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今年5月22日の補遺でこの話題を拾った際、
私は、以下のように書きました。

米国小児科学会が女性器切除をある程度許容するガイドラインを出したことで、批判を浴びている。
当該委員会の委員長はDiekema医師。

現場の医師としては、親に言ってこられた際に断固はねつけたのでは信頼関係が作れない、
もともとそういう文化の母親たちなのだから、
断ったら、却って少女たちは海外へ連れて行かれて
不衛生な手術や、もっと侵襲度の高い手術を受けさせることになる、

最近の切除は形だけのものが多くなっている、
男児の割礼と同じく衛生上のメリットが全然ないわけでもない・・・・・・などなど。

:それで、人権意識は、どこに?




この時に拾ったCNNの記事はこちら

この記事によると、米国内での女性器切除は違法行為。
しかし、移民によって米国内に持ち込まれる女性器切除の文化は根強く、
秘密裏に行われる切除が後を絶たない。実態も把握しにくい。

米国内で22万8000人もの女性が切除されたりリスクに直面しているとの研究も。

そこで4月に規制が強化され、
娘を強制的に海外に連れ出して切除を行う親を犯罪者として取り締まることに。

そこへ登場したのが米国小児科学会の方針で、
移民コミュニティで臨床を行う医師には“文化的な要請に応えるために”
女児のクリトリス表皮をわずかに切除する(prick or nick)ことを認める内容のもの。

(以下のLantos講演では、nickされるのはクリトリスではなくラビアの一部とされています。
指針からの引用が読み上げられているので、こちらが正しいのでは、と思います)

当時ものすごい数が出ていた報道では、
怒涛のような非難の中、委員長であるDiekema医師は
「認めなければ少女たちは生まれた国に連れて行かれて、
もっとひどい目に遭うことになる」とか
「現実問題として対処すべき」と抗弁していました。

上記CNNの記事では、NYのアフリカ女性のための人権擁護団体から
「一人の人に、してもいいと認めることによって
女性器切除を止めようと行われている教育とアドボカシー活動が損なわれてしまいます」と
はるかに説得力のあるコメント。

小児科学会のサイトには「あんたら、気は確かか?」という小児科医からのコメントもあったとか。

その後、この問題がどうなったのか、フォローできずにいたのですが、

先月行われたシアトルこども病院Truman Katz生命倫理センターの
今年の生命倫理カンファにおいて(つまりDiekema本人の本拠地まっただなかで)
この方針を取り上げ、痛烈に批判しまくった人がいました。

今年1月にAJOBでAshley事件の大デタラメを指摘したJack Lantos医師

Webcastはこちら

あくまで私が聞き取れた範囲(おぼつかないのです。スミマセン)でのことになりますが、
Lanton講演によると、

米国小児科学会はこれまで女性器切除を
mutilation(野蛮な身体の切除)と捉えていたとのこと。

それが今回、突然、
ただのritual nick(形式的に、ちょん、とカットすること)に過ぎないと認識を転換し、
男児の包皮切除や、こともあろうにピアスと変わらない、とまで。

米国の医師が拒んだら生まれた国に連れて行かれ、もっとひどい事態になるのだから、
米国でritual nickを受けることは本人の最善の利益なのだ、とか
親の文化的な価値観を認めることは医師と親との信頼関係に資する、
などなどと、いかにもDiekemaの得意な詭弁を並べていたらしい。

ここで、やっぱり私の頭によぎるのは、
アフリカを中心に途上国に薬とワクチンとテクノロジーで乗り出していき
母子保健とエイズ対策で強引に介入しようとしているGates財団のこと。

Gates財団とシアトルこどもの病院の繋がり。
Ashley父とDiekema医師の繋がり。

そこのところにこそ、
米国の医師と、そうした途上国の親たちとの信頼関係を築いておきたい人たちがいる。
その人たちは男児の包皮切除を安上がりなエイズ予防手段として推進していたりする。

そんなことを、私は個人的に、勝手な連想として、考える。


ともあれ、
5月に嵐のような批判を浴びていたDiekema著・小児科学会の方針は
その後、撤回されたとのこと。

小児科学会のサイトでは、現在この方針のページは
何故か「機能していない」そうな。

Lantos医師の口調は冷静ながら、
方針からの引用部分を読みあげる声には「ふざけるな」という憤りが滲み、
ここから先、批判の舌鋒を鋭くして畳みかけていきます。

な~にが「文化的価値観」か、
文化的な相対性を超えた、uncompromising moral commitmentsというものがある。

道徳的な正当性を議論することそのものが道徳的でないと感じられるほどに
基本的、根本的で、議論の余地のない、
文化を超えてユニバーサルな、道徳的スタンダード(norm)というものがあるのだ。

夫に先立たれた妻を焼き殺すことに賛成する人はいますか?
カニバリズムに賛成の人は?
子どもを性労働者として売買することは?
クリトリス切除は?

少なくとも生命倫理の問題に興味を持とうかという人たちの中には
これらに賛成する人はいない。

小児科学会倫理委が言う“ritual nick”に反対する人は、
その行為が、ただ間違っていると考えるのではなく、
絶対に動かしがたく、根本的に、犯罪的なほど間違った行為だと確信しているのであり、

問題になっているのは行為そのものですらない。

その行為が象徴している、
女性をそのように虐げる文化的宗教的経済的なシステムを問題にしているのである。

したがって、この論争で問題になるのは
本当は女性器切除が許されるかどうかではない。

問題は、誰もが白と黒しか見ないところに、
文化的相対性を持ち込んだりして灰色を見ようとする一部の人たちがいることの方だ。

そして、灰色ゾーンが動かされていくこと。

社会的経済的政治的要因が諸々絡まり合うと、
本来なら存在しない灰色ゾーンが作られていくことこそが問題なのだ。

……という具合に、Lantos医師はコトの本質を鋭く突いています。

その言わんとするところは、
当ブログでもずっと考えてきた「尊厳」の問題とも繋がって、

当ブログが「尊厳」についてこだわるきっかけになったのが
去年のDiekema医師のAshleyケース正当化論文での
「尊厳は定義なしに使っても無益な概念」発言だったことは
いかにも象徴的に思われます。(このあたりの詳細は文末のリンクに)

Lantos講演の内容は
AshleyケースについてNaomi Tanが書いていた
「医師の道徳的な義務とは自身に対して負うもの」
人類のヒューマニティを損なわないために、自分のヒューマニティも損なってはならず、
だからやってはならないのだ、という主張にも通じていくような気がします。
(このあたりの詳細も、文末のリンクに)

なお、女性器切除に関する小児科学会の方針は
意図的に動かされ、作られる「灰色ゾーン」の1例として挙げられたもので、

Lantos講演の本来の趣旨は、
直前に講演したFostらが推し進めていこうとしている
QOLやコスト効率による功利主義的差別・切り捨て医療への批判と思われます。

それをいうなら、同じくDiekemaの手による
小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」に関するガイドライン
同じくらい酷い代物でしたが……。


こちらの、より大きな問題については、
もう1つ、Lantos医師、Fost医師が並んだシンポのWebcastを見てから
また改めてエントリーを立てたいと考えています。



【関連エントリー】

「尊厳は定義なしに使っても無益な概念」を、ぐるぐる考えてみる(2009/6/29)
大統領生命倫理評議会の「人間の尊厳と生命倫理」と「おくりびと」(2009/6/30)
MN州の公式謝罪から「尊厳は無益な概念」を、また考えてみる(2010/6/17)

「いのちの選択」から「どうせ」を考える(2010/5/21): Tan論文再考
「科学とテクノ」と「法」と「倫理」そして「問題の偽装」(2010/5/24)
2010.08.04 / Top↑
前の二つのエントリーで「プライバシー権」を考えてみるきっかけになった
マサチューセッツ州の「学校で無料コンドーム配布」事件について
いくつか記事を読んでみました。


6月8日、マサチューセッツ州Cape Cod市の
Provincetown学校委員会が全会一致で通した方針は、
来年度から、小学校から高等学校までの生徒が、学校のスクールナースから
無料のコンドームをもらうことができるようにする、というもの。

親からは学齢期前の子どもがコンドームを入手できるのでは、との懸念や、
自分の子どもにはやりたくない、どうしても必要なら親が、との声も上がるが、

新たな方針では
コンドームをもらったことを親に通知する必要もなく、
また親が反対した子どもに渡すことを禁じることもしていない。

スクールナースと話をし、
安全なセックスについてのアドバイスを受けられるので、
子どもと大人の間でセックスに関するコミュニケーションが図りやすくなる、と
ガイドラインを執筆した学校委員会の責任者。

Provincetown to make condoms available at all schools
The Boston Globe, June 23, 2010/07/27

Provincetown Policy Outlines Condoms For Schoolchildren
WBUR、June 24, 2010


このニュースを受けて、Boston Globe紙が取材したところ、
Massachusetts州の24以上の学校区で、何年も前から
子どもたちにコンドームを与えていた。

論議を呼んでいるProvincetownのガイドラインでは
子どもたちは少なくともスクールナースと話をし、
安全なセックスについてアドバイスを受けた上でもらうことになっているが、
それよりもはるかにおおらかな学校区もあり、

Lexington 高校では
ガイダンス室や保健室に置いてある籠の中から
生徒が自由に持って行ってもいいことになっている。

Cambridge Rindge & Latin校がMA州で初めて
学校付属の医療センターでコンドームを配布し始めたのは1990年。

その1年後に、Falmouth学校区が
MA州で初めてトイレにコンドームの販売機を設置し、大きな論争となった。

学校区の責任者は
当時、教会のミサで地元の神父から叱責されたという。

複数の保護者が学校区を相手取って訴訟を起こしたが、
州の最高裁は1995年に学校区の方針を支持し、論争も収まった。

Falmouth学校区の学校では
販売機のコンドームが75セントで売られている一方で、
保健室の籠からは無料でとることができる。

去年1年間に学校で配られた無料コンドームは900個。

今回のProvincetownの新たな方針がメディアの関心を呼び、
不同意の姿勢を明らかにした知事が介入。

学校区は5年生以上に年齢制限を設ける方向でガイドラインを修正する模様。

他にHolyoke学校区でも、
6年生以上ならProvincetownと同じガイドラインでコンドームをもらえるが
Provincetownと違って、親によるオプトアウトが可能。

2004年にプログラムを開始した同学校区のスーパーインテンデントは
子どもたちの性病の発生率が低下したことをあげ、
最初は論議を呼んだが、今ではみんなが満足している、と。

95年の裁判所の判断では、
生徒がコンドームを希望したことについて秘密にする権利を学校に認め、
子どもがコンドームを受け取ることを親が拒むことを禁じた。

「コンドームの販売機が子どもの目に触れたり、
学校で配布するプログラムそのものも、
原告側の道徳や宗教感情にはそぐわないかもしれないが、
学校にそうしたプログラムがあるということだけで
憲法上の親の自由が侵害されたことにはならない」

Condoms old news in many schools
The Boston Globe, June 28, 2010


前に、未成年者の中絶を、親に知らせる義務が医療職にあるかどうかという議論を、
ちょっとだけ読んだ記憶があるのですが、
基本的にはそれと通じていく問題。

確かに、この問題は前の2つのエントリーでまとめた
Griswold事件や、米国のプライバシー権に直結しているようで、

いずれも問題は
「子どものプライバシー権」 vs. 「親のプライバシー権」という構図。

95年のMA州最高裁の判断では
子どものプライバシー権が親のプライバシー権を上回ると解釈されたものと思われ、

親の「道徳や宗教感情」に言及しつつ原告の訴えを却下していることは
道徳は社会の選好に過ぎないので、法に道徳を持ち込むことは間違いで、
それに代わって、法で禁じることの利益と害の比較考量で判断すべき、という
前のエントリーで読んだ論文で著者の坂本氏が説く、功利主義的な立場に
合致しているようにも思います。

が、科学とテクノロジーの進歩や、過酷な弱肉強食型グローバル経済を背景に
子どもに対する親のコントロールがどんどん強力になって行く現在、
70年代に整理された坂本氏の功利主義的解釈が
そのまま当てはまめられるとも思えず、

また、そもそも今回こういうニュースが報じられて論争となり
知事の介入まで招いていることを考えると、

95年のMA州最高裁の子どものプライバシー寄りの判決が
このまま不変だとも思えず……。

もしかして、米国のプライバシー権は、今後、
親が自分の好きなように子育てをし、家庭を営む権利としてのプライバシー権だけを
強化していくのではないでしょうか。

もしも子どもの個人としてのプライバシー権を本当に尊重するなら、
出生前遺伝子診断とか、デザイナーベビーとか、
自分の子どもの遺伝子を親が検査させて情報を知ることとか、
難しい問題が、芋づる式にぞろぞろと出てくることになり

親の決定権にとっても、科学とテクノロジーにとっても
非常に不利なことになりそうです。

(リベラルな親の決定権と、キリスト教原理主義者の親の決定権では、
個々の判断内容はまるで逆向きの話になりそうでありながら、それでいて、
「親の愛」を根拠に親の決定権を強化していく方向という1点において
両者は合い通じていきそうに思われるあたりが、また、なにやら恐ろしい)

親のプライバシー権と子どものプライバシー権の間には相克がある。

それを、ただ「親の愛情」や「子どもの最善の利益」などで曖昧にごまかして
結局は親のプライバシー権だけを強化していくのではなく、

そこに相克があることをきっちりと認識し、
未成年であっても、また障害のある子どもであっても、
「親のプライバシー権」の横暴で踏みにじられないだけの
個人としての「子どもの側のプライバシー権」が、しっかり守られるべく、
規制事実が積み重ねられてしまう前に、議論とセーフガードが必要なのだと、

改めてAshley事件を振り返りつつ、考える。
2010.07.28 / Top↑
(前のエントリーの続きです)

④ もう1つ、非常に興味深いのがソドミー禁止法。

米国の多くの州は
獣姦、ソドミー、オーラルセックス、同性愛を犯罪とする州法を定めている。

その後、オーラルセックスはコモン・ローで合法とされたが
いくつかの州では肛門性交以外にも禁止対象とする広範なソドミー法が存在する。

公衆トイレにおける同性愛者のソドミー行為を巡る裁判や
妻が夫をソドミーで訴えた訴訟などが続いて、その違憲性が問われ、

テキサス州のBuchanan判決によって、
婚姻関係を問わず、①成人間の ②合意に基づく ③私的な ④性的行為 であれば
憲法上保護されると、グリズウォルド判決のプライバシー権が拡大された。

(判決がいつだったのか論文からは分からず、検索してもすぐには出てこないのですが、
2003年段階でのソドミー法について触れた日本語記事があったので、こちらに。
実効はともかく現在もあるし、現在の同性婚を巡る議論に繋がっているわけですね)


⑤ Roe v. Wade

子どもを産むか産まないかを選択する権利を
修正9条によって保障されたプライバシー権として認めた、1973年の有名な判決

憲法に明文として規定されていないとしても
その根拠が修正14条の「自由」にあるか、修正9条にあるかを問わず、
プライバシー権が憲法上の権利であり、基本的な権利であること、

そこに婚姻、出産、避妊、家族関係、育児、教育などが含まれることを確認した。

州が介入するには、
妊婦の健康保護、潜在的生命の保護という
「やむを得ざる州の関心事」によってのみ許される。


⑥ 断種 (sterilization)

目的で分類して、著者は以下の4種類を挙げる。

1. 犯罪処罰としての断種
2. 治療としての断種
3. 優生学的見地からの断種
4. 避妊の徹底したものとしての断種

特に3、と4についてみていくと、

3の優生施策としては、

1907年のインディアナ州の断種法が米国で最初。
執行されることはまれだったが、

その後、有名なBuck v. Bell判決で
ヴァージニア州の断種法を巡り連邦最高裁が
「痴愚は3代続けば十分」と、合憲と判断。

この論文が書かれた1974年現在、
半数以上の州が優生学的見地に立つ断種法を持っているが
(Spitzibara注記:北欧でも70年代半ばまで強制不妊手術が行われていた)
医学的実効性や誤診、人権上の懸念から執行に躊躇する州が多く、

筆者は、強制的優生手術が
身体の不可侵性もしくは幸福追求権としてのプライバシー権を侵害する可能性、
出産の権利を強制的に奪う可能性を指摘しており、
日本の優生保護法3条についても同様とする。

最も問題になるのは4の「避妊の徹底したものとしての断種」または「便宜的断種」。

コモン・ローでは、自己の身体を傷つける行為には
何人も有効な同意を与えることはできないとされてきたが、
70年代ですら美容整形を持ち出して著者は、その主張の根拠を疑っている。

(もっとも論文の基本的なスタンスは、
功利主義の考え方で道徳と法規制との間に一線を画する
米国のプライバシー権の考え方を紹介し、必ずしも同じとはいかずとも
日本でも検討すべきだと暗に提言するもの)

断種は、避妊と中絶の中間的なところにあって、
やはりプライバシー権に含まれるのではないかと暫定的に提案しながら
著者が最後までこだわっているのは「不可逆性」と「他人への危害の蓋然性」。

一律に州法で禁じるのはプライバシー権の侵害であるとし、
便宜的断種については個別に判定するほかないだろう、と結論している。

          ------

Ashleyの子宮摘出は、著者の分類のいずれにも当てはまらない。
強いて言えば、最後の「便宜的断種」に最も近いだろうと思うので、
ここの議論が私にとっては最も興味深いところ。

ただ、論文そのものが70年代に書かれたものであることを考えると、
Quelette論文が指摘したように、“Ashley療法”でもって、
新たな分類としての強制不妊が登場したと考えるべきなのでしょう。

それはまた、
この論文が書かれた頃には想像もつかなかった科学とテクノロジーの進歩を経て
米国のプライバシー権が、さらに大きく、危ういほど
拡大しようとしていることを示唆してもいる――。

やはりAshley事件は、何重にも象徴的な事件です。
2010.07.28 / Top↑
香川智晶氏の「死ぬ権利 ――カレン・クインラン事件と生命倫理の転回」について
7月12日に以下の4つのエントリーでまとめました。

Quinlan事件からAshley事件を考える 1
Quinlan事件からAshley事件を考える 2
Quinlan事件からAshley事件を考える 3
Quinlan事件からAshley事件を考える 4

この1の中の「プライバシー権」に関する部分で
大きな判決としてグリズウォルド事件(1965年)が言及されていました。

コネチカット州の家族計画同盟の会長と医師が
結婚しているカップルに避妊の情報提供をしたことが州法違反に問われて
州裁判所では1審、2審ともに有罪とされたものが
連邦裁判所で「プライバシーの権利」を理由に逆転無罪となった、という事件。

情報を他人から守るだけでなく、
個人の自由な選択に政府の介入を認めない権利として
プライバシー権を正式に確立した画期的な判決とされるもの。

避妊情報が、それほど大それた問題だということがピンとこなくて、
私にはこの事件についての記述がイマイチ、しっくり理解できなかったのですが、

たまたま、その直前に、
コンドームを渡していた学校が問題になっているニュースが目についており、

避妊情報が犯罪になるというのも
学校で生徒にコンドームを渡すのも、どちらも私には理解できず、

しかし、それが米国のプライバシー権や、
Gates財団と繋がりの深いPlanned Prenthood Leagueと関係しているとなると
Griswold事件をこのまま理解不能のまま放っておくわけにもいかない気分に。

そこで、ある方に伺ってみたところ、
さっそく英文と日本語の資料を送っていただきました。

まず、読んでみたのは日本語資料の方。

道徳とプライバシー(1) と (2)
坂本昌成
政経(古い字体)論叢 第23巻 第5,6号、1974年1月
廣島大学政経学会(古い字体)

なるほど、グリズウォルド事件は、
米国社会についての背景知識がなければ理解できない事件だということが、
よく分かりました。

今回の論文で分かったGriswold事件とその背景と、
それがソドミー法、中絶法や断種法といかに繋がっていくか
米国のプライバシー権が拡大されていく過程について、
以下2つのエントリーで。


① 米国の社会背景

カトリックの影響が強い19世紀米国社会の道徳観では
もともと避妊そのものに対するタブーが根強く、
妊娠によって傾向が害される恐れのある既婚女性のみを対象とするものだった。

20世紀半ばになって、やっと
避妊による母親・家族の肉体的、社会的、文化的な効用が認知されるようになり、
何らかの方法で避妊している既婚者は1910年の15%から
1935-1939年では66%に増加している。

コネチカット州では1879年に制定された避妊禁止規定が存続し
避妊に関する情報を与えたものには罰則が規定されていた。
(実際に執行されたことはない)


② Poe事件

1969年に、血液型不適合のため過去3回奇形児が生まれ、
いずれも、すぐに亡くしたPoe夫妻と、担当医Buxtonが
同規定は憲法違反であるとの訴えを連邦最高裁判所に対して起こした。

結果的に原告の訴えは却下されたが、この時の少数意見として、

当該州法は、適正手段によらず、
憲法修正14条の「自由」を夫婦から奪っていること

この自由の中にプライバシーが含まれ、
避妊器具当の使用を禁じることは家庭の最も深い聖域に官憲が侵入する危険性があること

の2つの理由によってコネチカットの当該州法を違憲とする説が出ている。


③ Griswold事件

CT州家族計画同盟(Planned Parenthood League)の理事であったEstelle Griswold医師と
C.L. Buxtonとが既婚者に避妊に関する医学上のアドバイスを与えたとして逮捕され
州裁判所で有罪となった。

Buxtonは上記Poe事件の原告の一人。

連邦最高裁で判決文を書いたのは
Poe判決で少数意見として違憲説を唱えたDouglas判事。

コネチカット州避妊禁止法は、
憲法修正1,3,5,9条によって形成される「プライバシーのゾーン」を侵す、と判断。

ゾーンとしてプライバシーを捉えるDouglasの見解は
一般に「半影論(penumbra theory)」と呼ばれ、

つまり、これらの修正条項のいずれかに明確に規定されているというのではなく、
それら条項が放射状に一定範囲をカバーしていると捉える場合に、
その中で規定されているもの、という考え方。

憲法上に明確に規定されてはいないが、
憲法の全体によって、なんとなく、そういう権利が認められている、という
かなり、いい加減な考え方でもあり、

したがって、例えば夫婦だけなのか、未成年は、など、
その内容、範囲、侵害基準などは明確ではないまま残された。

その後の判例によって、順次確認されていくことになる。


(次のエントリーに続きます)
2010.07.28 / Top↑
4.クインラン事件 「第2の物語」 (1~4の4)

NJ州最高裁の判決後、しかし病院は呼吸器の取り外しを拒否。
徐々に慣らして「乳離れ」を行い、カレンは完全な自発呼吸を開始する。

すると病院は態度を一変して退院を迫り、
カレンは6月にナーシングホームに移る。

その後1985年6月13日肺炎で息を引き取るまでの約10年間、
家族や施設の「通常以上の看護と援助ケア」が続き、
カレンは遷延性植物状態のまま生きる。」

マーク・シーグラーは
第1の物語を「見知らぬ者の医療」を
第2の物語を「親しい仲間の医療」を象徴する、と。

(この医療の分類には、いろいろ考えさせられます。
例えば、「治す医療」と「支える医療」とか、医療と生活との関係とか……)

両親は1980年に「カレン・アン・クインラン希望センター」を設立し、
NJ州に2か所のホスピスを開設。

カレンの父親ジョセフは「……強調すべきはケアであって、治癒ではありません。
愛情ある援助が機械的援助よりも重要なのです」と。


       ―――――――

アームストロングの戦略や、事件への世論の反応が
そのままAshley事件の正当化論、擁護論に重なっていくことに、
次々に驚かされながら本書を読んだ。

最も大きく印象に残ったのは、
高裁で検察の一人が指摘した事実で、

カレンの父親がカレンから呼吸器をはずしてやりたかったら、
最も迅速・確実にそれが出来る方法は訴訟を起こすことではなく、
呼吸器をはずしてくれる病院を探して転院することだった、と。

Ashley事件ではシアトルこども病院のWilfond医師が
もともと胃ろうの重症児の体重管理なら家庭でのカロリー調整で可能なのだが、
この事件では家族が医療職の関与を求めたことが特徴だと述べている。

どちらも、1つの家庭の中での問題解決だけを求めるならば
わざわざラディカルな行動を起こして世論に訴えることをせずとも
どちらのケースにも家庭内で解決の選択肢はあった、という事実――。

A事件でも
子どもの医療については親のプライバシー権の範囲内だとの擁護論は多かったけれど、
上記事実を考えると、コトの本質はやはり親のプライバシー権ではないと思われ、

(spitzibara仮説では、シアトルこども病院は2004年に、
Ashleyにおいてのみ、特例的に親のプライバシー権を認め、
それが一般化されることがないように水面下にとどめる判断をしたのだと考えます)

むしろプライバシー権を議論の表看板に据えつつ
実はプライバシー権を超えた問題提起をすることに
クインラン事件での訴訟の意味も
敢えてラディカルな成長抑制を実施・公開したAshley父の行動の意味も、あったのでは?

それは高裁で検察側が指摘しているように
コトがクインランという1つの家族を巡る権利の問題ではなく、多くの人の権利の問題であり、
Ashleyという一人の重症児の権利の問題ではなく、
すべての重症児・障害者の権利の問題である、ということなのだけれど、

しかし、それだからこそ、その事実を見えなくするために、またその結果として、
どちらの事件でも次の6つのことが行われていると思う。

① クインラン事件のアームストロング弁護士もA事件のDiekema医師も
問題を「家族の愛と信仰と勇気」の問題に矮小化し、感情に訴えて世論を誘導した。

② 延性植物状態のカレンには脳死状態だと事実に反する主張がなされ、
 重症障害児のAshleyには遷延性植物状態と誤解させる表現が多用されたり、
重症児は何も分からない赤ん坊と同じだというイメージ操作が行われた。
 
③どちらの事件でも、重症障害がある外見が「グロテスク」だと繰り返し語られて、
言外に「われわれと同じ人間ではない」と印象付けられていく。
つまり、そこに線引き・切り離しが行われていく。

ちなみに、前のエントリーに出てきている「無脳症のモンスター」の意味を当時は知らなかったので
エントリーの文中では使っていませんが、07年のシアトルこども病院生命倫理カンファで、
重症新生児の救命を「無益な治療」概念で否定する際に、
Norman Fostが「無脳症のモンスター」という言葉を使い、無脳症児を例にあげました。

カレンが「医学の進歩が死期に創出する終末期のモンスター」だったのだとすれば、
Ashleyは「医学の進歩が出生時の救命で創出する重症障害のモンスター」として描かれて、

クインラン事件が植物状態の人からの呼吸器の取り外しの容認への分水嶺となったのだとしたら
Ashley事件は障害新生児の救命差し控えや停止、それ以前の遺伝子診断などの新・優生思想と、
それでも自己選択で生み育てることを選択するなら介護を親の自己責任とする福祉切り捨てへの
分水嶺とまでは言わなくとも、一里塚くらいにはなっていくのかもしれない。

④クインラン事件で
通常の医療か通常でないかの判断は患者の認知レベルによって分かれるが
治療の拒否権があることに患者の認知レベルは影響しないというダブルスタンダードが
最善の利益論による代理決定を正当化しているのは、

権利・尊厳の侵害や背が高いことの利益を、Ashleyの認知レベルの低さを理由に否定しつつ
QOLの高さや親にケアされることが幸せだと主張する点では認知レベルの低さを問題にしないという
ダブルスタンダードを用いた「害とリスク」と「利益」による最善の利益で
Ashleyケースの医療介入が正当化されていることと並行する。

⑤このシリーズの2つ目のエントリーで引用した部分(以下に再掲)に書かれているように、

脳死はカレンの満たすことのない死の定義である。しかし、そのことを示すために反復される詳細な議論は、読む者に原告側の主張に対するたんなる論駁以上の印象を残す。脳死概念が、いまだそれを人の死とする法の成立していないニュージャージー州においても、確かな法的地位を既に獲得しているという印象である。しかし、実際には、事実は逆だというべきである。そうして倦むことなく繰り返される議論が脳死概念の社会的需要そのものを創出するのである。
(P.66)



クインラン事件で論争が起こり、続けられること、そのものによって、
未だに法制化されていない脳死概念が法的地位を既に獲得しているような印象を与え、
世論が脳死概念の法制化への受容の土壌を創り出したように、

Ashley事件でも、論争が続いていることによって、
“Ashley療法”・成長抑制療法は未だに倫理的に正当化されていないにも関わらず、
特に医療職と重症児の親を中心に社会の人々がその考えに馴染み、抵抗を薄れさせていく。

英国のKatie事件がAshley事件ほどの衝撃を持って受け止められなかったように、
オーストラリアのAngela事件に至っては、もはや誰も大した興味を持たないように、
重症児の“QOL向上のための”身体の侵襲は徐々に受け入れられ、
正当な根拠なしに、医療の中に位置づけられようとしている。

2007年の論争当時に、米国のメディアが本来の機能を果たしていれば、
論争のテーマは「“Ashley療法”の倫理的妥当性」ではなく
「シアトルこども病院の倫理委員会がしかるべく機能したかどうか」になったはずで、

そうすれば、クインラン事件の州最高裁が出した
医療職に権限を委譲し、セーフガードとして倫理委員会を利用する、という提案の、
その倫理委員会に政治的ぜい弱性があることを
Ashley事件こそが、あぶり出すことが出来たはずだったのだけれど。

⑥「かけ離れた権利が結び付けられるというねじれによって」
「歴史的な分水嶺としての意味を獲得していく」。

癌の叔母に関しての発言を根拠とするカレン自身の医療を拒否するプライバシー権と
実は成人したカレンには及ばないはずの家族のプライバシー権とが、
無理やりに家族の愛情神話で情緒的にごまかされて結び付けられてしまい、
世論の同情と涙のうちに、いつのまにか司法にすら政治的配慮が働いて
OKにされていくマジックは、

子どもの医療を巡る親のプライバシー権については、
特に知的障害者に対する侵襲度の高い医療は例外とされており、
身体の統合性に対するAshley本人の権利が守られるための
然るべき意思決定プロセスには一定のスタンダードが設けられてきているにもかかわらず、
親の愛情と、赤ちゃんと同じ重症児が愛情深い親の腕に抱かれケアされるイメージによって
メディアにも操作が行われ、いつのまにか世論が誘導され、
Angela事件では豪の司法までが操作されたかとすら思われるマジックとそっくり。

でも、①から⑤によって世論が情緒的に盛り上げられているので、
そのマジックが見破られにくくなっていることもまた、共通項。

A事件では操作が米国内にとどまらず、グローバルに及んでいることは
時代の違いを象徴していると言えるでしょうか。
2010.07.13 / Top↑