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絶対に他人に介護を任せることはない、ずっと家で家族が面倒を見るというのであれば、なぜレイプを心配しなければならないのでしょうか。

「介護者に体が触れるときに大きな乳房は彼女を性的な存在とし、虐待を招く可能性があるから」というのが、両親のブログで乳房芽の切除のメリットの1つとして挙げられていました。しかし、この点も上のレイプと同じく、ずっと家で家族が面倒を見ると断言していることを考えると、アシュリーの体に触れる「介護者」は家族しかいないはずなのです。

非常に大きく矛盾していることにならないでしょうか。

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Diekema医師は1月12日の「ラリー・キング・ライブ」で、キングに「これらの処置を受けなかった場合、成人したアシュリーはどのようだったか説明してください」と求められて、驚くべき発言をします。

こうした処置がなかった場合、アシュリーはだいたい5フィート6インチの身長で、両親には抱えあげられないほど重くなっていたでしょう。生理がありますから、おそらく生理をコントロールするためにも妊娠の可能性を防ぐためにも、毎月定期的に避妊薬を飲み続けることになったでしょう。

大人になったアシュリーには生理があるというだけで、どうして避妊薬を飲まなければならないのか。

他人に託すことは絶対にしない、ずっと家で家族がケアすると親がいっているのに、そういうアシュリーの生活のどこに「妊娠の可能性」があるのか。家で、家族の誰かがアシュリーをレイプするとでも言うのでしょうか。

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彼らの発言には、アシュリーの状態や彼女がおかれた状況を実際以上に過酷なもののように思わせようとしているフシがあるように思われます。それは、これら処置を行う決定が「初めにありき」であって理由が「後付け」されたと仮定すると、なんら不思議ではないでしょう。

しかし、医師らにとってはそうであったとしても、親の発言にまで、そういう傾向が見られるのは、なぜなのか……?
2007.07.21 / Top↑
Arthur Caplanの論評を読み返していて、ふと疑問に思ったこと。

アシュリーは学校のSpecial Educationのクラスに通っています。ブログでは「アシュリーは学校の障害児のためのクラスに行っており、毎日バスに乗って通い、彼女に合わせた活動が組まれて、先生とセラピストが十分な注意を払ってくれます」と書かれています。

ということは、両親は学校の先生やセラピストには、少なくとも数時間程度はアシュリーを託しているということでしょう。通学バスにまで乗せているのです。

アシュリーを学校の先生には託すことができるのに、なぜプロの介護者に託すことはできないのか? なぜ家庭での介護に他人の手を借りることができないのか? なぜ、この先もずっと他人に託すことなど絶対にないと断言するほど、他人が信じられないのか? 

学校の先生とセラピストと、プロの介護者とでは、一体何が違うのか?
2007.07.21 / Top↑
5月16日のWUのシンポの際に会場から、
ある障害児の父親の手紙が朗読されました。
非常に激しい文面でした。

逐一メモれたわけではないので、
厳密に言葉どおりではありませんが、
私の耳に聞こえたYouの響きのまま大意を訳してみたものを以下に。

うちの子が生れた時、あなたがたはどこにいたというのですか? 
この子が手術室から出てきた時に、あなたたちはどこにいたのです?
私が抱いてこの子にミルクをやっていた夜中に、
……の時にも……した時にも、どこにいたというのですか?
 
それなのに何の権利があって私のすることに口を出す?
責任を取るのは我々なんだ。
あんたらは、これから先もどこにもいない(ここで会場から拍手)。

自分は53歳。先が短いのは承知している。
だけど、この子は絶対に施設になど入れない。
私か妻か、我々の親かが必ずこの子の面倒は見る。

どこかのsicko(異常者)がうちの子をレイプで妊娠させやがったとしたら、
生まれてくる子どもの面倒を一体誰が見ると思っているのだ?
その子を育てるのも我々じゃないか。

それなら、オマエらはみんな、つべこべ言わず、すっこんでいろ。

これらの激しい言葉の一つ一つが読み上げられるにつれ、
いたたまれない気持ちになりました。

この父親が何十年も心に抑え込んできた悲鳴が、
ここに堰を切ってほとばしっている、という気がしました。

この家族の恐らく30年近い年月は、
今ほどの支援も資源もなく、
つかの間のレスパイトすらままならず、
常に気を張って無理を重ね、
家族だけで頑張って、

もうこれ以上は体も心も頑張れないという限界まで頑張っているのに、
それでもどこからも助けの手は差し伸べてもらえない……という年月だったのではないでしょうか。

長く苦しかった年月から残ったものは、
助けてくれることのなかった社会への憤りと、人間への苦い不信。
そして、社会も人間も信じられないからこそ、
自分がもう53歳だというこの父親にはCaplanのいう「希望」が持てない。

この家族にとって何よりも悲痛なことは、
その「希望」がないことなのではないでしょうか。

しかし、どんなに「私か妻か、我々の親が必ずこの子の面倒は見る」と念じてみたとしても、
親もまた、いつ病気になったり怪我をするか分からない生身の人間です。
障害のある子どもの親だけが病気からも怪我からも事故からも、
その愛情の力で逃げ切れるというものではないでしょう。

「この子を幸せにしてやれるのは親だけ」と介護を背負い込み、
苦難にもめげずに頑張りぬこうとする親の姿は傍目には確かに美しいでしょう。
感動もするしエールを送りたくもなるでしょう。

しかし、その考え方に立つ限り、
何らかの事情で家族がケア出来なくなった時には
「子をつれて死ぬ」選択しか残されていないのだということを、
アシュリーの両親の決断に賞賛を送る人は、
考えてみるべきなのではないでしょうか。

Caplanがいう「親亡き後にも子どもが幸福に生きていけるという希望」は、
重い障害のある子どもを社会に託して死んでいけるだけ、
親が人間と社会を信頼し得るという「希望」なのではないでしょうか。
2007.07.21 / Top↑
ペンシルバニア大学・生命倫理センターのディレクターであるArthur Caplanは、
この問題について一貫して批判的な立場をとり積極的に発言しています。

1月5日にMSNBC.comに寄せた
Commentary:Is“Peter Pan” treatment a moral choice?(“ピーターパン療法”は正しい選択か?)“という論評で、Caplanは、
ちゃんとした社会であれば、このような家族には各種用具や在宅ケアの人的支援が行われるはずなのに、
「アシュリーを小さなままにしておくのは社会の失敗を医療で解決するものである」
と書いています。

また
「虐待を防ぐという意味では性的に発達しなければよいのかもしれないが、
それはどの女性についても言えることだ。
だからといって体の一部を切り取っていいことにはならない」と書いた後で、
次のように主張します。

She needs a safe environment at home and if the day comes, a safe environment in an institution.

彼女に必要なのは家庭での安全な環境、
そして、いつかその日が来たならば、
それからは施設での安全な環境なのだ。

この論評を、彼は以下のように締めくくっています。

Families like Ashley’s need more help, more resources, more breaks from the relentless pressure of providing care and some hope that their daughter can be somewhere safe and caring after they are gone.
America has not yet made that promise to Ashley or her parents or the many other parents and kids who face severely disabling mental illness and impairment. We should.

アシュリーの両親のような家族に必要なものは、
もっと多くの支援であり資源であり、
介護負担の過酷なプレッシャーからもっと頻繁に解放される機会であり、

そして、
自分たちが逝った後にも娘がどこか安全な場所で暖かくケアしてもらえるという希望なのである。

アシュリーやその両親、他の多くの重い知的障害を持つ子どもと家族に対して、
アメリカはまだその約束をしていない。我々はその約束をするべきなのだ。
 
2007.07.21 / Top↑