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成熟した女性の体に乳児レベルの精神が宿っている状態はグロテスクだと、最初に「グロテスク」という表現を使ったのは、去年の秋に論文が発表された直後のDvorskyのブログでした。彼と非常に近しい立場にあるHughes医師がこの表現を繰り返すのは不思議ではないでしょう。恐らく彼らが信奉するトランスヒューマニズムの思想の中に、そのような美醜感覚が共有されているものと思われます。Hughes発言の「グロテスク」には、そのように感じる自分たちの美醜の感覚を広く世の中の人も共有しているはずだとの思い込みすら感じられるのが気になります。

私がいわゆる“アシュリー療法”論争をフォローしている中で非常に不気味に感じたことの1つは、彼らがこのような自分たちの美醜感覚をごく当たり前のことのように、繰り返し表現することによって、そんなことなど今まで頭に浮かべてみたこともなければ、障害のある人の実際について詳しくもない人たちの間に、それがさして抵抗なく受け入れられ、浸透していくように思えたことです。そして、その上に立ってアシュリーに行われたことの是非が議論されるうちに、「グロテスク」という主観的な美醜感覚に過ぎないものが、いつのまにか「肉体と精神のアンバランスは望ましくない」、「精神レベルが低い人には小さな体がふさわしい」という1つの価値判断に摩り替わっていくのです。これは非常に怖いことではないでしょうか。

これは知的レベルの捉え方にも当てはまります。
 
両親、担当医ら、擁護に登場した人たちは、アシュリーの知的レベルの低さについて頻繁に言及します。あたかも、それが、いかなる指摘・問題においてもアシュリーを「例外」とする免罪符であるかのように「知的レベルの低さ」を頻繁に振りかざすのです。彼らは実は論理的に妥当性を説明できない局面で、論点を摩り替えたり誤魔化すためにやっているらしいのですが、それが繰り返されるにつれて、実際の論争においてもアシュリーはとても簡単に例外化されていくように思われました。どんな批判にも「だって、どうせ生後3ヶ月のレベルなんだよ」と言えば、「そりゃ、そうだよね」と受け止めるような雰囲気が、実際にかもし出されていったのです。

たとえば、1月12日の「ラリー・キング・ライブ」でも、障害当事者からの批判に対して、Diekema医師はことごとく「だってアシュリーは生涯赤ちゃんのままなんですよ。そういう中身には小さな体のほうがふさわしい。自分で考え自分の口で主張できるあなた方のような障害者とは違うのだから」とのスタンスで応じます。そして番組の終盤には、批判している障害当事者とキングとの間に以下のようなやりとりが出現するのです。

Joni Tada:問題は、このケースが障害者に対する優生思想への土台を作りつつある、その土台なんです。

King:でもアシュリーは生涯ずっと、メンタル的には生後6ヶ月なんですよ。

Joni Tada:だからといって、彼女がそれだけ少なく……(別の参加者の発言にさえぎられる)

優生思想への危惧に対して、即座にアシュリーの知的レベルの低さを持ち出したKingは、自分のその発想自体が既に優生的であることに思い至っていません。

「だって、どうせ赤ん坊なみの人間なわけだから」というAの言葉に、「そうか。そりゃ、そうだよね」と受けたBが、そのままCに向かって「だって、ほら、やっぱり所詮は赤ん坊並なんだよ」とリレーしていく図。そのどこにも、知的レベルによって障害者を階層化し、重度者を例外化する論理的な正当性は見当たらないというのに。

“アシュリー療法”論争では、こうした図式がメディアでもネット上でも繰り返されました。

これは、たいへん恐ろしいことなのではないでしょうか?
2007.08.04 / Top↑