Joel Fraderは1996年に“Ethics and the Care of Critically Ill Infants and Children”と題するアメリカ小児科学会の方針を出した生命倫理委員会COBの委員長でした。
その方針の概要を以下に。
かつてなら死んでいた病児の生命維持が可能となり、医師や親に深刻な道徳問題を突きつけている。重い障害を持った新生児・乳児への延命治療については社会の意見が分かれており、アメリカ小児科学会としては年齢を問わず全ての子どもの延命治療に関しては個別決定を支持する。これらの意思決定は、親の決定権を凌ぐ子ども保護サービス制度の介入を必要とする十分な理由がない限り、医師と親とが共同して行うべきものである。インテンシブ・ケア資源の分配については、どのような子どもを対象とするかをベッドサイドで決めるのではなく、公式基準が明確にされるべきである。
アシュリーに行われたことは延命治療ではありませんが、子ども保護の理念という点で、ここで親の決定権が万能ではないとの但し書きがあることは重要ではないでしょうか。アシュリーの担当医らは一貫して「子どもの医療については親に決定権がある」と主張していますが、まさかアメリカ小児科学会が親の決定権に例外があるとしていることを知らないのでしょうか。少なくとも5月8日の記者会見で病院が言い訳していたように、小児科医らが「弁護士が裁判所に相談しなくてもいいといったから信じた」というのは、このような学会方針がある以上、無理があるもののように思われます。
また、この方針策定に関与したはずのFrader医師自身もScienticif American.comのメール討論において、成長抑制は「思いやりのある親の決定権の範囲」だと述べているのですが……?
-------------------------------------------------
ところで1月にシカゴのアメリカ医師会本部前で抗議行動を行った障害者問題やフェミニズムのアクティビストらは医師会に対してシアトル子ども病院の担当医らを糾弾するよう求めました。それに対してアメリカ医師会は以下のような内容の声明を出しています(ワシントンポスト 1月11日)。アメリカ医師会(AMA)には“アシュリー療法”と称される医療処置に関する方針はない。AMAの倫理綱領によると、自分で判断する能力のない患者の医療決定は「最善の利益原則」に基づいて行われることになっている。
この「最善の利益」という用語について、Frader医師は去年発表した論文の中で「芸術やポルノみたいなもの」だと、その概念の空疎さに警告を発しています。それについては次回に。
(Frader医師、ちょっとオドオドはしていますが鋭く面白い人ではあります。背景のややこしい事情に縛られずに彼が存分にアシュリーのケースを批判したら何を言っていたのか、聞いてみたかった。残念……。)
2007.08.20 / Top↑
Scientific American.comのメール討論(1月5日)で、Frader医師はトップを切ってだいたい以下のような内容のメールを書きます。
両親の決定を支持するとの医師らの判断について論文はreasonablyにディフェンドしている。障害児の介護を考えれば、背が大きくなることは当該児にとっても同様の子供にとっても利益にならないことは明白。ただし子宮摘出はその侵襲性から正当化できにくい。家族も医師もレイプの可能性を云々しているが、その不安を裏付けるエビデンスは存在しない。基本的には社会福祉の貧困という問題だとの指摘は正しい。ただ、現実にサービスが無いのだから、このシアトルの患者の成長抑制はリーズナブルであり、思いやりある(!)両親の決定権の範囲だろう。
(Fost医師と同じくFrader医師も、あのお粗末な論文を説得力があると言っていることに注目してください。またFrader医師が両親をcaring だと形容し、Fost医師も担当医らをcaring だと形容していることにも。)
その後、他の2人のメールの後、
論文で医師らが挙げている「生理の問題」以外の2つの理由「副作用の軽減」と「将来の病気予防」とは理解できるにしても、病気予防のための臓器摘出はどこまで許されるものなのか。(成長抑制に使われた)エストロゲンにも発がん性がある。
一番面白いのはこの後。わずか4分後、誰からも反論が来ないうちに彼は慌てて追加メールを送るのです。
一応、確認までに。Fost先生に私は同意なのであり、Fost先生にも他の皆さんにもそのことはご理解いただきたく。私はGunther先生、Diekema先生と共に家族が下した決断を支持しているのです。ただ、それでもなお、重症障害者の介護支援の不十分という問題は別個に考える必要があると考えるものです。
大筋で同意です。しかし、生理が始まるまで待って、実際にどの程度の問題が起こるか様子を見てからでもよかったのでは。この問題を私が取り上げるのはアシュリーのケースで取り立てて懸念があるという意味ではなく、読者に対して、他のケースで軽率に行われることがないよう警告するためです。
Frader医師は既に多くの人から出ている指摘の他にも、「レイプ不安を裏付けるエビデンスはない」、「生理が始まるまで待ってみてもよかった」と独自の鋭い指摘も行っているのです。それなのに、何故こんなにオドオドしているのでしょう。
アシュリーのケースについては、つまりシアトル子ども病院の医師らについては自分はあくまで賛成・支持・容認派なのであり、批判派に回ったと誤解されては困る……そのことだけは(誰に、なのでしょう?)アピールしておかなければならない……そんな意識がありありと感じられます。
【追記:そんなに誰かが怖いのなら黙ってすっこんでいればいいのに、それでもこうして批判すべき点だけはちゃんと述べていることを考えれば、案外に小心なのではなく実は勇気ある人なのかも?】
“アシュリー療法”論争で様々なブログで医師らの発言が引用されるのを読むたびに私が気になったことの1つは、医師らの発言内容への無条件の信頼。「医者だから科学的な真実だけを語っているはず」、「専門家の判断は科学的真実」との思い込みでした。しかし医師らの世界にも政治的な事情というものはあり、カラスが黒いと分かっていても複雑な権力の相関図の中を泳ぐためには、「多少黒っぽいかな、と自分としては思うけれど、でも白だというナニナニ先生のご発言には鋭い洞察が含まれて、さすがだと感服」くらいのことは言わなければならない場面だってあるでしょう。人間の社会である以上。
医師の世界も社会経済的政治的コンテクストの中で動いていることを前提に登場する人物の発言を読むか読まないかで、“アシュリー療法”論争は全く違った様相を見せるのではないかと私は考えるのですが。
ちなみにFrader医師は2006年7月14日にワシントン大学医学部において、ワクチン接種を拒む親への対応について講演しています。
【追記:その後、この講演は2005年からシアトル子ども病院トルーマン・カッツ小児生命倫理センターが毎年夏に開催している小児生命倫理カンファレンスでの講演だと分かりました。2006年のカンファレンスはワクチン接種がテーマでした。これまで3回開かれているカンファレンスにスピーカーとして登場したドクターらの顔ぶれを見ると、アシュリー療法論争で擁護に登場したドクターがFost、Fraderの他にも一人います。2007年のカンファレンスではFostが講演冒頭で”アシュリー療法”論争に触れており、興味深い点が多いので、これらカンファレンスについては後に改めて書きます。】
2007.08.20 / Top↑
| Home |