英国の生後1歳1カ月の男児Joseph Maraachi君めぐる「無益な治療」訴訟で、両親が敗訴。人工呼吸器をずっとはずさないでくれというのではなく、Joseph君が助からないことは両親も受け止めて、せめて家に連れて帰って死なせてやりたいから気管切開をしてほしいという願いだった。裁判所は、その願いを拒否。17日のこのニュースでは、21日月曜日に呼吸器取り外しの予定、となっている。Euthanasia Prevention CoalitionのSchadenbergが、これは安楽死ではないんだということを繰り返し訴えている。:そう。「無益な治療」論は医療サイドに決定権を認めて患者や家族の「自己決定」を否定しているんだから、「死の自己決定権」とは逆。むしろ安楽死や自殺幇助合法化論の根拠としての「死の自己決定権」を覆す話。一方に「無益な治療」論による治療停止が認められている限り、「死ぬ」の一方向にだけ認められる「自己決定」でしかないのだから。そこのところはいくら強調してもし過ぎることはないと思う。それにしても「無益な治療」訴訟では、当ブログが初めて知った07年のゴンザレス事件以降、これまで裁判所は慎重な審理姿勢で、その間は治療継続を命じるということが続いていたと思うのだけど、ここらで「無益な治療」訴訟の転換点になるのか……?
http://alexschadenberg.blogspot.com/2011/02/windsor-couples-appeal-dismissed-to.html
当ブログが拾った09年10月段階の「無益な治療」事件一覧はこちら。
その後、Isaia事件、Baby RB事件、Betancourt事件。
障害者基本法改正(案)への、全国「精神病」者集団の意見書。詳細。国連障害者権利条約の考え方について、理解が曖昧なので、すごく勉強になる。
http://www.jngmdp.org/announcement/972
これも日本。コンピューター監視法案なるものが今国会に提出予定とか? リンクの下のブログ主が、メディアがこの法案をスルーしている、と。
http://takearteazy.wordpress.com/2011/01/25/0124report/
http://kuronekonotango.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-742a.html
英国の人気テレビドラマが、主人公の一人に自殺幇助を希望させるストーリー展開で話題になっている。
http://www.dailymail.co.uk/tvshowbiz/article-1359705/Emmerdales-Jackson-Walsh-set-die-controversial-assisted-suicide-plotline.html?ito=feeds-newsxml
http://www.google.com/hostednews/ukpress/article/ALeqM5iDxUZ1QedO1ppRoeVU2uoJwLEEDA?docId=N0092011298370805989A
オバマ大統領の医療制度改革への亡きケネディ上院議員の悲願の置き土産だった、障害者の地域介護支援策(18歳以上の勤労者に介護保険購入費用を助成する策)は、大幅変更しなければ財源が足りない、という話が出てきている。
http://www.nytimes.com/2011/02/22/health/policy/22care.html?_r=2
ゲイツ財団のメディア・コントロールについては、こちらのエントリーで書いているけど、その状況に対してSeattle Timesが、ゲイツ財団からの助成金はジャーナリズムの独立性を損なっているのでは、と問題提起の記事を書いている。:でもね~、誰よりも先にゲイツ財団の御用新聞になり、誰よりも長く独立性を書いた報道をしてきたのは、そのSeattle Timesだからして。
http://blogs.forbes.com/tjwalker/2011/02/21/the-seattle-times-asks-does-gates-bill-gates-foundation-funding-of-media-taint-objectivity/
http://www.naturalnews.com/031468_journalism_Seattle.html
G20で、フランスのサルコ時首相がビル・ゲイツ氏に、アフリカのための資金を集めてくれ、と。
http://www.guardian.co.uk/business/2011/feb/18/g20-france-africa-bill-gates
インドの僻地でのポリオとの闘い。
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2011/02/20/AR2011022001089.html?wpisrc=nl_cuzhead
人造遺伝子で作ったワクチンで重症の肺炎の予防が可能になるんだと。:これ、前にどこかの記事で読んだ「DNAワクチン」のことかな?
http://www.medicalnewstoday.com/articles/217116.php
英国連立政権の社会保障費カットでNHSのリストラは医師、看護師含め5万人に達する見込み。労働組合から。
http://www.guardian.co.uk/society/2011/feb/23/nhs-to-lose-50000-jobs?CMP=EMCGT_230211&
キャメロン首相の「大きな社会」銀行構想は、果たして本当に社会保障への民間参入を促すのか?
http://www.guardian.co.uk/society/2011/feb/22/big-society-bank-social-enterprise-ronald-cohen?CMP=EMCGT_230211&
余裕がなくて、ちゃんと内容を把握できていないのだけど、Norman Fostのおひざ元のウィスコンシン州で、知事が大規模な予算削減による組合つぶしを図って、大規模なデモが起きている。クルーグマン氏が、知事は予算の問題だというふりをしているけど、なに、権力の問題、と。もう一つのNYTの記事によると、スーパーリッチの兄弟が知事の救援に駆けつけて、火に油を注いでいるとか。
http://www.nytimes.com/2011/02/21/opinion/21krugman.html?src=me&ref=general
http://voices.washingtonpost.com/answer-sheet/diane-ravitch/ravitch-why-should-teachers-ha.html
http://www.nytimes.com/2011/02/22/us/22koch.html?src=me&ref=general
と、ここ数日、上記WI関連ニュースのタイトルだけ読み流していたら、今日になって、事態はインディアナ州とオハイオ州に広がった、と。:中東で起きていることの縮小版みたいな感じ?
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2011/02/22/AR2011022205139.html?wpisrc=nl_cuzhead
携帯電話が脳の活動に影響している。:これ、ずいぶん前に否定されたのかと思ってた。
http://well.blogs.nytimes.com/2011/02/22/cellphone-use-tied-to-changes-in-brain-activity/?nl=todaysheadlines&emc=tha23
http://alexschadenberg.blogspot.com/2011/02/windsor-couples-appeal-dismissed-to.html
当ブログが拾った09年10月段階の「無益な治療」事件一覧はこちら。
その後、Isaia事件、Baby RB事件、Betancourt事件。
障害者基本法改正(案)への、全国「精神病」者集団の意見書。詳細。国連障害者権利条約の考え方について、理解が曖昧なので、すごく勉強になる。
http://www.jngmdp.org/announcement/972
これも日本。コンピューター監視法案なるものが今国会に提出予定とか? リンクの下のブログ主が、メディアがこの法案をスルーしている、と。
http://takearteazy.wordpress.com/2011/01/25/0124report/
http://kuronekonotango.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-742a.html
英国の人気テレビドラマが、主人公の一人に自殺幇助を希望させるストーリー展開で話題になっている。
http://www.dailymail.co.uk/tvshowbiz/article-1359705/Emmerdales-Jackson-Walsh-set-die-controversial-assisted-suicide-plotline.html?ito=feeds-newsxml
http://www.google.com/hostednews/ukpress/article/ALeqM5iDxUZ1QedO1ppRoeVU2uoJwLEEDA?docId=N0092011298370805989A
オバマ大統領の医療制度改革への亡きケネディ上院議員の悲願の置き土産だった、障害者の地域介護支援策(18歳以上の勤労者に介護保険購入費用を助成する策)は、大幅変更しなければ財源が足りない、という話が出てきている。
http://www.nytimes.com/2011/02/22/health/policy/22care.html?_r=2
ゲイツ財団のメディア・コントロールについては、こちらのエントリーで書いているけど、その状況に対してSeattle Timesが、ゲイツ財団からの助成金はジャーナリズムの独立性を損なっているのでは、と問題提起の記事を書いている。:でもね~、誰よりも先にゲイツ財団の御用新聞になり、誰よりも長く独立性を書いた報道をしてきたのは、そのSeattle Timesだからして。
http://blogs.forbes.com/tjwalker/2011/02/21/the-seattle-times-asks-does-gates-bill-gates-foundation-funding-of-media-taint-objectivity/
http://www.naturalnews.com/031468_journalism_Seattle.html
G20で、フランスのサルコ時首相がビル・ゲイツ氏に、アフリカのための資金を集めてくれ、と。
http://www.guardian.co.uk/business/2011/feb/18/g20-france-africa-bill-gates
インドの僻地でのポリオとの闘い。
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2011/02/20/AR2011022001089.html?wpisrc=nl_cuzhead
人造遺伝子で作ったワクチンで重症の肺炎の予防が可能になるんだと。:これ、前にどこかの記事で読んだ「DNAワクチン」のことかな?
http://www.medicalnewstoday.com/articles/217116.php
英国連立政権の社会保障費カットでNHSのリストラは医師、看護師含め5万人に達する見込み。労働組合から。
http://www.guardian.co.uk/society/2011/feb/23/nhs-to-lose-50000-jobs?CMP=EMCGT_230211&
キャメロン首相の「大きな社会」銀行構想は、果たして本当に社会保障への民間参入を促すのか?
http://www.guardian.co.uk/society/2011/feb/22/big-society-bank-social-enterprise-ronald-cohen?CMP=EMCGT_230211&
余裕がなくて、ちゃんと内容を把握できていないのだけど、Norman Fostのおひざ元のウィスコンシン州で、知事が大規模な予算削減による組合つぶしを図って、大規模なデモが起きている。クルーグマン氏が、知事は予算の問題だというふりをしているけど、なに、権力の問題、と。もう一つのNYTの記事によると、スーパーリッチの兄弟が知事の救援に駆けつけて、火に油を注いでいるとか。
http://www.nytimes.com/2011/02/21/opinion/21krugman.html?src=me&ref=general
http://voices.washingtonpost.com/answer-sheet/diane-ravitch/ravitch-why-should-teachers-ha.html
http://www.nytimes.com/2011/02/22/us/22koch.html?src=me&ref=general
と、ここ数日、上記WI関連ニュースのタイトルだけ読み流していたら、今日になって、事態はインディアナ州とオハイオ州に広がった、と。:中東で起きていることの縮小版みたいな感じ?
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2011/02/22/AR2011022205139.html?wpisrc=nl_cuzhead
携帯電話が脳の活動に影響している。:これ、ずいぶん前に否定されたのかと思ってた。
http://well.blogs.nytimes.com/2011/02/22/cellphone-use-tied-to-changes-in-brain-activity/?nl=todaysheadlines&emc=tha23
2011.02.23 / Top↑
実はこの特集には、社会学者の樫村愛子氏のほかに、もう一人、
「安易な薬物療法」を取り上げ、その背景情報を詳細に調べて書いた人がいる。
もちろん精神科医ではなくジャーナリストの粥川準二氏。
「バイオ化する社会 うつ病とその治療を例として」。
これが、たいそう面白かった。
というか
なぜか日本では報じられることのない、ビッグ・ファーマの周辺で起きている諸々について
当ブログが関連のニュースを目につく折々に拾うことで描き出そうとしてきた「大きな絵」を、
粥川氏は、専門家の論文資料を詳細に当たるという方法によって
検証し、描き出そうとしているのだと思う。
しかも、さすがはジャーナリスト。
私が「科学とテクノの簡単解決文化」と、かったるい呼び名をつけてきたものに
見事に簡潔明快な呼び名が与えられている。
――バイオ化。
なるほど~。
「医療化 medicalization」については、
私は“Ashley療法”論争の際、07年2月のSalonの記事で
ある医師からの批判として「これは医療化だ」の発言と出会って知り、
その後の論争の中であれこれ調べるうちに、その意味するところも理解した。
このあたりのことについて粥川氏は以下のように解説する。
その一部として「遺伝学化」がある。
「遺伝学化」とはカナダの研究者アビィ・リップマンが
「健康問題や社会問題に対する視点において遺伝学が優位になること」に対して
名付けたものだとのこと。
粥川氏は、うつ病治療の遺伝学化に続いて
抗うつ薬の効果の実証研究論文をいくつも当たって「抗うつ薬の神話」を浮き彫りにした上で、
次のように書いて「バイオ化」という言葉を説明する。
前半の「脱医療化」というのは、ちょっと分かりにくい感じもするけど、
つまりは医療のネオリベ「えげつないショーバイ」化、ぶっちゃけていえば、
例えば、グローバル強欲金融(ついでに慈善)資本主義に煽られたビッグ・ファーマの
なりふり構わぬ、人命軽視の利益至上主義のことですね。
その裏付けは、粥川氏も何本もの論文を紹介しているし、
当ブログの「科学とテクノのネオリベラリズム」の書庫にも沢山ある。
なぜか日本では報道されることがなく、研究者も手を触れないだけで、「ない」わけではない。
そして、粥川氏もタイトルで「例として」といっているように、
それは実は抗うつ薬だけで起きていることでもなくて、
ワクチンを含む予防医療も“有望マーケット”視されている。
というか、むしろ
訴訟やスキャンダル続きの抗うつ薬のマーケットに儲けの糊代は小さいと踏んだ製薬会社が
ターゲットをワクチンにシフトしてきている、という読みがある。
私は当たっているんじゃないかと思う。
そんなふうに本来、保健・医療の問題であるはずのものを
国際競争における生き残りをかけた各国経済施策の問題にすり替えてしまう構図が
この特集でずっと議論されている①の社会の病理の根本にあるのだとも思う。
①と②と③とが、ぐるりと、そういう繋がり方をしてしまう、
その繋がりこそが最も深刻な今の世界の病理なんじゃないか、とも思う。
そして、それがさらに社会のあり方や共有される価値意識や社会施策の姿勢に影響していく。
いっそう操作主義的な方向へと社会全体を「バイオ化」していく。
上記引用箇所の後半の粥川氏の指摘は、そのことだと思うし、
それこそ“Ashley療法”論争の大きな論点の一つ。
「社会モデル」で「医学モデル」を否定してきた障害当事者らが
「人を変えるな、社会を変えよ」と“Ashley療法”を批判しているのはこういうことだ。
けれど、07年からAshley事件とその周辺で起こっていることを追いかけてくると、
少なくとも英語圏、特に米国の医療は「社会モデル」など一顧だにするつもりもないままに、
法や福祉や教育など医療以外の分野の知見など取るに足りないとばかりに排斥し、
(Norman Fostらの司法介入への激しい忌避を考えると、
ある意味、医療が”シビリアン・コントロール”を拒絶し始めていると言えるのかも?)
むしろ障害当事者を強引に医療化、バイオ化の対象に引きずり出し
それによって身体(臓器も含め)のみならず、生命にまでも
その一方的な支配を及ぼしていこうとしているように見える。
生まれてくる前から医療によって選別され、
(詳細は「新・優生思想」の書庫に)
病気になったり障害を負った際には
「生きてもよい人」と「生きる価値がない=生きてはいけない人」を医療が選別し、
(詳細は「無益な治療」の書庫に)
遺伝学と脳科学と、その他もろもろの“科学的エビデンス”によって、
(そこには「ない研究は、ないという事実そのものが見えなくされる」イルージョンがある)
病気や障害のリスクの高い「予備軍」が選別され、
その中からさらに
科学とテクノで救済(改造あるいは治験対象者化も含め)可能な予備軍と不能な予備軍とが選別されて、
後者は生きるに値しない命として葬られていく。
バイオ資材としての有効利用の可能性に応じて、
貴重な臓器を無駄にしない葬り方によって――。
予備軍に過ぎない段階で――。
遺伝学化、脳科学化、バイオ化による操作主義の、
まさに、昨日のエントリーで書いたメディカル・コントロールの時代――。
Norman Fostが頭に描いているのも
Julian Savulescuが思い描いているのも、
たぶん、そういう世界であり、そういう未来――。
「安易な薬物療法」を取り上げ、その背景情報を詳細に調べて書いた人がいる。
もちろん精神科医ではなくジャーナリストの粥川準二氏。
「バイオ化する社会 うつ病とその治療を例として」。
これが、たいそう面白かった。
というか
なぜか日本では報じられることのない、ビッグ・ファーマの周辺で起きている諸々について
当ブログが関連のニュースを目につく折々に拾うことで描き出そうとしてきた「大きな絵」を、
粥川氏は、専門家の論文資料を詳細に当たるという方法によって
検証し、描き出そうとしているのだと思う。
しかも、さすがはジャーナリスト。
私が「科学とテクノの簡単解決文化」と、かったるい呼び名をつけてきたものに
見事に簡潔明快な呼び名が与えられている。
――バイオ化。
なるほど~。
「医療化 medicalization」については、
私は“Ashley療法”論争の際、07年2月のSalonの記事で
ある医師からの批判として「これは医療化だ」の発言と出会って知り、
その後の論争の中であれこれ調べるうちに、その意味するところも理解した。
このあたりのことについて粥川氏は以下のように解説する。
医療社会学や医療人類学では、かつて医療の管轄ではなかった物事が医療の管轄に入る現象や社会変容、いわば医療の管轄範囲の拡大を「医療化」と呼ぶ。たとえば医療社会学者ピーター・コンラッドは医療化を「非医療的問題が医療的問題(多くの場合、病いや疾患)として定義される過程」と定義する(Conrad 2007:4)。
アデレ・クラークはその議論をさらに推し進め、一九八○年代半ば以降の生物医療の劇的な変化を踏まえて、医療化を「生物(バイオ)医療化」と呼び直している。
(p.157)
その一部として「遺伝学化」がある。
「遺伝学化」とはカナダの研究者アビィ・リップマンが
「健康問題や社会問題に対する視点において遺伝学が優位になること」に対して
名付けたものだとのこと。
粥川氏は、うつ病治療の遺伝学化に続いて
抗うつ薬の効果の実証研究論文をいくつも当たって「抗うつ薬の神話」を浮き彫りにした上で、
次のように書いて「バイオ化」という言葉を説明する。
筆者はリップマンやコンラッド、クラークらの見解に対してとくに異論はないのだが、生物医療化という現象もしくは社会変容には、医療化という側面だけでなく「脱医療化」と呼んでもよさそうな側面がある。そのとき患者やその予備軍は、治療の対象となっているというより、単にマーケティングや管理の対象となっているだけのように見える。だからここではあえてその点を重視し、暫定的に「バイオ化」という言葉を使ってみたい。
うつ病には何らかの「原因」があると仮定し、それを遺伝子に求めるようなことはバイオ化の典型である。……(略)……しかしうつ病のバイオ化は、うつ病のほかの要因、特に社会的因子への視点をそらしてしまわないだろうか。筆者がとくに懸念するのは、所得や地位などうつ病と関連深い社会的因子への着目がおろそかになってしまうことである。
(p.157)
前半の「脱医療化」というのは、ちょっと分かりにくい感じもするけど、
つまりは医療のネオリベ「えげつないショーバイ」化、ぶっちゃけていえば、
例えば、グローバル強欲金融(ついでに慈善)資本主義に煽られたビッグ・ファーマの
なりふり構わぬ、人命軽視の利益至上主義のことですね。
その裏付けは、粥川氏も何本もの論文を紹介しているし、
当ブログの「科学とテクノのネオリベラリズム」の書庫にも沢山ある。
なぜか日本では報道されることがなく、研究者も手を触れないだけで、「ない」わけではない。
そして、粥川氏もタイトルで「例として」といっているように、
それは実は抗うつ薬だけで起きていることでもなくて、
ワクチンを含む予防医療も“有望マーケット”視されている。
というか、むしろ
訴訟やスキャンダル続きの抗うつ薬のマーケットに儲けの糊代は小さいと踏んだ製薬会社が
ターゲットをワクチンにシフトしてきている、という読みがある。
私は当たっているんじゃないかと思う。
そんなふうに本来、保健・医療の問題であるはずのものを
国際競争における生き残りをかけた各国経済施策の問題にすり替えてしまう構図が
この特集でずっと議論されている①の社会の病理の根本にあるのだとも思う。
①と②と③とが、ぐるりと、そういう繋がり方をしてしまう、
その繋がりこそが最も深刻な今の世界の病理なんじゃないか、とも思う。
そして、それがさらに社会のあり方や共有される価値意識や社会施策の姿勢に影響していく。
いっそう操作主義的な方向へと社会全体を「バイオ化」していく。
上記引用箇所の後半の粥川氏の指摘は、そのことだと思うし、
それこそ“Ashley療法”論争の大きな論点の一つ。
「社会モデル」で「医学モデル」を否定してきた障害当事者らが
「人を変えるな、社会を変えよ」と“Ashley療法”を批判しているのはこういうことだ。
けれど、07年からAshley事件とその周辺で起こっていることを追いかけてくると、
少なくとも英語圏、特に米国の医療は「社会モデル」など一顧だにするつもりもないままに、
法や福祉や教育など医療以外の分野の知見など取るに足りないとばかりに排斥し、
(Norman Fostらの司法介入への激しい忌避を考えると、
ある意味、医療が”シビリアン・コントロール”を拒絶し始めていると言えるのかも?)
むしろ障害当事者を強引に医療化、バイオ化の対象に引きずり出し
それによって身体(臓器も含め)のみならず、生命にまでも
その一方的な支配を及ぼしていこうとしているように見える。
生まれてくる前から医療によって選別され、
(詳細は「新・優生思想」の書庫に)
病気になったり障害を負った際には
「生きてもよい人」と「生きる価値がない=生きてはいけない人」を医療が選別し、
(詳細は「無益な治療」の書庫に)
遺伝学と脳科学と、その他もろもろの“科学的エビデンス”によって、
(そこには「ない研究は、ないという事実そのものが見えなくされる」イルージョンがある)
病気や障害のリスクの高い「予備軍」が選別され、
その中からさらに
科学とテクノで救済(改造あるいは治験対象者化も含め)可能な予備軍と不能な予備軍とが選別されて、
後者は生きるに値しない命として葬られていく。
バイオ資材としての有効利用の可能性に応じて、
貴重な臓器を無駄にしない葬り方によって――。
予備軍に過ぎない段階で――。
遺伝学化、脳科学化、バイオ化による操作主義の、
まさに、昨日のエントリーで書いたメディカル・コントロールの時代――。
Norman Fostが頭に描いているのも
Julian Savulescuが思い描いているのも、
たぶん、そういう世界であり、そういう未来――。
2011.02.23 / Top↑
この特集で目からウロコだったのは、
斎藤環氏のいう「操作主義」が精神科臨床にまで及び診断文化そのものが変容している、と
いろんな人がいろんな言い方で指摘していること。
その象徴として何人もが「操作的診断基準」と呼んで言及しているのが
米国精神医学会の精神障害の診断と統計の手引きであるDSM。
熊木徹夫という精神科医は「『らしさ』の覚知 診断強迫の超克」という文章で
DSMが隆盛を誇るようになってから、精神科医から“洞察”が失われ、
「精神科医の感性、ひいては精神科臨床の土壌自体がやせ衰えてきた」(p.124)
と書いている。
それは、ちょうど、なだいなだ先生が「こころ医者」と呼ぶ姿勢とか眼差しが
若い精神科医から失われつつあるということなのだろうな……と私は考えつつ読んだ。
熊木氏が“洞察”という言葉を使っているのも、私には興味深かった。
操作的な思考回路の典型みたいなトランスヒューマニストたちの言説に触れるたびに、
私が感じてきたのも、そこには「知恵がない」ということであり「洞察がない」ということだったから。
鈴木國文という精神科医は
「『うつ』の味 精神科医療と噛みしめがいの薄れた『憂うつ』について」という論考で、
まずは、やはり病態が変わったのだろうとの見方を示した後に、以下のように書いている。
DSM-Ⅲが出たためにこう変わったとよく言われますが、DSMが科学論として出てきたからこう変わったというよりも、むしろDSMを歓迎する文化が精神科医療の側にすでにあった、あるいは、DSM的なものの考え方への文化的な変容が社会全体の中にすでにあったからDSMが出てきたのだと私は考えています。
(p.85)
鈴木氏は、そのように現在の精神科医療が変化してきていることから、
文化の側面で神経症的な心性に目を向けてきた「神経症文化」が衰退して、
若い精神科医の間に「広汎性発達障害文化」が広がっている、
その文化が旧世代にできない支援を可能にする面も否定はできないが、
DSMのような診断マニュアルの普及も、そうした文化の一端ではないか、と考察する。
そして、それらの現象が、
「『発展』と『スピード』以外に方向性の見えない」「自由と競争の社会」の
「脆弱性」や「不安定性」と深くかかわっている、と指摘する。
この部分を読んで、
赤ちゃんのオムツは親が替えるよりもロボットが替える方が衛生的だから良い、と
主張する児童精神科医が日本にも既に出現していることを知った時の驚愕を思い出した。
考えてみれば、例の「デジタル・ネイティブ」みたいな頭と感性の世代が
医療を含めた科学とテクノや経済に留まらず、
司法や教育や様々な専門分野をこれから担っていくわけで……
その未来的な意味に思いを致すと、しばし、恐ろしさに茫然となる。
「科学とテクノで簡単解決バンザイ文化」の最先端を突っ走る米国で
大学生たちがADHD治療薬をスマートドラッグとして使っていることや
上記の日本の児童精神科医の方も、安全性と経済性さえクリアできれば
スマートドラッグとして使うことにまったく抵抗感がないように見えたこと、
日本の精神科医の3割程度がそれを肯定するだろうと推測されていたことを考えると、
社会の変容(「病理」との捉え方も私たち“過去の遺物”世代のノスタルジーか?)があり、
その変容がそのまま精神医療の変容をもたらし、
そこに樫村愛子氏がいう「DSM診断思想に見られる安易な薬物療法」が出てくるのも、
必然といえば、たいそう分かりやすい必然なのかもしれない。
この特集に寄稿している精神科医の方々は
総じてSSRIを始めとする抗ウツ剤等での製薬会社のマーケティング戦略(“陰謀説”)について
何らかの形で触れつつ、自分個人としてはそれに与することを
(または与していると読まれることを)避けておられるけれど、
精神科医療から洞察を失わせ、DSM的な操作主義で塗り替えていく
グローバルな自由と競争の社会の病理(変容)の背景には
かつてのゼネコン然とした巨大製薬会社の存在が否定できない以上、
社会経済と精神科医療と薬とは、ぐるりと回って繋がり絡まり合ってもいるのだから、
そうした社会の病理と精神科医療の文化の変化だけを言い、
薬物療法偏重の背景についてだけは精神科医の方々が口をそろえて否定されることには、
却って不自然な印象を受けてしまう。
ちなみに「安易な薬物療法」とズバッと書いた樫村愛子氏は社会学者。
斎藤環氏のいう「操作主義」が精神科臨床にまで及び診断文化そのものが変容している、と
いろんな人がいろんな言い方で指摘していること。
その象徴として何人もが「操作的診断基準」と呼んで言及しているのが
米国精神医学会の精神障害の診断と統計の手引きであるDSM。
熊木徹夫という精神科医は「『らしさ』の覚知 診断強迫の超克」という文章で
DSMが隆盛を誇るようになってから、精神科医から“洞察”が失われ、
「精神科医の感性、ひいては精神科臨床の土壌自体がやせ衰えてきた」(p.124)
と書いている。
それは、ちょうど、なだいなだ先生が「こころ医者」と呼ぶ姿勢とか眼差しが
若い精神科医から失われつつあるということなのだろうな……と私は考えつつ読んだ。
熊木氏が“洞察”という言葉を使っているのも、私には興味深かった。
操作的な思考回路の典型みたいなトランスヒューマニストたちの言説に触れるたびに、
私が感じてきたのも、そこには「知恵がない」ということであり「洞察がない」ということだったから。
鈴木國文という精神科医は
「『うつ』の味 精神科医療と噛みしめがいの薄れた『憂うつ』について」という論考で、
まずは、やはり病態が変わったのだろうとの見方を示した後に、以下のように書いている。
DSM-Ⅲが出たためにこう変わったとよく言われますが、DSMが科学論として出てきたからこう変わったというよりも、むしろDSMを歓迎する文化が精神科医療の側にすでにあった、あるいは、DSM的なものの考え方への文化的な変容が社会全体の中にすでにあったからDSMが出てきたのだと私は考えています。
(p.85)
鈴木氏は、そのように現在の精神科医療が変化してきていることから、
文化の側面で神経症的な心性に目を向けてきた「神経症文化」が衰退して、
若い精神科医の間に「広汎性発達障害文化」が広がっている、
その文化が旧世代にできない支援を可能にする面も否定はできないが、
DSMのような診断マニュアルの普及も、そうした文化の一端ではないか、と考察する。
そして、それらの現象が、
「『発展』と『スピード』以外に方向性の見えない」「自由と競争の社会」の
「脆弱性」や「不安定性」と深くかかわっている、と指摘する。
この部分を読んで、
赤ちゃんのオムツは親が替えるよりもロボットが替える方が衛生的だから良い、と
主張する児童精神科医が日本にも既に出現していることを知った時の驚愕を思い出した。
考えてみれば、例の「デジタル・ネイティブ」みたいな頭と感性の世代が
医療を含めた科学とテクノや経済に留まらず、
司法や教育や様々な専門分野をこれから担っていくわけで……
その未来的な意味に思いを致すと、しばし、恐ろしさに茫然となる。
「科学とテクノで簡単解決バンザイ文化」の最先端を突っ走る米国で
大学生たちがADHD治療薬をスマートドラッグとして使っていることや
上記の日本の児童精神科医の方も、安全性と経済性さえクリアできれば
スマートドラッグとして使うことにまったく抵抗感がないように見えたこと、
日本の精神科医の3割程度がそれを肯定するだろうと推測されていたことを考えると、
社会の変容(「病理」との捉え方も私たち“過去の遺物”世代のノスタルジーか?)があり、
その変容がそのまま精神医療の変容をもたらし、
そこに樫村愛子氏がいう「DSM診断思想に見られる安易な薬物療法」が出てくるのも、
必然といえば、たいそう分かりやすい必然なのかもしれない。
この特集に寄稿している精神科医の方々は
総じてSSRIを始めとする抗ウツ剤等での製薬会社のマーケティング戦略(“陰謀説”)について
何らかの形で触れつつ、自分個人としてはそれに与することを
(または与していると読まれることを)避けておられるけれど、
精神科医療から洞察を失わせ、DSM的な操作主義で塗り替えていく
グローバルな自由と競争の社会の病理(変容)の背景には
かつてのゼネコン然とした巨大製薬会社の存在が否定できない以上、
社会経済と精神科医療と薬とは、ぐるりと回って繋がり絡まり合ってもいるのだから、
そうした社会の病理と精神科医療の文化の変化だけを言い、
薬物療法偏重の背景についてだけは精神科医の方々が口をそろえて否定されることには、
却って不自然な印象を受けてしまう。
ちなみに「安易な薬物療法」とズバッと書いた樫村愛子氏は社会学者。
2011.02.23 / Top↑
この前、出張先でふらっと入った本屋で見つけて、なんとなく購入、
ホテルで読み始めたら面白くて、一気読みになった。
現代思想 2011年2月号 特集 うつ病新論 双極Ⅱ型のメタサイコロジー
もちろん、デリダだハイデガーだフーコーだラカンだガタリだドゥルーズだと
「わしらと同じ教養なき者は去れ」的トーンの議論の部分には、
いつもながら全くお手上げで、といって去ってしまうわけにもいかず、
自分は見たことがない連続ドラマの話を
「まさかマリコがトオルを捨てるなんてねぇ」
「しかもサチにまで、あんなひどいこと言われて」
「でも、ほら、前にトオルのメールをカオルが盗み見た時に……」などと
目の前の友人たちに延々と盛り上がられて、おいてきぼりをくらったまま、
退屈を押し隠し、じっと耐えながら話題が変わるのを待っている……
みたいな気分になるのだけど、
そういう部分(半分くらいが、そうだった)を無視して、
あれこれ細かい部分も、この際すっとばし、概要だけを、
私の個人的・一方的な読み方で大胆不敵にまとめてみると、
「新型なんてのも含め、なんで突然うつ病患者が増えたのか」
問題の背景を巡り、大雑把にいって以下の3つについて、
いろんな人がいろんなことを言っている。
① 社会の変容・病理
② 治療文化の変容
③ 抗ウツ剤を巡る製薬会社のマーケティング戦略(陰謀説)
(ただし「陰謀説」という文言は、たぶん斎藤環氏のみ)
私はこれまで①と③については考えてたけど、
②の治療文化の変容というのは盲点だった。
もちろん、3つはそれぞれに独立しているわけではなくて、
それぞれに輻輳しているわけで、
まず内海健という人と大澤真幸という人が
「うつ病の現在性 『第三者の審級』なき主体化の行方」という対談で言っている1つは
世の中に人格が未成熟な人が増えたために、
管理職とか親とか、下位のものに対して権威のある存在が
以前の社会では引き受けていた「第三者の審級」(私の理解と言葉で言うと「オトナ役割」)を
果たせなくなってしまっている。
それで、部下や子どもたちは本来なら背後で(方便も含めた)責任を引き受けてくれる存在を失い、
自分が責任を負うだけの力が身がつかないまま(これはオトナ役割の人がいて初めて身につく)、
その相手から逆に名目だけの選択とそれに伴う自己責任を迫られるという
かなり酷いハメに陥っている。そういうのが今の社会病理である、と。
(すみません。お2人の議論は、もっと複雑かつ深遠です。
ここでは、あくまでもspitzibaraの理解と言葉によるまとめ。以下も同じ)
斎藤環氏は
「目的や価値のいかんにかかわらず
『コントロール可能な状態』を維持することのみを偏重する態度」を
「操作主義」と呼び、
この操作主義に取り込まれることによって、
人は過剰な同調性を強要され、主体を失い、混乱し疲弊する、と指摘する。
ちょっと我田引水ではあるのだけど、いずれも
当ブログで「世の中が虐待的な親のような場所になっていく」と表現したのと
同じことを言っているような気がした。
人格が未成熟な親や大人のニーズに奉仕させられる子どもは
ダブルバインド状態におかれ、それによって過剰適応を身につけていく。
そのため、自分と他者との境界があいまいになり、主体を失い、混乱し疲弊する――。
その生きづらさこそ、
アダルトチルドレン(AC)という誤解されがちな用語が
実は見事に掬いとってみせたもの――。
世の中の強者が、過剰に強者らしい振る舞いをしてみせる陰で
実は、自分を客観視したり己の欲望をコントロールできない
未成熟な弱者でしかなくなってしまっているために、
彼らの心の安定のための操作主義が世の中にはびこっていく――。
私自身の理解と言葉で言い換えるとそういうことになるのだけれど、
ここで、ふっと頭に浮かんだのは、
虐待的な親のような場所になってしまった世界で、
親から虐待を受けて育ったACのような生きづらさを抱えたうつ病患者に、
その世界が医療による操作主義で対応しようとするのならば、その診断や治療の姿勢は、
今度は医療のコントロールに対して過剰に同調的になることを要求することによって、
よけいに患者を混乱させ、追い詰めていくのでは……という漠然とした懸念。
もちろん操作主義の文化に染まった人には
そのカラクリは先の①と②がぐるりと繋がった円には見えず、
原因と結果の直線にしか見えないのだろうし、
例えば、クローン牛肉の安全宣言の際にネット上に沢山いたけれど、
疑問を呈する声に対して、自分だって科学者でもないくせに、ヒステリックな上から目線で
「無知なバカに限って危険だと騒ぐ」と問答無用の非難を浴びせていた人たちは
既に過剰適応させられているんじゃないんだろうか。
斎藤環氏は、操作主義のもとで安定可能なのは、
「その都度の欲求が満たされれば満足という」、
「いわば〈動物化〉あるいは〈キャラ化〉した主体」だけで、
そういう主体にとっては現代はむしろ楽園だろう、と書いている。
そして、①と②がそんなふうに繋がっている構図が、実はうつ病と精神医療だけでなく、
“Ashley療法”に象徴される「科学とテクノの簡単解決バンザイ文化」や
その背景にある能力至上価値観、その延長の「能力低ければ生きるに値しない命」価値意識、
さらにその意識に基づく「無益な治療」・「死の自己決定」の議論にも、
そのまま通じていくことが、
本当はさらにコワいことなのだろうなぁ……とつくづく考えさせられた。
ホテルで読み始めたら面白くて、一気読みになった。
現代思想 2011年2月号 特集 うつ病新論 双極Ⅱ型のメタサイコロジー
もちろん、デリダだハイデガーだフーコーだラカンだガタリだドゥルーズだと
「わしらと同じ教養なき者は去れ」的トーンの議論の部分には、
いつもながら全くお手上げで、といって去ってしまうわけにもいかず、
自分は見たことがない連続ドラマの話を
「まさかマリコがトオルを捨てるなんてねぇ」
「しかもサチにまで、あんなひどいこと言われて」
「でも、ほら、前にトオルのメールをカオルが盗み見た時に……」などと
目の前の友人たちに延々と盛り上がられて、おいてきぼりをくらったまま、
退屈を押し隠し、じっと耐えながら話題が変わるのを待っている……
みたいな気分になるのだけど、
そういう部分(半分くらいが、そうだった)を無視して、
あれこれ細かい部分も、この際すっとばし、概要だけを、
私の個人的・一方的な読み方で大胆不敵にまとめてみると、
「新型なんてのも含め、なんで突然うつ病患者が増えたのか」
問題の背景を巡り、大雑把にいって以下の3つについて、
いろんな人がいろんなことを言っている。
① 社会の変容・病理
② 治療文化の変容
③ 抗ウツ剤を巡る製薬会社のマーケティング戦略(陰謀説)
(ただし「陰謀説」という文言は、たぶん斎藤環氏のみ)
私はこれまで①と③については考えてたけど、
②の治療文化の変容というのは盲点だった。
もちろん、3つはそれぞれに独立しているわけではなくて、
それぞれに輻輳しているわけで、
まず内海健という人と大澤真幸という人が
「うつ病の現在性 『第三者の審級』なき主体化の行方」という対談で言っている1つは
世の中に人格が未成熟な人が増えたために、
管理職とか親とか、下位のものに対して権威のある存在が
以前の社会では引き受けていた「第三者の審級」(私の理解と言葉で言うと「オトナ役割」)を
果たせなくなってしまっている。
それで、部下や子どもたちは本来なら背後で(方便も含めた)責任を引き受けてくれる存在を失い、
自分が責任を負うだけの力が身がつかないまま(これはオトナ役割の人がいて初めて身につく)、
その相手から逆に名目だけの選択とそれに伴う自己責任を迫られるという
かなり酷いハメに陥っている。そういうのが今の社会病理である、と。
(すみません。お2人の議論は、もっと複雑かつ深遠です。
ここでは、あくまでもspitzibaraの理解と言葉によるまとめ。以下も同じ)
斎藤環氏は
「目的や価値のいかんにかかわらず
『コントロール可能な状態』を維持することのみを偏重する態度」を
「操作主義」と呼び、
この操作主義に取り込まれることによって、
人は過剰な同調性を強要され、主体を失い、混乱し疲弊する、と指摘する。
ちょっと我田引水ではあるのだけど、いずれも
当ブログで「世の中が虐待的な親のような場所になっていく」と表現したのと
同じことを言っているような気がした。
人格が未成熟な親や大人のニーズに奉仕させられる子どもは
ダブルバインド状態におかれ、それによって過剰適応を身につけていく。
そのため、自分と他者との境界があいまいになり、主体を失い、混乱し疲弊する――。
その生きづらさこそ、
アダルトチルドレン(AC)という誤解されがちな用語が
実は見事に掬いとってみせたもの――。
世の中の強者が、過剰に強者らしい振る舞いをしてみせる陰で
実は、自分を客観視したり己の欲望をコントロールできない
未成熟な弱者でしかなくなってしまっているために、
彼らの心の安定のための操作主義が世の中にはびこっていく――。
私自身の理解と言葉で言い換えるとそういうことになるのだけれど、
ここで、ふっと頭に浮かんだのは、
虐待的な親のような場所になってしまった世界で、
親から虐待を受けて育ったACのような生きづらさを抱えたうつ病患者に、
その世界が医療による操作主義で対応しようとするのならば、その診断や治療の姿勢は、
今度は医療のコントロールに対して過剰に同調的になることを要求することによって、
よけいに患者を混乱させ、追い詰めていくのでは……という漠然とした懸念。
もちろん操作主義の文化に染まった人には
そのカラクリは先の①と②がぐるりと繋がった円には見えず、
原因と結果の直線にしか見えないのだろうし、
例えば、クローン牛肉の安全宣言の際にネット上に沢山いたけれど、
疑問を呈する声に対して、自分だって科学者でもないくせに、ヒステリックな上から目線で
「無知なバカに限って危険だと騒ぐ」と問答無用の非難を浴びせていた人たちは
既に過剰適応させられているんじゃないんだろうか。
斎藤環氏は、操作主義のもとで安定可能なのは、
「その都度の欲求が満たされれば満足という」、
「いわば〈動物化〉あるいは〈キャラ化〉した主体」だけで、
そういう主体にとっては現代はむしろ楽園だろう、と書いている。
そして、①と②がそんなふうに繋がっている構図が、実はうつ病と精神医療だけでなく、
“Ashley療法”に象徴される「科学とテクノの簡単解決バンザイ文化」や
その背景にある能力至上価値観、その延長の「能力低ければ生きるに値しない命」価値意識、
さらにその意識に基づく「無益な治療」・「死の自己決定」の議論にも、
そのまま通じていくことが、
本当はさらにコワいことなのだろうなぁ……とつくづく考えさせられた。
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