2ntブログ
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シアトル・タイムズの1月16日付の社説を読んだ時、
私は非常に注意を引かれました。

それまでに読んだ新聞の記事や論説はほぼ批判的なトーン、
少なくとも懐疑的なトーンに終始していたのに対して、
擁護の姿勢があからさまで、トーンにもヒステリックな響きを感じたからです。

(シアトル・タイムズの他は、1月5日のデイリー・メール紙の記事に強い擁護の姿勢が見られます。
もちろん見落としの可能性もありますが、私の手元の資料では,
メジャーな新聞ではっきり擁護を打ち出して書いたのはこの2紙のみです。)

この社説には「へぇ……」と、ちょっと驚きましたが、
一方で「地元の大病院だからかなぁ……」とも考えました。

とはいえ、この段階では、
この事件がシアトルで起こったという事実に特別な意味があるとは、
まだ気づいていなかったのです。

むしろ、この社説を読んだことで、
地元メディアならではの取材力というものがあるのでは……と、初めて考えました。
アシュリーの父親は最初の数日にほんのわずかの電話取材に応じただけでひっこんでしまったし、
医師らもその頃には取材に応じなくなっていましたが、
シアトル・タイムズなら、地元の強みを生かした独自の取材力で何かを書いているかもしれない
と思ったのです。

さっそく同紙のホームページでキーワード検索をかけてみると、1月4日の記事にヒット。

しかし、開いてみたその記事はとても不思議なものでした。
独自取材どころか、前日のロサンジェルス・タイムズの記事が再掲されていたのです。

確かにLAタイムズの1月3日の記事は、年明けの報道の皮切りでした。
3日にこのニュースを流したのはここだけです。
どこよりも早く2日に父親に電話取材を行い、
両親がブログを立ち上げたのは元旦の夜11時という詳細な情報まで掲載しています。

このLAタイムズの報道は貴重な第一報であり、
私もそれまでに何度も読み返していました。
しかし、翌4日には既に他のメディア各社がこぞって自社記事を掲載したのです。
その4日に、どうして地元の新聞社がわざわざこんなことをするのでしょう。
地元で起こった事件なら、「すわ」とばかりに自社記者を送り出すはずなのに?

再掲記事は、当然のことながら書いた記者の名前も同じだし、
その下にはthe Los Angeles Times とちゃんと元のソースも明記されています。
版権の問題もあるのだから内容は同じに決まっているとは思いましたが、
せっかく再掲だと気づかずにプリントアウトまでしてしまったのだからと、
軽い気持ちで読み始めました。

そして、まもなく不審を覚えました。

もう何度も読み返した3日のLAタイムズに含まれていた情報が、
シアトル・タイムズでの再掲には欠けているような気がしたのです。

そこで、この頃には既にかなり厚くなっていたファイルから
3日のLAタイムズの記事を引っ張り出して、突き合わせてみました。

すると、

A4版のプリントアウトで2行分。

LAタイムズにはちゃんと存在する2行分が、シアトル・タイムズの再掲では削除されているのです。

この削除に気づいた時、私はしばらく身動きできないほどの衝撃を受けました。
それまで、ある疑念が不定形に漠然と蠢いているだけだったのですが、
この2行を見つめているうちに、それは1つの仮説へと形を成し始めました。

シアトル・タイムズで消えた2行とは、

(倫理委の)会議で、父親――検討に関わった人の話ではソフトウエア会社の重役――はパワーポイントでプレゼンテーションを行い、この療法の利点をいくつか挙げた。
2007.07.09 / Top↑
シアトル・タイムズ紙は、シアトル子ども病院が子宮摘出についての違法性を認めた直後の5月10日にも、社説で擁護を繰り返しました。今度のタイトルはThe right decision for a “Pillow Angel”(「枕の天使ちゃん」のための正しい決断)。

冒頭の1文で「障害のある患者の特定の治療には裁判所の命令を求めるとの、子ども病院の方針転換は正しい」と書いてあるので、タイトルの言う「正しい決断」とはこの「方針転換」のことなのかと、つい考えてしまいます。しかし本文を読むと、この社説全体の趣旨はむしろ逆に、アシュリーにこのような医療処置を行うとした当初の決断そのものが正しいとの主張のようです。後半から終わりにかけての論旨は、ざっと以下のようなもの。

アシュリーへの明らかに急進的な治療の選択は軽率に決められたものではない。医師らは40人から成る倫理委員会の承認を得ている。無分別に決められたものではなく、慎重に検討されたうえでの決断なのだ。

医学的なメリットとしては……

……行われる対象としてはほとんどの人で正しくないかもしれないが、しかしこの療法はオプションとして残されるべきである。

……裁判所の役割とは、障害のある患者の医療決定が適切な人によって正しい理由で行われることを保障することであろう ――アシュリーのケースは、まさしくそういうものだったのだ。

この社説は「親が望んだ理由は正当なものであり、親が意思決定者となったことも正しいし、その検討過程も正しい」と言っているのであり、タイトルの「正しい決断」とは実は病院の方針転換のことではなく、アシュリーに行われた医療処置についての親と医師らの決断が正しかったと、改めて擁護しているのです。シアトル・タイムズ紙は全面的に親と医師らと同じスタンスに立っていることを、またも社説で表明しているわけです。

これに対して、同紙のウェブ・サイトの読者の声の欄で、Mark Merkensという人が「5月10日の社説は知らず知らずのうちに傲慢な行いを擁護している」と書いています。別記事で担当医が「いちいちこんなことを言われたら、病院でやっていることの半数で裁判所の命令が必要になってしまう」と発言していることに対して、裁判所の命令を要する医療処置は非常に少ないし、何よりアシュリーのケースでは意見が割れているではないか、と指摘する内容です。

鋭い指摘なのですが、しかし私がこの人の投稿の中で目を引かれた部分はunknowinglyという単語です。シアトル・タイムズはこの人が書いているように、本当に知らず知らずのうちに擁護してしまったのでしょうか? この捉え方はこの人の「新聞の社説だから中立の立場で書かれているはず」という予見、思い込みに過ぎないのではないでしょうか。
2007.07.09 / Top↑