シアトル子ども病院の生命倫理カンファレンス第1日目午後の分科会から、Lainie Freidman Ross のプレゼンを。タイトルは、
子どもへの臓器提供者としての親
誰がリスクの許容範囲を決めるのか?
そこで用いる基準は?
誰がリスクの許容範囲を決めるのか?
そこで用いる基準は?
Rossのプレゼンは、問題提起を行って会場からコメントや意見を募り共に考える、という形態のもの。以下の4つのケースを巡って、親からの生体間移植の問題が議論されました。
ケースA
14歳の少女に父親が腎臓を提供したいと言う。ただし父親はエホバの証人の信者で、一連の医療処置の間に万が一緊急の事態が起こったとしても輸血は受けないとの条件が付いている。
14歳の少女に父親が腎臓を提供したいと言う。ただし父親はエホバの証人の信者で、一連の医療処置の間に万が一緊急の事態が起こったとしても輸血は受けないとの条件が付いている。
ケースB
実際にあったDavid Pattersonの事例。3年前に娘に腎臓を提供したが、その後拒絶反応が起きてきたので、父親が2つ目の腎臓も提供したいというもの。Pattersonのケースでは父親が刑務所に入っており、最後の腎臓を提供した後の父親の透析は州の費用で支払われることになるなど、複雑な事情もあったが、ここでは「2つ目の腎臓も提供したいという親」を想定。
実際にあったDavid Pattersonの事例。3年前に娘に腎臓を提供したが、その後拒絶反応が起きてきたので、父親が2つ目の腎臓も提供したいというもの。Pattersonのケースでは父親が刑務所に入っており、最後の腎臓を提供した後の父親の透析は州の費用で支払われることになるなど、複雑な事情もあったが、ここでは「2つ目の腎臓も提供したいという親」を想定。
ケースC-1
何度も自殺未遂を繰り返している成人した子どもに対して、親が臓器提供を申し出ている。
何度も自殺未遂を繰り返している成人した子どもに対して、親が臓器提供を申し出ている。
ケースC-2
アル中で、どうしても酒をやめられない成人した子どもに対して、親が臓器提供を申し出ている。(ただしアル中患者の移植アウトカムは通常の患者と同じ。)
アル中で、どうしても酒をやめられない成人した子どもに対して、親が臓器提供を申し出ている。(ただしアル中患者の移植アウトカムは通常の患者と同じ。)
まず、ケース1の議論の中で、だいたい14歳からmature minorとみなして本人の意思を尊重する、イギリスでは12歳からmature minorとみなすこともある、という話が印象に残りました。以前このブログで取り上げた抗がん剤を拒否したヴァージニア州の少年のケースで裁判官が本人の意向を重視していたのは、そういうことだったのですね。彼は15歳でした。
その他それぞれのケースに様々なコメントや議論もあったのですが、特に印象に残ったのはRossの次の議論でした。
親が臓器提供する場合のリスクについては、母親が提供者になりたいという自己決定(autonomy)は、父親の同様の自己決定よりもリスクを理由に却下される確率が高い。母親は死なせたくないが父親を死なせるのは構わないようだ。しかし我が家であれば、夫は「自分が育児家事を担っているから母親がリスクを負っても大丈夫だ」と言うはず。私は子どものためなら数パーセントのリスクは喜んで引き受けたいと思うが、それは母親であるという社会役割のために認められないのだろうか。それを誰が決めるのか。私としては、それを決めることができるのは親自身であってほしい。
子どもが親から臓器提供を受けられるためには、子のために犠牲になろうとする親の下に生まれることが条件になる。また、それだけの医療が整った国で、そういう親の下に生まれていなければならない。この点で私は医療に平等などありえないとのFostの指摘に同意する。
例えば、「リスク対利益」で考えれば利益がゼロであるような子に臓器提供を望む親がいたとして、「あなたがたにとっては命の質が非常に低く思えるかもしれないが、それでもこの子は自分たちにとっては大事な子どもであり、移植をしてやれることは自分にとって大きな意味を持っているのだ」と主張する親に対して、どう判断するのか?
午前のMagnusの講演でのケース1への対応が、ずっとひっかかりになっている。我が子はこういう子だというイメージを親は創りあげて、それを大切にしている。そこへ、あなたの子どもは実は何の反応もしていないと指摘して、我々はその希望を砕いてしまった。たとえ臓器移植の候補としてリストに挙げないという決断をするにせよ、医療者がこんなことをしたのでは、どんな利益を提供できたとしても、我々がなす害の方が大きい。
誰が命の質を決めるのか。誰が無益な治療(futility)の原則で決定を行うのか。「リスク対利益」で決定を行うには、ヒューマニティを示すことが必要だ。
午前のMagnusの講演でのケース1への対応が、ずっとひっかかりになっている。我が子はこういう子だというイメージを親は創りあげて、それを大切にしている。そこへ、あなたの子どもは実は何の反応もしていないと指摘して、我々はその希望を砕いてしまった。たとえ臓器移植の候補としてリストに挙げないという決断をするにせよ、医療者がこんなことをしたのでは、どんな利益を提供できたとしても、我々がなす害の方が大きい。
誰が命の質を決めるのか。誰が無益な治療(futility)の原則で決定を行うのか。「リスク対利益」で決定を行うには、ヒューマニティを示すことが必要だ。
Magnus講演のケース1とは、臓器移植の候補に登録するかどうかの判断を巡って、「子には親が分かっていて自己主張もある」と主張する親に対して、家庭での様子をビデオ撮影してもらい、その映像を一緒に見て、実際には反応がないことを母親に確認したというもの。この行為を医療職がなすharmである、どんな利益をもってしても補うことのできない害であると捉えるRossの視点──。これは、結構すごいのでは?
Rossはここで「リスク対利益」の枠組みを当てはめる対象を、機能や臓器の総合体としての子ではなく、子と親の関係性へと広げている、その関係性の中での子としての存在を見ているのがすごい、と私は思うのですね。
FostやParisらの唱える「無益な治療」概念と、それを正当化する「リスク対利益」の枠組みが「医学モデル」に立っているのに対して、Rossには「支える」・「支援する」という視野の広がりがあって、いわば「社会モデル」の視点を含んでいるのではないか。Rossが「ヒューマニティ」という言葉で表現しているものは、実は「社会モデル」への視野の広がりを言っているのではないか……。
もっともRossのような視点に立つと「無益な治療」はほとんど成り立たないことにもなりかねないので、コスト削減の必要から障害児・者の切捨てを志向する人たちは敢えて背を向けたい視点なのかもしれませんが。
2007.09.18 / Top↑
DiekemaもGuntherもFostも、知的障害のある女性は、何故そんなところから出血するのか、なぜ繰り返すのかという生理のメカニズムが理解できなくて苦しむのだ、と子宮摘出を正当化しています。
Diekemaに至っては、「重症の知的障害者には生理がトラウマになる人が多い」(CNN1月11日)とまで言っています。「アシュリーには既に血を怖がるという体験があったので、両親がそんなことは避けたかったのです」(同)とも言っています。しかし血を怖がるには、例えば「血=何か悪いこと」といった連想が働かなければならないはず。果たして生後3ヶ月の赤ん坊にそのような連想が働き、血を怖がるものなのか。アシュリーの知的レベルが低いという彼ら自身の見解とこの発言は矛盾しないでしょうか。
父親も、the Daily Mail紙の電話インタビューで「アシュリーには生理と生理痛に対処できなかったはずだから」と言っていますが、これは何の根拠もない予測に過ぎないでしょう。
いずれも、アシュリーに将来訪れるかもしれない(訪れないかもしれない)不快や苦痛に対して、えらく親切で過剰な思いやりですが、その一方で私がとても奇異に感じるのは、彼らが開腹手術という体験のもたらす恐怖感には全く無関心であるということ。
開腹手術のさい、患者はいきなり麻酔をかけられ意識を奪われてから手術室に運ばれるわけではありません。事前の検査があり、処置があり、手術室に運ばれる際には意識があるでしょう。準備室に運び込まれてから、さらに処置を受けます。その間、アシュリーに自分が置かれている状況や、その意味がどのくらい理解できていたか──。両親や主治医の認識からすれば、これから自分の身に起ころうとしていることについて、アシュリーが誰かからちゃんと説明してもらったとも思えません。
充分な説明を受け、納得した上で手術を受ける大人であっても、その緊張感や不安、手術室という特殊な空間のもたらす恐怖感には相当なものがあるはずです。仮に本当に生後3ヶ月の知能だったとしても、その恐怖感は強く感じたはずでしょう。もしも血を見て怖がる知能があるとすれば、その手術体験はアシュリーにとって、どれほど怖かったことでしょう。トラウマになるというなら、生理よりも、こちらの手術体験なのではないでしょうか。
ところが主治医らが触れているのは「比較的リスクの少ない手術」という程度。手術がアシュリーに及ぼす精神的心理的影響にも痛みにも意識はゼロ。皆無です。
親のブログから手術に関連した記述を拾ってみると、
唯一考えられる(この療法の)気がかりは手術そのものだったが、当該手術は普通に行われるもので、複雑な手術ではない。さらにシアトル子ども病院の最高の手術施設とチームに恵まれた。もしも我々がこれほど進んだ地域や国に住んでいなくて手術のリスクが高かったとしたら、この部分では別の分析をしていただろう。
(まるで、仕事上の経営戦略を立てるために各種データを”分析”でもするかのような口調ですね。)
子宮、乳房芽、盲腸を一度に摘出する手術は2004年7月に問題なく行われた。アシュリーは厳密な管理下で4日間入院した。アグレッシブな痛みのコントロールのおかげで彼女の不快は最小だった。一ヶ月もしないうちにアシュリーの傷は癒えて通常の生活に戻った。子どもの傷が大人よりも早く癒えるのは目覚しい。アシュリーの母親には帝王切開の経験があるので、手術後のアシュリー状態も分かっていた。ありがたいことに、回復は母親が予測していたよりもはるかに良好だった。
この文章から想像する限り、母親の方には心配した様子も見られますが、父親の方はアシュリーの術後の痛みすら「不快は最小だった」で済んでしまうのです。手術体験に伴うアシュリーの痛みや精神的な負担については、父親の方も医師らと同様、想像すら及んでいない。
アシュリーが「苦しむ」ことについて、この程度の意識しか持ち合わせない父親と担当医にして、将来あるかどうかも分からないアシュリーの生理を巡る「苦しみ」にだけは過剰な思いやり。
ひどくバランスを欠いたご都合主義の“思いやり”ではないでしょうか。
2007.09.18 / Top↑
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