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ちょっと記事そのものは当たれていないのですが(この後、出てきたらリンクします)

選挙戦が始まった(と思う)英国で保守党のCameron党首が
自殺幇助の合法化には抵抗すると表明したとのこと。

以下は、それを歓迎するジャーナリストのコラム。
Oregon州メディケアの「抗がん剤はダメだけど自殺幇助なら給付」の事例が紹介され
水門が切られたら「死は義務になる」と。

労働党のBrown首相はかねて合法化に反対しているので、
まずは、よいニュースとして、とり急ぎ。



この記事の中には、ちょっと面白い指摘もあって、

なぜ自殺幇助合法化の闘士たちには女性が多いのだろう?
また、なぜ彼女たちのパートナーはそういう話にニコニコしているのだろう?」

私は、うっかり、これを読むまで、このことに気づいていなかったので、
ハッとさせられて、確かにそうだ……と思いました。

で、ちょうど数日前に川口有美子氏の「逝かない身体」で読んだ
数行が思い出されました。

ALSの患者さんたちが呼吸器をつける選択には
公的介護保障や、地域の医療体制や、家族の介護体制や、いざ選択が訪れた時の状況や、
さまざまな要因があって、それぞれの選択は非常に複雑で難しいという話が
何度も語られる、この本の、ごく終わり近くで、

医療も介護も十分に受けられない地域で、
昼間はだれも見守る人がいない家庭環境にある40代女性の
「呼吸器はつけない」という選択が語られる。

その人のことを書いた部分に、
著者が出会った多くの女性も、この人と同じようだった、と語られるくだりがある。

家事一切ができなくなり、かえって家族に迷惑をかけてしまうのなら、死んだ方がましだという母親の覚悟もわからないでもない。だが母親の存在理由はそんなもんじゃないと一方では思う。患者も家族も、慣れれば別の生き方も見えてくるはずだと。

自分の介護を、家族、特にわが娘にさせたくないという女性患者が多いのは、介護は娘の、特に所得のない未婚の娘の仕事であるとされてしまうことが多いからだ。社会が、というよりもむしろ狭い家族という親密な間柄で、無償の仕事は自動的にもっとも弱い立場の女性に分担されてしまう。
(p.228)

そして、
……個人の意思決定の前に、同じ国のなかでも、生きられる場所とそうでない場所、生きやすい性と生きがたい性があった。このことに私たちはもっと敏感になるべきではないだろうか。
(P.230)


そういえば、柳澤桂子氏も多田富雄氏との対談の中で
妻の方が介護を受ける身になった苦痛を切々と訴えていた。
その訴えの悲痛さもだけど、それが多田氏にはまったく伝わっていかないで
誰にも受け止められなかった柳澤氏の辛さの訴えが宙ぶらりんになったまま、
妻の介護を当たり前として受けている多田氏によって話がさっさと進められていくのが
読んでいて、とても切なかった。

臓器移植の問題でもドナーには女性が多いことが指摘されている。
「親からの臓器提供は当たり前」という論文でも、
親はいつの間にか she で受けられていた。


2010.04.09 / Top↑
月曜日の以下のエントリーでのafcpさんとのやりとりが、
当ブログがずっと考えてきた問題、“Ashley療法”の根っこ、医療と倫理の問題に迫ってきたようなので、


今朝、afcpさんからいただいた以下のコメントへのお返事を
エントリーに立ててみました。

spitzibaraさんがよく「テクノ」と表現されるものは、どのあたりのものまでが含まれるのでしょうか。

例えば自動車は「テクノ」に含まれるのか、電動車いすは含まれるのか。抗生物質は含まれるのか、抗認知症薬は含まれるのか。ADHDの治療薬としての中枢 刺激薬は含まれるのか、enhancementのための中枢刺激薬は含まれるのか。子宮体ガン患者に対する子宮摘出術は含まれるのか、知的障害児に対する 子宮摘出術は含まれるのか。

そこが読み取りきれなくて、いつも少し混乱します。


なお、afcpさんは児童精神科医で、

ADHDの治療薬をパフォーマンス向上の目的で使うことの是非、
おむつ交換ロボットの実現可能性、
育児ロボットが担うべき機能について
afcpさんのお考えはたいへん興味深いですし

これまでのやり取りについても、
上記エントリーのコメント欄から、ぜひ、どうぞ。

――ここからがお返事の本文です。

私の問題意識は「科学とテクノロジーの急速な進歩により、
これまでできなかったことが可能となって、世の中の価値意識や倫理観が
倫理の議論を尽くし、法整備をするのが追い付かない速度で変容していること」にあるので、

「科学とテクノロジー」の中身も
文系頭の我々一般人の想像が及ばないところにあるだろうものも含め、
常に急速に変わっていく過程にあるものと考えています。

その程度の知識しかない人間に
科学やテクノロジーを論じる資格はないという考えもあろうとは思いますし、
私がafcpさんのコメントから頻繁に受け取るメッセージもそういうトーンのものですが、

私は科学とテクノロジーを論じたいのではなくて、
人間の生き死にや社会のあり方に科学とテクノロジーの進歩が及ぼしている影響と、
その影響下で起きていると私自身が感じている諸々の現象について、
特に危惧される英語圏の国々での出来事や議論の行方について
また特に日本では、それらについての情報が不均衡であることについて
考えようとしているつもりでおり、

それは「科学とテクノロジー」を論じることではなく、
人間について考えることであり、生きることとか、医療や社会のあり方とか
また時代が向かう方向を考えることだと思っています。

科学とテクノロジーを全面否定しているわけではありません。

科学とテクノロジーの個々の技術そのものが道徳的には無価値なものだとしても、
それがどのように使われていくか、社会にどう影響していくかということは
道徳、倫理、人間の尊厳の問題でもあろうと考えます。

子宮摘出という医療介入そのものは単なる技術でしょう。
癌の患者さんがやむを得ず子宮摘出術を受けられるのは
本当の意味でのインフォームドコンセントがきちんとあってのことなら
通常の医療の範囲だろうと思います。

しかし、その技術を、知的障害者の介護負担軽減のためや
知的障害者が性的虐待の被害者になりやすいという別の社会問題への解決策として
または他にもっと侵襲度の低い選択肢があるにもかかわらず、QOLを持ち出したりして、
親の決定権の元で行われることについては別問題だと考えます。

この問題そのものについて、ここでafcpさんと議論しても際限なくなりそうだし
まだ議論が成り立つだけの共通の基盤が存在しないと思うので、しませんが、

Ashley事件以降、この問題は当事者らはもちろん生命倫理学、哲学、障害学、法学など、
様々な分野から議論されており、それこそが、上で述べたように、
この問題が医療だけで検討すべき問題ではなく、広く社会のあり方や
社会の価値意識、倫理観の問題として学際的に、また当事者や一般も含めて議論すべきことである
という証左ではないでしょうか。

“Ashley療法”を一般化しようとしている人たちの問題点の1つは
これを医療の問題としてのみ捉えて、医療の内部で決めればよいことだとして
他の分野からの批判に誠実に応じていないことだと私は捉えています。
また、他の分野が障害や介護に関して積み重ねてきた知見や議論や
そこから出てきた知恵についても、謙虚に学んでみようとする姿勢もありません。

afcpさんが、拙ブログを読まれて混乱されるとおっしゃっているように
時に私の書くものに苛立っておられるように見える要因も、
そのあたりにあるのではないでしょうか。

上記リンクのエントリーのテーマも、よく読んでいただければ、実は
おむつ交換ロボットの実現可能性を問題にしているのではなく、
工学という1つの分野の高い知識を持っているという意識が、
他の知識を欠いている可能性に対する無自覚・無反省に繋がっていることを
問題にしたものです。

「ご自身の専門領域(ここでは科学やテクノ)世界での価値判断」と「社会一般の価値判断」とは
そのまま重なるわけではないということが理解されていない専門職の方々が
日本でも増えているように感じられることと、それが社会に及ぼす影響が、
私の懸念の1つではあるのですが。

例えば、
「感染予防のためには、親が換えるよりも子育てロボットがオムツを換える方が良い」と
本気で考えておられる児童精神科医が出現していることは、
正直、まったく想定外だったので、絶句しましたし、

そういう認識をお持ちの方が子育てについて講演されたりすることを考えると、
本当に怖くて、呆然としてしまいます。

ここでも「何が悪いのか分からない」と言われるのではないかと思いますが、
それは私から見れば、それこそ病気については知識をお持ちでも
人間とか子育てというものがもう一つ分かっておられないからでは、
としか言いようがなく、しかし、それがafcpさんに届くとも思えず、
今回のやりとりから考えれば、この溝はここでは当面、埋めようがないもののように感じます。

なぜ、これほど絶望的なほど言葉が通じないのか、
先のエントリーで取り上げたシンポで抱えて帰った問いでもあり、その問いは、
そちらのエントリーの最後にも書いたように“Ashley療法”論争の根っことも、
Maryland大学であるシンポの「障害、医療と倫理」のテーマとも繋がっているので
私は私なりに、これからも継続して考えていきたいと思います。

とりあえず、
こういう時代だからこそ、医療とその周辺で起きている倫理問題の数々は、
医療の中だけでなく、医療の外の様々な分野の知見を集めて考えるべきだというのは、
既に社会の共通認識だと私は思っているのですが、そのことの重要性を改めて痛感しましたし、

医療の世界の方々にも、そういう認識を共有していただければ、と改めて強く思います。

          ――――――――

エントリーを立てたので、混乱を避けるため、
enhancementについては最後に持ってきました。

私がAshley事件からこちら読みかじった限りでは、米国の生命倫理学者の中でも、
治療目的での薬物使用とenhancementとの間には一線を引いて
後者は認めないという人の方がまだ主流で、しかし、
その人たちも抗生物質をenhancementだと捉えてはいなかったように思うので、
「一貫性がない」というご批判は私だけに当てはまるものではないように思います。

まぁ、FostやSavulescuに言わせるとコーヒーだってenhancementですし、
抗生物質もenhancementだという理屈は彼らの側からは出てきそうな気はしますが。
2010.04.08 / Top↑
オクラホマ州 Tulsa のカトリック系の病院が
患者の終末期医療に関する意思は尊重する一方、
栄養と水分を引き上げることによって死なせることは拒否する、との方針を打ち出した。

もともと去年11月に米国カトリック司教会議が倫理綱領の第5版を発表した際に、
特に栄養と水分に関して患者の事前指示が尊重されないのでは、と
全米で論争を巻き起こしていたとのこと。

しかし、記事をよく読んでみると、
どうも病院側が主張しているのは以下の内容のようなのです。

「元々の病気でターミナルな状態になった人が
栄養と水分を拒みたいという本人の意思がある場合には尊重するし、
死に直面していて、そういうケアが本人のためにならないような人にまで
無理やり栄養や水分を供給するとは言わない。

けれども、
死が差し迫っているのではない人が、
事前指示書によって栄養と水分を拒んでいるとしたら、
それは自殺幇助を禁じたオクラホマ州法に違反する行為であり、
カトリックの教義にも反する。

カトリックの病院としては、
そういう人を餓死させたり脱水死させたりすることはできない。

どうしても、ターミナルでない人が栄養と水分を拒みたいと言うなら
他の病院に転院してもらう手続きをとる」

それに対して、「死の自己決定権」ロビーのC&Cから出ている批判は、

「延命治療中止の決定権を患者に与えた法律を尊重していない。
患者には宗教に関わらず、事前指示書や家族の指示を尊重してもらう権利がある。
だいたい、たいていのアメリカ人は植物状態になった時に
人工的に栄養と水分を供給してほしいなんて思っていない」

つまり、論点はきっと、
植物状態の人やShiavoさんのような重症障害者を
脱水死や餓死させるようなことはしない、という病院に対して、

本人さえ望んでいれば、宗教を問わず、それは尊重されるべきだろう、という批判。

(しかし、その一方でC&Cが「家族の指示」を持ち出していることに注目。
それに「たいていのアメリカ人は」というのも「自己決定」に反する)

Starvation not allowed
Tulsa World, April 4, 2010


栄養と水分の提供は延命治療なのか基本的ケアなのかという議論は
Shiavo事件の後、Ashley事件の頃にはまだあちこちで見たような気もするのだけど、
この頃はあまり目にしなくなってしまった。

「無益な治療」論に押しのけられてしまったような感じがする。

そんな流れの中で、
「ターミナルでない人への水分と栄養の停止は自殺幇助とどこが違うのか」という
問題提起が出てきたことは、考えてみるべき意義があると思うのだけど。

           ――――――

最近、非常に強く感じていることの1つに、
あまりにも世の中の価値意識の変化が速いために、うかうかしていると、

同じ用語が使われているのに、
その意味には、くるっと一回余分なひねりが与えられて
中身がまるで反対の方向を意図するものにすり替わってしまっていたりする、ということ。

例えば、つい2日前に触れたばかりの「介護者支援」。

介護者だって生身の人間なのだから、がんばってもできないことはできない、
介護者が心身ともに健康でいて初めて良い介護ができる、
介護者自身の生活や人生だって大事にする権利もある、
それをサポートするのは社会の役割である、という視点と、

実際にそのための給付やサービスや
介護者のニーズのアセスメント制度を作っている国もある。

私は、そういう「介護者支援」を調べて自分に可能な範囲で紹介してきたつもりだし、
ここ数年、介護の現場で専門家が使い始めた「介護者支援」という言葉も、
そちらの意味だと思うのだけれど、

つい先日、ある工学者の方が
介護負担の軽減のための技術を開発していくことを「介護者支援」と表現されたことに
横っ面をすっぱたかれる思いがした。

そして、これまでの日本には
本来の意味での「介護者支援」が欠けていたことの反省すらないまま、
これから日本での「介護者支援」は「介護負担軽減のための技術開発」を意味することに
なっていくのだろうな……と、うそ寒い思いで予感した。

また、その予感には、
「介護者支援」という名の支援技術の提供は
介護負担の軽減と引き換えに、再び家族の中へと介護を押し戻していくものになるのでは……と
“Ashley療法”の論理と同じ矛盾への懸念が含まれてもいる。

去年は、ある介護関係のシンポで
介護分野では知らない人がないくらいに素晴らしい看取りの地域支援を実践してこられた方が
「高齢者は口から食べられなくなったら死」と言われた時に、

この人が訴えたのは、
「口から食べられる間は食べ続けられるために精一杯の個別ケアを尽くしつつ、
病院ではなく地域で支え続けて、それでも口から食べられなくなったら、
そのまま地域で看取れるように、それだけの介護体制を地域に作りましょう」

つまり医療と介護の在り方を変えていこうとの提案だった。

だけど、私が懸念した通り、
そのエントリーにコメントしてきた人の大半には
その人の言っていた「口から食べられなくなったら死」の真意は伝わっていなかった。

特に、その人がメッセージを投げかけていた医療分野の人に
最も伝わっていなかった。

その時、
これからの日本では今のままの病院での高齢者ケアと病院死を前提に
「口から食べられなくなった人には無駄な医療費を使わずに死んでもらおう」
という意味で、それが言われ始めるのだろうな……と、うそ寒い思いで予感した。

英語圏の議論を見ていると、
「終末期の緩和ケア」という言葉だって、
ある人は「きめ細やかな観察と共感、そしてアグレッシブな症状管理」の意味で使い、
ある人は「医療を行わないという選択」の意味で使う。

「尊厳死」だって「死の自己決定権」だって、
それを言っている人の立場によっては、同じ言葉が全く違う内容で使われている。

うかうかしていると、日本でも
「尊厳死」や「緩和ケア」の意味する中身が
いつのまにか微妙に変わっていた……なんてこともあるかもしれない。
2010.04.07 / Top↑
インド、米国、ウクライナなど海外で代理母に大金を支払って子どもを産んでもらう夫婦は英国のヒト受精胚法に違反することになるので、高等裁判所が親権を認めない可能性がある、と生殖補助医療を専門にする弁護士らが警告。
http://www.guardian.co.uk/uk/2010/apr/05/surrogacy-parents-ivf

英NHSから、急性期病院での認知症患者のケア改善すべき点の指摘。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/184432.php

英国のホテルに、みそ汁とご飯の和食の選択肢が登場。Bentoなる単語が「和食」の意味で英語に定着しつつあるのかも。
http://www.guardian.co.uk/travel/2010/apr/05/bento-bacon-breakfast-hotels

米国で09年の処方薬のコスト、前年の5%アップ。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/184368.php
2010.04.06 / Top↑
オーストラリア政府は自殺の方法を教えるサイトを有害サイトとして検閲し、アクセスをフィルターで封じているが、それらのサイトを見ることができるテクニックを教えるセミナーが安楽死合法化ロビーがによって次々に開催されている。
http://news.smh.com.au/breaking-news-national/euthanasia-workshops-to-fight-filter-20100405-rluv.html

ボブ・ディランの東アジアツアーで、中国公演キャンセル。中国当局が公演を認めなかったため。
http://www.guardian.co.uk/music/2010/apr/04/china-blocks-bob-dylan-gigs

南アフリカの著名な白人至上主義者が自分農園の従業員に殺された事件で、白人至上主義の団体が報復を宣言し、政府が国民の連帯を呼び掛けるなど、緊張が高まっている。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/africa/8603048.stm
2010.04.05 / Top↑
【9日追記】
afcpさんとのやりとりで、どうも誤解を招きそうだということに気付いたので、
あらかじめ追加説明しておきます。

この工学者さんは今現在ロボットを作っている方ではありません。ご専門も、ちょっと違いそうです。
現在、研究しておられるのは高齢者を集めて話をさせて知的機能を維持するという試みとか。
ここで取り上げた「洗車機とUFキャッチャーでおむつ交換ロボットはできる」というのは
この日のお昼休みの雑談の中で、思いつかれたことだそうです。

(以下、当初エントリーのまま)

しばらく前に某所で聞いて、頭をぶんなぐられたほどの衝撃を受け、
私はいまだにその衝撃から立ち直ることができていない
著名国立大学・工学部の准教授の発言。

おむつの着脱というのは、要は折り紙を畳んだり開いたりするのと同じ動作なのだから
洗車機とUFキャッチャーみたいな装置で作ろうと思えば作れる」

「折り紙を畳んだり開いたり」のところで、この人は、
広げた風呂敷の左右の端っこをつまんで真中に寄せるような動作、
次いで、手前の端を両手でつまんで真中まで持ちあげ、また元に戻すような動作をされました。

それが個人的なヨタ話や世間話の中の発言ならば、
別に目くじらを立てるほどのことでもなくて、
「工学者の中にはアホな人もいるのね」と笑って済むのかもしれませんが、

それは工学者が集まって、介護現場での技術支援を議論するシンポでした。

1日の議論の中で発表者が人権という言葉を使ったのは1度だけ。
「人権を侵害しない範囲でIT技術を」。

その範囲がどこまでであるかを考えるつもりなど
全くなさそうな文脈と口調で。

そんな議論を、
「工学者の人たちというのは、介護現場で多くの人たちが積み重ねてきた議論についても
障害当事者たちがこれまで言ってきたことやリハ医療の世界で研究されてきたこと、
医療倫理の世界で議論されてきたことについても、こんなにも無知で無関心なものなのか……

そして、その無知に対して、こんなにも無自覚なまま、平気でこんな議論をしているのか……」と
初めて知って唖然とし、ずっと、その衝撃を受け止めかねつつ聞いていたので、

シンポも終盤に差し掛かったところで
「洗車機とUFキャッチャーでおむつ交換ロボットは作れる」と平然と言える人の無知と、
さらに、その発言を疑問に思うこともなく肯定的に受け止めてしまえる他の人たちの意識のあり方とは
ただ、ひたすらに「あり得ない……」としか思えず、どうにも我慢がならなかったので、
会がはねた後で、その人のところへ行きました。

「私は重症障害児の母親なのですが、
人間の体はモノと違って、そう簡単に思うようにはなってくれないというか、
例えば、寝たきりの人の身体はねじれてきたり、ねじれたまま固まったり
また、ちょっと不用意な力が加わると簡単に骨折したりもするんですけど、
そういうことは、ご存知ですか」

娘の脚の捻じれ方を実演しながら、そう聞いてみると、

「じゃぁ、逆にこっちが聞きたいですけど、
そんなに脚がねじれているのに、どうしてオムツが替えられるんですか」
(替えられるわけがないだろう、という口調で)

まったく予想外のリアクションに絶句して、
瞬間、「それは人間がすることだからだよッ」と怒鳴りつけたい衝動に駆られたのだけど
懸命な努力により、なんとか抑えて、

「そこが介護する人の経験とか技術とかいうもので、
それに介護には阿吽の呼吸というものもあって……」
混乱する頭でなんとか説明を試み始めると、すぐに遮られた。

「それで、脚の角度は何度なんですか?」

「……はぁ?」

「脚の曲がりの角度です。角度さえ分かればテクノロジーで対応は可能です」

「あの、もしかして、寝たきりの人の身体がどういうものか
ご覧になったことがない……とか……?」

「いずれ見に行かなければ、とは思っています」

「……いや、でも……あの、私としては、そういうことすらご存じない方が
こういう場でこういう議論をされている状況そのものが怖い、というか……」

もう何を言っているのか、自分でも、ほとんどワケが分からなくなりながら、
その後もちょっとやり取りした中で、再び強烈に顔面をすっぱたかれた気がしたのは、

「私は介護者支援をやりたいんです」

「え……かっ……かいごしゃ…しえん???……ぐ……ぬぅ」

もう、それ以上にものを言う気分も失せて、とっとと退散した。


介護者にも自分自身の生活と人生を送る権利がある、
介護者も自分自身の人生や生活を送れるように、
レスパイト、介護者手当てや、介護のためのタクシー代の給付、
介護者ニーズのアセスメントやフレックス勤務制度の法制化や、
その他、欧米で様々に整備されてきた介護者支援は、

日本には、長いこと、その視点すらなかった。
やっと、介護者にも支援が必要だと介護現場で言われるようになってきたものの
現実の介護者支援のサービスも制度もまだないに等しい。

娘との体験の中から
そういう視点と制度整備が必要だと痛感したからこそ、
私は「介護者支援」という言葉で、そういう視点の転換とサービスの必要について書いてきた。

それは、このブログでも何度も書いてきた通り。
(詳細は文末にリンク)

「介護者支援」とは、
決して、その日、人権など誰も意識しないまま無邪気に議論されていた
徘徊防止や見守りのための「遠隔監視システム」や
トイレにカメラを持ち込んで動作を読みとり指導する「遠隔介入システム」や
ウツ病や認知症の人の表情からその人の感情を読みとる「表情認識システム」や
「洗車機とUFキャッチャーで作るオムツ交換ロボット」のことじゃない。

だけど、それを、この人に向かって語ろうとすることは不可能だった。

少なくとも私は、この、
寝たきりの人間を見たことすらなくとも、著名大学の工学者である自分には
おむつ交換ロボットは作れると公言する資格があると信じて疑うことのない人との
言葉の絶望的な通じなさを前に、悶絶してしまった。

その悶絶から、まだ立ち直れていないので、
なぜ、いかに、それらは「介護者支援」ではないかという理屈は
ここでも、まだ垂れることができないでいるのだけれど、

あの日、私が、帰りの新幹線で身動きもできず一点を凝視し続けたほどの衝撃を受けたのは、
あの場で、あんなにも無知なまま、またその無知に対して、あんなにも無自覚なまま、
無邪気に議論していた人たちの「善意」が

「世の中の重症児の親を助けてあげたい」と考えて
”Ashley療法”を世界中に広げていこうとするAshley父の「善意」と、
まったく同じタチのものだと感じたからだ。

そして、これは非公式な発言だったけれど、別の工学者の方が言われた
「障害者と認知症患者とでは話が別だからね」という言葉も、

「障害者運動ができるような障害者とAshleyとは話が別だ」と”Ashley療法”を正当化し
「一定の知的レベルに達しない人には尊厳や人権を認める必要はない」とする
Diekema医師やAshley父と、まったく同じ論理だったからだ。


なぜ、医療は障害者について、こんなにも無知なのか――。
なぜ、そのことに、こんなにも無自覚なのか――。

重症児の親としても、Ashley事件を追いかける中でも、
ずっと、その疑問を感じてきたことを、昨日、
障害者の権利に対する医療と倫理委の無理解を考えるカンファについてのエントリーで書きました。

それでも、もしかしたら、医療はまだマシだったのかもしれない……。

この「洗車機とUFキャッチャーで」発言を聞いた日、
娘が生まれてからの23年間で初めて、そんな言葉が私の頭に浮かんだのでした。


【7日追記】
今日、児童精神科医のafcpさんからいただいたコメントに
「育児ロボット」が登場したので、思い出して、こちらも関連エントリーとして以下に追加。





2010.04.05 / Top↑
4月28日にMaryland大学法学部で
障害者に関する医療と倫理を巡って非常に興味深いカンファレンスが開催されるようです。

主催は The Maryland Health Care Ethics Committee Network と
The Law & Health Care Program (L&HCP)

タイトルは
Disability, Health Care & Ethics – What Really Matters
「障害、医療と倫理 - 本当に大切なこと」

カンファの情報ページはこちら

趣旨説明を以下に。(後半の日本語訳は逐語訳ではなく、概要です)

Persons with cognitive and physical disabilities comprise a growing sector of our society. Yet, health care providers and ethics committee members may lack knowledge, skills, and insight related to disability rights and its impact on health care delivery and ethical decision-making. This conference is targeted to individuals who wish to broaden their understanding of the concerns and rights of people with disabilities in the context of health care encounters. Attendees will learn about the history of discrimination against people with disabilities and the rise of the "social model" of disability, current biases among some health care providers that disadvantage persons with disabilities, and knowledge, strategies, and resources health care professionals and ethics committee members should have or be able to access to appropriately respect disability rights at their institutions and in health care encounters.

医療職も倫理委員会のメンバーも、
障害者の権利と、医療や倫理を巡る意思決定におけるその権利の意味について
知識もスキルも洞察も足りない――。

カンファレンスでは、
障害者に対する差別の歴史と「社会モデル」の登場を振り返りつつ、
現在の医療職の偏見がいかに障害者への不当な扱いにつながっているかを考え、

障害者の権利をきちんと尊重するために医療職と倫理委のメンバーは
どのような知識、戦略、リソースを持つべきか、を考える。


午前のプログラムには、障害当事者3人のパネルが予定されており、
そのうちの1人は、当初から一貫してAshley事件を批判していて
当ブログでも何度も言及しているBad CrippleことWilliam Peace氏。

午後の分科会の1つは 
Lessons from the Ashley X Caseと題してAshley事件を取り上げています。
登壇はWilliam Peace氏と、やはり当初から批判を続けている重症児の母親で
当ブログでもお馴染みのClair Roy さんの2人。

Clairさんは事情でビデオでの参加となったようですが、
そのビデオ発表に向け、ご自身のブログ
「もしあなたが倫理委のメンバーだったら、Ashleyの両親と担当医に何と言いますか」と
意見を募集しています。

それから、分科会でもう1つ、目をひかれるのは
見事な批判論文でDiekema医師を明らかに窮地に追い詰めた法学者Dr. Alicia Quiletteの講演。

Disability & Health Care Resource Allocation
「障害と医療資源の分配」

            ―――――

なぜ、医療は障害者について、こんなにも無知なのか――。
そして、なぜ、そのことに、こんなにも無自覚なのか――。

これこそ、まさに私自身が重症児の親として
もう20年以上も抱え込んできた大きな疑問であり、

また、フリーライターとして覗き見たリハ医療の世界や、
最近では介護保険関係の諸々で見聞きする中でも、
時に非常に強く感じてきた疑問であり、

そして、もちろんAshley事件を追いかける過程でも
歯噛みするような思いで何度も繰り返してきた問いでもあります。

またAshley事件は、
科学とテクノが内包する能力至上の価値観と功利主義による障害者切り捨てへの
世の中の急速な傾斜を、そのトバ口で象徴的に予言するかのように起きた事件だと
私は捉えています。

Ashley事件を小さな窓にして
この3年間に知ることになった諸々から当ブログの問題意識がたどりついたのも、
まさにDr. Quellette の講演タイトルの「障害と医療資源の分配」という問題。

今年の初めに3周年の記念エントリーで触れた
Ashley事件を批判してきた人たちの点が、
今こういう形で線に繋がり、より大きな問題を提起するための
面を形作り始めているのだとしたら、それは本当に嬉しいことです。


ちなみに、Diekema医師のAshley講演は4月22日。
重症児への栄養と水分停止についての講演も。




2010.04.03 / Top↑
Health Law Weekという法律関係のニュースサイトで、
3月19日付で掲載された独自記事が”Ashley療法”を取り上げています。

Protecting disabled children’s right to bodily integrity
Health Law Week
AllBusiness, March 19, 2010


前半はAshley事件の概要をまとめたものですが、後半、
“A療法”は障害児の身体の統合性に対する権利を侵害するものであり、
親には利益の対立があるので、国家が介入して
親の決定権の範疇から無条件にはずすべきであると主張。

後半部分を以下に全訳してみます。

米国最高裁の判例によると、合衆国憲法修正第14条により、身体の統合性に対する権利は憲法で保護された基本的人権である、とされる。ただし、それは絶対的な権利ではなく、公共の健康と福祉を守る国家の利益と秤にかけられなければならない。自らその権利を行使することのできないとしても、この身体の統合性に対する権利は重症障害児にも当てはめられる。すなわち、障害児はこの権利によって不必要な身体への侵襲撃殻保護されているのである。

非治療的成長抑制療法は、医療に関する親の決定権の無条件の例外とされるべきである。なぜならば、その療法は非治療的であり、親には利益の対立があるので子どもの身体の統合性に対する権利を大きく侵害することになるからである。一般に子どもは自ら医療に同意する法的能力を持たない。

親は子どもに代わって医療に関する意思決定を行う権限を通常は持っている。裁判所も、親は子どもの最善の利益によって行動するものだと前提しているので、通常は親の決定は国家の介入を受けないものとされる。しかし、Ashley療法のリスクはその療法の利益よりも大きく、子どもの身体の統合性に対する権利を保護するべく、国家が介入すべきである。


これまでに出たAshley療法に対する法律的な解釈としては、
細かいところで様々な追加点や解釈の差異はあるにせよ、
基本路線はほぼこの辺りであることは、この3年間で確認されてきたように思います。

侵襲度が高い。
不可逆である。
本人の健康上の必要から行われるものではない。
身体の統合性に対する権利の侵害。

それだけに、先月のオーストラリアのAngelaケース
親と医師の主張を全面的に認めた家庭裁判所の判決の論理が全く解せない。

(というか、あの判決文をしっかり読めば、逆の意味で“解せてしまう”のが、
本当はものすごくコワい…・・・のですが)

          ―――――

ついでながら、この記事には
前半の事件の概要の部分で一箇所、重大な事実誤認があります。

「Ashley療法を医師らが思いつき、それを親が承認した」と捉えられているのですが、
これは、ちょっと今さら呆れるほどの誤認で、

思いついたのは親の方です。親が自分で考案したAshley療法をやってほしいと要望し、
それを病院の”特別”倫理委員会が承認した、という話です。

表向きは。

実際は、政治的に(たぶん個人のキャラとしても)パワフルな(ついでに高圧的な)父親に
押し切られる格好で、立場の弱い病院と医師らが承認させられてしまった・・・・・・のが、たぶん事実。

しかし、なにはともあれ、
今のこの段階になっても、まだ、こうして批判し、
一般化を食い止める努力をする必要があると感じている人がここにもいる……。

とりあえず、それが、なんといっても嬉しい。
2010.04.02 / Top↑
闇の自殺幇助事件で逮捕のFENの4人、罪状認否で無実を主張。
http://www.forsythnews.com/news/article/4812/

シャイボ事件でクローズアップされた事前指示書(リビング・ウィル)、しかし事件の後でも書いている米国人の割合は変わらず。つまり、増えていない
http://www.medicalnewstoday.com/articles/184059.php

英国政府からソーシャルケア白書“Building the National Care Service”。
http://www.dh.gov.uk/prod_consum_dh/groups/dh_digitalassets/documents/digitalasset/dh_114923.pdf

上記白書へのリアクション。このほか、野党から批判も。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/184044.php
http://www.medicalnewstoday.com/articles/183983.php

年間750万人の母子が貧困国で妊娠中・周産期に死亡しているのは、医師不足が原因なので、看護師に研修を行って帝王切開ができるように、との提案。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/184136.php

カトリックの大司教が、第三世界の貧困対策としての避妊に理解を示した。:G8では中絶も選択肢にしようという話が出ているようだし。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/8594770.stm

米国でも大量の豚インフルエンザ・ワクチンが未使用のまま余り、廃棄されることになりそうだ、と。
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/03/31/AR2010033104201.html?wpisrc=nl_cuzhead

アフリカのサブ・サハラ砂漠地域に旅行する人向けの髄膜炎予防ワクチン、Menveoがヨーロッパで初めて使えるようになった。英国では2000年からC型に対してはワクチンが使われているらしいのだけれど、Menveoは4タイプに有効とされ、専門家は今後は旅行者以外への適応が検討される、と。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/health/8593740.stm

仮に、無用の手術を受けることになる女性が中には出るとしても、乳がんのスクリーニングが女性全体に対する癌予防の利益を比べると、そのリスクは小さいものにすぎない、と乳がん検診での誤診と無用な治療リスクを巡る論争で。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/health/8594940.stm
2010.04.02 / Top↑
最近、BBCに対しては、自殺幇助合法化問題で偏向報道を行っていると
議員らから批判が出ている(詳細は文末にリンク)ところですが、

そのBBC、本当に不可解なことをします。

昨日、以下のような記事が掲載されました。
タイトルは「BBCに遺書を送った夫婦が自殺」。



しかし冒頭のリード部分に「11月に自殺した」とあるように、
この事件は既に去年11月に自殺として報道されています。


つまり、昨日の記事は、
その事件で行われていた検視官らの捜査が終わって
幇助を受けた自殺ではなく本人たちによる自殺だったことが確認された、という
いわば、続報記事 なのです。

それなら、今回のタイトルは
「遺書を送った夫婦、検視官調査で自殺と確認」とするべきところで
今回、また新たに自殺した夫婦がいるかのような
紛らわしいタイトルは、おかしい。

しかも、記事の内容も、
自殺幇助は合法化すべきだという夫婦の遺書での主張や
夫婦の行動に賛成した子どもたちの発言に多くのスペースが割かれています。

冒頭の「11月に」を見過ごして不用意に読むと、
今回、また新たな事件が起こったかのように受け取られそうな書き方でもあり、

また続報にかこつけて、
これからやってくる老いを拒んで死ぬ権利を主張する夫婦の言い分に
改めてスポットライトを当てて、それを世論に投げかける書き方でもあります。

私も最初は、てっきり「また起こったか」と思いました。

ただ、前の事件の記憶もあったので検索してみたら
やはり11月に既に自殺として報じられた事件のことだったので、
唖然としたという訳です。

いったいBBCは、なにをやっているのか。

日ごろから、
科学とテクノで「こういうことができるようになる日が近い!」というニュースが
BBCには特に多いことも、私はずいぶん前から感じており、なんだかなぁ……。


2010.04.01 / Top↑
3月19日、画家(漫画家?)の John Hicklenton氏(42)が
Dignitasで幇助自殺。

10年間、多発性硬化症(MS)と闘病しており、
絵を描くことを闘病の力としようとする姿が2008年に
テレビのドキュメンタリーに取り上げられ、賞をとったことも。

Dignitasには、友人や家族が同行したとのこと。



同行した友人や家族について、
またDPPがガイドラインに沿って検討し、
「自殺幇助ではあるが、起訴することは公益にならない」と判断するのでしょう。

あのガイドラインが出たことによって
家族や友人に付き添ってもらってDignitasで死のうとする人が増えて
一定の障害像になったら死んでもいいし、それが美徳なのだという価値意識が
どこかで作られていくとしたら、

あのガイドラインそのものが公益に反しているのではないかと思うのですが……。

      ―――――――

もう1つ、私にはずっと気になっている疑問があって、
一部のメディアはDignitasのことを「クリニック」と書いているのですが、

Dignitasはこちらのエントリーの記事にあるように
スタッフ2人の存在が触れられてはいるものの、
事実上、創設者Ludwig Minelli一人がやっているようなもので、

その Minelli自身は弁護士。医師ではないのです。

上記リンクの記事では、
実際に幇助行為を行うのはかつて会員だったボランティア女性。
特に医療職だとは書いてありません。

また、ドイツ語なので内容の詳細は分かりませんが、
Dignitasの公式サイトにも、クリニックという表記はありません。

はたしてDignitasをクリニックと捉えるのは、本当に正しいのかどうか……。

ただ、医師がいない組織に、毒物がなぜ入手・保管できるのか、
それも、また、不可解なのですが……。
2010.04.01 / Top↑