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スイス、チューリッヒのZurich湖の湖底に
人の遺灰の入った壺が大量に捨てられているのを
落としたサングラスを探していたレスキュー・ダイバーが発見。

通報を受けて警察がダイバーを投入したところ、出てくるわ出てくるわ。
ダイバーの一人は、あまりに多いので50からカウントをやめたと語ったほど。

壺にはDignitasが使っていると思われる火葬サービスのロゴが入っており、
捨てられていた場所もDignitasの近くだという。

Dignitasの元職員のSoraya Wernliさん(52)は
少なくとも300個はあるのではないか、と推測。

「だいたい3個に1個くらいはZurich湖に沈めます。
最初は Minelli(Dignitasの創設者・責任者)が自分でやっていましたが、
その後は娘とか他のスタッフにやらせるようになりました」と。

2008年にDignitasの職員2人がチューリッヒ湖に遺灰を捨てているのを見つかった際にも
元職員の一人が「あの会社(Dignitasのこと)は、ずっと、やっていた」と語ったとのこと。

Ludwig Minelli氏は今のところコメントを拒否。

チューリッヒ市の市長は
「数にショックを受けている。システマチックに捨てていたとしか思えない。
警察の捜査の結果を待っているところだ」と。

Fury as ‘up to 300 urns containing human remains from Dignitas suicide clinic are at bottom of Lake Zurich’
The Daily Mail, April 28, 2010


Dialy Mailって、この記事に限らず、
ちょっとセンセーショナルな書き方が好みみたい。

捨てられていた壺の数は公表されていません。
300以上というのも、元職員の推測です。

Dignitasがやったと確定したわけでもありませんが
状況から、Dignitasと思われる、という話。


それにしても、ものすごく不思議なのですが、

Dignitasで自殺する人は多いし、
そういう人に家族が付き添って、最後のお別れもして……と
自殺に付き添う家族の愛をメディアは美しく持ち上げたりもするのだけれど、

そんな家族が、愛する人の遺灰を持ち帰らないというのでしょうか。


ちなみにSoraya Wernliさんは05年にDignitasを退職した後、
Dignitasでの虐待を暴き、閉鎖に追い込むために活動している女性。

これまでも、以下のニュースなどでコメントしていますが、退職の経緯などは不明で、Minelli氏からは在職時の恨みでやっていることだとの批判があったような記憶も。

「病気の夫と一緒に死にたい」健康な妻の自殺をDignitasが検討中(2009/4/2)
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/50993822.html
ウツ病患者の自殺幇助でDignitasにスイス当局の捜査(2009/5/27)
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/52607018.html
2010.04.28 / Top↑
前のエントリーで取り上げたClaire Royさんの成長抑制批判を大きな共感を持って読み、
しかしAshleyの親への批判が最後に向かってしまう方向性に2点ばかり危惧を覚えた。

まず、
「重症児は多くのことを教えてくれる存在なのだ」というのは、
ちょっと、余分なことがくっついちゃったな、と言う感じ。

なにか世の中の役に立てる証拠が、人として尊重してもらうために必要だという前提を
最初から受け入れてしまって、いわば”存在意義”の証明をしようとしているように聞こえる。

これは、日本でも重症児の親の発言にありがちな言い方で、
私はいつも抵抗を覚えるのだけど、

そこには、重症児の親や支援関係者が、
「こんな子が生きていて何になるのか」と社会から問われているかのように
無意識のうちに感じさせられていて、それに対して、
子らの”存在意義”の証明を試みなければならないような心理が
自動的に働いているのかもしれないのだけれど、

そこは、「なんになるのか」という問いそのものを否定すべきなんじゃないのだろうか。

そもそも人は何かのためにならなければ生きて存在してはならないものなのか。
その問いを向けられる人と向けられない人があるとしたら、それはなぜか。
その問いは、どういう人にだけ向けられるのか。
その問いに答えを出せなかったら、待機している次の問いは何なのか。
――と、問い返さなければならないんじゃないだろうか。

そして、そういうふうに問い返しつつ、
別に何のためにもならなくたって人は人として尊重されてよいはずだ、
というところから本当は動かないでいるべきなんじゃないだろうか。

次に、
子どもの命を託された親が子どものケアをするのは「義務であり幸運」という言い方は
子どもの身体を侵襲して介護負担を軽減する点だけを批判して終わってしまうと思う。

"Ashley療法"には負担軽減によって介護を親に背負いこませる論理が隠れているけれど、
「義務であり幸運」という言い方もまた、親は負担は負担のまま黙って抱え込んで然りと主張する。

Claireさんが同じ重症児の親である立場から批判しようとして、
そっちに行ってしまったのは気持ちとして分からないではないのだけれど、
そのために、「社会が変わらなければならない」という障害当事者らからの批判の声が
ここに入り込む余地がなくなってしまうことの危険に気付いてほしかった。

そこに気づけないのは、
私たち障害児の親が無意識のうちに規範として内在化させてしまっている
「子どもに障害があったら、その子どもは親が生涯に渡ってケアするもの」という
「障害児の親のステレオタイプ」が、それだけ根深いからじゃないだろうか。

Claireさんの頭の中にある自分と娘のSophieさんとの関係が
「延長された育児・子育て」としてしかイメージされておらず、
成人し、大人になっていくSophieさんがイメージされていないのだと思う。

でも、それは、実はClaireさん自身が
知的障害の重さに基づいて、娘との関係をいつまでも親と子の育児関係でとらえているわけで、

障害の重い娘は親から自立することはあり得ないという意識があるのだとしたら、
それは「障害はあっても、その子なりに成長する」というClaireさん自身の主張と矛盾している。

もしも、どんなに重症の知的障害のある子どもでも、
その子どもなりに成長していくと主張し、その言葉を信じるのであれば、
重症障害のある子どもだからといって、いつまでも親にケアされ
親との密接な関係の中にだけ抱え込まれて暮らすことが本当に幸せかどうか……と
親もどこかで疑問を抱いてもいいのではなかろうか。

(Claireさんは聡明な人なので、単にまだ時期が来ていないだけなのかもしれないけど)

そもそも、知的障害のない障害者の場合、
それは「幸せかどうか」の問題ですらなく
親から自立して暮らす「権利」の問題と捉えられるのに、
重症重複障害者の場合には(と言うよりも、おそらく重症知的障害者の場合には)
なぜ自動的に「権利」の問題ではなくなってしまうのだろう。

”Ashley療法”論争を巡って個人的にやり取りをした際に、
障害者の権利擁護の運動や研究をしている人ですら
「なにがAshleyにとって幸福なのか」という問いの立て方をすることに、

「Ashleyに必要なのは家族という小さな世界」と言ったDiekema医師の言葉を、
それは批判する側も共有しているということではないのか、という疑問と苛立ちとを、
私はずっと感じてきた。

それは、Ashleyには選択できないから、だろうか。

でも、自立生活の権利を主張する身障者たちだって選択できないと思いこまれていたからこそ
そのパターナリズムと闘わなければならなかったのではないんだろうか。



Sophieさんは彼女なりに人として成長する。
したがって、現在Claireさんが「義務であり幸運」と呼ぶ「子育て」は
今後は徐々に、親による子の「介護」へと変っていく。
Sophieさんには、親とだけの小さな世界よりも、もっと広い世界で生きていく権利があるはずだ。

そして、Claireさんは人として老いる。
それは「義務」や「幸運」や麗しい「親のステレオタイプ」では越えることのできない、
どんなに愛情のある親にも訪れる、人としての現実だ。

だからこそ、障害のある子供と親の権利が
どちらかがどちらかをほとんど全否定することによってしか成り立たないような
不幸な事態を生まないためには、

「義務」や「幸運」と胸を張って抱え込むよりも
Sophieさんなりの「親からの自立」を自然に考えることができるように
それだけの受け皿とサービスがある社会へと、目を向けてほしかった。

少なくとも、
「社会の方が変わらなければならない」という主張は落とさないでほしかったと思う。

その主張を落としたまま、重症児の親だからこその“Ashley療法”批判が
「愛情あるまっとうな親なら成長抑制などせずとも立派に介護してみせます」という方向に向かってしまうと、
また論争当初のように親の愛情の問題や、親の評価の問題へと問題がすり替えられてしまう。

成長抑制やAshley療法を批判する人は、そこのところの危険性に自覚的でありたい。

最初から、これは親の愛や評価の問題なのではなかったのだけれど、
”Ashley療法”の倫理問題を親の愛の問題にすり替えたのはDiekema医師らのマヤカシの戦術であり、

また、どこの国の社会でも、その方が社会にとって都合が良ければ
コトが美しい「親の愛」や「家族の愛」の問題に情緒的にすり替えられて、
権利の要求や現実への抗議の口封じや、または
ある方向への世論誘導に利用されているのだから。




【関連エントリー】
[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/29660632.html 重症児ケアの負担と親の意識について](2008/1/6)
[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/29773105.html 重症児ケアの負担と親の意識について 2](2008/1/6)
[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/33829274.html 「障害児の母親」というステレオタイプも](2008/3/4)
[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/44536404.html “A療法”には「親が抱え込め」とのメッセージ](2008/10/3)
[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/44794248.html 子どものケア、何歳から「子育て」ではなく「介護」?](2008/10/18)
[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/45440730.html 介護を巡るダブルスタンダード・美意識](2008/10/27)

[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/48844713.html 成長抑制を巡って障害学や障害者運動の人たちに問うてみたいこと](2010/1/28)
[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/59289641.html 親の立場から、障害学や障害者運動の人たちにお願いしてみたいこと](2010/3/12)
2010.04.28 / Top↑
今日のMaryland 大学のカンファレンスのAshley事件の分科会で
ビデオ講演を行う 重症児の母親 Claire Royさんが
[http://saynoga.blogspot.com/2010/04/conference-presentation.htmlという自身のブログで
講演内容を公開しています。

今までAshleyと同じような重症児の親から
こんなにまとまった、説得力のある批判が出たことはなかったように思います。

まず最初に娘Sophieさんのことが語られますが
脳死や植物状態の人も含めて、いかに認知機能が医療によって把握しにくいか
Ashley療法のみでなく移植医療を含めて、いかに医療が過ちを犯すリスクが大きいか
深く考えさせるケースです。


Sophieさんは6歳までは正常な子どもでした。
6歳の時に脳幹梗塞をおこして重症重複障害を負います。
MRIをとり、小児神経科医と神経外科医がアセスメントを行ったところ、
その日のうちに脳死状態になると言われて、臓器提供を求められたと言います。

現在Sophieさんは15歳。
医師はそんなことはあり得ないと言うけれど、
通常の会話は無理にしても、話したり質問に答えることはできます。
小学校2年生程度の読み書きもゆっくりとならできます。
数も認識はしていますが、計算はできません。男の子が大好きです。

生涯、胃ろう依存になると言われましたが、
現在は3食、おやつを口から食べて、胃ろうは水分補給と薬のみに使用。

側わんや手足の拘縮があり、寝たきりで
排せつも含めて生活全般が全介助。
けいれん発作があり、呼吸が突然止まることがあるので
常時見守りが必要で、夜はClaireさんが隣のベッドで寝ています。

感覚が過敏なので、外出が耐え難い刺激になることも。
身長は現在、約153センチ、体重約27キロ。



Ashleyとほぼ同じ障害像の娘について説明し、
だから「重症児の介護を知らないから批判する」との否定は
自分については言えないはずだと語り、また同時に、
自分の身近では重症児の親の中でも批判する人だって少なくない、とも。

これらを前置きとして、
Claireさんは「もしも自分がAshleyの親の要望を検討する倫理委の
メンバーだったとしたら、親に何と言うだろうか」と問い、
「やめなさい」と言う、と繰り返し答えます。

その主な理由が2つ述べられていて、

結局のところ、全てが認知機能のレベルの問題になっているということ

脳死、よくても植物状態になると言われた自分の娘は
そうならずに、様々なことができる子どもに成長している。
身体機能が限られた人の知的機能が低く見誤られてきた事例は
Christy BrownやAnne McDonaldなど、少なくない。
また最近は、脳機能の可塑性も言われるようになってきた。

それに、知的機能の正常な子どもに行われた場合には
Ashley療法は「ショッキングなほど不適切」だと
Ashleyの親自身がブログで書いている。

すなわち身体の統合性への侵害を正当化するのは
知的機能の低さ以外の何でもない。

本人の利益というのは表向きで、本当の理由は
成長抑制を推進している主要人物たちの発言の行間ににじんでいる


ここでClaireさんが引用するのは以下の3つ。

・06年Gunther&Diekema論文の一節が
成長抑制の利点として介護負担軽減を言っている個所。

・すっかり有名になった[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/7769852.html Dvorskyの「グロテスク」発言]。

・そして、 [http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/16960775.html Norman Fostの「フリーク」「シボレーのエンジンを搭載したキャデラック」発言]。

そして、
これらのどこにも倫理的なものはなく、あるのは差別だけだ、と指摘。

その後の要旨は、以下。


かつては普通の子どもだった娘は重症障害を持つ子どもとなったけれど、
それでもSophieの成長は親にとっては喜びであり、
それは障害のない子どもの親と変わらない。

確かに重症児のケアをする生活は大変で
親は疲れたり、苦しかったりフラストレーションを感じることもあるけれど、
弱い子どもを守り育てることも、我が子が一人の人として成長し発達していくために
力を尽くすのも価値のあることである。

健康な子どもを託された親と同じように
我々も親として子どもの命を託されたのであり、一日一日、守り、ケアし、
社会が望むようにではなく、ありのままのその子として尊重することが
我々の義務であり、幸運でもある。

重症児は多くのことを我々にも、社会にも教えてくれる。

成長抑制は子どもへの利益でもなければ、解決策でもない。
子どもたちは「問題」でもなければ「ジレンマ」でもない。
子どもたちは、尊重すべき人なのだから。



Claireさんに日本からスタンディング・オベーションを。
2010.04.28 / Top↑
3月にオーストラリアQueensland州Brisbaneの家庭裁判所が
重症児Angelaちゃんの子宮摘出を認めた件について、
以下のエントリーで取り上げてきました。

豪で11歳重症児の子宮摘出、裁判所が認める(2010/3/10)
Angela事件(豪):事実関係の整理(2010/3/10)
Angela事件の判決文を読む 1(2010/3/11)
Angela事件の判決文を読む 2(2010/3/11)
重症児の子宮摘出承認でダウン症協会前会長・上院議員が検察に行動を求める(豪)(2010/3/13)

そして、その判決文を読んでみたところ、
一見、理由として挙げられていると見える、けいれん発作や貧血は現在は収まっており、
侵襲度の高い手段によって早急に対処する必要のあるような「健康問題」も
まして「命の危険」に当たる事実もなく、

むしろ判決文の書き方には多くのマヤカシや隠ぺいのトリックが仕掛けられていること、
その「文章のサブリミナル」とでも呼びたいトリックが
Ashley事件の主治医らの06年論文と同じヤリクチと思えることを
以下の2つのエントリーで指摘しました。

Angela事件の判決文は、Ashley論文(06)と同じ戦略で書かれている 1(2010/3/17)
Angela事件の判決文は、Ashley論文(06)と同じ戦略で書かれている 2(2010/3/17)

すなわち、
Ashley事件がSeattleで起こったことに必然性があったように、
Angela事件がQueenslandで起きたことにも訳があるのでは
……と考えていたのですが、

まさか、こんなに早く行き当たるとは思っていませんでした。
今日、以下のLancetの論文を見つけました。

Maternal mortality for 181 countries, 1980-2008: a systematic analysis of progress towards Millennium Development Goal 5
The Lancet, April 12, 2010

1980年から2008年まで181カ国の出産時の死亡件数の統計を分析した研究。

大きく改善が見られるという結果の公表については、
改善が報告されると、先進国から途上国への援助が鈍るとして
Lancetに掲載を見合わせるよう圧力がかかったとNYTimesが報じたことから、
ガーナの母子保健関係者がIHMEのディレクターMurray医師の発言に反発し、
今度はMurray医師が誤解だと反論するなど、
現在ちょっとした騒ぎを巻き起こしている論文です。

しかし、ここで目を引かれるのは、その騒ぎではなく、
上記リンクのNY Timesの記事の、以下の一節。


The new report comes from the University of Washington and the University of Queensland in Brisbane, Australia, and was paid for by the Bill and Melinda Gates Foundation.


(ゴチックはspitzibara)

この論文、
Washington大学とQueensland大学との共同研究で、資金元はゲイツ財団。

論文の著者はWashington大学IHMEの所長Murray医師を含む9人で、
一人を覗いて全員IHMEの所属。

残る一人がQueensland大学のAlan D. Lopez医師。

それで思い出して、
[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/36964869.html Murray医師が考案したDALYに関するエントリー]を覗いてみたところ、
IHME所長としての招聘されたばかりのMurray医師に関するSeattle Post-intelligencer紙の記事内容を
私自身が08年に以下のようにまとめていました。


SP-I紙が焦点を当てるのは
Murray氏の「爆弾言動」をめぐる“過激さ”と
彼の爆弾発言の洗礼をかつてのWHOの職員時代に浴びて以来
一緒に世界の医療データの見直しを行ってきた
豪のクイーンズランド大教授Alan Lopezとの関係。




Queensland 大学のLopez医師は、なんと、
Murray医師の長年のパートナーだったのです。

3月にAngela事件を聞いた時に思い出せなかったのが迂闊でした。

ついでに、
IHMEの[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/37136110.html Global Burden of Diseaseプロジェクトについて書いたエントリー]を覗いてみたところ、
このGBDプロジェクトに参加しているのはWHOの他、
米国のWashington、Harvard、Johns Hopkinsと、豪のQueenslandの4大学――。


もしかしたら、
Angelaちゃんの主治医のDr.Tって、
Queensland大学(Brisbane)の人だったりして……?


【関連エントリー】
[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/60091004.html Ashley事件が示唆する3つの重大な事実](2010/4/21)
2010.04.28 / Top↑