昨日のエントリーで
Julian Savulescuが臓器提供安楽死(ODE)を主張していることについて書きましたが、
Smithが引用していたSavulescuの論文の一節について
その後つらつらと考えていたら、気になってきたことがあります。
我々はどうしても頭の中に一定の思い込みがあって
それがSavulescuみたいな人とも共有されているという前提で読んでしまうので、
彼の主張を、つい、
「消極的安楽死や医師による自殺幇助における“死の自己決定権”と
臓器提供における本人と家族の自己決定権とが双方認められているなら
臓器提供という方法による自殺幇助は論理的に可能だ」
というふうに読んでしまうのですが、
果たして、本当にそうなのか……。
よく読み返してみると、少なくとも引用されている個所では
「心臓死後提供よりも本人と家族の臓器提供の意思を確実に実現できる」という部分以外で
特に自己決定が持ち出されているわけではないのです。
引用部分の冒頭で彼が書いているのは
{{{:
It is permissible to withdraw life support from a patient with extremely poor prognosis, in the knowledge that this will certainly lead to their death, even if it would be possible to keep them alive for some time. It is permissible to remove their organs after they have died.
}}}
延命可能な患者であっても、予後が非常に悪ければ延命中止が認められている――。
これは、本当に、本人意思による消極的安楽死だけを言っているのでしょうか。
今の米国では、テキサス、カリフォルニアなど、
[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/47623269.html 当ブログが知る限り少なくとも3つの州に「無益な治療」法]があって
「延命可能な患者であっても、予後が非常に悪ければ延命中止」を決定する権利が
病院に認められています。
その場合、本人や家族の意思に逆らうことになっても、
医師が治療を無益だと判断したら病院に決定する権利がある、とするのが無益な治療論であり、
その決定権を法的に認めたものが無益な治療法で、
ここ数年で多くの訴訟が起きていて、
去年10月までの米国とカナダの「無益な治療」事件一覧は[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/56284691.html こちら]。
その後、米国ではBetancourt事件(米)、英国で[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/56664792.html Baby RB事件]、カナダで[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/59324284.html Isaia事件]がありました。
これらの多くにおいて、「無益な治療」の「無益」とは
「救命可能性が低い」という意味で「無益」なのではなく
「救命してもQOLが低すぎる」という意味となりつつあります。
英米カナダの医療現場では
重症障害がある人が自ら死の自己決定権を行使しない、またはできないとなれば
医師や病院の方で「あなたの治療は、もはや無益」と決めて死んでもらおう、と
言い始めているということでしょう。
つまり、重症障害者の「自己決定権」は、
事実上、「死ぬ」という一方向にしか認められていないことになる……。
しかも、医師・病院サイドと家族サイドの間に意見の不一致がなく、
不一致があったとしても家族に訴訟を起こす財力がなければ表面化しません。
2005年に栄養と水分停止によって餓死させられたTerry Shiavoさんの弟さんが
[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/54142490.html いまや栄養と水分は無益な治療]と言っているように、
無益な治療論による強制的延命停止は、ほとんど慣行化しているとみられています。
また、一方、移植医療の方では、
去年、[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/53495527.html 森岡正博氏が朝日新聞で]書かれたように、
すでに移植のために人為的に心臓死を起こさせるプロトコルが現実となっている――。
当ブログで拾ってきただけでも、
2007年には障害者の救命より臓器保存を優先したNavarro事件、
2009年には心臓提供を前提に重症障害児の呼吸器が外されたKaylee事件など、
一応は家族の同意をとってはいますが、それ以前に病院や医師の文化において、
臓器提供が既に無益な治療論と結びついている事実を示唆しているでしょう。
例えばTerry Shiavoさんのような状況下に置かれた人が
たまたまドナーカードを持っていたとしたら……??
さらに、もしも、この先、“臓器不足”解消のため、
みなし同意制度が導入されたとしたら……?
Savulescuが説く「臓器提供安楽死」の先に、
しかも、案外に、ごく近いところに見えているのは、
「“無益な治療”論による強制的延命中止後の臓器摘出」なのでは――?
Julian Savulescuが臓器提供安楽死(ODE)を主張していることについて書きましたが、
Smithが引用していたSavulescuの論文の一節について
その後つらつらと考えていたら、気になってきたことがあります。
我々はどうしても頭の中に一定の思い込みがあって
それがSavulescuみたいな人とも共有されているという前提で読んでしまうので、
彼の主張を、つい、
「消極的安楽死や医師による自殺幇助における“死の自己決定権”と
臓器提供における本人と家族の自己決定権とが双方認められているなら
臓器提供という方法による自殺幇助は論理的に可能だ」
というふうに読んでしまうのですが、
果たして、本当にそうなのか……。
よく読み返してみると、少なくとも引用されている個所では
「心臓死後提供よりも本人と家族の臓器提供の意思を確実に実現できる」という部分以外で
特に自己決定が持ち出されているわけではないのです。
引用部分の冒頭で彼が書いているのは
{{{:
It is permissible to withdraw life support from a patient with extremely poor prognosis, in the knowledge that this will certainly lead to their death, even if it would be possible to keep them alive for some time. It is permissible to remove their organs after they have died.
}}}
延命可能な患者であっても、予後が非常に悪ければ延命中止が認められている――。
これは、本当に、本人意思による消極的安楽死だけを言っているのでしょうか。
今の米国では、テキサス、カリフォルニアなど、
[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/47623269.html 当ブログが知る限り少なくとも3つの州に「無益な治療」法]があって
「延命可能な患者であっても、予後が非常に悪ければ延命中止」を決定する権利が
病院に認められています。
その場合、本人や家族の意思に逆らうことになっても、
医師が治療を無益だと判断したら病院に決定する権利がある、とするのが無益な治療論であり、
その決定権を法的に認めたものが無益な治療法で、
ここ数年で多くの訴訟が起きていて、
去年10月までの米国とカナダの「無益な治療」事件一覧は[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/56284691.html こちら]。
その後、米国ではBetancourt事件(米)、英国で[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/56664792.html Baby RB事件]、カナダで[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/59324284.html Isaia事件]がありました。
これらの多くにおいて、「無益な治療」の「無益」とは
「救命可能性が低い」という意味で「無益」なのではなく
「救命してもQOLが低すぎる」という意味となりつつあります。
英米カナダの医療現場では
重症障害がある人が自ら死の自己決定権を行使しない、またはできないとなれば
医師や病院の方で「あなたの治療は、もはや無益」と決めて死んでもらおう、と
言い始めているということでしょう。
つまり、重症障害者の「自己決定権」は、
事実上、「死ぬ」という一方向にしか認められていないことになる……。
しかも、医師・病院サイドと家族サイドの間に意見の不一致がなく、
不一致があったとしても家族に訴訟を起こす財力がなければ表面化しません。
2005年に栄養と水分停止によって餓死させられたTerry Shiavoさんの弟さんが
[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/54142490.html いまや栄養と水分は無益な治療]と言っているように、
無益な治療論による強制的延命停止は、ほとんど慣行化しているとみられています。
また、一方、移植医療の方では、
去年、[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/53495527.html 森岡正博氏が朝日新聞で]書かれたように、
すでに移植のために人為的に心臓死を起こさせるプロトコルが現実となっている――。
当ブログで拾ってきただけでも、
2007年には障害者の救命より臓器保存を優先したNavarro事件、
2009年には心臓提供を前提に重症障害児の呼吸器が外されたKaylee事件など、
一応は家族の同意をとってはいますが、それ以前に病院や医師の文化において、
臓器提供が既に無益な治療論と結びついている事実を示唆しているでしょう。
例えばTerry Shiavoさんのような状況下に置かれた人が
たまたまドナーカードを持っていたとしたら……??
さらに、もしも、この先、“臓器不足”解消のため、
みなし同意制度が導入されたとしたら……?
Savulescuが説く「臓器提供安楽死」の先に、
しかも、案外に、ごく近いところに見えているのは、
「“無益な治療”論による強制的延命中止後の臓器摘出」なのでは――?
2010.05.09 / Top↑
[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/60405334.html 昨日のエントリー]でSavulescuの「臓器提供安楽死(ODE)」の主張を紹介しましたが、
彼の論文の記述を受け、Wesley Smithが、その後すぐに
ベルギーで行われたという安楽死後の臓器提供ケースに言及された文献を
見つけて、続報ポストを書いています。
2008年の Transplantation誌に掲載された編集長宛ての手紙で報告されており、
手紙のタイトルは「医師による自殺幇助後の臓器提供」。
ロックトイン症候群の女性の本人意思で安楽死が行われ、
その後、臓器提供が行われたとのこと。こちらも本人の意思によるもの。
安楽死は手術室の隣の部屋で通常の病院ベッドで行われ、
その間は移植医は部屋には入らず、
3人の中立の医師らが10分間心臓が動かないことを確認して死亡宣告。
その後、女性の遺体が手術台に移され、移植医によって肝臓と腎臓が摘出されて
通常の死後提供のヨーロッパ臓器移植配給ルールにのっとって
3人のレシピエントに移植された。
この手紙の著者である医師の結論部分は以下。
{{{:
まず始めに安楽死、次に死後に臓器提供という、
それぞれ別個の2つの要望があった、この症例は、
安楽死後の臓器摘出も検討されてよいし、
安楽死が法的に認められている国々では
それは倫理的にも法的にも実用面からも許されてよいことを示している。
このやり方によって移植可能な臓器の数は増えるだろうし、また
患者の命を終わらせることが臓器移植を必要とする誰かを助けることになると考えられれば
ドナーと家族にとっても慰めとなるだろう。
}}}
Smithは、まず、
ロックトインの患者さんたちの多くは時間をかけて障害に適応し、
やがて生きていてよかったと感じるようになることを指摘。
その他、Smithが批判している点は、
・こんなふうに安楽死・自殺幇助と臓器提供が結びついてしまったら
障害者や病者が負担(当人にとっても家族や社会にとっても)とみなされるだけでなく
搾取の対象ともみなされることになる。
・絶望の中にあるターミナルな患者や障害者、または単に絶望している人たちが
臓器提供のために自殺幇助を望むことだけが
自分の命を意味あるものにする手段だと思い込みかねない。
・障害を負って生きるよりも死んだ方がよいという考えを
医師や配偶者や権威ある医学雑誌がせっせと固めていけば
生きている患者はみんな、殺せば臓器が採れる天然資源とみなされてしまう。
・患者の安楽死希望と臓器提供希望とは別物だという意見もあるかもしれないが、
この2つをドッキングさせてしまう社会では
人の命を救うためというのは簡単に死ぬ動機になってしまう。
[http://www.firstthings.com/blogs/secondhandsmoke/2010/05/08/belgian-doctors-euthanized-disabled-patient-and-harvested-her-organs/ Belgian Doctors Euthanized Disabled Patient and Harvested Her Organs]
Secondhand Smoke
Wesley Smith, May 8, 2010
彼の論文の記述を受け、Wesley Smithが、その後すぐに
ベルギーで行われたという安楽死後の臓器提供ケースに言及された文献を
見つけて、続報ポストを書いています。
2008年の Transplantation誌に掲載された編集長宛ての手紙で報告されており、
手紙のタイトルは「医師による自殺幇助後の臓器提供」。
ロックトイン症候群の女性の本人意思で安楽死が行われ、
その後、臓器提供が行われたとのこと。こちらも本人の意思によるもの。
安楽死は手術室の隣の部屋で通常の病院ベッドで行われ、
その間は移植医は部屋には入らず、
3人の中立の医師らが10分間心臓が動かないことを確認して死亡宣告。
その後、女性の遺体が手術台に移され、移植医によって肝臓と腎臓が摘出されて
通常の死後提供のヨーロッパ臓器移植配給ルールにのっとって
3人のレシピエントに移植された。
この手紙の著者である医師の結論部分は以下。
{{{:
まず始めに安楽死、次に死後に臓器提供という、
それぞれ別個の2つの要望があった、この症例は、
安楽死後の臓器摘出も検討されてよいし、
安楽死が法的に認められている国々では
それは倫理的にも法的にも実用面からも許されてよいことを示している。
このやり方によって移植可能な臓器の数は増えるだろうし、また
患者の命を終わらせることが臓器移植を必要とする誰かを助けることになると考えられれば
ドナーと家族にとっても慰めとなるだろう。
}}}
Smithは、まず、
ロックトインの患者さんたちの多くは時間をかけて障害に適応し、
やがて生きていてよかったと感じるようになることを指摘。
その他、Smithが批判している点は、
・こんなふうに安楽死・自殺幇助と臓器提供が結びついてしまったら
障害者や病者が負担(当人にとっても家族や社会にとっても)とみなされるだけでなく
搾取の対象ともみなされることになる。
・絶望の中にあるターミナルな患者や障害者、または単に絶望している人たちが
臓器提供のために自殺幇助を望むことだけが
自分の命を意味あるものにする手段だと思い込みかねない。
・障害を負って生きるよりも死んだ方がよいという考えを
医師や配偶者や権威ある医学雑誌がせっせと固めていけば
生きている患者はみんな、殺せば臓器が採れる天然資源とみなされてしまう。
・患者の安楽死希望と臓器提供希望とは別物だという意見もあるかもしれないが、
この2つをドッキングさせてしまう社会では
人の命を救うためというのは簡単に死ぬ動機になってしまう。
[http://www.firstthings.com/blogs/secondhandsmoke/2010/05/08/belgian-doctors-euthanized-disabled-patient-and-harvested-her-organs/ Belgian Doctors Euthanized Disabled Patient and Harvested Her Organs]
Secondhand Smoke
Wesley Smith, May 8, 2010
2010.05.09 / Top↑
当ブログでも何度か取り上げてきたトンデモ倫理学者Julian Savulescu (Oxford大)が
Bioethics誌に 「臓器提供安楽死を許すべきか」と題した論文を書き、
臓器提供安楽死(Organ Donation Euthanasia:ODE)を提唱しています。
(Savulescuに関するエントリーは文末にリンク)
彼の言うODEとは、
臓器を摘出する方法による安楽死のこと。
つまり、
生きている人から心臓も肺も臓器諸々を摘出することで死んでもらう安楽死。
以下、お馴染み、Wesley Smithのブログ記事から。
現在の心臓死後提供DCDよりも
ODEの方がはるかに合理的だというのが彼の主張で、
Smithが抜き出している論文個所からすると、その理由とは
{{{:
・延命が可能な患者からの生命維持治療中止は認められていて、
その一方で患者の死後の臓器提起出も認められているなら
わざわざ延命停止後に死ぬのを待って摘出する理由はない。
・それよりも患者に十分な麻酔を行なって心臓と肺を含む臓器を摘出すれば、
心臓摘出後には、おのずと脳死がやってくる。
・通常の生命維持治療中止では麻酔を十分に行わないことが多いので、
この方法の方が患者の苦痛が少ない。
・患者の選別さえ慎重に行えば、
この方法で死ななくてもいい患者が死ぬことは起こらない。
・この方法だと臓器の血流が良好な状態を維持したまま摘出できるため、
移植に使える臓器が採りやすい。
・現在のDCDでは患者が死ぬまでに時間がかかり過ぎて
移植に使えるものが不足している心臓や肺も
この方法なら供給される。
・本人と家族の臓器提供意思をより確実に生かすことができる。
}}}
さらに、Savulescuは、
{{{どうせ間もなく死ぬ患者で本人が同意していたとしても、}}}
{{{生きている患者から臓器をとるのがまずいと言うなら、}}}
{{{ドナーを安楽死させて、心臓死を待って摘出すればよい、}}}と説き、
{{{それは安楽死が認められている国では論理的には可能であり、}}}
{{{ベルギーでは一人の患者で行われたとされている}}}、と書いているのです。
Smithは、このベルギーの事例について
当該論文を探して、いずれブログで取り上げる、と。
最後に、SmithはPeter Singerの例を引いて
{{{どうも、倫理学者というものは、過激で功利的な発言をすればするほど、}}}
{{{有名大学からお呼びがかかるものらしい}}}とのセオリーを唱えています。
[http://www.firstthings.com/blogs/secondhandsmoke/2010/05/08/euthanizing-patients-for-organs-advocated-in-bioethics/ Euthanizing Patients for Organs Advocated in Bioethics]
Secondhand Smoke, May 8, 2010
読んで、真っ先にムカついたのは、
「ただの消極的安楽死で生命維持治療をやめるんだったら
十分な麻酔をしてもらえなくて患者は苦しいけど、
生きた状態で臓器をとってもらう安楽死なら
十分に麻酔をかけてもらえるから苦しくないよ」……って、
それは、なんちゅう大ワタケの、おためごかしなんだよっ。
そんなの、もともと、
延命中止のさいに徹底されるべき緩和ケアが出来ていないということなのだから、
本当は、緩和ケアを徹底しなきゃならんという方向に行くべき話じゃないか。
それにしても、
安楽死や自殺幇助の問題が臓器不足と繋がっていく危険性については
Smithも前から書いていたし、他の多くの人も同じことを書いていたし、
日本でも小松美彦氏や森岡正博氏や立岩真也氏など、多くの人が警鐘を鳴らしてきたし、
私自身も自殺幇助合法化議論やAshley事件を追いかけながら
そちらに向かって急傾斜していく時代の空気が皮膚感覚として感じられて、
ジリジリするような気分で案じていたのですが、
よもや、こんなに早く、
しかもBioethics誌から……とは。
もっとも、やっぱりSavulescuからか……とも。
(Norman Fostも同調してくるだろうな……という予感も)
しかも、まさか、すでにベルギーで現実になっていたとは……。
―――――――
ついでに、
Savulescuは、Peter Singerの一番弟子だということだし、
Wesley Smithも Norman Fostについてはノーマークみたいだけれど、
当ブログの情報では、SavulescuとFostは、少なくともステロイド論争では、お仲間。
Norman Fostという人物も、みんな、もうちょっとマークした方がいいと
私は前から思うのだけど……。
ちなみにA事件を調べる過程で私が拾ったFostに関する英文情報のリンク集は[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/52953334.html こちら]に。
(ただし一部です)
【Savulescu関連エントリー】
[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/21927609.html 不思議な“アシュリー療法”エッセイと、その著者たち 2]
[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/21934905.html カフェインだって昔は違法薬物、とSavulescu]
[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/31207699.html A療法擁護の2人ドーピング議論に]
[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/38358928.html 最相葉月の「いのち」に、あのSavulescu](2008/5/17)
臓器移植に関するエントリーは[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/51567553.html こちら]にまとめました。
(ただし09年4月までのもののみ。その後はバラけたままになっています)
また、「介護保険情報」誌の2009年11月号に書いた
「“国際水準の移植医療”ですでに起こっていること」は[http://www.arsvi.com/2000/0911km.htm こちら]に。
Bioethics誌に 「臓器提供安楽死を許すべきか」と題した論文を書き、
臓器提供安楽死(Organ Donation Euthanasia:ODE)を提唱しています。
(Savulescuに関するエントリーは文末にリンク)
彼の言うODEとは、
臓器を摘出する方法による安楽死のこと。
つまり、
生きている人から心臓も肺も臓器諸々を摘出することで死んでもらう安楽死。
以下、お馴染み、Wesley Smithのブログ記事から。
現在の心臓死後提供DCDよりも
ODEの方がはるかに合理的だというのが彼の主張で、
Smithが抜き出している論文個所からすると、その理由とは
{{{:
・延命が可能な患者からの生命維持治療中止は認められていて、
その一方で患者の死後の臓器提起出も認められているなら
わざわざ延命停止後に死ぬのを待って摘出する理由はない。
・それよりも患者に十分な麻酔を行なって心臓と肺を含む臓器を摘出すれば、
心臓摘出後には、おのずと脳死がやってくる。
・通常の生命維持治療中止では麻酔を十分に行わないことが多いので、
この方法の方が患者の苦痛が少ない。
・患者の選別さえ慎重に行えば、
この方法で死ななくてもいい患者が死ぬことは起こらない。
・この方法だと臓器の血流が良好な状態を維持したまま摘出できるため、
移植に使える臓器が採りやすい。
・現在のDCDでは患者が死ぬまでに時間がかかり過ぎて
移植に使えるものが不足している心臓や肺も
この方法なら供給される。
・本人と家族の臓器提供意思をより確実に生かすことができる。
}}}
さらに、Savulescuは、
{{{どうせ間もなく死ぬ患者で本人が同意していたとしても、}}}
{{{生きている患者から臓器をとるのがまずいと言うなら、}}}
{{{ドナーを安楽死させて、心臓死を待って摘出すればよい、}}}と説き、
{{{それは安楽死が認められている国では論理的には可能であり、}}}
{{{ベルギーでは一人の患者で行われたとされている}}}、と書いているのです。
Smithは、このベルギーの事例について
当該論文を探して、いずれブログで取り上げる、と。
最後に、SmithはPeter Singerの例を引いて
{{{どうも、倫理学者というものは、過激で功利的な発言をすればするほど、}}}
{{{有名大学からお呼びがかかるものらしい}}}とのセオリーを唱えています。
[http://www.firstthings.com/blogs/secondhandsmoke/2010/05/08/euthanizing-patients-for-organs-advocated-in-bioethics/ Euthanizing Patients for Organs Advocated in Bioethics]
Secondhand Smoke, May 8, 2010
読んで、真っ先にムカついたのは、
「ただの消極的安楽死で生命維持治療をやめるんだったら
十分な麻酔をしてもらえなくて患者は苦しいけど、
生きた状態で臓器をとってもらう安楽死なら
十分に麻酔をかけてもらえるから苦しくないよ」……って、
それは、なんちゅう大ワタケの、おためごかしなんだよっ。
そんなの、もともと、
延命中止のさいに徹底されるべき緩和ケアが出来ていないということなのだから、
本当は、緩和ケアを徹底しなきゃならんという方向に行くべき話じゃないか。
それにしても、
安楽死や自殺幇助の問題が臓器不足と繋がっていく危険性については
Smithも前から書いていたし、他の多くの人も同じことを書いていたし、
日本でも小松美彦氏や森岡正博氏や立岩真也氏など、多くの人が警鐘を鳴らしてきたし、
私自身も自殺幇助合法化議論やAshley事件を追いかけながら
そちらに向かって急傾斜していく時代の空気が皮膚感覚として感じられて、
ジリジリするような気分で案じていたのですが、
よもや、こんなに早く、
しかもBioethics誌から……とは。
もっとも、やっぱりSavulescuからか……とも。
(Norman Fostも同調してくるだろうな……という予感も)
しかも、まさか、すでにベルギーで現実になっていたとは……。
―――――――
ついでに、
Savulescuは、Peter Singerの一番弟子だということだし、
Wesley Smithも Norman Fostについてはノーマークみたいだけれど、
当ブログの情報では、SavulescuとFostは、少なくともステロイド論争では、お仲間。
Norman Fostという人物も、みんな、もうちょっとマークした方がいいと
私は前から思うのだけど……。
ちなみにA事件を調べる過程で私が拾ったFostに関する英文情報のリンク集は[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/52953334.html こちら]に。
(ただし一部です)
【Savulescu関連エントリー】
[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/21927609.html 不思議な“アシュリー療法”エッセイと、その著者たち 2]
[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/21934905.html カフェインだって昔は違法薬物、とSavulescu]
[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/31207699.html A療法擁護の2人ドーピング議論に]
[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/38358928.html 最相葉月の「いのち」に、あのSavulescu](2008/5/17)
臓器移植に関するエントリーは[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/51567553.html こちら]にまとめました。
(ただし09年4月までのもののみ。その後はバラけたままになっています)
また、「介護保険情報」誌の2009年11月号に書いた
「“国際水準の移植医療”ですでに起こっていること」は[http://www.arsvi.com/2000/0911km.htm こちら]に。
2010.05.09 / Top↑
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