サビュレスキュがオックスフォード大学のサイトで仲間とやっている「実践倫理」というブログで
TDCS(transcranial direct current stimulation 経頭蓋的磁気刺激法 )について書いている。
TDCSについては
金井さんというニューロサイエンス研究者の方のブログに日本語で詳しい ↓
http://kanair.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/transcranial_di.html
脳に電極をつけて電流を流して刺激するという、割と単純な方法みたいで
DBSみたいに侵襲的なものではない模様。
もっとも研究はまだ初歩的な段階で
分からないことだらけのようだけど、
Savulescuによると、この方法によって
言語、数学、記憶、問題解決、集中、運動の能力までが
向上すると言われているんだそうな。
もちろんトンデモ・ヒューマニストのSavuちゃんだから
この技術を損傷された能力の回復のために使うことの方にはあんまり興味はなくて、
それよりも「健康な人間」のメンタルを強化し、学習能力の向上に使える、
「根本的に人間の認知機能をエンハンスする第一歩」と言って
たいそうワクワクしている様子。
ただ一応は倫理学者として、
いかなるテクノロジーにも利益がある反面、思わぬ副作用だってないとは限らないのだから
そこのところは慎重にまだまだ研究を待ってから、とも述べるし、
「薬の開発でやったよりマシな目標設定をしなければ」
「過去40年間の過ちから学ばなければ」とも述べる。
(ここで具体的には何が「過ち」だったのか書いていませんが、
向精神薬を「頭が良くなるスマート・ドラッグ」として煽ったことで
攻撃性や自殺念慮などの副作用で多くの犠牲者を出したことを言っているのでしょうか?)
さらに乱用・濫用の危険性もあるので、
具体的に特定のグループを対象としたさらなる研究によって
リスク・ベネフィットを検証する必要があると繰り返しつつ、
後半で主に彼が書いているのは2点。
① エンハンスメントには「公平じゃない」「平等じゃない」という批判が
いつもでてくるが、この技術にはその批判は当てはまらない。
なぜなら、これは努力もしないで学べるという話ではなく、
努力に対する成果がより大きくなる、という話なのだし、
もしも安全で効果があるとなれば、誰でも使えるし、
また誰でもが使えるようにすべきである。
② リスクもベネフィットも幼い子どもでは影響が大きすぎるため
幼児にはこの実験は行うべきではない、という声があるが、
自分としては不同意。
障害児と健常児とでは効果が異なってくるのだから、
障害児と成人とだけの実験では正常な子どもへのリスクも効果も知ることができない。
よって、正常な子どもでの実験は不可欠である。
少なくとも正常範囲で最も学習能力が低い子どもで実験する必要がある。
(障害児に対置して「ノーマルな子ども」という表現が用いられていることに注目。冒頭「健康な人」も)
自分の意見としては、
まずこのような最も能力の低い子どもで実験を始めて、
それで安全性が確認できれば、その上のレベルの子どもへと
実験対象を広げていくのが良いと思う。
こんなことを言うと、
能力の低い子どもを実験動物扱いするのかという批判が出てくるだろうし、
その気持ちは分からないでもないが、
この技術の恩恵を受け、技術を利用する者が
研究に参加すべきだということではないだろうか。
この技術を一般的な教育エイドとみなすならば、
ある意味では、どんな子どももみんなが研究に貢献すべきである。
・・・・・・・・
例えば、
「重症障害児に対する”アシュリー療法”は倫理的に正当化できるか」という問題が
「重症児以外にはやらないのだから倫理的に問題はない」と正当化されてしまうことに見られたように、
「科学とテクノの簡単解決バンザイ文化」御用達の生命倫理学者さんたちは
チャレンジされている論点そのものを前提にとりこむことでその論点をないものにするという
結論先取りの卑怯なマジック論法を操っているのではないのか、という疑問を
私はいつも感じるのだけれど、
ここでも、TDCSという技術のエンハンスメント利用を巡って
Savulescuは同じことをしていると思う。
まず、彼が生命倫理学者として指摘している論点は以下。
・技術そのもののリスク・ベネフィット。(この検討には、さらなる研究が必要)
・乱用・濫用を防ぎつつ良い研究は推進する規制の必要。
・この技術には不公平だとのエンハンスメント批判は当たらない。
・正常な子どもへのこの技術の応用の安全性や効果を知るには
障害児と成人だけでなく正常な子どもでの実験が不可欠。
・だから最も学習能力の低い子どもから順次、実験していくのが良い。
しかし、これらすべての前提として、まず問われるべき
「TDCS技術のエンハンスメント利用は倫理的にどうか」という問いはどこに?
まるで、
「エンハンスメントに対する『不公平だ』という批判がこの技術には当たらない」ことをもって
「だから、この技術のエンハンスメント利用は正当化された」といわんばかりで、
それがまた
「成長抑制には子宮摘出や乳房摘出ほどの批判は出なかった」ことをもって
「だから成長抑制は倫理的に許容された」ことにして「だから実施原則を」と先走った
DiekemaとFostの論文に、そっくり。
それと同じことが②の点についても言えて、
Savulescuの論理には2つの問題があると思う。
まず、
「幼児をこの技術の実験対象にすることはリスクの大きさから考えて倫理的にどうか」に対して、
Savulescuは「正常な幼児を実験対象にすることはこの技術のエンハンスメント応用のために必要」。
彼の論理には
「実験の必要」が「幼児へのリスクの大きさ」を正当化するとの前提が織り込まれているけれど、
まさにそれが「実験の必要はリスクの大きさを幼児では正当化しないのでは」と
問われていたのだから、Savulescuはその問いに実際には全く答えておらず、
上で指摘した通りの「結論の先取り」を行っている。
更に、先の問いは障害の有無によって「幼児」を分けているわけではないのだけれど、
Savulescuの中には「この技術のエンハンスメント応用は当たり前」と同時に
「障害児は実験対象にしてもよい」との意識が余りにも根深いために
「幼児を実験対象にすることの是非」が彼の中では自動的に
「正常な子どもを実験対象にすることの是非」に置き換えられてしまっている。
どうも、(一部の)生命倫理学者さんたちの言うことは、いかがわしい。
Transcranial Direct Current Stimulation: Fundamental enhancement for humanity?
Julian Savulescu, PRACTICAL ETHICS, January 26, 2012
で、思うに、その
「研究の必要」が「倫理問題をスル―することを正当化する」という論理って、
どうも医学を含めた科学の世界独特の“常識”みたいなところがあるんじゃないか、と……。
生命倫理ってな、本来は、その狭い専門世界の“常識”を
その外の広い世界の常識でもって問い直すことが、
その使命だったはずなんでは、と思うのだけど、
いつのまにか、その狭い専門世界の“常識”の方を
むしろ外の世界に向かって正当化し、受け入れさせ、布教していく役割を
生命倫理学者さんたち(の一部? 大半?)は担ってしまっているのでは?
TDCS(transcranial direct current stimulation 経頭蓋的磁気刺激法 )について書いている。
TDCSについては
金井さんというニューロサイエンス研究者の方のブログに日本語で詳しい ↓
http://kanair.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/transcranial_di.html
脳に電極をつけて電流を流して刺激するという、割と単純な方法みたいで
DBSみたいに侵襲的なものではない模様。
もっとも研究はまだ初歩的な段階で
分からないことだらけのようだけど、
Savulescuによると、この方法によって
言語、数学、記憶、問題解決、集中、運動の能力までが
向上すると言われているんだそうな。
もちろんトンデモ・ヒューマニストのSavuちゃんだから
この技術を損傷された能力の回復のために使うことの方にはあんまり興味はなくて、
それよりも「健康な人間」のメンタルを強化し、学習能力の向上に使える、
「根本的に人間の認知機能をエンハンスする第一歩」と言って
たいそうワクワクしている様子。
ただ一応は倫理学者として、
いかなるテクノロジーにも利益がある反面、思わぬ副作用だってないとは限らないのだから
そこのところは慎重にまだまだ研究を待ってから、とも述べるし、
「薬の開発でやったよりマシな目標設定をしなければ」
「過去40年間の過ちから学ばなければ」とも述べる。
(ここで具体的には何が「過ち」だったのか書いていませんが、
向精神薬を「頭が良くなるスマート・ドラッグ」として煽ったことで
攻撃性や自殺念慮などの副作用で多くの犠牲者を出したことを言っているのでしょうか?)
さらに乱用・濫用の危険性もあるので、
具体的に特定のグループを対象としたさらなる研究によって
リスク・ベネフィットを検証する必要があると繰り返しつつ、
後半で主に彼が書いているのは2点。
① エンハンスメントには「公平じゃない」「平等じゃない」という批判が
いつもでてくるが、この技術にはその批判は当てはまらない。
なぜなら、これは努力もしないで学べるという話ではなく、
努力に対する成果がより大きくなる、という話なのだし、
もしも安全で効果があるとなれば、誰でも使えるし、
また誰でもが使えるようにすべきである。
② リスクもベネフィットも幼い子どもでは影響が大きすぎるため
幼児にはこの実験は行うべきではない、という声があるが、
自分としては不同意。
障害児と健常児とでは効果が異なってくるのだから、
障害児と成人とだけの実験では正常な子どもへのリスクも効果も知ることができない。
よって、正常な子どもでの実験は不可欠である。
少なくとも正常範囲で最も学習能力が低い子どもで実験する必要がある。
(障害児に対置して「ノーマルな子ども」という表現が用いられていることに注目。冒頭「健康な人」も)
自分の意見としては、
まずこのような最も能力の低い子どもで実験を始めて、
それで安全性が確認できれば、その上のレベルの子どもへと
実験対象を広げていくのが良いと思う。
こんなことを言うと、
能力の低い子どもを実験動物扱いするのかという批判が出てくるだろうし、
その気持ちは分からないでもないが、
この技術の恩恵を受け、技術を利用する者が
研究に参加すべきだということではないだろうか。
この技術を一般的な教育エイドとみなすならば、
ある意味では、どんな子どももみんなが研究に貢献すべきである。
・・・・・・・・
例えば、
「重症障害児に対する”アシュリー療法”は倫理的に正当化できるか」という問題が
「重症児以外にはやらないのだから倫理的に問題はない」と正当化されてしまうことに見られたように、
「科学とテクノの簡単解決バンザイ文化」御用達の生命倫理学者さんたちは
チャレンジされている論点そのものを前提にとりこむことでその論点をないものにするという
結論先取りの卑怯なマジック論法を操っているのではないのか、という疑問を
私はいつも感じるのだけれど、
ここでも、TDCSという技術のエンハンスメント利用を巡って
Savulescuは同じことをしていると思う。
まず、彼が生命倫理学者として指摘している論点は以下。
・技術そのもののリスク・ベネフィット。(この検討には、さらなる研究が必要)
・乱用・濫用を防ぎつつ良い研究は推進する規制の必要。
・この技術には不公平だとのエンハンスメント批判は当たらない。
・正常な子どもへのこの技術の応用の安全性や効果を知るには
障害児と成人だけでなく正常な子どもでの実験が不可欠。
・だから最も学習能力の低い子どもから順次、実験していくのが良い。
しかし、これらすべての前提として、まず問われるべき
「TDCS技術のエンハンスメント利用は倫理的にどうか」という問いはどこに?
まるで、
「エンハンスメントに対する『不公平だ』という批判がこの技術には当たらない」ことをもって
「だから、この技術のエンハンスメント利用は正当化された」といわんばかりで、
それがまた
「成長抑制には子宮摘出や乳房摘出ほどの批判は出なかった」ことをもって
「だから成長抑制は倫理的に許容された」ことにして「だから実施原則を」と先走った
DiekemaとFostの論文に、そっくり。
それと同じことが②の点についても言えて、
Savulescuの論理には2つの問題があると思う。
まず、
「幼児をこの技術の実験対象にすることはリスクの大きさから考えて倫理的にどうか」に対して、
Savulescuは「正常な幼児を実験対象にすることはこの技術のエンハンスメント応用のために必要」。
彼の論理には
「実験の必要」が「幼児へのリスクの大きさ」を正当化するとの前提が織り込まれているけれど、
まさにそれが「実験の必要はリスクの大きさを幼児では正当化しないのでは」と
問われていたのだから、Savulescuはその問いに実際には全く答えておらず、
上で指摘した通りの「結論の先取り」を行っている。
更に、先の問いは障害の有無によって「幼児」を分けているわけではないのだけれど、
Savulescuの中には「この技術のエンハンスメント応用は当たり前」と同時に
「障害児は実験対象にしてもよい」との意識が余りにも根深いために
「幼児を実験対象にすることの是非」が彼の中では自動的に
「正常な子どもを実験対象にすることの是非」に置き換えられてしまっている。
どうも、(一部の)生命倫理学者さんたちの言うことは、いかがわしい。
Transcranial Direct Current Stimulation: Fundamental enhancement for humanity?
Julian Savulescu, PRACTICAL ETHICS, January 26, 2012
で、思うに、その
「研究の必要」が「倫理問題をスル―することを正当化する」という論理って、
どうも医学を含めた科学の世界独特の“常識”みたいなところがあるんじゃないか、と……。
生命倫理ってな、本来は、その狭い専門世界の“常識”を
その外の広い世界の常識でもって問い直すことが、
その使命だったはずなんでは、と思うのだけど、
いつのまにか、その狭い専門世界の“常識”の方を
むしろ外の世界に向かって正当化し、受け入れさせ、布教していく役割を
生命倫理学者さんたち(の一部? 大半?)は担ってしまっているのでは?
2012.02.03 / Top↑
リーシュマニア原虫感染症、リンパ系フィラリアなど
これまでネグレクトされてきた10の熱帯病と取り組むべく、
ゲイツ財団の元に、英・米・アラブ首長国連邦の各政府、世界銀行、それから
グラクソ、サノフィ、ノヴァルティス、ファイザー、メルク、エーザイ、J&Jなど
13ものビッグ・ファーマがずらり集結。
みんなで力を合わせて新薬の開発と途上国への提供し、
2020年に向けたWHOのロードマップ実現を目指すのだとか。
特に10のうち5つの病気は完全撲滅、
その他も大幅に減少させることを狙う。
ゲイツ財団はこれまでの10年間にも熱帯病の撲滅には力と資金を注いできたが、
26日にも政府系資金の削減を補うべく、エイズ、結核、マラリア撲滅に
今後6年間で7億5000万ドルの提供を約束したばかり。
今回のキャンペーンでは同財団が研究資金として今後5年間に3億6500万ドル、
全体では研究、開発、分配に7億8500万ドルを集めるとしている。
ビル・ゲイツは、
「前は、カネを出すという人たちはいても、
配達するためのカネがなかったものだから
薬をオーダーする人が誰もいなかった」
「でも、今回は配達するカネも出る、薬を作るカネも出る、
こうして盛大に薬が届けられれば、毎年、以前の10倍もの人が使えるだろう」
また、下の方の記事では、次のようにも発言している。
「これまでも製薬会社はこうした病気の治療薬を提供してくれていたのだが、
その薬を、必要としている人たちの元へ配達するためのカネが不足していた」
去年ゲイツ財団は製薬会社に対して、提供する薬の増量を求めたが、
「提供した薬を本当に使うんですか、と製薬会社が言うんだ。
実際に現地に届けて分配するカネがあるんですか、とね」
そこでゲイツ財団自身が配達に3億6300万ドルを出し、
英米の国際協力機関にも同じ目的に拠出を求めた。
世銀もそこに乗ることになった……というのが
どうやら今回のキャンペーンのいきさつらしい。
ビル・ゲイツは、
こうした公と民との協働モデルはゲイツ財団の他の関心事である
農業と教育の分野にも広げていける、と語った、とのこと。
「民間セクターの企業のこうした問題での、
実行力、秀でた能力、そして深い理解は強大。
もしも公の側が民間をうまく引き入れられたら、
それこそ取るべき道」
農業は、もちろんモンサントと組んでのGM農業改革。
教育は、言わずと知れたマイクロソフト主導のIT化(成果主義による教師コントロールも)。
そして、ここでは言っていないけど、
いずれはTerra Powerによる次世代型原発の推進も念頭にあるはず。
今後それらの分野で、
ワクチンでやってきたことを繰り返そうと狙っているともとれる最後の発言、
この前どこかから報告書が出ていた
「民間のゼニの力で公的な国際農業関連組織が本来の機能を果たせなくなっている」との
「シアトル慈善資本主義クラブ」批判を彷彿とさせます。
Agencies, Drug Makers, Gates Target 10 Diseases
WSJ, January 31, 2012
Drugmakers Join Gates Foundation in Tropical-Disease Fight
Bloomberg, January 31, 2012
すごく不思議なのだけど、
これまで10年間にゲイツ財団は熱帯病の撲滅研究に資金を投入してきた。
例によって、各国政府や慈善団体、篤志家など世界中からカネを募ってきた。
ワクチンと同じように
「みんなで熱帯病に苦しむ途上国の人々を助けよう」と言っては。
でも、ここへきて「これまでは、届けるカネがなかった」という。
「だから、薬をオーダーする人が誰もいなかった」ともいう。
じゃぁ、これまでに投入されたカネはどこへ行っていたの?
少なくとも、薬は、それを必要とする人のところには届いていなかった、ということでは?
それ、「途上国の子供たちにワクチンを」と
世界中から集められたカネで届けられるはずのワクチンでも
よもや、同じことが起こっていたなんて言いませんよね?
「ワクチン資金が盗まれている」「別の目的に流用されている」などの
ニュースが最近ちょくちょく流れてますけど?
途上国政府がワクチンを打った子どもの数を水増しして報告しているという話も
そういえば前に、ありましたっけね ↓
「貧困国はワクチン接種した子どもの数を水増ししている」とIHME論文(2008/12/13)
「医療制度そのものが崩壊している国にワクチン届けても倉庫で眠っておしまい」とか
「医療インフラ整備にカネを舞わない限りワクチンに投入した資金は無駄」
「こんなの企業の利益でしかない」という批判も、たしか出ていましたっけね ↓
やっと出た、ワクチンのため世界中からかき集められる資金に疑問の声(2011/6/16)
いや、実際問題、時々頭に浮かぶ疑問なのですが、
この人たちの興味って、実はお金を集めることそのものにある……なんてことは?
やっぱり不思議な「ワクチン債」、ますます怪しい「途上国へワクチンを」(2011/9/4)
そもそも、
世界最強の慈善団体と、英米政府とアラブ首長国連邦と
WHOと世界銀行と、世界で一番金持ちのビッグ・ファーマが13社も雁首そろえて、
本当に貧しい国の人々のために、というなら、集めたカネで、
医療インフラや生活環境改善の方に取り組んだらどうなの――?
もしくは、アンタたち一部の人間だけが富を独占して、
貧しい国々や、各国の貧しい人たちが人間らしい生活も送れず
奴隷労働をさせられたり、怪しげな製薬会社の実験の被験者になるしかないような
世の中そのものをどうにかすることに取り組んだら、どうなのよ――?
これまでネグレクトされてきた10の熱帯病と取り組むべく、
ゲイツ財団の元に、英・米・アラブ首長国連邦の各政府、世界銀行、それから
グラクソ、サノフィ、ノヴァルティス、ファイザー、メルク、エーザイ、J&Jなど
13ものビッグ・ファーマがずらり集結。
みんなで力を合わせて新薬の開発と途上国への提供し、
2020年に向けたWHOのロードマップ実現を目指すのだとか。
特に10のうち5つの病気は完全撲滅、
その他も大幅に減少させることを狙う。
ゲイツ財団はこれまでの10年間にも熱帯病の撲滅には力と資金を注いできたが、
26日にも政府系資金の削減を補うべく、エイズ、結核、マラリア撲滅に
今後6年間で7億5000万ドルの提供を約束したばかり。
今回のキャンペーンでは同財団が研究資金として今後5年間に3億6500万ドル、
全体では研究、開発、分配に7億8500万ドルを集めるとしている。
ビル・ゲイツは、
「前は、カネを出すという人たちはいても、
配達するためのカネがなかったものだから
薬をオーダーする人が誰もいなかった」
「でも、今回は配達するカネも出る、薬を作るカネも出る、
こうして盛大に薬が届けられれば、毎年、以前の10倍もの人が使えるだろう」
また、下の方の記事では、次のようにも発言している。
「これまでも製薬会社はこうした病気の治療薬を提供してくれていたのだが、
その薬を、必要としている人たちの元へ配達するためのカネが不足していた」
去年ゲイツ財団は製薬会社に対して、提供する薬の増量を求めたが、
「提供した薬を本当に使うんですか、と製薬会社が言うんだ。
実際に現地に届けて分配するカネがあるんですか、とね」
そこでゲイツ財団自身が配達に3億6300万ドルを出し、
英米の国際協力機関にも同じ目的に拠出を求めた。
世銀もそこに乗ることになった……というのが
どうやら今回のキャンペーンのいきさつらしい。
ビル・ゲイツは、
こうした公と民との協働モデルはゲイツ財団の他の関心事である
農業と教育の分野にも広げていける、と語った、とのこと。
「民間セクターの企業のこうした問題での、
実行力、秀でた能力、そして深い理解は強大。
もしも公の側が民間をうまく引き入れられたら、
それこそ取るべき道」
農業は、もちろんモンサントと組んでのGM農業改革。
教育は、言わずと知れたマイクロソフト主導のIT化(成果主義による教師コントロールも)。
そして、ここでは言っていないけど、
いずれはTerra Powerによる次世代型原発の推進も念頭にあるはず。
今後それらの分野で、
ワクチンでやってきたことを繰り返そうと狙っているともとれる最後の発言、
この前どこかから報告書が出ていた
「民間のゼニの力で公的な国際農業関連組織が本来の機能を果たせなくなっている」との
「シアトル慈善資本主義クラブ」批判を彷彿とさせます。
Agencies, Drug Makers, Gates Target 10 Diseases
WSJ, January 31, 2012
Drugmakers Join Gates Foundation in Tropical-Disease Fight
Bloomberg, January 31, 2012
すごく不思議なのだけど、
これまで10年間にゲイツ財団は熱帯病の撲滅研究に資金を投入してきた。
例によって、各国政府や慈善団体、篤志家など世界中からカネを募ってきた。
ワクチンと同じように
「みんなで熱帯病に苦しむ途上国の人々を助けよう」と言っては。
でも、ここへきて「これまでは、届けるカネがなかった」という。
「だから、薬をオーダーする人が誰もいなかった」ともいう。
じゃぁ、これまでに投入されたカネはどこへ行っていたの?
少なくとも、薬は、それを必要とする人のところには届いていなかった、ということでは?
それ、「途上国の子供たちにワクチンを」と
世界中から集められたカネで届けられるはずのワクチンでも
よもや、同じことが起こっていたなんて言いませんよね?
「ワクチン資金が盗まれている」「別の目的に流用されている」などの
ニュースが最近ちょくちょく流れてますけど?
途上国政府がワクチンを打った子どもの数を水増しして報告しているという話も
そういえば前に、ありましたっけね ↓
「貧困国はワクチン接種した子どもの数を水増ししている」とIHME論文(2008/12/13)
「医療制度そのものが崩壊している国にワクチン届けても倉庫で眠っておしまい」とか
「医療インフラ整備にカネを舞わない限りワクチンに投入した資金は無駄」
「こんなの企業の利益でしかない」という批判も、たしか出ていましたっけね ↓
やっと出た、ワクチンのため世界中からかき集められる資金に疑問の声(2011/6/16)
いや、実際問題、時々頭に浮かぶ疑問なのですが、
この人たちの興味って、実はお金を集めることそのものにある……なんてことは?
やっぱり不思議な「ワクチン債」、ますます怪しい「途上国へワクチンを」(2011/9/4)
そもそも、
世界最強の慈善団体と、英米政府とアラブ首長国連邦と
WHOと世界銀行と、世界で一番金持ちのビッグ・ファーマが13社も雁首そろえて、
本当に貧しい国の人々のために、というなら、集めたカネで、
医療インフラや生活環境改善の方に取り組んだらどうなの――?
もしくは、アンタたち一部の人間だけが富を独占して、
貧しい国々や、各国の貧しい人たちが人間らしい生活も送れず
奴隷労働をさせられたり、怪しげな製薬会社の実験の被験者になるしかないような
世の中そのものをどうにかすることに取り組んだら、どうなのよ――?
2012.02.03 / Top↑
昨日“無益な治療”差し控えは義務へ:「無酸素しょう症新生児に蘇生25分はやり過ぎ」病院に賠償命令(仏)というエントリーで
末尾に昨年12月27日の日経メディカルのフランスに関する記事をリンクしたのですが、
会員登録した人でなければ読めないので。(文字数の関係で写真と票については省略しました)
◆【海外ルポ】治療差し控え進むフランス―法制定を機に緩和ケアが充実(本誌連動◇死なせる医療 Vol.5)
(メディカル・オンライン 2011. 12. 27)(久保田文=日経メディカル)
http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/report/t164/201112/522922.html
フランスでは、2005年の法制定を機に、治療の差し控えや中止が終末期医療の現場に浸透しつつある。入院患者だけでなく在宅患者に対しても緩和ケアを提供する体制の整備も進む。ただ、非癌の緩和ケアは依然として手薄で課題も残る。
「病院などで、輸液や経管栄養、酸素療法などを中止してほしいと希望する患者や家族が増えていると感じる」─。パリ市内にある非営利ホスピス、ジャンヌ・ガルニエの医師のダニエル・デルヴィル氏は、05年に治療の差し控えや中止が合法化された後、終末期の患者や家族の考えが変化しつつある状況をこう話す。
なくなった刑事訴追のリスク
フランスでは25年ほど前から、終末期医療に患者の意思を反映できるようにするための制度作りが進められてきた(表6)。1999年には、「6月9日法」で患者が緩和ケアを受ける権利を保障。2002年には「3月4日法」で患者が病期を理解する権利や治療を拒否する権利を認め、医療現場では実際に、治療の差し控えや中止が行われてきた。とはいえ医療者にとって、そうした行為を実行するにはリスクも残っていた。「患者の死亡後に遠い親戚が突然やってきて、治療中止までのプロセスを問われるなど、刑事訴追されるリスクもあった」とデルヴィル氏は話す。
しかし、03年に起きたヴァンサン・アンベール事件を機に状況が変わった。交通事故で四肢麻痺になった21歳の男性の求めに応じて母親が安楽死を図り、男性が昏睡状態に陥った後、担当医も男性の延命治療を中止して塩化カリウムを投与した事件だ。担当医と母親は殺人罪に問われた。最終的に両者とも免訴されたものの、この事件を機にフランスでは終末期医療の議論が加速。05年、医師が治療の差し控えや中止を行うことを認める「4月22日法」が制定された(表7)。
同法は、患者の意思に基づいて、延命以外の効果がない治療や、過剰な治療を医師が差し控えたり、中止したりできるとした。また、命を縮めるリスクを伴う方法(例えばモルヒネの大量投与)でしか苦痛を緩和できない場合でも、患者や家族が希望すれば、緩和ケアを行うことを認めた。実施に際しては、医師は治療中止や緩和ケアがもたらす結果について患者に説明した上で、患者の意思を尊重することが求められる。加えて、話し合いの内容はカルテに記載しなければならない。患者が意思決定できない場合は、複数の医師で検討を行った上で、代理人や家族の意見、患者の事前指示書などを踏まえて、治療の差し控えや中止などを決定する。ただし、オランダやベルギーなどで合法化されている積極的な安楽死は認めていない。
4月22日法の制定により、治療の差し控えや中止、リスクを伴う緩和ケアを実施するためのプロセスが明確になった上、代理人や事前指示書についても法律に位置付けられた。同法の影響について、パリ郊外にあるポール・ブルス病院緩和ケア科医師のシルヴァン・プルシェ氏は「以前に比べて終末期医療について患者と相談しやすくなった」と話す。
一方、デルヴィル氏は、「これまでリスクを伴う緩和ケアを行う際は抵抗感を感じたが、リスクがあっても苦痛を取る重要性が示されたことで、今はそういうこともなくなった」と語る。たとえ患者や家族の意思だとしても、治療中止やリスクの高い緩和ケアに迷いを感じる医師は少なくない。同法は、医師の心理的な負担軽減にも寄与したわけだ。
非癌でも利用できる専門病床
法制定を機に、手厚い緩和ケアの提供体制も整いつつある(表8)。フランスの人口は約6500万人。06年の死亡者数は約52万人で、そのうち医療機関で死亡した割合は58%に上る。
緩和ケアユニット(USP)や緩和ケア認定病床(LISP)は、入院患者に専門的な緩和ケアを提供するための病床だ。USPは日本の緩和ケア病棟に相当し、独立型ホスピスや病院に併設された病棟など様々な形態がある。ただし、USPはフランス全土で約110病棟、約1200床に限られている。それを補完する形で、USPのない病院などに設けられているのがLISPだ。LISPは約4000床が整備されている。
USPの一つであるジャンヌ・ガルニエは、入院を希望する患者について、余命が何日程度か、どのような身体・精神症状があるか、独居や家族の疲弊度合いなど生活環境にどのような問題を抱えているかといった情報を、紹介元の医師から提供してもらい、多くの問題を抱える症例を優先して入院させている。ジャンヌ・ガルニエの事務長のセドリック・ブトネ氏は「特に高齢で独居の患者が入院するケースが多い」と話す。
約90%が癌患者だが、疾患は限定しておらず、筋萎縮性側索硬化症の終末期の患者や、急性腎不全で透析を拒否して予後が短い患者など、非癌の患者も約10%を占める。平均在院日数は19日。平均在院日数が短いのには、死期が迫った患者が多いことや、診療報酬が包括払いで一定の在院日数を超えると減額されることなどが影響している。
開業一般医も緩和ケア
USPやLISP以外の入院患者への緩和ケアの充実も図られている。現状では、終末期を迎える患者全員をUSPやLISPだけでカバーすることは到底できない。そこで近年、院内にモバイルチームと呼ばれる専門組織を設ける動きが盛んになっている。モバイルチームは日本の緩和ケアチームと同様、医師や看護師、臨床心理士、ソーシャルワーカーなどから構成され、院内の入院患者に緩和ケアを行う。現在、フランス全土に約320チームが存在する。
モバイルチームは、病院を退院した患者の自宅にも赴く。フランスには、急性期を脱したものの医療必要度の高い入院患者を自宅に戻し、自宅を病床と見なして病院の担当医師と地域の「開業一般医」(次ページの囲み記事を参照)が一緒に治療を行う「在宅入院システム」がある。モバイルチームはそれを緩和ケアの視点からサポート。退院患者の疼痛を緩和する薬剤の投与量設定などに当たる。これにより、患者を在宅に戻しやすくなるわけだ。
さらに近年、在宅患者への緩和ケアの提供体制も強化されている。06年の統計では、死亡者のうち自宅で死亡する割合は27%に上り、在宅での看取りも少なくない。緩和ケアに慣れていない開業一般医が在宅患者に対して緩和ケアを提供できるよう、病院と一般医が連携する仕組みも作られている。
疼痛コントロールに難渋する患者などについて開業一般医が専門知識を持つ病院の医師に相談し、助言を得る仕組みである「地域ネットワーク」がそれだ。地域ネットワークは、連携関係を築いた病院の医師や開業一般医が手挙げ制で行政に申請し、承認を得る公的ネットワーク。
フランスでは病診連携を促す目的で、様々な疾患に関する地域ネットワークが作られているが、緩和ケアの地域ネットワークはその1つで、フランス全土に約120ある。パリ市内の開業一般医で、パリ大一般医科教授でもあるセルジュ・ジルベルグ氏は「地域ネットワークでは、疼痛や呼吸困難に対するモルヒネ増量の仕方、経管栄養を中止する目安などについて相談している」と言う。
4月22日法の制定以来、モバイルチームや緩和ケアの地域ネットワークは増加。手薄だったUSPやLISP以外の入院患者や在宅患者への緩和ケアも充実してきた。プルシェ氏は「緩和ケアの提供体制は、十分整った」と評価する。
課題は非癌の緩和ケア
ただし、課題もある。一つは、4月22日法が制定されて6年がたった今でも、法律が十分に浸透していないことだ。ジルベルグ氏は、「4月22日法で積極的な安楽死が認められたと勘違いしている患者もおり、理解が進んでいないと感じる」と指摘する。
治療の差し控えや中止が選択肢となることや、どのようなプロセスで差し控えや中止ができるか知らない医療者もいるという。緩和的な治療を行っていてもなお患者に治療中止などの選択肢を示さず、治療継続にこだわる医師もおり、「医療者の考え方を変える必要がある」とプルシェ氏は指摘する。
また、「終末期医療について患者と話し合うタイミングが難しい」とジルベルグ氏は言う。高齢患者については事前に、どこまで治療するか、水分や栄養を投与するか、病院での治療を望むかなどを話し合うようにしているが、「患者自身が終末期を具体的にイメージできない場合、話し合おうとすると拒絶されることも多い」とジルベルグ氏は語る。
非癌の緩和ケアも課題だ。フランスの全死亡者のうち癌による死亡は約30%。前述の通り、USPやLISPは癌でも非癌でも利用できるほか、緩和に使う薬剤も疾患に関係なく投与できる。しかし、実際、USPやLISPの入院患者のほとんどは癌患者が占める。緩和ケアの地域ネットワークも、癌を対象に活動しているところが大部分。日本と同様、癌患者に比べて非癌患者の緩和ケアが手薄になっているのが実情だ。「今後は、終末期の認知症患者など、多くの非癌患者がUSPを利用したり、手厚い緩和ケアを受けられるようにしたい」とデルヴィル氏は話している。
フランスのかかりつけ医制と地域ネットワーク
フランスでは2004年に医療保険に関する「8月13日法」が制定され、16歳以上の国民にかかりつけ医の登録が義務付けられた。救急科や産婦人科、小児科、眼科、精神科(26歳未満)には直接受診が可能だが、かかりつけ医の紹介なしにそれ以外の診療科を受診すると、自己負担が高くなる。日本医師会総合政策研究機構フランス駐在研究員の奥田七峰子氏は、「かかりつけ医にゲートキーパーの役割を持たせ、医療費削減につなげるのが狙いだ」と話す。
フランスでは、幅広い疾患を診療する一般医科(medecin generaliste)が専門診療科の一つとして存在し、標榜科として認められている。国内に約21万人いる医師のうち約半数が一般医で、うち約70%が開業医だ。一般医以外の専門医は、開業医と勤務医がほぼ半々。国民は専門診療科にかかわらずかかりつけ医を選択でき、開業一般医を選ぶ人もいれば、病院に勤める特定の診療科の専門医を選ぶ人もいる。「ただ、予約を取りやすいため、80%以上が開業一般医を選んでいる」と奥田氏は説明する。
セルジュ・ジルベルグ氏は、「地域や医師によっても異なるが、1000~1500人程度の患者を抱える開業一般医が多い」と話す。開業一般医が在宅で看取るのは、一般的に年間数人程度だという。
プライマリケアから終末期医療までを幅広く手掛けることが求められる開業一般医をサポートする存在が、様々な疾患について設けられている地域ネットワークだ。緩和ケアのほか、周産期、老年医学、癌、糖尿病、喘息などの地域ネットワークがあり、難治例への対応など一般医が困ったときに病院に相談することができる。
臨床上の悩みに応えるだけでなく、実務的な相談も可能。老年医学のネットワークでは、「ベッドをレンタルしたい、ホームヘルパーを頼みたいといった在宅患者の個別ニーズの相談にも応じてくれる」とジルベルグ氏は話
末尾に昨年12月27日の日経メディカルのフランスに関する記事をリンクしたのですが、
会員登録した人でなければ読めないので。(文字数の関係で写真と票については省略しました)
◆【海外ルポ】治療差し控え進むフランス―法制定を機に緩和ケアが充実(本誌連動◇死なせる医療 Vol.5)
(メディカル・オンライン 2011. 12. 27)(久保田文=日経メディカル)
http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/report/t164/201112/522922.html
フランスでは、2005年の法制定を機に、治療の差し控えや中止が終末期医療の現場に浸透しつつある。入院患者だけでなく在宅患者に対しても緩和ケアを提供する体制の整備も進む。ただ、非癌の緩和ケアは依然として手薄で課題も残る。
「病院などで、輸液や経管栄養、酸素療法などを中止してほしいと希望する患者や家族が増えていると感じる」─。パリ市内にある非営利ホスピス、ジャンヌ・ガルニエの医師のダニエル・デルヴィル氏は、05年に治療の差し控えや中止が合法化された後、終末期の患者や家族の考えが変化しつつある状況をこう話す。
なくなった刑事訴追のリスク
フランスでは25年ほど前から、終末期医療に患者の意思を反映できるようにするための制度作りが進められてきた(表6)。1999年には、「6月9日法」で患者が緩和ケアを受ける権利を保障。2002年には「3月4日法」で患者が病期を理解する権利や治療を拒否する権利を認め、医療現場では実際に、治療の差し控えや中止が行われてきた。とはいえ医療者にとって、そうした行為を実行するにはリスクも残っていた。「患者の死亡後に遠い親戚が突然やってきて、治療中止までのプロセスを問われるなど、刑事訴追されるリスクもあった」とデルヴィル氏は話す。
しかし、03年に起きたヴァンサン・アンベール事件を機に状況が変わった。交通事故で四肢麻痺になった21歳の男性の求めに応じて母親が安楽死を図り、男性が昏睡状態に陥った後、担当医も男性の延命治療を中止して塩化カリウムを投与した事件だ。担当医と母親は殺人罪に問われた。最終的に両者とも免訴されたものの、この事件を機にフランスでは終末期医療の議論が加速。05年、医師が治療の差し控えや中止を行うことを認める「4月22日法」が制定された(表7)。
同法は、患者の意思に基づいて、延命以外の効果がない治療や、過剰な治療を医師が差し控えたり、中止したりできるとした。また、命を縮めるリスクを伴う方法(例えばモルヒネの大量投与)でしか苦痛を緩和できない場合でも、患者や家族が希望すれば、緩和ケアを行うことを認めた。実施に際しては、医師は治療中止や緩和ケアがもたらす結果について患者に説明した上で、患者の意思を尊重することが求められる。加えて、話し合いの内容はカルテに記載しなければならない。患者が意思決定できない場合は、複数の医師で検討を行った上で、代理人や家族の意見、患者の事前指示書などを踏まえて、治療の差し控えや中止などを決定する。ただし、オランダやベルギーなどで合法化されている積極的な安楽死は認めていない。
4月22日法の制定により、治療の差し控えや中止、リスクを伴う緩和ケアを実施するためのプロセスが明確になった上、代理人や事前指示書についても法律に位置付けられた。同法の影響について、パリ郊外にあるポール・ブルス病院緩和ケア科医師のシルヴァン・プルシェ氏は「以前に比べて終末期医療について患者と相談しやすくなった」と話す。
一方、デルヴィル氏は、「これまでリスクを伴う緩和ケアを行う際は抵抗感を感じたが、リスクがあっても苦痛を取る重要性が示されたことで、今はそういうこともなくなった」と語る。たとえ患者や家族の意思だとしても、治療中止やリスクの高い緩和ケアに迷いを感じる医師は少なくない。同法は、医師の心理的な負担軽減にも寄与したわけだ。
非癌でも利用できる専門病床
法制定を機に、手厚い緩和ケアの提供体制も整いつつある(表8)。フランスの人口は約6500万人。06年の死亡者数は約52万人で、そのうち医療機関で死亡した割合は58%に上る。
緩和ケアユニット(USP)や緩和ケア認定病床(LISP)は、入院患者に専門的な緩和ケアを提供するための病床だ。USPは日本の緩和ケア病棟に相当し、独立型ホスピスや病院に併設された病棟など様々な形態がある。ただし、USPはフランス全土で約110病棟、約1200床に限られている。それを補完する形で、USPのない病院などに設けられているのがLISPだ。LISPは約4000床が整備されている。
USPの一つであるジャンヌ・ガルニエは、入院を希望する患者について、余命が何日程度か、どのような身体・精神症状があるか、独居や家族の疲弊度合いなど生活環境にどのような問題を抱えているかといった情報を、紹介元の医師から提供してもらい、多くの問題を抱える症例を優先して入院させている。ジャンヌ・ガルニエの事務長のセドリック・ブトネ氏は「特に高齢で独居の患者が入院するケースが多い」と話す。
約90%が癌患者だが、疾患は限定しておらず、筋萎縮性側索硬化症の終末期の患者や、急性腎不全で透析を拒否して予後が短い患者など、非癌の患者も約10%を占める。平均在院日数は19日。平均在院日数が短いのには、死期が迫った患者が多いことや、診療報酬が包括払いで一定の在院日数を超えると減額されることなどが影響している。
開業一般医も緩和ケア
USPやLISP以外の入院患者への緩和ケアの充実も図られている。現状では、終末期を迎える患者全員をUSPやLISPだけでカバーすることは到底できない。そこで近年、院内にモバイルチームと呼ばれる専門組織を設ける動きが盛んになっている。モバイルチームは日本の緩和ケアチームと同様、医師や看護師、臨床心理士、ソーシャルワーカーなどから構成され、院内の入院患者に緩和ケアを行う。現在、フランス全土に約320チームが存在する。
モバイルチームは、病院を退院した患者の自宅にも赴く。フランスには、急性期を脱したものの医療必要度の高い入院患者を自宅に戻し、自宅を病床と見なして病院の担当医師と地域の「開業一般医」(次ページの囲み記事を参照)が一緒に治療を行う「在宅入院システム」がある。モバイルチームはそれを緩和ケアの視点からサポート。退院患者の疼痛を緩和する薬剤の投与量設定などに当たる。これにより、患者を在宅に戻しやすくなるわけだ。
さらに近年、在宅患者への緩和ケアの提供体制も強化されている。06年の統計では、死亡者のうち自宅で死亡する割合は27%に上り、在宅での看取りも少なくない。緩和ケアに慣れていない開業一般医が在宅患者に対して緩和ケアを提供できるよう、病院と一般医が連携する仕組みも作られている。
疼痛コントロールに難渋する患者などについて開業一般医が専門知識を持つ病院の医師に相談し、助言を得る仕組みである「地域ネットワーク」がそれだ。地域ネットワークは、連携関係を築いた病院の医師や開業一般医が手挙げ制で行政に申請し、承認を得る公的ネットワーク。
フランスでは病診連携を促す目的で、様々な疾患に関する地域ネットワークが作られているが、緩和ケアの地域ネットワークはその1つで、フランス全土に約120ある。パリ市内の開業一般医で、パリ大一般医科教授でもあるセルジュ・ジルベルグ氏は「地域ネットワークでは、疼痛や呼吸困難に対するモルヒネ増量の仕方、経管栄養を中止する目安などについて相談している」と言う。
4月22日法の制定以来、モバイルチームや緩和ケアの地域ネットワークは増加。手薄だったUSPやLISP以外の入院患者や在宅患者への緩和ケアも充実してきた。プルシェ氏は「緩和ケアの提供体制は、十分整った」と評価する。
課題は非癌の緩和ケア
ただし、課題もある。一つは、4月22日法が制定されて6年がたった今でも、法律が十分に浸透していないことだ。ジルベルグ氏は、「4月22日法で積極的な安楽死が認められたと勘違いしている患者もおり、理解が進んでいないと感じる」と指摘する。
治療の差し控えや中止が選択肢となることや、どのようなプロセスで差し控えや中止ができるか知らない医療者もいるという。緩和的な治療を行っていてもなお患者に治療中止などの選択肢を示さず、治療継続にこだわる医師もおり、「医療者の考え方を変える必要がある」とプルシェ氏は指摘する。
また、「終末期医療について患者と話し合うタイミングが難しい」とジルベルグ氏は言う。高齢患者については事前に、どこまで治療するか、水分や栄養を投与するか、病院での治療を望むかなどを話し合うようにしているが、「患者自身が終末期を具体的にイメージできない場合、話し合おうとすると拒絶されることも多い」とジルベルグ氏は語る。
非癌の緩和ケアも課題だ。フランスの全死亡者のうち癌による死亡は約30%。前述の通り、USPやLISPは癌でも非癌でも利用できるほか、緩和に使う薬剤も疾患に関係なく投与できる。しかし、実際、USPやLISPの入院患者のほとんどは癌患者が占める。緩和ケアの地域ネットワークも、癌を対象に活動しているところが大部分。日本と同様、癌患者に比べて非癌患者の緩和ケアが手薄になっているのが実情だ。「今後は、終末期の認知症患者など、多くの非癌患者がUSPを利用したり、手厚い緩和ケアを受けられるようにしたい」とデルヴィル氏は話している。
フランスのかかりつけ医制と地域ネットワーク
フランスでは2004年に医療保険に関する「8月13日法」が制定され、16歳以上の国民にかかりつけ医の登録が義務付けられた。救急科や産婦人科、小児科、眼科、精神科(26歳未満)には直接受診が可能だが、かかりつけ医の紹介なしにそれ以外の診療科を受診すると、自己負担が高くなる。日本医師会総合政策研究機構フランス駐在研究員の奥田七峰子氏は、「かかりつけ医にゲートキーパーの役割を持たせ、医療費削減につなげるのが狙いだ」と話す。
フランスでは、幅広い疾患を診療する一般医科(medecin generaliste)が専門診療科の一つとして存在し、標榜科として認められている。国内に約21万人いる医師のうち約半数が一般医で、うち約70%が開業医だ。一般医以外の専門医は、開業医と勤務医がほぼ半々。国民は専門診療科にかかわらずかかりつけ医を選択でき、開業一般医を選ぶ人もいれば、病院に勤める特定の診療科の専門医を選ぶ人もいる。「ただ、予約を取りやすいため、80%以上が開業一般医を選んでいる」と奥田氏は説明する。
セルジュ・ジルベルグ氏は、「地域や医師によっても異なるが、1000~1500人程度の患者を抱える開業一般医が多い」と話す。開業一般医が在宅で看取るのは、一般的に年間数人程度だという。
プライマリケアから終末期医療までを幅広く手掛けることが求められる開業一般医をサポートする存在が、様々な疾患について設けられている地域ネットワークだ。緩和ケアのほか、周産期、老年医学、癌、糖尿病、喘息などの地域ネットワークがあり、難治例への対応など一般医が困ったときに病院に相談することができる。
臨床上の悩みに応えるだけでなく、実務的な相談も可能。老年医学のネットワークでは、「ベッドをレンタルしたい、ホームヘルパーを頼みたいといった在宅患者の個別ニーズの相談にも応じてくれる」とジルベルグ氏は話
2012.02.03 / Top↑
“無益な治療”論、フランスでは
「一方的に拒否することは許されるか」とか
「どういう状況なやめてもよいか」という問題から
「どういう状況ならやめなければならないか」という問題になりつつあるらしい。
Thaddeus Mason Popeの以下の2つのエントリー情報によると、
2009年に子宮内低酸素脳症で生まれた新生児に
25分間の蘇生を行って救命した病院が
その子どもが重症の障害を負ったことに対して裁判所から
「25分もの蘇生は“unreasonable obstinacy(理不尽なやり過ぎ)”だった」と判断され、
賠償金の支払いを命じられている。
去年フランスの医学雑誌でこのケースを取り上げた論文では
以下の論点が指摘されており、
① 蘇生開始そのものは問題とされなかったが長過ぎたとされている。
② 子どもが死んだと親に誤って伝えたことは罪に問われなかった。
③ 両親と子どもに対して賠償の支払いが命じられたことは
障害のある子どもが生きていることが賠償の対象ということになる。
④ 子どもの障害が無益に長すぎる蘇生のよるものか
それとも元々の無酸素脳症によるものかは判別しにくい。
結論として、
こういう判決が出ると
結果的にその子が障害を負うリスク故にではなく
訴訟でこうした責任を問われるリスクを回避するために
新生児科医らが子どもの蘇生をやらない選択をするようになるだろう、と。
この事件そのものは上訴されてまだ結審していないらしいけれど、
上記の判決が出た後でできた法律があるらしくて、
その法律は医師らに対して「理不尽なやり過ぎは慎むよう」求め、
「不必要だったり、度を越していたり、人工的な延命以外の目的や効果のない治療を
開始したり続けたりしてはならない」と規定している、とのこと。
なお、同様の法律はスペインでもできた、とのこと。
European Journal of Health Lawというジャーナルに掲載された
この事件を巡る論文”A French Hospital Sentenced for Unreasonable Obstinacy”では
法律そのものに問題はないが、それを実際に適用するとなると
特に上記のケースのような救急の場面などでは疑問である、と結論。
Hospital Ordered to Pay Damages for Providing Futile Medical Treatment
Medical Futility Blog, June 6, 2011
Hospital Sentences for Providing Futile Treatment
Medical Futility Blog, January 30, 2012
訴訟そのものは、
ずいぶん前からあった例の「ロングフル・ライフ訴訟」なのだろうと思うのだけど、
その判決が「無益な治療を不当に長くやり過ぎたことの責任」を問うという形で出たことで、
「無益なら一方的に拒絶してもよい」から「無益な治療をやること、まかりならぬ」へと
Popeが言うように”無益な治療”概念そのものが一歩また先に踏み込まれた、と。
関連の日本語記事 ↓
【海外ルポ】治療差し控え進むフランス 法制定を機に緩和ケアが充実
日経メディカル 2011/12/27
【ロングフル・バース関連エントリー】注:「バース」と「ライフ」の違いは5つ目のコメント欄に。
「出生前診断やらないとロングフル・バース訴訟で負けますよ」と加医師会(2008/11/8)
ロングフル・バース訴訟をテーマにPicoult近刊(2009/2/19)
ロングフル・バース訴訟がテーマ、Picoultの近刊を読む(2009/8/10)
Picoult作品のモデル、NH州のロングフル・バース訴訟(2009/8/11)
【フランス関連エントリー】
“救済者兄弟”フランスでも2004年に合法化(2009/9/18)
フランス生命倫理における「連帯性」(2009/9/28)
フランス上院が自殺幇助合法化法案を否決(2011/1/27)
【スペイン関連エントリー】
チンパンジーに法的権利認める(スペイン)(2008/9/3)
名前は「尊厳死」法でもスペインでは趣がぜんぜん違う(2009/6/11)
「死んだ」と偽り、医療職が組織的に新生児を売買(スペイン)(2011/1/30)
「一方的に拒否することは許されるか」とか
「どういう状況なやめてもよいか」という問題から
「どういう状況ならやめなければならないか」という問題になりつつあるらしい。
Thaddeus Mason Popeの以下の2つのエントリー情報によると、
2009年に子宮内低酸素脳症で生まれた新生児に
25分間の蘇生を行って救命した病院が
その子どもが重症の障害を負ったことに対して裁判所から
「25分もの蘇生は“unreasonable obstinacy(理不尽なやり過ぎ)”だった」と判断され、
賠償金の支払いを命じられている。
去年フランスの医学雑誌でこのケースを取り上げた論文では
以下の論点が指摘されており、
① 蘇生開始そのものは問題とされなかったが長過ぎたとされている。
② 子どもが死んだと親に誤って伝えたことは罪に問われなかった。
③ 両親と子どもに対して賠償の支払いが命じられたことは
障害のある子どもが生きていることが賠償の対象ということになる。
④ 子どもの障害が無益に長すぎる蘇生のよるものか
それとも元々の無酸素脳症によるものかは判別しにくい。
結論として、
こういう判決が出ると
結果的にその子が障害を負うリスク故にではなく
訴訟でこうした責任を問われるリスクを回避するために
新生児科医らが子どもの蘇生をやらない選択をするようになるだろう、と。
この事件そのものは上訴されてまだ結審していないらしいけれど、
上記の判決が出た後でできた法律があるらしくて、
その法律は医師らに対して「理不尽なやり過ぎは慎むよう」求め、
「不必要だったり、度を越していたり、人工的な延命以外の目的や効果のない治療を
開始したり続けたりしてはならない」と規定している、とのこと。
なお、同様の法律はスペインでもできた、とのこと。
European Journal of Health Lawというジャーナルに掲載された
この事件を巡る論文”A French Hospital Sentenced for Unreasonable Obstinacy”では
法律そのものに問題はないが、それを実際に適用するとなると
特に上記のケースのような救急の場面などでは疑問である、と結論。
Hospital Ordered to Pay Damages for Providing Futile Medical Treatment
Medical Futility Blog, June 6, 2011
Hospital Sentences for Providing Futile Treatment
Medical Futility Blog, January 30, 2012
訴訟そのものは、
ずいぶん前からあった例の「ロングフル・ライフ訴訟」なのだろうと思うのだけど、
その判決が「無益な治療を不当に長くやり過ぎたことの責任」を問うという形で出たことで、
「無益なら一方的に拒絶してもよい」から「無益な治療をやること、まかりならぬ」へと
Popeが言うように”無益な治療”概念そのものが一歩また先に踏み込まれた、と。
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2012.02.03 / Top↑
「弱者の居場所がない社会 ― 貧困・格差と社会的包摂」
阿部彩 講談社現代新書
プロローグでも述べたように、近年ヨーロッパ諸国では、従来の貧困の概念を、より広くとらえ深く掘り下げた「社会的排除」という概念が、社会政策の考え方の主流となりつつある。
従来の貧困の概念は、ただ単に金銭的・物品的な資源(その人が持っているもの)が不足している状況を示したものであった。たとえば、所得が低い、所有物が少ない、大多数の人が楽しむ休暇やレクリエーションが金銭的な理由で楽しむことができない……などの状況を表したものであった。
これに対して「社会的排除」という概念は、資源の不足そのものだけを問題視するのではなく、その資源の不足をきっかけに、徐々に、社会における仕組み(たとえば、社会保険や町内会など)から脱落し、人間関係が希薄になり、社会の一員としての価値存在を奪われていくことを問題視する。社会の中心から、外へ外へと追い出され、社会の周縁に押しやられるという意味で、社会的排除(ソーシャル・エクスクルージョン)という言葉が用いられている。一言で言えば、社会的排除は、人と人、人と社会の「関係」に着目した概念なのである。
(p.93)
日本の生活保護を始めとする公的扶助からの給付額も給付対象者数も、増えてきているとはいえ、ヨーロッパ諸国に比べて大幅に少ない。その中で「就労支援」ばかりが強調されると、「働かざるもの、食うべからず」的な、スパルタな制度となってしまう恐れがある。
繰り返すが、まっとうな生活を保つための貧困対策と、社会的包摂対策は、両者とも必要である。ヨーロッパにおける就労支援は、「食うための手段としての就労」、すなわち公的な給付を代替するための就労ではなく、あくまでも包摂の手段としての就労の支援なのである。
(p.111)
ここの最後の数行は、
少なくとも最近の報道からする限りは、
連立政権になってからの英国には当てはまらないような印象がある。
日本と同じような自己責任論による、
公的給付を代替えするための就労達成への努力を義務付けて、
それが達成されなければ一定期限で給付を切る方向に向かっているような?
従来の貧困の概念と社会的排除の概念が異なるのは、後者が、金銭的・物質的な欠乏から人間関係の欠乏に視野を広げたということだけではない。
社会的排除が、貧困と異なるいちばん大きな点は、貧困は「低い生活水準である状態」を示す概念であるのに対し、社会的排除は「低い生活水準にされた状態」を示すという点である。
(中略)
従来の貧困の考え方は、市場経済の営みそのものは不問としたうえで、その中で発生する貧困問題は「自然の成り行き」と理解し、貧困は、その貧困の当事者側の問題であると理解するものであった。
(中略)
そこには、いつも、「自己責任だから」という暗黙の了解が流れている。
これに対して、社会的排除は、問題が社会の側にあると理解する概念である。社会のどのような仕組みが、孤立した人を生みだしたのか、制度やコミュニティがどのようにして個人を排除しているのか。社会的は維持御に対する第一の政策は、「排除しないようにすること」なのである。
たとえば、なぜ、担任世帯であることが、社会的孤立につながるのか。なぜ、同居の家族以外の社会サポートが築きにくいのか。……(中略)…
社会的排除の概念は、社会のありようを疑問視しているのである。これは、大きな発想の転換である。
(p.124-126:ゴチックの個所、原文は傍点)
イギリス、ノッティンガム大学医学部の社会疫学者
リチャード・ウィルキンソン教授による「格差極悪論」を説明して、
格差が大きい国や地域に住むと、格差の下方に転落することによる心理的打撃が大きく、格差の上の方に存在する人々は自分の社会的地位を守ろうと躍起になり、格差の下の方に存在する人々は強い劣等感や自己肯定感の低下を感じることとなる。人々は攻撃的になり、信頼感が損なわれ、差別が助長され、コミュニティや社会のつながりは弱くなる。強いストレスにさらされた人々は、その結果として健康を害したり、死亡率さえも高くなったりする。これらの影響は、社会の底辺の人々のみならず、社会のどの階層の人々にも及ぶ。これが、格差極悪論の要約である。
(p.127:ここのゴチックはspitzibara)
現在の日本の社会保険制度、
特に人々を労働市場に戻すことだけを目的とした就労支援など、
これらの制度は、限られた「よい仕事」への競争を激化し、誰もが企業戦士のようにふるまわなければならない強迫観念を植え付け、その競争からふるい落とされる人々を、非正規労働など社会の周縁に追い込んでいく。これが、社会的排除である。そして、格差社会は、社会的排除を助長させる大きな要因となる。
社会的排除に抗うためには、誰もが尊重され、包摂されるユニバーサル・デザイン型の社会が必要である。誰もが自分の存在価値を発揮できるような働き方ができ、誰もが人から必要とされ、誰もが包摂される社会。それは理想論かもしれない。だが、誰もが生きにくさを感じるようになった現在、そのような包摂の視点が、これからの日本を考えるときに不可欠なのではないだろうか。
(p.190)
しょーもないエピソードだけど、
何年も前に、ある場所にユニバーサル・デザインの公園を作る話があって、
その企画に関わっている人たちに障害のある子どもの親としての意見を、と言われて
夫婦で出掛けたことがあった。
そこには行政の人の他に、いわばコンサルのような立場の若い人がいて、
その人が、トイレもユニバーサルなものにして、
障害者も高齢者も男性も女性も子どもも
誰でも使えるようにするのだと力説した時に、
「だから安心して子どもも使えるように
女性の生理用品のゴミ箱は設置しません」
と宣言したのに度肝を抜かれた。
「じゃぁ、女性は使用済みの生理用品をどうするんですか?」
と、思わず、例によって真っすぐな口調で聞いてしまったのだけど、
むしろ相手にムッとされてしまい、
さも「だから無知なおばさんはダメなんだよ」とでもいったイライラ口調で、
「それは女性にはちゃんと自己責任で持ち帰ってもらわないと。
誰もが使える、すなわち子どもが使っても不快にならないトイレなんですから」。
「ユニバーサル・デザイン」もこうして排除の論理に繋がっていくなら
いったい何のためのユニバーサル・デザインなのよっ?
世の中には、たぶん、この手の話がウジャウジャしている。
そして、そういう話の根っこにある意識こそが「社会的排除」。
ちがう――?
阿部彩 講談社現代新書
プロローグでも述べたように、近年ヨーロッパ諸国では、従来の貧困の概念を、より広くとらえ深く掘り下げた「社会的排除」という概念が、社会政策の考え方の主流となりつつある。
従来の貧困の概念は、ただ単に金銭的・物品的な資源(その人が持っているもの)が不足している状況を示したものであった。たとえば、所得が低い、所有物が少ない、大多数の人が楽しむ休暇やレクリエーションが金銭的な理由で楽しむことができない……などの状況を表したものであった。
これに対して「社会的排除」という概念は、資源の不足そのものだけを問題視するのではなく、その資源の不足をきっかけに、徐々に、社会における仕組み(たとえば、社会保険や町内会など)から脱落し、人間関係が希薄になり、社会の一員としての価値存在を奪われていくことを問題視する。社会の中心から、外へ外へと追い出され、社会の周縁に押しやられるという意味で、社会的排除(ソーシャル・エクスクルージョン)という言葉が用いられている。一言で言えば、社会的排除は、人と人、人と社会の「関係」に着目した概念なのである。
(p.93)
日本の生活保護を始めとする公的扶助からの給付額も給付対象者数も、増えてきているとはいえ、ヨーロッパ諸国に比べて大幅に少ない。その中で「就労支援」ばかりが強調されると、「働かざるもの、食うべからず」的な、スパルタな制度となってしまう恐れがある。
繰り返すが、まっとうな生活を保つための貧困対策と、社会的包摂対策は、両者とも必要である。ヨーロッパにおける就労支援は、「食うための手段としての就労」、すなわち公的な給付を代替するための就労ではなく、あくまでも包摂の手段としての就労の支援なのである。
(p.111)
ここの最後の数行は、
少なくとも最近の報道からする限りは、
連立政権になってからの英国には当てはまらないような印象がある。
日本と同じような自己責任論による、
公的給付を代替えするための就労達成への努力を義務付けて、
それが達成されなければ一定期限で給付を切る方向に向かっているような?
従来の貧困の概念と社会的排除の概念が異なるのは、後者が、金銭的・物質的な欠乏から人間関係の欠乏に視野を広げたということだけではない。
社会的排除が、貧困と異なるいちばん大きな点は、貧困は「低い生活水準である状態」を示す概念であるのに対し、社会的排除は「低い生活水準にされた状態」を示すという点である。
(中略)
従来の貧困の考え方は、市場経済の営みそのものは不問としたうえで、その中で発生する貧困問題は「自然の成り行き」と理解し、貧困は、その貧困の当事者側の問題であると理解するものであった。
(中略)
そこには、いつも、「自己責任だから」という暗黙の了解が流れている。
これに対して、社会的排除は、問題が社会の側にあると理解する概念である。社会のどのような仕組みが、孤立した人を生みだしたのか、制度やコミュニティがどのようにして個人を排除しているのか。社会的は維持御に対する第一の政策は、「排除しないようにすること」なのである。
たとえば、なぜ、担任世帯であることが、社会的孤立につながるのか。なぜ、同居の家族以外の社会サポートが築きにくいのか。……(中略)…
社会的排除の概念は、社会のありようを疑問視しているのである。これは、大きな発想の転換である。
(p.124-126:ゴチックの個所、原文は傍点)
イギリス、ノッティンガム大学医学部の社会疫学者
リチャード・ウィルキンソン教授による「格差極悪論」を説明して、
格差が大きい国や地域に住むと、格差の下方に転落することによる心理的打撃が大きく、格差の上の方に存在する人々は自分の社会的地位を守ろうと躍起になり、格差の下の方に存在する人々は強い劣等感や自己肯定感の低下を感じることとなる。人々は攻撃的になり、信頼感が損なわれ、差別が助長され、コミュニティや社会のつながりは弱くなる。強いストレスにさらされた人々は、その結果として健康を害したり、死亡率さえも高くなったりする。これらの影響は、社会の底辺の人々のみならず、社会のどの階層の人々にも及ぶ。これが、格差極悪論の要約である。
(p.127:ここのゴチックはspitzibara)
現在の日本の社会保険制度、
特に人々を労働市場に戻すことだけを目的とした就労支援など、
これらの制度は、限られた「よい仕事」への競争を激化し、誰もが企業戦士のようにふるまわなければならない強迫観念を植え付け、その競争からふるい落とされる人々を、非正規労働など社会の周縁に追い込んでいく。これが、社会的排除である。そして、格差社会は、社会的排除を助長させる大きな要因となる。
社会的排除に抗うためには、誰もが尊重され、包摂されるユニバーサル・デザイン型の社会が必要である。誰もが自分の存在価値を発揮できるような働き方ができ、誰もが人から必要とされ、誰もが包摂される社会。それは理想論かもしれない。だが、誰もが生きにくさを感じるようになった現在、そのような包摂の視点が、これからの日本を考えるときに不可欠なのではないだろうか。
(p.190)
しょーもないエピソードだけど、
何年も前に、ある場所にユニバーサル・デザインの公園を作る話があって、
その企画に関わっている人たちに障害のある子どもの親としての意見を、と言われて
夫婦で出掛けたことがあった。
そこには行政の人の他に、いわばコンサルのような立場の若い人がいて、
その人が、トイレもユニバーサルなものにして、
障害者も高齢者も男性も女性も子どもも
誰でも使えるようにするのだと力説した時に、
「だから安心して子どもも使えるように
女性の生理用品のゴミ箱は設置しません」
と宣言したのに度肝を抜かれた。
「じゃぁ、女性は使用済みの生理用品をどうするんですか?」
と、思わず、例によって真っすぐな口調で聞いてしまったのだけど、
むしろ相手にムッとされてしまい、
さも「だから無知なおばさんはダメなんだよ」とでもいったイライラ口調で、
「それは女性にはちゃんと自己責任で持ち帰ってもらわないと。
誰もが使える、すなわち子どもが使っても不快にならないトイレなんですから」。
「ユニバーサル・デザイン」もこうして排除の論理に繋がっていくなら
いったい何のためのユニバーサル・デザインなのよっ?
世の中には、たぶん、この手の話がウジャウジャしている。
そして、そういう話の根っこにある意識こそが「社会的排除」。
ちがう――?
2012.02.03 / Top↑
住民投票実施に向け、PAS合法化ロビーが活発に動いているミネソタ州で、ドキュメンタリー映画“How to Die in Oregon”の上映会とシンポが企画されている。
http://www.columbiamissourian.com/stories/2012/01/29/award-winning-film-about-assisted-suicide-comes-columbia/
この映画については 2011年1月31日の補遺で、
ユタ州のサンダンス映画祭で“How to Die in Oregon(オレゴン州の死に方)” がドキュメンタリー部門で受賞。
http://www.reuters.com/article/2011/01/30/uk-sundance-awards-idUKTRE70T0A920110130
英国精神科学会など関連機関のパートナーシップにより、イングランドとウェールズの総合病院における認知症ケアの実態調査が数年にわたって実施され、去年12月に報告書が刊行されている。”Report of the national Audit of Dementia Care in General Hospitals 2011”。
http://www.rcpsych.ac.uk/pdf/NATIONAL%20REPORT%20-%20Full%20Report%200512.pdf
英国精神科学会は去年12月に、「精神疾患のある人は15-20年寿命が短い」とのリリースも出している。
http://www.rcpsych.ac.uk/press/pressreleases2011/lifeexpectancy.aspx
遺伝子組み換えトウモロコシの殺虫成分に、ヒト細胞への害?
http://www.criigen.org/SiteEn/index.php?option=com_content&task=view&id=351&Itemid=1
ハチが世界中で急速に死滅している。Colony Collapse Disorder(CCD)と呼ばれる現象。英米では2010年に3分の1が死滅。イタリアでは半分が死滅。この傾向は中国やインドにも広がっている。そのため米国で売られている蜂蜜の中には鉛や抗生物質の混入した偽物があるとか。
http://articles.mercola.com/sites/articles/archive/2012/01/28/bees-death-destroy-food-supply.aspx?e_cid=20120128_DNL_art_1
上のニュースで思い出したけど、つい先日は、ブラジルとカナダからの輸入オレンジ・ジュースに米国で禁止されている防かび剤が使われているとして輸入停止、というニュースもあった。
http://money.cnn.com/2012/01/27/markets/orange_juice_canada/index.htm
ナノ素材使用の製品が世の中に増えているけれど、ナノ素材については健康リスクも環境リスクも十分に分かっていない。さらなる研究が必要、と米国科学アカデミー。:でも科学マインドのある筋からは、こういうのが非科学的「ゼロ・トラレンス」姿勢だと非難されていたんでは? 2010年に大統領がんパネルが「化学物質はやっぱりヤバい」(米)というエントリーを書いた際に、はてぶで「ヤバくない証明は不可能。それが理解できず、こんなことを書くシロウトはバカ」とspitzibaraをコキ下ろして喜んでいた科学マインドのある方々がおられたけど、あの時も「ヤバい」と書いたのはspitzibaraではなく「大統領がんパネル」だったんすけど? 言っておくけど今回も、ナノ素材のリスクを警告しているのはspitzibaraではなく「米国科学アカデミー」なのね。間違えて「だから科学マインドのないシロウトはバカ」と叩かないように。
http://www.rcpsych.ac.uk/press/pressreleases2011/lifeexpectancy.aspx
MNTに「犯罪学者の研究によれば、犯罪行為に遺伝子が影響している」というタイトルで、冒頭「この論文によれば、あなたが犯罪者人生に迷い込むかどうか、遺伝子で分かるかも」と論文の結論を要約紹介する記事。:読んでみると、遺伝子決定論の仮説を検証するべく調査した結果、「確かに子どもの頃の反社会的行為が成人まで続いた人では環境要因よりも遺伝要因の方が関係していると思われる結果になったけれども、その遺伝子が特定されない限りそんな仮説は立てられないし、犯罪行為は学習するもの」という趣旨の論文だった。先週もPAS合法化訴訟で証拠提出の情報収集を認めただけで「合法化へ高裁が一歩」とメディアが報じていたけど、結局あれと同じか?
http://www.medicalnewstoday.com/releases/240824.php
陪審員にレイプ被害者の女性に対する偏見が根深く、証拠を読み誤らせているとの指摘、公訴局のAlison Saunders検事から。
http://www.guardian.co.uk/society/2012/jan/30/rape-victims-acquittals-chief-prosecutor?CMP=EMCNEWEML1355
NYT。女性のリプロダクティブ・ヘルスへのアクセスが攻撃されている時だけに、行政が安価な避妊の実現を目指していることは歓迎。
NYT. Birth Control and Reproductive Rights: The administration’s commitment to affordable birth control is welcome at a moment when women’s access to reproductive health care is under assault.
NYT. ニューヨーク警察は強大な権力を握っているだけに、独立した監督なしに勝手に機能させてはならない。:映画で散々描かれてきたLAPDの悪事とか、それからテキサスの学校で「授業妨害」を過剰に取り締まっているスクール・ポリスとか、頭に浮かぶ。
It’s Time to Police the N.Y.P.D.: The Police Department, with its immense powers, should not operate free from independent oversight.
カナダの3人の姉妹と成人女性1人に対する「名誉殺人」で、アフガン人3人に有罪判決。
http://www.guardian.co.uk/world/2012/jan/30/honour-killings-jury-afghan-family?CMP=EMCNEWEML1355
【関連】
「男の子と話をした」と家族会議にかけられ生き埋めにされた16歳の少女(トルコ)(2010/2/6)
2011年11月22日の補遺
イラクのバスラで、イギリス人兵士と恋をしたと腹を立て、17歳の娘Rand Abdel-Qadarを窒息・刺殺した父親が一度は連行されたものの警察は2時間後に彼の行いを称えて釈放。「警官は男だからね。名誉のなんたるかを分かっているさ」と父親。
http://www.guardian.co.uk/world/2008/may/11/iraq.humanrights?CMP=EMCNEWEML1355
2010年12月10日の補遺
アフガニスタンの女性は結婚の強要や名誉殺人など、今だに虐待されている、と国連の報告書。
http://www.guardian.co.uk/world/2010/dec/09/afghan-women-abuse-united-nations?CMP=EMCGT_101210&
東京新聞。車いすの搭乗予約断る 格安航空ピーチ社
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012013002000026.html
札幌市が知的障害者生活調査 姉妹死亡受け
http://mytown.asahi.com/hokkaido/news.php?k_id=01000001201300011
http://www.columbiamissourian.com/stories/2012/01/29/award-winning-film-about-assisted-suicide-comes-columbia/
この映画については 2011年1月31日の補遺で、
ユタ州のサンダンス映画祭で“How to Die in Oregon(オレゴン州の死に方)” がドキュメンタリー部門で受賞。
http://www.reuters.com/article/2011/01/30/uk-sundance-awards-idUKTRE70T0A920110130
英国精神科学会など関連機関のパートナーシップにより、イングランドとウェールズの総合病院における認知症ケアの実態調査が数年にわたって実施され、去年12月に報告書が刊行されている。”Report of the national Audit of Dementia Care in General Hospitals 2011”。
http://www.rcpsych.ac.uk/pdf/NATIONAL%20REPORT%20-%20Full%20Report%200512.pdf
英国精神科学会は去年12月に、「精神疾患のある人は15-20年寿命が短い」とのリリースも出している。
http://www.rcpsych.ac.uk/press/pressreleases2011/lifeexpectancy.aspx
遺伝子組み換えトウモロコシの殺虫成分に、ヒト細胞への害?
http://www.criigen.org/SiteEn/index.php?option=com_content&task=view&id=351&Itemid=1
ハチが世界中で急速に死滅している。Colony Collapse Disorder(CCD)と呼ばれる現象。英米では2010年に3分の1が死滅。イタリアでは半分が死滅。この傾向は中国やインドにも広がっている。そのため米国で売られている蜂蜜の中には鉛や抗生物質の混入した偽物があるとか。
http://articles.mercola.com/sites/articles/archive/2012/01/28/bees-death-destroy-food-supply.aspx?e_cid=20120128_DNL_art_1
上のニュースで思い出したけど、つい先日は、ブラジルとカナダからの輸入オレンジ・ジュースに米国で禁止されている防かび剤が使われているとして輸入停止、というニュースもあった。
http://money.cnn.com/2012/01/27/markets/orange_juice_canada/index.htm
ナノ素材使用の製品が世の中に増えているけれど、ナノ素材については健康リスクも環境リスクも十分に分かっていない。さらなる研究が必要、と米国科学アカデミー。:でも科学マインドのある筋からは、こういうのが非科学的「ゼロ・トラレンス」姿勢だと非難されていたんでは? 2010年に大統領がんパネルが「化学物質はやっぱりヤバい」(米)というエントリーを書いた際に、はてぶで「ヤバくない証明は不可能。それが理解できず、こんなことを書くシロウトはバカ」とspitzibaraをコキ下ろして喜んでいた科学マインドのある方々がおられたけど、あの時も「ヤバい」と書いたのはspitzibaraではなく「大統領がんパネル」だったんすけど? 言っておくけど今回も、ナノ素材のリスクを警告しているのはspitzibaraではなく「米国科学アカデミー」なのね。間違えて「だから科学マインドのないシロウトはバカ」と叩かないように。
http://www.rcpsych.ac.uk/press/pressreleases2011/lifeexpectancy.aspx
MNTに「犯罪学者の研究によれば、犯罪行為に遺伝子が影響している」というタイトルで、冒頭「この論文によれば、あなたが犯罪者人生に迷い込むかどうか、遺伝子で分かるかも」と論文の結論を要約紹介する記事。:読んでみると、遺伝子決定論の仮説を検証するべく調査した結果、「確かに子どもの頃の反社会的行為が成人まで続いた人では環境要因よりも遺伝要因の方が関係していると思われる結果になったけれども、その遺伝子が特定されない限りそんな仮説は立てられないし、犯罪行為は学習するもの」という趣旨の論文だった。先週もPAS合法化訴訟で証拠提出の情報収集を認めただけで「合法化へ高裁が一歩」とメディアが報じていたけど、結局あれと同じか?
http://www.medicalnewstoday.com/releases/240824.php
陪審員にレイプ被害者の女性に対する偏見が根深く、証拠を読み誤らせているとの指摘、公訴局のAlison Saunders検事から。
http://www.guardian.co.uk/society/2012/jan/30/rape-victims-acquittals-chief-prosecutor?CMP=EMCNEWEML1355
NYT。女性のリプロダクティブ・ヘルスへのアクセスが攻撃されている時だけに、行政が安価な避妊の実現を目指していることは歓迎。
NYT. Birth Control and Reproductive Rights: The administration’s commitment to affordable birth control is welcome at a moment when women’s access to reproductive health care is under assault.
NYT. ニューヨーク警察は強大な権力を握っているだけに、独立した監督なしに勝手に機能させてはならない。:映画で散々描かれてきたLAPDの悪事とか、それからテキサスの学校で「授業妨害」を過剰に取り締まっているスクール・ポリスとか、頭に浮かぶ。
It’s Time to Police the N.Y.P.D.: The Police Department, with its immense powers, should not operate free from independent oversight.
カナダの3人の姉妹と成人女性1人に対する「名誉殺人」で、アフガン人3人に有罪判決。
http://www.guardian.co.uk/world/2012/jan/30/honour-killings-jury-afghan-family?CMP=EMCNEWEML1355
【関連】
「男の子と話をした」と家族会議にかけられ生き埋めにされた16歳の少女(トルコ)(2010/2/6)
2011年11月22日の補遺
イラクのバスラで、イギリス人兵士と恋をしたと腹を立て、17歳の娘Rand Abdel-Qadarを窒息・刺殺した父親が一度は連行されたものの警察は2時間後に彼の行いを称えて釈放。「警官は男だからね。名誉のなんたるかを分かっているさ」と父親。
http://www.guardian.co.uk/world/2008/may/11/iraq.humanrights?CMP=EMCNEWEML1355
2010年12月10日の補遺
アフガニスタンの女性は結婚の強要や名誉殺人など、今だに虐待されている、と国連の報告書。
http://www.guardian.co.uk/world/2010/dec/09/afghan-women-abuse-united-nations?CMP=EMCGT_101210&
東京新聞。車いすの搭乗予約断る 格安航空ピーチ社
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012013002000026.html
札幌市が知的障害者生活調査 姉妹死亡受け
http://mytown.asahi.com/hokkaido/news.php?k_id=01000001201300011
2012.02.03 / Top↑
福祉職の担当職員の方から
今日はグループ活動の日で、ティータイムの後に「今年どんな1年にしたいか」を描きました。まず台紙を選んだのですが、5~6色ある中で一番にオレンジ色、二番に青色を選ばれました。
紙の配置を変えても、その順番は変わりませんでした。ミュウさん、すごく堅い意思です。
看護科の担当職員の方から
夕ごはんの介助に入らせてもらいました。ごはん、魚の煮もの、キュウリのシーチキンあえ、オクラと人参の煮もの、白桃、お茶ゼリー(山盛り)でした。前回の教訓を生かし、2~3口ごはん・おかずの間に1~2口お茶ゼリーを食べてもらうようにしました。かなりお茶ゼリーが順調に減りました。
他の方の介助に入るために私がミュウさんに背を向けた途端!!
ガッシャ――――――ン
コロコロと私の足元までころがったものは、赤いミッキーの音の出るおもちゃでした。その時のドヤ顔といったら!! めっちゃ私狙いです。思わず、上手に投げれたね~でした。
となりのYさんの顔の上へ落ちなくて良かった どれくらい上手かと言うとYさんとテーブルの間30㎝の間を投げてますから! Yさんも、もちろん本人も私も大笑いでした。狙いは本当、よかったんです。角度かな。
今日はグループ活動の日で、ティータイムの後に「今年どんな1年にしたいか」を描きました。まず台紙を選んだのですが、5~6色ある中で一番にオレンジ色、二番に青色を選ばれました。
紙の配置を変えても、その順番は変わりませんでした。ミュウさん、すごく堅い意思です。
看護科の担当職員の方から
夕ごはんの介助に入らせてもらいました。ごはん、魚の煮もの、キュウリのシーチキンあえ、オクラと人参の煮もの、白桃、お茶ゼリー(山盛り)でした。前回の教訓を生かし、2~3口ごはん・おかずの間に1~2口お茶ゼリーを食べてもらうようにしました。かなりお茶ゼリーが順調に減りました。
他の方の介助に入るために私がミュウさんに背を向けた途端!!
ガッシャ――――――ン
コロコロと私の足元までころがったものは、赤いミッキーの音の出るおもちゃでした。その時のドヤ顔といったら!! めっちゃ私狙いです。思わず、上手に投げれたね~でした。
となりのYさんの顔の上へ落ちなくて良かった どれくらい上手かと言うとYさんとテーブルの間30㎝の間を投げてますから! Yさんも、もちろん本人も私も大笑いでした。狙いは本当、よかったんです。角度かな。
2012.02.03 / Top↑
Philosophy, Ethics and Humanities in Medicine誌の昨年12月号で
何人かの小児科医が、DCDドナーは臓器摘出時に死んでなどいないのだから
DCDプロトコルは一時中止とすべきだ、と主張しているとのこと。
Doctors call for a moratorium on donation after cardiac death
BioEdge, January 27, 2012
直前の「雑草引き抜くのと同じ」論文について読んだ後だけに、
こういうことを言ってくれる小児科医の存在には少しほっとしますが、
なにしろ前の論文の衝撃が大きすぎて……。
【2011年の関連エントリー】
「“生きるに値する命”でも“与えるに値する命”なら死なせてもOK」と、Savulescuの相方が(2011/3/2)
WHOが「人為的DCDによる臓器提供を検討しよう」と(2011/7/19)
UNOSが「心臓は動いていても“循環死後提供”で」「脊損やALSの人は特定ドナー候補に」(2011/9/26)
「DCDで生命維持停止直後に脳波が変動」するから「丁寧なドナー・ケアのために麻酔を」という米国医療の“倫理”(2011/11/24)
「丁寧なドナー・ケア」は医療職の抵抗感をなくしてDCDをさらに推進するため?(2011/11/24)
これまでの臓器移植関連エントリーのまとめ(2011/11/1)
何人かの小児科医が、DCDドナーは臓器摘出時に死んでなどいないのだから
DCDプロトコルは一時中止とすべきだ、と主張しているとのこと。
Doctors call for a moratorium on donation after cardiac death
BioEdge, January 27, 2012
直前の「雑草引き抜くのと同じ」論文について読んだ後だけに、
こういうことを言ってくれる小児科医の存在には少しほっとしますが、
なにしろ前の論文の衝撃が大きすぎて……。
【2011年の関連エントリー】
「“生きるに値する命”でも“与えるに値する命”なら死なせてもOK」と、Savulescuの相方が(2011/3/2)
WHOが「人為的DCDによる臓器提供を検討しよう」と(2011/7/19)
UNOSが「心臓は動いていても“循環死後提供”で」「脊損やALSの人は特定ドナー候補に」(2011/9/26)
「DCDで生命維持停止直後に脳波が変動」するから「丁寧なドナー・ケアのために麻酔を」という米国医療の“倫理”(2011/11/24)
「丁寧なドナー・ケア」は医療職の抵抗感をなくしてDCDをさらに推進するため?(2011/11/24)
これまでの臓器移植関連エントリーのまとめ(2011/11/1)
2012.02.03 / Top↑
The Journal of Medical Ethics のオンライン版で
デューク大の Walter Sinnott-ArmstrongとNIHのFranklin G. Millerが共著論文を書き、
DCD(人為的心臓死後臓器提供)推進のためにデッド・ドナー・ルール(死亡者提供ルール)の撤廃を
説いているらしく、
それについてBioEdgeのMichael Cookがエントリーを書いているのだけれど、
2人の正当化論の乱暴さに心が折れそうになった。
基本的にはこれまでFostやTruogが説いてきたような
「どうせ今でも拍動が戻る可能性を考えると
DCDのドナーは臓器摘出時に死んではいないわけで
現場では死亡者提供ルールなんて頻繁に違反されているのだし、
死ぬ人間をドナーにせず助かる命も助からなくなることを考えると、
いっそのことルールの方を撤廃すればよい」というもの。
ただ、そのために著者らは
「殺すことは悪だ」という規範さえ棄てればよい、と説くのだけれど、
それを正当化する彼らの理屈は
「生きていると言えるだけの能力のない人は殺しても構わない」から。
命はそれ自身が神聖なのではなく、生と死を隔てる唯一の違いは能力の有無。
脳に損傷を受けた人は能力を失っているのだから殺してもよいのだ、と。
Cookが引用している個所を以下にピックアップしてみると、
killing by itself is not morally wrong, although it is still morally wrong to cause totally disability.
殺す行為そのものが道徳的に間違っているわけではない。完全な障害状態を引き起こすことは依然として道徳的な間違いではあるが。
Then killing her cannot disrespect her autonomy, because she has no autonomy left. It also cannot be unfair to kill her if it does her no harm.
重い障害を負った人を殺しても、その人の自律・自己決定権を無視したことにはならない。なぜなら、そういう人には自律・自己決定権など残っていないからだ。殺すことによってその人に何の害もなされないならば、その人を殺すことは不公正にはなり得ない。
[I]f killing were wrong just because it is causing death or the loss of life, then the same principle would apply with the same strength to pulling weeds out of a garden. It it is not immoral to weed a garden, then life as such cannot really be sacred, and killing as such cannot be morally wrong.
もしも殺すことが、ただ単に死を引き起こすまたは命の喪失だから間違っているというなら、同じ原理が同じ強さで庭の雑草を抜くことにも当てはまることになる。庭の雑草を引き抜くことが道徳的に許されるならば、雑草と同じような命が神聖とされることもあり得ないこととなり、雑草と同じような人を殺す行為も道徳的に間違った行為にはなり得ない。
Is it morally wrong to take a life? Not really, say bioethicists
BioEdge, January 27, 2012
気分が悪くて、何も書く気にならないけど、
著者らが重い障害を負った人を受ける人称代名詞が女性形であることだけは特記しておきたい。
非常に不快だけど、これは2007年からトランスヒューマ二ストらもやっていた ↓
he とshe の新たな文法?(2007/11/21)
この2007年のエントリーで私は以下のように書いているのだけど、
この段階で私は既に本質をズバリ見抜いていたということですね。
所詮は
知的レベルが高いことを鼻にかけた白人男性の我田引水的な価値観。
要はただのインテリ・レッドネックなのでは──?
【関連エントリー】
臓器移植で「死亡者提供ルール」廃止せよと(2008/3/11)
デューク大の Walter Sinnott-ArmstrongとNIHのFranklin G. Millerが共著論文を書き、
DCD(人為的心臓死後臓器提供)推進のためにデッド・ドナー・ルール(死亡者提供ルール)の撤廃を
説いているらしく、
それについてBioEdgeのMichael Cookがエントリーを書いているのだけれど、
2人の正当化論の乱暴さに心が折れそうになった。
基本的にはこれまでFostやTruogが説いてきたような
「どうせ今でも拍動が戻る可能性を考えると
DCDのドナーは臓器摘出時に死んではいないわけで
現場では死亡者提供ルールなんて頻繁に違反されているのだし、
死ぬ人間をドナーにせず助かる命も助からなくなることを考えると、
いっそのことルールの方を撤廃すればよい」というもの。
ただ、そのために著者らは
「殺すことは悪だ」という規範さえ棄てればよい、と説くのだけれど、
それを正当化する彼らの理屈は
「生きていると言えるだけの能力のない人は殺しても構わない」から。
命はそれ自身が神聖なのではなく、生と死を隔てる唯一の違いは能力の有無。
脳に損傷を受けた人は能力を失っているのだから殺してもよいのだ、と。
Cookが引用している個所を以下にピックアップしてみると、
killing by itself is not morally wrong, although it is still morally wrong to cause totally disability.
殺す行為そのものが道徳的に間違っているわけではない。完全な障害状態を引き起こすことは依然として道徳的な間違いではあるが。
Then killing her cannot disrespect her autonomy, because she has no autonomy left. It also cannot be unfair to kill her if it does her no harm.
重い障害を負った人を殺しても、その人の自律・自己決定権を無視したことにはならない。なぜなら、そういう人には自律・自己決定権など残っていないからだ。殺すことによってその人に何の害もなされないならば、その人を殺すことは不公正にはなり得ない。
[I]f killing were wrong just because it is causing death or the loss of life, then the same principle would apply with the same strength to pulling weeds out of a garden. It it is not immoral to weed a garden, then life as such cannot really be sacred, and killing as such cannot be morally wrong.
もしも殺すことが、ただ単に死を引き起こすまたは命の喪失だから間違っているというなら、同じ原理が同じ強さで庭の雑草を抜くことにも当てはまることになる。庭の雑草を引き抜くことが道徳的に許されるならば、雑草と同じような命が神聖とされることもあり得ないこととなり、雑草と同じような人を殺す行為も道徳的に間違った行為にはなり得ない。
Is it morally wrong to take a life? Not really, say bioethicists
BioEdge, January 27, 2012
気分が悪くて、何も書く気にならないけど、
著者らが重い障害を負った人を受ける人称代名詞が女性形であることだけは特記しておきたい。
非常に不快だけど、これは2007年からトランスヒューマ二ストらもやっていた ↓
he とshe の新たな文法?(2007/11/21)
この2007年のエントリーで私は以下のように書いているのだけど、
この段階で私は既に本質をズバリ見抜いていたということですね。
所詮は
知的レベルが高いことを鼻にかけた白人男性の我田引水的な価値観。
要はただのインテリ・レッドネックなのでは──?
【関連エントリー】
臓器移植で「死亡者提供ルール」廃止せよと(2008/3/11)
2012.02.03 / Top↑
去年の夏に以下のエントリーで紹介した訴訟の続報。
脳幹出血で全身マヒになった男性が「死ぬ権利」求め提訴(英)(2011/8/19)
英国の高等裁判所はMartin(仮名)さんの弁護士に対して
以下のように述べた、とのこと。
the solicitors may obtain information from third parties and from appropriate experts for the purpose of placing material before the court and that third parties may co-operate in so doing without the people involved acting in any way unlawfully.
裁判所に資料を提出するべく、
Martinさんの弁護士が第三者や適切な専門家から情報を得てもよい。
それに協力したことで、協力者が違法行為に問われることはない。
この部分だけを読むと、私には
裁判所への資料提出のための情報収集が認められただけのように思えるし、
当の弁護士さんたちだって
この決定以前にはDignitasやその他の自殺幇助に協力的な専門職から情報を得ることで
自分たちも起訴される恐れがあった、と述べているのだから、
それは反対運動Care Not Killingの医師が
「まだ始まったばかりの裁判で、法律が変わるという話ではなく、
裁判所に提出する証拠を集める許可が出たというだけのこと」と言っているように、
単にその程度のことなのではないかと思うのだけれど、
Mail紙の解釈によると、これは
弁護士がDignitasからそのサービスに関する情報をとっても良い、
さらにMartinさんの「幇助をしても良いとする人または団体を特定する」手段をとっても良い、
という意味なのだそうな。
さらに、同紙の解釈によると、この裁判所の決定は、
医療職による自殺幇助合法化への第一歩が踏み出されたことを意味するのだそうな。
Assisted suicide one step closer after High Court paves the way for doctors to help terminally-ill patients kill themselves
Daily Mail, January 27, 2012
記事の書き方そのものが、ぜんぜん釈然としない。
まずタイトルが
「医師によるターミナルな患者の自殺幇助に高裁が道を開き、自殺幇助へまた一歩」。
しかし、Martinさんは脳卒中の後遺症で寝たきりなのであって、
決して「ターミナルな患者」ではないし、
この記事を読む限り、裁判所が決定したのは
情報収集をして裁判所に資料を出せ、というに過ぎない。
それを「医師による患者の自殺幇助に道を開いた」とは言い過ぎも甚だしいのでは?
また、記事には高齢者の腕に医療用手袋をした人が注射をしている写真があり、
そのキャプションは「間もなく医師が患者に自殺行為を行うことが許される可能性も」。
その写真のすぐ下の段落では
幇助死の支持者らが合法化を望んでいるのは
「医師、看護師またはプロの自殺幇助者が犯罪行為に問われることなく
自殺に手を貸すことができるように」なることだ、と書かれている。
いつのまに看護師や「プロの自殺幇助者」まで対象に入ってきたのだろう?
BBCが合法化ロビーであることは既に誰も疑わないだろうけれど、
Mailもあまりも恥知らずな情報操作だと思う。
脳幹出血で全身マヒになった男性が「死ぬ権利」求め提訴(英)(2011/8/19)
英国の高等裁判所はMartin(仮名)さんの弁護士に対して
以下のように述べた、とのこと。
the solicitors may obtain information from third parties and from appropriate experts for the purpose of placing material before the court and that third parties may co-operate in so doing without the people involved acting in any way unlawfully.
裁判所に資料を提出するべく、
Martinさんの弁護士が第三者や適切な専門家から情報を得てもよい。
それに協力したことで、協力者が違法行為に問われることはない。
この部分だけを読むと、私には
裁判所への資料提出のための情報収集が認められただけのように思えるし、
当の弁護士さんたちだって
この決定以前にはDignitasやその他の自殺幇助に協力的な専門職から情報を得ることで
自分たちも起訴される恐れがあった、と述べているのだから、
それは反対運動Care Not Killingの医師が
「まだ始まったばかりの裁判で、法律が変わるという話ではなく、
裁判所に提出する証拠を集める許可が出たというだけのこと」と言っているように、
単にその程度のことなのではないかと思うのだけれど、
Mail紙の解釈によると、これは
弁護士がDignitasからそのサービスに関する情報をとっても良い、
さらにMartinさんの「幇助をしても良いとする人または団体を特定する」手段をとっても良い、
という意味なのだそうな。
さらに、同紙の解釈によると、この裁判所の決定は、
医療職による自殺幇助合法化への第一歩が踏み出されたことを意味するのだそうな。
Assisted suicide one step closer after High Court paves the way for doctors to help terminally-ill patients kill themselves
Daily Mail, January 27, 2012
記事の書き方そのものが、ぜんぜん釈然としない。
まずタイトルが
「医師によるターミナルな患者の自殺幇助に高裁が道を開き、自殺幇助へまた一歩」。
しかし、Martinさんは脳卒中の後遺症で寝たきりなのであって、
決して「ターミナルな患者」ではないし、
この記事を読む限り、裁判所が決定したのは
情報収集をして裁判所に資料を出せ、というに過ぎない。
それを「医師による患者の自殺幇助に道を開いた」とは言い過ぎも甚だしいのでは?
また、記事には高齢者の腕に医療用手袋をした人が注射をしている写真があり、
そのキャプションは「間もなく医師が患者に自殺行為を行うことが許される可能性も」。
その写真のすぐ下の段落では
幇助死の支持者らが合法化を望んでいるのは
「医師、看護師またはプロの自殺幇助者が犯罪行為に問われることなく
自殺に手を貸すことができるように」なることだ、と書かれている。
いつのまに看護師や「プロの自殺幇助者」まで対象に入ってきたのだろう?
BBCが合法化ロビーであることは既に誰も疑わないだろうけれど、
Mailもあまりも恥知らずな情報操作だと思う。
2012.02.03 / Top↑
米国医師会誌に
Douglas B. White医師とお馴染み「無益な治療ブログ」の法学者Thaddeus M. Popeが
「無益な治療争議は裁判所へ」と主張する論文を書いたとのこと。
タイトルは”the Courts, Futility, and the Ends of Medicine”。
それに対してWesley Smithがブログで部分的に反論している。
Smithによると、
著者らは無益な治療争議でぶつかる利益を以下の3つとして整理しているらしい。
① 自らの価値観に沿った医療を受ける患者の利益。
② 終末期の患者の尊厳の尊重を巡って自分の信条にそぐわない行為を強制されない医師の利益。
③ 個々人の権利の保護と、少ない医療資源の公平な分配の保障という社会の利益。
それに対して、Smithの批判の中心は、
著者らがこれら3つに均等な重要性を持たせていること。
Smithは最重要なのは第一の患者の利益である、と言い、
②の医師の利益は、患者の利益と同じ比重で考えられるべきではない、と。
これは私も同じにできないと思うのは、
特定の医師の思想信条に合わないからやれないというだけなら、
引き受けるという別の医師に引き継げばいいことに過ぎないという気がするから、
医師の思想信条と治療の無益性判断は直接には無関係のはず。
Smithは基本的には医師の思想信条の権利を主張するスタンスだけれど、
医師に生命維持の無益性を決定させるのは患者の無益性を決めさせることになるので
無益な治療争議においては、その例外だと考える、と。
3つ目の社会の利益のうち、後者についてSmithは
医師が社会の利益を守りつつ患者に最善の医療を行うことは両立するとは限らない、と指摘。
もともと“無益な治療”論が登場した当初、カネは関係ないと言っていたではないか。
これは私も何度かこのブログでも書いたし、
Gonzales事件の頃には誰もが口をそろえてそう言っていたのに
いつのまにか既成事実が重ねられるにつれて
なし崩しにカネが言われるようになってきたことは
拙著「アシュリー事件」でも書いた。
Smithは、
むろん、カネが関係ないはずはないと誰もが思ってはいたけれど、
両者の利益が衝突する場合に医師が守るべきは患者の利益である、と。
この後でSmithが言っていることが
私がこのエントリーを書いておこうと思った動機なのだけど、とても良い。
Besides, it is “fair” that some patients receive far more expensive interventions than most of the rest of us. Yes, such patients are receiving a disproportionate share. But that is due the vicissitudes of life. Indeed, that “expensive” patient could be any one of us. Thus, I disagree that it is unjust that the very few unfortunates among us involved in futility disputes are receiving an unjust benefit.
それに、患者の中にその他の多くの患者よりもはるかにカネのかかる医療介入を受ける人がいるのは“公平”なのだ。確かに、けた外れに費用のかかる患者はいる。しかし、それは人生というのがそういうものだからであって、私だって誰だっていつ“カネのかかる”患者になるか分からない。そう考えると、無益な治療争議の対象となっている数少ない悪運に見舞われた人たちが不当な利益を享受しているから公正ではないと主張することに私は同意できない。
Futile Care Disputes Belong in Court
Secondhand Smoke, January 14, 2012
私も「限られた医療資源の平等な分配」という言葉を聞くたびに頭に浮かぶのは
自立支援法がまだ法案だった段階で御用学者さんたちが言い廻っていた、
あの妙な「不公平論」。
施設で暮らしている障害者には一人当たりこれだけのカネが使われている。
一方、在宅で暮らしている障害者は一人当たりこれだけしか使ってもらっていない。
これは不公平である。在宅で暮らしている障害者にも
施設で暮らしている障害者と同じだけのカネが使われないと損だ、
今の制度は不公平だ、と。
当時そういうことを言っていた人の一人に、
「でも、“公平”と言うのは誰もが同じ金額を使えることではなくて、
誰もが必要になった時に必要なだけのサービスを使えること。
それが“公平”ではないんでしょうか」と反論してみたことがあった。
黙ってスル―されたけれどね。
“無益な治療”論で言われる「医療資源の公平な分配」だって、
みんなが同じカネを使わせてもらえることではなく、
必要となった人なら誰もが必要に応じて使わせてもらえることのはずなのでは?
それならば、「医療資源の公平な分配」という物差しそのものが
ある一定の状態にある患者の場合にだけ持ち出されること自体が
とんでもなく不公平、不公正なことではないかと私は思うのだけれど。
【関連エントリー】
朝日新聞の“損得勘定”からアメリカの医療改革議論、“英語圏イデオロギー”を考える(2009/9/11)
Douglas B. White医師とお馴染み「無益な治療ブログ」の法学者Thaddeus M. Popeが
「無益な治療争議は裁判所へ」と主張する論文を書いたとのこと。
タイトルは”the Courts, Futility, and the Ends of Medicine”。
それに対してWesley Smithがブログで部分的に反論している。
Smithによると、
著者らは無益な治療争議でぶつかる利益を以下の3つとして整理しているらしい。
① 自らの価値観に沿った医療を受ける患者の利益。
② 終末期の患者の尊厳の尊重を巡って自分の信条にそぐわない行為を強制されない医師の利益。
③ 個々人の権利の保護と、少ない医療資源の公平な分配の保障という社会の利益。
それに対して、Smithの批判の中心は、
著者らがこれら3つに均等な重要性を持たせていること。
Smithは最重要なのは第一の患者の利益である、と言い、
②の医師の利益は、患者の利益と同じ比重で考えられるべきではない、と。
これは私も同じにできないと思うのは、
特定の医師の思想信条に合わないからやれないというだけなら、
引き受けるという別の医師に引き継げばいいことに過ぎないという気がするから、
医師の思想信条と治療の無益性判断は直接には無関係のはず。
Smithは基本的には医師の思想信条の権利を主張するスタンスだけれど、
医師に生命維持の無益性を決定させるのは患者の無益性を決めさせることになるので
無益な治療争議においては、その例外だと考える、と。
3つ目の社会の利益のうち、後者についてSmithは
医師が社会の利益を守りつつ患者に最善の医療を行うことは両立するとは限らない、と指摘。
もともと“無益な治療”論が登場した当初、カネは関係ないと言っていたではないか。
これは私も何度かこのブログでも書いたし、
Gonzales事件の頃には誰もが口をそろえてそう言っていたのに
いつのまにか既成事実が重ねられるにつれて
なし崩しにカネが言われるようになってきたことは
拙著「アシュリー事件」でも書いた。
Smithは、
むろん、カネが関係ないはずはないと誰もが思ってはいたけれど、
両者の利益が衝突する場合に医師が守るべきは患者の利益である、と。
この後でSmithが言っていることが
私がこのエントリーを書いておこうと思った動機なのだけど、とても良い。
Besides, it is “fair” that some patients receive far more expensive interventions than most of the rest of us. Yes, such patients are receiving a disproportionate share. But that is due the vicissitudes of life. Indeed, that “expensive” patient could be any one of us. Thus, I disagree that it is unjust that the very few unfortunates among us involved in futility disputes are receiving an unjust benefit.
それに、患者の中にその他の多くの患者よりもはるかにカネのかかる医療介入を受ける人がいるのは“公平”なのだ。確かに、けた外れに費用のかかる患者はいる。しかし、それは人生というのがそういうものだからであって、私だって誰だっていつ“カネのかかる”患者になるか分からない。そう考えると、無益な治療争議の対象となっている数少ない悪運に見舞われた人たちが不当な利益を享受しているから公正ではないと主張することに私は同意できない。
Futile Care Disputes Belong in Court
Secondhand Smoke, January 14, 2012
私も「限られた医療資源の平等な分配」という言葉を聞くたびに頭に浮かぶのは
自立支援法がまだ法案だった段階で御用学者さんたちが言い廻っていた、
あの妙な「不公平論」。
施設で暮らしている障害者には一人当たりこれだけのカネが使われている。
一方、在宅で暮らしている障害者は一人当たりこれだけしか使ってもらっていない。
これは不公平である。在宅で暮らしている障害者にも
施設で暮らしている障害者と同じだけのカネが使われないと損だ、
今の制度は不公平だ、と。
当時そういうことを言っていた人の一人に、
「でも、“公平”と言うのは誰もが同じ金額を使えることではなくて、
誰もが必要になった時に必要なだけのサービスを使えること。
それが“公平”ではないんでしょうか」と反論してみたことがあった。
黙ってスル―されたけれどね。
“無益な治療”論で言われる「医療資源の公平な分配」だって、
みんなが同じカネを使わせてもらえることではなく、
必要となった人なら誰もが必要に応じて使わせてもらえることのはずなのでは?
それならば、「医療資源の公平な分配」という物差しそのものが
ある一定の状態にある患者の場合にだけ持ち出されること自体が
とんでもなく不公平、不公正なことではないかと私は思うのだけれど。
【関連エントリー】
朝日新聞の“損得勘定”からアメリカの医療改革議論、“英語圏イデオロギー”を考える(2009/9/11)
2012.02.03 / Top↑
1月25日、欧州評議会議員会議(PACE)は
リビング・ウィル、事前指示書に関する決議を採択し、
その中で以下のように述べて明確に安楽死を禁じた。
Euthanasia, in the sense of intentional killing by act or omission of a dependent human being for his or her alleged benefit, must always be prohibited.
依存的な人の利益を推測し、その利益を目的として、
行為(act)によってまたは行為の差し控え(omission)によって
意図的に殺害するという意味での安楽死は、常に禁止されなければならない。
さらに、それに続く細則においても、以下のように書かれている。
in case of doubt, the decision must always be pro-life and in favour of the prolongation of life.
疑いのある場合には、決定は常に命を尊重し(プロ・ライフ)延命に沿ったものでなければならない。
EU加盟国の中には安楽死を合法とする国もあり、
今回の決議に法的拘束力はないものの、
加盟47か国の大臣は各国に持ち帰り実施に向けて働きかけるよう勧告されている。
また今後の欧州人権裁判所への影響は大きく、
間もなく開始されるドイツのKochPAS合法化訴訟が注目されるところだ。
Dignitasで自殺した女性の夫が合法化を求めて提訴したKoch裁判については以下に ↓
欧州人権裁判所に「死の自己決定権」提訴(独)(2010/11/23)
ちなみに、欧州人権裁判所はちょうど1年前に以下のような判決を出している。
双極性障害者の自殺希望に召集人権裁判所「自殺する権利より、生きる権利」(2011/1/28)
評議会の中のEPPグループのチェアも、このLife Newsの記事も、
今回の決議採択は、この判決以来の更なる「勝利」だ、と。
Victory: Council of Europe Adopts Resolution Against Ehthanasia
Life News, January 26, 2012
リビング・ウィル、事前指示書に関する決議を採択し、
その中で以下のように述べて明確に安楽死を禁じた。
Euthanasia, in the sense of intentional killing by act or omission of a dependent human being for his or her alleged benefit, must always be prohibited.
依存的な人の利益を推測し、その利益を目的として、
行為(act)によってまたは行為の差し控え(omission)によって
意図的に殺害するという意味での安楽死は、常に禁止されなければならない。
さらに、それに続く細則においても、以下のように書かれている。
in case of doubt, the decision must always be pro-life and in favour of the prolongation of life.
疑いのある場合には、決定は常に命を尊重し(プロ・ライフ)延命に沿ったものでなければならない。
EU加盟国の中には安楽死を合法とする国もあり、
今回の決議に法的拘束力はないものの、
加盟47か国の大臣は各国に持ち帰り実施に向けて働きかけるよう勧告されている。
また今後の欧州人権裁判所への影響は大きく、
間もなく開始されるドイツのKochPAS合法化訴訟が注目されるところだ。
Dignitasで自殺した女性の夫が合法化を求めて提訴したKoch裁判については以下に ↓
欧州人権裁判所に「死の自己決定権」提訴(独)(2010/11/23)
ちなみに、欧州人権裁判所はちょうど1年前に以下のような判決を出している。
双極性障害者の自殺希望に召集人権裁判所「自殺する権利より、生きる権利」(2011/1/28)
評議会の中のEPPグループのチェアも、このLife Newsの記事も、
今回の決議採択は、この判決以来の更なる「勝利」だ、と。
Victory: Council of Europe Adopts Resolution Against Ehthanasia
Life News, January 26, 2012
2012.02.03 / Top↑
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