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10月にDignitasの自殺幇助で英国警察が捜査へのエントリーで紹介した話題の続報です。

ラグビーの練習中の事故で胸から下がマヒした23歳の息子Daniel Jamesをスイスに連れて行き、
今年9月にDignitasクリニックの幇助によって自殺させた両親について

英国の検察局長は
1961年の自殺法に照らせば起訴するに足りるエビデンスは十分であるものの
そんなことをしても公共の利益にはならないとして罪に問わないことに決定。

Danielはもともと独立心の旺盛な人物で、
事故後、医師から大きく回復する見込みはないと告げられた後には
“身分の低い存在(second-class existence)”として生きるくらいなら死んだ方がましだと
繰り返し言っていたとのこと。

両親はその気持ちを翻させようと必死に説得を続けたが
息子の決意が固いことからスイスでの幇助自殺に協力することにしたという経緯がある。
両親が自殺をそそのかしたわけではないことから
今回の検察局の判断となったもの。

法的な前例を作るものではないが、
幇助自殺について法律の明確化を迫られるのは必至。

【関連エントリー】
MS女性、自殺幇助に法の明確化求める(英)
親族の自殺協力に裁判所は法の明確化を拒む(英)
(上記の判断で裁判所が言っていたのは法律を変えるのは立法府の責任、ということでした)

(その他、Dignitasに関するエントリーは「尊厳死」の書庫に)


【追記】
この事件は当初の記事がAFPで日本語になっていました。
http://www.afpbb.com/article/life-culture/health/2530108/3445429
(この中で「二流の生き方」と訳されている部分の原語は second-class-existance,
 「生き方」ではなく「二流の存在」という意味です。)

「障害を負って生きるくらいなら死んだ方がマシ」という誰かの言葉を
聞くたびに思うことなのですが、

障害を負う前の人生で、障害者に対して差別意識の強かった人は
自分自身が障害を負った時に、かつての自分の差別意識が強ければ強いほど
そんな自分を受容することが出来ず、
そんな運命を用意していた人生を許しがたいと感じて、
それでも生きてみようと気持ちを切り替えることが出来ず
むしろそんな人生ならもういいと放り出してしまいたい気持ちになる……
……ということはないのでしょうか。

「“身分の低い”存在になって生きるくらいなら」という言葉が証明するものは
心のどこかで「どうせ障害者なんて」と見下していた彼自身の意識に過ぎないのでは?

それともDanielさんの言葉とその自殺の動機を承認することによって
英国社会は障害者を一段低い身分の存在と認定するのでしょうか。

この記事によると、今日、英国のテレビ局が
Dignitasで幇助自殺を遂げたアメリカ人の自殺の一部始終を撮った
ドキュメンタリーを放送するのだとか。

このドキュメンタリーの存在は以前から知られていて
9月にこちらの記事が紹介していました。

RTE to screen footage of Craig Ewert’s death
The broadcaster has bought The Suicide Tourist, a documentary about the 59-year-old American who wants to end his life
The Times, September 28, 2008

放送後、どのような議論が巻き起こるのか、
とても気にかかります。

      ――――――

それにしても、不思議だと思うのは
この記事の中でもDignitasが自殺幇助を行う対象は
「ターミナルであるか又は不治の病である人」とされているのですが
Danielさんはターミナルではないことはもちろん、不治の病でもありません。

ここに日本の尊厳死協会の尊厳死議論と全く同じ巧妙なズラしが行われていることが
私にはとても不気味に感じられます。

障害は“状態”であって“不治の病”ではないはずなのだけれど。
2008.12.10 / Top↑
最近、なにやら目にすることが多いので
「ベーシック・インカム」って一体なんなんだろうと気になって、
とりあえず、この本を読んでみました。

「ベーシック・インカム – 基本所得のある社会へ」
ゲッツ・W・ヴェルナー著 渡辺一男訳

これを読んだだけで、経済学も何もチンプンカンプンの私が
ちゃんと理解できたとも思えないのですが、
とりあえず私の単純頭がものすごく大雑把に理解したところで言えば、
ベーシック・インカムとは、まさに読んで字のごとく、
生活に最低限必要な所得を全ての人に無条件に保証して
働かなくても誰でも生きていけるよう生存だけは保証しましょう、という構想。

財源は消費税。

なぜ、そんな構想が語られる必要があるかというと、たぶん、
かつてのように労働が所得とシンプルに結びついて
誰でも働けて、働けば誰でも一定の所得が得られるという世の中ではなくなったから。

IT技術の進歩やグローバリゼーションで
万人に行き渡るだけの仕事が世の中にはなくなって
また富を生み出すものが労働でもなくなって、
労働が富を生み、その富で運営される家庭が労働力を再生産する仕組みを前提に
富を再分配して、その仕組みを支えてきた戦後の福祉国家の役割が
もはや機能しなくなっているから。

グローバリズム、ネオリベラリズムによって
資本主義原理が労働者に最低限の人間らしい生活を保障しなくなってしまったから。

もちろん、ベーシック・インカム構想というのは
あくまでも所得保障に留まるので、その他の社会保障は別問題になるのだし、

基本所得によって生存が保障されたら誰もが自由になって
自分の本来の意欲と能力に応じた仕事をすることできるという著者の人間観には
ちょっとついていけないところも感じるのですが、

一番ガーンときたのは
もう、みんなに行き渡るだけの仕事はないのだという指摘。
やっぱり……というか。

本当はそうじゃないのかなぁ……と漠然と感じていながら
そうじゃないフリをして、
そうじゃない前提で回っている仕組みに胡坐をかいて、
一番アンラッキーな人たちを平気で見殺しにしつつ
一番ラッキーな部類の人たちがさらに富むための世の中が作られていっていることを
本当はみんなどこかで感じているのだろうと思うのに。

一部の富める国の利益と欲望のために
貧しい国が搾取され切り捨てられて無政府状態に追い詰められていく世界の状況においても
きっと本質は同じことなのだろうと思うのに。

そして、それは多分、医療や科学や技術においても
もはや万人が少なくとも最低限の恩恵にはあずかれる仕組みが崩壊して
本質的には同じことが進行しているのだろうと思うのに。

そういうことを考えた時に、
たとえ夢物語やユートピアめいているとしても、
ごく一部の最強の人たちだけに富や資源が集中して
彼らの欲望を満たすべく、さらにそこに集中するような世の中を押し進めるために
最も弱い人たちを切り捨てたり見殺しにするのではなく、
とりあえず、みんなが生きていける世の中を目指して
ちょっとこの辺で転換してみようよ、という提案なのだなと。

そうしなければ世の中が成り立たなくなっているかのように
我々はつい思いこまされているけれど、
他の方策もあるんじゃないのか、
考え方さえ転換すれば本当は切り捨てなくても
みんなで生きていける方策はあるんじゃないのか、という提案なのだな、と。

それなら医学や科学・テクノロジーの開発とその利用においても、
ごく一部の富裕層の肥大する欲望を満たすための最先端医療や科学技術が
膨大な資金を投入して開発される一方で
基本的な医療すら受けられないで命を落とす人たちが出てきている不均衡を、
ベーシック・インカムのような構想で転換してみようよ、という提案だって、
ありえるんじゃないだろうか……と。

ユートピアであれなんであれ、
そういうことを考え続け、言い続けることは
やっぱり大切なんじゃないだろうか。

呪文のように繰り返される「社会的コスト」のリフレインに毒されて、
いつのまにか一緒になって「だって、現実にコストの問題が」などと
切り捨てられる側までが切り捨てに加担させられてしまうよりは。


【直接つながっているわけではないけど、やはり思い出したのはこの本だった】
「反貧困 -『すべり台社会』からの脱出」

【くだらない話で申し訳ないけど、前にこんな会話があったのも思い出した】
妄想
2008.12.10 / Top↑
「ネオリベ生活批判序説」(白石嘉治編)という本を読んで、
大半のことが分かったような分からないような感じで頭の中を流れ去ってしまった中で、
1つだけくっきりと頭に焼き付けられたこと。

「小さな政府」というのは決して「弱い政府」ではないんだぞ、
福祉は削るが、警察と軍事力は増強を図り、
国民への支配を強める「強い政府」のことなのだぞ……と。

読んだ瞬間に頭にしっかり刻印されたのだけれど、それでもさらに
ここのところは頭にしっかり叩き込んでおこう、と思った。
2008.12.10 / Top↑