2ntブログ
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去年1月の“Ashley療法”論争の際に
世界の障害者団体や当事者、支援者らに連帯を呼びかけたブログがありました。
(日本では当時、筑波大の名川勝先生のブログで紹介されました。)

そのDISABLED SOAPBOXというブログを時々覗いてみているのですが、
管理者のSusanという人は
中学生の時にボランティアをやって以来の障害者アドボケイトだという筋金入りとあって、
今回のTropic Thunder の問題でも
Thunder ボイコットのデモをおこなっています。
しかも、参加者がほとんどいなくて、
障害のある夫など身内と仲間総勢5人でという勇気あるデモ。

その時のことを書いたエントリーが、
障害者に対するネガティブな世間の反応ばかりに目が向いて悲観的になりがちな心を
ほっと暖めてくれるものだったので。

Essentially No Turn-Out
DISABLED SOAPBOX IDEAAS ABOUT LIVING LIFE WELL, August 14, 2008


デモをやっている間に2度警官がやってきて
「どういう理由でのボイコットか」と聞かれたが
理由を話すと親指を立てて賛意を示してくれた。

この映画を見ようと考えていた人の中にも「やめた」といってくれる人たちがいた。

通りかかった車から応援のクラクションが鳴ったり、
親指を立てて見せてくれた人もいた。


そう──。
インターネットの世界を通してものを見ていると、
例えば日本だと2チャンネルの空気が世論みたいに思えてしまって
背筋が冷えたり、時に生きていく元気までなくしそうになったりすることもあるけど、

新聞に投書するわけでも
ネットに書き込みをするわけでもなくても、
差別される人の痛みを思いやることのできる人
人としての良識を失っていない人が
きっと世の中にはまだまだ沢山いる──。




その他、「切り捨てられていく障害児・者」の書庫に。
2008.08.26 / Top↑
DreamWorks 製作のハリウッド映画 Tropic Thunderの
retard など知的障害者への差別用語使用の問題を
当初からブログで熱心に取り上げていたPatricia E. Bauerさん
自身でWashington Postに批判記事を書いています。

Bauerさんはダウン症の娘がある元WP紙の記者で、
それだけに問題意識が鋭くてブログの情報も広く速く、
私もいつも勉強させてもらっています。

この記事でも触れられていますが、
Thunderについては彼女のブログが批判に火をつけたようなものでした。

強く深い思いを込めて書かれた記事です。

A Movie, a Word and My Family’s Battle
By Patricia E. Bauer
The Washington Post, August 17, 2008

個別障害者教育法(IDEA)や障害者法(ADA)ができてなお、
充分な支援を受けることができないでいる
米国の障害者の現状を統計で描き出し、
そこに加えて世の中のネガティブな姿勢も手伝って、
障害当事者も家族もどんなに大変な思いをしているかを訴え、

そうした状況の中、
この映画がretardという言葉を安易にキャッチとして使ったことで
世の中の人たちが、それが及ぼす影響を深く考えることもないままに
この言葉を多用するようになり、
自ずと障害者への抑圧が進んでしまうのだ、と
批判が展開されているのですが、

何よりも印象的なのは冒頭で語られるエピソードです。
使う方は軽い気持ちで口にするretardという言葉が
どれほど当事者を傷つけているか、
当事者がいかに日常的にそういう体験を重ねているかが
くっきりと描き出されています。

Bauerさんの娘のMargaretさん(24)はアパートで1人暮らしをしながら
病院や高齢者センターでボランティアをしています。

BauerさんがMargaretさんと一緒に映画を見に行ったある日、
いま見たばかりの映画について話しながら2人が歩いていると、
傍を通り過ぎていった少女たちの中から「ほら、パァ(retard)だよ」という声が。
その瞬間にMargaretさんは立ちすくみ、頬を震わせますが、
そんなMargaretさんを少女たちは1人ずつ振り向いて見ては、
肘でつつきあってささやき合います。
最後の1人は、じっとMargaretさんを見ながら
わざわざ後ろ向きになって歩き去っていきました。

この痛みを何度も経験してきたからこそ
「この言葉は人を傷つける」と目に付くたびに指摘してきたけれども、そのたびに
「考えすぎ」、「そんなことを言っていたら何も言えない」「ただのジョークじゃないか」と
指摘する方の感覚がおかしいように言われてしまう。
今回もまたコメディとヘイト・スピーチの間の線引き、
政治的正しさと過剰反応との線引きが問題になってしまっている、と。

記事タイトルにあるように、
多くの人にとっては、ただの映画、ただの言葉に過ぎないかもしれないけれど、
当人や親にとっては「闘い」なのだ、と。


記事冒頭に書かれたこのエピソードに
私はBauerさんの「言葉や声ではなく、痛みを伝えたい」との切実な思いを感じたのですが、
このエピソードそのものが、もしかしたら同じ痛みを知っている者でなければ
「それが、どうした?」、
「アメリカだぜ、思ったことを言って何が悪い?」
「障害者だからって甘えるなよ」と読まれてしまうのだろうか……と考えると、

なんだか、もう人の感性にすら、どこまで信頼を持っていいのか
わからなくなってくる……。
2008.08.26 / Top↑