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ななせたろうさんのブログに「湯浅誠さん~生活保護法の改定について」 Youチューブ:約10分。非常に分かりやすく説得力がある。「支援は良いことだから積極的にやるべきだ」というタテマエの陰で、実は福祉コスト削減の財源ニーズと、社会の弱者によるさらなる弱者叩きとが力として働いている、と。ここで非常に分かりやすく指摘されている構図は介護保険での「自立支援」という名の下での軽度者への支援切り捨てや、「ノーマライゼーション」という美名のもとでの障害者福祉切り捨て、「施設は人権侵害だから地域で」と言いつつ「地域サービスが成り立つ制度にはならず、結局は施設ケアすら受けられない単なる切り捨て」が進んでいくのと同じ構図だなぁ……と思う。
http://blogs.yahoo.co.jp/taronanase/60287995.html

Bill PeaceがClair Royさんのブログに触発される形で、成長抑制批判を書いている。基本線は批判ではあるけど、この人の書くものにはHastings Centerの非常勤研究員になってから妙なバイアスがかかっているように思えてならない。HCRに掲載された“成長抑制論文”は「センターのジャーナルに掲載された、シアトルこども病院が組織した成長抑制WGの論文」に過ぎないのに、「HCRの結論」と、あたかもへースティング・センターが成長抑制の倫理的妥当性を認めたかのように、書く。去年、自分のブログでは「シアトル・グループの論文」と、それでもまだマシな書き方をしていたくせに。
http://www.thescavenger.net/people/stop-shunning-the-disabled-577.html

スイスで銃による自殺が多いことを憂えた人たちにより銃規制法改正が試みられたのだけれども、26州のうち少なくとも18州の住民が出した答えはNO。
http://www.guardian.co.uk/world/2011/feb/13/swiss-reject-gun-law-reform?CMP=EMCGT_140211&

2月3日の某インタビューでのビル・ゲイツの発言。「医療が改善されると子どもたちに3つのことが起こる。まず命を救える。これは大きい。次に助かるけど損傷された子どもたちがたくさん出る。脳が発達することのない子どもたちね。最後に、これが一番いいことなのだけど、医療が改善されると親が子どもをたくさん産まなくなる」。:だから医療を改善することが世界人口縮減につながるという文脈なんだけど、その部分に続いて「そういう子どもたちをみんな教育できるのか?」、「そういう子どもたちみんなに仕事をあてがえるのか?」と問うているのは、一見それ以上は深入りしていないように見える第2の障害児の問題に言及しているのか……?
http://www.businessweek.com/magazine/content/11_07/b4215040338427.htm

ビル・ゲイツがCNNのサンジェイ・グプタのインタビューでワクチンに疑問を呈する人たちへの憤りを露わにした件を取り上げたネットサイトのニュース記事に、コメントの1つが「ゲイツは医学の学位があるわけでもないのに、なんでワクチンが安全だと言い切れるんだ?」というものがあり、それに応じる形で別のコメントが「ゲイツの医学の学位はゼニさ」と。:ワクチンの安全性に限らず、世界の保健医療の施策がどうあるべきかを仕切っていく大きな発言資格がなんでゲイツ財団やゲイツ氏個人にあるのか、多くの人が既に疑うこともしないのはなぜか……と考えたら、この人のいうことは然り至言。
http://news.gather.com/viewArticle.action?articleId=281474979049304

このインタビューでのゲイツの「子どもたちを殺している」発言に、Age of Autismが激しく反発。ゲイツ財団とマイクロソフトに抗議の電話をかけようと、呼びかけている。:マイクロソフトに抗議の電話というのは筋違いだと思うけど、「このような極端な表現は、ゲイツが大衆に余り詮索されたくない問題への疑問の声を封殺し、そうした問題から人々の目を逸らせるべく計算されたもの」という指摘には一理あると思う。
http://www.ageofautism.com/2011/02/are-you-a-baby-killer-take-action.html

キャメロン首相が、連立政権の社会福祉予算削減への対応として、ボランティア・ルネッサンスと預金者に社会責任への投資を呼び掛ける「大きな社会」構想について近く語るとか。
http://www.guardian.co.uk/politics/2011/feb/14/david-cameron-big-society-savers?CMP=EMCGT_140211&

キャメロン首相の「大きな社会」構想について日本語の解説記事。:日本の介護保険で言われている「地域づくり」というのが、それにとても近い感じがする。でも、この記事の「大きな政府とはバラマキを行う政府」という解釈は、本当にそれでいいのか? 「それは福祉って要はバラマキよ」というのに等しくはないの? 
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20100804/240266/?P=2

ワシントンDC首都圏のモンゴメリー郡とプリンス・ジョージ郡で白人人口が激減、一方ヒスパニックの急増でマイノリティ人口がマジョリティに。
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2011/02/09/AR2011020904310.html?wpisrc=nl_cuzhead

WA州スポケーンで、キング牧師の誕生日を記念するパレード通過ルートで不発に終わった爆弾が見つかった。米国内でのテロリズムでは、と。
http://www.nytimes.com/2011/02/14/us/14spokane.html?_r=1&nl=todaysheadlines&emc=tha23
2011.02.14 / Top↑

★「ニーズ」と眼差さず、「当事者主権」とまとめず、シノゴノ言いつつ、ジタバタやろう。新雑誌創刊!

「支援」編集委員会 =
井口高志・岡部耕典・土屋葉・出口泰靖・星加良司・三井さよ・山下幸子

「支援」編集委員会【編】
支援 Vol.1 
特集=「個別ニーズ」を超えて

________________________________________
四六判並製  180頁  本体1500円  ISBN978-4-903690-71-1

なんの因果か抜き差しならぬ関わり合いをもち、取り乱しつつ関わり続けることを〈支援〉と立てる。そのリアリティに魅入られた者たちが、それぞれの〈現場〉から受けた負債を返済することのその営みのひとつとして、この雑誌は創刊される。

「ニーズ」と眼差さず、「当事者主権」とまとめず、シノゴノ言いつつ、ジタバタやろう。
そのことも(少し気恥かしげに)宣言しておきたい。────編集委員一同(発刊の辞より)

支援者・当事者・研究者がともに考え・書き・読み、制度や学による分断に対して領域を超えゆくことを目指す。やり方・ハウツーを示すのではなく、支援における悩み・葛藤・迷いをそのものとして提示し、そこから見える未来をしつこく問いつづける新雑誌創刊!
 
【目次】
発刊の辞

特 集 「個別ニーズ」を超えて
       かかわりのなかにある支援──「個別ニーズ」という視点を超えて 三井さよ
       日々続いていく支援 末永弘
       〈支援〉の根拠(エビデンス)? 岡部耕典
       「待つ人」になる──身体障害者の介助と時間 前田拓也
       「その人らしさ」と「ニーズ」──支援者としての体験を振り返る 伊藤智樹
       「その人らしさ」はどこにある? 出口泰靖

支援の現場を訪ねて 1
       み・らいず(大阪市) 山下幸子

支援の周辺(コラム) 1
       現場への遠近法──〈メディア〉表象のなかの認知症の本人の「思い」 井口高志

座談会 資格は必要か?──ケア・介護・介助と専門性
       土屋葉(司会)・山下幸子・星加良司・井口高志

支援の現場を訪ねて 2
       井戸端げんき(木更津市) 出口泰靖

支援の周辺(コラム) 2
       ティータイムにお茶を 土屋 葉

エッセイ
       支援の条件 熊谷晋一郎
       リハビリテーションとQOL──主観/客観の裂け目から見える地平 田島明子
       健全者・介護者・介助者・支援者をめぐって 渡邉琢
       白熱教室?──当事者を講義に呼ぶことについて 井口高志

支援の周辺(コラム) 3
       「つなまよ」「つなとま」な人たちのケアや支援 出口泰靖

書 評
       今、ここに足をつけて……『知的障害者が入所施設ではなく地域で生きていくための本』(ピープルファースト東久留米著)柳誠四郎
       「関係的な問題」を解くということ……『関係の原像を描く』(篠原睦治編著)星加良司
       ありそうでなかった、税をめぐる原始的論考……『税を直す』(立岩真也・村上慎司・橋口昌治著)堅田香




創刊までのいきさつは、生活書院代表Tさんのブログに↓

雑誌『支援』を創刊します
生活書院ブログ~今、大事なことを考えているんだ
2011年2月12日


準備が進んでいることは、ちょっと前からなんとなく知ってはいたけど、
詳細が出てきて、わぁ……! と、なにか弾ける感じと共に、ガッテン。

私自身、「海のいる風景」という本の中で
“ケアのココロ”というものがあるとしたら、
それは「気にかかること」「放っておけないこと」
「もちろん、職場の事情や自分の立場や諸々の事情はあるけれど、
にもかかわらず、気にかかって、どうにも放っておけない」ということ……と書いた。

このブログでも、支援サイドから「迎えにいく支援」をはじめ、
障害のある子どもの子育て、介護一般、支援について、これまで書いてきたこと は沢山ある。

「あたしは専門家だからここまでね。ハイさよなら」と言って済ませられないのは
「患者」や「対象者」や「利用者」や「入所者」ではない、「誰か」、「その人」と
関わり合ってしまったからで、そこには、それ以外の人との関わり合いと同じように
実際、「何の因果か」「抜き差しならぬ」としか言いようのないところがあり、

実際、私たち親子は、そういう支援に支えられて、ここまでやってくることができた。

もちろん、そんな関わり合いは互いに傷つけたり傷つけられたり、
支援する側される側、双方ともにくんずほぐれつ、惑乱したり「取り乱しつつ」でなければ
とうていやっていけないものでもあって、

この雑誌の理念の解説は、いちいち言い得て、絶妙だと唸る。……。

(そういえば、そんなふうに熱くコミットしてくれる人や、そういうことを許す余裕が
福祉の財源が細っていくにつれ、現場からどんどん失われていくような気もする……)


それに私もAshley事件や周辺のニュースを追いかけながら、
支援者と当事者との隔たりとか、
当事者と研究者との隔たりとか、
支援者と研究者との隔たりとか、

支援者でも福祉系の支援者と医療系の支援者との隔たりとか
医療系でも整形外科と小児科とか、発達小児と内分泌とか、

はたまた、そういうのとも別種ながら、
また格別の隔たりを感じる工学系とか。

もちろん、それらの背景にいる、いわゆる「ステークホルダー」といわれる人たちとの
さらに、また別格であろうと想像される隔たりとか、

当事者でも障害の特性による隔たりとか
親と本人の間の隔たりとか、家族の間の隔たりとか、
家族の中でも障害に対する捉え方による隔たりとか、

いろいろ溝も分断も大きく深いことを痛感しつつ、
その溝が絶望的に越えがたく思えることに歯がみする思いになることがある。

そうした「支援」の広がりの中に散在・混在する諸々に、
歯切れよく分かりやすく皮相的な議論ではなく、
シノゴノ、ジタバタやりながら、じっくりと腰を据えて取り組もうという……

――すごい雑誌ができる。
2011.02.14 / Top↑