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前回のエントリーで、「もしかしたら、当該倫理委の議論は親の要望を認める結論が“最初からありき“だったのではないか」との仮説を提示しました。実は、その仮説に立って読んでみると行間から医師らの苦悩(pain)がひしひしと読み取れる記事があるのです。

既に紹介した、2月9日付けのSalon.comの記事。年明け早々に論争に火がついて以来、子ども病院サイドがGunther, Diekema両医師以外にはメディアとの接触を禁じていた中で、唯一その他の医師らに取材したニュース・サイトです。病院内にはいわゆる“アシュリー療法”について深く懸念している医師らがおり、彼らによると、病院内の反対はそれまで言われているよりも大きなものだった、と記事は書いています。この記事の中で、生後5ヶ月時からアシュリーの主治医でもあり、WUのシンポでモデレーターを務めていたCharles Cowan(文書によってスペリングが違っているのでCowenかもしれません)医師は、倫理委の雰囲気を次のように語っています。

It was a really complicated discussion and everybody was emotionally distraught. Nobody was cavalier about this.

非常に複雑な議論」で、「誰もが激昂していた」のです。このような会議での検討で出席者全員が感情的になるというのは、ちょっと不思議な現象です。しかも誰もが激昂しているにもかかわらず、「誰も自分から進んで意見を述べようとはしなかった」のです。非常に緊迫した雰囲気が感じられます。率直にものを言いにくい重苦しい雰囲気。その場の雰囲気は、率直に語られることのない鋭い対立をはらみ、強い抗議をはらんでいたのではないでしょうか。

Cowan医師は、さらに続けて次のように言います。

On the one hand, we wanted to make it right for the family. When children are severely disabled, you can’t untangle their interest from their parents. (But when it came to backing the treatment, it was a very hard thing for us to violate our instincts and do that for parents and this to the child.

一方では、家族を助けてあげたい」との思いがあったといいます。「重症児の利益は親の利益と分かちがたい」のです。しかし、医師の苦悩を最も強く表しているのは、最後のセンテンスでしょう。

自分たちの本能(感覚が命ずるところ?)に逆らって、親のためにそれをしてあげ、(そのためにはすなわち)子どもにこれをすることは、私たちにとって非常に難しいことでした」。

violate our instincts とは非常に強い表現です。「医師としての良心を(自ら)踏みにじり」とも読めるのではないでしょうか。家族を助けてあげたいと親の希望をかなえてあげることは、同時に「子どもにこれをする」ことになる。「子どもにこれをすること」は彼らのinstinctsをviolate したのです。医師として、それはしてはならないことだと、彼らはやはり知っていたのではないでしょうか。

彼は他にも非常に興味深い発言をしています。

To say to this family, “You are wrong, you can’t have this procedure because we know what’s better for you and your child for the rest of your life,” is impossible for us to say.

この家族に向かって「あなた方は間違っています。生涯にわたってお子さんを含めあなた方にどちらがいいかを分かっているのは我々なのだから、あなた方はこの処置は受けられません」などと言うことは不可能だった、というのです。この発言からしても、医師らにはやはり「この親は間違っている」との認識があったのではないでしょうか。

しかし不思議なことに、間違っているとは思っていても、親に向かってそうは言えないというのです。医師は親のように一生子どもの世話をするわけではないから、とも聞こえますが、それならどの親に対しても医師は何も言えないことになってしまいます。最初の to this family に注目してください。Cowan医師は意図してか意図せずにか、ここで非常に重大な発言をしているのではないでしょうか。彼は to this family と言っているのです。「ほかならぬ、この家族に向かっては、そんなことは言えない」と彼は言っているのではないでしょうか。

次回に続きます。
2007.07.05 / Top↑
前々回、当該倫理委当日の記録の中の一節を引用しましたが、実はその中に不思議な形容詞が使われています。

The discussion was ………. painful….

倫理委の議論がpainful、苦痛に満ちたものだった、というのです。

倫理委の議論を形容するのに頻繁に繰り返されているのはcareful, extensive, lengthy, long などですが、ここで使われているpainfulとは、それらとはかなり趣の違う形容詞です。その他の形容詞が比較的客観的なものであるのに対して、painfulはどちらかという主観的な、ニュアンスの濃い言葉のように思われます。

これまでDiekema医師が倫理委について説明してきた内容からすると、まったく矛盾して不思議な形容なのですが、ここでもまた、うっかり「語るに落ちて」しまったのでしょうか。倫理委の議論の何が、誰にとって、どのようにpainful だったというのでしょう。

今ではセーフガードなど不要といわんばかりの発言に終始している医師らですが、実は去年秋の論文では「恣意的な適用」を懸念し、くどいほどセーフガードの必要を説いていました。もしかしたら論文を書いた時点では医師らには非常に強い良心の呵責があったのだけれど、その後は状況の変化と共に自己保身の必要に迫られて、それをかなぐり捨てざるを得なかったのではないかとの仮説を「医師らの論文の矛盾」のエントリーで提示しました。2006年秋にそれほどの良心の呵責があったと仮定すれば、実施を決定した2004年の倫理委員会では、彼らの良心の呵責はもっと強かったのではないでしょうか。

当該倫理委の記録に唐突に、場違いに登場するように見えるpainfulという形容を、この仮説の文脈で考えてみたら、どうでしょうか。つまり、倫理委での議論は医師としての彼らの良心にとってpainfulなものだったと考えてみたら、彼らがついこんな形容詞を使ってしまったことも、さほど不思議ではなくなるのではないでしょうか。

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これまで①~⑨のシリーズで検証してきた「倫理委の不思議」と、それ以前の様々な角度からの資料の検証からは、多くの不可思議が浮かび上がってきました。それらの不可思議に対して説明のつく状況というものを想像してみた時に、そこから立ち上がってくる疑問とは、次のようなものではないでしょうか。

2004年5月5日の倫理委は、もしかしたら“最初から結論ありき”だったのでは……? 
2007.07.05 / Top↑