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射水市民病院の呼吸器外し事件では
事実からかけ離れた“物語”が作られ
それが時代の空気とニーズによって利用されていったのではないか……との
前のエントリーでの考察をAshley事件に転じてみると、

医師らとAshley父とメディアとが共同で作りあげた“物語”は
Ashleyから子宮と乳房芽が切除され、
エストロゲンの大量投与によって成長が抑制されたのは、
介護負担がたいへんな重症児のQOL向上のために
親が深い愛情から行った苦渋の決断。
重症児と親の苦悩に同情的な医師らの思いやりから
正当な倫理的検討を経て承認された」というもの。

当ブログが検証してきた事件の実相とはかなり違っていますが、
これもまた分かりやすく“美しい物語”です。

そしてその物語を巡って、
権利ばかり主張する障害者団体がこの事件を政治利用している」という
更なる“物語”が作られ固められようとしています。


そこで時代はというと、
さまざまな議論があり懸念や警告の声が上がる中でも、
じわじわ着実にトランスヒューマニストらが望む方向に向かっているように思われます。
バイオ・インフォ・ナノなどの新興テクノロジーをどんどん積極的に利用して、
さらに健康に、さらに頭が良く、さらに優秀に効率的に便利に、さらに長生きに……と。

そういう時代、そういう世の中の動向の中で、
社会的に “コストパフォーマンスの悪い”障害者に向けられる目は
明らかに冷たいものに変質しつつある。

時代の力動に乗って政治利用するのに好都合な物語があるとしたら、
彼らが作りつつある親の愛と障害者の権利との対立の構図こそ、まさにうってつけでしょう。

Ashley事件を
仮に自分たちの望む方向にコトを進めるために利用しようとしている人たちがいるとしたら
彼らは本当はどこにいるのか──。


時代の空気とニーズによっては、
Ashley事件がもっと大きな動きへの先触れに過ぎなくなる危険も
ありはしないでしょうか。

「QOLを口実に不要な医療で身体に手を加える」ことによって
社会的コストパフォーマンスが改善する存在は
決して重症障害児だけではないのだから。

そしてこの動きは
英国の産婦人科学会で障害新生児の安楽死が云々され、
米国では「無益な治療」が法制化されていくことなどとも
きっと無縁ではないのだから。

          ―――――


Diekema医師とAshley父の利害は実は食い違っており、

射水事件に置き換えて考えると、
Diekema医師はN医師の立場。
自分がやってしまったことを隠蔽・正当化する必要から
”物語”に乗っかっているに過ぎないのでは?

Ashley父は
患者の苦痛を見ていられないから安楽死を望む一家族の立場とも見えますが、
彼を動かしているのは、以前はともかく、2005年のある段階から後は
自分が考案した“Ashley療法”を世に広めようとする強い意志。

案外に彼の役回りを射水事件に置き換えると、
尊厳死を法制化して移植臓器の不足解消に役立てたい人の代表格の方かも?
2008.02.08 / Top↑
前に
「尊厳死」に尊厳はあるか─ある呼吸器外し事件から」(岩波新書 中島みち著)
を読んだ時に、
2006年3月に報道された射水市民病院の医師による呼吸器外し事件でも
メディアの報道とそれを受ける側の意識とが事実と全く違う物語を一人歩きさせていった、
という話に「Ashley事件と同じ構図だ……」と驚いたことがあったので、
イラクの市場テロの妙な報道を機に思い出した、その話を。

本質的には尊厳死や終末期医療議論とはあまり関係のない
脳死の定義さえおぼつかない、ただのお粗末な医師が起こしたお粗末な事件が、

呼吸器をはずした医師を手早くヒーローに仕立て上げる報道と、
受け手の側にある
「自分だって死が差し迫っているのに無駄に苦しみたくない」との思いや
「医療は無意味に過剰医療で患者を苦しめる」という予断や
個人的な体験の記憶などとが絡まりあって、

患者への思いやりから果敢な行動に出た心温かく志の高い医師
         vs
旧態依然とした医療の側に立ち保身のために彼と対立する病院

という、真実とはいえない、しかし分かり易く飲み込みやすい“物語”が出来上がってしまう。

また、周囲からヒーロー視され祭り上げられてしまうと、
当人の方も“その気”になってしまうもののようですね。
意識的にやることとは限らないのでしょうけれど、
意識下では自己保身のためにそれが最も有効なテだと、もちろん知っているでしょう。

望まれる方向に向かって言動をあわせているうちに
いつのまにか意識の上では
実際に最初からそれが自分の信念だったように錯覚もするのかもしれません。

        ―――

ただ、これはメディアの報道だけで起こることでもないとは思うし、

そういう事件が起こることの必然がまず時代の空気やニーズとして予めあって、
その中で起こるべくして起こっていることなのかもしれない、とも。
いわば“時代の力学”のようなもの──?

だからこそメディアに受け手の側も素直に反応をしてしまうし、
そうした“騒ぎ”を自分たちの目的や運動に利用したい人たちも食指を伸ばす。
さらに色んな利害のある方向からその“物語”に都合よく乗っかってくる人たちが
あちこちに問題を拡散し変質させていくから、
事件の真実から人の意識はどんどん遠ざかり、
現実の事件が置き去りにされていく──。


例えば射水事件の場合だと
「終末期患者の苦しみを見ているのが耐えがたく呼吸器をはずした優しく果敢な医師」という
美しく分かり易い “物語”はさらに
「終末期医療のあり方に問題を提起した事件」という位置づけに繋がっていく。

それは事件以前に既にそういう議論が存在していたからだし、
尊厳死法制化を急ぎたい人たちが世の中にはいて、
同時になかなか進まない臓器移植に苛立っている人たちが沢山いることとも
決して無縁ではないわけで、

(この本の中で一番びっくりしたのは、
 長い議論の末に「脳死は人の死」と半ば強引に認めた
 いわゆる脳死臨調の答申取りまとめの先導役となった人物が
 実は尊厳死協会の理事長だった……という話。)


そういう時代の力学の中では
実際にどういう事件だったのかという細部や真実はあまり問われないし、
そこで議論されている「脳死」、「尊厳死」、「臓器移植」が
世間の人がイメージしているものと本当に同じかどうかという
こちらの細部や真実もほとんど確認されることがない。
まるで事件も言葉も、ただアピール力のあるシンボルであればいい……みたいに。

実際はその医師にそれほどの意識も知識もなかったとしても、
この時代のあのタイミングで、
そういう物語になりがちな事件が起こってしまった状況下では
事態がそういう方向に推移してしまったのも、
時代の力学(ニーズの方か?)とでもいうものの起こした必然だったのかも。

……というのがこの本を読みながら
ずっと抱いていた感想で、

その辺りがAshley事件の今までの経緯とも、
イラクの市場テロでの“物語”とも同じ構図なのではないか……と。
2008.02.08 / Top↑