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生まれてきたダウン症児を死産だということにした医師と家族の物語
「メモリー・キーパーの娘」について紹介した前のエントリーに追記しようと書き始めたのですが、
長くなったので別エントリーを立てることにしました。

「メモリー・キーパーの娘]」について、
これを言っちゃ身もフタもないとは思うのですが、

この、誰も生活にだけは困らないお話の中で
誰かに経済的にであれ生活状況的にであれ
日々生活するのが精一杯という事態が訪れたとしたら、
お話の展開もずいぶんと変わらざるをえなかっただろうか。

また生まれた子どもの障害がダウン症よりももっと重い、
もっと日常的なケア負担の大きな障害であったとしても
物語が本質的に同じ結末に至るということは可能だっただろうか。

……と、ちょっとシニカルなことを、
この本を読んだあと実はずっと考えているのです。

Phoebe の障害がたとえどんなに重いものであったとしても
例えば Phoebe が Ashley のような重症児だったとしても
この小説は同じ結末に至ることができるのかどうか。

そうであって欲しいと願う気持ちがある反面
それほど単純ではないぞと頭ではどうしても考えてしまうのですが、

じゃぁ、ダウン症児と重症児ではどこがどう違うのか、

Ashley事件で言われているように
社会に福祉サービスさえ整っていれば、
どんなに重い障害を持つ子どもと家族もハッピーに暮らせるのか、

福祉サービスさえ整っていれば、
障害のある子どもと親の間にある利益の対立や
親の死後への先取り不安の問題は解消するのか

福祉サービス以外に何があったらその違いが埋められるのか
……といった点になると問題が複雑すぎて手に負えないというか、

本当のことを正直に白状すると、
あまりにも生々しくて
その先を考えることを頭が拒否してしまう。

ただ、
その辺りの問題を初めてまともに考えてくれる人がここにいるかも……
この「ケアの分有」という考え方にはヒントがあるかもしれない……
と思って読んだのは以下の本。


この本については語りたいことが沢山あるので、
いずれ改めて書くつもりでいます。

著者の博士論文をまとめたものだと思われますが、
知的障害児の親への聴き取り調査に基づいてケアのあり方が考察されており
内容はタイトルほど難解ではありません。
2008.02.29 / Top↑
もうとっくに翻訳が出ているのだとばかり思っていたら
今朝の新聞に「いよいよ刊行」と広告が出ていたので、
ずっと前から一度触れたいと思いつつ
そのままになっていたこの本を思い出して。

ひょんなことから妻の出産の際に自分で子どもを取り上げることになった医師が
生まれた娘がダウン症だと見るや、
居合わせた看護師に託して施設にやり
死産だったとウソをつく決断をします。

実際には託された看護師がそのまま町を去り、
誰にも内緒で赤ん坊を自分の娘として育てるのですが、
町が猛吹雪に見舞われたこの一夜のウソは
その後25年間に渡って医師の家族の人生に
微妙な軋みを生み続けます。

医師と看護師それぞれの行為の背景には
医師が重い病気の妹と暮らした少年期のトラウマや
看護師が医師に抱いていた恋心などがあり、
それぞれの人物の単純に割り切れない思いをていねいに描いて、
重厚でリアルな心理ドラマになっています。

その中でダウン症の娘Phoebeだけは素直に成長する姿はすがすがしく、
そのPhoebeも成長するに伴って
自立を求めて母親(看護師)に対決姿勢をとるようになる展開や、
母親の方も成人した娘との関係のとり方に悩みぬくなど
障害のある子どもと親の問題をかなり突っ込んで描いてあると思います。

ただ、心理を描くという面では重層的で成功していると思う反面、
女手ひとつで障害のある子どもを育てる際の現実問題についても、
障害のある子どもの成人期の自立がそう簡単ではない現実問題についても
都合のよいタイミングで都合よく解決されていくという印象はぬぐえず、
「多くの人はこんなに恵まれていない状況で
 同じ問題に直面しているんだけどなぁ……」
という不満を抱きつつも、

出生前診断でダウン症だと分かったら多くの人が堕胎を選んでいる、
障害のある生は生きるに値しない生であるかのように
生命倫理の議論が声を張り上げて言いなそうとする時代に、
障害があることはすなわち不幸なのか
障害のある子どもの親になることはすなわち不幸なのか
と問いかけるいい作品だと思いました。


メモリー・キーパーの娘
キム・エドワーズ著

英語版PBはこちら
2008.02.29 / Top↑
2030年、2050年という将来には
自らをアップグレードしていく力を備えたスーパー・スマートな人工知能が世界を支配し、
知能の低い有機人間はペット扱いされているのだろうか。

そんな議論が、
世界中からトランスヒューマニストらが集まって開かれた
去年9月の「特異点サミット」で行われたとか。

主催はthe Singularity Institute for Artificial Intelligence Inc.(SIAI)。

この問題に関する議論の報告が以下のサイトに。


この記事によると
去年SIAIの理事に加わったRay Kurzweil
「人間もコンピューターと脳を接続して知能をアップデートして
 人間自身が人工知能と化すのだから
 そんなことは起こらない」
と、何とも安心・安泰な(?)未来予測を行ってくれたとのこと。

かのJames Hughesも出てきて、
初期的なAI(これをAIベビーと呼ぶのだそうで)の中に悪い奴が出てきて
ウェブに進入して悪さをしたらどうなるか
という話を語っているのですが、
こちらについては、何を言っているのか私にはさっぱり。
(たぶん日本語で読んでもよく分からないんじゃないか……と。)

何しろこの2人、それぞれに
「人間とコンピューターの境目がなくなる」
「人間はみんなサイボーグになっていく」
と本を書いている方々ですから。

特異点サミット2007の公式サイトはこちら

ところで、
このサイトにあるJames Hughesの紹介プロフィールを覗いてみると、
Ashley事件に登場した際に紹介されていた
「倫理と新興技術研究所ITTEの創設者の一人であり所長」のほかに、
Trinity大学で医療施策を教える社会学者だとか
The World Academy of Arts and Sciencesのフェローであるとか、
The American Society of Bioethics and Humanitiesの会員であるとか、
Yale大学の the Working Group of Ethics and Technology at Yale Universityに入っているとか、
ズラズラ書かれているのですが、
世界トランスヒューマニスト協会(WTA)でのご活躍については
一切触れられていないことの不思議。

             ―――――――


いつも不思議に思うのですが、
この人たちはメディアに登場する際には
WTAの役員だとは名乗らないし、
そういう紹介もされないのですよ。

このサミットを取り上げた以下のAP伝でも、
皆さんfuturist(未来学者? 未来予言者? 未来夢想家?)または
「シリコンバレーの技術者・科学者」などとされていて、
記事を読む限りでは
特異な興味関心を共有している人たちの集まりであるというよりも、
ロボット工学とIT技術を中心にしたフツーの学者の集まりのように感じられてしまうのですが、
まさかAP通信の記者が知らないなんてことは、ないですよね。




Ashley事件で両親と医師らの擁護に登場したトランスヒューマニスト一覧はこちら

また、
Dvorskyの「グロテスク発言」を自分のブログに引用したAshley父は、
Dvorskyがトランスヒューマニストだと知っていて隠したのでは、
との疑惑を書いたエントリーはこちら
2008.02.29 / Top↑