Peter Singerが“アシュリー療法”についてニューヨークタイムズに論評を寄せた翌日、インターネットには早くも反響が出ていました。そのうちの1つは、自閉症の子どもを持つ母親が自閉症関連サイトに投稿したもの。
Peter Singer and Precious Ashley
by Kristina Chew PhD (1月27日)
Chewは、この文章を古代ローマ帝国最古の法典といわれる12表法から始めます。この表法の中に、「明らかに奇形のある子どもは、殺さなければならない」と書かれているという話。Singerが論評で書いた「重症児は昔から狼やジャッカルの餌食にされてきたのだ」という箇所に反応しているわけです。(Fostもパネルで同じことを言っています。)続いてChewは、Singerが自分のHPにおいて、世の中を変えるために簡単にできることとして3つの提案をしていることを紹介します。
①世界の最も貧しい人たちのために何事かを行え。
②動物のために何事かを行え。
③地球環境のために何事かを行え。
②動物のために何事かを行え。
③地球環境のために何事かを行え。
そして、このような提案をしている Singer がアシュリーに対しては……と批判を展開していくのですが、その後の文章は長く、反論の大筋は想像の範囲なので、ここでは私が個人的に目を引かれた指摘を1つだけ。
Singerが冷徹な論理を展開しているように見えて、実は adorable とか precious といった情緒的な言葉を紛れ込ませているとの指摘。
なぜChewがこれらの言葉に抵抗を感じるかというと、世間の人が彼女の息子チャーリーの前でも平気で「あなたにとっては、どんなにか大切な(precious)息子さんでしょうね。だって、こんなに可愛いん(adorable)だもの」などと言うのが、日ごろから気に障っているから。普通なら9歳の子どもにそんな形容詞は使わないのに、世間の人はチャーリー本人の前で平気でそう言うのです。まるで自閉症の彼には理解できないと決め付けているかのように。(adorableというのは、他人の幼い子どもを前にお世辞に言う「まぁ、可愛いお子さんで」というセリフの、あの「可愛い」です。)
この指摘には2つのポイントがあるように思います。
①シンガーが論理を操っているように見えながら、実は社会に蔓延する障害児の幼児化・美化に巧妙に乗っかっていること。子ども病院の医師らが「美しい親の愛」というセンチメンタリズムを持ち込んで、問題のすり替えを行ったことを思い出します。しかし面白いのは、シンガー発言の方が、医師らの言ったこと(やったこと)よりも、はるかに酷いように聞こえる点。それは、きっと医師らの方がシンガーよりも老獪だったからではないでしょうか。
Singerは「生後3ヶ月より知的レベルが高い犬や猫に我々は尊厳など考えない」と言いました。Diekemaは「尊厳が何かということは、その人の状態によって違う」、「アシュリーの尊厳は、乳児として扱ってもらうこと」と言ったのです。これ、響きは違って聞こえますが、要は同じことなのでは?
②当ブログで指摘してきた、「どうせ何も分からない人」というステレオタイプしか見ない態度と、Chewが描いて見せる「まぁ、なんて可愛らしい」、「穢れを知らない天使ちゃん」など世間によくある赤ちゃん扱いとは、実はまったく同じなのではないでしょうか。(当然「枕の天使」も。)
いずれの態度も、障害のある「人」や「子ども」ではなく、「障害」しか見ていない。目の前にいる「その人」自身、「その子ども」自身の姿をありのままに見るのではなく、彼らの姿に自分が見たいものを重ね、それを見ているだけなのです。この2つの態度の根が同じだとすると、Singerがこのような湿度の高い形容詞をアシュリーに使用しているのも、象徴的なのかもしれません。
そこで、Chewの結論。
Singerが提案している「世の中を変えるためにできること」に、もう1つ付け加えてはどうかと提案し、Chewは次のように書いています。
私は世の中を変えるために4つ目の「簡単な方法」を提案します。とても易しいことです。
障害のある子どもと一緒に過ごす機会があるならば、ぜひ、そうしてみてください。ただ同じ部屋で一緒に座っているだけでいいのです。ただ、そこにいる、子どもと共にそこにいる、ということをしてみてください。その子どもは、じっと動かずに横になったままかもしれません。テンション高く部屋中を駆け回り、いろんな音声を発して、あなたの言葉には何の反応も示さないかもしれません。あなたがそこにいることを、その子どもがどの程度分かっているのか、そもそも分かっているのかどうか、あなたには分からない。あなたの存在を子どもが分かっているとは言えない。けれど、分かっていないとも、また言い切れないはずです。
ちょうど、もう障害のある赤ん坊を荒野に連れて行って狼やジャッカルの餌食にするようなことはないからといって、5世紀のローマ帝国の、あの12表法の時代よりもはるかに進んだ世の中になったと、我々に言い切れないのと同じように。
障害のある子どもと一緒に過ごす機会があるならば、ぜひ、そうしてみてください。ただ同じ部屋で一緒に座っているだけでいいのです。ただ、そこにいる、子どもと共にそこにいる、ということをしてみてください。その子どもは、じっと動かずに横になったままかもしれません。テンション高く部屋中を駆け回り、いろんな音声を発して、あなたの言葉には何の反応も示さないかもしれません。あなたがそこにいることを、その子どもがどの程度分かっているのか、そもそも分かっているのかどうか、あなたには分からない。あなたの存在を子どもが分かっているとは言えない。けれど、分かっていないとも、また言い切れないはずです。
ちょうど、もう障害のある赤ん坊を荒野に連れて行って狼やジャッカルの餌食にするようなことはないからといって、5世紀のローマ帝国の、あの12表法の時代よりもはるかに進んだ世の中になったと、我々に言い切れないのと同じように。
2007.09.13 / Top↑
初めてアシュリーの両親のブログを開いた時から、ずうぅぅっと頭の片隅にこびりついている、とても単純な疑問。
もしもアシュリーがこれほど美しい子どもでなかったら、この父親はブログに写真を掲載しただろうか……という疑問。
そして、それを「見る側」へと転じてみると、
アシュリーの両親の苦難に共感・同情し、「どんなにか苦しい決断だったことでしょう」、「愛情からしたことだから」、「この両親の苦悩は他人には分からない」と許容・擁護・賞賛・感動すらした人たちは、もしもこの事件に次の3つの条件がそろっていなかったとしたら、それでも同じことを言っただろうか……という疑問。
①アシュリーは美しい少女である。
②アシュリー一家は白人である。
③アシュリー一家は中流家庭だと報道された。
②アシュリー一家は白人である。
③アシュリー一家は中流家庭だと報道された。
2007.09.13 / Top↑
| Home |