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(前のエントリーからの続きです)


④医師の横暴や、患者や家族の自己決定を阻害して顧みない態度への批判

この医師の、「君は責任をとれるのか」のひとことが、今の病院の大多数の医師の姿勢を象徴しているといえるでしょう。
 患者さんにとってどうしてあげるのがいいか、ではなく、自分が責任を問われないようにするために、自分の保身のために、処置をしているのです。
 しかし、看護師も介護士も家族も、医師の言葉には逆らえません。…(中略)…とても患者のことを考えていると思えない、横暴としか言いようのない言い方をしても、相手が医師であるがゆえに、みんな逆らえないのです。
(I, p. 25)

……その人と一緒に人生を生きてきた人たちと平等な立場で話し合い、協働作業をすることこそが、今、求められているのではないでしょうか。
 欠けているのは、この意味での医師のコミュニケーション能力です。
(I, p. 27)

……方法があるからと、医者がその人に押し付けてよいはずはないのです。ましてやその人に長年寄り沿っている人に「おまえが責任をとれるのか」と迫る権利などないのです。
(I, p. 94)

 医者が家族に胃ろうを勧める時に、二言目に出てくるのが「助ける方法があるのにそれを行わないことは、保護責任者遺棄致死罪に問われる」ということです。
(I, p.138)


しかし、石飛氏が自分で指摘するこうした医師のあり方のおかしさを正す責は
なぜか医師には求められず、看護師に求められていく。

……しかし、医師が指示するから、なんでも看護師はそれに従わなければならないのではないのです。その適応が間違っていると思う場合は意見を述べ、間違いを正すことは当然の義務であります。それこそ真の助けでしょう。
ましてや一人の人間として発言する資格は同等であるはずです。…(中略)…
 医師である私が言うのもおかしいのですが、いえ、逆に医師だからこそ私が言わなければならないのかもしれません。「おかしいことはおかしい」と言うべきです。
(I, p. 28)


個々の看護師が「おかしいことはおかしい」と目の前の医師に向かって言うことより
自分がこれほど批判した以上、石飛医師自身が医師らに向かって
「あなたたちはおかしい。あなたたちが変わるべきだ」あるいは
「医師である私たち自身が変わらなければならない」と言うことの方が
はるかに易しいことであるはずだと、私には思えるのだけれど。

でも、この人たちの本には、どこか
「医師らがそうなるのには、やむを得ない面がある」
「そうなってしまうのは、医師らのせいではない」と言いたげなトーンがある。

 特養の配置医には、往診料がつかないのです。深夜わざわざ起きてまで特養に行く奇特な医師は少ない。
(I, p. 29)

……複雑な医療制度の中では「口から食べたい」という患者さんの希望やQOL(生活の質)は、どうしても二の次になりがちです。
 ですから、一概に病院医療者を責めるのは、ちょっと筋違いかもしれません。
(N, p.85)

(在宅での看取りが不安になって、やっぱり病院に戻すと家族が決めた、という下りで)医療者は常に受け身です。
(N, p.75)


また、いずれの本でも、医師が率直な判断をできなくなった原因を、
家族の求めに応じて延命治療を中止した医師が逮捕された(という認識で語られる)事件に求めている。

(例えば
「射水の場合は本人の意思不明の事例が多く
川崎に至っては、人工呼吸器中止後に患者が苦悶したため
筋弛緩薬を用いて呼吸を停止させたのです。
脳機能をみる脳波検査すら行われていません」と
ヘブンズドアホスピタル・ブログに書かれているように
これらの事件では治療中止の正当性が危ぶまれているにも拘らず)

医師らがこうなってしまったのは、
そのように患者のために勇気ある決断をした医師を不当に責める世の中のせい、とでも言いたげに。

そうして、
上記の個所で、患者の最善の利益にかなう選択をする責任が
医師から看護師へと転嫁されたのと同じように、

平穏死できない現実を作っている責任が
医療や医師や病院ではなく、患者サイドへと転化されていく。

私は(8割の人が平穏死を望んでいても、8割の人が平穏死できない)その最大の理由は、皆さんが「平穏死できない現実を知らない」からだと思います。
(N, p. 98)

「平穏死」を妨げているのはこうした「終末期医療の現実への無関心」のように感じます。医療者も患者も市民も、死や終末期医療に正面から向き合わずにここまで来ました。病気や老衰の終末期に緊急入院をするかどうか、食べられなくなった時にどうするか、特にこの2点について、元気な時から家族と一緒によく話し合っておくことが大切です。
(N, p. 100)

でも、この直前には著者自身が
しかし本人の想いだけでは、なかなか平穏死できないのが日本の医療の現実です(N. p. 98)
と書いているのだから、元気な時から家族と一緒によく話し合っておいたとしても
その「日本の医療の現実」が変わらない限り、患者と家族の思いだけでは
平穏死など出来ないことになるはずなのだから、

「死や終末期医療に正面から向き合」う必要があるのは、誰よりもまず、
著者自身が「医療者も患者も市民も」「向き合わずに」来たと書いて
真っ先に上げている「医療者」のはず。

それなら、
なぜ、この人たちは
その「日本の医療の現実」を変えようと言わないのだろう?

 いくら平穏死を強く望んでも、簡単にはかなわない時代に我々は生きている――それが、医者になって28年になる私の偽らざる実感です。なぜそうなってしまうのか? 患者さんは何を準備すればいいのか?
(N, p.5)

これほど医師や医療や医療制度のあり方に問題があると指摘し続けているのだから、
長尾氏の「なぜそうなってしまうのか?」の答えは
「医療のあり方に問題があるから」であることは明らか。

それなのに、なぜ次の問いは医師や医療の方に
「こうしたあり方を変えるためには何をすればいいのか?」と向けられず、
なぜ「患者さんは何を準備すればいいのか?」と
即座に患者さんの方に転じられてしまうのか――?

そこに釈然としないものが、どうしても、ある。

どちらの本も、
さりげなく一定の状態について「生きるに値しない」との価値意識を盛り込み、
患者本人の利益を説く一方で医療経済にもちゃんと触れて、
日本は遅れているから海外に追いつかなければ、と煽ってもいるだけに――。

それらの点については、いずれ、また別エントリーにて。


【関連エントリー】
「尊厳死を巡る闘争:医療危機の時代に」1(2008/3/2)
「尊厳死を巡る闘争:医療危機の時代に」2(2008/3/3)
「尊厳死を巡る闘争:医療危機の時代に」3(2008/3/3)
日本尊厳死協会・井形理事長の「ダンディな死」発言(2010/3/2)
日本の尊厳死合法化議論を巡る4つの疑問(2010/10/28)
日本尊厳死協会理事長・岩尾氏の講演内容の不思議 1(2012/10/23)
日本尊厳死協会理事長・岩尾氏の講演内容の不思議 2(2012/10/23)
2013.02.12 / Top↑
(前のエントリーからの続きです)


②制度や医療サイドの都合によって安易につくられる胃ろうへの批判

「……病院には平均在院日数の問題があります。…(略)…早く次の施設へ転院していただくために、胃ろうを付けることになります。……」
(I, p.33)

 医者が老衰末期における医療の限界を認識し、一例一例違う状況を踏まえて責任ある判断をして、家族やケアをする人々を支えられれば“胃ろう難民”は生まれるはずはないのです。
(I p.36)

(日本赤十字看護大学の川島みどり名誉教授の言葉を引いて)
「本当の看護とは何か? 本当のケアは何か? これほどまでにあっさり胃ろうが作られる社会状況は、本当のケアがなされていないからではないでしょうか」
 これは看護だけでなく、介護の世界にも言えることです。そして医療の世界についてはもっと言えることです。……
(I P.68)


包括払いシステムで「中心静脈栄養をしないで済めばその方が経営的に有利」である半面、
「胃ろうの経管栄養剤は材料費として請求できます」(I, p. 87)


……医療技術の発達により、口から食べられないと、人口栄養を早めに勧められる傾向にあります。
 特に病院に入院すると、誤嚥性肺炎で入院が長期化する可能性があるので、どうしても胃ろうや高カロリー輸液を勧められます。誤嚥性肺炎が命取りになったときの責任を問われることを避ける意味もあります。
「ゆっくり時間をかけて食事を口に運べばなんとか食べられるのだが…」というような患者さんの場合でも、介護の手間を理由に胃ろう栄養が進められます。
(N, p.82)


③ 医療の過不足、医師の知識・認識不足への批判


「老衰」の身体に、健常体と同じように点滴で入れるからです。(I, p.78)

「こうしなければならない」「最低これだけは入れなければならない」という思い込み(I, p. 83)


病院の先生は、口から食べることに関する患者さんやご家族の思いをあまり知らないように感じる時もあります。皆さん、どんなに口から食べたいと思っていることか!
しかし多くの医師は「口から食べると誤嚥性肺炎を起こす可能性が高い→胃ろうないし高カロリー輸液にしなければならない」という呪縛から抜け出すことができないように思えます。そりゃ、そうです。「患者さんに何とか食べさせてあげたい。食べる喜びを奪いたくない」という発想がない限り、それにトライすることは絶対にないわけですから。
(p.85)
 ……(中略)……
……「がん性腹膜炎であっても、最期まで食べられる」と講演ではお話ししています。しかし肝心のお医者さんになかなか信じていただけないのが辛いところです。
(N, p. 87)

……最近は使いやすい麻薬が次々と登場し、痛みの治療は一昔前に比べて格段に進歩しています。…(略)…
病院から自宅に戻られた患者さんを最初に訪問した時、「どうして?」と驚いたことが何度もありました。病院で使われていた麻薬の量が余りにも少なかったのです。この量では患者さんの痛みに全く対応できていない。
(N, p.65)

今の私には、病院は患者さんが病気を治してもらう代わりに我慢して入る牢獄のようにも見えてしまいます。
(N, p.69)

……病院では死を目前にしても不要な点滴をするので、不要な苦痛が増えて、セデーションが必要になるのではないか。私はそのように感じています。
(N, p. 99)

……「24時間以内に診察していなければ、死亡診断書を発行できない。つまり、警察に届けなければならない」と誤解している医療者の多いこと!
(N, p.131)

「病院は病気を治す修理工場であり、死ぬところではない」というのが私の考えです。
(N, p.175)


(次のエントリーに続きます)
2013.02.12 / Top↑
1月19日に
ケベックの小児外科医「これほどの医療崩壊を放置してPAS合法化なんて、とんでもない」のエントリーの
コメント欄で、私は次のように書いた。

私は日本の尊厳死とか平穏死を勧める医師が書いている本を読むたびに、この人たちが言っているのは実は「今の医療のあり方はおかしい」ということに過ぎないんじゃないか、という気がしてならないんですよ。それなら、おかしい医療のあり方の方を正せばいいのに、当の医師が患者に向かって「医師に任せておいたらロクなことにならないから、自分で医療を放棄して死を望め」と説いているのが、現在の「尊厳死」「平穏死」推進論のような。「医療のあり方がおかしい」という問題がどうして「医療のあり方を正せ」という話にならず「患者の死に対する姿勢がおかしいから正せ」という話に摩り替るのか……と。

英語圏の議論でも、これまでの反対論はせいぜい「医療費削減のためにPASや尊厳死が導入されようとしている」どまりだったという印象があるんですけど、実は医療崩壊とその崩壊が医療の文化を劣化させている問題なんだと正面から指摘してくれた、という点で、この記事を「一味違う」と読みました。「だから医療を信頼せず、自ら尊厳死を選べ」と説く姿勢って、さらなる劣化の推進だなぁ、と思わせてくれたという意味でも。


『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』を読み、
6つのシリーズ・エントリーを書き終えて、思うのは「やっぱりこれじゃない?」ということ。

この『第4巻 終末期医療』全体としての大きな主張について
私自身がずっと「尊厳死」「平穏死」推進論に感じてきた上記のような違和感を踏まえて
私自身の勝手な捉え直しをさせてもらうと、以下のようになる。

確かに「医療のあり方はおかしい」が、そのおかしさとは
尊厳死や平穏死を推奨する医師らが問題にしているような現象レベルでの
「終末期医療」限定のおかしさではなく、もっと深刻で根深く、
医療そのものの本質に関わる「医療の文化」の問題なのである。

その本質的な医療の文化の「おかしさ」からは、
「今の医療のあり方はおかしい」と「平穏死」を説く医師ら自らも
無縁であるわけでは決してなく、彼らもその限界の内に取り込まれている。

そこに気付き、その文化を本質的に修正しない限り、
「尊厳死」も「平穏死」も、医療の価値意識という限界の中から、
その限界に無自覚なまま描きだされるテクニカルな「よき死」への誘導に過ぎない。


そこで、上記の丸善のシリーズ第4巻を読んだ後で、
本棚から引っ張り出してきた以下の2冊を、
この疑問に沿って、再読してみた。

石飛幸三『「平穏死」という選択』(幻冬舎ルネッサンス新書)
長尾和宏『「平穏死」10の条件』(ブックマン社)


まず2冊の中から
私には「医療のあり方や医師がおかしい」との批判と思える個所を、
いくつか引っ張ってみる。(Iが石飛本、Nが長尾本)

① 延命至上主義・治療至上主義への批判

……どんな形であれ命は延ばさなければならないという「延命至上主義」が、医療の現場にははびこっています。
(I, p.26)

 もう医療では助けられない、しかしそれを本人には伝えない、本人は自分の一生なのにどうなるのか知らせてもらえない、そうして役に立たない医療行為が続けられて、本人にはそれが役に立つかのように説明されて、期待だけ持たされて、事態は違う方に流れて、不信感に苛まれ、苦しんで最後を迎える。
(I, p.91)

これが、専門分化が進んだ医療の現場の実情です。…(略)…まるでベルトコンベアに載せられた「もの」の用に押し出されていく。その患者さんが今後どうなっていくかということはまったく置き去りにされているのです。
(I, p.33)

……患者さんが死ぬまで抗がん剤治療を続ける気だったのか――病院の主治医に強い疑問を持ちました。
(N, p.25)

……人生の最期を想定していないがん医療の最前線に、疑問を感じることが、実に多いのです。
(N, p.27)

……しかし、残念ながら現状では、病院での「平穏死」は難しいと感じます。なぜなら多くの病院医師にとって「延命」は至上命題だからです。…(中略)…こうした医師の性は、医学教育を見直さない限り、代わることはないでしょう。そこに残されたのは、簡単には平穏死できないという「現実」だけです。
(N, p.30)

……「人は死ぬ時、なぜここまで苦しまなあかんのやろ」という疑問を持ち、それは2年後には「医療者が余計なことをするから苦しむんじゃないか」という考えに変わりました。
(N, p.36)

……普段、死と接することの老い医師や看護師でさえ、確固たる死生観を持っているとは言えません。何せ医療界では死は敗北なのです。しかし本当に死が敗北なら、医療の成功率は永遠に0%です。勤務医時代、病院内で死について語る機会は一切ありませんでした。現在の日本の医学部でも、死生学の授業はほとんど行われていないのが現状です。
(N, p.59)


とても興味深いと思うのは、
石飛医師も長尾医師も医学教育に問題があるとの認識があるにもかかわらず、
「医学教育を変えなければならない」という主張はどこにも見当たらないこと。

(次のエントリーに続きます)


2013.02.12 / Top↑
ドイツ政府の研究で犯罪者の脳を調査してきたDas Bild医師が、
Daily Mail 紙のインタビューで、

凶悪犯の脳スキャンではほぼ全例で中心葉の下部に黒い塊が見られ、
その部位こそが「邪悪帯(evil patch)」だと。

そうした部位に腫瘍ができたり損傷を負うことから犯罪行為が起きているもので、
腫瘍摘出手術を行えば、その人物は正常となった、

またはセロトニンなどの一定の物質がきちんと働いていないために
器質的な欠陥が起きている可能性もあるが、

いずれにせよ悪が生まれ宿るのは脳のその部分であることは間違いない、などと発言。

「もちろん、自動的にそうなるというのではなく、
暴力的な傾向を脳が補うこともあり、
そのメカニズムははっきりしない」と言いつつも、

「若い人の脳の前下部に発達障害があれば
その人は66%の確率で犯罪者になる。
ごく小さい頃から反社会的行動を予測することは簡単」とも。

Roth医師の研究とは、犯罪者を以下の3グループに分けたという。
① 心理的には健康でありながら、暴力や盗みや殺人が許容される環境で育った人。
② 世の中を脅威とみなし、精神に問題を抱えた犯罪者。
③ ヒットラーやスターリンのようなサイコパス。

同医師は
すべてのサイコパスが生まれつきのものではなく、
多くは環境によって悪化したものだとしながら、

「幼稚園の時から精神的な衰退は始まるので
社会は彼らが犯罪者となる前に
そうした子どもたちと親に広く支援を行うべき」だとして、

刑法改革を呼び掛けている。

Where evil lerks: Neurologist discovers ‘dark patch’ inside the brains of killers and rapists
The Daily Mail, February 5, 2013


この話題に関するBioEdgeの記事はこちら ↓
http://www.bioedge.org/index.php/bioethics/bioethics_article/10382#comments

この記事によれば、Roth医師は
我々の行動の3分の1は遺伝子によって決定づけられている、と主張しているとのこと。

また、上記Mail紙のインタビューについては
Daniel Rettingというブロガ―が
「これはまたも、科学ジャーナリズムにつきものの問題。
単純化と愚ろかさを画す一線が超えられてしまうことが時にあり、
この記事は残念ながら、それが起こった事例」と書いたとのこと。


私はこの話には科学ジャーナリズムの「愚かさ」というよりも、
むしろ世の中にじわじわと広がっていくメディカル・コントロールの
不気味な匂いを感じるけれど。

例えば、以下の話題に漂っているのと同じような。

「ハイリスクの親」を特定することから始まる児童虐待防止プログラム:Norman Fostが語る「メディカル・コントロールの時代」:YouTube(2011/2/21)
SavulescuとSingerが「犯罪者は脳が決める。科学とテクノで犯罪予防を」1(2012/2/4)
SavulescuとSingerが「犯罪者は脳が決める。科学とテクノで犯罪予防を」2(2012/2/4)
SavulescuとSingerが「犯罪者は脳が決める。科学とテクノで犯罪予防を」3:リアクション(2012/2/5)
2013.02.12 / Top↑
米国で、現在、法案が州議会で審議されているのは、
以下のシアトル・タイムズの記事によると6州で、
コネチカット、ヴァーモント、ニュージャージー、カンザス、ハワイ、マサチューセッツ。

この記事によると、
CT州の合法化に向けた動きは州外のC&Cによるものであり、
州内の草の根運動は存在しないとの批判もあるとのこと。

NJ州の法案は8日に下院委員会の投票 7-2(棄権2)で可決。
どうも報道が紛らわしい書き方ばかりするので
なかなか事実関係がわかりにくいのですが、
上院まで通過した場合には、住民投票が行われることが決まる、ということみたい(?) ↓
http://www.newjerseynewsroom.com/healthquest/physician-assisted-suicide-law-passes-nj-assembly

なお、VT州については、
当ブログも4日の補遺で、以下のニュースを拾っている。

VT州のPAS合法化法案、上院の委員会を5―0で通過。反対運動からは「聞く耳などない」との声も。
http://www.burlingtonfreepress.com/article/20130201/NEWS03/302010027/Doctor-assisted-suicide-measure-backed-by-Vermont-Senate-committee?odyssey=mod|newswell|text|FRONTPAGE|p&gcheck=1

Assised suicide on legal agenda in several states
The Seattle Times, February 8, 2013


その他、当ブログで動きを拾っているのは、

【カナダ、ケベック州】

1月16日の補遺
カナダ、ケベック州の副保健大臣がPAS合法化を明言。
http://news.nationalpost.com/2013/01/15/quebec-to-legalize-assisted-suicide-death-a-medical-issue-health-minister-says/


【ニュージーランド】

昨年12月15日の補遺
もうどこがどうなっているんだか、あまりに動きが加速していて頭が混乱しているんだけれど、NZの議会にも自殺幇助合法化法案が出ているみたい。他に米国NJ州。スコットランドもだったっけ? 大きな訴訟が進行中なのはアイルランドとカナダのBC州。合法化するぞ、と言っているのは米国VT州とカナダのケベック州。
http://www.nationalrighttolifenews.org/news/2012/12/new-zealand-petition-opposes-euthanasia-and-assisted-suicide/


【フランス】

昨年12月21日の補遺
フランスのオランド大統領は今年5月の大統領選の際の公約に自殺幇助合法化を謳っており、就任後に命じた報告書が出てきたのを受けて、来年6月に法案を提出する方向。ただ、記事によって例えばNYTも「医療的に幇助する自殺medically assisted suicide」という表現を使っているけれど、他の記事の内容からすれば自殺幇助というよりも消極的安楽死のことと思える節も。いつものことながら、メディアのこういう厳密さに欠ける言葉の使用が気になる。
http://rendezvous.blogs.nytimes.com/2012/12/18/france-opens-the-door-to-a-right-to-die-but-not-now/
http://www.hurriyetdailynews.com/france-takes-first-step-toward-medically-assisted-suicide-.aspx?pageID=238&nID=37207&NewsCatID=351
http://www.france24.com/en/20121219-france-medically-assisted-suicide-euthanasia-healthcare-reform-hollande


【タスマニア】
http://www.bioedge.org/index.php/bioethics/bioethics_article/10389


あと、スコットランドと英国にも
法案提出に向けた動きがある。
2013.02.12 / Top↑
安楽死のすべり坂を転げ落ちているとしか思えないニュース(詳細は文末にリンク)が相次ぐ
ベルギーから、またもイヤ~なニュース。


コトの起こりは去年10月、
カトリック系大学の精神科教授で性科学と摂食障害の世界的権威、
Walter Vandereycken医師に長年ささやかれてきた患者への性的虐待の疑惑が
テレビ番組で事実と暴かれた。

教授自身も複数の患者と不適切な性的関係を持ったことを認めて、
大学は同教授を停職処分とした。

その時の記事がこちら ↓
Leuven University psychiatrist admits improper sexual relations
Ecpatica.com, October 10, 2012


このスキャンダルを暴いたのは
彼の患者の一人である Ann G. さんだった。

Ann G.さんは番組に登場し、
自分を含め複数の患者が被害に遭ったと訴えた。

Ann G.さんには2007年に早くも自殺したいと語った事実があり、
昨年、番組に登場した際にも既に安楽死希望の手続きを済ませているようだった。

被害をカムアウトしたことで一旦は心が安らいだようにも思えたが、
その後、加害者がさほどの懲罰を受けなかったことに、いたく失望し、
番組に出た数カ月後に、別の心優しい精神科医によって安楽死した。

Ann G.さんの死によって
Vandereychken医師に不当なスティグマが負わされている、と
報道などに抗議する向きもあるようだけれど、

BioEdgeのCookは、以下のように書いている。

斜め目線の人なら、ベルギーの精神科医は利益の相反に鈍感だと言いたいことだろう。一人の精神科医が心を病んだ女性に手を出し、崖っぷちに立っている人の背を押すようなことをする。その女性が法廷で彼に不利な証言をできないように、別の精神科医が手を貸す。Vandereychken医師は仕事に復帰してプライベートな患者(開業したという意味?)を診察し始めている。その一方でAnn G.さんは死んだ。しかしベルギーの国民は、こういう出来事に慣れていかねばならない。

Another speed bump for Belgian euthanasia
BioEdge, February 8, 2013



【関連エントリー】
ベルギーで2年前にロックトインの女性、「安楽死後臓器提供」(2010/5/9)
ベルギーの医師らが「安楽死後臓器提供」を学会発表、既にプロトコルまで(2011/1/26)
ベルギーの「安楽死後臓器提供」、やっぱり「無益な治療」論がチラついている?(2011/2/7)

「安楽死後臓器提供」のベルギーで、今度は囚人に安楽死(2012/9/15)
ベルギー社会主義党「未成年と認知症患者にも安楽死を」(2012/12/22)
ベルギーの安楽死10年のすべり坂: EIB報告書 1(2012/12/28)
ベルギーの安楽死10年のすべり坂: EIB報告書 2(2012/12/28)
ベルギーで、ろう者の双子(45歳)に安楽死(2013/1/14)


【12日追記】

その後、Ann G.さんに行われた安楽死は
それ自体の合法性もどうなのか、という気がしてきたので、

ベルギーの安楽死法の対象者要件を
去年4月のEIBの報告書から抜粋した以下のエントリーで確認してみました。

ベルギーの2002年安楽死法の対象者要件 概要(2012/12/28)

ベルギーの安楽死法の対象者要件は
a) 意識のある患者 と b) 意識のない患者 に分かれていて、

Ann G. さんの場合は明らかにa) に当たるわけですが、
その部分に書かれているのは、

In the case of a patient in the final stages of his/her illness, euthanasia may take place if
(自分の病気の最終段階にある患者の場合に安楽死が行われてもよいのは……)
として、終末期にある患者の場合に安楽死が認められるための条件が
9件ほど挙げられているのみ。

したがって、終末期ではなかった Ann G. さんに行われた安楽死は
EIBの報告書が指摘している安楽死委員会による「法の文言の拡大解釈」によって許容されているだけで、
厳密には違法な性格のものなのでは?
2013.02.12 / Top↑
化粧品、シャンプーや石鹸などの、身の廻りのケア製品には
安全性がまったく確認されていない化学物質が大量に使われている、という衝撃の記事。

あ、一応、米国の話です(が……)。

The Environmental Working Groupがネット上で
79000品目以上の製品のデータベースを公開しているが、

そこで使われているのは10500種もの化学物質で、
そのうち企業側が安全性のアセスメントをしたと認めているのは5分の1以下。

発がん性で悪名高いフォルムアルデヒドも、
ダイオキシンも鉛も、ごく身近な製品に含まれているし、

内分泌かく乱物質であるフタルエステルは
CDC(疾病予防管理センター)の調査ではほぼ全員から検出された。

人の体に触れて吸収されていくという点では
これらの製品は食べ物と同じでありながら、
こうしたケア製品が市場に出回る前にはFDAの規制は行われない。

規制しないが、FDAのサイトには
「化粧品会社には自社製品の安全性を実証する責任があります」と書かれている。

消費者が身を守る手段の1つは訴訟だが、
こうした危険な化学物質がすぐに人体に反応を起こすとは限らず、
因果関係が指摘されたり、立証されるには長い時間がかかってしまう。

あとは十分な検査を求めることしかないが、
残虐な動物実験はなくしていこうとの機運は高まっており、
ヨーロッパ・ユニオンは来月から動物で実験した成分の化粧品利用は一切禁じる。

これはこれで逆に動物実験を義務付けている中国でのビジネスとのジレンマもあるが、
シャンプーの安全性確認のために
わざわざ動物に実験を、とまで多くの人は望まないだろう。

動物実験は、それが人間の命を救うことにつながり、
他にそれに代わる手段がどうしてもない場合にのみ、
やむを得ず用いられてしかり、というのが多くの人の気持ちのはずだ。

それなら、人間の体に触れるものについては、
安全と確かめられたものだけを使う、という方針はどうなのだろう。

安全性が不透明な成分を使うことは製造側には利益になっても、
消費者の利益にはならない。

危険性が判明した物質だけでなく、
危険性がまだはっきり分からない物質についても、
FDAが規制できるように制度改正を求めるべきである。

そうでなければ、我々自身が実験動物にされているに等しいが、
でも、我々だって保護を必要とする動物なのだ。

The Cosmetics Wars
NYT, February 5, 2013/02/07


因果関係が分かるまでには時間がかかり、訴訟を起こせる時にはもう遅い、という下りで
カッコ内に以下のように書かれている。

Something is causing increased rates of allergies, autism, attention-deficit hyperactivity disorder, certain cancers and other ailments, and it may take some time before we figure out the causes.

アレルギーや自閉症、ADHD、ある種のガンやその他の病気の増加の原因となっているとしても、それらの原因が判明するには時間がかかる可能性がある。


これ、このブログを始めて間もないころからずっと言ってきた
「ない」研究は「ない」ことが見えなくされている科学のカラクリ……ということなんでは?

それに、
こんなふうに複合的にケミカル&(今後は)バイオ汚染が進んでいくと考えたら、
この先は何が原因で何が起こっているか因果関係も、調べようがなくなっていくんでは……?

それとも
「調べようがない」から「因果関係はない」から「安全だと前提」になっていく……んだろうか?



【関連エントリー】
大統領がんパネルが「化学物質はやっぱりヤバい」(米)(2010/5/10)
2013.02.12 / Top↑
これまでのエントリーはこちらです。

『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 1(2013/1/17)
『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 2(2013/1/17)
『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 3(2013/1/18)
『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 4(2013/1/28)
『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 5(2013/1/29)


読み終えて思うのは、
「尊厳死」「平穏死」が説かれる今の日本で、
この本が書かれたということの大きな意義。

「尊厳死」「平穏死」を語る前に、
本当に考えるべきは「いかに死ぬか」「いかに死なせるか」なのかどうか、
この本を読み、もう一度考えたい。


第12章 安藤泰至 打出喜義「グリーフケアの可能性
―医療は遺族のグリーフワークをサポートできるのか」

第13章 高橋都 「医師が治らない患者と向き合うとき
―『見捨てないこと』の一考察」


この本を読んだ最初の時から、
上記の2つの最終章は一つのものだと感じていた。

各章での考察を経巡る過程でも常にその底流としてあった
第1章の「新しい医療の文化」の提言を受ける形で、
これら最終2章が、思い切った表現や指摘にまで踏み込んで「悪しき医療の文化」を鋭く突きながら、
「新しい医療の文化」の創出のために必要なものをあぶり出していく。

そして、そこにある主張は、
ここでもまた、私を含めた多くの重症児の親たちが
心ない医療職の言動に傷つけられてきた体験を経て、
こうあってほしいと医療に求め続けてきたものに、
そのままぴたりと重なっていくことに、私は衝撃を受け、
また、そこに大きな希望を見る思いにもなった。

実は、この本を読んだ時、
私は大きな緊張感(恐怖と呼びたいほどの)と闘いながら
2月3日の保護者会研修会の準備をしているさなかだったので、

僭越とは思いつつも、この2つの章で書かれていることは、
まさに3日の研修会で私自身が訴えようとしていることと同じと思えてならず、

そのため最終2章のエントリーだけは研修会が終わってから書きたいと、
ちょっとの間、延期していたもの。(もし良かったら、長文で恐縮ですが、
このエントリーと一緒に上記リンクの研修会の内容を読んでいただけると幸いです)


本書の第12章は
特に複雑で困難なグリーフワークを背負ってしまう医療事故死遺族と
彼らに対する医療サイドの対応を例にとりながら、
「私たちの社会における医療のあり方(ゴチックは原文では傍点)、
医療をめぐる既成のシステムあるいは文化のようなもの」(p.201)によって
医療そのものがグリーフワークを「阻害」する要因となっていることを指摘する。

例えば、医療の密室性や高度な専門性のために、
何が起きたのかの真実が検証されにくいことに加えて、

医療者や病院側の自己防衛的な態度が
「それ自体、遺族の悲しみを否定しているかのように」映る。

さらには「医療事故・医療紛争予防マニュアル」など
遺族が「これは、事故隠しマニュアルではないか」とつぶやいたような
「悪しき医療の文化」も現に存在する。

著者らは、
医療事故死遺族としての体験をもとに新葛飾病院で
セーフティ・マネージャーとして活躍する豊田郁子さんの三原則
「うそをつかない」「情報を開示する」「ミスがあれば謝罪する」と
それらを病院の「文化」として根づかせ、患者と医療者のパートナーシップを作っていく試みを紹介する。

その上で、新しい医療の文化を、
医療者や病院と患者や家族(遺族)が「共に創っていく」ことが重要であるが、
後者は医療において常に「弱者」であることを踏まえ、
前者により多くの努力と責任が課せられる、と主張する。

この主張は、私には
アリシア・ウ―レットがBioethics and Disabilityの中で説いていた、
「生命倫理学と障害学・障害者運動は対話を通じて和解することが必要。
その上で初めて、意思決定のプロセスを共有することによって、
障害者を排除することのない生命倫理の判断が可能となる。
ただし、医療が障害者を差別し加害してきたのは歴史的事実である以上、
また生命倫理学が既に医療の内部に取り込まれてしまっている以上、
生命倫理学者の方により多くの相互理解への努力が求められるのは当然だ」
との主張と重なって聞こえてくる。

第12章の著者らは以下のように問う。

 死別だけでなく、医療の対象となる多くの病気や障害もまた、深い喪失体験や悲嘆をもたらすことは言うまでもない。…(中略)…そこで問われるのは、そうした悲しみの中にある患者や家族を一人の人間として尊重し、その悲しみに寄りそえる医療が、どのようにしたら実現されるのかということである。
(p.207)


この問いを医療現場から受ける形で書かれているのが、第13章。

著者は患者が「見捨てられた」と感じるのは、
大きく言えば以下の3つの形ではないかという。

・患者や家族が十分納得しないうちに治療や延命に向けた治療が中止されてしまうとき
・穏やかな旅立ちの準備や苦痛緩和を中心とする医療への確実な移行が行われないとき
・医師との個人的関係性が失われるとき

一方で、こういう時に医療サイドは「見捨てた」という実感を持っていない。
その要因として、著者が挙げているのは、まず医学教育の問題。

・治癒困難な病気の患者や家族への接し方を教えていない
・“問題点を同定し、介入することでその問題を解決・軽減する専門職”として育てられる

私が唸ったのは、この後に出てくる「介入行為が医師の中に呼び起こす愉悦」の指摘。

これはずっと前に
コメント欄でのmyuさんという方とのやり取りで
経済問題としての保健医療の問題が現場医師に見えなくなってしまう要因として
「ある種の心地よさ」という表現で語り合ったことのあるものに通じていく気もする。

また、地域包括支援システムでの医療と介護の連携を難しくしている要因の1つも
そこにあるんじゃないかという気がしている。

著者は様々な文献からの提言を引用しつつ、
最後に以下のように書いている。

……医学的介入の力が及ばない状況でも、患者や家族との関わりを保ち、その望みや優先順位を聞き、相手に心からの関心を示し、医学的状況との間にできる限りの折り合い点を見出して少しでも苦しみを和らげるように寄り添うことができれば、患者や家族が“見捨てられ感”を抱く場面を今よりも減じることができるのではないか。そのような関わりを保つことは、治らない患者と向き合う医師自身にとっても、きっと心の拠り所となり、寄り沿い続ける動機を与えてくれるのではないかと考える。
(p.223-224)


ここを読んだ時、私が思ったのは
「これは、重心医療そのものだ……」ということだった。

この丸善のシリーズ第4巻を読まれる方に、
spitzibaraから、たってのお願いがあります。

この本を読まれた後に、
長年、重症心身障害児者の医療に関わってこられた高谷清氏の
「はだかのいのち」(大月書店)と「重い障害を生きるということ」(岩波新書)を
どうぞ、ぜひとも読んでくださいますように――。


【関連エントリー】
高谷清著「重い障害を生きるということ」メモ 1(2011/11/22)
高谷清著「重い障害を生きるということ」メモ 2(2011/11/22)
高谷清著「重い障害を生きるということ」メモ 3(2011/11/22)
古代の人たちが重症障害者を手厚くケアしたエビデンス(2012/12/25)
2013.02.12 / Top↑
2012年に尊厳死法DWDAを利用して死んだ人は77人で、
09年の59人から 30%の増加。

67.5%65歳以上。
中間値は69歳。

出された処方箋は115通で、
09年の95通から、21%の増加。

処方された毒物を患者が飲んで死ぬ場に医療職が同席していたのは
77人のうち11人のみ。

アセスメントのために精神科医に紹介された患者は
77人のうち2人のみ。

前年と同じく、97,4%が白人で、
高学歴(42.9%が大学卒相当)で、

51.4%が医療保険に加入していた。

安楽死防止連合(EPC)は
これらから伺われる尊厳死者のプロフィールは
経済的な虐待に最も遭いやすい高齢者像であるとし、

処方された毒物を飲む場面に立ち会う人が求められていないことから、
本人意思でなく、相続人などに無理矢理飲まされていたとしても分からない、と
問題を指摘している。

また、自殺幇助を希望する人の4人に1人がうつ病であるとのデータがありながら
ほとんど精神科医に紹介されていない事実を指摘。

【関連】
オレゴンの自殺幇助4人に1人はうつ病や不安症の可能性(2008/10/11)


Oregon 2012 Assisted Suicide Statistics
Alex Schadenberg’s blog, January 24, 2013

Oregon Assisted Suicide Deaths Hit Record High in 2012
LifeNews, January 31, 2013


他にも、
少数の限られた医師が多くの処方箋を書いていることなどが指摘されており、

それらについては、
以下のリンクのエントリーなどに。


【関連エントリー】
Oregon尊厳死法による自殺者増加(2008/3/21)
WA州とOR州における尊厳死法の実態(2009/7/6)
WA州とOR州の2009年尊厳死法データ(2010/3/5)
OR州の「尊厳死」:97%にC&Cが関与、たった20人の医師がせっせと処方(2010/3/11)
OR州の2010年のPAS報告書 自殺者また増加(2011/1/28)
OR州2011年に尊厳死法を利用して死んだ人は71人の最高記録(2012/3/14)
2013.02.12 / Top↑
またまた「無益な治療ブログ」のPopeと Not Dead Yet のStephen Drakeの間で面白い論争が持ち上がっている。発端は、MN州で4つの終末期訴訟が起きているというPopeの1月30日のエントリー。これは私も当日ざっと見て、あー、FENとかC&Cが合法化ロビー活動の一環として起こした訴訟じゃないかぁ、と思ったもの。
http://medicalfutility.blogspot.jp/2013/01/minnesota-s-four-pending-end-of-life.html

すると、それに対して、Drakeが「終末期」の定義が一貫していない、と突っ込みを入れたもの。それにPopeが応えているんだけど、こちらはまだちゃんと読めていません。ただ、2人の間には、つい数ヶ月前にNY法科大学の終末期医療シンポめぐる論争 1(2012/11/27)があったので、興味深いところ。
http://medicalfutility.blogspot.jp/2013/02/definition-of-end-of-life.html

【関連エントリー】
Not Dead Yet、S. Drake氏のFEN批判(2009/3/23)
PeaceのエッセイにNot Dead Yetが反応し「生命倫理学は障害者の命の切り捨てに口を閉ざしている」(2012/7/18)


OR州の12年のPAS件数、77件で過去最高。
http://www.lifenews.com/2013/01/30/oregon-assisted-suicide-deaths-hit-record-high-in-2012/

VT州のPAS合法化法案、上院の委員会を5―0で通過。反対運動からは「聞く耳などない」との声も。
http://www.burlingtonfreepress.com/article/20130201/NEWS03/302010027/Doctor-assisted-suicide-measure-backed-by-Vermont-Senate-committee?odyssey=mod|newswell|text|FRONTPAGE|p&gcheck=1

テキサスのいわゆる「無益な治療」法に、改正案。病院内倫理委開催の通知から開催までの期間を48時間から1週間に、治療停止の通告から実施までの猶予期間を10日から14日に延長する内容。
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/63326748.html
http://medicalfutility.blogspot.jp/2013/02/texas-advance-directives-act-bill-aims.html

【関連エントリー】
テキサス州議会に「無益な治療法」の廃止を求める法案(2009/5/12)
TX州の「無益な治療」法改正法案、死す(2011/5/25)


David DeGraziaによるエッセイ(JME)が、道徳的な自由を犠牲にしてでも道徳的な世界を作るため、道徳バイオエンハンスメント(MB)をよしとして、物議をかもしている。道徳的に望ましいとされる性質を、薬物や遺伝学や脳科学によって形成していこうとするもの。:長い。たぶん読めないで終わりそう……。
http://www.bioedge.org/index.php/bioethics/bioethics_article/10378

【関連:シンガーらの「道徳ピル」などMBについて】
SavulescuとSingerが「犯罪者は脳が決める。科学とテクノで犯罪予防を」 1(2012/2/4):ここから3つ


英国で病気の妻の絶え間ない苦情から逃れるため、処方された6倍ものモルヒネを飲ませて妻を眠らせていた夫介護者に13カ月の実刑。:この人がモルヒネで妻を殺して「妻が死にたいと望んだので手伝いました」と主張したら、「自殺幇助」で無罪放免された可能性もあるのでは……と、つい考えてしまう。
http://www.thetimes.co.uk/tto/news/uk/crime/article3674058.ece

【関連エントリー】
警察が「捜査しない」と判断する、英国「自殺幇助起訴ガイドライン」の“すべり坂”(2011/7/15)
検死官が近親者による自殺幇助は見て見ぬフリ(英)(2011/8/25)
要介護状態の夫が、大動脈瘤で倒れた妻を病院で射殺。「慈悲殺か殺人か」論争に(2012/8/24)
「近親者の自殺幇助には温情」文化が広がっている(米)(2013/1/22)


日本。介護保障を考える弁護士と障害者の会 全国ネット
http://kaigohoshou.utun.net/

日本。介護者をケアする手帳を作成。「「あなた自身にもケアが必要だ」と呼びかけ、気持ちが落ち込んだ時は、自分を責めないことや元気になれそうな人と話をすることなどを提案しています。ま た、健康状態やストレスをチェックするリストや愚痴を書き込む欄があり、地域包括支援センターや民生委員など相談先も紹介しています」
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130202/k10015241421000.html

ビル・ゲイツがCNNでNYTのコラムニストのニコラス・クリストフと対談。両者は一緒にアフリカへ行って来たとかで、一緒に旅してどうでした?と訊かれてクリストフは「そりゃ、もう、もってる移動手段が格段だからね。どこへだって行ってくれるバスはあるわ、飛行機だってどこへだって飛んでくれるわ。戦場を仕切っている親分に頼み込んで車に乗せてもらうよりいいですよ」「なんせ彼は神よりも金持ちなわけで……」:神よりも金持ち……。言い得て絶妙。
http://www.weeklystandard.com/blogs/nytimes-columnist-bill-gates-richer-god_698825.html

ビル・ゲイツとドイツ政府とが途上国の飢餓との闘いで提携。:飢餓撲滅のための農業改革という名のGM農業改革。病気撲滅、飢餓撲滅では英国政府も既にゲイツ財団のパートナー。
http://www.dw.de/germany-bill-gates-join-forces-to-fight-hunger/a-16559432

国庫残高1万9700円、ジンバブエ財務省が公表:なぜか、こういう方面には慈善資本主義は興味を持たない。慈善ではなく慈善資本主義だから?
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130131-00000032-jij_afp-bus_all

中国の大気汚染はSARSよりも恐ろしい、深刻な健康被害はこれから出現―SP華字紙
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130202-00000007-rcdc-cn

米、集団的自衛権に難色(琉球新報) ブログ「精神障がい者の解放をめざして…心病める人へのメッセージと討論の場」(2013/2/2)
http://blogs.yahoo.co.jp/taronanase/61750413.html?vitality

乙武洋匡さんが一般人と論争「手足ないゴミなんか相手にすんなよ」:ちょっと乙武君への見る目が変わった。
http://rocketnews24.com/2011/05/23/%E4%B9%99%E6%AD%A6%E6%B4%8B%E5%8C%A1%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%8C%E4%B8%80%E8%88%AC%E4%BA%BA%E3%81%A8%E8%AB%96%E4%BA%89%E3%80%8C%E6%89%8B%E8%B6%B3%E3%81%AA%E3%81%84%E3%82%B4%E3%83%9F%E3%81%AA%E3%82%93/

内芝正人被告:教え子乱暴直後に別の部員とも性的関係:肝心の「実刑判決」の記事をブクマし忘れたみたいなのだけど、その記事にリンクされていた関連を読んで唖然とした。なにこの男?
http://mainichi.jp/sponichi/news/20121103spn00m050003000c.html

内芝正人被告インポ虚偽工作 後輩に口裏合わせ求める 「事件前に行ったカラオケ店で「勝手に陰部が出ていた」としていたが、公判では「自ら陰部を出した」とし、主張に大きな食い違いがあることを強調した。 この指摘に、内柴被告は「上申書が正確じゃない」とした上で「そんなに“あばれんぼう”じゃない」と薄笑い」
http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2012/11/30/kiji/K20121130004670090.html

内芝正人被告:隠し子疑惑も?女性へ解決金定期的に払う「僕はいろんな人に(解決金を)やっている」
http://mainichi.jp/sponichi/news/20121130spn00m050007000c.html

AKB48恋愛禁止の掟って、それこそ人権侵害ではないか。「女子柔道の暴力、レイプの問題と、AKB48の問題、通底しているのは日本の男社会が若い女の子を本当に蔑視し、人権を軽視し、性を商品化し、虐げていること。いずれの報道をみても、暴力、パワハラ、性の搾取のオンパレードではないか」
http://bylines.news.yahoo.co.jp/itokazuko/20130202-00023308/

読売・編集手帳『丸刈りして謝罪するのは日本の美徳』
http://p.twipple.jp/f10wa

ミッツ“妹”峰岸の丸刈りに物申す「これ(恋愛)は社会的制裁を受けるものではないのに、社会的制裁の雰囲気を取り入れた方法」
http://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2013/02/03/0005715714.shtml

仲里依紗 AKBの恋愛禁止ルールに反論「人として生きるな!と言われ
2013.02.12 / Top↑
スウェーデンには1972年から
性転換したい人は、新しい性で法的に登録するまえに不妊手術を受けなければならない
という法律があるということに、まず驚く。

強制不妊は決して歴史でも過去でもないのだなぁ、と
改めて痛感させられる記事。


スウェーデンでは、激しい防の末、去年強制不妊を禁止する法律ができて、
今年7月1日から施行されることになっている。

それに先立ち、このたび上訴裁判所が
1972年法を憲法にも欧州人権条約にも違反していると判断。

同法の下で不妊手術を施されたトランスセクシャルは約500人で、
補償を求めている。

一方、1936年から1976年の間に
「社会的適性を欠いている」として不妊手術が行われた女性は63000人に及ぶ。

90%が同意書にサインしているが、
サインしていない人も6000人から15000人と言われ、
サインした人の中にも、精神障害者、知的障害者、貧しい人、
てんかん患者、アルコール中毒者、“混合人種”女性が含まれていることを考えると、
「同意」の質も疑わしい。

中には、刑務所からの釈放や、子どもの親権を取り戻すための
条件として不妊手術に同意した女性もある。

Swedish transsexuals with right to be sterilized
BioEdge, February 1, 2013


強制不妊は日本にもあります ↓
佐々木千鶴子さんの強制不妊手術(2010/5/18)

米国の関連では、

【イリノイのK.E.J.事件:知的障害者への強制不妊を却下】
イリノイの上訴裁判所 知的障害助成の不妊術認めず(2008/4/19)
IL不妊手術却下の上訴裁判所意見書(2008/5/1)
ILの裁判からAshley事件を振り返る(2008/5/1)
ILの裁判から後見制度とお金の素朴な疑問(2008/5/1)
IL州、障害者への不妊手術で裁判所の命令を必須に(2009/5/29)

【ミネソタ州の強制不妊被害者への謝罪】
MN州、100年に及ぶ差別的施策を障害者に公式謝罪(2010/6/15)
MN州の公式謝罪から「尊厳は無益な概念」を、また考えてみる(2010/6/17)

【ノースカロライナ州の謝罪と補償問題】
NC州で、かつての強制不妊事業の犠牲者への補償に向け知事命令(2011/3/21)
NC州の強制不妊事業の犠牲者への補償調査委員会から中間報告書(2011/8/15)
NC州知事が約束した強制不妊犠牲者への保障、上院が棚上げ(2012/6/21)

【昨年の障害者人権擁護ネット報告書から】
障害者人権擁護ネットから報告書「“A療法”・強制不妊・生命維持停止は人権侵害」(2012/6/20)
NDRN報告書:カルメンの強制不妊ケース(2012/7/14)

【オーストラリアのAngela事件関連エントリー】
豪で11歳重症児の子宮摘出、裁判所が認める(2010/3/10)
Angela事件(豪):事実関係の整理(2010/3/10)
Angela事件の判決文を読む 1(2010/3/11)
Angela事件の判決文を読む 2(2010/3/11)
重症児の子宮摘出承認でダウン症協会前会長・上院議員が検察に行動を求める(豪)(2010/3/13)

【その他、関連エントリー】
知的障害・貧困を理由にした強制的不妊手術は過去の話ではない(2010/3/23)
(タイ、日本、ペルー、これから進められそうな途上国のことなど)

世界医師会が「強制不妊は医療の誤用、医療倫理違反、人権侵害(2011/9/12)

ナミビアでHIV感染女性への強制不妊手術に抗議デモ(2010/6/2)
コンドーム生産国日本の家族計画国際協力がペルーの強制不妊に繋がった?(2010/8/17)
英国で知的障害女性に強制不妊手術か、保護裁判所が今日にも判決(2011/2/15)
ウズベキスタンで強制不妊:人口抑制と周産期死亡率を落とす手段として(2012/4/23)

私が今一番気になっているのは、
世界人口の抑制が急務と認識されていく中、
国際世界から内情が見えにくい途上国で「母子保健」などの名目で
新たなテクノロジーを利用した優生施策的な強制不妊が行われるのでは、ということ。
2013.02.12 / Top↑
英国医事委員会(GMC)が
自殺幇助に関するガイドラインを明確化。

兼ねてよりGPらから
患者に自殺幇助を求められた場合にどのように対応すればよいのか
指針の明確化を求められていたことに応えたもの。

「たとえそれが死につながるとしても治療を拒絶する権利を含めて、
患者が医療について決定する権利」は、尊重しなければならないが、

患者に自分の医療を自分で管理する権利があるからといって、
違法な自殺への助言やガイダンスを医師が行うことを、それが正当化するわけではない。

判断に困った時は
医療弁護士などに個々のケースごとに相談するよう提言すると同時に、

患者に全体として利益にならない、または患者を害する治療を行う義務は
医師にはないことを明確にしている。

GMC revamps guidance on assisted suicied
GP, February 1, 2013
2013.02.12 / Top↑
(前のエントリーからの続きです)

別のものが「本人のため」と言い換えられることの何が一番恐ろしいかというと、「本人のため」と言われてしまった時点で、それが「良いこと」になってしまうということです。何事であれメリットだけではなくデメリットだってあるわけですけど、良いことだとされるとデメリットに目が向きにくくなってしまいます。もしかしたら起こってくるかもしれないデメリットについて丁寧に考えて、その一つ一つに対策を立てておこうとする姿勢が持ちにくくなくなってしまうんですね。

それからもう一つ、一つのことが「本人のため」と正当化されてしまうと、最初はそこにあったはずの罪悪感とか抵抗感が薄れていって、他のことにまでどんどん拡大してしまう、ということもあります。こういうのは「すべり坂」と呼ばれていて、一歩足を踏み出してしまったが最後、あっという間にすべり坂を下まで転がり落ちてしまう。そんな危うい問題が今いろいろと出てきていて、議論も沢山行われています。

世界で障害者の周辺で起こっていることについては、私もあちこちに詳しく書いていますから、よかったら読んでみてください。お手元の資料に、いくつか参考を挙げてみました。特に職員の方に、ぜひ読んでいただきたいのは『アシュリー事件』の中の、生命倫理の言葉で言えば「本人の利益」をめぐる議論です。医療において何が「本人のため」かを見極めるために、誰がどういう方法と手順と基準でどのように考えて決めるべきか、世界中の生命倫理学者がもう何十年もかけて議論を続けています。何が「本人のため」かを見極めるのは、本当はそれほど難しいことなんです。この点については特に職員の方向けの資料を別途お配りしておりますが、医療職が専門性の名のもとに勝手に決めてよいというものではないですし、逆にアシュリー事件のように、親や家族だから本人のことを一番分かっていると言って勝手に決めてしまうことも、本当に本人のためかどうか、問題によっては単純ではありません。

だからこそ、いろんな立場の人が集まって、率直な説明があり、きちんと事実が共有されたうえで、皆で簡単に答えが出ない悩ましさを引き受け、考えなければならないのだと思います。これは、私たち保護者や家族にとっても、自分が死んだ後に、これからやってくる厳しい時代の中で、子どもたちの生活や医療について誰がどういう基準で決めるのか、という、とても大きな問題にもつながっていきます。こういう問題も、これからみんなで考えていかないといけないんじゃないでしょうか。

こんな恐ろしい時代だからこそ、私たちは重い障害のためにもの言えぬ家族のために、彼らの声となり、良き代弁者でありたいと思うんですね。去年の20周年の記念式典の時に、A事務局長が、時代とともに変わらなければならないものがあるが、変えてはいけないものもある、という話をされましたけど、それが伝統というものだと私は思うんです。人は異動で変わります。人が変われば多くのことが変わるのは避けられません。時代ももちろん変わります。それでも、その中でも守っていかなければならないものはなにか、少なくとも守ろうとしなければならないもの、守ろうとしたいものはなにか、ということを園と保護者や家族が一緒に考えていければ、それがこれまでに多くの人が苦しい思いをしながら築いてきた療育園の伝統を繋ぐことでもあり、これから先に向けて、園と保護者や家族との信頼関係を作っていくプロセスそのものなんじゃないでしょうか。

保護者の中には、お世話になっているのだから園には何も言えないとか言ってはならないと考えておられる方があるかもしれません。私は、言えば分かってもらえると信頼するからこそ声をあげられる、と考えてきました。実際、そうして保護者が挙げた声で変わってきたことは、今お話ししたように沢山あります。もしも保護者が、声を上げれば変えられることがあるかもしれない、と信じていられるとしたら、それ以上の信頼はないんじゃないでしょうか。私は、信頼しているからこそ声はあげられる、と考えたいと思います。

私が今日お話ししているのは、私たちが園に来ることができなくなった後、死んだ後にも、どの人も大切にされて笑顔で暮らせる療育園の文化と伝統を、子どもたちのために作っておいてやりたい、ということです。そのためにも、知るべきことをきちんと知り、目の前に起こっている出来事の表面だけでなく物事の本質をきちんと見抜いて、しっかり考え、本当の意味での信頼関係を園との間で築いていける保護者会でありたい、と思います。

これは本来なら、一昨年の11月に入浴時の手袋着用が問題となった時に、きちんと保護者の皆さんにご説明すべきことでした。それができなかったことを、私はずっと悔いにしてきました。あの時も問題は、手袋を着用するかどうかというような表面的なことではありませんでした。一昨年の秋に私たち夫婦が園長宛に書いた手紙を、いまさらですが資料としてお配りしておりますので、また後で読んでいただければと思います。園長を始め、師長、課長には、あの時に保護者が訴えたことをその後きちんと受け止めていただき、感謝しております。この手紙でお願いした中の、園長をはじめドクターにもっと園にきていただきたい、いていただきたい、インフォームド・コンセントの意識をしっかりもっていただきたいという点については、ここで重ねてお願いしておきたいと思います。

今日のこの場は、こうした経緯を踏まえ、役員の方々と相談させていただいて、園と保護者との信頼関係の新たなスタートとなればと、設けさせていただきました。

今日はどうもありがとうございました。


保護者の一人でありながら、
このような場でこうしたお話をさせていただいたのは、
もちろん敢えてやらなければならない事情があると判断したためですが、

保護者にも職員の方々にも、果たして受け止めてもらえるのかどうか、
ずいぶん前から準備しつつ、正直これもまた、とても恐ろしい体験ではありました。

でも、なんとか多くの保護者に受け止めてもらえたように思います。


この後、午後からは「節分の会」。

みんなそれぞれの「退治したいオニ」が紹介された後で、
(ミュウのは「ときどき甘えたくなるオニ」でした)

例年のごとくに
スタッフが扮するオニが登場し、
みんなで豆に見立てた新聞紙のボールで退治するのですが、

今年は、むちゃくちゃ迫力満点の恐ろしげなオニが混じっていると思いきや、
利用者のお兄さんが全身黒づくめの上に、地元で借りてきてくださった神楽のお面や衣装をつけ、
わざわざ山に取りに行かれたという太い竹を手に、オニを演じてくださっているのでした。

優しげな手作りのお面のスタッフ・オニは完全に存在がかすんでしまいましたが、
家族がスタッフと一緒にオニに扮して行事を盛り上げてくださる場面は、なんとも良いものでした。

見るからに恐ろしい所作で、それぞれの前に顔を近づけて脅したり、
「豆」を投げつけられては、ぶっ倒れたりしながら、ミュウの側を歩いていかれる時に
ぼそっと「前が見えん……」とつぶやかれたのが、おかしかった。

おかげさまで、今日は本当にいい一日になりました。
みなさん、ありがとうございました。
2013.02.12 / Top↑
(前のエントリーからの続きです)

その同じ教訓を、当時の療育園もリハセンターも同じように学んでくださいました。これは本当にすごいことです。14年前に思い切って声を挙げた時、私は現場の一部のスタッフから「理不尽なモンクをつけるクレーマー」にされました。でも、そのクレーマーの言うことに真面目に耳を傾けてくれる人がちゃんといて、これはただのモンクではなく本質的な問題提起だと理解し、組織として対応してくださった。組織というものが、いかに自己防衛的になりがちかを考えると、療育園もリハセンターも本当にすごい組織だと思います。

その時に、多くの改革が実行されたことは、去年、前園長がお話しくださったとおりです。前園長が「保護者とともに」という文言を含む療育園の理念を作ってくださったのは、この時のことです。今、子どもたちの帰省のときに私たちが持ち帰る連絡ノートがありますが、あのノートができたのもその時ですし、保護者会役員会が定例化され、そこで幹部職員と役員とが毎回一緒に話し合うようになりました。年に一度の個人懇談ができ、カンファレンスに保護者が出席したり、意見を反映してもらえるようになったのもこの時からです。職員研修会で年に1度、療育園の保護者が持ち回りで体験や思いを語るようになったのも、その時からのことです。

S先生はご自身のことは言われませんでしたが、前園長ご自身、あの事件の後、保護者の多くが本当に心から頭が下がる思いになったほどの努力をしてくださいました。そんなふうに多くの人が傷つきながら、本当に血のにじむような思いで作ってきたものが、今の療育園には沢山あります。前園長が「あの時があるから今の療育園がある」と言われたのは、そういう意味です。

保護者会もその時を境に大きく変わりました。保護者会そのものは、ウチの娘が入園した20年近く前にもあったんですけど、当時の保護者会というのは年に1度の総会で講堂に集まって地区のグループごとに役員を選ぶんですね。それから、面会に来る時にはスリッパを持ってくるように、とか、面会の時にはおやつを食べさせ過ぎないように、とか、いってみれば、園の側から保護者に対して伝達事項が伝えられる場でしかなかったんですね。

私は保護者が意見を言える場はないんだなぁ、と思ったものですから、年に1度でいいから園と保護者とが対等に話し合いができる場を作ってほしい、と折を見ては要望するようになりました。何年かそういうことを言い続けた頃に他の保護者も一緒に言ってくださるようになって、言い始めから7年めくらいに茶話会ができました。今、年に1度、療育園で当たり前に行われるようになっている茶話会は、そんなふうにしてできたものです。だから、あの茶話会を園からの一方通行の説明や情報伝達の場ではなく、双方向のコミュニケーションの場として大切に守っていきたいと私は思っています。

14年前の大きな出来事があった時、そんなふうに保護者会も少しずつ成長し始めているところでした。当時はHさんが会長で、この出来事を無駄にしてはならないと言ってくださって、役員会がとても活発になりました。いま研修施設などを利用して家族が宿泊する制度がありますが、これはH会長の時代に役員会が尽力されてできたものです。次にKさんが会長をされた時代には、指定管理者制度と障害者自立支援法という大きな危機がありました。保護者会で勉強会や講演会を開き、役員数名で県庁に訴えに出かけたり、K会長は何度も仕事を休んで他の施設の保護者会との協議会に出てくださいました。その後、現在のI会長になってからは、ずっと懸案が山積みのままだった行事のあり方について、一つずつ問題を整理してこられました。

今の療育園では、子どもたちもスタッフも笑顔が沢山あって、少しでも豊かな生活を送らせてやろうとのスタッフ皆さんの思いが本当にひしひしと感じられて、私もいつもありがたいと思っています。それは毎回の行事や廊下に掲示された写真からも分かりますが、ついこの前も、娘を送って帰ってきた時に、奥のBのお部屋(療育園の中でも特に重症の人たちが暮らしている部屋)の子どもさんが、職員の方とゲームのWiiで野球をしておられるところでした。ああ、こういうことをしてくださっているんだ、と嬉しかったです。それから同じくBのお部屋の子どもさんを育成課のスタッフが散歩に連れて出られる場面に通りかかったこともあります。「呼吸が苦しくなったらすぐに帰ってきてね」と看護課の方が見送っておられました。医療の支えがしっかりあるからこそ生活を広げることができるんだなぁ、ということを改めて思い出させてもらう場面でした。いつも本当によくしてくださると思います。

だから、私はここで、保護者はもっと何でも園にがんがんモンクを言いましょう、と焚きつけているわけでは全然ないです。今どんなに良い状況にあっても、人が変われば組織というものはここまで変わってしまうのか、という恐ろしさを、14年前に保護者は身に沁みて体験しました。だからこそ、日頃から信頼関係を作っておくことが必要だと思うんです。人が変わるだけでなく、時代も変わります。時代が変わることによって、同じ人でも変わらざるを得ないこともある。今、そのくらい厳しい時代がこようとしています。

このところの制度改正については園からも何度か説明がありましたが、私も何度読んでも聞いても、細かいところがどうなっているのか分かりきらないです。それくらいここ数年の障害者福祉制度はコロコロと変わっていますし、まだ変わっている最中でもあったりします。細しいことはともかく、ごくざっくりしたお話をすると、これまでずっと日本の障害者福祉の中では私たちの家族のような重症心身障害児者には、特別枠みたいなものが設けられていたわけですね。それが今度は成人した後についてはその特別枠が取っ払われて、他の障害者と一括で同じ扱いになった、ということだと思います。

守る会などが必死の運動をしてくださって、目に見えるところでは当面は今までと同じ生活が守られてはいますが、見えないところではいろんなことが変わっています。それが先日の集まりで話に出た、スタッフの方々の腰痛問題のようなところにしわ寄せとして顕われている、ということでしょう。特別枠が取っ払われたということは今後に向けた布石が打たれたということですから、今後はこれまでのような優遇がなくなっていくだろうことは十分に予想されます。またコイズミ改革からこちら、障害者や高齢者の周辺で、医療も福祉も切り捨てが広がっていることは、それぞれに感じておられることだろうと思います。つい先日も、医療経済学者の中から「今の経済状況で寝たきりの人にこれ以上お金を使うのはいかがなものか」という声が出ていました。いま私たちが直面しているのは、そういう恐ろしい時代です。

じゃぁ、日本の政治が悪いのか、ということになると、これがそう単純な話ではないんですね。この前アルジェリアの人質事件がありましたが、あれなんかもそうですけど、これだけ世界経済が地球規模に拡大したグローバル世界では、日本で起きていることだけが世界で起きていることと無縁・無関係ではあり得ない時代になってしまっています。そこで世界では障害者の周りで何が起こっているか、ということが気になってくるわけで、私はここ数年、そういうことを調べては書くというのが仕事になっているので、ついでにちょっとだけお話しさせてもらうと、まず私たちにとって気になるのは、「パーソン論」という考え方が広がり始めていることだろうと思います。

「パーソン」というのは日本語にすると「人格」なんですけど、ただ動物としてのヒトであるだけではなく誰かが「人格」のある人間として認められるためには、その人には理性とか自己意識とか一定の知的な能力がなければならない、という考え方です。この考え方からいけば、私たちの家族のような重い知的障害のある人は、ぶっちゃけた話、人間として認める必要がないことになってしまうわけです。

一例として、アメリカで2004年にあった事例をご紹介すると、6歳の重症心身障害のあるアシュリーという女の子に手術をして、病気でもないのに子宮と乳房を取ってしまって、さらにホルモンをじゃんじゃん投与して身長が伸びるのを止める、ということがされました。これに「アシュリー療法」という名前をつけて世界中の重症児に広げていこうとしている人たちがいて、実際に少しずつ広がってもいるのですが、彼らが言っているのは、アシュリーのような重症障害児というのはどうせ何も分からないんだから、他の人みたいに尊厳なんて考える必要はないんだ、ということです。つまり、パーソン論なんですね。それよりも介護しやすい身体にしてあげるほうが、本人のためだ、というわけです。

欧米の医療では、重症障害のある人は病気になっても治療せずに死なせたり、病気ですらなくても手をかけて殺してあげるのが本人のためだという話が出てきています。そういうことが起こっている国というのは、本当は国が医療費や福祉の費用を削りたいんじゃないのかと私は個人的には思うんですけど、そうは言わないんですね。そうではなくて、こんなに重い障害を抱えて生きるのは不幸でかわいそうだから「死なせてあげるのが本人のため」だというんですね。慈悲殺、という考え方です。ここでもまた「本人のため」という言い方がされます。何か別のものが「本人のため」と言い換えられることは、こんなふうに実はとても恐ろしいことなんです。

(次のエントリーに続く)
2013.02.12 / Top↑
ミュウがお世話になっている療育園の
保護者会研修会でお話しさせていただきました。

聞いてくださったのは保護者と職員の方々です。


おはようございます。今日はお集まりいただいて、ありがとうございます。親だけでなく、いろんな立場の方がおられますので、案内の葉書では敢えて「家族」という言葉を使っていただきましたが、これからお話している内には、言い慣れていることもあって、つい保護者・保護者会・子どもたちという言い方を(既に成人している人が多いんですけど)してしまうと思います。私の意図としては保護者の中に、おじいちゃん、おばあちゃんやご兄弟を含め、広く家族を含めて使っていますので、その点、ご理解ください。

いま保護者会の役員さんから、簡単に経緯をご説明いただきましたが、もう10年以上前から、私にはずっと保護者・家族の皆さんにご報告すべきことというのがありました。ずっと、お話ししなければと感じていながら、なかなか果たせずにきたものです。

去年9月に療育園の20周年記念行事が行われた際に、前園長であるS副所長が「20年の歩み」と題したお話の中で、保護者との間で起きた出来事を語られました。当日おられなかった方もあるかと思いますが、だいたいのお話は、医療を一生懸命にやるのが医師としての本文だと思って現場のことは現場に任せていたところ、保護者の不満が大きくなって対立が起こり、それを機に園長として奮起して多くの改善をした、対立が起きた時には針のむしろに座っているような辛い思いをしたけれど、あの時のことがあったから今の療育園がある、というお話でした。その最後を、S先生は「保護者とともに」という姿勢を忘れないように、と言われ、これからの療育園を担っていく次世代のスタッフへのメッセージとしてくださったわけです。

S先生が「針のむしろだった」と言われたように、私にとってもあの時の出来事は、リハセンターという県立の大きな組織を向こうに回して一人で闘わなければならないという、考えるだけでも身が竦むような恐ろしい体験でした。何ヶ月もの間、私たち親子は、本当につらい思いをしました。もちろん私たちだけではなく、多くの人が苦しみ、深く傷ついた大きな出来事でした。

本当に遅ればせになってしまいましたが、今日まず最初にお話しさせていただくのは、保護者の側から見た、その時の出来事です。ここでお話ししきれないことも沢山ありますので、それについては『海のいる風景』という本にあらまし書いていますので、10年前の旧版とその後のことを追加して去年出した新版とがあるんですが、読んでいただければと思います。

今の療育園からはまったく想像もできないことですが、療育園にはずっと昔、入園している子どもたちから笑顔が消えてしまった不幸な時代がありました。最初は、最近、園の中が静かになったなぁ、という漠然とした印象でした。いつのまにか子どもたちへの食事介助が無言で行われるようになっていました。着替えも無言です。子どもたちへの声掛けがなくなり、スタッフの方同士が冗談を言い合うようなこと場面も見なくなって、黙々と機械的に「業務をこなしておられる」というふうに見えました。

それから管理が強化されて、子どもたちの生活が制約されるということが増えました。例えば、学校から外出する予定の日の朝になって、定期の採血があるからこの人はダメです、といってストップがかかる、というようなことです。以前なら、学校からの外出はこの子たちにとって滅多にない機会だから、定期なら採血なら予定の方を融通してもらえていたのですが、なにかにつけ問答無用で「ダメです」「できません」とつっぱねられる。そういうことが増えてきた。園の姿勢がなにか、どんどん管理的、事務的、高圧的になり、それと同時に子どもたちに無関心になっていく感じがしました。

ウチの娘は自己主張が強くて、家に帰ってくると言葉はなくても音声と指差しと顔と全身を使って「ああしろ、こうしろ」と要求しまくり仕切りまくる子なんですけど、その頃、家に連れて帰ってもテレビの前でじっと指をくわえて、ぼ~っと寝ころんでいるようになりました。何も要求せず、何も言わず、ただ無表情にじっとしているんです。もう誰にも何も期待しなくなったみたいな、何もかも諦めてしまったみたいな、あの時の娘の姿を思い出すと私は今でも胸が締め付けられる思いになります。療育園に入所している人たちは重い障害があって思いや気持ちを表現することはできにくいけど、それだけに多くのことを鋭く見抜き、感じていますよね。異変が起きたのはうちの娘だけではなくて、落ち着きをなくした人、胃が痛くなった人、髪の毛が部分的に抜けてしまった人もありました。

この不幸な時代に療育園で起こったことは他にもいろいろありましたが、問題なのはそうした一つひとつの具体レベルで何があったかということではなく、それらの背景にあった姿勢であり意識だったと思います。重い障害のある人のケアでは、医療と生活の間に常にせめぎあいがあります。私自身、ミュウは幼児期に3日と続けて元気だということのない子でしたから、この子を病気にしない配慮と、少しでも豊かな経験をさせてやりたいという思いとの間で、いつも葛藤していました。そこには「これが絶対に正解」というものはないし、その両者のどこで折り合いをつけるかというのは、いつもとても悩ましい。親はいつでも結果論で自分を責めなければならなかったりもしますが、でも、その悩ましさを私が引き受けなければ、この子の生活はどんどん失われていく、と私はずっと考えていました。

14年前に療育園で起こったことの内、最も重大だったことというのは、そういう葛藤を放棄されたことだったと思います。ただリスクを排除していくことを考えられて、その結果、医療と生活のバランスが大きく医療の側に傾き、当時の療育園は病院になってしまいました。もちろん、ここで暮らす子どもたちにとって医療はとても大事です。私は決して医療を軽視するつもりはありません。でも、ここは医療さえ行われればよい病院ではなくて、子どもたちが日々を暮らす生活の場なんです。無表情になったり髪が抜けるほど子どもたちを傷つけていたのは、子どもたちを医療の対象としか見ない意識でした。身体しか見ず、生活にも心にも心の痛みにも無関心な眼差しに、子どもたちは傷ついていました。

子どもたちへの無関心は保護者への無関心と地続きになっていきます。当時起こった重大なことのもう一つは、「保護者に説明する必要はない」と、保護者から隠されたことがあった、ということです。でも、隠すと、どうしてもつじつまが合わないことが出てくるんですね。それで今度は、隠したという事実を隠さなければならなくなる。つじつまが合わないことはさらに広がります。そうして、ついに保護者が声を上げた時には、もうつじつまなど合いませんから、これはどこの組織でも同じパターンなんじゃないかと思うんですけど、出てくるのは「子どもたちのためにやったことだ」という正当化と、専門職として判断したことだという専門性の強調ですね。

声を挙げた保護者に対して、当時の師長さんは「子どもたちの安全と健康のためにやったことです。間違った判断はしていません」とつっぱねられました。一方で、その同じ師長さんが園内では「業務がはかどるようになって職員は喜んでいます」と発言されていました。

専門性の名のもとに、本当は本人以外のためだったり、少なくとも本人のためだけではないことが、本人たちのためだと言い換えられる時、その姿勢は、都合が悪いことは隠すという姿勢と地続きです。そこにあるのは「保護者は余計なことを知らず黙っておいてくれればいい」という意識でしかなくて、保護者が何を心配しているのか、その心配と向き合って一緒に子どものことを考えようという気持ちがそこにはないからです。保護者は子どもたちに起きた異変が心配だと訴えたわけなんですけど、「子どもたちの安全と健康」を考えていると言われる師長さんが、その異変には全く関心を示されませんでした。

当時の師長さんは、子どもの一人がベッドから転落するという事故が起きた時に、その場でかん口令を敷かれました。この事故についてはその場にいた者以外には漏らさないように、とその場で口止めをされたわけです。これは本当に恐ろしいことです。保護者に説明する必要はない、という姿勢には、最初はどんなささいなことから始まるにせよ、いずれはここへ行きつく危うさが潜んでいると私は思います。

信頼関係とは結果ではなく、プロセスなんですね。事故が起きたから、その結果として信頼が壊れるのではなく、信頼関係を大切に築いていこうとするプロセスがなかったから、事故が起きた時に隠さなければならなくなった。それが、14年前に起きたことの本質であり、これは保護者として決して忘れてはならない、あの不幸な時代の教訓だと私は思っています。

(次のエントリーに続く)
2013.02.12 / Top↑
コロラド大学の「害を成さないようにプロジェクト」。Bernard Lownの名言「患者のためにはできる限り多くを。患者に対してはできる限り少なく」。:これは注目。驚くことに、というか不思議なことに、アシュリー事件の担当医のDiekema医師は以下にリンクしたように、もともとは「最善の利益」論よりも「害原則」重視の人……。
http://medicalfutility.blogspot.jp/2013/01/do-no-harm-project.html?utm_source=feedburner&utm_medium=feed&utm_campaign=Feed:+MedicalFutilityBlog+%28Medical+Futility+Blog%29

【Diekema医師の「害原則」関連エントリー】
「最善の利益」否定するDiekema医師(前)(2007/12/29)
「最善の利益」否定するDiekema医師(後)(2007/12/29)
Quellette論文(09)2:Diekemaの「害原則」(2011/6/22) (QuelletteはOuelletteの間違いです)
エントリーにしたばかりのDiekemaの「害原則」に新ヴァージョン登場(2011/6/23)


今年の「死ぬ権利世界連合」の世界大会は9月16―22日、シカゴで。テーマは「尊厳、コントロール、選択―世界中で」。中心になっているのはEXITとかFENとかC&Cなんだけど、日本尊厳死協会は今年も参加されるのでしょうか。
http://medicalfutility.blogspot.jp/2013/01/world-federation-right-to-die-conference.html?utm_source=feedburner&utm_medium=feed&utm_campaign=Feed:+MedicalFutilityBlog+%28Medical+Futility+Blog%29

米国看護倫理学会の第2回年次大会、3月21、22日。テーマは「倫理への意識を養う:真実の瞬間」。1日目の基調講演のテーマが興味深くて、「患者のアドボカシーは、なぜ患者を傷つけるのか」。
http://ethicsofcaring.org/

糖尿病薬Avandiaスキャンダルで米国では被害者と大金で和解したグラクソが、英国では被害者家族らの訴訟を受けて立つ?:あまりにひどいAvandiaスキャンダルについては こちら ⇒ 製薬会社資金に信頼性を失っていく治験データ……Avandiaスキャンダル(2012/11/30)
http://www.guardian.co.uk/business/2013/jan/29/glaxosmithkline-legal-fight-uk-diabetes?CMP=EMCNEWEML6619I2

米国テキサス州で、心臓が胸の外について生まれた新生児が手術で救命され、3か月で退院。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/255524.php

フィラデルフィアで過去20年間に5歳以下の子どもの1型糖尿病が70%も増えている。
http://www.medicalnewstoday.com/releases/255347.php

魚脂と、質の良い幼稚園が子どものIQを上げるのに有効……なんだそうな。:もう何度も何度も何度も書いているけど、子どものIQってな、学者が寄ってたかってこんな研究を続々とやってシャカリキになって上げなければならないほど、たいそうなものなのでしょうかね。
http://www.medicalnewstoday.com/releases/255483.php

アップル社のサプライ・チェーンで児童労働が発覚。
http://www.guardian.co.uk/technology/2013/jan/25/apple-child-labour-supply
http://www.guardian.co.uk/technology/2013/jan/25/apple-eradicate-child-labour

ビル・ゲイツの慈善事業は良いけれど、投資先のRepublic Servicesの労働者の扱いはどうよ、とGuardianでEllie Mae O’Haganさん。この記事の終わりの一節に痛く同感 ↓
I expect I will agree with Bill Gates' dream of a better world. Only for me, that better world will only materialise when billionaires are held accountable for their actions, not praised for offering us a few crumbs from their table. Yes Bill Gates should be praised for his charity. But that's just what it is: charity. And as Augustine wrote over 1,500 years ago, charity is no substitute for justice withheld.

(火曜日の講演を聞けば) ビル・ゲイツのより良き世界という夢に共感するだろうけれど、ただ私にとって、より良き世界は大金持ちがその行動にきっちり説明責任を果たした時に初めて実現するもので、ただ彼らの懐からおこぼれがいくらか我々に差し出されたからといって称賛して実現するわけじゃない。ビル・ゲイツの慈善は確かに誉められてしかりだけど、所詮は慈善に過ぎない。そして1500年以上も前にアウグスティヌスが言ったように、慈善は、行われていない正義の代用物には決してならないのだ。
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2013/jan/29/bill-gates-charity-work-business-practices

The Chronicle of Philanthropyという慈善家向けの新聞があるみたい。
http://philanthropy.com/blogs/philanthropytoday/opinion-bill-gates-says-measurement-key-to-solving-big-problems/61711

働くがん患者と家族に向けた包括的就業支援システムの構築に関する研究 平成24年度 成果報告シンポ 「患者/家族・人事労務担当・産業保険担当者の視点を生かした支援リソースの開発、評価、普及啓発法の検討」。
http://blog.cancer-work.jp/?eid=20&fb_aggregation_id=246965925417366

広がるか、障害者の大学入学―斎藤剛史(BLOGOS):これについては何年も前から、弱小大学の生き残り策として広がっていくんではないか、という気がしている。
http://blogos.com/article/54999/

日本。「体罰の会」なるものがあるって、初めて知った。戸塚ヨット・スクールの戸塚宏氏が顧問。「不快なくして進歩なし」「体罰と虐待(犯罪)とは、進歩を目的とする行為であるか否かによって峻別されます。決して体罰の延長線上に虐待があるのではありません。この区別の解らな い人は、人命救助と治療を目的として外科医がメスを用いて行った手術行為と、憎しみと利害打算によって人を刃物で殺傷する犯罪行為との区別もできないこと になります」「自分の命を捨ててまで愛すべき親や子供たちを守ることは、理性教育からは導かれません」「体罰否定の人たちが戦後教育を支配し続けたため、学校のみならず、家庭も崩壊し、児童相談所の横暴を許し、家庭裁判所もそれを黙認するに至っています」
http://taibatsu.com/index.html

森美術館で開催中の「会田誠展 天才でごめんなさい」への「ポルノ被害と生暴力を考える会」の抗議文。四肢切断された全裸の少女が首輪をされて微笑んでいる「犬」という題名の連作をはじめとして、性暴力性と性差別性に満ちた作品が多数、展示されていることについて。
http://paps-jp.org/action/mori-art-museum/group-statement/

米国でDVの一種として広がっている「妊娠の強要」問題で、米国産婦人科学会が定期的にティーンエジャーや成人女性に「生殖強要」についてのスクリーニングを提唱。
http://www.bioedge.org/index.php/bioethics/bioethics_article/10366#comments

生活保護基準引き下げのどこが問題? Q&A
http://nationalminimum.xrea.jp/faq
2013.02.12 / Top↑
自分自身のメモとしても、8~11章について、ごく簡単に。


第8章 竹之内裕文「『自然な死』という言説の解体―死すべき定めの意味をもとめて」

内容は、タイトルそのもので、

昨今、大流行の「自然な死」が
「過剰な延命治療」に対置させられて称揚される時に、
そこでは実際に何が語られているか、語られてきたか、を検証しつつ、

医療費抑制への思惑や、特定の状態の生は生きるに値しないなどの個人的な価値観など、
「自然な」という語義の多義牲に応じて、担当医師や家族など
関係者に都合のよい概念が恣意的に援用される危険があることを指摘。

自然と技術、主観と客観といった二元論的な枠組みで考えることには
「死にゆく自然なプロセスを達成するためには、
むしろ適正な医療技術の介入が必要とされる」ことが看過される懸念があると説く。


第9章 西平直「『死の教育』からの問い―デス・エデュケ―ションの中の生命倫理学」

大人が子どもに死を教える、ということについての考察。

私は以下の個所が特に印象的だった。

 しかし「掛け替えのない命を大切にする」ことと同時に、「大自然の中では一つの命はそれほど重要ではない」ということを、どこかで伝えるべきではないか。あるいは、本当は、人類の命だけが特権的に重要なわけではないということ。むしろ人類だけが極端に「自分の命」に執着しすぎている。そして「私が命を持っている」という。自分の命だけが特別に重要なわけではなくて、脈々と流れている「大いなるいのち」に連なっていることが重要である。そうした思想をどう伝えたら良いのか。あるいは、学校教育においては、伝えるべきではないのか。
(p.157)


一方で、頭に浮かぶのは、こういう「いのちの贈りもの教育」が行われていること ↓
http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/zouki_ishoku/gaiyo_03.html

それから、「人類の命だけが特権的に重要なわけではない」の個所で、
やっぱりピーター・シンガーが頭に浮かぶのだけれど、その後の話の展開が
ちょうどシンガーの逆方向に向かっているところ、

人間であることを特権にするかわりに「知的能力が高い」という別の特権を作って、
その特権的な自分の生命や優秀さに執着するのではなく、
すべては「脈々と流れる大いなるいのち」に繋がって平ら、という方向に向かい、
そこに執着からの解放を見いだしていこうとするところが、興味深く面白かった。


第11章 松岡秀明「生、死、ブリコラージュ―緩和ケア病棟で看護師が経験する困難への医療人類学からのアプローチ」

ブリコラージュというと、PTの三好春樹さんを思い浮かべる。
三好春樹さんがブリコラージュとしての介護というのをずっと語っていて、
そういうタイトルの雑誌も出していて何度か読んだことがある。

「ブリコラージュとしての介護」というのは私にとっては
ちょうど障害のある子どもの子育て体験そのものにも思えたので
だいたいの意味はその文脈で理解しているのだけれど、

著者の説明によると、

……エンジニアは、計画に即して考案され購入された材料や器具がなければ仕事ができない。それに対して、ブリコルールは臨機応変な柔軟さで手持ちの材料と道具だけを用いて特定の目的に応じたなにかをつくりあげる……
(p.186)


緩和ケア病棟で看護師が直面する様々な困難を調査によってあぶり出し、
それらを考察することによって、

「エンジニアが終末期ケアの現場を席巻している」一方で、
看護する者は看護される者から学ぶことを通じて、
ブリコラージュとしての看護を身につけていく、
そこにやりがいが見出されている、という観察。

これは、第6章の植物状態患者専用病院での看護師の体験にも
通じていくものがあるような気がする。

看護する者が看護される者から学ぶ、また互いの相互作用の中から学び変わっていく、という体験が、
医療と看護や介護との間でも、医師と患者との間でも、もっと意識されることによって、
「エンジニアが席巻する医療」が、もう少し丁寧なブリコラージュに近づいていく、
ということにならないだろうか。
2013.02.12 / Top↑
『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』については、
第6章までを読んだところで以下の3つのエントリーを書きました。

『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 1(2013/1/17)
『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 2(2013/1/17)
『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 3(2013/1/18)


残り部分もその後、一気に読み終えており、
いずれも読みごたえのある章ばかりで書きたいことは沢山あるのですが、
エントリーにしようと思いながら日が経ってしまうと、
読んだ直後の「あれも、これも、書きたい!」勢いを
もうそのままには取り戻せないのが悔しい。

でも、第7章と第12、13章についてだけは、どうしても書いておきたい。

この3つの章については、
重症障害のある子どもの親としての個人的な体験や思いが
特にくっきりと重なっていく内容だったから。


第7章 田代志門「死にゆく過程をどう生きるか―施設と在宅の二者択一を超えて」

一旦は恵まれたホスピスに入ったものの「テンションが下がる」といって
在宅に戻った女性のインタビューでの語りに沿って、

ホスピス医療が患者や家族におのずと求めてしまう規範や、
患者中心の医療を志向しつつ、それが「死の専門家」である医療職による
「洗練された管理システム」を通じた「よき死」への誘導になってしまう傾向を指摘し、

医療がその限界を超えない限り、施設であれ在宅であれホスピス医療は
真に「患者が『主』である」医療にはならない、と説く。

つまりは、この本の主題は各章それぞれに、
第1章で編著者の安藤氏が以下のように書く「新しい医療の文化」が必要だとの
主張に収束していくのだ……と、改めて納得。

医療が既存の医療の専門知の枠組みで人間の生(死)を切り取ってそこに自足するのではなく、その限界を自覚しながら、そのなかで医療に何ができるのかを模索していくことができるような新しい医療の文化(原文は傍点)
(p.16)


「そーだっ!」と思わず叫んだのは
この女性にとって「自分よりはるかに若いスタッフから
『精神的ケア』の対象とみなされること自体が許せないことだったのだろう」という洞察。

これは私の個人的な体験にもドンピシャ当てはまる。

例えば、昨年ケアラーの一人として北海道栗山町でお話させてもらった中で、
私は以下のように語ったことがある。

私だってそれまでは一人前の常識的な社会人として世の中を渡ってきたはずなのに、障害のある子どもの親になったとたんに、何も知らない、なにもできない無知で無能な存在みたいに扱われて、どこへ行っても、ああしなさい、こうしなさい、あれをやってはだめですよ、と指導され教育され叱られて、どこへいっても「ありがとうございます」「すみません」と頭を下げて、いったい、これはなんなんだろう、と。

ケアラー自身の人生の継続性や、ケアラー自身の生活、心身の健康にすら、もはやだれも関心を向けてくれない。ただ介護者・療育者としての優秀な機能であり役割であれと無言のうちに求められながら、家族だから出来て当たり前、愛さえあればできるはず、というメッセージを送られている……


私の場合には障害のある子どもの母親になったとたんに、
「障害児の母親」という役割や機能でしかない存在として扱われ、
例えば母子入園や受診などで、医療職や福祉職から一方的に
「指導」され「教育」されるべき存在とみなされることへの違和感。

この末期がんの女性の場合には、ホスピスに入ったとたんに
「死にゆく人」という存在でしかない人として扱われてしまうことへの違和感。

それをこの女性は「テンションが下がる」と表現したのであり、
この人は、さらに以下のように語る。

でも、みんなね、お医者さんの勉強ばっかりして、計算ばっかりして、心の問題を全部しないできている。みんな、医学生の人たちも、技術ばっかり。それよりも、どうして人間が生きなきゃなんないのか、とかね。どうやったら人のために生きられるかとか、生きなくちゃないの、とか、そういうことをあんまり考えてる人がいなかったです。全部、抗がん剤だとか、データとかばっかり重視して、そんなの何になるのって私は思うのね。そしてお医者さんだって、最後は財産も名誉も地位も学歴も、そんなの何にもならない。ただの一人の人間として自分はどのように生きたかが、私は大事だと思うのね。
(p.118)


著者はここで述べられていることを
「自分に関わる医療者のまなざしが、
生死にかかわる意思決定の根底にある死生観の問題ではなく、
その周辺にある技術的な問いへと切り詰められていくことへの不満」と捉えている。

そして、以下のように書く。

死ぬことだけを意識して患者に接する」態度は、患者の生の豊かさを「死にゆく人」という役割に矮小化してしまう点で問題がある。
(p.122)


母子入園で整形外科医から、何の配慮もなく、
いきなり傲岸な態度で「この子は一生歩かないよ」と言われたことに
私たち母親は手ひどく傷つけられた、という話をずっと以前に本に書いたら、
その後、その施設の整形外科医のみなさんが「歩かない」という言葉を使う前に必ず
「申し訳ありませんが」と断りを入れるようになった。

例えば、娘が中学時代に骨折した時に、治療方針を説明する際の医師が
「申し訳ありませんが、ミュウさんはこの先も立って歩くということはないと思うので
手術をしてまで骨をまっすぐにつなげることはせず、このままギプスで……」というように。

それがあくまでも善意であることは疑わないのだけれど、それだけに、いつか、

親を傷つけるのは、「歩かない」事実でもなければ
「歩かない」という言葉を使われること自体でもなく、
子どもの障害を知らされたばかりで混乱している親の気持ちに何の配慮もなく、
その親の目の前で、子どもを故障したモノのようにみなし、扱いながら、
「この子はどうせ一生歩かないよ」と言い放つ、その共感のない眼差しであり、
人としての無神経だったのですよ、ということを、
きちんと説明して誤解を解かなければなければ、と思っている。

子どもが中学生になるまで障害と付き合ってきた親にとって、
しかも大たい骨の骨折の治療について医師と話している場面ではなおのこと、
我が子が一生立って歩くことはないというのは、既に単なる「事実」に過ぎない。
なんで、この医師がここで謝るのか、私にはあの時、さっぱり理解できなかった。

その後も何度か、そんなふうに
「歩かない」という言葉を使われる前にイチイチ謝られては困惑する体験があって、

批判された問題のありかについて
単に「障害児の親に向かって『この子は歩かない』という言葉を使うと、親は怒る」と
因果関係の数式のようにしか捉えられていないのかも……? と気付いた時には、
ちょっとびっくりしてしまった。

もちろん保護者からの批判を受けて、
変わらなければならないと思ってくださったことには私も感謝しているのだけれど、

まさにこの章の著者が言うように
人の気持ちを思いやるという、誰でも一人の人として当たり前にやっていること、
医師だって一人の人としての自分を置き去りにしなければ思い当たるはずのことを
医師として患者や家族を「医療介入の対象」としてしか見ず、
問題を「技術的な問いへと切り詰め」てしまうために

我が子の障害を知らされたばかりの親に「この子は生涯歩くことはない」という事実を
何の配慮もなく傲岸な言動で投げつけることの無神経が
単に「特定の言葉」の問題になってしまうんじゃないだろうか。

「これまでこうして生きてきて、その先に、
“今ここ”にこうして生きている一人の人である私」が
医療の側が勝手に設定する「患者とは家族とはこういうもの」の中に落とし籠められて、
そうした「こういうもの」に対して勝手な「指導」や「教育」や「ケア」を行おうと
一方的に迫ってこられることに対して、

しかも「アンタにいったい人生の何が分かるというの?」と言ってやりたいような
年若いニイチャンやネエチャンに専門職だというだけでエラソーな高みから
それをやられることに対して、

私たちは
人として貶められているような「無礼」を感じるのだと思う。

それがこの女性が言う「テンションが下がる」ではないだろうか。

毅然として抗がん剤治療を諦めたように見えたこの女性が
様々な家庭の事情を抱えて生きてきた「個人史」を語る中には
きれいなだけの「家族愛」ではくくれない相矛盾した思いが錯綜していて、
その中から語られる言葉の中には、
「ほんとは一番身近にいる人が面倒みてくれるんだったら」抗がん剤治療も
やりたかったという言葉も出てくる。

そんなふうに「これまでこうして生きてきて、その先に
“今ここ”にこうして生きている一人の人である私」の中には
誰だって相矛盾する思いをたくさん抱えていて、
どれか一つだけが本当の思いだなんて言えない。
矛盾するまま、どれもこれも本当の思いとしか言えない。

子どもの障害を知らされたばかりの親の中にだって、
激しく葛藤する、互いに相矛盾する感情が嵐のように渦巻いている。

だって、著者が書いているように
「自己というものがそもそも首尾一貫した整合性のあるものではなく、」
その『成り立ちが個々の場面に依存し、多元的である』」ものなのだから。

それなのに、医療の場に「重症児の母親」として出ていく時、
つい「前向きに頑張っている母親」モデルに応えようとふるまってしまう、
つい、そういう母親であると認められようとのケチな下心にモノ言わされてしまうのは、
あれは一体どういう医療のマジックなんだろう……?

そういえば、ミュウがまだ幼児の頃に、そういう違和感を、
「サイズが3号分くらい違う服に、無理矢理に身体を押し込められる感じ」と
某所で表現してみたことがあった。

そうそう、専門家の視線は患者の生活や人生全体を照らす「蛍光灯」ではなく
その人の生活の中の専門領域該当部分だけを照らす「懐中電灯」だと
表現してみたこともあったっけな ↓

「“身勝手な豚”の介護ガイド」3のオマケ:だって、spitzibaraも黙っていられない(2011/7/22)
2013.02.12 / Top↑
21日、麻生太郎副総理兼財務大臣は
社会保障制度改革国民会議で以下のように述べたと報じられた。

チューブの人間だって、私は遺書を書いて『そういう必要はない。さっさと死ぬから』と手渡しているが、そういうことができないと死にませんもんね、なかなか。

いいかげんに死にたいと思っても生きられる。しかも、政府のお金で(終末期医療を)やってもらうのは、ますます寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしないと。


これらの発言を、
1月27日のBioEdgeが取り上げている。

Hurry up and die, Japan’s finance minister tells elderly
BioEdge, January 27, 2013


タイトルがすごい。

「さっさと死ね、と高齢者に向けて日本の財務相」。

本文では、
「高齢者は、彼らの医療費を支払わなければならない圧力から政府を解放すべく
『さっさと死ぬ』べきである、と発言した」と取りまとめた後で、

ガーディアンの記事から
「寝覚めが悪い」発言部分の翻訳を紹介。

Heaven forbid if you are forced to live on when you want to die. I would wake up feeling increasingly bad knowing that [treatment] was all being paid for by the government.


Heaven forbid……って、名訳!

思わず噴き出しつつ、拍手した。

でも、個人的な死生観を述べただけだとご本人がおっしゃっているとしたら、
これらは誤訳なんでしょうか???

BioEdgeの記事は書き出しもふるっていて、
「2013年はまだ始まって1カ月と経ってないけど、BioEdgeが思うに
今年の年間『失言大賞』受賞者は決まりだね」と。
2013.02.12 / Top↑
OR州の医師が、モンタナ州の住民に向けて
自殺幇助は合法化しない方がよい、と訴える書簡。

その医師の体験の概要とは、

10年以上前からプライマリー・ケア医として診てきた患者(当時76歳)を
数年前にメラノーマと判断して専門医に紹介した。

夫婦ともにハイカーとして活動的な人たちだったが、
男性は症状が進み、ハイクに出かけることもできなくなると、抑うつ状態になったと
カルテに書かれていた。

私のその患者は、その頃、専門医に対して
自殺幇助の希望を述べたのだが、

するとその医師は、まず時間をかけて、うつ病に対応しようとするわけでもなく、
プライマリー・ケア医の私に患者と話をするよう求めるわけでもなく、
いきなり電話で自殺幇助に必要な「セカンド・オピニオン」を出せ、と求めてきた。
(尊厳死法では2人の医師の承認を要件としている。その2人目に、ということ)

その専門医は私に
こういう患者にはバービツレートの過剰摂取は「とてもうまく効く」と言い、
もう何度もやったことがある、と言った。

私は2人目の医師として彼のPASを承認することを断り、
ただPASで致死薬を与えるのではなく、気がかりなのはうつ病なのだから、
その治療をすべきだと主張したが、

私の発言は無視されて、2週間後に
私の患者は、その医師の処方した致死薬によって亡くなった。

オレゴンの法の下では、
私はうつ病になった私の患者を守ることができなかった。


Oregon doctor could not save patient from assisted suicide
Montana Standard, January 26, 2013


これだけ世の中に
「一定の状況になったら、その生はもはや生きるに値しない」と考える医師がゴロゴロしているなら、

「2人の医師による承認」は
「一人目の医師が自分と同じ考え方の医師をもう一人探せばいい」ということにしかならず、
何のセーフガードにもならないのでは――? と、ずっと私は疑問に思っているのですが、 

去年出てきた、日本の尊厳死法案にあった「2人の医師が判断する」との要件についても
こちらの医師のブログに書かれていることが、

医師の上下関係の中で判断の独立性は守れるのか、
また病気によって、あるいは複数の病気を併発していた場合に、
その判断の専門性は担保できるのか、など

たいへん興味深いです ↓

「ヘブンズドアホスピタル」ブログ
眠られぬ当直(よる)のために―尊厳死・平穏死編その5(2013/1/10)
2013.02.12 / Top↑
カナダで脳卒中で意識不明となった男性Dennis Dayeさん(65)を巡って
無益な治療訴訟。

Dayeさんは先月10日、
大きな脳卒中を起こしてSunnybrook Health Science Centerに運ばれ、
脳の浮腫のために頭蓋骨の多くの部分を取り覗く手術を受けた。

主治医のFowler医師をはじめSunnybrookの医師らは、
Dayesさんの脳損傷は「広範囲」で「不可逆」であるとして、
生命維持(人工呼吸器と経管栄養)を中止して患者を死なせるべきだと主張。

Daye氏の妻であり代理決定者であるPilarさんは
治療続行を望んで対立。

Sunnybrookってどこかで聞いたことがあるなと思ったら
何度もエントリーで追いかけてきたRasouli事件のHassan Rasouliさんがここの患者だった。
(この記事によると、Rasouli訴訟では先月、最高裁が判決を延期したとか)

なお、そのRasouli訴訟では
下級裁判所でも上訴裁判所でも医師側に独自の決定権を認めず、
Consent and Capacity Board (同意と能力委員会)の判断を仰がなければならない、と求めた ↓
「生命維持停止に同意なんて医師の権威を損なう」Rasouli裁判続報(2011/5/19)


そこで、今回は医師らはまずCCBの判断を仰いだ模様。

同病院の医師らのCCBでの証言は、
Daye氏についての神経科医のアセスメントは予後は「極めて悪い」というもの。

「自立生活はできず他者による介護または施設介護が常時必要となる
…he will always be dependent on others and in an institution for care」
というのが一致した医師らの見解である、と。

主治医は、人工呼吸を中止して蘇生無用指定とし、
より緩和的アプローチに切り替えるべきだと求めている。

また前妻との間にできた娘は
父親は活動的な人物だったので、
こういう形で生かされることは望まなかったはずだと証言し、

「もし父が自分で決められるとしたら、
生活の質なんて何もなくなってやりたいことができなくなり、それよりなにより、
ベッドから出ることもできなくて誰かに世話してもらわなければならないなんて、
そんなことは父は絶対に望まなかったと私には確信があります」

一方で、反対尋問では
Pilarと折り合いが悪い彼女は、
父親の再婚以後の5年間は父親と会ったことは1度もない、とも。

妻のPilarさんはパン屋の経営者で、
夫は、何年も自分と一緒に実践してきた民間療法を続けたいと望んでいるはずだ、と主張。

主治医は「妻は自分の望みと夫の望みとを混同しているのでは」と。

Stroke victim’s wife fights physicians to keep him on artificial life support
The Toronto Star, January 24, 2013


以下のリンクに見られるように、Rasouli訴訟では、
途中で、診断が「植物状態」から「最小意識状態」に変わって、
最高裁の判断が注目されている。

「無益な治療」の判断基準が、
「救命がもはや可能ではないのに患者に苦痛を与えるだけの治療は無益」から
「救命は出来ても、その結果が要介護状態となるなら無益」へとシフトしてきたのでは……と、
私はずっと懸念を感じていたのだけれど、

Dayesさんの生命維持と経管栄養を「無益」とする医師らの判断基準は
「自立生活はできず常時介護が必要となる」であり、

娘が「父親は生きることを望まないと確信している」と主張するのも、
「ベッドから出られないままで誰かに世話をしてもらう」状態について言われている。

つまり、ここにあるのは、歴然と
「命が助かっても重症障害を負うなら、その患者の救命は無益」という「無益な治療」論。

しかも脳卒中を起こして、
まだ1カ月あまりしか経っていない段階で――。


そういえば、最近カナダの「無益な治療」訴訟では、こういうのもあった ↓
カナダの“無益な治療”訴訟で「Owen教授のアセスメントを」(2012/12/8)

すぐに頭に浮かぶのは、↓
脳損傷の昏睡は終末期の意識喪失とは別:臓器提供の勧誘は自制を(2012/7/20)
Owen教授の研究で、12年以上「植物状態」だった患者に意識があることが判明(2012/11/13)
『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 3: 第6章は「植物状態患者の意識状態」、当ブログのテーマそのものだった!!(2013/1/18)

「最少意識状態は植物状態よりもマシか? 否。カネかかるだけ」とSavulecuとWilkinson(2012/9/8)


【Rasouli事件の関連エントリー】
「“治療停止”も“治療”だから同意は必要」とOntario上位裁判所(2011/5/17)
「患者に選択や同意させてて医療がやってられるか」Razouli裁判続報(2011/5/19)
カナダのRasouli事件、最高裁へ(2011/12/23)
Hassan Rasouliさん、「植物状態」から「最少意識状態」へ診断変わる(2012/4/26)
2013.02.12 / Top↑
ルイジアナ州は2月1日から14年6月30日まで、メディケイドでのホスピスを認めないことに。Popeは「でもメディケイドの患者だって死ぬんだから、病院で死ねばホスピスより高くつくのに」と言うけど、この人の頭では、そこにPAS合法化はちらつかないのかな……?
http://medicalfutility.blogspot.jp/2013/01/louisiana-cutting-hospice-coverage.html

英国で自殺率が上がっているのには、メディアによる自殺幇助賛美が影響しているのではないか、相関を調査すべき、とWesley Smith。OR州でも自殺率が上昇しており、自殺ほう助外でも全国平均よりも40%近く高い、とのこと。
http://www.nationalreview.com/corner/338541/suicide-advocacy-and-uk-suicide-rate-wesley-j-smith

単に前後の家族のスケジュールの都合で、ガイドライン推奨の妊娠39週を待たずに、陣痛促進剤を使ったり帝王切開で出産する人が増えていることで、生まれてくる子どもに健康問題が出ているケースも。
http://www.washingtonpost.com/national/health-science/health-insurers-crack-down-on-preterm-deliveries-that-are-not-medically-necessary/2013/01/21/eb30026a-56ab-11e2-a613-ec8d394535c6_story.html?wpisrc=nl_cuzheads

ロボットによるオートメーションは人々から仕事を奪うという懸念に、ロボット開発の専門家ら「確かにロボットの出現で消滅する仕事もあるが、より高給の職も創出される」:そこでもまた「恵まれたごく少数と、犠牲になる多数」という構図となるのでは??
http://www.nytimes.com/2013/01/24/technology/robot-makers-spread-global-gospel-of-automation.html?_r=0

直接医師に会って診察を受けるよりも、インターネット上で診察を受ける「E受診」の方が安上がりで、病気によっては効果はそう変わらない、という調査結果。:貧乏な人にはそのうち、こちらだけが選択肢に?
http://www.washingtonpost.com/national/health-science/virtual-visits-to-doctor-may-be-cheaper-than-and-as-effective-as-in-person-visits/2013/01/18/8237c028-601e-11e2-a389-ee565c81c565_story.html

Bill GatesとDesmond Tutuが途上国の飢餓問題に新たなキャンペーン。英国政府も積極的に支援。
http://www.scotsman.com/the-scotsman/scotland/bill-gates-and-desmond-tutu-unite-to-launch-campaign-to-combat-hunger-1-2752618

抗生物質体制の病原菌が「黙示録」的な脅威になる、と専門家。
http://www.guardian.co.uk/society/2013/jan/23/antibiotic-resistant-diseases-apocalyptic-threat

ガーディアン紙のサイトに ソーシャル・エンタープライズ・ネットワークというページがあった。
http://socialenterprise.guardian.co.uk/

障害保健福祉研究情報システム 国際セミナー報告書 インクルーシブな障害者雇用の現在―ソーシャル・ファームの新しい流れ 【講演3】「英国のソーシャル・ファームの動向」
http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/conf/seminar20120617/koen3.html

今年、世界中の失業者が2億人に。
http://www.guardian.co.uk/business/2013/jan/22/eurozone-crisis-live-global-jobless-hits-record

日本。ユニオンぼちぼちのブログ:生活保護に関する緊急声明
http://unionbotiboti.blog26.fc2.com/blog-entry-321.html
2013.02.12 / Top↑
英国の障害者チャリティ、United Response から、
知的障害のある人にも政治や社会に関するニュースを届けようと、
易しい言葉を使い、写真や絵を多用した新聞 Easy News が創刊されている。

United Responseサイトの Easy News ページはこちら。

創刊2013年1月号はこちら。

創刊号では
最初にこの新聞の創刊のニュースが取り上げられた後、
2012年の大きなニュースから以下のものが
短い段落ごとに写真やイラストを伴って報じられている。

・エリザベス女王の即位60周年
・NHS改革
・パラリンピック
・政府の歳出削減策
・ケアホームにおける虐待発覚

(読みやすい英語で簡潔にまとめられているので、
我々非ネイティブにとっても複雑な問題の要点が掴みやすく、たいそう有難い)

今後、2か月ごとに紙とオンラインの両方で刊行される。
CDによるオーディオ・ヴァージョンも近くオンラインで提供。

United Responseでは今後1年間Easy Newsを発行する予算があるが
その後も継続できるよう、寄付を募っている。

このプロジェクトを実現させた Kaliya FranklinさんのGuardian記事はこちら ↓
http://www.guardian.co.uk/society/2013/jan/23/easy-news-people-learning-difficulties?CMP=EMCNEWEML6619I2


【27日追記】
日本でも、全日本手をつなぐ育成会から
同種の新聞「ステージ」が季刊で発行されていました。
2013年新春号で既に64号。全8ページ。年間購読料900円 ↓

http://www.ikuseikai-japan.jp/books/books02.html
2013.02.12 / Top↑