2ntブログ
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- / Top↑
前回のエントリーで紹介したMedill Reportの記事では、
脳性まひ協会や昨年5月のWUのシンポでも発言していた障害者団体のArcの
Ashleyケースについての見解のほか
当初から批判していた倫理学者のArt Caplanの言葉などが紹介されています。

その中でCaplanは以下のように述べています。

子どもが大きくなっても親が対処できて行き詰らないように
こういう状況にある親には、
もっと在宅支援とカウンセリングや休暇が必要なのです。

子どもを施設に入れることが恐ろしくてならないということにならないように、
施設のケアが改善される必要があります。


これは、私自身も“Ashley療法”論争の始まりから
ずううううっと疑問だった点。

健康な身体に親の勝手でメスを入れて健康な臓器を取ったり
発癌リスクが云々されるようなホルモンを大量に子どもの身体に投入することよりも
施設に入れる方がよほど“ひどいこと”だというのは、
どうにもバランスを欠いた感覚と思えてならず、

そこにあるのは
「重症児にはどうせ何も分からない」というステレオタイプと同じ、
「施設というのはひどいところに決まっている」というステレオタイプなのでは?

本当に米国の障害者施設がそれほどひどくて
Ashley父らが言うように「入れたら高い確率で職員にレイプされてしまう」ような場所なのであれば、
その施設をもっとまともなところに改善することの方が
よほど社会の急務なのではないでしょうか。

だって、現に様々な事情から施設で暮らしている障害児は沢山いるのだし、
障害を持つ子供がみんなAshleyのように財力のある両親に恵まれているわけではないし、
それどころか人生には何が起こるかわからないのだから、
どの親だって、いつ障害のある子どもを置いて逝くことにならないとも限らない。

それならば、
将来子どもが誰かにレイプされて妊娠することを想定して
早々と6歳の子どもから子宮を摘出するよりも
そんなことはまず起こらないと信頼できて
親にいつ何があっても安心して子どもを託すことができる
安全で快適な居場所がこの世の中に確保されることの方を
考えたらどうなのか、と。

広く重症児のためだとの謳い文句で
財力のある親にしかできない過激な医療処置を喧伝するよりも、
どんな家庭に生まれたどんな境遇の重症児であっても
安全で幸福な生活が保証される世の中のありかたを模索する方が
よほど本当に「広く重症児たちのため」なのではないか、と。


        ----

去年の論争当時から、
Caplan は「重症児にも成長する権利がある」という点と、
障害児の親が社会福祉への信頼と希望が持てないことが問題」だと指摘しています。
当ブログの関連エントリーはこちら。

2008.02.01 / Top↑
Northwestern大学・生命倫理学部の企画で毎週行われている講演の1つとして
1月31日に“訓話としてのAshley X”と題する講演があった模様。

原題は Ashley X as a Cautionary Tale。

講演者は同大学のMedical Humanities & Bioethics の准教授 Kristi Kirschner。

この講演をアナウンスするMedill Reports というサイトの記事(1月30日)で
Karischnerの発言を拾ってみると、

医療では障害がきちんと教えられていません。
医療提供者はすぐに他の医療上のニーズと関連付けて見がちですが、
障害は人間のコンディションの一部です。

力関係と文化の問題によって議論から取りこぼされる可能性のある人のことを
しっかり時間をかけて考えることが重要です。

このような検討には広範な視点が含まれていなければなりません。


Northwester大学の該当サイトはこちら

もしかしたら、この先、講演がPodcastで聞ける可能性もあるようですが……???
2008.02.01 / Top↑