この事件に関する直接的な資料(医師らの書いた論文、両親のブログ、メディアに引用・紹介された両者の発言)を原文で詳細に読んだ人は、特に論文を中心として医師らの発言に、ある種の誘導の意図を感じておられるのではないでしょうか。
誘導しようとの意図を誰かに感じる場合、我々は往々にして「ある特定の方向への誘導」を考えます。ところが、この事件で医師らが試みている誘導は「ある1つの方向に誘導しようとする」性格のものではなく、逆に「ある1点から遠くへと」人々の意識を逸らせるための誘導のように思われないでしょうか。
初めて医師らの書いた論文を読んでみた際、私はこんなに論理性を欠いたものが医学論文として通用するのか、という軽い驚きを覚えました。論理のパターンというものがないように感じられたのです。たとえば、2本の線を平行させて論じていくパターンだとか、蚊取り線香のようにぐるぐる周辺を回りながら核心に迫っていくパターンだとか、そのようなイメージ化をこの論文の論理について敢えて試みてみると、以下のような感じになります。
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デタラメなところからデタラメな方向に論理の矢が放たれ、それぞれが交差することも並行して論じられることもなく、ただ放たれっぱなしにブツ切れていく。たとえば、政府の在宅化推進福祉施策について触れた論理の矢。たとえば両親が娘のメンスの始まりについて心配していたという記述の矢。過去に背の高い少女に行われたホルモン療法についての情報という矢やその副作用について語られた矢は、放たれてはいるものの議論が噛み合わないうちに、いつのまにか「リスクはない」ということになってしまいます。過去の優生手術に触れた部分の矢も同様です。これらはすべて、「触れた」、「挙げた」ということで役目を果たしているかのようです。このように「放たれた」というだけで役割を終えて、てんでに勝手な方向に失速して消えていく何本もの矢の間を縫うように、定義のない成長抑制の「方法」という矢、その「メリット」という矢、「症例報告」という矢、「リスク」という矢などが、矢継ぎ早に放たれます。倫理委のメンバーについて触れてもいないのに触れたように見せかける悪質なマヤカシの矢も紛れ込んでいます。そして、最後に「知的レベルが低い子どもの背を低くしたからといって、害が考えられるだろうか?」という極めて乱暴な論理の矢が放たれ、そのまま、あの奇妙な「親が望む気持ちはもっともだから、認めてあげればいい」との結論に終わるのです。
それぞれ交差することも平行して論じられることもないままに、一見デタラメな方向に放たれ、そのままブツ切れて終わっているように見えるこれらの論理の矢が、実はある1点から遠くへと読者の注意をそらせるために放たれたものであると仮定してみると、どうでしょうか。
もともと医師らは書きたくなかったのに、何らかの事情で書かざるを得なくなった論文なのではないかとの疑問は、既に何度も提示してきました。そこで書かざるを得なくなった医師らは、行われたことの内容を隠蔽し誤魔化すと同時に、これだけはどうしても知られたくないという1点から遠くへと読者の意識を逸らせようとの誘導を試みたのだとしたら??
論文での隠蔽とゴマカシが水泡に帰した1月以降、アシュリーに行われたことについては 両親の主張がそのまま自分たちの考えでもあるかのように必死に装いつつ、実は医師らはこの1点だけは隠しぬこうと、やはり「ある1点から遠くへ」と人々の注意を逸らせるために腐心しているのだとしたら??
医師らが、そこから人々の意識を逸らせたい1点、どうしても知られたくないらしい事実とは、なんでしょうか。
彼らが未だに詳細を語ろうとしないこと。
この点についてだけは触れようとしないこと。
この点についてだけは触れようとしないこと。
それは、やはり倫理委員会での議論の中身ではないでしょうか。医師らが人々の意識を向かわせたくない1点とは、倫理委員会。すなわちアシュリーに対する今回の処置が承認された本当のいきさつなのではないでしょうか。
2007.07.04 / Top↑
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