http://honnohon.blog137.fc2.com/blog-entry-323.html
http://honnohon.blog137.fc2.com/blog-entry-318.html
イラクのバスラで、イギリス人兵士と恋をしたと腹を立て、17歳の娘Rand Abdel-Qadarを窒息・刺殺した父親が一度は連行されたものの警察は2時間後に彼の行いを称えて釈放。「警官は男だからね。名誉のなんたるかを分かっているさ」と父親。
http://www.guardian.co.uk/world/2008/may/11/iraq.humanrights?CMP=EMCNEWEML1355
【関連エントリー】
ナイジェリアの子どもたちの悲惨(2007/12/14)
子どもたちがこんなにも不幸な時代(2008/5/30)
アルビノは呪われていると殺害(タンザニア)(2008/4/4)
若者の3人に1人が「女への暴行なんか大したことじゃない」(豪)(2008/11/19)
“魔女狩り”で大人に虐待される子どもたち(2008/11/27)
「男の子と話をした」と家族会議にかけられ生き埋めにされた16歳の少女(トルコ)(2010/2/6)
2010年12月10日の補遺(アフガニスタンでの名誉殺人について)
日本語記事。映画の中だけではない…韓国で静かに起こる“障害者への集団性的暴行”(2):これもまた、上の話題と繋がっていくのだと思う。
http://japanese.joins.com/article/788/145788.html?servcode=400§code=430
日本語記事。バフェット氏、来日。:バフェット氏はビル・ゲイツとゲイツ財団を通じて一蓮托生(これはちょっと表現として違うか)だから、ここ数年、特に今年に入ってゲイツ財団が日本への影響力に力を入れてきていることと無関係ではないと思う。
http://japanese.joins.com/article/783/145783.html?servcode=300§code=300
日本。ヘルパーさん来る時間を減らさないで 99歳 厚労省に訴え 介護保険改悪案 撤回求める
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-11-10/2011111004_02_1.html
日本語。重症のうつ病 電気けいれん療法で70%~80%の治療効果あり。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20111118-00000009-pseven-soci
DBSうつ病応用へ(2008/5/28)
「12-18歳全員に定期的うつ病スクリーニングを」と専門家が提言(米)(2009/6/3)
「強迫性障害、うつ病、肥満にも」DBSなど“実験的脳手術”(2009/11/29)
「現代思想2月号 特集 うつ病新論」を読む 3:社会と医療の変容と「バイオ化」(2011/2/23)
一つだけ、もしかしたら
アシュリーやミュウが重症身障害児・者の幅広いグラデーションの中では
むしろ「軽い」方に類するから、という面はあるかもしれないのだけれど、
重症障害児・者の「意識」について書かれていることの中に、
親としては、ちょっともどかしい気分になるところがある。
それは例えば、
20日のエントリーで、トリソミー13の子どもの意識状態について
倫理委からの問い合わせを受けた遺伝学の専門家の
「言葉を話したとか、親が『この子は分かっている』というのは聞くが、
それが事実かどうかは自分にはわからない」という応えを読んだ時に感じる、
隔たりと、もどかしさのようなもの。
もちろん著者はこの人のように「事実かどうか自分にはわからない」と突き放してはいないし、
著者なりの分かり方で誠実に分かろうとしている。
「どうせ何も分からない」「赤ちゃんと同じ」と決めつける人たちの対極にいるという意味では
高谷氏はもちろん私たち親と同じ側にいる。
それでも、私たち重症心身障害のある子どもを持った親が
「この子は分かっている。あなたや私と同じ分かり方ではないかもしれないけれど、
この子なりの分かり方で分かっている」という言い方をする時に、
親の言う「この子なりの分かり方」と、
著者のいう「内在意識」と「関係的存在」の間にある「分かり方」とには
なお隔たりがあるような気がする。
その隔たり感をなんとか言葉で捕まえたいと、あがいているうちに、
このエントリーを書くまでにずいぶん時間が経ってしまった。
今だにそれを説明する言葉を獲得できないことが、さらにもどかしい。
とりあえず、
その隔たりは、もしかしたら、
医療の中から生活を見ている人と、
生活の中に共にどっぷり浸かっている者の隔たりなのだろうか……と考えてみる。
実際に自分の身体でその子(人)を直接ケアすることを通じて、
あるいは一定の期間その子(人)と生活を共にすることによってしか、
つまりは頭や理屈ではなく自分の身体で納得するしか知りようのないこと……というものが
世の中にはある、ということなのかもしれない。
重症児・者の「わかっている」というのは、
そういう類いのことなのかもしれない。
そんなことをぐるぐるしながら、、
「重い障害を生きるということ」や「痴呆を生きるということ」で書いてもらえること、
「逝かない身体」でしか書けないこと……ということを考えている。
「説明できること」と「描くしかできないこと」……について。
その辺りのことは、
この本からもらった宿題として考え続けてみたい。
重い障害のある人、認知症の人の生を
「生きているのがかわいそう」だといい「自分がそうなったら死んだ方がマシ」と言っては
価値なきもの、「社会の負担」として切り捨てようとする包囲網が
じわじわと世界のあちこちから狭められてきている。
そして、それにつれて世の中が寛容や品性を失い
どんどん殺伐とした冷酷な場所になっていく。
包囲網が狭まる速度は、
このブログでニュースを拾ってみるだけでも日々加速していて、
ヤキモキ、ジリジリしてしまうほどだ。
この本を読んだ直後に、某所で高谷氏の言葉に触れた。
その一節に書かれていたのは「思想的対決が必要」――。
その対決では、専門家にしか言えないこともある。
当事者や家族にしか言えないことだってあるはずだ。
だから、
私も共に闘う。
私はここで、このブログで――。
そう心に念じ、武者震いした、
「重い障害を生きるということ」と真摯に向かい合おうとする医師との出会い――。
この本を読みながら重い障害のある子どもをもつ身として非常に強く感じるのは
「こんな医師もいたんだぁ……」という率直な驚き。この感想はミュウの父親も全く同じだという。
著者は若い頃に全障研に参加し、「医療に対する怨嗟の声」をたくさん聞かされたという。
そして、その中から学ぶうち、それらを「恨み節」ではなく
医療に対する「ラブコール」として受け止めるようになったとも書いている。
著者はそうした「ラブコール」から以下のような気付きを得ていく。
……障害のある人にとっては、医療というのは病気を治したり障害を軽くするために存在するのではなく、本人から生活を奪う存在になっているのではないか、ときには人権を侵害しているとの実感をもった。
(p.19)
医療は、発熱や下痢などの「症状」の「改善」をおこない、その原因である「病気」を「治療」する。しかし本人が生活するのに困っている脳性まひや自閉症などの「障害」について、あるいは障害がある人の「健康増進」「障害の改善」や「成長・発達の問題」については何もなし得ていない。実際には医療の専門家でない保育者や教師などによって「障害」の「改善」「軽減」、「健康」などの努力がなされている。その家族や保育者などの取り組みに対して医師が、「外出すると感染症に侵される」「健康を害する」「てんかん発作を誘発する」など「健康管理」の名目で生活を制限し、その結果「健康増進」が妨げられるということがおこっている。
(p.21)
まさに私自身を含めて多くの当事者や家族が医療に対して訴え続けてきたことだと思うし、次の下りも然り。
……医療は医師など医療従事者と患者(障害者・家族)とが向きあって「治療」がなされているが、これでは治す者と治される者の関係だけということになってしまう。そうではなく「病気」あるいは「障害」を対象にして、医療従事者と患者が横に並んで協力しながらとりくんでいくというのが医療のあり方ではないかと強く思った。
(p.24)
私も偶然、4月に全く同じ表現で同じことを書いている ↓
所長、保護者と対峙するのではなく横に並んで共に考えてください、という訴えを受け止めてくれる人と、私はいつまで出会うことができるのでしょうか。
所長室の灰皿(2011/4/20)
実際、この「所長室の灰皿」や冒頭にリンクした10月のエントリーなどでも書いたように、
私たち親子はそれなりに出会いに恵まれてきた方だと思うのだけど、それでも、
高谷氏が重い障害のある子ども達に向けるまなざしの深さには
夫婦ともに、はるかに「並みじゃない」ものを感じる。
それを最も痛感するのは
施設に入園したばかりの重い障害のある子ども達がいきなり親と引き離されて
わずかの間に体調を崩し、死んでしまうケースを紹介・考察する個所。
こういうケースがあることは私も娘の施設でも他の施設に見学に行った際にも聞いたことがある。
その教訓から、初めて親と離れて入所する際には徐々に慣れていけるように
親の宿泊施設を作ったという話も、よく聞く。
ただ、そうした際に、
子ども達がそういう状況で急死する理由について言われるのは
「親と同じだけの丁寧なケアが、その子についてまだ不慣れな施設ではできなかった」とか
「親の介助でないと食べようとしなかった」とか、せいぜい漠然と
「親といきなり離されたら、こういう子は不安定になるもの」という辺りのことだった。
そのことについて、ここまで深く考えてくれる人には出会ったことがない。
子どもたちは、どんなに恐怖があったことであろう。それまで家族と離れたことがなく、それがまったく理由がわからぬまま遠い場所に来て、突然恐ろしげな場所で一人ぼっちになり、わからない言葉を発する白い衣を着た人たち、変形した身体を横たえ奇妙な声を出す同室の子どもたち、あわただしい人の動きやさまざまな騒音、まったく異質の世界に放りだされて、どんなにか不安で、どんなにか恐怖があったことであろう。そのため緊張し、泣き喚き、体は変調をきたし、高熱を発し、食べ物を受けつけず、睡眠をとれなかった。精神の恐怖は肉体を急速に蝕み、ついにわずかな時間で生命を抹殺することになった。
人間の精神は、理由のわからない耐え難い不安と恐怖にさらされたとき、自らの身体を殺してしまうことによって、終息させることがあるという恐ろしくも尊い事実であった。
(中略)
……この子らは不安、恐怖とともに絶望の深淵に身をおいてしまったのだと思う。希望を失ったのだと思う。
(p.36-37)
もう1つ、例えば、
「重症児は音にびっくりして身体を緊張させたり不随意運動やけいれん発作が起きやすい」と
通常は理解されている(白状すると私もその程度で止まっていました)現象について、
著者が「恐怖」のための「叫び」が発作と間違われたケースを紹介した後で
周囲の状況を認識できない人に対しては、音であれ皮膚への接触であれ、最初は弱くおこない、さらに必要であれば徐々に強くするという配慮をしたい。この人たちは、身体的に自由が利かないし、ものごとの認識もできないのであり、「感覚」が外界の状態と本人の関係、結びつきのきわめて大きな部分を占める。しかも、「避ける、逃げる」ことができない状態で、外部からの刺激を受けることになる。
そのために、「驚き」「不安」や「恐怖」というだけでなく、生命体の存在そのものが脅かされ抹消されるという「本源的な恐怖」を感じるのではないかと思うのである。
(p.58)
何がすごいって、著者が子どもたちの「身になって」いること。
「こうした心身に重い障害のある人たちは、世界をどう感じているのか」を考察しようとして、
著者はもの言わぬ、多くの人に「何も分からない」と考えられている当人の「身になって」、
こんなにも細やかな想像力を深く、深く、働かせていく――。
これは、つくづく、すごいことだと思う。
ミュウを通じて出会ってきた「専門家」に私がずっと感じる壁の一つは
「専門家」は相手を「対象」としてしか見ない、ということ――。
「自分はこの人をどうアセスメントするか」「自分はこの人に何ができるか」と、
すべてが「専門家としての自分」からスタートして
相手を「専門家としての自分にとっての対象物」にしてしまう。
そして、そのことにまるで気付こうとしない。
もちろん専門家の仕事は相手を対象化しないと始まらないのだから、
対象化することがいけないと言うつもりはない。
でも、それに無自覚だと、それだけで終わってしまうから、
「本人にとってどうか」が欠落したままになって、
本人や家族は非常に困る。
相手を「対象」にして終わる「専門家」は
「医療」や「福祉」を起点にその範囲でだけモノを見て考え、
それよりもはるかに広い「生活」を見ようとしない。
当人や家族の「身体」や「機能」や「能力」を見て「人」を見ない。
だから「相手の身になってみる」という想像力が働かず、「共感」どころか
「ごく最低限の人としての配慮」すら欠いた無神経な言動で
当事者や家族を傷つけてしゃらりとしている。
当事者や家族の言動に対する判断・反応の基準が
「自分を認め称賛するか批判するか」「自分の仕事がやりやすいか、やりにくいか」になって、
そもそも「誰のための自分の仕事なのか」が忘れられていく。
そんな「専門家の限界」にずっと不満を感じてきただけに、
これほどまでに細やかな想像力で重い障害を持った子ども達の「身になって」
彼らにとって「世の中はどういうふうに感じられているのか」を掘り下げていく著者に、
え? こんな医師だって、いたの……? と、まず率直に驚くし、
子どもたちに向けられた、その深く温かいまなざしを通して
「感覚的存在」として、「身体的存在」として、
「意識」とは「反応」のことだとする医学の捉え方の限界から
その両者を区別するために「外在意識」と「内在意識」という独自の概念を導入して、
さらに、こころで関係を結び周囲と繋がった「関係的存在」として、
重い障害のある子ども達を考えていこうとする段階を経て洞察が深められ
「人間的存在」としての深みへと至る過程は圧巻。
年齢を重ねても「自己意識」は育っていないことが多いと考えられる。しかし、「意識」は育っていないかもしれないが、「自己」は育っている。
(p.99)
ある人びとは、この「自意識」こそが人間である証だという。だが人間形成の過程をかんがえてもそうではない。人間の「自意識」や「理性」といわれるものは、人間が「からだ」を使って、「協力」し、得たものを「分かちあう」ことによって「こころ」を豊かにし、「共感」する「こころ」を育ててきた。けっして突然「脳内」に「自意識」や「理性」がうまれたのではない。「協力・分配・共感」という基盤があってこそ「人間」が形成されてきたのである。
個々には「障害」のために「自意識」や「意識」が育たないこともあるであろう。ただ重い障害のある人との間で、人類が経験してきた「協力・分配」がなされ、「共感」することにこそ人間の特質があり、協力する人も、される人も人間として存在し、それぞれに人間的な「こころ」が成熟していくのであろう。
(P.102 注:高谷氏の「協力」については冒頭にリンクした10月のエントリーにも)
私がAshley事件との出会いから重症児の「意識」についてずっと考えてきたこと、
このブログで訴えてきたこと、というのも、まさに、こういうことだった。
私は例えば、以下のようなことを書いてきた。
「知能が低いから重症児は赤ん坊と同じ」とDiekema医師は言った。でも、それは、ゼッタイに違う、と思う。子どもはホルモンや体や知能だけで成長するわけじゃない。経験と、人との関わりによって成長するのだから。体と頭だけじゃない。心も成長するのだから。限りなく成長する可能性を秘めているのは、人の心なのだから。
ポニョ(2009/7/23)
認知は static ではない。発達も static ではない。人の心も決して static ではない。人が環境の中にあり、人との関わりの中にあり、そこに経験がある以上、人の心は成長し、成熟し続ける。認知も含めた総体として、人は成長し、成熟し続ける。障害があろうとなかろうと──。
「脳が不変だから子どもも不変」の思い込みで貫かれている……A療法の論理に関する重大な指摘(2009/12/16)
そういうことを振り返る時、
重症心身障害のある子どもたちを診てきた医師と、そういう子どもを持ちAshley事件と出会った母親とが
同じ時期に同じ問題意識からそれぞれ本を書いたのだということに、どこか必然みたいなものを感じる――。
次のエントリーに続きます。
高谷清著 岩波新書
高谷氏は京大付属病院、大津赤十字病院などを経て
1984~1997年、重心施設、第一びわこ学園園長を務めた医師。
現在も同学園の非常勤医師。
当ブログで高谷氏について書いたエントリーはこちら ↓
子と親と医師との「協力」で起こすことのできる“奇跡”:ボイタ法の想い出(2011/10/8)
ものすごく不遜なモノの言い方であることは承知しており、本当に恐縮なのだけれど、
私はいつでも「まっすぐ」しかない社会的バカだから、そのまま書いてしまうと、
この本を手にとって帯の
「生きているのがかわいそう」なのか? という2行を見た瞬間に、
まるで天啓に打たれるみたいな衝撃と共に、
この高名な重心医療を専門にする医師が書いた本と
名もない一人の母親である私が書いた「アシュリー事件」とが
同じ時期に刊行されたということに、ほとんど運命的な繋がりを信じてしまった。
それには、ちょっとした伏線がある。
拙著「アシュリー事件」をきっかけにした、あるいきさつから、
私はこの新書を手にする直前に高谷氏の論文を読んだ。
全国保険医団体連合会の雑誌の7月号に掲載になった
“「パーソン論」は、「人格」を有さないとする「生命」の抹殺を求める”。
そこでは、
シンガー、エンゲルハート、トゥーリー、トゥルオグについて解説されたのちに
パーソン論の「反応」や「自意識」「理性」に対して
「いのち」「からだ」「こころ」と「脳」が考察され、
「「いのち」は、「脳」ではなく「からだ」と「こころ」に宿る」と書かれている。
さらに「生きていて「かわいそう」か」という問いを立てて
「生きている喜びがある」状態を実現していくことが直接関わる人と社会の役割、
「人間社会の在りようではないかと思うのである」と結論した後に、
直接重症児・者と接している者がこうした議論に反論し、
人格・人権・生命を守っていく取り組みを進めると同時に、
重症者のことや彼らを支える仕事の内容や役割・意義を、
分かりやすく世の中に発信していくべきだ、と訴えて締めくくられている。
今の時代に英語圏の生命倫理で起こっていることに対する認識。
英語圏で起こることに牽引されて世の中が向かっていこうとしている方向に対する危機感。
反論しなければ、それと同時に、反論のためにも、ほとんど知られていない重症児・者の姿を
直接知る者として、世の中に向けて表現し伝えなければ……という、問題意識――。
同じ認識、同じ危機感、同じ問題意識を共有し、
高谷氏は重心医療に携わってきた医師の視点から、
私は親として、またアシュリー事件と英語圏の生命倫理を追いかけてきたライターの視点から、
同じ時期に同じテーマ・メッセージ性の本を書いたのだ……と、
それは、新書を手にする前からの強い予感だった。
そこで、まだ本を開く前に帯の「「生きているのがかわいそう」なのか?」を見た瞬間、
その予感がずばりと適中したと、ほとんど宿命的なものに打たれた感じがした……というわけ。
著者は新書の中でパーソン論には一切言及していないし、
全体に見れば、もう少し緩やかに広く一般に向けて書かれている印象の本だ。
そういう印象から言えば、読みながら私の頭に連想されたのは
故・小澤勲氏の「痴呆を生きるということ」(岩波新書)と
川口有美子氏の「逝かない身体」(医学書院)の2冊だった。
小澤勲氏の「痴呆を生きるということ」についてはこちらのエントリーで言及、引用 ↓
Spitzibaraからパーソン論へのクレーム(2009/8/23)
川口有美子氏の「逝かない身体」についてはこちらのエントリーで言及・引用 ↓
Cameron党首、自殺幇助合法化に反対を表明(2010/4/9)
でも、やっぱり、「重い障害を生きるということ」は、7月の論文の文脈において、
「重症者のことや彼らを支える仕事の内容や役割・意義を、分かりやすく世の中に発信していく」
ことを意識して書かれた本なのだと思う。
帯にある「生きているのがかわいそう」という言葉は
本書「はじめに」によると「外国のグループの見学」で出た言葉とその意味だし、
101ページには、ごくさりげなく
「ある人びとは、この『自意識』こそが人間である証だという」との1文がある。
もちろん他の章でも考えさせられたり学んだことは多々あるけれど、
そんなわけで私にとってこの本の核心は第1章と第2章の2つ。
Ashley療法論争での「どうせ赤ちゃんと同じ」、「どうせ何も分からない」という
重症児へのステレオタイプな決め付けへの反論としても、
なんとも心強い味方を得た気分で、盛大に手を叩きつつ読んだ。
だから、なによりも、まず、Ashley事件のようなことが起こったり、
パーソン論や功利主義が声高に説かれ、優生思想のよみがえりが懸念されるこの時代に、
この国で、重心医療の専門家によってこの本が書かれたことに、心から感謝――。
次のエントリーに続きます。