5. 法的な考察
成人の場合は、クルーザン判決(1990)によって、
栄養と水分の供給はその他の医療と変らないことが確認され、
通常の医療の拒否権と同じ基準で考えられることが現在では当たり前になっている。
小児の場合、1983年のベビー・ドゥ事件を経て
児童虐待防止法(CAPTA)が84年に改定された。
その規定によると、
医師が合理的な判断によって患者の以下の3のうちいずれかだと考えた場合には
“適切な栄養、水分と薬の他には”治療が提供される必要はない。
1. 慢性的で不可逆な昏睡状態にある乳幼児
2. その治療が当該乳幼児の死のプロセスを長引かせるだけであったり、または命を脅かしている症状のすべてを軽減・改善する効果がなかったり、救命については“無益”である場合。
3. その治療が“事実上無益”で“非人間的”である場合。
この規定は、
栄養と水分以外の治療は停止してもいいけれど、
栄養と水分だけは供給しなさい、という趣旨のものであり、
すなわち、大人の場合には既にスタンダードだと著者らが主張する
「栄養と水分は他の医療と同じ扱い」とは逆に、
「子どもでは栄養と水分だけは別扱い」というのがCAPTAの立場。
栄養と水分を供給しないことは児童虐待と法的に位置付けられていることになります。
ところが、Diekemaらは、以下のような意味不明の一節によって、それを否定するのです。
このような表記(language)からは、
ほとんどの場合で適切な水分と栄養が妥当だと提唱されているように見えるが、
小児科学会の主張としては、
医療的に供給される栄養と水分は、子どもの利益にかなう場合にのみ、
すなわち予想される子どもへの負担を超えるレベルの利益をもたらすと期待される場合にのみ
“適切”である、というものである。
本報告書は
医療的に供給される水分と栄養の適切な使用を定義する目的で書かれるものであり、
その意味ではCAPTAは本報告書で提供されるガイドラインと一致している。
いや、全然「一致」していません。
基本的な姿勢がまるきり逆です。
Diekemaらが書いた米国小児科学会・倫理委員会のこのガイドラインは
米国児童虐待防止法違反なのではないでしょうか?
「連邦政府は明確な規定をしていないとしても
州ごとにこの問題に対する規定は異なっているので、
医師らはそれぞれの州法に通じている必要がある」
という意味のことが最後に追記されていますが、
CAPTAの規定は連邦政府による「明確な規定」ではないのでしょうか?
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米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」2009年論文 1/5:概要
米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」2009年論文 2/5:前置き部分
米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」2009年論文 3/5:差し控えが適当である例
米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」2009年論文 4/5:倫理的な検討
米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」2009年論文 5/5:法律的な検討
4. 考えるべき倫理問題として
① 障害のある子どもたちについて
この個所の冒頭、
「障害のある子どもたちは差別から保護されるべきである」と書かれているものの、
その次に長々と書かれている内容はむしろその逆で、
ここで「一線を越えて」差し控えと中止を認めてしまったら
社会のスタンダードそのものが変容して、障害のある子どもたちが
ネグレクトされたり価値なきものとみなされると懸念する人や団体があるが
そういう「すべり坂」論で差し控えと中止を禁じてしまえば、
望みもしない医療で負担の大きな介入を受ける子どもたちが生じてしまう、と
障害児保護への配慮の必要を一蹴し、
障害だけでは差し控えや中止の理由にはならないのだし、
十分に利益と負担の比較考量をすれば済むことだ、と懸念を排除しています。
が、著者らが一貫してcontinued existenceの利益を体験できるだけの意識の有無を
「利益」の判断に重要な要素としてこだわっていること、
著者らの「最少意識状態」の定義に、既に重症障害児への差別意識が見られ、
それが、その「意識の有無」の判断に反映されることを考えると、
著者らのいう「利益と負担の比較考量」そのものが
障害児への差別を内包している可能性は?
それに、この、いかにもDiekemaらしい論理が
前置き部分の「成人の基準を子どもには当てはめていけないというのは年齢差別」と共に
小児科学会のガイドラインとして通用するなら、
それは、今後、自殺幇助や臓器提供など、多くの医療倫理の問題にも
そのまま転用される可能性があるということになるのでは?
② 苦痛はないこと
栄養と水分がいかないと患者は大変な苦痛を味わうという説があるが、
臨床データでは、それは事実ではない。
論文冒頭でも同じようなことが書かれていますが、
いずれも漠然と studies, clinical data が言及されているだけで
具体的なデータや出典はありません。つまりエビデンスはありません。
そもそも、こういうことをデータも示さずに、
しかしネチネチと何度も書かざるを得ない心理そのものに、
どこか著者らが感じている後ろめたさを私は感じるのですが。
③ 親や後見人の役割
最善の意思決定者は、通常、子どもの最善の利益を考えている親である。
ただし、こうした決定が急がれることは滅多にないので、
時間をかけてすべての選択肢を考慮し、
セカンド・オピニオン、サード・オピニオンを得て決めるのが望ましい。
困難事例では病院の倫理相談を利用する手もある。
ただ、子どもに明らかな利益があるにもかかわらず
家族の負担軽減のための差し控えや中止は倫理的ではない。
栄養と水分の差し控えや中止は終わりではなく、むしろ
より広い緩和ケアの入り口と考えるべきである。
④ 医療職の個人的信条
医療職は自分の個人的倫理観の範囲内で医療を行わなければならないが
それが社会的に受け入れられている選択肢ならば
親に選択肢として知らせる義務はある。
親の同意は必要条件であっても十分条件ではなく、
親が望んでも医療職が倫理的に問題があると考えれば、
倫理相談や倫理委の関与を求めることが望ましい。
いずれにせよ最善の意思決定はコンセンサスがある場合であることが多い。
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米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」2009年論文 1/5:概要
米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」2009年論文 2/5:前置き部分
米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」2009年論文 3/5:差し控えが適当である例
米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」2009年論文 4/5:倫理的な検討
米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」2009年論文 5/5:法律的な検討
3.差し控えまたは中止が倫理的に適切な例
差し控えまたは中止が倫理的に適切であると判断される例として、
以下の5点を上げます。
① 植物状態
成人の場合に植物状態の人からは差し控えまたは中止してもよいとされる理由として
a. 意識がないので生存していることの利益を体験できない
b. 「理性ある人格reasonable person」という基準によって、
植物状態になった際には医療的な栄養と水分の供給を望まないので、
代理決定をしてほしいと希望する人がマジョリティである。
(パーソン論が出てきていることに注目)
これと同じ方針を小児の場合に当てはめないとすれば
それは「年齢差別」である、と著者らはさらりと書いてしまいます。
小児の場合、脳の可塑性が高いという話が
たしか日本の臓器移植法改正議論の中であると思うのですが、
そういう話はこの論文には全く出てこず、むしろ
「中には意識を回復するケースもあるが、
そうした少数のケースの大半は植物状態から回復しても
重症障害を負った状態にとどまる」と書いています。
Diekemaらの「年齢差別」論は、
「自己決定のできない子どもは大人以上に手厚く保護されなければならない」という
姿勢を全否定するものであり、
これを彼らが小児科学会倫理委の立場で書いていることには、
今後について重大な懸念になるのでは?
② 最少意識状態
定義そのものが私は問題だと思うのですが、
外からの一定の限定的な刺激に対して繰り返し可能な形で応じる能力があり、
簡単な指示に従ったり、意味のわかる音声を発したり、
状況にふさわしい笑い方や泣き方をしたり、物に手を伸ばしたり、
という行動を見せることがある子どもたち……
こうした状態で存在している(exist in this condition)人間の主観的な体験を理解することも
長期予後を断定的に診断することも難しく、不可能なので、
診断も栄養差し控えや停止の判断も最も難しく、
代理決定は慎重に、障害に関する偏見に影響されないように……と、
大筋として書かれているのですが、
いや、しかし、その定義そのものに、
Ashley事件の時にDiekemaらが暴露した、
重症障害児・者の認知能力と表出能力のギャップに対する無知と偏見が繰り返されている。
③ 神経損傷
このカテゴリーの子どもたちの栄養と水分は診断がつくまでは必須。
その後は、診断内容により、
意識状態と(または、ではなくand )今後の経口摂取能力獲得可能性による。
家族によっては、生きていてくれるだけでいいという場合もあるし、
意識が戻らなかったり、または(ここは、または、です)意思疎通ができない状態で
ただ単に肉体的に存在するだけでは(mere physical existence)
家族や家族の周りの人たちに大きな悲しみと苦痛にしかならない場合もある。
最初のand にこだわると、意識があるだけでは不十分で、
意識があって、さらに経口摂取が出来るようになる可能性があることが
栄養と水分の続行の条件とも受け取れます。
また、「意識が戻らない、または意思疎通ができない」も非常に問題のある表現。
意思疎通の可能性は、受け手の感度の高さに依存するところが非常に大きく、
偏見にもさらされやすく、決して客観的な指標とはなりません。
しかも、ここでは著者側に既に「意識が戻ったとしても意思の疎通ができないのでは、
それはただ単に肉体として存在しているというだけ」との予見があり、
さらに、それを家族が悲しむとしたら、その家族の意向を酌んで
停止してもいいかのようなニュアンスが含まれています。
一貫して「continued existenceの利益を体験できるだけの意識の有無」にこだわる著者らが
このカテゴリーにおいてのみ、意思疎通ができるかどうかという基準を持ちこみ、
それを家族が主観的にどう捉えるかを重視しているのは
著者らのスタンダードが一貫性を欠いていることになるのでは?
また、親の宗教など個人的な信条は重視されるべきだが、
だからといって、それだけの理由で倫理的に続行しなければいけないわけでもない、とも。
④ ターミナルで既に身体が受け付けなくなっている場合
栄養と水分が供給されることの負担が利益を上回って
むしろ本人の苦痛になる可能性があることは
このカテゴリーで最も分かりやすいのですが、
なんとも引っかかるのは
著者らが、過剰に、脱水死の快状態を強調していること。
成人の研究によって
脱水死では脳内にエンドルフィンが分泌されケトンも上がって
快状態が生じ、頭もクリアになることが確かめられている、
吐き気やおう吐、下痢などの不快な症状もなくなる、というのですが、
エンドルフィンが出るのは、苦痛に対する適応反応では?
また、栄養と水分を停止することで退院して家に帰ることができるとか
何度も検査のために採血しなくてもよくなるとか、
このあたり、“アシュリー療法”正当化でのDiekemaらの
社会的な利益に対するに医学的なリスクや負担を対置させたり、
釣り合いが取れないほどに利益を過大に、リスクを過小に描いて見せる、
(生理痛回避に注射をする痛みを繰り返すよりも、子宮摘出なら1度で済む、とか)
あの論法が髣髴とします。
また、著者らの「緩和ケア」という用語の使い方では、
栄養と水分の供給やそのあり方の判断も含めて「緩和ケア」があるというのではなく、
一切の生命維持ケアを辞めたところから“切り替えられる”のが「緩和ケア」と
捉えられているようです。
すなわち、去年秋の緩和ケア論争でいえば、
「アグレッシブな医療か、全然医療をしないか」の選択と捉えるMitchell医師の立場を
米国小児科学会倫理委員会はとるということでしょう。
⑤ 消化器の機能不全
こういう子どもたちは医学的に栄養と水分を供給すれば長年生きることができるが、
もちろん予防が重要ながら、経管栄養が長期に渡ると合併症が起きてくる。
臓器移植も今のところ致死率が高いので、
子ども本人への負担が利益よりも大きいと判断されれば
栄養と水分の中止も。
このカテゴリーの子どもたちは確かに栄養と水分の供給に生存を依存してはいますが、
この論文が一貫してこだわっている意識状態で言えば、
continue existence の利益を体験することができる子どもたちも含まれるのでは?
このカテゴリーでは著者らは意識状態について全く言及せず、
ここでも著者らのスタンダードは一貫しているとは言えない。
⑥ 重症の心臓疾患を持って生まれた新生児など
数カ月しか生きられない、このような新生児では
負担の方が大きいので、包括的な緩和ケアに切り替えることが望ましい。
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米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」2009年論文 5/5:法律的な検討
2.前置き部分
冒頭、おおむね以下のような趣旨説明があります。
成人の医療においては、水分と栄養の供給をその他の医療と全く同じとすること、したがってその他の医療行為と同じく、差し控えや中止が認められることが、 1983年の大統領委員会、米国医師会ほか多くの専門職団体によっても、また裁判所の判例によっても確認されて、すでに現場でのコンセンサスとなっている。
93年の米国小児科学会のガイドラインも差し控えてもよい場合について言及しているにもかかわらず、子供に栄養を与えることは情緒的にも社会的にもシンボリックな行為でもあって、現場は判断に困っている。
そこで乳幼児、児童、意思決定能力を欠いた青年から水分と栄養を差し控えることができる条件について、親、後見人、臨床医へのガイドラインを示す。
医療上飲食が好ましくない場合を除いて、
経口摂取が可能な子供には経口で飲食をさせなければならない、
とのAAPの基本方針を確認し、
医療的な装置による水分と栄養の供給に生存を依存している子どもたちを
対処すとするガイドラインであることを断ったうえで、
非常に気になることが書かれています。
水分と栄養の供給を基本的なケアと捉え、
食べることの喜びや親との心の繋がり、周囲の人との交流など、
社会的、文化的な意味を強調する論者もあることを認めつつ、
それは飲食の「シンボリックな意味」に過ぎないと一蹴するのです。
飲食ができない子どもは咀嚼したり味わったりする喜びを経験することはできないし、食べ物を誰かと一緒に食べて、食べることを通じて関わる楽しみを味わうことはできないし、空腹ものども渇きも自分ではわからないし、食べ物を与えられることによって身体に栄養を得ている実感を経験することもできない。
そういう子どもたちのニーズは様々で、中には水分と栄養の医療的な供給がそのニーズに合わない子供もいる。
「医学的な装置によって水分と栄養を供給することは、食事を取ることとは異なる」ので
食べる行為に伴う咀嚼や嚥下、それに伴う喜びや人との交流を連想させる
「食べ物」という用語は用いない。
「餓死」という用語も死に伴う苦痛を連想させるが、
水分と栄養を停止した場合に訪れる死はむしろ脱水の結果であり、
多くの研究から苦痛を伴うことは滅多にないとされているので、
「餓死」という用語も用いない、と説明します。
広く様々な点から検討し、親の裁量権を十分に認めた上で、
栄養と水分から受ける実質的な利益と予測される負担とを比較考量し判断することが基本とされますが、
その際に目を引くのは
著者らが子どもの意識状態を重視していること。
consciously experience any benefit from continued existence という表現で、
「ただ身体的に生きているというだけの状態が延長されることの利益を体験できるほど
子どもに意識があるかどうか」に、著者は論文全体で一貫してこだわりますが、
論文の後半部分には mere physical existence という表現も登場しており、
continued existence という表現そのものが、
あらかじめ子どもの意識状態を否定しています。
次のエントリーに続きます。
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米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」2009年論文 1/5:概要
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米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」2009年論文 5/5:法律的な検討
1年前に以下のエントリーで触れました。
米国小児科学会が「栄養と水分差し控えは倫理的」:著者はDiekema医師(2009/7/30)
その後すぐに論文を手に入れてくださる方があって、全文を読みました。
Forgoing Medically Provided Nutrition and Hydration in Children
Douglas S. Diekema, Jeffrey R. Botkin and Committee on Bioethics
Pediatrics 2009;124;813-822; originally published online Jul 27, 2009;
DOI: 10.1542/peds.2009-1299
現在は、こちらから全文が無料で読めます。
気になる個所があちこちありながら、
なかなかまとめることができずにいましたが、
日本でも、この問題が議論になりそうな気配があるようなので、
改めて、元論文を読み返してみました。
まず、結論部分にまとめられている要点9点の概要を以下に。
1. 安全に飲食できて、それを望む子どもには、口から飲食させること。
2. 医療的に供給される栄養と水分は、その他の医療と異ならず、その他の医療と同じ理由によって差し控えと中止が可能。
3. 医療的に供給される栄養と水分を含み、すべての医療介入を行うか否かの判断は、子どもへの実質利益があるかどうかに基づくべし。
4. 決定にあたって最重要なのは子どもの利益。
5. 医療的に供給される栄養と水分の差し控えと中止が道徳上許されるとしても、道徳上差し控えと中止が必須というわけではない。
6. 永続的に意識と(または、ではなく and)周囲とやりとりする能力を欠いた子どもからは中止してもよい。例えば植物状態の子ども、無脳症児。ただし適切なアセスメントができる専門家が診断すること。
7. 死のプロセスを引き延ばしたり病状を悪化させるだけの場合は中止してよい。例えば最終末期の子ども、数か月を超えて生きることが無理で臓器移植だけが唯一可能な治療という心臓奇形の乳児、重症の腎臓または消化器不全の乳児で親が移植よりも緩和ケアを望む場合。
8. 決定に際して親と後見人を尊重すること。インフォームの必要性と、適切な鎮静と口腔衛生を含む緩和ケアの必要。
9. 困難事例や論議を呼びそうな決定では倫理相談を活用すること。
ここだけを読むと、それなりに理にかなった内容のように思えますが、
本文に書かれていることは、このまとめとは微妙にニュアンスが異なっており、
見逃せない点が多々あります。
以下のように、このエントリーを1とし、
さらに4つのエントリーで本文の内容をまとめてみました。
米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」2009年論文 1/5:概要
米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」2009年論文 2/5:前置き部分
米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」2009年論文 3/5:差し控えが適当である例
米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」2009年論文 4/5:倫理的な検討
米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」2009年論文 5/5:法律的な検討
私が特に問題を感じるのは
2から4の間に見られる障害児への偏見。
具体的には、著者らが意識の有無に一貫してこだわりながら、
重症障害児の認知能力と表出能力のギャップに全く無関心であること、
(正当化にパーソン論が持ち出されています)
よく読みこんでみると、著者らの基準が一貫していないこと。
それから、私は何よりもここが問題だと思うのですが、
5で、米国児童虐待防止法の規定が否定されていること。
次のエントリーに続く。