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Diekema医師がシアトル子ども病院生命倫理カンファでのプレゼンで挙げた
3つの事例の1、アイダホのMueller事件(2002年)について。

プレゼンにおけるDiekema医師の説明は、
赤ん坊の発熱とミルクの飲みが悪いことを訴えて母親がERに連れてきた。
診察した医師が髄膜炎の可能性を考えて腰椎穿刺をしようとしたところ
母親が強硬に反対。
その反対があまりに激しかったので、
子どもに処置する間、母親を別室で抑制する必要があった、と。

調べてみると、実際の事情はもう少しニュアンスが違うようです。

生後5週目のTaige Muellerを連れて母親が
St. Luke’s Regional Medical CenterのERを訪れたのは2002年8月13日夜。

その頃、家族が順番に風邪を引いていたので、
母親も、家で上の子の面倒を見ていた父親も、
Taigeの発熱はその風邪によるものだと捉えていました。
これは事件の前段階として大事な点でしょう。

診察した医師の説明は
「髄膜炎の可能性が5%あるので、腰椎穿刺をする
点滴でステロイドと抗生物質を投与する」というもの。
このとき医師の説明態度が高圧的だったという話もあります。

これに対して母親は「髄膜炎でない可能性が95%」なのだから、
リスクを伴う腰椎穿刺はしたくない、
抗生剤とステロイドにもリスクはあるので様子を見てからにしたいと考えたようです。
尿検査、血液検査、レントゲンと点滴には同意しています。

急いで腰椎穿刺をやらなければ命に関わると考えた医師はソーシャルワーカーに連絡、
ソーシャルワーカーが警察に連絡。
警察が子ども保護法(the Child Protection Act)にのっとってTaigeの身柄を確保、
母親の同意なしに腰椎穿刺を行った、というもの。
(結局ただの風邪でした。)

ところで、この一連の連絡は母親の知らないうちに行われました。
母親からすれば、いきなり警察が出てきて親権を剥奪され、
子どもと引き離されてしまった青天の霹靂ということになります。

その後Mueller夫妻は親の決定権が侵害されたとして連邦裁判所に提訴。
子ども保護法の改正を求める運動も続けているようです。

2007年3月に地方裁判官が予備審理で
警察がTaigeの身柄を確保して医師に腰椎穿刺を行わせたのは
州による親の決定権の侵害であるとの見解を示したものの、
最終的な判断は陪審員にゆだねられたとのこと。
(その後については、まだ調べられていません。)

全体に受ける印象としては、
もともと高圧的でパターナリスティックな医師と
親の決定権を強く意識した母親とが
不幸な出会いをしてしまったというだけのケースなのかもしれない、という感じ。

子どもの様子によっては、
このくらいのことを言いそうな親は日本でもゴロゴロいると思うし、
親がOKした諸々の検査の結果が出てから
もう一度相談するということはできなかったのかなぁ……。

言うことを聞かないナマイキな親に
医師が反感から過剰反応した……という感じも無きにしも非ずで。

日本にも時々いますよね。
親の言うことを「ああ、そうだね」と取りあえず受け止めてあげるオトナゲもなく、
そんなことをしたら医師としての権威が脅かされるかのごとくに
「診断するのは私だ。オマエではない」と吠える人が。

この事件の顛末を読んでいると、
そんな医師が頭に浮かんでくる。

そういう事件でした。


関連ニュースなどは以下。

Rights vs. Risks…
The Idaho Statesman, February 25, 2003
(the Center for Individual Rights のサイトに転載されたもの)

2007.12.29 / Top↑
(前)で紹介したように
Diekema医師は考察3で「最善の利益」基準を否定するのですが、

それに続く考察4において、

医療における意思決定では
「最善の利益」よりも「害境界」や「害原則」を用いる方がよいと提案します。

「いかに利益になるか」という点から考えるのではなく
「いかに害を避けるか」という観点から考えようということですね。

そして、この「害原則」の例として、以下の
「医師がやるべきだと考える医療のために
州の介入が正当化される条件」
を示します。

・親の行為が子どもに重大な害を及ぼす。
・そのために介入が必要である。
・他にもっと穏やかな選択肢が存在しない。
・一般化できるかどうか。
・公開できるかどうか。

一般化できるかどうかをチェックしろというのは、
同じ状況であれば誰にでも同じ決定を行う」のでなければならない、ということ。

公開できるかどうかをチェックしろというのは、
他の人に知らせても良いと思える意思決定かどうか、
メディアに公開できるだけ、その決定に自信があるかどうか
医師が自分の決定をチェックしてみろというのですね。


このプレゼンを聞いていると、
「ったく、よく言うよ……」と、
その厚顔にあちこちで呆れてしまうのですが、

この患者については正当化できるものの将来の患者では……」(論文)などと
一般化できない判断を行い、

実施から2年も口をつぐんで
乳房芽切除についてはその後も隠蔽を試みるなど、
明らかに公開したくなかった決定を敢えてしたのは一体どこのどなたでしたっけ──?


Ashley事件を考えつつ聞くと、
この後に出てくる考察ポイント6が、いかにも皮肉。

「親の“理不尽な”要求は慎重に検討し、
 敬意を持って扱わなければならないが、
 しかし、常に応じなければならないというものではない」

この下りでDiekema医師は
子どもにも周囲にも大した害がなくて、
まだ検証はされていなくてもメリットの可能性があるなら、
親の言うとおりにしてあげてもいいのではないか」と述べるのですが、

そこには「ただし」と条件がつきます。
「ただし、あくまでスタンダードな医療の範囲でのみ」。

ここでもまた、
Ashley事件における彼の行動が
倫理学者としての彼自身の信条を逸脱していたことは明らかでしょう。


ちなみにこの講演の結論とは、

相違を理解するためには、
まず他者の視点に立って
他者が見ているものを理解することから。

最初にそれをしなければ、
どんな倫理問題も解決しない。

すばらしぃ……思わず拍手してしまいそうですが、

じゃぁ、
どうして“Ashley本人の視点”に立てなかったの?
どうして“障害当事者たちの視点”に立てないの?
どうして“Ashley父の視点”にしか立てなかったの?

所得格差や医療格差を子どもたちのために憤ってみせる資格が
本当にあなたに、あるの?


関連エントリー

2007.12.29 / Top↑
今年7月のシアトル子ども病院生命倫理カンファレンス
最後のプログラム、Diekeme医師のプレゼンテーション
「子どもの医療を巡る争議において(立場や意見の)相違を理解すること」。

Diekema医師はまず、
当ブログでも紹介したAbraham Cherrixの抗がん剤拒否事件を含め、
子どもの医療を巡って医師と親が対立した3つのケースを紹介。
(Cherrix以外のケースは、また別エントリーで詳述の予定。)

これらを参照しながら、
親と意見が食い違った場合に
医療サイドが念頭に置くべきことについて、
7つの考察ポイントを上げて解説しています。

その中でもDiekema医師が最も力説しており、
“Ashley療法”論争との関連からも最も興味深いのは、
「最善の利益」についての考察3でした。

このあたりのDiekema医師の話は、概ね以下のような流れ。

・「最善の利益」スタンダードはもともと養子縁組や親権などを考える際に家族法で使われていた基準が医療に拡大利用されるようになったもの。医療における意思決定に使う基準としてはベストではない。

・そもそも「利益」とは数値化できるものでも数式のように計算できるものでもなく、もっと複雑なもの。医療を受けさせるために親から子を引き離す場合など、医療における利益だけではなく、もっと幅広い子どもの利益を考える必要がある。

・親も常に逐一子どもの最善の利益だけに基づいて行動するわけではなく、社会生活の都合や事情が子どもの利益に優先しているのが現実。

・我々の社会そのものが、子どもの最善の利益を無視して動き、そのくせその代償だけは子どもに支払わせている。もしも子どもの最善の利益を優先するならば、最低賃金と教育、医療保険、働く親への保育を保障し、公害問題に対処するなど社会全体が変わらなければならないはずだ。そんな中で子どもの「最善の利益」を云々するのは偽善めいている。

・問題は「医師がある医療介入を子どもの最善の利益だと考えるかどうか」ではなく、むしろ「その介入はどの程度正当化できるのか」。つまり、「その医師は裁判所の命令をとってでも介入しなければならないとまで考えているか」という点である。

なんと。

「最善の利益」は医療判断の基準としてベストではない
とDiekema医師は考えているのですね。
まったく驚きです。

だって、

Ashley事件の際には、
正当化のほとんど唯一の根拠として
Diekema医師自身が「Ashleyの最善の利益だから」と
ひたすら繰り返していたのですから。


さらに驚くことに、

Diekema医師にとって「裁判所の命令をとる」ということは、
医療介入が正当なものであることの1つの基準だとは。

Ashley事件で違法性を問われたのは、
まさにその「裁判所の命令」がなかったことだったのですけどね。
2007.12.29 / Top↑