし、
患者本人には無益な治療を他者への利益のために行う倫理問題についても
少しずつ意識は変わってきている、という医師も。
BMAの報告書は
「心肺機能停止に続いて死亡宣告された患者の心臓が
その後、拍動を再開して他人に移植されるというのは難しい概念なので
慎重な説明が必要となる」と書きつつも、
米国で成功しているこのやり方は
「研究すべき領域として、妥当かつ重要で」あり、
「提供可能な心臓を増やし、ドナーになりたいと望むより多くの人の願いをかなえるという
2つの可能性がそこにはある」と書く。
Nathanson医師は
「ちゃんと説明すれば、
動脈瘤のある人に移植されたドナーの心臓が
電気ショックでよみがえって打ち始めるとか、
そういうテレビドラマのような話ではないことが
家族にも理解されるはずだ」と。
もっとも、集中治療の医師らからの批判にも報告書は触れており、
脳死ドナーからの移植数が減っている焦りから、このような
あらゆる携帯の臓器提供に対して医療職、国民双方の信頼を損なう可能性がある介入に
手が出された、との批判や、
このようなやり方は許される範囲の境界線のものだ、などの指摘がある。
この記事に引用されている限りではNHSの関係者は
臓器さえあれば治療可能な病気で死んでいく人が毎年500から1000人いるのだから、と
BMAの提言を歓迎している模様で、
保健省のスポークスマンのコメントは
「死よりも前に行われる一切は患者の最善の利益にかなったものでなければならない。
患者に深刻な害や苦しみを与えることは本人の最善の利益にはならない」。
でも、その「死」の定義が、
移植医療の都合によっていかようにも操作可能だということは
「脳死」「DCDプロトコル」「循環死」などで明らかなわけで、
つまり保健省の言う「死よりも前」の線引きは、動かせるということでもあり……。
いろんな立場の人が、「厳格なセーフガードは必要だけど、
深刻な慢性的な臓器不足解消のためには、やろう、やろう」と
口をそろえて言っている。
「セーフガード」の中身についてなど、まるっきり興味ない口調で――。
Doctors’ radical plan to tackle organ shortage
Guardian, February 13, 2012
おそろしい……。
“慢性的な臓器不足”により年間1000人が死んでいる事態の解消のため、
臓器摘出に関して、思い切った提言を出した。
ざっと、以下のことを認めるよう提言している。
① 臓器ドナーにする目的でのみの延命。
② 生後3か月以内の新生児にも脳幹テストを行い、死亡宣告して心臓を摘出。
③ 高齢や有病などハイ・リスクのドナーからの摘出。
④ 死んで間もない患者から心臓を摘出し、
血液と酸素を送って機能を維持しつつ、
移植して拍動を再開させる方法。
⑤ ERのスタッフに提供可能性のある患者を特定し、
家族に働き替えるよう要請。
⑥ 臓器を提供するよう求められた家族の拒否率35%の改善に向けたキャンペーン。
⑦ 必要になったら臓器はほしいけど自分は提供しないという人の
「道徳的不均衡」についてのキャンペーン。
⑧ 運転免許の申請や更新手続きの際に提供への意思表示が去年義務付けられたが
それをパスポートや確定申告、GP登録、選挙登録などにも拡大。
臓器目的での延命は、提言では「選択的人工呼吸(elective ventilation)」と呼ばれており、
脳卒中などで脳幹検査で死亡宣告された患者を
単に臓器の鮮度を保つ目的で生かしておこう、というもの。
現在はこうした患者からは
肝臓、腎臓、肺しか提供されていないが、
1988年にこうした方法で心臓移植をやった病院があり、
その際には50%も移植に使える臓器が増えた実績があるが、
その後、1994年に保健省が違法行為と定めた。
それにより永続的植物状態が生じる恐れがあるとか、
他者の利益のための治療を患者に施すのは非倫理的だ、などの批判があるが、
BMAの倫理部門のトップ、Nathanson医師は、
ドナー登録している患者なら問題はないのでは、と。
このテクニックはスペインと米国ではすでに行われているし、
患者本人には無益な治療を他者への利益のために行う倫理問題についても
少しずつ意識は変わってきている、という医師も。
BMAの報告書は
「心肺機能停止に続いて死亡宣告された患者の心臓が
その後、拍動を再開して他人に移植されるというのは難しい概念なので
慎重な説明が必要となる」と書きつつも、
米国で成功しているこのやり方は
「研究すべき領域として、妥当かつ重要で」あり、
「提供可能な心臓を増やし、ドナーになりたいと望むより多くの人の願いをかなえるという
2つの可能性がそこにはある」と書く。
Nathanson医師は
「ちゃんと説明すれば、
動脈瘤のある人に移植されたドナーの心臓が
電気ショックでよみがえって打ち始めるとか、
そういうテレビドラマのような話ではないことが
家族にも理解されるはずだ」と。
もっとも、集中治療の医師らからの批判にも報告書は触れており、
脳死ドナーからの移植数が減っている焦りから、このような
あらゆる携帯の臓器提供に対して医療職、国民双方の信頼を損なう可能性がある介入に
手が出された、との批判や、
このようなやり方は許される範囲の境界線のものだ、などの指摘がある。
この記事に引用されている限りではNHSの関係者は
臓器さえあれば治療可能な病気で死んでいく人が毎年500から1000人いるのだから、と
BMAの提言を歓迎している模様で、
保健省のスポークスマンのコメントは
「死よりも前に行われる一切は患者の最善の利益にかなったものでなければならない。
患者に深刻な害や苦しみを与えることは本人の最善の利益にはならない」。
でも、その「死」の定義が、
移植医療の都合によっていかようにも操作可能だということは
「脳死」「DCDプロトコル」「循環死」などで明らかなわけで、
つまり保健省の言う「死よりも前」の線引きは、動かせるということでもあり……。
いろんな立場の人が、「厳格なセーフガードは必要だけど、
深刻な慢性的な臓器不足解消のためには、やろう、やろう」と
口をそろえて言っている。
「セーフガード」の中身についてなど、まるっきり興味ない口調で――。
Doctors’ radical plan to tackle organ shortage
Guardian, February 13, 2012
おそろしい……。
2012.02.14 / Top↑
今日ちょっと検索した際に目に着いた介護者へのアドバイス関連から
(改めて目を通して、良いものがあったら順次紹介しますねー)
アルツハイマー病協会のケアラー・サポート
http://alzheimers.org.uk/site/scripts/documents_info.php?documentID=546
仕事と介護のバランスをとるために (AARP)
http://www.aarp.org/relationships/caregiving-resource-center/info-08-2010/pc_balancing_work_and_caregiving.html
介護を始めたばかりの人に8つのアドバイス (AARP)
http://www.aarp.org/relationships/caregiving-resource-center/info-08-2010/gs_new_caregivers_rules.html
介護の危機状態を乗り切るために (AARP)
http://www.aarp.org/relationships/caregiving/info-11-2011/how-to-cope-with-caregiving-crisis.html
これはちょっと毛色が違うけど、「歳をとっても健康で自立するためのハイテク7種」
http://www.aarp.org/technology/innovations/info-12-2011/high-tech-health-trends.html
―――――
7日の補遺で取り上げたGMCの自殺幇助ガイダンスは、医師が直接患者に例えばDignitasの情報などを伝えてはならないけど、自殺幇助を希望する患者にカルテを渡すのはOKみたいなことが盛り込まれているらしい。:これ、Dignitasで幇助してもらうためにはカルテの情報が必要となるためだよね。
http://www.bmj.com/content/344/bmj.e959.short
NYT。カトリック系の病院が、思想信条の権利を縦に法律違反をやり始めている、という記事。:読む余裕がないし月に20本しか無料で読めないのでクリックしていないけど、もしかして、これは終末期医療について「差し控えることはしない」という主張では?
Whose Conscience?: Catholic hospitals are now claiming a special right to conscience that trumps law.
【関連エントリー】
カトリック系の病院が「ターミナルでなければ栄養と水分停止は自殺幇助」(2010/4/7)
PA州の大学では、キャンパスに緊急避妊薬の自動販売機があるとか。
http://www.msnbc.msn.com/id/46297601/ns/health-sexual_health/#.TzHHZiPKCcA
子どもの肥満の問題で、米国小児科学会が「砂糖を規制しろ」と言っている。:なんか、発想がいつも単細胞的。
http://ehln.org/?p=21981
07年に象牙海岸に有害物質を棄てて多くの被害者を出した一大スキャンダルの主、Trafiguraが今度は、南スーダンから石油を盗人したとして停戦条約結んだばかりのスーダンに非難されている。
http://www.guardian.co.uk/world/2012/feb/08/trafigura-in-south-sudan-oil-row?CMP=EMCNEWEML1355
【Trafiguraの有害ゴミ投棄事件関連エントリー】
象牙海岸の悲惨(2007/12/15)
「象牙海岸で先進国の有害ゴミによる死傷者多数」事件:続報(2008/10/24)
先進国の有害廃棄物でアフリカから3万人超える集団訴訟、最近はマフィアが核廃棄物を海に(2009/9/19)
アフリカに有害ごみ撒いた悪徳企業がメディアの“口封じ”狙うも、ネット・ユーザーに敗北(2009/10/14)
(岐阜)県、「医療通訳」プロ養成へ 在住外国人と病院の橋渡し:この動き、いずれ「医療ツーリズム」に引き取られていくかも?
http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20120207/201202071015_16192.shtml
26歳知的障害者を恐喝、中2男子逮捕:どんなに理屈で正当化しようと、社会が弱者切り捨てに血道を上げているというのに、子どもだけが弱者にやさしく育つわけがない。Peter SingerとかSavulescuの言っていることにも通じると思うけど。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120209-OYT1T00159.htm
9歳を殺した18歳。米。
http://news.yahoo.com/mo-teen-gets-life-possible-parole-killing-141938731.html
(改めて目を通して、良いものがあったら順次紹介しますねー)
アルツハイマー病協会のケアラー・サポート
http://alzheimers.org.uk/site/scripts/documents_info.php?documentID=546
仕事と介護のバランスをとるために (AARP)
http://www.aarp.org/relationships/caregiving-resource-center/info-08-2010/pc_balancing_work_and_caregiving.html
介護を始めたばかりの人に8つのアドバイス (AARP)
http://www.aarp.org/relationships/caregiving-resource-center/info-08-2010/gs_new_caregivers_rules.html
介護の危機状態を乗り切るために (AARP)
http://www.aarp.org/relationships/caregiving/info-11-2011/how-to-cope-with-caregiving-crisis.html
これはちょっと毛色が違うけど、「歳をとっても健康で自立するためのハイテク7種」
http://www.aarp.org/technology/innovations/info-12-2011/high-tech-health-trends.html
―――――
7日の補遺で取り上げたGMCの自殺幇助ガイダンスは、医師が直接患者に例えばDignitasの情報などを伝えてはならないけど、自殺幇助を希望する患者にカルテを渡すのはOKみたいなことが盛り込まれているらしい。:これ、Dignitasで幇助してもらうためにはカルテの情報が必要となるためだよね。
http://www.bmj.com/content/344/bmj.e959.short
NYT。カトリック系の病院が、思想信条の権利を縦に法律違反をやり始めている、という記事。:読む余裕がないし月に20本しか無料で読めないのでクリックしていないけど、もしかして、これは終末期医療について「差し控えることはしない」という主張では?
Whose Conscience?: Catholic hospitals are now claiming a special right to conscience that trumps law.
【関連エントリー】
カトリック系の病院が「ターミナルでなければ栄養と水分停止は自殺幇助」(2010/4/7)
PA州の大学では、キャンパスに緊急避妊薬の自動販売機があるとか。
http://www.msnbc.msn.com/id/46297601/ns/health-sexual_health/#.TzHHZiPKCcA
子どもの肥満の問題で、米国小児科学会が「砂糖を規制しろ」と言っている。:なんか、発想がいつも単細胞的。
http://ehln.org/?p=21981
07年に象牙海岸に有害物質を棄てて多くの被害者を出した一大スキャンダルの主、Trafiguraが今度は、南スーダンから石油を盗人したとして停戦条約結んだばかりのスーダンに非難されている。
http://www.guardian.co.uk/world/2012/feb/08/trafigura-in-south-sudan-oil-row?CMP=EMCNEWEML1355
【Trafiguraの有害ゴミ投棄事件関連エントリー】
象牙海岸の悲惨(2007/12/15)
「象牙海岸で先進国の有害ゴミによる死傷者多数」事件:続報(2008/10/24)
先進国の有害廃棄物でアフリカから3万人超える集団訴訟、最近はマフィアが核廃棄物を海に(2009/9/19)
アフリカに有害ごみ撒いた悪徳企業がメディアの“口封じ”狙うも、ネット・ユーザーに敗北(2009/10/14)
(岐阜)県、「医療通訳」プロ養成へ 在住外国人と病院の橋渡し:この動き、いずれ「医療ツーリズム」に引き取られていくかも?
http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20120207/201202071015_16192.shtml
26歳知的障害者を恐喝、中2男子逮捕:どんなに理屈で正当化しようと、社会が弱者切り捨てに血道を上げているというのに、子どもだけが弱者にやさしく育つわけがない。Peter SingerとかSavulescuの言っていることにも通じると思うけど。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120209-OYT1T00159.htm
9歳を殺した18歳。米。
http://news.yahoo.com/mo-teen-gets-life-possible-parole-killing-141938731.html
2012.02.14 / Top↑
英国のケアラー支援チャリティ、CarersUKのサイトから。
CarersUKのサイトのフォーラムで会員の一人が
「落ち込んだ時の立ち直り方」掲示板スレッドを立てた際に、
続々と集まったアドバイスのトップ20を集めたもの。
(とり急ぎのアップです。訳語については今後、順次ブラッシュアップします)
気持ちが沈む日に、ケアラーのあなたへ
1. 何をやってもダメな日は誰にだってあるもの。あまり自分を責めないで。
2. できたら、しばらく家を出て、どこかへお出かけに。
3. 元気になれる人と話をする。家族でも友人でも、こうしたフォーラムでも。
4. ありがたいなぁと思うことをリストにしてみる。
5. 一度に何もかもやろうとしないで一つずつ。あせらずに。
6. 夜は十分な睡眠を。睡眠不足はウツの元。疲れがとれないと気持ちもアップしません。
7. お風呂でプチ贅沢を。バブル・バス、バス・オイル、音楽、好きな本などで。
8. 車の中でCDに合わせ、大声で歌う。
9. 自分はケアラーなだけじゃない、って思い出そう。介護以外にやっているいろんなことを。
10.一人で何もせずにいるより、そういう時は忙しくしているほうが前向きになれる。
11.なんとか取り戻そうとあがくより今日は×な日だったと思い決めて、明日のことを考える。
12.起こっている問題を冷静に整理する。明日の問題は明日に。
13.いつもと違うことをするとレスパイトに近い効果があることも。花を飾ってみる、よそ行きの上着とか帽子を身につけてみると気分が変わるかも。
14.自分が大好きなものをいろいろ入れた「ハッピー・ボックス」を作っておく。元気になりたい時には開けて、その中のものを。全部でも可よ。
15.できたら、なにか身体を動かすことを。ウォーキング、ヨガ、ガーデニング。なんでも自分に合ったものを。
16.チョコレートとかカレーなどの食べものは、気持ちが明るくなる原料入りです。
17.やるべきことがあまりに沢山あって嫌気がさしてしまう時は、15分とか30分と時間を決めて、まず本を読んだり何もしないでいたり、気が向くままに「自分の時間」を作ってしまう。
18.創造的なことに耽ってみる。絵を描くなり、物語を書くなり、楽器を弾くなり、ゴチャゴチャから頭を離せるなら何でも可。
19.その日の過ごし方をざっと決める。いつも通りに暮らせるだけの用事を入れて、ただし余裕でこなせることだけを。
20.自分に言い聞かせて。私は一人じゃないって。
20 tips for low mood
Cares UK
特段、ケアラーに限らない内容のようにも思えますが、
それはともあれ、
「今日はなんだかなぁ……」という日のケアラーの方々に、
やっぱり、まずは、届けたい。
あなたの気持、こんなふうにちゃんと分かっている人がいるよ、
ケアラーのあなたに、こうしてメッセージを送っている人もいるよ、
……というメッセージとして――。
CarersUKのサイトのフォーラムで会員の一人が
「落ち込んだ時の立ち直り方」掲示板スレッドを立てた際に、
続々と集まったアドバイスのトップ20を集めたもの。
(とり急ぎのアップです。訳語については今後、順次ブラッシュアップします)
気持ちが沈む日に、ケアラーのあなたへ
1. 何をやってもダメな日は誰にだってあるもの。あまり自分を責めないで。
2. できたら、しばらく家を出て、どこかへお出かけに。
3. 元気になれる人と話をする。家族でも友人でも、こうしたフォーラムでも。
4. ありがたいなぁと思うことをリストにしてみる。
5. 一度に何もかもやろうとしないで一つずつ。あせらずに。
6. 夜は十分な睡眠を。睡眠不足はウツの元。疲れがとれないと気持ちもアップしません。
7. お風呂でプチ贅沢を。バブル・バス、バス・オイル、音楽、好きな本などで。
8. 車の中でCDに合わせ、大声で歌う。
9. 自分はケアラーなだけじゃない、って思い出そう。介護以外にやっているいろんなことを。
10.一人で何もせずにいるより、そういう時は忙しくしているほうが前向きになれる。
11.なんとか取り戻そうとあがくより今日は×な日だったと思い決めて、明日のことを考える。
12.起こっている問題を冷静に整理する。明日の問題は明日に。
13.いつもと違うことをするとレスパイトに近い効果があることも。花を飾ってみる、よそ行きの上着とか帽子を身につけてみると気分が変わるかも。
14.自分が大好きなものをいろいろ入れた「ハッピー・ボックス」を作っておく。元気になりたい時には開けて、その中のものを。全部でも可よ。
15.できたら、なにか身体を動かすことを。ウォーキング、ヨガ、ガーデニング。なんでも自分に合ったものを。
16.チョコレートとかカレーなどの食べものは、気持ちが明るくなる原料入りです。
17.やるべきことがあまりに沢山あって嫌気がさしてしまう時は、15分とか30分と時間を決めて、まず本を読んだり何もしないでいたり、気が向くままに「自分の時間」を作ってしまう。
18.創造的なことに耽ってみる。絵を描くなり、物語を書くなり、楽器を弾くなり、ゴチャゴチャから頭を離せるなら何でも可。
19.その日の過ごし方をざっと決める。いつも通りに暮らせるだけの用事を入れて、ただし余裕でこなせることだけを。
20.自分に言い聞かせて。私は一人じゃないって。
20 tips for low mood
Cares UK
特段、ケアラーに限らない内容のようにも思えますが、
それはともあれ、
「今日はなんだかなぁ……」という日のケアラーの方々に、
やっぱり、まずは、届けたい。
あなたの気持、こんなふうにちゃんと分かっている人がいるよ、
ケアラーのあなたに、こうしてメッセージを送っている人もいるよ、
……というメッセージとして――。
2012.02.14 / Top↑
(前のエントリーの続きです)
そうした共感を持って読みつつ、
それではあまりに希望というものがないではないか……と
暗い気持ちに陥ってきたところで、
ふいに、以下の鮮やかな一節が登場する。
失禁した私から見える世界は、その多くが、私とは関わりを持たずに動く映画のようだ。街行く通行人、楽しげな街角、忙しい喧騒は、私からは遠く、スクリーンを隔てた一枚向こう側に見える。そのかわり、これまでは余りに当たり前すぎて協応構造でつながっていることすら無自覚だった地面や空気や太陽は、くっきりとまぶしくその姿をあらわし、私の体はそちらへと開かれていく。彼らは失禁しようがしまいが相変わらず、私を下から支え、息をすることを許し、上から照らす。
活気あふれる人の群れから離れていく疎外感や、排泄規範から脱線してしまった敗北感と同時に、力強憶そこに存在し続ける地面や空気や太陽や内臓へと開かれていく解放感の混合。
失禁には退廃的ともいえる恍惚がある。
(p.216)
鮮烈な感動に襲われて、
涙が出そうになった。
ああ、これは「歎異抄」だ……と、しみじみと思う ↓
サンデル教授から「私の歎異抄」それからEva Kittayへ(2010/11/25)
そこから著者が主張しているのは、
……私の経験を通して言えることは、失禁を「あってはならないもの」とみなしているうちは、いつ攻撃してくるか分からない便意とのの密室的関係に怯え続けなくてはならない、ということだ。むしろ失禁を「いつでも誰にでも起こりうるもの」と捉えて、失禁してもなんとかなるという見通しを周囲の人々と共有することによって、初めて便意との密室的な緊迫感から解放されるのである。
規範を共有するだけでなく、同時に「私たちは、気をつけていても規範を踏み外すことがあるね」という隙間の領域を共有することが、一人ひとりに自由をもたらすと言えるだろう。
(p.220)
私と他者とのほどきつつ拾い合うような関わりではなく、単体で切り離された私の運動のみを問題化して、正常な発達のシナリオをなぞらせるようなリハビリの過ちは、そのようなモノや人や自己身体を含めた、他者の存在を軽視したところにあると言えるだろう。
解放と凍結の反復が他者へと開かれたときに、そこに初めて新しいつながりと、私にとっての意味が立ち現れる。そして、他者とのつながりがほどけ、ていねいに結びなおし、またほどけ、という反復を積み重ねるごとに、関係はより細かく分節化され、深まっていく。それを私は発達と呼びたい。
(p.232-233)
「どうせ赤ちゃんのまま」と決めつけ正当化される”アシュリー療法”の論理を始め、
全てを個体要因に帰して、個体への操作で問題解決を図ろうとする
「科学とテクノの簡単解決バンザイ文化」は、
ここに描かれた「リハビリの過ち」を、なおも繰り返し、さらに拡大しようとしている。
「リハビリの夜」もまた、
そんな時代に、鋭くも深い響きで警告を発する書なのだった。
―――――――
この本の本題とは全く逸れるけど、
一つとても印象的だったのは、
著者にとって親の介助はやって当たり前で、むしろ
親のペースに合わせさせられたことは不当な記憶として残っているのに、
パートナーの介助は「やって当たり前」にならないよう意識的な努力がされていること。
そこのところの違いが面白いと思った。
何がその違いを生むのか、これからじっくり考えてみたい。
親の立場としても、
親に介助・介護されることを、
親に養われるのと同じく「やって当たり前」と子には感じていてほしいし、
そう感じさせる親でありたいとも思う。
それは著者のように自立生活を送れず
成人した後も親の介助・介護を受けざるを得ない人であっても、
子にとっては「やってもらって当たり前」と感じられるようであれかしと、
親の立場として願う。
ただ、それは親と子の間での話であって、
何歳になろうと子は親の介助・介護を当たり前と感じていてほしいと願うからといって、
その親子の介助・介護関係を社会の中に置いてみた時に、
社会までが「いつまでも親がやって当たり前」というのは、
ちょっと話が違うんじゃないのか、と。
やはり、子が親に養われるのを「当たり前」と考える年齢を過ぎたら、
親が子を介助・介護することも当たり前ではないと捉える社会が
「当たり前の社会」なんでは?
それから、親としての立場で、
ものすごく体験が重なったのが以下の一節。
同じ身体障害者といっても、千差万別である。その差異を無視されて、“正しい”自立生活へと同化させられるのでは、私をまなざすのがトレイナ―から先輩へと移行するだけで、あいかわらず≪まなざし/まなざされる関係≫に陥ることになる。
(p.153)
障害のある子どもの親になった時、
まず、専門家から「我が身を省みず何をもいとわず
専門家の指導通りの療育に邁進する親」という
「優秀な障害児の(母)親」規範を押し付けられた。
同時に世間サマからは
「どんなに苦しくとも我が身のことは構わず、
常に元気に明るく前向きに、子どものために超人的な自己犠牲で献身する」
「美しい障害児の(母)親」規範を押し付けられた。
そういうまなざしと、「私は私なんじゃわい」と闘い続けてきて、
娘がようやっと成人し、親もそろそろ老いのトバ口に立ったところで
最近、ふと気付くと、時に、
障害者運動や支援職の人たちから
「子どもの障害像や家族や地域の状況がどうであろうと、
我が子に“自立生活”をさせるか、それを目指して全力を尽くす」
「正しい障害者の親」規範を押し付けられている……のか……?
という気がすることに、戸惑っている。
まなざされ、一方的に評価の対象物にされていると
意識させられることへの違和感は、いずれも変わらない。
そうした共感を持って読みつつ、
それではあまりに希望というものがないではないか……と
暗い気持ちに陥ってきたところで、
ふいに、以下の鮮やかな一節が登場する。
失禁した私から見える世界は、その多くが、私とは関わりを持たずに動く映画のようだ。街行く通行人、楽しげな街角、忙しい喧騒は、私からは遠く、スクリーンを隔てた一枚向こう側に見える。そのかわり、これまでは余りに当たり前すぎて協応構造でつながっていることすら無自覚だった地面や空気や太陽は、くっきりとまぶしくその姿をあらわし、私の体はそちらへと開かれていく。彼らは失禁しようがしまいが相変わらず、私を下から支え、息をすることを許し、上から照らす。
活気あふれる人の群れから離れていく疎外感や、排泄規範から脱線してしまった敗北感と同時に、力強憶そこに存在し続ける地面や空気や太陽や内臓へと開かれていく解放感の混合。
失禁には退廃的ともいえる恍惚がある。
(p.216)
鮮烈な感動に襲われて、
涙が出そうになった。
ああ、これは「歎異抄」だ……と、しみじみと思う ↓
サンデル教授から「私の歎異抄」それからEva Kittayへ(2010/11/25)
そこから著者が主張しているのは、
……私の経験を通して言えることは、失禁を「あってはならないもの」とみなしているうちは、いつ攻撃してくるか分からない便意とのの密室的関係に怯え続けなくてはならない、ということだ。むしろ失禁を「いつでも誰にでも起こりうるもの」と捉えて、失禁してもなんとかなるという見通しを周囲の人々と共有することによって、初めて便意との密室的な緊迫感から解放されるのである。
規範を共有するだけでなく、同時に「私たちは、気をつけていても規範を踏み外すことがあるね」という隙間の領域を共有することが、一人ひとりに自由をもたらすと言えるだろう。
(p.220)
私と他者とのほどきつつ拾い合うような関わりではなく、単体で切り離された私の運動のみを問題化して、正常な発達のシナリオをなぞらせるようなリハビリの過ちは、そのようなモノや人や自己身体を含めた、他者の存在を軽視したところにあると言えるだろう。
解放と凍結の反復が他者へと開かれたときに、そこに初めて新しいつながりと、私にとっての意味が立ち現れる。そして、他者とのつながりがほどけ、ていねいに結びなおし、またほどけ、という反復を積み重ねるごとに、関係はより細かく分節化され、深まっていく。それを私は発達と呼びたい。
(p.232-233)
「どうせ赤ちゃんのまま」と決めつけ正当化される”アシュリー療法”の論理を始め、
全てを個体要因に帰して、個体への操作で問題解決を図ろうとする
「科学とテクノの簡単解決バンザイ文化」は、
ここに描かれた「リハビリの過ち」を、なおも繰り返し、さらに拡大しようとしている。
「リハビリの夜」もまた、
そんな時代に、鋭くも深い響きで警告を発する書なのだった。
―――――――
この本の本題とは全く逸れるけど、
一つとても印象的だったのは、
著者にとって親の介助はやって当たり前で、むしろ
親のペースに合わせさせられたことは不当な記憶として残っているのに、
パートナーの介助は「やって当たり前」にならないよう意識的な努力がされていること。
そこのところの違いが面白いと思った。
何がその違いを生むのか、これからじっくり考えてみたい。
親の立場としても、
親に介助・介護されることを、
親に養われるのと同じく「やって当たり前」と子には感じていてほしいし、
そう感じさせる親でありたいとも思う。
それは著者のように自立生活を送れず
成人した後も親の介助・介護を受けざるを得ない人であっても、
子にとっては「やってもらって当たり前」と感じられるようであれかしと、
親の立場として願う。
ただ、それは親と子の間での話であって、
何歳になろうと子は親の介助・介護を当たり前と感じていてほしいと願うからといって、
その親子の介助・介護関係を社会の中に置いてみた時に、
社会までが「いつまでも親がやって当たり前」というのは、
ちょっと話が違うんじゃないのか、と。
やはり、子が親に養われるのを「当たり前」と考える年齢を過ぎたら、
親が子を介助・介護することも当たり前ではないと捉える社会が
「当たり前の社会」なんでは?
それから、親としての立場で、
ものすごく体験が重なったのが以下の一節。
同じ身体障害者といっても、千差万別である。その差異を無視されて、“正しい”自立生活へと同化させられるのでは、私をまなざすのがトレイナ―から先輩へと移行するだけで、あいかわらず≪まなざし/まなざされる関係≫に陥ることになる。
(p.153)
障害のある子どもの親になった時、
まず、専門家から「我が身を省みず何をもいとわず
専門家の指導通りの療育に邁進する親」という
「優秀な障害児の(母)親」規範を押し付けられた。
同時に世間サマからは
「どんなに苦しくとも我が身のことは構わず、
常に元気に明るく前向きに、子どものために超人的な自己犠牲で献身する」
「美しい障害児の(母)親」規範を押し付けられた。
そういうまなざしと、「私は私なんじゃわい」と闘い続けてきて、
娘がようやっと成人し、親もそろそろ老いのトバ口に立ったところで
最近、ふと気付くと、時に、
障害者運動や支援職の人たちから
「子どもの障害像や家族や地域の状況がどうであろうと、
我が子に“自立生活”をさせるか、それを目指して全力を尽くす」
「正しい障害者の親」規範を押し付けられている……のか……?
という気がすることに、戸惑っている。
まなざされ、一方的に評価の対象物にされていると
意識させられることへの違和感は、いずれも変わらない。
2012.02.14 / Top↑
「リハビリの夜」(熊谷晋一郎 医学書院)
ずっと気になっていた本をやっと読んだ。
たいそう面白かった。ちょっと新鮮な読書体験でもあった。
言葉ではなかなか伝えにくいこと、普通はおそらく小説の仕事とされていることを
著者は小説という形式を取らずに試みて、一定の成功を見ている、といったふうな。
脳性マヒ者で、車いすを使って生活している著者は
子どもの頃から自分で歩くとか走るという直接体験は持たないものの
周りにいる健常者が歩いたり走ったりする姿を詳細に観察して
それを疑似体験とすることによって、
あたかも自分自身が歩いたり走ったことがあるかのように、
それらの体験を自分の身体感覚として知っている、と
書いているのだけれど、
ちょうど、その逆の疑似体験へと、この本は読者をいざなう。
脳性マヒの身体で生きて世界を体験するということが、
その人にとってどういう感覚なのか、ちょっと体験させてもらえたような、
その感触がなんとなく少しだけ分かったような感じがしてくる。
そんなふうに自分の体験を描きつつ全体としては、
個体のあり方や機能と能力を「正常」を基準に捉え、
あくまで個体への働きかけで「正常」へと問題解決を図ろうとする
リハビリの眼差しそのものの不当さを浮き彫りにし、
そこにある、そのような身体と、そのような身体をもった人と、周囲との、
「ほどきつつ拾い合う関係」に目を向けた問題解決を、との主張。
いわば「一つの身体」とその周辺の日常という小さな射程での
「医療モデル」から「社会モデル」への移行の過程を丁寧に解き明かしていきつつ、
リハビリ医療に根深い「医学モデル」への、
これまでにはなかった深みと厚みのある批判の展開ともなっている。
いくつかのキーワードがあって、その中心は「敗北の官能」。
例えば、
課題訓練前に行われる体をほぐすためのストレッチと、課題訓練がうまくこなせなかったときに苛立ちとともに行われるストレッチとは、強引に身体に介入されるという意味では同じだが、前者に「ほどけと融和」があるのに対して、後者にあるのは「かたまりと恐怖」である。
トレイナ―の動きは、私の動きとはまったく無関係に遂行されていて、私の身体が発する怯えや痛みの信号はトレイナーによって拾われない。トレイナーは交渉することのできない他者、しかも強靭な腕力を持った他者として私の身体に腕力を振るうのだ。
私の身体はやがて、じわじわと敵に領地を奪われていくかのように、トレイナ―の力に屈していく。
まず腕が、足が、腰が、一つまた一つとトレイナ―の力に負け、ふにゃりと緊張が抜けていく。
しかしそこには、折りたたみナイフ現象の時のような快感はない。むしろ、腕や、足や、腰を、私の身体から切り離してトレイナ―という他者へ譲り渡すような感じだ。
(p.67)
・・・「自発的に」という言葉は、トレイニーが自らの自由意志に基づいて運動せよという含みをもっているのだが、同時にそこには自発性だけではなくて「私の指示に従え」というトレイナ―の命令も込められている。つまりトレイナ―は「自らすすんで私に従え」と言っていることになる。だから、そこで掲げられる「主体」というのは、トレイナ―の命令への「従属」とセットになっているのである。
(p.70)
読んでいると、なにやら「敗北の官能」とは
人格が未成熟な虐待的な親によって育てられ、ダブルバインドで縛られ、
自分の人格を無視されたまま相手の都合で玩弄された
ACの体験にも通じていくような気がする。
さらに、例えば以下なども、
障害児が医療から「まなざされる」という体験は
なんのことはない、被虐待体験そのものではないか……と、目からウロコ。
人は皆、成長のある段階で、実際の他者にまなざされながら規範を覚えていく。やがて規範をほぼ習得しおえるころになると、他者がいなくても自分で自分を監視するようになる。さらに規範が身体の一部の用に当たり前のものになれば、とりわけ自分や他者から注がれる監視の眼差しを意識しなくてもよくなり、いわば「心の欲するところに従いて矩を超えず」の状況になる。
これはつまり、自由意志に基づいて主体的に行動しているという感覚のままで、規範から逸脱しないという状態になれるということだ。…(略)…それは、他者の内部モデルを、みずからの内部モデルとして取り込んだ状態とも言えるだろう。
しかし規範を取り込むことに失敗した私は、眼差しや規範との同一化に至ることなく、自分を監視する不特定多数の他者や自分自身の眼差しをひりひりと感じ続けることになる。それは第一章で述べた、「健常者向け内部モデル」と「等身大の内部モデル」の両方が一致しない私の状況に対応している。
規範の取り込みに成功した身体は、内部モデルによる予測的な制御で動くから、しなやかでやわらかく、身体の緊張度が低い。いっぽう私のように取り込みに失敗した身体は、ただでさえこわばる体をより緊張させて動かすことになる。
(p.126-127)
周囲の評価が気になり、緊張が強く、
承認を求め続け頑張り続ける一方で、
どれだけ承認を得ても常に満たされることがなく
「もっと」求めざるを得ないのも、また、ACの特徴の一つ。
そして、医療を始めとする科学とテクノの価値意識が
利権を背景にした経済の要請を受けて、俄かに席巻していく世界が
管理・操作・コントロール志向を強め、幼稚な人間観の短絡思考で、
どんどんと虐待的な親のような場所になっていくことを考えると、
この本に描かれているリハビリの被害体験は
世界中であらゆる形で「弱者」の立場に置かれる人に広がっていきつつあると
考えてもいいのでは……という気がしてくる。
(次のエントリーに続く)
ずっと気になっていた本をやっと読んだ。
たいそう面白かった。ちょっと新鮮な読書体験でもあった。
言葉ではなかなか伝えにくいこと、普通はおそらく小説の仕事とされていることを
著者は小説という形式を取らずに試みて、一定の成功を見ている、といったふうな。
脳性マヒ者で、車いすを使って生活している著者は
子どもの頃から自分で歩くとか走るという直接体験は持たないものの
周りにいる健常者が歩いたり走ったりする姿を詳細に観察して
それを疑似体験とすることによって、
あたかも自分自身が歩いたり走ったことがあるかのように、
それらの体験を自分の身体感覚として知っている、と
書いているのだけれど、
ちょうど、その逆の疑似体験へと、この本は読者をいざなう。
脳性マヒの身体で生きて世界を体験するということが、
その人にとってどういう感覚なのか、ちょっと体験させてもらえたような、
その感触がなんとなく少しだけ分かったような感じがしてくる。
そんなふうに自分の体験を描きつつ全体としては、
個体のあり方や機能と能力を「正常」を基準に捉え、
あくまで個体への働きかけで「正常」へと問題解決を図ろうとする
リハビリの眼差しそのものの不当さを浮き彫りにし、
そこにある、そのような身体と、そのような身体をもった人と、周囲との、
「ほどきつつ拾い合う関係」に目を向けた問題解決を、との主張。
いわば「一つの身体」とその周辺の日常という小さな射程での
「医療モデル」から「社会モデル」への移行の過程を丁寧に解き明かしていきつつ、
リハビリ医療に根深い「医学モデル」への、
これまでにはなかった深みと厚みのある批判の展開ともなっている。
いくつかのキーワードがあって、その中心は「敗北の官能」。
例えば、
課題訓練前に行われる体をほぐすためのストレッチと、課題訓練がうまくこなせなかったときに苛立ちとともに行われるストレッチとは、強引に身体に介入されるという意味では同じだが、前者に「ほどけと融和」があるのに対して、後者にあるのは「かたまりと恐怖」である。
トレイナ―の動きは、私の動きとはまったく無関係に遂行されていて、私の身体が発する怯えや痛みの信号はトレイナーによって拾われない。トレイナーは交渉することのできない他者、しかも強靭な腕力を持った他者として私の身体に腕力を振るうのだ。
私の身体はやがて、じわじわと敵に領地を奪われていくかのように、トレイナ―の力に屈していく。
まず腕が、足が、腰が、一つまた一つとトレイナ―の力に負け、ふにゃりと緊張が抜けていく。
しかしそこには、折りたたみナイフ現象の時のような快感はない。むしろ、腕や、足や、腰を、私の身体から切り離してトレイナ―という他者へ譲り渡すような感じだ。
(p.67)
・・・「自発的に」という言葉は、トレイニーが自らの自由意志に基づいて運動せよという含みをもっているのだが、同時にそこには自発性だけではなくて「私の指示に従え」というトレイナ―の命令も込められている。つまりトレイナ―は「自らすすんで私に従え」と言っていることになる。だから、そこで掲げられる「主体」というのは、トレイナ―の命令への「従属」とセットになっているのである。
(p.70)
読んでいると、なにやら「敗北の官能」とは
人格が未成熟な虐待的な親によって育てられ、ダブルバインドで縛られ、
自分の人格を無視されたまま相手の都合で玩弄された
ACの体験にも通じていくような気がする。
さらに、例えば以下なども、
障害児が医療から「まなざされる」という体験は
なんのことはない、被虐待体験そのものではないか……と、目からウロコ。
人は皆、成長のある段階で、実際の他者にまなざされながら規範を覚えていく。やがて規範をほぼ習得しおえるころになると、他者がいなくても自分で自分を監視するようになる。さらに規範が身体の一部の用に当たり前のものになれば、とりわけ自分や他者から注がれる監視の眼差しを意識しなくてもよくなり、いわば「心の欲するところに従いて矩を超えず」の状況になる。
これはつまり、自由意志に基づいて主体的に行動しているという感覚のままで、規範から逸脱しないという状態になれるということだ。…(略)…それは、他者の内部モデルを、みずからの内部モデルとして取り込んだ状態とも言えるだろう。
しかし規範を取り込むことに失敗した私は、眼差しや規範との同一化に至ることなく、自分を監視する不特定多数の他者や自分自身の眼差しをひりひりと感じ続けることになる。それは第一章で述べた、「健常者向け内部モデル」と「等身大の内部モデル」の両方が一致しない私の状況に対応している。
規範の取り込みに成功した身体は、内部モデルによる予測的な制御で動くから、しなやかでやわらかく、身体の緊張度が低い。いっぽう私のように取り込みに失敗した身体は、ただでさえこわばる体をより緊張させて動かすことになる。
(p.126-127)
周囲の評価が気になり、緊張が強く、
承認を求め続け頑張り続ける一方で、
どれだけ承認を得ても常に満たされることがなく
「もっと」求めざるを得ないのも、また、ACの特徴の一つ。
そして、医療を始めとする科学とテクノの価値意識が
利権を背景にした経済の要請を受けて、俄かに席巻していく世界が
管理・操作・コントロール志向を強め、幼稚な人間観の短絡思考で、
どんどんと虐待的な親のような場所になっていくことを考えると、
この本に描かれているリハビリの被害体験は
世界中であらゆる形で「弱者」の立場に置かれる人に広がっていきつつあると
考えてもいいのでは……という気がしてくる。
(次のエントリーに続く)
2012.02.14 / Top↑
まず、昨日発表された障害者自立支援法に代わる新法の厚労省案の概要巡り、
今日の総合福祉部会関連。
障害者制度改革推進会議総合福祉部会(第19回) 配布資料
http://www.mhlw.go.jp/bunya/shougaihoken/sougoufukusi/2012/02/0208-1.html
推進会議の動画(3時間)
http://www.youtube.com/watch?v=5agv-SqkqeY
2012年2月8日総合福祉部会での発言メモ(福島智)
http://www.scribd.com/doc/80901510/2012%E5%B9%B42%E6%9C%888%E6%97%A5%E7%B7%8F%E5%90%88%E7%A6%8F%E7%A5%89%E9%83%A8%E4%BC%9A%E3%81%A7%E3%81%AE%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E5%A7%94%E5%93%A1%E8%B3%87%E6%96%99
障害区分、5年で見直し、厚労省、自立支援法の改正案(中国新聞)
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201202070117.html
障害者支援制度 対象拡大の改正案(NHK)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120207/k10015842641000.html
障害者支援:新法案も「原則無料」見送り(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20120207k0000e040196000c.html
同じく毎日の別記事。(誰かがツイッターで「一番正確」と評したもの)
http://sp.mainichi.jp/m/news.html?cid=20120209k0000m010072000c
その他、目についた出席委員からのツイートなど、こちらにリツイートしています ↓
https://twitter.com/#!/spitzibara
――――――
【その他の話題】
南カリフォルニアで、億万長者の娘たちによる呼吸器装着拒否の代理決定を巡り、息子Hector Noval氏から「財産目当てでされたこと」と。:自殺幇助にも終末期医療の延命拒否や希望にも、こうした問題は付きまとう。
http://medicalfutility.blogspot.com/2012/02/surrogates-kill-patient-for-money-noval.html?utm_source=feedburner&utm_medium=feed&utm_campaign=Feed%3A+MedicalFutilityBlog+%28Medical+Futility+Blog%29
Medical Law Reviewにスイスでの精神障害者の自殺幇助の実態に関する論文。
http://medlaw.oxfordjournals.org/content/early/2012/01/13/medlaw.fwr033.extract
2月28日から3月1日まで第39回日本集中治療医学会学術集会が幕張メッセで開催される。Leslie M. Whestine Walsh大学教授(哲学、生命倫理)がDCDについて批判的な講演を行う予定。ブログ「死体からの臓器摘出に麻酔?」から。
http://www6.plala.or.jp/brainx/2012-2.htm#20120228
英国保健省の高齢者介護制度改革はぜんぜん約束通りに進んでいない、と批判。
http://www.guardian.co.uk/politics/2012/feb/08/elderly-care-promises-not-kept?CMP=EMCNEWEML1355
NHSについても同じ批判が出ているけど、それでも保健省の法案は通すぞ、と連立政権。
http://www.guardian.co.uk/politics/2012/feb/07/coalition-force-nhs-bill-david-cameron?CMP=EMCNEWEML1355
日本語。「加州の同性婚禁止は違憲」米連邦控訴裁判決
http://www.asahi.com/international/update/0208/TKY201202080442.html
日本語。欧米件で“学術の春”運動始まる、電子ジャーナル出版大手Elsevierに対し学者たちのボイコット運動が急拡大:この前Peter Singer(Savulescuの方だったか?)がツイートしていたのは、このことだったのか。
http://hon.jp/news/modules/rsnavi/showarticle.php?id=3082
体罰は子どもの発達に悪影響:発達とか能力に悪影響があるから体罰はよくない、という研究がおこなわれること自体が、どこかねじれているような気もする。
http://www.medicalnewstoday.com/releases/241245.php
今日の総合福祉部会関連。
障害者制度改革推進会議総合福祉部会(第19回) 配布資料
http://www.mhlw.go.jp/bunya/shougaihoken/sougoufukusi/2012/02/0208-1.html
推進会議の動画(3時間)
http://www.youtube.com/watch?v=5agv-SqkqeY
2012年2月8日総合福祉部会での発言メモ(福島智)
http://www.scribd.com/doc/80901510/2012%E5%B9%B42%E6%9C%888%E6%97%A5%E7%B7%8F%E5%90%88%E7%A6%8F%E7%A5%89%E9%83%A8%E4%BC%9A%E3%81%A7%E3%81%AE%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E5%A7%94%E5%93%A1%E8%B3%87%E6%96%99
障害区分、5年で見直し、厚労省、自立支援法の改正案(中国新聞)
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201202070117.html
障害者支援制度 対象拡大の改正案(NHK)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120207/k10015842641000.html
障害者支援:新法案も「原則無料」見送り(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20120207k0000e040196000c.html
同じく毎日の別記事。(誰かがツイッターで「一番正確」と評したもの)
http://sp.mainichi.jp/m/news.html?cid=20120209k0000m010072000c
その他、目についた出席委員からのツイートなど、こちらにリツイートしています ↓
https://twitter.com/#!/spitzibara
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【その他の話題】
南カリフォルニアで、億万長者の娘たちによる呼吸器装着拒否の代理決定を巡り、息子Hector Noval氏から「財産目当てでされたこと」と。:自殺幇助にも終末期医療の延命拒否や希望にも、こうした問題は付きまとう。
http://medicalfutility.blogspot.com/2012/02/surrogates-kill-patient-for-money-noval.html?utm_source=feedburner&utm_medium=feed&utm_campaign=Feed%3A+MedicalFutilityBlog+%28Medical+Futility+Blog%29
Medical Law Reviewにスイスでの精神障害者の自殺幇助の実態に関する論文。
http://medlaw.oxfordjournals.org/content/early/2012/01/13/medlaw.fwr033.extract
2月28日から3月1日まで第39回日本集中治療医学会学術集会が幕張メッセで開催される。Leslie M. Whestine Walsh大学教授(哲学、生命倫理)がDCDについて批判的な講演を行う予定。ブログ「死体からの臓器摘出に麻酔?」から。
http://www6.plala.or.jp/brainx/2012-2.htm#20120228
英国保健省の高齢者介護制度改革はぜんぜん約束通りに進んでいない、と批判。
http://www.guardian.co.uk/politics/2012/feb/08/elderly-care-promises-not-kept?CMP=EMCNEWEML1355
NHSについても同じ批判が出ているけど、それでも保健省の法案は通すぞ、と連立政権。
http://www.guardian.co.uk/politics/2012/feb/07/coalition-force-nhs-bill-david-cameron?CMP=EMCNEWEML1355
日本語。「加州の同性婚禁止は違憲」米連邦控訴裁判決
http://www.asahi.com/international/update/0208/TKY201202080442.html
日本語。欧米件で“学術の春”運動始まる、電子ジャーナル出版大手Elsevierに対し学者たちのボイコット運動が急拡大:この前Peter Singer(Savulescuの方だったか?)がツイートしていたのは、このことだったのか。
http://hon.jp/news/modules/rsnavi/showarticle.php?id=3082
体罰は子どもの発達に悪影響:発達とか能力に悪影響があるから体罰はよくない、という研究がおこなわれること自体が、どこかねじれているような気もする。
http://www.medicalnewstoday.com/releases/241245.php
2012.02.14 / Top↑
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