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3.クインラン事件 NJ州最高裁(1~4の3)

1976年1月から州最高裁での審理開始。

原告側弁護士アームストロングが持ち込んだ新たな論点は「無益な医療」。

通常/通常以上の医療の区別から、論点を医療の無益性へと転換し、以下のように主張した。
(1990年代から本格的に議論される治療の無益性がここで既に持ち出されている)

個人は無益な医療行為の中止を求める権利を持つ。
それは、最近親者が後見人として適切に代行できる権利である。

無能力者にも拒否権はある。
本人の最善の利益を検討することで後見人によって適切に行使される。



(「無益な治療」概念については、後に90年代の議論で、ロバート・トゥルオグが
生命維持処置の制限に「倫理的に一貫した根拠は提示しえない」と、
またロバート・ヴィーチが「価値判断であるにもかかわらず
客観的な指標のように装われがち」と問題を指摘している)

3月31日 最高裁は7名の判事全員一致で逆転判決。

事件を終わらせるための、最初から結論ありきで理由づけした判決。

父親の家族のプライバシー権の行使ではなく、カレンのプライバシー権の後見人による代行として。
最高裁の判決文にも「カレンの姿勢は胎児様でグロテスク」。

アームストロングが敢えて避けた「通常/通常でない」の区別を持ち出し、
治癒可能な患者の場合は「通常」とみなされる治療が
回復の見込みがない患者の心肺機能を無理やり維持するような場合には「通常以上」となりうる、と。

無益性による停止ではなく、通常以上の治療の停止として認めたもの。

医師に裁量権を認めながら
判断のバランスを保障する装置として倫理委員会の利用を提案し、
責任を分散することによって、訴追の懸念を減少する狙いもうかがわれる。

そこで判決の宣言的救済は、次のように書く。

カレンの後見人と家族の協力のもと、責任ある主治医が
カレンが現在の昏睡状態から脱して認知と知性のある状態に回復する合理的可能性がいっさいなく、
現在カレンにほどこされている生命維持の機器は停止すべきだと判断した場合、
カレンが入院している病院《倫理委員会》ないし類似の組織に相談すべきである。

もしそうした助言機関が
カレンが現在の昏睡状態から脱して認知と知性ある状態に回復する合理的可能性が
いっさいないことを認める場合、現在の生命維持装置は取り外すことが許されるし、
その行為については、後見人であろうと、医師であろうと、病院や他のものであろうと、
いかなる関係者についても、刑事上、民事上の法的責任を問われるものではない。
(p.211)



ここまでが世の中によく知られたクインラン事件の「第1の物語」。
その後の「第2の物語」については次のエントリーに。


【無益な治療論に関するTrouog発言エントリー】
TrougのGonzales事件批判(2008/7/30)
「無益な心肺蘇生は常に間違いないのか?」とTruog医師(2010/3/4)
2010.07.13 / Top↑
2.クインラン事件 NJ州高裁 (1~4の2)

1975年4月NJ州のカレン・クインランさんが
交通事故で昏睡状態となり人工呼吸器を装着。
(4月末、ベトナム戦争ではサイゴン陥落)

9月、呼吸器をはずしてやりたいとする父親が
自分を後見人として認めるよう求め、訴訟。

州高裁で弁護士アームストロングは、まずは、
カレンが脳死であり、既に死んでいる以上、呼吸器を外しても殺人にはならないと
主張する戦略に出る。

この際の論争によって、脳死の医学定義が承認されたと考える学者も。

脳死はカレンの満たすことのない死の定義である。

しかし、そのことを示すために反復される詳細な議論は読む者に
原告側の主張に対するたんなる論駁以上の印象を残す。

脳死概念が、いまだそれを人の死とする法の成立していないニュージャージー州においても、
確かな法的地位を既に獲得しているという印象である。

しかし、実際には、事実は逆だというべきである。
そうして倦むことなく繰り返される議論が脳死概念の社会的需要そのものを創出するのである。
(P.66)



カレンは脳死ではなく遷延性植物状態であることは明らか。

そこでアームストロングは戦略を変更。
クインラン一家がカトリック教徒であることから
今度は教会の助言を得て「通常以上の手段」を終わらせるための代理決定を主張する。
(「通常/通常でない手段」については前のエントリーに)

本人が生前、癌の末期の叔母についての家族との話などで、
通常以上の手段で無益な延命をされたくないと語っていたことが語られ、

アームストロングはシュトランクvsシュトランク(1969)
ハートvsブラウン(1972: 7歳10カ月の双子間での腎臓移植)の判例を引いて議論。
ともに、無能力者を巡る代理決定において
利益の比較考量によって臓器提供を正当化したもの。

カレンの昏睡は不可逆的で、
自立と身体的統合性の崩壊は既に避けがたく、死は単に遅らされているに過ぎないので、
呼吸器を外しても殺人には当たらない、との主張と同時に、
本人の意思と、家族のプライバシー権の主張へと。

しかし、実際には本人の意思はカレン自身のプライバシー権であり、
成人であるカレンに対して父親のプライバシー権がそのまま通用するわけではない。

そこでアームストロングはその2つのかけ離れた権利をつなげるマジックとして、
個人のプライバシー権を確立した2つの判例(シュトランク、ハート)には敢えて触れず、
家族のプライバシー権の問題として論じる戦略に加えて、

「特にプライバシー権を擁護するはずの補足的議論は
法理論の展開というよりも、人々の感情に訴えるものへとずれ込んでいく(p.103)」

「ここでも、
かけ離れた権利が結び付けられるというねじれによって、脳死問題の場合と同じように、
むしろクインラン事件が歴史的な分水嶺としての意味を獲得していくことになる(p.104)」

「『家族の愛と信仰と勇気』、それを拠り所にしてアームストロングは、
法的、医学的な問題に対処する姿勢を明らかにした。
法と医学に家族の愛を対置すること、問題をあくまでも私的な次元に引き戻しながら
論じることが原告側の方針だった。(p.107)」

これに対して検察側は、「法による裁きの場」と言う言葉を繰り返し、

「この法廷は愛の場ではありませんし、同情の場でもありません」
「カレンは死んでいない」、生きているという事実のみが重要であり、
回復の見込みの有無も関係がない、尊厳死も自己決定も宗教の自由も、問題のごまかしであり
「これは安楽死なのです」と説き、

事件を家族の問題に矮小化することは許されない、
「われわれがここで論じているのはこの不幸な若い女性とその家族の権利だけではなく、
無数の他の人々の権利でもあるのです」(p.109)と主張する。

(このあたりの擁護論の展開とそれに対する批判は、まさにAshley療法論争でも同じ。、
 ついでに言えば、英国の家族による自殺幇助・慈悲殺合法化論の展開と批判のパターンにもそっくり)

原告側の証人として出てきたNY大学神経学教授 ジュリアス・コライン医師は
カレンの「精神年齢を示すことは可能か」と問われ、
精神年齢で捉えることの不適切を言おうとして
「無脳症のモンスター・奇形児 an encephalic monster」を例にあげた。

その事例は同医師の意図に反して、
カレンがモンスターであるとの印象と、そういう事態への不安を人々に与えた。
その後のクインラン事件が「現代医学の進歩が創り出すモンスターの恐怖」の象徴となった一因。

被告側の証言でもカレンを診察したダイヤモンド医師がカレンの状況を説明した後で
「……きつい胎児姿勢をなしていました。実際、胎児といった人間的な言葉で説明するには
あまりにもグロテスクでした」。(p.157)

(次のエントリーで出てきますが、最高裁の判決もカレンの状態について
「グロテスク」という文言を使っています)

1975年11月10日、ミューア判事は父親ジョセフ・クインランの請求を却下。

世論が既に父親への同情を集めていたこともあり批判が集中する。
専門職からは治療継続の判断を医療職にゆだねた、との批判も。
2010.07.13 / Top↑
「死ぬ権利 ―― カレン・クインラン事件と生命倫理の転回」(香川智晶 勁草書房)を読んだ。

クインラン事件は
英語の勉強に熱心だった10代の終わりから20代にかけての事件なので
「事故で植物状態になった女性の親が呼吸器を外したいと裁判ですったもんだがあった。
最後には許可が下りたけど、いざ外したら、その人は自力呼吸ができて長いこと生きた」
という程度には記憶している、私の中でも比較的大きな出来事だった。

この本は、膨大な資料から、
複雑な事実関係と議論とを丁寧にわかりやすく組み立ててあって、
ちょっとしたドキュメンタリーのように面白く読んだ。

と同時に、世の中がある一定の方向に傾れ込んでいく時に
その時代の力動によるのか、もっと作為的なものなのかは別にして
その方向への動きを大きく誘導することになる事件での議論というものが
この事件でもAshley事件でも同種の欺瞞・マヤカシを含んでいることに
新鮮な驚きも感じつつ読んだ。

前半の内容はクインラン事件の内容と展開。
後半は、クインラン事件を分水嶺として範囲を拡大していく、その後の米国の
「死ぬ権利」議論と、生命倫理の役割についての整理。

どちらもまとめるつもりだったのですが、
読み終えて、いざ取り掛かってみたら、前半だけで力尽きてしまったので、
クインラン事件についてのみ、特にAshley事件との関連で興味のあることについて
以下4つのエントリーに分けて。

1. クインラン事件に関係する出来事や情報の整理
2. NJ州高裁
3. NJ州最高裁
4. 裁判後の「第2の物語」と、Ashley事件との類似点について

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1. クインラン事件に関係する出来事や情報の整理


【クインラン事件以前の関連の出来事】

1968年 脳死基準
    統一州法委員会によるモデル法「統一遺体贈与法:Uniform Anatomical Gift Act」

1970年 カンザス州で脳死を人の死とする州法。これを皮切りに相次ぐ。

「脳死基準がつくられたとき、移植研究の専門家たちは生命倫理による後押しを必要とした。
医学の専門家が登場しつつあった生命倫理に期待したのは、「臓器の収穫」に対する恐怖感を和らげ、
人々にハーバード基準を受け入れさせることだった。……そうしたところに、1975年、
クインラン事件が登場し、生命倫理学者にアドバイザーの役割が与えられることになったのである
(P.26)」と捉える学者も。

1971年 ヘストン事件 ニュージャージー
エホバの証人の輸血拒否
「死を選ぶ憲法上の権利はない」

カトリックの見解(ピウス12世)
通常/通常以上の区別。その区別が義務/義務でないものとの判断と重なる。

1972年 遷延性植物状態 コーネル大のフレッド・プラムと英ブライアン・ジェネットが提唱。


【プライバシー権】

プライバシー権についての概要は、本書に沿って
堀田義太郎氏と立岩真也氏がこちらにまとめておられます。

医療におけるプライバシー権については
「成人に達し、健全な精神をもつすべての人間は、
自分の身体に何がなされるべきかを決定する権利がある。
したがって患者の同意なしに手術をする主治医は暴行を侵すことになり、
その損害への責任を負う」(1914年カートゾ判事。後のIC法理の出発点の1つ)

家族の自律(family autonomy)
家族のメンバーに関わる基本的な意思決定を下す家族の権利’(the right of the family)

個人のプライバシー権と家族のプライバシー権については、
「ケアの絆 - 自律神話を超えて」のエントリーでちょっと考えました。

1965年 グリズウォルドvs コネチカット事件

CT州エステル・グリズウォルドはCT州家族計画同盟(Planned Parenthood League in CT)の会長。
結婚しているカップルに避妊の情報提供をしたことが州法違反に問われて、
同盟の医学部長と共に逮捕された。
州裁判所では1審、2審ともに有罪。
連邦最高裁で「プライバシーの権利」を理由に逆転無罪。

「プライバシーの権利をたんに情報を他人から守るだけでなく、
政府の介入から自由な個人を保護する活動領域を創り出すものとして初めて論じた」
画期的判決と、倫理学者。

1973年 テキサス州 ロー vs ウェイド判決

プライバシー権を妊娠第一期の中絶に適用。
プライバシー権は結婚、出産、家族関係や子どもの育て方にまで適用されるとの解釈。


【英米の安楽死議論】

1906年オハイオ州で安楽死法案(積極的安楽死を認めるもの)を皮切りに続くが未成立。
1930年代、英国でも議論が起こり始める。
1936年、英国議会に安楽死合法化法案。否決。35対14。
1938年 米国安楽死協会設立

事件以前に「死ぬ権利」と言う言葉を多用していた生命倫理学者ジョセフ・フレッチャーは
現代医学の進歩によって人間の誕生と死の場面に登場する「モンスター」の治療停止を
「死ぬ権利」の問題として提起し、安楽死を肯定していた。

同様の論法で1980年にヘムロック協会が設立される。
創設者はデレク・ハンフリー。


Hemlock SocietyはC&Cの前身
メディアによってFENの前身としているものもあるようですが
FENがHumphryの著書Final Exitをテキスト扱いしていることでもあり、
Humphry自身もどちらにも関わっているというのが本当のところではないでしょうか)

ちなみにDerek Humphry の著書は
Final Exit : The Practicalities of Self-Deliverance and Assisted Suicide for the Dying
Derek Humphry, 2002

日本でも翻訳が出ているようです。
「安楽死の方法(ファイナル・エグジット)」徳間書店から。

Amazon.comの内容説明には
「苦痛なく死ぬ権利を求めて。
本書はまさに人間最後の「至福」のありかを探る問題作である」と。

Derek Humphryのブログはこちらの、その名もAssisted-Suicide Blog
2010.07.13 / Top↑
4月28日にMaryland大学で行われた
障害者の権利に対する医療と倫理委の無理解を考えるカンファについては4 月3日のエントリーで紹介し、

その分科会で、
アシュリー事件について、一貫して「障害者全体の問題」として批判を続けてきた
障害当事者のWilliam Peace氏が講演する内容をこちらのエントリーで紹介しました。

その講演内容に手を加えたものが、
22日付でHastings Centerのブログ Bioethics Forumに掲載されています。
タイトルが非常に印象的で、「アシュリーと私」。

Ashley and Me
William J. Peace
Bioethics Forum, June 22, 2010

Bad Cripple こと William Peace氏は2007年1月の論争当初の1月18日に
Counterpunchというネットサイトに長文の批判記事を寄せた際に、
既に「アシュリーは自分だ」という視点から書いていました。

Peace氏 に言わせれば、
障害者に対する強制不妊の歴史は、
障害者に対する人権侵害のわずかな一面に過ぎず、
米国の歴史において障害者はずっと価値の低い存在として、
その権利はずっと値引きされてきたのであり、

Ashley療法や成長抑制療法が仮に重症児を対象としたものであっても、
そこで繰り返されているのは、これまでと同じ論法であり、
障害者を健常者とは別の世界の住人として差別し、
その権利を値引きするための詭弁に過ぎない。

その意味で、
Ashleyは寸分たがわず自分自身であり、すべての障害者である、
Ashley療法は、ただシアトルの一人の重症児の問題ではなく、
すべての障害者の問題である、と主張します。

最後の部分を以下に。

What are the larger implications of the Ashley treatment? The answer to this question is clear to me: the Ashley treatment is about more than one girl in Seattle – it is about all people with disabilities. We are the Other, a pervasive and important concept in the social sciences. The Other are strangers, outcasts if you will, people who do not belong. The Other often have fewer civil rights and experience gross violation of those rights.

Thus at a fundamental level there is an us-and-them – those with a disability and those without. This is a false dichotomy, but is a part of the American social structure and dare I say medical establishment. The degree of disability is not important, nor is the type of disability. We people with a perceived disability are the other.

Given this, I do not consider myself one iota different from Ashley, in spite of the great difference in our cognitive ability. In developing the Ashley treatment, doctors have not only overreached the bounds of ethics in medicine but also sent a shot across the bow of every disabled person in American society.

The message is very clear: disabled people are not human – they are profoundly flawed beings, and extreme measures will be taken to transform their bodies. Consent is not necessary. Modern science has come to the rescue, and doctors have the technology to save us. The problem with this line of thinking is that it is inherently dehumanizing. Ashley did not need to be saved.



    ――――――

私自身、ずっとこのブログで考えてきたことが
最近、1つ、まとまりを持った言葉になってきたのですが、
それが、Peace氏が書いていることに通じていくように思うので、以下に。

Ashleyに行われたことについての
父親やDiekema、Fost医師らの正当化の基盤はアシュリーの知的障害の重さであり、
したがって、彼らの論法を正面から受け止めた場合、倫理上の問いは
「Ashleyの知的障害の重さは“Ashley療法”を正当化するか」。

私は、まずAshleyの知的障害の重さについて
同じような重症重複障害のある子どもを持つ親として、
彼らの「どうせ何も分からない」「生後3か月の赤ちゃんと同じ」という認識が
事実とは違い、彼らの中にあるステレオタイプに基づいた偏見に過ぎないことを
繰り返し指摘してきました。

したがって、上記の問いにおいて
まず、正しく認識されていない「Ashleyの知的障害の重さ」は
何ものも正当化しない、というのが1つの答えだとは思うのですが、

でも、この問いへの答えは、そこでとどまらないし、とどまってもいけないと思う。

なぜなら、問題は
Ashleyの知的障害が正しく認識されていないことにあるのではなく、
なぜ正しく認識されないか、の方にあるから。

現実の障害像が正しく認識されないことの背景にあるのが
無知とステレオタイプである、という事実がここでは問題の本質であり、
それこそが、障害者に繰り返されてきた差別の根っこそのものだから。

その意味では、
Ashleyの障害の重さが正しく理解されていないから
“Ashley療法”は正当化されないのでなく、

Ashleyの知的障害が医師らの主張するよりも軽い可能性があるから
”Ashley療法”が正当化されないのでもなく、

Ashleyの障害の重さが正しく理解されていないまま
正当化の根拠になっていることが証明しているように、

障害を根拠として別の扱いや基準を正当化する行為そのものが
障害の重さとは無関係に、無知とステレオタイプに基づいた差別であるがゆえに、
障害者に対する差別による“Ashley療法”の正当化は成立しない、のだと思う。

だから、仮に医師らの言う通りに、またはそれ以上に知的障害が重かったとしても、
障害の重さとは関わりなく、どんな重症者に対しても、
その論理の差別性ゆえに、正当化が成立しないのだと思う。

“Ashley療法”の正当化論は
「重症障害児・者は他の障害者とは別」との線引きを試みていて、
それは現在「無益な治療」論や安楽死議論、恐らく臓器提供を巡る医療倫理において
じわじわと進行しつつある線引きでもあるからこそ、

“Ashley療法”正当化論の線引きについては、
その両方のことが、きちんと両方とも言われる必要があるんじゃないか……ということを
最近ずっと考えている。



実は08年12月にPeter Singerの発言がらみのエントリーに、tu_ta9さんから
「じゃぁ、認知が出来なければ殺されても仕方ないと言えるだろうか」という
コメントをいただいた時に、

“Ashley療法”論争がすべてのスタートだった私にとっては
正面からお返事するだけの手持ちの考えというものがなくて、
その後、ずっとtu_ta9さんからもらった宿題として、その問いが意識されていました。

1年以上かかったし、まだ、これは1つのステップに過ぎないけど、
あの時の宿題がなかったら、この方向にこだわって考え続けることはできなかったかもしれません。

tu_ta9さん、ありがとうございました。
2010.06.24 / Top↑
【お詫び】

以下の内容をアップした後で、
何か引っかかりを覚えたまま、あれこれ検索してみたり、読み返したりしていたのですが、

これ、もしかしたら、”Ashley療法”をやってくれという現実の要望が出ているということではなくて、

この論文に、架空の倫理委員会として議論の場を設ける設定のコーナーみたいなものがあって、
そこに、東海岸の9歳児への架空の”Ashley療法”要望のケースが議論の対象に設定されて、
コメンタリーが求められ(request)寄せられた……ということかも?

14日の怪現象が頭にあったので、「ほら、きたぞ」と早とちりしてしまったようです。
お騒がせしました。訂正して、お詫びします。

以下、誤情報となりますが、
今後の自戒のために、しばし恥を晒しておこうか、と夕方アップした状態のままに。

            ----



Ashley事件では、何か新しい展開があると、その前後に
07年のAP通信記事がどこかのサイトにコピペされるという怪現象が起こっています。

その現象が14日にまた起きたので
これは何かあるぞ、とは思っていましたが、

まさか、こういう形で来るとは……。


以下の生命倫理センターのブログ・ポストによると、
東海岸の9歳児に ”Ashley療法”実施の要望が出ているようです。

Ashley X: Where Ethics Committee Should Not Go?
Rosemary Flanigan, PhD
PRACTICAL BIOETHICS: A BLOG OF THE CENTER FOR PRACTICAL BIOETHICS
June 18, 2010


当該論文はこちらの
Cambridge Quarterly of Healthcare Ethicsの5月号の論文
The Case: The “Ashley Treatment” Revisited (Ruchika Mishra著)。


上記リンクのジャーナル・サイトに行ってみましたが、
悔しいことにアブストラクトすら読めませんでした。

コメンタリーの中に「成長抑制は認めるが、
それ以上はいかんだろう」というものがあるようなので、

子宮や乳房の摘出も含む可能性があるのでは、と懸念されます。
2010.06.21 / Top↑