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10日に息子をDignitasで自殺させた両親、不問にのエントリーで
当日、英国のTVが2006年にDignitasで自殺した人の映像を放送することを紹介しましたが、

その放送に先立って、Brown 首相は自殺幇助の合法化は支持しないと表明。

「病気の人や障害のある人が幇助を受けて自殺しなければならないとか
 自分たちは死ねばいいと思われていると感じるような事例は
 英国では決して起こらないようにしなければならない」と。


The Sky TV Real Lives チャンネルが放送した
映像の一部は上記リンクにあります。

元大学教授 Craig Ewert 氏は運動神経の病気で障害を負い
妻の介護を受けながら暮らしていた人物。

彼が妻と一緒にDignitasに到着する場面から
説明を受け、妻の手を借りて同意書にサインする場面、
「このまま病気が進行したら窒息して苦しみながら死ぬことになる。
 苦しんで妻に迷惑をかけてから死ぬのか
ここでこういう手段をとって終わらせるかの選択なら
こっちのほうがいい」などと語る場面があり
ここでは実際の死の場面はカットされています。

YouTubeの当該ビデオはこちらで、
この中には上記Timesでカットされている部分を含むものもあります。

Dignitasの医師が薬物の入ったコップを差し出し
「これを飲んだら死にます」
「これは自分で飲まないといけないんですよ。自己決定の証ですから」と言っています。

Ewert氏はストローで飲み、そばにいる妻と抱擁、別れを交わします。
そして医師が安定剤で眠りに誘導、
飲んでから30分後、画面は音声を残して暗転し
医師の声が「亡くなりました」と。

番組ではDignitasの弁護士が
誰にも幸福をもたらさないような悲惨な状況にある人が
尊厳のある死を選択することは権利であると主張する一方、

ターミナルケアの専門医はこの映像を見て
死ぬ時に窒息で苦しまなければならないというのは誤解で
多くの患者でそうではないとのエビデンスがある。
この人はこんな死に方をしなくてもよかったのに。
自殺幇助は間違っている、と。

          ――――――

私自身は、この映像と記事で読む限り、

Ewert氏も10日の記事のDanielと同じく
ターミナルな患者でもなければ今現在耐え難い苦痛があるわけでもないので、
本来ならDignitasの自殺幇助の対象者にならないはずではないのか、
という点が、非常に気になっています。

記事とビデオでの発言からすれば、
Ewert氏の苦痛は今現在の身体的な苦痛ではなく
むしろ、この先に病気が進行して痛みや苦しみを自分で表現できなくなった時に
苦痛を分かってもらえないままになるのでは、という恐怖と
妻に介護負担を強いていることの罪悪感の2つだったように思われます。

それならば、自殺幇助の合法化が実現したとしても
おそらくは対象になりにくい人なのではないか、というところが
私にはものすごく不思議なのです。

YouTubeの中には
「家族に介護負担を強いないために自殺する人についてどう思いますか」という
問題の設定をしている投稿ビデオもありました。

英国で自殺幇助の合法化を求めている人たちは
一体どういう条件の合法化を議論しようとしているのでしょうか。

それとも「末期患者」だとか「不治で耐え難い苦痛がある」などという条件は
議論の最初からタテマエに過ぎないのでしょうか。

何もかも未整理のままに
非常に危険な議論が進められているように感じられてなりません。
2008.12.12 / Top↑
20年前の母子入園でのこと。

何の用でどこへ行こうとしていたのかは覚えていないのだけど
その日、私は同じ入園仲間のお母さんと2人で母子棟を出て
本館のエレベーターに乗っていた。

母子棟を出てしばらくしてから、
ここにたどり着くまでの日々がいかに大変だったかという話になって、
エレベーターに乗り込む頃には、ほとんど我を忘れてお互いの来し方を話していたのだったと思う。

子どもは共に1歳になったばかり。

それまで、誰にも言えなかったし、
誰に話したところで分かってもらえるはずもなかった怒涛の1年間のことを
やっと語りあえる相手を見つけて、どこかタガが外れたようにしゃべりまくっていた。

なにしろ私たちは子どもが生まれた時に
何の心の準備もないまま一瞬にして「障害児の母親」というものになってしまったのであり、
自分自身はそれ以前の自分と何も変わらない同じ人間なのに、
それ以来どこへいってもエラソーに教育され指導され叱られ小突かれ
どうしようもなく無知で無能で子どもじみた存在のように扱われて、
いきなり今までとは全然別の世界に投げ込まれたような戸惑いと孤独と不安の中で、
やっかいなことだらけの子育てに身を硬くしていたのだから、

母子入園でやっと同じような子を持つ母親仲間と出会った時には
みんなが言葉の通じない外国でやっと同国人に出会えた人のような顔になったし、

それぞれに専門家の心無い言動に傷つけられてきた痛みや
世間の人たちの無理解に感じた悔しさや
同じ体験をした者にしか分かりようのない子育ての辛さを
次から次へと饒舌に語り合って飽きなかった。

その日、エレベーターに一緒に乗った人とは子どもの障害像が同じだったから
他の人以上に同じ体験を重ねてきた者同士の気安さも手伝って
夜毎の娘の号泣に付き合った日々の辛さを語るうち、
つい私は「ほんと、もう殺してやりたいっていう気分になったよ」と口にしてしまった。

もともと露悪的な傾向がある上に勢いがついているので、
自分が何を言ったか、ほとんど意識していなかったし、ドアが開いたので
私はそのまま盛大にしゃべりながらエレベーターを出た。

数秒後、
続いて降りてくるはずの気配がないので振り返ったら、
その人はエレベーターの奥で立ち尽くしていた。
顔色が変わっていた。

気分でも悪くなったのかと、戻って声をかけたら
彼女は立ち尽くしたまま、ぽつんとつぶやいた。

「私だけだなんだとばっかり……」。
「……?」
「あなたも、そんなことを思ったなんて……」

彼女の目から涙がボロボロッとこぼれるのを見た瞬間に
初めて自分が言ってしまったことに気がついた。

「──うん。考えたこと、あるよ。
窓からこのまま投げ捨ててやりたい衝動に駆られて、本当に危うい瞬間もあった」

彼女はエレベーターから出てくると、うつむいたまま

「私ね、子どもが何度も何度も熱を出してちっとも元気にならなくて
泣いてばかりいるし、けいれんは治まらないし、
これ以上どうしてやったらいいのか分からなくて辛くて堪らなかった時に、
こんな子、いっそいなくなってくれればいいのにって考えたことがあった。

それで、そんなことを考える自分はなんて酷い親なんだろう、
こんな恐ろしい鬼みたいな母親はきっと世の中に自分だけだって、ずっと……。」

またちょっと泣いてから顔を上げると、

「あなたは強い人で、そんなことなんか考えることもなく
ミュウちゃんの世話をしてきたんだとばかり思ってた。
そんなあなたでも考えたことがあるんだって聞いてびっくりしたけど、
でも、ちょっと、ほっとした」

そして、曇り空に薄日が差すような微笑み方をした。


     ―――――


私は口調がスピッツみたいだから、よく強い人間だとカン違いされるし
確かに20数年前のあの日の私はまだ自分のことを強い人間だと考えていたかもしれません。

少なくとも「もう殺してやりたいような気分になった」などと口にできたのは
相手が同じ痛みを知っている気安さだけでなく、
「自分たち親子の一番辛い日々はもう終わった」と
オメデタくも考えていたからでした。

人は過酷な辛さのさなかにある時には、
その辛さを語る言葉を持ちにくいものなのではないでしょうか。

人が自分の中にある弱さや醜さを言葉にして語ることができるのは
その弱さや醜さ、辛さに苦しんでいる時期が過ぎて、
ある程度まで乗り越えることができた後なのではないでしょうか。

(これもまた苦しい人が自分から助けを求めることができにくい要因の1つかもしれません)

私は当時、娘が生まれて最初の苦しい1年間をかろうじて生き延びて、
母子入園でリハビリを習い、母親仲間とも様々な専門家とも出会って、
「やっと障害のある子の母親としてスタートラインに立てた。
さぁ、これからが私たち親子の戦闘開始。やってやろうじゃないの」と
ほとんど過剰なほどの闘志を燃やしていました。

だから、辛かった時期のことも露悪的な言葉にできたし
戦闘体制を整えた緊張感に支えられて、強い自分をつかのま保つことができていたのだろうと思います。
どこかに「私は強いから大丈夫」といううぬぼれもあったかもしれません。

でも現実はそんなに甘くはないのです。
あの日の私には想像すらできなかった過酷な日々がその後もまだまだ待っていて、
私は自分がどんなに醜く弱い人間かということを何度もイヤというほど見せ付けられたし
人間としての機能を停止するほどのボロボロ状態にもなりました。

あの日から20年以上を経た今、私は
こと介護や負担の大きな子育てに関する限り、
どんな状況でも常に前向きに明るく何年も頑張り続けられるほど強い人なんて
世の中には存在しないし、存在しなくてもいいし、しないほうがいいと考えています。

この20数年の間に日本の社会は確かに変わりました。
あの当時は遠い北欧の話でしかなかった福祉サービスが日本でも実現したし、
高齢者福祉が充実するにつれて障害者福祉も、
次いで障害児の親への支援も徐々に整ってきました。

私たちの時代には携帯もインターネットもなく
今のように簡単に情報を手に入れることなどできなかったし、
仲間と繋がることも、自分の思いを表現したり発信することも簡単ではありませんでした。
今の若いお母さんたちは、あの頃の私たちに比べれば
もう少し風通しのいい子育てをしておられるのかもしれません。

それでもなお、
「自分が母親なんだから」「自分は母親なのに」と自分を責めて
そのために、助けを求める一歩を踏み出すよりも逆に
もっと閉塞してがんばるしかないところへと自分を追い詰めてしまう人は、
今でも沢山いるのではないか、という気がしてなりません。

制度や支援サービスそのものがあっても、
利用するための一歩を踏み出せないように母親の心に規制をかけてくるものが
日本の社会(というよりも世間?)には今なお根深いのではないでしょうか。

あの日エレベーターで立ち尽くしていた友人の姿を思い出すたびに、
20年経った今でも、自分を責めながら立ちすくんでいる若いお母さんたちが
日本にはまだまだ沢山いるのではないか、と心が痛みます。

それはもちろん障害のある子どもの母親だけではなくて、
負担の大きな子育てや介護を担っている多くの人に
共通して言えることのような気がします。



初めて読んだ時から、
そういう人に、できることなら手渡してあげたいと、ずっと願ってきました。
このほど、その思いをこめて、拙いのですが訳してみました。

2008.12.12 / Top↑
2年半くらい前から「介護保険情報」(社会保険研究所)という雑誌に
「世界の介護と医療の情報を読む」というタイトル通りの内容の
小さな連載を書かせてもらっています。

私がAshley事件と出会ったのも、
その出会いをきっかけにブログを始めたり生命倫理に興味を持ったりしたのも
その後ずっとブログのネタを拾っているのも
この連載を書くためのニュース・チェックを通じてのことです。

10月10日のエントリーで訳してみた「介護者の権利章典」は
連載の始め頃に編集者の方からその存在を教えてもらったもので
機会があれば翻訳・紹介したいとずっと考えていました。

このたび12月号の連載を
「障害のある子どもを殺す母親たち」というタイトルで書き、
合わせて「介護者の権利章典」を紹介させてもらいました。
掲載に当たり、10月10日のエントリーの仮訳を元に
編集部の方々のご意見を伺いながら訳文に手を入れました。

まだまだ中途半端なままに決断するしかなかった箇所の多い拙い翻訳ですが、
今の段階での改訂版ということになるので、改めて以下に。



介護者の権利章典


私には次の権利があります。

1 自分を大切にすること。これは決して自分本位な行いではありません。自分を大切にしてこそ、家族にも良いケアができるのです。

2 たとえ周囲から反対されても他の人に助けを求めること。自分の忍耐と力の限界は自分で分かっています。

3 介護とはまた別の自分自身の生活、家族が健康であったら送っていたはずの私自身の生活を守ること。私は、家族のために無理のない範囲でできることは全てやります。それと同時に、私には自分自身のために何かをする権利もあります。

4 時に怒りを感じたり、落ち込んだり、その他、やっかいな感情を口にすること。

5 罪悪感をもたせたり気持ちを落ち込ませたりして(時にはその両方を通じて)、身内の人間が私を操作しようとする(意識的であれ無意識であれ)のを許さないこと。

6 私が思いやりと愛情と許しと受容の姿勢で接している限り、愛する人に私がしてあげていることに対して私もまた思いやりと愛情と許しと受容を与えられること。

7 自分が成し遂げていることに誇りを持つこと。そして家族のニーズに応えるため時として勇気を奮い起こしている自分に拍手を送ること。

8 家族が私のフルタイムの介護を必要としなくなった時にも私が私のままでいられるように、一人の人間として生きる権利、私自身の人生を生きていく権利を守ること。

9 身体的・精神的な障害をもつ人々を支援する社会資源を求めて、わが国が歩みを進めているのと同じように、介護者を支えるための歩みも進められるよう望み、要求していくこと。

注:原文では介護される人をrelative としていますが、ここでは「家族」と訳してみました。
(児玉真美 仮訳)

「介護保険情報」2008年12月号 P.90

原文の出典は
”CAREGIVING: Helping An Aging Loved One” (Jo Horne, AARP, 1985)ですが、
著者のHorneによると“読み人知らず”とのこと。

私はコピーライトについて詳しいことが分からないのですが、
このエントリーは編集部の了解を得て掲載させてもらっています。

コピーライトは私ではなく「介護保険情報」誌にあるのではないかと思うので
引用、転載される方は「介護保険情報」12月号の出典を
明記してくださるようお願いいたします。
2008.12.12 / Top↑